2020年5月24日日曜日

ふろ


 湯船の底にひざをついて、背中を立ててつかる。実際に湯が沈めているのは腰あたりまでなので、手ですくったお湯を肩、腰上の筋肉へとかけてあたためていく。腰を丸めて、体操すわりのようなことはできないので、こんな風呂の入り方が、もうひと月近くつづいていた。しかしそれでも、散歩でよりかたくなった筋肉はほぐれてくるように感じられて、気持ちも弛緩してくる。ただ気をぬけきってしまうと、しぜん腰は丸まってきて、またピキッと、ドイツ語では魔女の一撃というそうな、力の芯をぬいてしまう衝撃がはしりかねない。そうなってしまえば、せっかく普段の姿勢に気をつかって、ゆるんできた緊張、おさまってきた炎症がぶりかえされて、もとの症状にもどってしまう。そういえば、都知事も似たようなことを言っているな、と湯を肩にかけながら連想する。あともうちょっとのところまできています、気をゆるめたら元も子もなくなってしまいます……他県での宣言解除を間近にして、すでに都心の外れにあたるだろうアーケード街は、若い人たちを中心にごった返していたのは先週になる。昼飯どきとしてはもうおそかったが、あちこちの店先では列ができていた。「もうあきがきてますよね」と、野球仲間の焼き鳥屋の主人が言ったのは、夕食のオカズにと買いにいった一昨日だったか。それは冗談ではなく、真実な皮肉で、「しのげそうですか?」とのこちらの問いに、「借金だらけで」と、さえない真顔で答えたのだった。彼には、今年進学をひかえる子供が二人いた。首都圏でも、明日には解除されるのだろう。

 膝立ちのままで前を向いているのには無理があるのか、しぜん首はうつむいてくる。いや背筋をぴんとのばし加減なのだから、むしろ顔は上向くはずだが、首筋までこってきてはと防御がはいるのか、片方の手を腰に手をあてがったまま、顎が引かれて、湯の向こうで揺れる自身の下半身をみるともなくみるようになる。水面のすぐしたで、くらげのように広がっている黒い陰毛が、波に洗われる海藻ように浮き沈みする。岩場に張り付いたウニか何かにもみえるが、脇腹からほぼまっすぐにおりる肉の断崖のか細さが、あまり命をいとなむ生き物を感じさせない。「やせたわねえ」と、いまは心臓をわるくして入院している女房が言ったのは、ウィルス騒ぎがはじまったあとのほんの数か月まえだったはずだ。「食べないようにしているから」、そう答えた私に「どうして?」ときいてきたが、それ以上言うのもはばかられて黙ってしまったのが、記憶の強さとしてなお脳裏に残っていた。一瞬、飢えという危機を体が覚えているときのほうが免疫が強くなる、というどこかできいた知識が頭に浮かんだが、その想起が相手に対する嘘ではなく、自身に対する抑圧であるとすぐに知れ、入定、という悟りとも決意とも知らぬ作法に誘われて自分がいま実践している、餓死という境地のために、もうすでにはじまっているのだとは、自分に対してもおそろしく、ましては、妻子に向かって言えるわけもない。理解されるわけもない。けれども、その覚悟とも憧憬とも感じとれるはばかりは、湯に浸かるいまもって心の底にぐつぐつと煮え立っている。いや煮え切れないで、悶々と、ぎっくり腰の衝撃とたたかっている。直してみせるという意欲は、健康という生への回復ではなく、死を慕う葛藤からきている。その葛藤は、両手をふさいだ買い物袋の重力の引っ張りが、脇腹の筋肉をのばしてほぐしてくれると知れると、風呂の残り湯をバケツいっぱいにしてあげさげするというポンプ操法ストレッチとして日課にとりいれてきた。草取りや脚立の上での立ちっぱなし、椅子に座っての長時間の物書き作業も、筋肉をひとつ縮こませる方向へと硬化させていく。だから、逆にひっぱる、伸ばす運動が、癖に固まってしまった習性を矯正させる。腰痛のときの穴掘り作業では、スコップで土をすくうときはやばいが、土を突き押す作業では、楽になっていく。土方仕事でも、ハツリ機でコンクリを突き刺して壊していく作業を無理やりつづけていると、腰痛がなおってしまうこともある。そんな運動はないかと、相撲の突きや突っ張りをストレッチにとりいれてきたのだった。そして今回、水のいれたバケツを体の横で脇腹を伸ばすようにして上下する、というのが加わった。死ぬために、体を鍛えている、まるで、三島由紀夫じゃないか、という思いもこみあがる。しかし三島の体が虚構の、虚栄の肉体だとしたら、この湯の上で隆起する腹筋の断崖は、生活の、必要な労働の産物だった。親方は、私の肉体をみて、まるでレンジャーだな、と言った。職人自身は仕事で偏った作業をつづけているので、右腕まわりだけがやけに太かったり、神輿担ぎで肩だけに瘤ができてもりあがったりして、むしろ不格好であるだろう。自分の場合は、中学の時の部活でのしごきで、軍隊式に腕立てや腹筋・背筋、終わりなきスクワットといったいじめに耐え抜いてしあがっていたのが下地で、そこに、あとからの肉体労働や、植木仕事で必要な節々が堆積してきている。暴飲暴食をするでもなく、むしろ食うことをひかえだしたこの頃だったから、腰まわりの脂肪が落ちたぶん、よりアスリートな身体になっているのかもしれない。着やせするので、見た目はか細くとも、肉体は強健だった。しかしそのぶん、歳の衰えには敏感で、正直なのかもしれない。いつまでも青春気取りがつよい、団塊世代の職人さんの強がりは鼻にきた。強がりは、醜い、嘘は、醜い、それよりか、老いを老いのまま演じる世阿弥の作法のほうが、美しくないだろうか、いや自然に死ぬまで生きながらえるのも醜い、いや、それは善くない、やることをやれたら、やることをあきらめられたら、そこを目安に、少しづつ、自らの意志で、死を作っていきたい、そんな憧れはしかし、子どものころから抱いていたような気もする。

