2019年2月25日月曜日

世界システム論で読む少年サッカー界(2)

予想よりも早く、世界システム論で解析した少年サッカー界の矛盾が、現象として露呈しはじめたようである。

来季、上級生本大会である東京第7ブロック(新宿・渋谷・目黒・千代田・文京地区)のリーグ戦への参加辞退チームが多く、これまで通りのA〜Dの4リーグ制ができなくなりそうだというのである。すでにいくチームかは不参加だったのだが、今回はそれに加えて一気に5チームが参加できなくなった。自身が現場の一チームのコーチでもある理事担当は、板挟みにあったように、辞退再考の要請といくつかの対処提案を、急きょだしている。各リーグ最低9チームを、というのが規約だそうだ。人数抱えた強豪チームが、2チームだしたりするようになっていたのだか、もうそれでも限度になってきているのだろう。
ちなみに、私が属するチームは、その地区の小学校単位で成立していた4チームが合同チームを作って参加することになる。それは賛成なのだが、その方針、一軍と二軍に分けて、こちらの優秀選手が移籍していく強豪クラブに勝つぞ、練習も2時間じゃなく3時間、練習試合や合宿もするぞと、私にはついていけない。その新自由主義的なエリート根性が、上のような事態を招いているのに。ナデシコ日本代表キャプテンだった宮間選手は、大差で負けてばかりのチーム監督の父親に、「こんなに負けてていいの?」と、子供心に質問したそうだ、「小学生時代は、サッカーはそれでいいんだ」とパパ監督は答え、大人になってそれがわかったといっていた。なんで、そうした先見の明ある知性的態度が、スポーツからなくなってしまったのか?
サッカー協会は、少年たちが、その位の本試合をこなしていかないと、日本は世界のサッカーレベルから取り残されてしまうと、客観的に認識したのかもしれない。その蓋然性はある。だから私は、まずは負けを引き受けることを認めよう、と言うのだ。負けられない戦いがある、とコマーシャルはいつも洗脳している。なら、いつ負けるの? 今でしょ、と言いたくなる。テクニックの、ボールコントロールの質の違う若手が日本代表で目立ちはじめたが、以前の代表より強くなっているか? まだ未定に見えるが、私は弱くなっていくと思う。

しかし沖縄の県民たちは、覚悟ができてきたのだろう。辺野古基地建設を強行する大勢に逆らったら、経済的な打撃、嫌がらせを被るかもしれない。が、そんな目先の利害、勝利よりも、自分たちの気概で生きる選択を意志したのだ。それだけが、将来を真に建て直していく力であると。
私たち本州人は、そんな覚悟ができるだろうか? 負けを引き受ける認識が持てるだろうか? 私たちが、北朝鮮(中華圏)の属国にたとえなろうと、自暴自棄な歴史を反復することなく、真に反撃しうる正当な文脈、つまり私たちの真正な気概を見出し握持できるだろうか?

2019年2月10日日曜日

世界システム論で読む少年サッカー界

「「長期の一六世紀」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションは、近い将来か、あるいはすでに進行中のこととして、自由な交通空間の開拓や実験という志向性に屈折がもたらされ、管理された全体性の空間へと求心的に凝集し、その帰結として構築されたシステムは、なんらかの独話的な普遍性によって理念的に閉じることになるだろうという見通しだった。
 対して「グローバリティの句切れ」との類比から示唆されたのは、現在のグローバリゼーションが、本源的生産要素、さらにはその背後にある人間、自然、信仰といった、むしろわれわれの生の本源性そのものにかかわる概念の再定義の過程をめぐって激しい政治的なバーゲニングが展開されるだろうという見通しであった。
 二つをあわせて近未来のグローバリティのかたちに対する示唆を引き出すなら、今後グローバルな空間が求心的に閉じられていく際に、人間、自然、信仰にかかわるなんらかの新しい定義が、その秩序を定める規準として理念化されるだろうと思われる。たとえば、遺伝子操作の可能性を包摂した拡張的な生物学的人種主義に基づいて境界を画定された「世界」や、特定の生態系に密着するかたちで閉鎖的かつ持続的な物質循環の系を構成する「世界」、あるいは宗教の厳格な共有を基底におくことで閉じた相互扶助の体系を成立させる「世界」もありえよう(こういった諸々の可能性は、部分的にはすでに実践されていることでもある)。またいずれかひとつの規準ではなく、複数の規準の組み合わせによるケースも十分考えられる。
 重要なことは、そのような規準がどのようなかたちで結晶化するにせよ、それが交通空間を求心化させる理念へと転化するならば、現在グローバリゼーションと名指されているこの過程は、今後おそらく数十年程度の時間で、理念的な空間認識の次元において、相互に不可視化しあうような複数のシステムの併存というかたちになることが、比較的高い可能性として予想できるということである。それは、かつての近世帝国の「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された、いわば「新しい近世帝国」とでもいうべきものに近いのではないかと思われる。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社)

