湯船の底にひざをついて、背中を立ててつかる。実際に湯が沈めているのは腰あたりまでなので、手ですくったお湯を肩、腰上の筋肉へとかけてあたためていく。腰を丸めて、体操すわりのようなことはできないので、こんな風呂の入り方が、もうひと月近くつづいていた。しかしそれでも、散歩でよりかたくなった筋肉はほぐれてくるように感じられて、気持ちも弛緩してくる。ただ気をぬけきってしまうと、しぜん腰は丸まってきて、またピキッと、ドイツ語では魔女の一撃というそうな、力の芯をぬいてしまう衝撃がはしりかねない。そうなってしまえば、せっかく普段の姿勢に気をつかって、ゆるんできた緊張、おさまってきた炎症がぶりかえされて、もとの症状にもどってしまう。そういえば、都知事も似たようなことを言っているな、と湯を肩にかけながら連想する。あともうちょっとのところまできています、気をゆるめたら元も子もなくなってしまいます……他県での宣言解除を間近にして、すでに都心の外れにあたるだろうアーケード街は、若い人たちを中心にごった返していたのは先週になる。昼飯どきとしてはもうおそかったが、あちこちの店先では列ができていた。「もうあきがきてますよね」と、野球仲間の焼き鳥屋の主人が言ったのは、夕食のオカズにと買いにいった一昨日だったか。それは冗談ではなく、真実な皮肉で、「しのげそうですか?」とのこちらの問いに、「借金だらけで」と、さえない真顔で答えたのだった。彼には、今年進学をひかえる子供が二人いた。首都圏でも、明日には解除されるのだろう。
膝立ちのままで前を向いているのには無理があるのか、しぜん首はうつむいてくる。いや背筋をぴんとのばし加減なのだから、むしろ顔は上向くはずだが、首筋までこってきてはと防御がはいるのか、片方の手を腰に手をあてがったまま、顎が引かれて、湯の向こうで揺れる自身の下半身をみるともなくみるようになる。水面のすぐしたで、くらげのように広がっている黒い陰毛が、波に洗われる海藻ように浮き沈みする。岩場に張り付いたウニか何かにもみえるが、脇腹からほぼまっすぐにおりる肉の断崖のか細さが、あまり命をいとなむ生き物を感じさせない。「やせたわねえ」と、いまは心臓をわるくして入院している女房が言ったのは、ウィルス騒ぎがはじまったあとのほんの数か月まえだったはずだ。「食べないようにしているから」、そう答えた私に「どうして?」ときいてきたが、それ以上言うのもはばかられて黙ってしまったのが、記憶の強さとしてなお脳裏に残っていた。一瞬、飢えという危機を体が覚えているときのほうが免疫が強くなる、というどこかできいた知識が頭に浮かんだが、その想起が相手に対する嘘ではなく、自身に対する抑圧であるとすぐに知れ、入定、という悟りとも決意とも知らぬ作法に誘われて自分がいま実践している、餓死という境地のために、もうすでにはじまっているのだとは、自分に対してもおそろしく、ましては、妻子に向かって言えるわけもない。理解されるわけもない。けれども、その覚悟とも憧憬とも感じとれるはばかりは、湯に浸かるいまもって心の底にぐつぐつと煮え立っている。いや煮え切れないで、悶々と、ぎっくり腰の衝撃とたたかっている。直してみせるという意欲は、健康という生への回復ではなく、死を慕う葛藤からきている。その葛藤は、両手をふさいだ買い物袋の重力の引っ張りが、脇腹の筋肉をのばしてほぐしてくれると知れると、風呂の残り湯をバケツいっぱいにしてあげさげするというポンプ操法ストレッチとして日課にとりいれてきた。草取りや脚立の上での立ちっぱなし、椅子に座っての長時間の物書き作業も、筋肉をひとつ縮こませる方向へと硬化させていく。だから、逆にひっぱる、伸ばす運動が、癖に固まってしまった習性を矯正させる。腰痛のときの穴掘り作業では、スコップで土をすくうときはやばいが、土を突き押す作業では、楽になっていく。