2012年12月2日日曜日

戦争を準備する

「一九四一年九月六日の御前会議の際、天皇を説得するときに、軍令部総長がいった言葉を思い出してください(略)。しばしの間の平和の後、手も足も出なくなるよりは、七割から八割は勝利の可能性のある緒戦の大勝に賭けたほうがよいと軍令部総長は述べていました。緒戦というのは、最初の戦い、速戦即決の最初の部分の戦いという意味です。今から考えれば日米の国力差からして非合理的に見えるこの考え方に、どうして当時の政府の政策決定にあたっていた人々は、すっかり囚われてしまったのでしょうか。/ この点を考えるには、軍部が、三七年七月から始まっていた日中戦争の長い戦いの期間を利用して、こっそりと太平洋戦争、つまり、英米を相手とする戦争のためにしっかりと資金を貯め、軍需品を確保していた実態を見なければなりません。同年九月、近衛内閣は帝国議会に、特別会計で「臨時軍事費」を計上します。特別会計というのは、戦争が始まりました、と政府が認定してから(これを開戦日といいます)戦争が終るまで(これは普通、講和条約の締結日で区切ります)を一会計年度とする会計制度です。」(加藤陽子著『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』 朝日出版社)

上引用にもあるように、戦争とは、そう突発的に起きるものではないらしい。何年もかけて、準備しておく。勝てる、という見込みがたったときに、しかけるもののようだ。それゆえ、冷戦期にソ連を仮想敵として準備していた日本は、中国相手にはしてきてないので、すぐにの開戦にはならないはずだ、という意見も最近の情勢下でいわれてもいる。中東方面では、なにかと突発じみた戦争が起きているようにおもえるけれども、それは仮想敵が持続しているからだろう。どれもみな隣人どうしでだ。というか、考えてれば、常に戦争は隣人同士でおこなわれてきたのではないだろうか? 大陸間弾道ミサイルが開発・所持されないかぎり、遠隔疎遠な地域との戦争は物理的に無理である。そして、内面的にも無理があるのではないだろか? 庶民にとって、なおさらなんで戦争なんかするのか、その動機付けの維持が難しくなる。……と、考えてみれば、戦争を忌避する庶民にとって、戦争を準備する、ということが、いわゆる軍資金や装備を補充する、という物理的な話ではないことが想定できてくるのではないだろうか?
なんで戦争はいやなのだろうか? 古代からある時期までの戦争にあって、まだ自分の名前を敵前で名乗り、自らの名誉と自尊心、そして人間の尊厳的価値を再生産させていくような儀式制度としての面が濃厚であったような時代にあっては、死は、戦争をいやがる理由ではなかっただろう。明治時代はなお西郷さんの戦争までは、生き延びてきた息子に母親が自害を迫る、という気風があったそうだ。しかし無名戦士が普通となった近代戦争下では、表向きは徴兵されていく息子を万歳で見送っても、内面は空々しくぼろぼろだっただろう。だからなおさら戦後、その死を無意味とさせたくない、と取り返しの衝動を維持しなくてはならなくなる。すでにその意味がその時点で充実しているならば、それは私的に抱懐され伝えられることで安定を保つはずである。個人の尊厳が蹂躙されてきた無名の戦争であるがゆえに、その意味の回復=補充が絶えず必要とされることなのだろう。ということは、実はわれわれはなお、古代の精神的構造を形をかえたままひきずっている、ということだろう。つまり、戦争の形はかわっても、その内実にあるものは、変わらない。戦争には、変わらないものがある、ということだ。ということは、戦争をいやだ、という感覚もまた、古代からあった、変わらないものに属しているのではないだろうか? そして、それが「死」ではないとしたら?
戦争を回避するために、戦争を準備していなくてはならない、と私は前回ブログで言った。その準備とは、むろん軍備ということではない。むしろ、ではいま自衛隊もなく、それで戦争が起こりそうだ、さあ戦争に備えなくては、となったら、私たちはにわか軍備にいそしむだろうか? 今からそんなことは無理なのだから、他の対処を考えないだろうか? 考えること、準備することとは、そういうことだ。政府レベルと、個人レベルでは、その具体的対処は違うだろう。何も持っていない者が、戦争を回避するために準備することとは? 一人では実際上の回避にはならないだろうが、それが回避に(論理的に)通じた準備であるかぎり、一人一人が増えてくれば、人間関係(構造)上戦争が不可避であったとしても、その表現が回避され違った表現として現れてくるだろう、ということは、また論理的に言いえることである。
私はその論理を、ラカン経由のフロイト―カントの系譜線に見ていることになるのだが、その人間仮説は、あくまで仮説で、それを保証してくれるものがあるわけはなく、その理論への信仰、つまりその論理がリアルである、とする私の信仰は、単に私の生活実感からくるほかはないものなのだ。

*このブログに関連して、現在WEB絵本『パパ、せんそうって、わかる?』を創作中。

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