 水辺に打ちあげられた廃材かなにかのように、寄る辺なくただよう黒い揺曳のさらにむこう陰に、私の男根はあるはずだった。常に小さく、生きる意欲もないようなそれが、元気な男の子を産めたというのには、不思議な感覚がつきまとう。「おまえたつのか?」「精子がでるのかよ」とは、職人の世界にはいりたてのころ、よく酒の席で、親方はじめみなから攻撃された口癖のようなものだった。もう三十歳をひかえたころだったから、中学時代の軍隊式に鍛えられた精神と、ひたすら本を読んできた脳みその力は、そう言われつづけても動じなかった。あと一年もすれば、この人たちは何も文句が言えず、黙るようになるだろうのは、私には彼らの顔をみただけで明白だった。そのとおりになり、稼ぎ頭と呼ばれるようになって、俺の女房とやってくれてもいいんだ、と、夫婦仲をとりもってくれたらと期待されるようになるのに、何年もかからなかっただろう。遊びなれた不良あがりの職人たちの奥さんは若く、尻軽そうどころか、端正で利発そうな女性が多くみえた。そんな話を怪訝に通り過ぎていった私にも子ができたと感づいたのは、新婚旅行としていった関西での、女房の友人の家でのことだったろう。四国は香川で石工の山に登り、石切り現場の説明を職人からきけたその日は、岡山までもどり、プロテスタントの牧師の嫁にはいったという友人の自宅、教会の宿舎で寝泊まりしたのだった。起きてすぐに、山奥にある、大刈込みで有名な寺の庭をみる予定なのを、女房は気分が悪いからととどまり、私ひとりでいって帰ってきた夕食時、木肌や木目のはっきりした茶色い家具に囲われたただ広い食卓でかわした牧師夫婦との会話から、妻につわりがおきていると予測ができただろう。ただその場で、私は感づいただけで、意識はできなかった。おそらく、新しい環境を見慣れるのに精いっぱいだったのだろう。それからだいぶたって、たぶんは子どもが生まれてしばらくたって落ち着いてから、あああの時の会話は、牧師夫婦が、四十も半ばを過ぎた女が妊娠したのだがそれをどう思うのか、気づいているのか、と暗にこちらに知らせるなり問いただしたりするつもりの話しだったのだな、と思い出されてきたのだった。あれは、春先だったろうか、息子が生まれたのは、十月だった。女が子を宿してから、どれくらいで産み出すものなのか、いまもって私にはよくわからない。私は、腹のなかで、射精したのか、いつしたのか、できたのか、この子は、ほんとうに自分の子なのか、わからない。そのわからなさは、気になるわけではなく、情愛の生活を日々いとなんでいても、それとはべつな感覚として、宙づりにされた不思議さ、不可思議さをつきまとわせる。そしてその疎隔さは、世の中の現象として目前にあることと、同じようなこととしてかさなってくる。

 散歩がてらにいったいつものマッサージの店では、ベテランがひとり常住しているだけだった。整体師として国家試験をとおってはいるのだろうが、やはり技術が未熟な者たちが幾人もいたはずだが、もう顔をみなくなって二か月はたつだろう。三つあるベッドも、中央のひとつだけをつかうだけで、あとはカーテンを閉め切ったまま、ひっそりとしている。三密とやらをふせぎ、ソーシャル・ディスタンスを設ける、とかいう世の方針に従い、お客は予約だけのひとりだけを中にいれてやる、ということなのだろう。だとしても、客がくるわけではなかった。雨で仕事休みの日、週末と、非常事態宣言のなか、私は通うこととなった。その間、店には、電話ひとつかかってくることも、ドアをあけてマッサージを頼んでくるものもなかった。この店は、全員が中国人の若者たちがやっていた。郊外や住宅街に近くなる都心部のはずれに位置する商店街通りには、いくつもの整体屋があって、客の入りをみかけることはたまにあったが、ここはさっぱりだった。一軒家も多い住宅街でもあるから、人通りが閑散とすることはない。比較的値段の安いここは、まだ腕が素人だろうという整体師もおおく、また中国の女性たちもおおいゆえか、客にも主婦風の女性や若い女の子もみかけた。がぱたりと、いなくなる。しかし私には、予約も確実にとれ、店は静かで、よかった。常住になった眼鏡の青年も、きょうの客が私ひとりで、暇をもてあましているのか、余分に熱心にやってくれる。「かたいねえ」と、日本語としてはイントネーションのありどころのちがう声音を発しながら、どうこの凝りを崩していくかと、試行錯誤をくりかえすように、やってくれる。一時間のはずが、アラーム音が鳴り終わっても、技術者としてのおさまりがよくなるまでと、つづけてくれる。凝りをほぐされながら、その痛みと気持ちよさに沈んでいきながら、なんで自分ひとりなのだろうという意識が浮上してくる。カーテンの向こう側からは、音楽がながれてくる。以前は、中国をおもわせるようなメロディーがおおかったが、このベテラン青年ひとりになってからは、いつもおなじ、風の谷のナウシカをアレンジしたような曲になっていた。その何種類かのバージョンが、繰り返される。そのか細い旋律を、うつむきになって耳にしながら、弛緩していきそうな全身から幽体離脱でもするようにして、不可思議さの感覚がもたげてくるのだ。

 湯がさめるのもおそくなった。もう、夏がくるのだろう。息子に湯冷めを注意していたのはついさっきまでのことのようにおもわれてくる。アトピーの息子は、季節の変わり目でもなくとも、すぐに風邪をひきやすい。いまは風邪でも医者にみてもらえないんだぞ、そう口をすっぱくしていたのは、逆にとおい昔のようにおもえてくる。遊びにいった息子は、まだ帰っていなかった。部屋には、誰もいない。心臓の弁がはずれたのは、サッカー・クラブで三年生と一対一をやっていたからだ、と検査後の医者からの説明におもいあたる節でもあったのか、女房はラインをいれてきていた。おそらく、来週、手術をすることになるだろう……湯からあがるとき、黒い毛の塊が足蹴するように水をきって、下に落ちた。

2020年5月16日土曜日

新型ウィルスをめぐる(8)

前回ブログへの追記。

なんで、事実を見ようとせず、安心に閉じこもる制度化された日本人の集合的な無意識、習性がだめなのか? 