土方仕事でも、ハツリ機でコンクリを突き刺して壊していく作業を無理やりつづけていると、腰痛がなおってしまうこともある。そんな運動はないかと、相撲の突きや突っ張りをストレッチにとりいれてきたのだった。そして今回、水のいれたバケツを体の横で脇腹を伸ばすようにして上下する、というのが加わった。死ぬために、体を鍛えている、まるで、三島由紀夫じゃないか、という思いもこみあがる。しかし三島の体が虚構の、虚栄の肉体だとしたら、この湯の上で隆起する腹筋の断崖は、生活の、必要な労働の産物だった。親方は、私の肉体をみて、まるでレンジャーだな、と言った。職人自身は仕事で偏った作業をつづけているので、右腕まわりだけがやけに太かったり、神輿担ぎで肩だけに瘤ができてもりあがったりして、むしろ不格好であるだろう。自分の場合は、中学の時の部活でのしごきで、軍隊式に腕立てや腹筋・背筋、終わりなきスクワットといったいじめに耐え抜いてしあがっていたのが下地で、そこに、あとからの肉体労働や、植木仕事で必要な節々が堆積してきている。暴飲暴食をするでもなく、むしろ食うことをひかえだしたこの頃だったから、腰まわりの脂肪が落ちたぶん、よりアスリートな身体になっているのかもしれない。着やせするので、見た目はか細くとも、肉体は強健だった。しかしそのぶん、歳の衰えには敏感で、正直なのかもしれない。いつまでも青春気取りがつよい、団塊世代の職人さんの強がりは鼻にきた。強がりは、醜い、嘘は、醜い、それよりか、老いを老いのまま演じる世阿弥の作法のほうが、美しくないだろうか、いや自然に死ぬまで生きながらえるのも醜い、いや、それは善くない、やることをやれたら、やることをあきらめられたら、そこを目安に、少しづつ、自らの意志で、死を作っていきたい、そんな憧れはしかし、子どものころから抱いていたような気もする。
水辺に打ちあげられた廃材かなにかのように、寄る辺なくただよう黒い揺曳のさらにむこう陰に、私の男根はあるはずだった。常に小さく、生きる意欲もないようなそれが、元気な男の子を産めたというのには、不思議な感覚がつきまとう。「おまえたつのか?」「精子がでるのかよ」とは、職人の世界にはいりたてのころ、よく酒の席で、親方はじめみなから攻撃された口癖のようなものだった。もう三十歳をひかえたころだったから、中学時代の軍隊式に鍛えられた精神と、ひたすら本を読んできた脳みその力は、そう言われつづけても動じなかった。あと一年もすれば、この人たちは何も文句が言えず、黙るようになるだろうのは、私には彼らの顔をみただけで明白だった。そのとおりになり、稼ぎ頭と呼ばれるようになって、俺の女房とやってくれてもいいんだ、と、夫婦仲をとりもってくれたらと期待されるようになるのに、何年もかからなかっただろう。遊びなれた不良あがりの職人たちの奥さんは若く、尻軽そうどころか、端正で利発そうな女性が多くみえた。そんな話を怪訝に通り過ぎていった私にも子ができたと感づいたのは、新婚旅行としていった関西での、女房の友人の家でのことだったろう。四国は香川で石工の山に登り、石切り現場の説明を職人からきけたその日は、岡山までもどり、プロテスタントの牧師の嫁にはいったという友人の自宅、教会の宿舎で寝泊まりしたのだった。起きてすぐに、山奥にある、大刈込みで有名な寺の庭をみる予定なのを、女房は気分が悪いからととどまり、私ひとりでいって帰ってきた夕食時、木肌や木目のはっきりした茶色い家具に囲われたただ広い食卓でかわした牧師夫婦との会話から、妻につわりがおきていると予測ができただろう。ただその場で、私は感づいただけで、意識はできなかった。おそらく、新しい環境を見慣れるのに精いっぱいだったのだろう。それからだいぶたって、たぶんは子どもが生まれてしばらくたって落ち着いてから、あああの時の会話は、牧師夫婦が、四十も半ばを過ぎた女が妊娠したのだがそれをどう思うのか、気づいているのか、と暗にこちらに知らせるなり問いただしたりするつもりの話しだったのだな、と思い出されてきたのだった。