2018年10月28日日曜日

江戸の明るさ/暗さーー「歴史の終わり」をめぐって(3)

「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治著『右大臣実朝』)

「長者ニ三代ナシ」と江戸は元禄時代に言われたそうだ。その言葉を名言として受け止めた河内国の酒造業を兼ねた地主の、子孫に残した手記を読み解いて、歴史家の安丸良夫氏は、次のように時代背景を描写する。

〈…民衆自身の主体性において、また一つの民衆運動として、民衆的な諸思想が形成・展開・伝播されたのは、元禄・享保期以後のことであり、それもさしあたっては三都とその周辺からはじまったのである。…略…そして、さらに民衆的な諸思想が農村部でも展開され、日本の民衆がいわば全民族的な規模で思想形成の課題に直面したのは、近世封建社会の危機もようやくふかまった十八世紀末(天明・寛政期)以降であり、とりわけ文化・文政期以来のことであった。…略…したがって私は、天明・寛政期以降を民衆思想史の第二期としたいのであるが、この時代において民衆に思想形成をうながしたのは、どのような諸事情だったろうか。おそらくここでも、商品経済の急速な展開のなかに現実化した没落の危機が、思想形成の決定的な契機だった、といえよう。しかし、没落の危機とはいっても、梅岩の門に集まった富裕な町人たちにとっては、それはまだ油断をすればそうなるかもしれない蓋然性にすぎないのに、尊徳や幽学の直面したのは、現実に惨憺と荒廃した村だった。〉(『日本の近代化と民衆思想』平凡社)

江戸時代のイメージは、ポストモダンの社会を先取りしていたと再解釈されたバブル期の明るいエドから、エコロジー的な技術と思想をもっていた時代へと、ポジティブに受け止められているのが最近だろうか? 高度成長期以前は、封建制に抑圧されていた暗い時代、鬱屈した庶民の社会、といった見方だったようだ。
私には、この落差がまずわからず、いったい実態はどうなのだ? と疑問だった。安丸氏の洞察と考察は、そんな私には示唆的で、説得力がある。

現在の安倍総理から大塚家具騒動まで、そして天皇退位から私のいる植木屋も含めて、戦後の三代目問題の時期にきているようだ。なぜ日本ではそのような傾向になるのかは置いておこう。とにかくも、長い平和な江戸時代は、一枚岩ではなく、三代目で亀裂がはいり、以降は悲惨な一途をたどる。なのになぜ、明るい、とされるのか? しかも、それは後世からの勝手都合な解釈だから、なのでもない。渡辺京二氏の解く「逝きし世の面影」がパースペクティブとして有効であり、子供の誘拐が横行していても、子供の天国であったのも確かな見立てなのだ。この矛盾の実質性を、どう理解したらいいのだろうか?
スーパーボランティアの尾畠さんの出現は、ヒントになった。貯蓄もなく、年金5万で明るく活動している。仇は忘れても恩は忘れない、だの、信念的な言葉を聞いていると、いわば江戸的だ。と、容貌も似ている職場の職人さんが重なってくる。いや、もっと過激か。「宵越しの金は持たぬ」だの「雨と女は職人泣かせ」だの、江戸時代の諺そのものような倫理で生きて来たらしいので、年金も払ってきていない。もう腕上がらず足もよろよろの七十になるが、それでも一線で働き続けなくてはならない。2LDKに夫婦子供3人と母とで寝起きしてきた。女房は糖尿病で目が見えなくなっている。自身も心臓が弱って薬が必要だ。客観的には、悲惨で暗いであろう。が、明るいのだ。近所で手入れしていると、次から次へと声をかけてきて、人気者だということがわかる。(が最近の近所の目は、気の毒というより軽視の感がでてきている。)この心の持ち用は、どうなっているのだろうか?
と、私自身の心を覗いてみれば、想像がつくことに気づくのだった。もうすぐ高校生になる息子と女房の3人で、いまなお川の字になって寝ている。プチブル意識を壊してきた私は気にしてないが、ブルジョア成金育ちの女房は、あがいている。息子の受験につきっきりになるだけでなく、テーブルに肘をつくな、とか、身体のエスタブリッシュメント化を自覚もなく発揮している。父の遺産でなんとかオンボロ団地を脱出しようとしているが、東京の相場ば高く、日雇い年寄りではローンもくめない。

没落が怖いのか? 私は、どうなのだろう? それでも、明るい。アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ?

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