たとえば、ガンの告知を受けず死んでいった身内は、余計な葛藤で苦しまないし、どっちみち死ぬのだから、真実を知らせないのは、思いやりとしていいではないか、というのが日本大衆だとしよう。

その心性に対し、戦後民主主義は、真実を知らされないで被ったとされる戦争の悲惨さへの反動からか、政治理念的に、事実隠蔽の方針に楯突く。今の国会論議でも、いわゆるリベラルといわれる野党議員がそう食いついている。

が、そうした性急な理念態度は、むしろ、日本人の習性を、なお隠蔽してしまう。たとえば、戦時中の戦況も、見出し記事にごまかされず、以前の記事を頭にいれて細かいところまで読んでいれば、実は、嘘をついているわけではなかった、本当の状況は推察できた、と佐藤優氏は指摘している。いわば「論理国語」能力があれば読み取れるようになっていた、と。これは、非常事態宣言解除という目的に向けての、事実は誤魔化せないので、どんなデータを採用しどう発表するかの、イメージ操作に頭を使っている、国政、都政の現在のさまにもあてはまるだろう。この点は、もと都知事の、舛添氏も指摘している。(新型コロナウイルス 緊急事態宣言は 必要だったのか? 解除の条件は?:

つまりは、事実を知らせる、知らせなくてはならないという近代的理念に対する同意はかつてもあったのであって、にもかかわらず、国民は事実を知りたくなかった、というのが本当に近い状況なのだから、だから、そこに民主主義理念を上塗りしても、本当の焦点は、ぼかされてしまうだろう。

私が、事実をみたくない日本大衆に対置させたいのは、理念ではなく、自然である。水は100℃で沸騰する、というような、自然の現実、法則的なものだ。

たとえば、事件や交通事故で、自分の子供や身内を失った、奪われた親たちは、どうするだろうか? 真実を知りたい、何があったのか本当のことを知りたい、と追求しだすではないか。私は、それが、人間の真実、本能の論理性、自然な法則だとおもう。日本人の大半が、そうした当時者意識が弱く、自身の事に関わってくることでも他人事なままなのは、島国として守られてきて、まったくの他者から絶滅させられる、という経験がほぼなかったから、としかいいようがない。しかし、歴史的に、世界という他なる者たちと堺を接した大陸的な倫理の形成が弱かろうと、現に、亡くなった子供や身内、あるいは仲間たちのために、あきらめずに真実を追求し続けている日本人たちがいる。

私は、理念も大切だが、そうした身近な現実を、まともに身に受けるべきだ、とかんがえる。なぜなら、自然から遠い制度は、不自然ということであって、人間関係という自然のなかで、長持ちなどしないからである。ボタンがシャクヤクにもどってしまうような現実、自然の法則だ。島国という特殊自然条件にあっても、もっとミクロなレベル、人間個人がもった本能に近い自然の方が強い。その自然に則さない人為制度、文化は軟弱地盤だ。

中国では、いまやSFなみの監視管理社会になっているといわれる。しかしそこまでしなくてはならないのは、それだけ個人の本能論理が強烈だからだろう。日本では、監視カメラなどいらない。江戸時代みたいに、お触れのタテカンひとつで、ほぼみな自粛してしまう。戦時中の隣組みたいな自警監視団さえ発生する。自然も弱いが、文明としても弱い、ということなのだ。

*中国で当初、「ホロコースト」のようなことがあったのではないか、と私は言及した。いまだに、その真偽を判断しうる情報には、私は接していない。中国の作家、実際に「アウシュビッツ」という言葉で中国のコロナ状況を捉えて報告しているが、事実に即して、というより、詩的比喩のような用法にみうけられる。発生源と思われる中国は、ウィルス性質のことが不明すぎるのだから、いきなりな強権危機管理を敷いたことは確かだろうが、どれくらいだったのだろう?

今回の、新型ウィルスに対する国政の無策であっても、日本人の被害は少ないので、「ジャパン・ミラクル」とか欧米の識者にいわれているそうだ。死にものぐるいにやった結果手にしたのは「奇跡」とよべるが、そうでないのだから、「ミステリー」の類いだろう。「自粛がんばったね」と、みんなではげましあっているが、ぜんぜんそんなことではないのは、舛添氏が指摘している通りだ。コロナ・ピークは、本当は3月半ばくらいにあって、非常事態宣言がだされた頃は、下火になっていたんではないか、とは、「論理国語」が普通にできれば、推論のひとつとして導きだされてくるのである。

本当に、このままコロナ死者数が数百人程度(現在700人位)ですんでおわったら、これは3.11の年の年間インフルエンザ死者数(500人位)と同じくらいの低水準で、去年は三千人をこえるくらいでほぼみな冬場だけでの数だ。なんで、飲食店等が倒産にまでおいこまれたのか、まさにミステリー、になるだろう。しかしそれでも、世界は激烈な危機状況に入っていくというのだから、この日本と世界との落差はさらに不可解であり、私たち日本人の大半が、まったく真実への見当もつかず世界の激動にのまれていくことは、やっぱり、よりマシな、幸せなことなのだろうか?

ダンス第二弾

山田いくこ&イツキ YouTube公開ダンス第二弾

あいさつ> 2010.4.22

2020年5月14日木曜日

新型ウィルスをめぐる(7)

日本では、検査数(事実)の不十分さが指摘されるが、事実なんか知りたくない、という、ひところから形成された日本人のメンタリティーに依拠した、日本人においては妥当な合理的な習慣(無意識)対応なのだろう。3.11の津波被害のときも、諸外国のニュース報道では、電線に吊り下がった死体映像などがそのまま放映されるのが普通で、これが真実そこから考えよ、とうながされるが、日本ではもちろん自粛される。真実を知らないで死んでいったほうが幸せだろう、という了解への傾向。ウィルス騒動の最中、内閣府が津波30メートルの予想発表したら、岩手県知事は、そんなこと県民に知らせないでくれ、と要請したというニュース。パニックを忖度したのだろうが、そのうち冷静に事実を受け止め自分で考えだすのが、人の自然的な能力。岩手県の現在コロナ感染者ゼロは、県政策というより、祖先の霊が結界をはっているからだろう。早めにパニックにしておかないと、新防潮堤を信じて逃げおくれてしまう。しかも、岩手県民だけその予想を知らないまま、なんてのは今のご時世では不可能、なのは、コロナ報道でも同じ。フェイクニュースに振り回されてパニックになるネット住民、が、それでいい、そこからみな、自分の頭で考えるようになるのだから。

以下は、〈友人のメールへの返信〉第二弾。

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「全員死んで下さい」に啓発されて、構想した「世界史の抗争」の、はじめに、でもあるんですね。(先ほど、フェイスブックの友達申請してみましたが。)ネットはなぜか、正義感から人をせめるのが主流騒ぎになるようですが、それは窮屈というか、偏狭なんだから、倫理にならないのは自明。虚構(芸術)が必要です。時枝兆希、というのは、日本版カラマーゾフ3部作での主人公で、いわば、「悪霊」のスタブローギンです。当時は、オウムがあったわけですが、知らずにそういうのも反映してたんですね。ブログで引き続きそこまで(たぶん「ゆめ」のなかで)のせるかどうかわかりませんが、NAMの評議会メールとか使って、「悪霊」コードを延長していくでしょう。
で、その時枝の「世界史の抗争」は、「もしそうだとしても」という言い回しがあるように、前回「買い物」の島原史郎(スタブローギンのシンパ)の独りごとが、「もしそうだとして」でかさなり、「クマムシ・テンノウ」は生き延びるのでは、という視点で、いわば、ポリフォニー(対話)になっていくんですね。今後の展開で、議論がでてくるという伏線です。
私としては、フィクション、小説の形式にはいっていくと、自分の意見は存在しえなくなる。そこまでいかないと、ポリフォニーになんかならない。ただたくさん主人公がでてくる第三人称小説、いわゆるリアリズムにしかならない。どれも自分だ、という強度と深度があって、はじめて、バフチンのいうポリフォニーとしての「イントネーション」、他者としての声、が獲得できるのだと思います。他人事的な客観描写や会話には、他者性はない。カセットテープではじめてきく自分の声が不気味であり、一番近しい者こそが不気味と感得、洞察までいって、やっと他者性にふれてくる、その実存の回路から、他なる天体、もが見えてくる、とまでいうと、小説でしか書きえないような話になってくるわけですが。

