「彼は移民した直後、この美術館の建設現場で働いた。完成した館内に入ったことがないというので、一緒に出かけたんだ。レンブラントやルーベンスの名画より、壁や床に見入っていた。その姿を見て思った。あの壁が彼の作品なんだ。そして、偉大な画家たちも彼のような職人だったのかもしれないと」(ペドロ・コスタ『コロッサム・ユース』/深津純子記事「陰影で映す移民の街」2008.5月・朝日新聞夕刊)
今年4月にいったソウル市庁前の広場が、米国産牛肉の輸入再開をきっかけにした反体制運動の人波で埋まっている。あのがらんとした芝生の広がりを見てきたばかりなので、何万だか何十万人だかになるデモンストレーションがそこで繰り広げられていること、この夜中にもネット生中継でその現場の様が目撃できることに少なからぬ衝撃を受ける。というか、まずは新聞記事程度のことを読んでも、なんで牛肉のことでそんな騒ぎが起きるのか、私が教養不足の日本人にすぎないからか、まったくわからなかったのだ。「豚肉の焼き肉のほうがおいしいんですよ」と、麻浦区の焼き肉やの若旦那が言っていたのを思い出したりした。日本の吉野屋でも、豚丼を代りにだしていたこともふくめて。そして、子供の頃、母親の倹約で牛肉など食べれなかった私には、そのことで友人たちから冷やかされてもいたから(「おまえはすき焼きで豚なのか!」と笑われた…)、別に牛など輸入されてもなくてもどうでもよく、それゆえ他のお客と同様、冷静に吉野屋の牛丼が復活する日を待っていればよかったのだった。そういう大人しい一般の日本人、というべきかもしれぬ私には、お隣の牛肉騒動なるものを理解するのは難しい――ということなのだろうか? そこで、ネット検索して他の人の意見をちょっとさぐってみた。レイバーネットというニュースサイトの安田さんのまとめでとりあえず納得(http://www.labornetjp.org/news/2008/1212907688368staff01/)。つまり、私は若い人のことが遠くなってしまったおじさんの部類になったのだな、と。
しかし、その韓国での騒動事件そのものとしてではなく、それと関連するかもしれぬほかの記事を同じ時期に読んでいて、ではこれとこれとの関係の問題はどうなっているのかな、という疑問はそのままなのだった。
<肥沃な土地を利用し農業や農作物関連製造業が伝統的な主要産業であるこの州は、1980年代より深甚な経済構造の変化を経験する。農産物関連生産は一部の巨大アグリビジネスに集中し、農業人口は減少する。それに代わって巨大小売チェーンに代表されるサービス業や、低賃金の製造業での仕事が増加する。若者はより大きな機会を求めてシカゴなど大都市に去り、高学歴の若者の流出は「頭脳流出」問題となって地域社会に重くのしかかる。そして社会の活力は失われていく。
ラティーノ移民の増加も、実はそんな経済変化と関係しており、なかでも食肉加工業の存在を抜きには語れない。今日、食肉生産シェアの大部分は一部の巨大アグリビジネスが握っている。それらが所有する工場は典型的に大規模であり、工場内は徹底した流れ作業(解体ライン)が敷かれている。労働組合が往時の影響力を失うさなか、効率重視の生産システムは労働環境や条件の悪化を招く。労働者は鋭利な刃物を用い、間断なく解体ラインを流れる家畜相手に一日中同じ作業を繰り返す。(眞住優助著「食肉産業とラティーノ移民」『Mネット』2008.5月号)>
たしか韓国でも、若い世代の就職難・失業状況から、中産階級の「頭脳流出(アメリカやカナダへの移住)」問題が言われていたはずだ。そしてまた、日本でいう3K労働を外国からの移民労働者に任せていることも。ソウルへ行ったときの旅行案内者は、最近になってようやく少しずつ、職業学校をでて肉体労働をする若い人たちがでてきたとも。両班意識のため、体を使う仕事が忌避されがちだとの通説もある。そういう国内事情と、とりあえずこの牛肉騒動という文脈を通して、そのアメリカの牛肉を南米からの移民労働者たちがさばいている、という構造的連関はどうなっているのだろうか? そして、もしその連関が、デモをしている「ネチズン」とも呼称される若い人たちに意識されている場合、その運動主体の在り方はどういうものとして自己理解されているのだろうか? レイバーネットでの安田氏は、「日本では小泉改革とやらにすっかり丸め込まれてしまった若者たちですが、今回の韓国のような新自由主義政策に対する若者の反発は、すでにフランスなどでも表れている世界的な現象」というが、その「反発」はどこからどこへと向おうとしているのだろうか? その「どこから」は、最近の秋葉原での殺傷事件、派遣の現場・現実から若者が起こしたとも言いうる主体の様と、同根のものなのだろうか? 韓国でのソウル市庁前でのデモの要領が安田氏が洞察する「徴兵制」の逆産物のおかげで、日本では運動部的な集団儀礼の契機もなく「まったり」人生の通過ゆえに「どこへ」とはシステム化されえてない、ということなのだろうか?