あれは、春先だったろうか、息子が生まれたのは、十月だった。女が子を宿してから、どれくらいで産み出すものなのか、いまもって私にはよくわからない。私は、腹のなかで、射精したのか、いつしたのか、できたのか、この子は、ほんとうに自分の子なのか、わからない。そのわからなさは、気になるわけではなく、情愛の生活を日々いとなんでいても、それとはべつな感覚として、宙づりにされた不思議さ、不可思議さをつきまとわせる。そしてその疎隔さは、世の中の現象として目前にあることと、同じようなこととしてかさなってくる。
散歩がてらにいったいつものマッサージの店では、ベテランがひとり常住しているだけだった。整体師として国家試験をとおってはいるのだろうが、やはり技術が未熟な者たちが幾人もいたはずだが、もう顔をみなくなって二か月はたつだろう。三つあるベッドも、中央のひとつだけをつかうだけで、あとはカーテンを閉め切ったまま、ひっそりとしている。三密とやらをふせぎ、ソーシャル・ディスタンスを設ける、とかいう世の方針に従い、お客は予約だけのひとりだけを中にいれてやる、ということなのだろう。だとしても、客がくるわけではなかった。雨で仕事休みの日、週末と、非常事態宣言のなか、私は通うこととなった。その間、店には、電話ひとつかかってくることも、ドアをあけてマッサージを頼んでくるものもなかった。この店は、全員が中国人の若者たちがやっていた。郊外や住宅街に近くなる都心部のはずれに位置する商店街通りには、いくつもの整体屋があって、客の入りをみかけることはたまにあったが、ここはさっぱりだった。一軒家も多い住宅街でもあるから、人通りが閑散とすることはない。比較的値段の安いここは、まだ腕が素人だろうという整体師もおおく、また中国の女性たちもおおいゆえか、客にも主婦風の女性や若い女の子もみかけた。がぱたりと、いなくなる。しかし私には、予約も確実にとれ、店は静かで、よかった。常住になった眼鏡の青年も、きょうの客が私ひとりで、暇をもてあましているのか、余分に熱心にやってくれる。「かたいねえ」と、日本語としてはイントネーションのありどころのちがう声音を発しながら、どうこの凝りを崩していくかと、試行錯誤をくりかえすように、やってくれる。一時間のはずが、アラーム音が鳴り終わっても、技術者としてのおさまりがよくなるまでと、つづけてくれる。凝りをほぐされながら、その痛みと気持ちよさに沈んでいきながら、なんで自分ひとりなのだろうという意識が浮上してくる。カーテンの向こう側からは、音楽がながれてくる。以前は、中国をおもわせるようなメロディーがおおかったが、このベテラン青年ひとりになってからは、いつもおなじ、風の谷のナウシカをアレンジしたような曲になっていた。その何種類かのバージョンが、繰り返される。そのか細い旋律を、うつむきになって耳にしながら、弛緩していきそうな全身から幽体離脱でもするようにして、不可思議さの感覚がもたげてくるのだ。
湯がさめるのもおそくなった。もう、夏がくるのだろう。息子に湯冷めを注意していたのはついさっきまでのことのようにおもわれてくる。アトピーの息子は、季節の変わり目でもなくとも、すぐに風邪をひきやすい。いまは風邪でも医者にみてもらえないんだぞ、そう口をすっぱくしていたのは、逆にとおい昔のようにおもえてくる。遊びにいった息子は、まだ帰っていなかった。部屋には、誰もいない。心臓の弁がはずれたのは、サッカー・クラブで三年生と一対一をやっていたからだ、と検査後の医者からの説明におもいあたる節でもあったのか、女房はラインをいれてきていた。おそらく、来週、手術をすることになるだろう……湯からあがるとき、黒い毛の塊が足蹴するように水をきって、下に落ちた。