小池は、大阪知事が大臣から横やり受けたのをみたからか、慎重ですね。コロナが欧米並みになる、に賭けていた、ようにもみえますね。もう1ヶ月延長は、ありえないでしょう。が、世界の陰謀は、もっと騒ぎをながびかせたいようだから、また局面かえて、何かおきますかね。

女房は、検査うけ、弁膜症、と、盲腸、で、そのうち、カテーテル手術だそうです。心臓はだいぶ小さくなってきて、家事は普通にできるようになったようです。

群馬にも千葉にも、近所への忖度で、帰れなかったわけですが、自粛解除されて子供が満員電車にのって通学し、友達の家庭は共働きで父母ともに都心へ通勤も多いでしょうから、解除後のほうが、不確実性の社会に突入する。植木手入れや除草など、いま自分はかかっていないと確信てきるチャンスだったんだが、そういう判断の話は、身内のものにも、通じない。なんでお上の御達しをそのまま受けるのか、私には信じがたい。サッカー岡田メソッドは、自分で判断できる日本人を育て、社会を変えていきたい、との試み。岡ちゃんは、正当的だ、が、その理論と、コロナ自粛要請は、別じゃない、応用実践だろ、ということは、ぜんぜん理解されないので全員死んで下さい。

※追記; 岡田メソッドは、自由の前に、型、を習得させる。哲学を学ぶとは、考える型に突き当たって、自分の思考が、いかに凡庸な型通りであるか体感し、失語症(不自由)になることだ、とは、哲学してきた人には、了解されていることだと思う。ネット言説上では、まだそんな型ができあがって、自由に発言しているとおもってたが実は型どおりと知って失語症になる、みたいな教養構造は、まだできないのか? ずっとできないものなのか? 炎上にびびって自粛するようになるだけなのか?

2020年5月9日土曜日

『世界史の抗争』(時枝兆希著 トランスミッション出版)

はじめに

 みなさんはおそらく、自分が絶望しているのではないか、そう感づいているのではないかとおもいます。それは、もしかして、人類は絶滅してしまうのではないか、という、認めたくない不安からくるかもしれない。そして、もしそれが本当だとして、その原因が、私たち人類自身にあることにも感づいている。だから、もしかりに、人類が十数年後に絶滅してしまうのだとしたら、私たちは、この現在を、どうふるまって過ごしたらいいのか、と問うことは、空想ではなく、私自身の内において、現実性ある切迫した問いかけになることでしょう。もはや、人間どう生きるべきか、という一般的な哲学的な問いは、もうすぐ終わるという確実性をまえにしては、意味を失わないまでも、この状況の最中を生きている私たちの具体性の中では、説得力を弱めてしまう。生きる、ということ自体が、力を奪われてある状況なのだから。だからむしろ、過ごす、という、日常的な終活の仕草が、大切になってくる。そのとき、人は、他の人々ではなく、他ならぬこの私が、どうふるまったらいいのかを、静かな覚悟をもって自省することに直面する。私が、現実的な、あるいは実践的な希望ではなく、絶滅を逃れうるかもしれない理論的な道筋を見いだすのは、そこにおいてです。

 私はかつて、中国の文学から影響を受けた日本の近代作家をとりあげて、絶滅というのはないのだ、終末というのはないのだ、と説いたことがあります。たしかに、人類がなくなっても、地球のキャパシティーはいぜん残るでしょうから、生物の絶滅なんてものはないでしょう。その論理は、人間中心主義的な、あるいは中心(目的)をもった理論という非現実的な思考に対し、多中心という自然史的現実を対置させてみたものでした。しかし、ただ一つの仮の中心にすぎぬとはいえ、こうやって、人類の絶滅が間近にせまってみると、そんな正論が空疎におもえてきます。今から真剣になって、地球環境や生態の回復と保全に努めたとしても、その影響がでるのは、百年後、千年後の話になるのは、スポーツでも、訓練の成果がでるのは三か月後、半年後であるのと同じです。もう、間にあわないのです。ならば、他ならぬこの環境、この地球、この私たち人類のあり様にアクセスできるのは、この私たちの悲惨な現象を通してしかないのか?

 私は、文芸批評家としてデビューしたころ、夏目漱石の言葉として、次のような言葉を引用していました。ひとつの空間を、ふたつの物が占めることはできない、と。これは、差異という哲学的概念のあり方を、端的に表現したものですね。通俗的には、ひとりの女をふたりの男が独占することはできない、だから、どかさなくてはならない、ということで、そうして「心」の僕は実践し、親友を自殺においこんでしまったわけです。哲学的には、これは普遍的な命題のようなものになるでしょう。差異の原理というわけです。では、この原理は、量子論的な世界にもあてはまるのだろうか? 一般理論的に、原子よりもミクロな世界では、物質のふるまいは、この世界の現象とはちがったふるまいをする、と指摘されています。トンネル効果や、量子のもつれ、とか呼ばれる現象が典型的なものですね。物質は、壁をすり抜け、どこにあるかを観測しようとするとそのふるまい自体が物質に影響をあたえてしまい、どこにあるかの位置が計測できない、位置と運動量とを同時に見れるという世界の現象があてはまらない、というわけです。が、本当なのでしょうか? ここでいう本当とは、このマクロな私たちの世界での現象と、ミクロなあの世界での現象に、差異などあるのだろうか、ということです。あるとしたら、その一般理論で指摘されている、そんな現象の差異によって特定できるものなのか、ということです。逆にいえば、たとえばアインシュタインの一般相対性理論で、ニュートン物理学で解いても誤差のほぼないこの私たちにとって通常的な現象を計測することは可能なのですから、原理的には差異はない、ということになるのですか、それは本当なのか、ということです。差異はあるのです、が、そこにではない。

