柄谷 その場合、「マルクス系」の方は、あまりマルクス的ではないという感じがするな。
渡部 「マルクス」はもちろん言い過ぎでしたが、でも、なかなか頑張ってますよ。若い世代は、その東さんから入って柄谷さんに遡行するという格好が主流で、そこに対抗軸として、山城経由の小林モードが復活ってとこでしょうか。大雑把な観察ですけれど。
柄谷 そうですか。ただ、今の批評は、現代の思想の先端には届かなくなってしまっているのではないですか。(柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって「週刊読書人WEB」)
渡部直己氏の早稲田大学解任問題をうけて、私も「文学」をめぐる持論を確認してみたいとおもった。
50歳代の私は、20歳代のとき、ほぼ自費で、二冊の小説を出版している。『曖昧な時節の最中で』、というのと、『書かれるべきでない小説のためのエピローグ』、とタイトルされたものだった。
前者は、プルーストの『失われた時を求めて』のパロディーを意図したもので、マルクスの「労働時間」という定義をリアリズム風に描写したものだった。マルクスのいう「労働時間」とは、24時間のことであって、ゆえに時短などという労働運動は理論定義上は意味をもたないのであるが、それは、時計的に計測し得る近代的な時間であるとともに、日が昇って沈みまた昇るまでという、「一自然日」としてのおおよその24時間でもあるという、「両義的な(曖昧な)」性質をもたされた概念だった。私は、プルーストの、あるいはベルクソンの、純粋持続的な内的な時間に対し、ありきたりな24時間を対置させてみたかったのである。フリーターとして大卒後生きていた私には、そんな「労働時間」しかない、窓辺で紅茶にマドレーヌを食べながら回想、などという悠長な時間を持てていなかったからである。そうした文学を批判するために、当時の、南米を中心とした移民労働者と一緒に働いていた佐川急便の夜勤務の一日を、24時間かければ一日で読み終える、原稿用紙で1000枚を超える長編という形式的にもリアリズムをまとった、プロレタリア小説、、私小説、全体小説を試みたのだ。
後者は、小説への別れを刻印したものである。発表はしていないとはいえ、私の文学動機のはじまりは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を日本の文脈で書きたい、というものだった。それ自体(三部作)は、実は、『曖昧な――』より先に書き上げていた。早稲田の文芸創作科にいた私の卒論は、その三部作の二作目を提出していたものだった。タイトルは、おもいだせない。一部目は、『家庭』というものだった。そしてたぶん、三部作目が、この『書かれるべきでない―』にあたるものだったろう。(―いや、ほかに三部目があって、その小説(一般)への「エピローグ」としても企図されたものだったか、これも記憶が曖昧だ。技量が未熟すぎると思ったので、「カラマーゾフ」の日本版続編三部作は、自費でもだせると思えなかったのだ。)
しかし「エピローグ」というのは、間違えてしまって、本当は、「プロローグ」としたかったのだった。あとで気づいたが、どっちみち、もうそうは書けない、という覚悟で提出したものだった。「文学は終わった」、その柄谷が説き始めた認識を、私は、私の実存として生きるほかなかったからだ。が、内心の気持ちとしては、なんとか書ける道筋をつくりたい、と感じていた。だから、「プロローグ」という抑圧された無意識があったということなのだ。
が、いまだ、私は、書けないでいる。このブログは、ドストエフスキーの「作家の日記」のようなものを企図している、というより、意識している。『書かれるべきでない―』は、ドストエフスキーの『地下室の手記』をなぞってもいるのだが、私の場合、最初に「カラマーゾフ」があり、次に卒論の「白痴」にあたるものがあり、で、「地下室」とくるのだから、近代文学を逆行し、で、書けなくなる、という道行きになっている。書きたいもの(内容)ははっきしている、これまでのことだ、が、形式、文体、言葉の質が、定まらない。どう書けば、この私に集約してくる実質に、それに即した、近い形を与えることができるのか? どんな、かたち、なのだ? この定まりのなさを、ブログで模索しているのだが、これは、私だけの問題であるとはおもっていない。言葉の付置が、時代的に、揺らいでいるのだ。江藤淳は、1600年前後、文学史が空白だった、と指摘している。世の価値の底が割れ、どう書いていいのかわからず途方に暮れていた時代があった、ということなのだ。それが、「文学は終わった」、という認識と結びついていると、私はおもっている。だから文学をはじめる、とは、次の歴史をつくっていく、その下地なり素描を思い描いていくことと同義なのだ。私ひとりの問題ではない。
