2012年7月8日日曜日

ユーロ・サッカーから――世界とコーチング


おしゃべりが多いと、その日のサッカーの練習を中止された一希たち。若いコーチが一人にディヘエンスのやり方を教えている間、ボールに腰掛けた一希が仲間と気ままに話しはじめたのをみて、中年コーチが切れたのだった。それは個人的に突発的な怒りであっても、人間的な倫理から発したものだったろう。しかしそこであそこまで怒鳴り散らすのには、まだ理解できない子どもたちなのだった。コーチも説教をしながら、あまりにきょとんと無邪気な表情を目の当たりにしてそのことに気づく。おそらく、まだ親が死んでもその葬式でふざけていられる年齢なのだ。自転車に乗っていても、交差点を右左もみずにすーっと走っていく。死が恐いという社会的観念が希薄なので、<真剣>にやれといっても、自分の態度になお区別が生じていないのだ。3年生も終わりごろになれば、自然成長的に解消されるだろう。だから私は特別に問題ではない、とおもっていた。しかし母親たちがそうはいかない。この一事を伝え聞いて、メールで話し合い、「しめてください」と過剰な反応をしめしはじめる。コーチ会のほうでも、父兄の話をないがしろにするわけにもいかないので、「ふざけは怪我のもとだから」と話をずらしてかわす対応をしたようだ。しかし若いヘッドコーチがまたなにかのさいに、40分間の説教をしたときくと、「この暑い時期に給水もさせずにそんな長時間も」という異議が父兄会の部長から申し出される。「そんな話は通用しないからほっとけ」と私がいっても、部長の異議自体に批判的な女房はなおごちゃごちゃやりたがる。意見内容がちがっても、ヒステリックに騒ぐこと自体が問題をこじらせるのだ。20年やっているクラブ組織にとって、こんなことぐらいは経験ずみなはずだ。若いコーチも、10年子どもたちをみてきているのだから。しかし、原発事故後の世評をみてみても、そんな真っ当な意見は神経質な声に掻き消される。女たちの場当たり的な反応を、世論やメディアが後押ししているような状況なので、彼女たちは強気なのだ。大塚英志氏は特に放射能におびえたこの母親たちの対応を「ファシズム」の発生と類比的に捉えているが(『愚民社会』)、そういう徴候もあろうかとおもう。

ユーロ・サッカーをみていて、イタリア代表のストライカー、バロッテリについて、「成長中」という解説がなされるのが気になった。それはサッカーの経験知とかいうことではなく、試合中に人の悪口をいわないとか、喧嘩しないとか、裸にならないとか、そういった話なのだった。おそらく我々日本人としては、二十一歳にもなる男にまだそんな「成長」が許容されていることに驚くというより、あきれてしまだろう。ならば、日本でならどうなるのか? おそらく、そんなサッカー選手は追い出されてフィールド上にはいないだろう。ならば、笑われているのは、我々のほうなのではないだろうか? 彼は、移民の子だ。その家庭内は、荒れていたかもしれない。そういうところで育った子どもは、容易には精神的に安定しないだろう。大人になるには、それだけの時間差があるのだ。それを受け入れること。サッカーに参加するとは、そうした世界の多様性、内に発生する他なる現実との共存の意志と理念をもつ、ということではないだろうか。よく日本の理想とするサッカーとして、正々堂々とフェアに美しく戦うことだというふうなモデルが呈示されたりするが、その純粋道徳とが、ひとりよがりな暴力に反転すること、したということは、世界史の中での日本国家自体が証明してしまったことではないだろうか? フィジカルが強い、当たりが強いこと、そのほかの文化圏では当たり前なサッカーが卑怯なのではなくて、その在り方自体が多様な世界を、他者の存在を許容している対応であり、共存の平和性を担保・実証しているものなのではないか?

「しめて、ほんとうにおとなしくなったら、終わりですよ。」と、一希たちが怒られた次の週にあった試合前、ベンチ監督と話し合う。かといって、そのコーチは子どもたちに優しくすればいいというのではない。むしろ逆で、厳しく突き放せ、といっているのである。「だいじょうぶです。子どもたちは、わかりますよ。ついてきますよ。」と、新宿の選抜チームに何人もの選手を送りだしているクラブの監督は保証する。試合での選手起用をみていても、騒いでいるような子でも、積極的な子、能力を示す子を活用する。覇気のない子、訴えてこない子はベンチのままだ。おかげで、一希は全試合ワントップをはらしてもらっているのだが、4年生相手に、当初は体を当てられて可愛そうなくらいくるくるとまわされて倒されていた。私がベンチコーチだったら、もっと皆平等に近い形での選手起用になり、覇気のない子でもなんとか励ましてモチベーションを高めてやって、とかおもうのだが。それが、甘いということなのだろう。実際、私は中学部活動の野球で、そんなエリート主義的な伝統を変革したことがある。気質的に、結果よりも過程を重視する性向があり、弱いもの、いま在るものでどう強者をいびっていくかの創意工夫のほうがおもしろい。どこか美学的な態度の方が好きなのだろう。楠正成をはやす判官びいきな日本的感性?

一希はとにかく、数少ないチャンスのなかで、1点はとってくる。フォワードしかできないような性格だ。私ではなく、女房似なのだろう。今日も練習を放り出して、女房と雨のなか虫取り講習にいっている。気まぐれ、気分や、というのは、子どもだからというより性格だろう。私はいちおうコーチなので、自分の子どもがいなくても、練習にいくのだが。これは、「やりたくなければやめろ!」と突き放しているのだか、成長の遅れを許容しているのだか。あちこちのイベントに子どもを連れ出しては自分が楽しんでいる女房は、それでも「選抜チーム」に入らなければいかん、と口をとがらせている。そんな都合のいい話が通用するわけがない。技術や仕事をなめてるんじゃないか! と怒鳴りたくなる。一人での練習ができず、仲間と騒いでいないと退屈してやりすごせないものに、専門的な技術が身に付くわけもないだろう。アスリート向きじゃないな、と私はおもっている。だから、サッカー以外の興味も失わないよう許しているのだ。しかし、真剣に、一生懸命やったあとの水はおいしい。このありふれた、うまみもない退屈な日常にこそ「喜び」があるということを知らなければ、どんな商品物資や物語にも充足できず、本当の世界で世界終末(ハルマゲドン)を実現させて精神の満足を試みたバブル期の新興宗教が繰り返されてしまう事態になるだろう。裸足でボロキレを蹴飛ばしているアフリカをはじめ他の世界の子どもたちは、ボールひとつのプレゼントで喜ぶだろう。一希はそのことを理解できるだろうか? 喜びを知っているだろうか? 自己満足ではない、他者と共存しているという喜びである。それは真剣に、一生懸命に渡り合えてこそ見出し得るささいな日常の世界に在るのだ。

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