 私がこの著作でやろうとしたことは、私の仕事にとって、新しいものではありません。かつての『探究』で追求した他者論を、最近の論考を加味して、量子論的な世界でも拡張してみせただけです。理論的な転回は、ここにはない。が、私が絶滅を認めたところからはじめているように、態度転換はある。しかしそのこと自体は、新しいことではない、が、そこに、決定的な差異があると、私は提起しているのです。その態度転換こそが、終末を理論的にではなく、実践的に逃れうるかもしれない理論的な道筋だ、というのです。私だけではない、みなさんが、静かな自省を迫られている、その一点において、あの世界への道筋が開かれるのだと。すれば、その世界が、この世界に、量子力学的に干渉する。

 具体例で話しましょう。私たちが日常的に使うようになったスマホでは、半導体で、電子をつかまえているわけですね。電子は、量子論的なふるまいをするので、設計した通りの回路を通過してくれるか、その統御が難しい。どこかへいってしまう。それを、複雑な数式を使って、確率的に、その制御盤に追い込んでいるわけです。だけど、これは、大昔から、マンモスを追いかけていた人類がやっていたことです。獣というのは、一般に生物は、見つけようとすると、見つからないものです。気配を感じて、逃げていってしまうわけです。気配とはなんですか? 波動のことですよ。私たちの祖先は、それを利用した。獣道をしらべ、いくとおりかのパターンを確率的に予測し、落とし穴をつくり、獲物に追い込む私たちの気配を読み込ませながら、そこに追い込んでしとめる。技術のあり方としては、いまの科学者がやっていることとかわらない。しかし、技術を使う態度としてはどうですか? 獲物を捕らえたことは確率論的であり、偶然であり、僥倖であり、ゆえに、狩猟民は感謝する。科学者が、電子をとらえて、感謝してますか? してないでしょう。だから、原子力爆弾を作るまでになるのです。そこにあるのは、似て非なるものであり、それが、差異の現実性ということなのです。

 この間、アメリカの国防総省が、UFOの存在を認めましたね。その意図は、直接的には、現大統領の選挙運動の一環なのでしょう。患者を救うのに、消毒液を注射すればいいとか、アホなことをいうので、UFOを信じているような支持者でもこんな大統領に任せていていいのか、と離反が起き始めたという世論がでてきた。その失い始めた一つの支持層を回復しようと、ネットですでに騒がれていた映像を公的に認めることで、大統領が交代せずにすんだら、何か秘密情報が公開されるかもしれない、と期待させるようしむけているのでしょう。しかし実際はそうだとしても、ではあの物体はなんなのか、という謎は残ります。ユング派の心理学は、それを集団幻想だとみますが、私自身は、かつて、「探究」誌上で、こういった覚えがあります。他の天体に知的生物がいるのは、論理的前提である、と。それがいる、いない、という認識論的な構えにいること自体が、その観測態度が、それを見失わせてしまう、ということです。私たちは、論理的な態度でなくてはならない。それがいる、他者が、知性体がいるということは、命題なのです。だから、なかには宇宙人との戦争を想定してしまう人もでてくるようですが、そんな心配はいりません。気配を感じれば、逃げてしまいますから。沈没船から脱出するネズミのように、観光客のまえには姿をみせないが、自然に作業を営む農家の人々の隣では、平然と餌をついばむトキのように。もしその知性体を他者ではなくエイリアンとして、異者としてみてしまうとき、私たちは、新大陸ででくわした原住民を虐殺してしまったように、それを殺すようになるでしょう。つまり、量子にせよ、宇宙人にせよ、そこに、目新しい事態があるわけではないのです。人類の世界宗教は、すでにその悲劇を取り込んでいる。そしてもう、私たちは、それを繰り返すこともできない。あとは、沈没していくだけです。

 しかし、その沈没は、終末は正確なのだろうか? 私はかつてもいまも、世界宗教を倫理上の例として、よくとりあげてきました。しかし、たとえばノアの箱舟には、動物たちは乗船させてもらえましたが、植物はどうでしたか? あるいは、岩石や、土は、砂は? 水は、食料として蓄えていたかもしれません。つまりあくまで、世界宗教の範疇は、人類史なんですね。人類としての世界史です。しかしいまは、植物にも、知性があることが確認されている。知性というと、脳をもっているかどうかが問われますが、脳がなくても知的活動はできる、というか、脳を破壊されたら動けないような生物では、弱すぎる。そういう点で、植物は強いわけです。どの部分をもぎとられようが、生きていける。もしかして、ノアは、植物のその強さを見越して、わざわざ箱舟にはのせなかった、とは言えるかもしれません。しかし強いのは、植物だけなのでしょうか? 岩石の風化、砂への変化は、知的運動ではないのでしょうか? 彼らは、先を見越して、変身しているのかもしれない。砂粒は、とらえどころがない。電子をとらえた科学者が、獲物を捕らえた狩猟民が感謝するように、この微粒子に感謝することが論理的命題だということは、どういうことなのか?

 私がこの著作で試みたことは、人類としての世界史を、より量子論的に、自然へと拡張された、人類としての世界史に変更してみることでした。自然史ではありません。あくまで、私たちの、人類としての、世界史です。私たちは、他ならぬこの世界、この宇宙に生きている。この世界の法則は、この天体においてのみ通用する。言いかえれば、他の天体でもなく、他なるものたちを論理的に前提としたうえで、この世界の捕捉を変えてみる。ああでもあり、こうでもありえた、可能なる複数の世界を前提に、この人類の世界の軌跡、世界史を変えていく試み。マルクスは、哲学者は世界をさまざまに解釈してきただけだ、重要なのはそれを変えることだ、といいました。私は、それをより正確に、こう言いかえたい。私たちは、さまざまな可能なる世界を解釈するために戦争をしてきたが、重要なのは、その世界史を変えていこうとする解釈に、態度変更を迫ることである、と。つまりは、私が提起しているのは、解釈をめぐる抗争、イデオロギー闘争です。しかしその解釈、イデオロギーは、この世界史の、人類史で争われてきた世界をめぐる解釈の次元ではなく、あの可能なる世界史群へとむけて、自然史的な知的活動として協同しておこなわねばならない、ということです。人類の絶滅をまえに、プロレタリアートという階級的差異は意味がない。その差異へのこだわり自体が、人類としての解釈次元の現象、見かけにとらわれた異者としての、対立にすぎません。差異の原理は、その現実性は、そこにあるのではない。階級闘争ではなく、あの世界史群との、階層抗争にこそある。他なる位相空間へ向けての、闘争の開始なのです。私たちの態度変更が、その世界史群の抗争の戦場へと、量子力学的に干渉させていく。ひとつの空間を、ふたつのものが占めることはできない。干渉が成功したとき、この虐殺の、絶滅の世界史は、この空間から排斥される。私たちは、その闘争の現場に、参加しなくてはならない。そこに、何々があるのかは知りえていませんが、そこにいたる理論的道筋とは、そういうことです。