渡部直己の解任問題で出てきた「文学」の問題も、この歴史問題と関わっている、と私は認識する。以下は、おそらく、時代空白下におきる、象徴的な対立意見だろう。
○福嶋亮大「文壇の末期的症状を批判する」(REALKYOTO)
○北村紗衣「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判」(WEZZY)
私の早稲田大学時代の創作科の、当時は講師という資格だったかもしれない渡部直己氏に、私は、自著『曖昧な―』を送っている。返信はない。が、文芸創作に興味のある私の兄に、当時、渡部氏が、「むやみに小説なんか書くより、ペルー人といっしょに働いていたほうがいいんだ」と言っているんだが、それは、おまえのことか? と尋ねられたことがある。私は知らないが、だとしたら、渡部氏は私の作品を読んでいて、どこかで、エールを送ってくれていた、ということだろう。聞き伝えなので、言葉は正確ではないが、「むやみに書くな」という意見を、渡部氏に近い上の福嶋氏も述べている。
<そもそも、私はこれまでも、文芸系の知り合いの編集者に会うたびに「若い作家のケツを蹴り飛ばしてどこかに取材でも行かせたらどうか」と言ってきた(もちろん編集者が真に受けた様子はなかったが)。作家たちを高い店で接待するくらいならば、アゴアシつけて社会勉強に送り出し、ルポルタージュでも書かせたほうがよほど建設的だろう。世界を知らない作家がアタマを捏ね繰り回したところで、ろくな作品が出てくるはずもない。だったら社会に謙虚に学んだらどうなのか。>
こうした意見は、たしかに、真の書く契機、動機、いわば書く以前の実存をつかんでこい、ということで、近代的な個人(内面)を根拠前提にした狭い文学観として理解されやすい。北村氏の反論も、そうした理解に基づく。そこから、近代以前の言語営為の多様性と寛容性をモデルに、近代批判をおこない、より広義な文学観を確認していく。理性的な相対主義、といおうか。しかしこれは、たとえば夏目漱石の営為を参照するまでもなく、狭い近代観である。近代を創始しはじめた偉人たちは、近代以前の多ジャンル性、雑居性の意義と思想性を系譜するがゆえに、それを忘却してリアリズムな作風思想に収れんしていった時代の動きを批判する文脈を内属させて創作していた、というのが、柄谷氏らが説いていたことであり、洋風思想的にも、その再帰的な自意識を自覚した運動が、「モダニズム」ということであって、それは、単なる「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」といった時代区分とは別次元の実質である、とされてきたのではなかったろうか? 冒頭引用の柄谷・渡部対談でも、焦点となっているのは江戸時代であり、とくに、渡部氏は、この対談での柄谷氏の意見に啓発されて、解任後の文壇活動再開後、中国の白話文学と江戸戯作者との影響関係を文献的に追及しだす、ということをはじめている。北村氏の批判は、今においても狭い時代区分的近代文学をなぞっている作家群にしかあてはまらず、同時に、広義の文学を導入することで、そういう人たちをも擁護している、あるいは、言葉の営みをつづけている人一般の暗黙の支援が前提とされるような理論の枠組みであろう。そうした理性、良識は、何かを生産するのか? 本当にそこに、認識や洞察があるのか?
私は、書けない、なお、まだ書けていない。それでも、なんとか書こうとあがいている。私の力では無理かもしれない。いや、私の世代(時代)では無理なのかもしれない。が、だとしても、次の世代の参考に、ヒントになるような痕跡を残していきたい。安吾は、文学とは生きることだ、といった。私は書けていないが、それでも、この生き方は、文学なのだ、と思っている。というか、文学にであわなければ、今のような、生き方、生活するとは次元の違う葛藤を抱えて日々生きる、ということはありえなかったであろう。この近代個人の自意識過剰さ、再帰的な意識は、不可逆であって、そうであるよう努力しなくてはならない、というのは思想であるだろう。二度とあやまちはくりかえしませぬから、ということだ。
私は、ランボーの言葉を繰り返したい。「断じて近代人でなければならぬ。くたばればいい、たおれればいい、おまえがたおれたそこから、次なる労働者がやってくるだろう。」
*本当は、冒頭引用に関連した、現代思想的な話にもっていきたかったのだが、個人的な話が長くなったので、今回は終わる。
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