で、そうした一般的、あるいは他人事的な外からの問いと事柄が、私の現場で、その身の回りで、どのように内側につながってくるのだろうか? いるのだろうか? というか、正確には、この自分の身の回りがあるから、世界の問題がわからなくなったり考えてみなくてはならなくなったりするのかもしれないけれど……。私の現場とは、「木を見て森をみず」の職人の現場であり、身の回りとは、そこを含めた草野球の人間関係である。最近は若い人の参加が増えて、『ごくせん』とかのテレビドラマ出演者もいる。一昨日のナイター戦では、2点タイムリーの逆転さよならツーベースを打って、これで当分、若者に「オヤジ」扱いされないだろうと胸をなでおろしている。
今年4月にいったソウル市庁前の広場が、米国産牛肉の輸入再開をきっかけにした反体制運動の人波で埋まっている。あのがらんとした芝生の広がりを見てきたばかりなので、何万だか何十万人だかになるデモンストレーションがそこで繰り広げられていること、この夜中にもネット生中継でその現場の様が目撃できることに少なからぬ衝撃を受ける。というか、まずは新聞記事程度のことを読んでも、なんで牛肉のことでそんな騒ぎが起きるのか、私が教養不足の日本人にすぎないからか、まったくわからなかったのだ。「豚肉の焼き肉のほうがおいしいんですよ」と、麻浦区の焼き肉やの若旦那が言っていたのを思い出したりした。日本の吉野屋でも、豚丼を代りにだしていたこともふくめて。そして、子供の頃、母親の倹約で牛肉など食べれなかった私には、そのことで友人たちから冷やかされてもいたから(「おまえはすき焼きで豚なのか!」と笑われた…)、別に牛など輸入されてもなくてもどうでもよく、それゆえ他のお客と同様、冷静に吉野屋の牛丼が復活する日を待っていればよかったのだった。そういう大人しい一般の日本人、というべきかもしれぬ私には、お隣の牛肉騒動なるものを理解するのは難しい――ということなのだろうか? そこで、ネット検索して他の人の意見をちょっとさぐってみた。レイバーネットというニュースサイトの安田さんのまとめでとりあえず納得(http://www.labornetjp.org/news/2008/1212907688368staff01/)。つまり、私は若い人のことが遠くなってしまったおじさんの部類になったのだな、と。
しかし、その韓国での騒動事件そのものとしてではなく、それと関連するかもしれぬほかの記事を同じ時期に読んでいて、ではこれとこれとの関係の問題はどうなっているのかな、という疑問はそのままなのだった。
<肥沃な土地を利用し農業や農作物関連製造業が伝統的な主要産業であるこの州は、1980年代より深甚な経済構造の変化を経験する。農産物関連生産は一部の巨大アグリビジネスに集中し、農業人口は減少する。それに代わって巨大小売チェーンに代表されるサービス業や、低賃金の製造業での仕事が増加する。若者はより大きな機会を求めてシカゴなど大都市に去り、高学歴の若者の流出は「頭脳流出」問題となって地域社会に重くのしかかる。そして社会の活力は失われていく。
ラティーノ移民の増加も、実はそんな経済変化と関係しており、なかでも食肉加工業の存在を抜きには語れない。今日、食肉生産シェアの大部分は一部の巨大アグリビジネスが握っている。それらが所有する工場は典型的に大規模であり、工場内は徹底した流れ作業(解体ライン)が敷かれている。労働組合が往時の影響力を失うさなか、効率重視の生産システムは労働環境や条件の悪化を招く。労働者は鋭利な刃物を用い、間断なく解体ラインを流れる家畜相手に一日中同じ作業を繰り返す。(眞住優助著「食肉産業とラティーノ移民」『Mネット』2008.5月号)>
たしか韓国でも、若い世代の就職難・失業状況から、中産階級の「頭脳流出(アメリカやカナダへの移住)」問題が言われていたはずだ。そしてまた、日本でいう3K労働を外国からの移民労働者に任せていることも。ソウルへ行ったときの旅行案内者は、最近になってようやく少しずつ、職業学校をでて肉体労働をする若い人たちがでてきたとも。両班意識のため、体を使う仕事が忌避されがちだとの通説もある。そういう国内事情と、とりあえずこの牛肉騒動という文脈を通して、そのアメリカの牛肉を南米からの移民労働者たちがさばいている、という構造的連関はどうなっているのだろうか? そして、もしその連関が、デモをしている「ネチズン」とも呼称される若い人たちに意識されている場合、その運動主体の在り方はどういうものとして自己理解されているのだろうか? レイバーネットでの安田氏は、「日本では小泉改革とやらにすっかり丸め込まれてしまった若者たちですが、今回の韓国のような新自由主義政策に対する若者の反発は、すでにフランスなどでも表れている世界的な現象」というが、その「反発」はどこからどこへと向おうとしているのだろうか? その「どこから」は、最近の秋葉原での殺傷事件、派遣の現場・現実から若者が起こしたとも言いうる主体の様と、同根のものなのだろうか? 韓国でのソウル市庁前でのデモの要領が安田氏が洞察する「徴兵制」の逆産物のおかげで、日本では運動部的な集団儀礼の契機もなく「まったり」人生の通過ゆえに「どこへ」とはシステム化されえてない、ということなのだろうか?
で、そうした一般的、あるいは他人事的な外からの問いと事柄が、私の現場で、その身の回りで、どのように内側につながってくるのだろうか? いるのだろうか? というか、正確には、この自分の身の回りがあるから、世界の問題がわからなくなったり考えてみなくてはならなくなったりするのかもしれないけれど……。私の現場とは、「木を見て森をみず」の職人の現場であり、身の回りとは、そこを含めた草野球の人間関係である。最近は若い人の参加が増えて、『ごくせん』とかのテレビドラマ出演者もいる。一昨日のナイター戦では、2点タイムリーの逆転さよならツーベースを打って、これで当分、若者に「オヤジ」扱いされないだろうと胸をなでおろしている。