 これはオカルトなんではないか、とみなさんはおもうかもしれませね。しかしそうおもうとき、みなさんは、私たちが十数年後に絶滅するということを忘れている。つまり、論理的前提を見失って、またエイリアンと暮らす世界史にもどってしまっているのです。しかし、他者はいる。その知性のあり方も、多様である。それを前提にすれば、一挙手一投足がかわってくる。十数年後に終わってしまう世界で、お母さんたちは、子どもたちに受験勉強を尻たたいて教えるでしょうか? 自粛を要請された戒厳令的な世界で、いま、私たちは人見知りするように引きこもり、引っ込み思案になっている。それは、トキや、宇宙人とおなじような生態になった、ということです、世界史の抗争の場へと、私たちが近づいているということなのです。量子も、宇宙人も、トキも、私たちも、人知れないところに出没する。環境条件はそろった。そののっぴきならない世界のなかで、あなたは、どんな歴史を、どんな十年を構想することができますか?

2020年5月6日水曜日

新型ウィルスをめくって(6)


〈友人のメールへの返信〉
女房のことは、私がなにいっても受けつけないので、連休あけにあるという持病の検査にまかせます。ただ薬はきいているようで、普通に呼吸できるようになりました。
私の腰は、いろいろリハビリを工夫してやったんですがよくならず、明日からの仕事が大変そうです。

おそらく、緊急事態宣言も、5月半ばにまたいったん再検討という話ですから、そこから、東京でも、開放にむけての段取りになっていくと思います。大阪知事に負けじと、小池も、検査データ自体はねつ造はできないけれど、処理方法や発表の仕方を組み合わせて、五輪まえの逆バージョンで、国より先に開放路線の具体的処置をこうじていくのでは、と予想します。疫学的現実と経済的現実のバランスというより、たんに、予算の現実としてですね。疫学的には1ヶ月おくれの現実政策になると私は判断しますが、その遅れでも、100%の救済を恐怖心にかられて要求というか、悲鳴をあげてる国民世論を反対にかえていく言論をもたないといけないわけですから、難しいですが、小池は、総理ねらっているでしょうから、賭けるんではないか。政府任せだと、社会的犠牲者がおおくなって、世情が自然的に反対になってから追随する、というパターンですから、もう手遅れ。このコロナ1波が欧米みたくならないだろうのは、神風が吹いたようなものでしょう。社会政策の無策がまた犠牲を最小にしてくれる、第二の神風がふいてくれるかどうか。

が、例えば、息子の学校がはじまれば、必ずそのうち感染して帰宅しますからね。どんなに工夫しても、手洗いうがいをしっかりしろ、ということしかできないような現実は、運任せといっしょです。しかし、それを生きるほかないのは、どの時代もおなじでしょう。戦後の途中から平和ボケになったから、過剰な要求、というより、悲鳴があがるようになったのでしょう。

2020年5月4日月曜日

散歩




 杖をもって玄関をでると、すぐ左の、開かれたままの非常扉をくぐって、階段の踊り場へと出る。青空のもと、ましたには中学校のグランドがひろがり、その向こう、校庭の上段になるように、地元ではバッケと呼んでいる野球場の高いフェンスと、人口芝のグリーンの輝きが目についてくる。11階ある団地の6階に住んでいるので、ビル並みの向こうには、低い山々が地平線をひいているのも見えるはずだが、夏に近づいた空はそこまでは霞んでいて、いまはうかがえない。義理の父からゆずりうけた、こげ茶色の細身の杖のとっ手を、胸ほどの高さのコンクリート壁の天端にかけると、ルーティンとなっているラジオ体操をはじめた。西側のビルの群れと、北側のビルの群れの間は、バッケ野球場からせりあがる小高い山が視界をさえぎっていて、少し深い森のような中に、大学のキャンパスがエンジ色の建物を頂上にのぞかせていて、ガラス張りのようなファサードの曲面が、南よりそそぐ日の光を反射している。

 数年ぶりでぶり返した腰痛のため、体操はぎこちないものとなる。子供のころおぼえたラジオ体操のさわりの部分、手足をぶらぶらさせたあとは、階段にあげた片足のかかとをのせて、バレリーナが手すりをもちいてするようなストレッチをする。スクワット、片足立ち、といった、軽く筋肉を維持するようなトレーニングも加えているが、そのさいは杖をとり、地に立つ足を三本にして、ゆっくりとおこなった。また杖をもどして、ピッチャー・モーションと、バット・スイングの動きを、太極拳のように、静かに呼吸をととのえながらくりかえす。最後はかるくジャンプして、腰を落ち着かせようとするが、恐怖心がたって、両足は浮かなかった。症状は、ぎっくり腰と同じだったが、ぴきっという、腰のかなめが切れたような音のする感覚はなかった。少し張っていて、かがむさいにはなにか筋肉がひっかかる感じはあったが、発症するまえの祭日には、子どもとキャッチボールまでできていた。それが次の次の日の仕事のときに、急に腰がぬけるような、体の言うことをきかせる神経回路がオフになって力がつたわらず、どう動かしていいかもわからない混乱とともに、腰回りの筋肉が強烈な緊張ではりはじめ、あああ~と間の抜けたような痛みにうなされ叫びをあげることになったのだった。緊張の波が消えると、ふつうに歩け、どこが悪いかわからないぐらいなのだが、気を抜いて腰をまるめたり、しゃがんだりするさいに、そのマイナスの痛みというか、ブラックホールに吸い込まれていくようなとたとえたくなる激痛の波動がおそってくる。腰によいと見聞きした体操や、相撲の四股や壁を突くような押す動作が、腰痛をむしろ緩和していくと気づいたりしたから、日々そんな訓練をくりかえして数年、なんとか腰のぴきっときれる傷みはまぬかれるようになったのだとおもっていた。が、ここ1週間以上つづいた草むしりやグランドカバーの手入れで、腰の張りは極度にたっしていたのだろう。意識的には感ずけなくとも、体は言うことをきいているわけではない。いや、その意識に、迷いが生じていたのも確かだった。マッサージにいく回数を、濃密接触とやらになるのかもと、一度へらしていたからである。が、こうなってしまうと、もうウィルスへの恐怖どころではなかった。

 階段をおりると、ピロティへつづく1階の廊下を抜け、駐輪場にもなっているその広場から表どおりへと出た。今度おおきな地震がおきたら、この柱かずの少ないピロティのところから崩れおちるだろうか? 東日本大震災のときは、そのふた月まえほど、木から落ちたが命拾いして、松葉杖をついて部屋で休んでいた。車いすからは解放されたひと月あとくらいだったろうか、6階の部屋は、かなりゆれた。タンスや冷蔵庫などにつっかえ棒や、机などもベルトでとめてあったため、家具がたおれるということはなかった。地震のあと、建物内をみてまわった。そのときは異常はなかったと記憶するが、数日後の大きな余震で、玄関門口などの弱い部分に、亀裂が走ったのに気づいた。1階のピロティのひらけた空間方向へと、いくつかの階の柱から壁につたわった、稲妻のようなひび割れが目についた。災害認定されて、家具などの破損には、保険が適用できる措置がとられた。もう建造されてから60年近くがたつだろう、当時としてはハイカラな形をした、この区域でも一番最初の団地だった。老舗の、ゼネコンが請け負っている。南から北へとのびた1号棟は、日の光を各部屋に少しでもあてられるよう、斜めの段々に後退していくような、変わった雁列構造をしていた。それが、モダンな印象をあたえた。よそ目には、羨望の物件だった。しかし、地元の人にとっては、それでも入居がためらわれるような土地柄らしかった。1号棟と、その丘の下にある南に面した2号棟との間にある崖は、かつて防空壕がほられ、戦争がおわったあとにも、家をなくした人たちがそこで暮らしていたという。崖上は墓地で、その先には、皇室を荼毘するに指定されているという火葬場があった。私よりけっこう若い世代にも、その幼児のころの記憶があるらしい。乞食山と、地元の人はささやいていた。だから、地元の野球仲間の不動産屋は、私にこの物件は紹介しなかった。妻の気に入るアパートがみつからなかったので、駅前の、テレビコマーシャルもだしている不動産屋にかえて、みつけてもらったものだった。管理は、もと公団だった。

 川のほうへくだっていく表通りをおりていく。この小高い丘とその崖下にたつ団地は、しかし戦争あとになってから、そうささやかれはじめたわけではなかった。この江戸時代にはあった通りは、職場の植木屋のほうへくだっていくと、関東大震災で下町から避難してきた人たちの町名をつけた商店街通りにでるが、かつてその近辺に住んでいた、作家の林芙美子が、散歩道として描写している。その戦前の作品では、乞食部落として記述されている。商店街にでる手前には、朝鮮人の集落があったこともしるされているが、その部落も、団地が建てられる頃まで残っていたようだ。

 私は、その林芙美子が自宅のほうへとおりていった散歩道ではなく、彼女が行って来たほうへと足をむけてゆく。結局は、彼女がとおった、団地下にあるこの地域の神社から、西武線で一駅むこうにあたる、駅の名前にもなっている薬師如来を本尊とした寺のあたりへといくのだが、より遠回りに、川沿いをあるき、明治期に、哲学世界を視覚化してみせたという公園を傍目にみていくコースをとる。川沿いの児童公園では、人があふれている。緊急事態のひと月あまりの延期が明日にも表明されるといわれていた。自宅にこもるよう要請されていても、そこまで従ってみせる実感はないだろう。マスクは子供もふくめ、みなつけている。ジョキングをする人たちも、多くなったままだ。日中は、そうとう暑くなってきている。いつまでマスクをしていられるのだろう。私は、胸ポケットにいれたままだった。哲学堂わきの遊歩道では、春先に咲くツツジらにかわって、サツキの赤いつぼみがひらきはじめた。日光浴にでてきているような人たちにまじって、私も杖をついて、世界の偉人たちを象った黒い彫像をすぎてゆく。

 都心を縦断する総武線の、拠点にもなっている駅へ向かう大通りへでると、しゃれた店などに出会わすが、ときおり、扉を閉めきっているままなような店のまえをとおりすぎる。このさまは、線路をこえ、解体のはじまった小学校のわきをとおり、寺と神社に覆いかぶさる木々のあいだをぬけて、駅に近づいてゆくと、なお増えていくだろう。薄手の長袖のシャツでも、もう2kmぐらいはあるいているだろうから、汗がにじみでてくる。古木といってもいい大きな桜並木が、日をさえぎってくれてはいるが、湿度がでてきているのか、じっとりとくる。風はあった。背後からこちらを勢いよく追い抜いてゆくとき、心地よくなる。雲も、多くなっているのかもしれなかったが、頭上をおおう桜の枝葉がさえぎっていて、空はみえない。道路わきの家やマンションも高層なものがおおいため、夕刻にむかうこの昼下がり、商業区域になるだろうこの界隈は、閉ざされ、暗くこもった陰影をおびていた。今朝の新聞では、隣の区の商店街でとんかつ屋を営む50歳過ぎの主人が、焼身自殺をしたのではないか、と報道されていた。リーマンショックでバブルがはじけたとき、その発生の数年後、自殺者の数は急増した。毎年2万人ぐらいが自ら命をたっていたわけだが、それが3万人をこえた。私と一緒に草野球をしていた不動産屋の社長も、まだ幼い子どもを残しながら、車のなかで睡眠薬をのんでなくなった。資本を揚期することを目指した社会運動で知りあった年上の塾講師は、その自殺数増加を、当の運動を創始した著作家の理論をつかってむずかしく解釈したあと、みずから命をたった。今回の騒動で、どれくらいの人が、断念するのだろうか、ウィルスに直接おかされたのでもなく、家からでるなといわれ、そのとおりこもったまま家を燃やして死んでゆく…。

 都心部へむかうもうひとつの大通りとぶつかると、急に開けた感じになる。桜がひとまわり小さくなって、空が広がり、銀色のビルの連なりが日を反射し、人通りの賑わいが、目の前からいっきにやってくる。普段の祭日よりは表にでている人たちは少ないのだろうが、それでも、都会の一角であることをおもわせるに十分だった。この区の役所も、すぐ近くにあった。再開発をうけた区役所側は、道も広くなっていて、街路樹の植木もまだ新しくみえた。ゴールデンウィークがあければ、カレンダーどおり、仕事ははじまる。親方の同級生の西東京市の農家の手入れに、2日かけてうかがうことになっていた。それまでに、腰はふつうに動くようになるだろうか。私の腰がこんなふうになったとき、妻は、近所のかかりつけの医師から電話でよびだされ、心不全を宣告されていた。まえの診察で心電図をとったさい、不整脈は指摘されていたが、何か気にかかるところが医師にあったのか、再確認のためレントゲンをとりたいとの意向だったらしい。都外の産婦人科の庭の手入れをしているとき、とつぜんラインがはいって、妻から知らされたのだった。「で、それがどんな意味で、だからどうするというんだ?」と、ピンとこない私は返信した。昼めし休みのときに、検索してみる。ガンの次におおい死因で、入院になると、余命は長くて5年、末期症状とはこんなものだと書いてあるのだが、すべてが妻の症状にあてはまるようにみえた。ちょうどその2日まえ、ウィルス重症化する前兆としての症状がテレビで繰り返し報道されていて、そのチェック項目がすべてあてはまり、熱のないコロナ患者というのもあるのか、熱があったら医者にもみてもらえない現状なのに、ないのでみてもらうと異常だからたいしたことなければ医者にはいまはいくな、と矛盾した現実の対応がうまく理解できないままでいた。「ママは、だいじょうぶか?」と、学校もなく、部屋でスマホをみてごろごろしているだけのような息子に、ラインをおくった。「心臓がわるいって」とすぐにかえってくる。「心不全、スマホで調べてみろ」とおくりかえす。「うん」、とひとことかえってくる。そのひとことのおわりは、子どもが子どものまま受け止める悲劇の表現のような気がしてきて、落ち着かなくなる。仕事をおえて、東名高速をつかって家にもどると、妻が、食卓の椅子に腰かけていた。息子は、中学時代の友達とともに、隣の区のグランドのある公園までいって、野球をしにいっているという。もらった薬をのんだら、だいぶ楽になったともいう。「睡眠薬か?」ときくと、「心臓の薬」だという。ネット上でヒットしてきた情報と、自宅療養をとらせる対応の落差が腑におちず、医療にかかわる翻訳とうの実務にたずさわっているらしい友人にメールでたずねてみる。いまは心不全とは広い文脈でつかわれており、難病と指定された持病で服用しているペンタサという薬の副作用としても、心不全になるという報告があると、大学病院での症例研究のPDFファイルへのリンクをはったメールを返信してくれた。自分の父親もそういわれて、心臓カテーテル手術を受けたりしたが、今もって77歳で健在だとの私信を添えて。私は少し安心した。妻の両親は長命だったが、親戚には病でたおれた人がいるとその名前を数おおくあげる。妹も、白血病になった。健康をとりもどして、まだ感染がそう騒がれていないあいだ、いまこそ京都は外国人がいなくて静かだからと、旅行にもいっていた。が、流行の深刻度がましてくると、それどころではなかった、私たち普通の者がかかっても、病院はまず看てくれないでほっておかれるからと、自身は住んでいるマンション前の東大病院で治療を受けている者なのだが、4月にはいっての私の会社でもうけた仕事連休を利用しての、昨年、一昨年とたてつづけになくなった彼女たちの母、父、ふたりの墓への埋葬、東京郊外に購入した樹木葬の実施は延期にしようとなったのだった。3月当初、私はもしかして、致死にいたる相当な感染規模になるのでは、とおもっていた。だから、持病もちなのに、ずいぶん呑気なもんだな、とそう意見すると文句を言い返されるから黙っていたが、私の女房も、すでにほとんどの人がとりやめていた千葉の房総へのバス観光グルメツアーに、何かの景品であたったとかいって、ひとり喜び勇んで行ってきたのだった。3月末の、春休みを利用しての、息子と高校友達との大阪旅行は、友人の両親の勧告もあって、とりやめになった。身近なものたちがみせる深刻度は、そこから急激にあがっていった。ゴールデンウィークを利用しての、群馬と千葉の実家の庭の手入れ予定も、近所の目を忖度する私の母や弟、妻の言葉を受けて自粛することになっていた。しかし、理由はさだかにはわからないとはいえ、感染の質じたいは、予想していたほどではないのでないか、と私はおもいはじめていた。挨拶のハグがあるかないかとの文化的差異、BCGの接種のあるなし、アジア人種としての免疫的体験……いろいろ言われていたが、統計的に、欧米社会とは規模もひとまわりちがっているようにおもわれた。むしろ、その社会的対処のほうが、より決定的な深刻さを人々にあたえていくのでは、とおもわれてきた。4月半ばには、その統計上の差異ははっきりしだし、私が信頼しうる知識人たちの発言も、そう傾きかけていた。テレビでみる政治家たちは、いまこそ出番なように、この危機を嬉々として受け止めているような印象をうける。腹を決めて、受け入れるべき犠牲とその根拠を、国民にきちんと説得しうる論理を構築していく意志とは真逆の、流言にのった現状維持策、つまり、何もするなということを、声高にとなえるほど、勇敢な行動家にみえてくるからくり。おそらく、店の自粛要請を無視して工夫し、もらうだけのものをもらって生き延びる決意をもった個人経営者のほうが、この危機をのりこえることができるだろう。真に受けたものは、さきにつぶれていく。そんな光景は、かつての戦場の組織の間で、見受けられていたのではなかったろうか…。

 ビルの谷間の上空を、ジャンボ機がおりてくる。もう、3時をすぎているのだろう。風は強くなってきたが、都心の真上を迂回させるほどのものではないのか。この地区の上、ひくいところは、横田空域といって、アメリカ軍の管理下にあるということだった。だから、その空域の上を、旅客機は眠気を奪うとも誘うともいえそうな、中途半端な爆音をばらまき落としてくる。もうひとつの飛行路が都心よりにもうけられていて、手入れにはいっている寺の上を、便によっては相当ひくい高度でかすめていくのだった。が、3月の試運転ではひっきりなしに通っていた飛行機の数は、ここにきて、どんどん減っていき、いまは、ほんの数便が都会の上空をかすめていくだけだった。その数少なくなった便のひとつがいま、斜めにスライスされたような白いビルの上を通過してゆく。空を裂くエンジン音が、人混みの雑音にまぎれてきえてゆく。マスクをつけた誰も、その金属の塊を気にはしないだろう。

 正岐は、飛行機がすぎていった白いビルの手前まできた。デパートと一緒になった本屋にはいってみる。図書館から本が借りられず、なにか読みたい本があれば、と考えた。エスカレーターをつかって、2階の人文系のコーナーへ行こうとするが、閉鎖さされている。いつもは、そこからみはじめて、ぐるっといろいろな分野をひとめぐりする。仕方ないので、1階の柱のまわりに積まれた、新刊や話題の本が置いてあるコーナーへよる。そのいっかく、日本人の著名な人たちの書籍をあつめた棚の下の段に、平積みされた白っぽい表紙に黒の字でタイトルされた本があった。時枝兆希とあったその著作者の名前には、聞き覚えがあった。手に取って、ページをめくってみる。