参加している少年サッカー・チームのコーチとして派遣されている、その地区の連盟理事会から、2年で退くことになった。サッカーから身を引く前段階準備であると同時に、なんとかして所属チーム自体を改善させていくための、内輪コーチ間での政治的駆け引きの前手段という機能もはらませているが、どうにもならないだろう。結局は、目先結果主義のために修行のような練習を積んで、いま見かけ上手な運動能力高い子供たちを先発固定として出場させていくという、いわば古典的な日本部活動方針に、私が屈服した、ということになるのだろう。私が息子たちと最終学年代をやっている時には、まさに政治力でそうした考えのコーチを追い出したり黙らせたりで、東京7ブロックの40チーム中40位くらいからはじめて、10位くらいまで成績をあげ、理事会でもちょっとした騒ぎになったのだった。が、それがどうしてなのかわからないコーチ陣は、その結果勢いに乗じて、なおさらのように部活動主義でやろうとした。その際の激論で、コミニュケーションをとれば解決できると私を諭していた、相変わらずの方針に楯突いた東大サッカー部出身のコーチは、息子と去っていった。池上正論に共感しているコーチは、調停役として黙り、私はそれでやってみろ、と現場の一線から身を引いて、理事に引きこもった。そして案の定、チームは自壊した。桑田選手が去ったあとのPL学園を連想する。勇ましかったコーチたちは、世間体な顔だけは保ちながら、逃げようとしている。後からきたパパコーチに、後をまかせたくとも、自分たちでチームを仕切りたくて排除していたのだから、今更なそんな暗示に乗って来ない、どころか、よその強豪チームに移籍していく。運動能力の高くないモチベーションのはっきりしない子供たちは、低学年の頃から「見放され(あるコーチ自身の言葉)」ている。だから、すでにやめていっている。来期は、全学年で、十人に満たないのではないか?

しかし、どうしようもない。が、このどうしようもなさには、一チームの内輪もめを越えて、世界システムの変換期という歴史事態が、反映されているのではないか、と思えてきた。

もし、いまなお、日本サッカー協会の少年サッカー大会への指示方針が、私が結果を残した時期のままだったら、私一人の政治力で、チームを建て直すイメージ、方策は実現できた。が、少年サッカー大会で手始めにはじめられた「リーグ戦」初年度の当時とは、もう状況が変化、その「世界(リーグ戦)」化へ向けての方針が、実務的に徹底化されているのだ。

・リーグ戦二十試合(約半年程で)程度の確保の徹底化。つまり、リーグ戦参加チーム数の確保要請。及び、都リーグから各地区内A〜Dリーグ差別化のほぼ固定化。(初年度は、リーグ戦10試合に、トーナメント予選の全日本大会があり、その予選勝ち抜いた10チームが、決勝リーグを争い、上位4チームが都大会へ。つまり、チーム力のないチームは、年10試合程度の本大会ですんだ。)
・ホーム用、アウェー用ユニホームの保持の義務化。
・ベンチ入りコーチ2名のコーチD級ライセンス所持の義務化。

上規定が現場に降りてくるとはどういうことか? 4月の春休み早々から大会はじまり、ほぼ毎週土日に正式資格を持ったボランティア・コーチ数名が試合に帯同しなくてはならなくなる。もちろん、4級審判資格を持って試合数だけ審判する。相手チームの顔ぶれはいつも同じになり、下剋上の道筋は細くなっているので、モチベーションもあがりにくい。しかも、成績反映は去年の学年のものを受けてなので、たとえ今年粒がそろっていても、一気には上へ這い上がれない。専属コーチに運動能力高い子供が集まる地域を越えたクラブチームが、安定的に優位になっていく循環構造(子供もそこに集まる)ができあがる。
ゆえに、現場では、「コーチが重労働になり、資格更新や大会参加費の金もかかり、地元の弱小クラブはやってけねえぞ」、と不満の声があがることになる。

これは、本当に、日本サッカー協会の方針なのだろうか?

コーチD級ライセンスの取得講習会で、最後に協会作成のDVDを見せられる。講習講義では、池上正理論・方針で熱烈暴力的コーチを抑制させていくような内容なのだか、DVDの最後は、確かヨーロッパの著名監督の名言、「名コーチとは、選手の魂に、火を焚き付けられる者のことである」、と字幕がでる。これは、矛盾ではないのか?

もちろん、池上風楽しむサッカー基盤からも、子供に火を焚き付ける道筋はあるだろう。が、そのままの結合は、現状では、説得的な理論としては、短絡的になるのではないだろうか? 楽しむと火(戦う/勝利)を結びつける理論文脈が、もう一つ二つ必要になろう。が、私がここで問題にしたいのは、その統合的な理論ではなくて、その矛盾そのものだ。果たして、サッカー協会は、この矛盾に気づいているのだろうか?

考えられる状況は、いくつか論理的に出てくる。
(1)官僚主義的な部署住み分けとしてある考え方の違いの、単なる並列同居。子供への育成部門、グラスルーツとしてのサッカー普及部門、日本代表に連なるトレーニング追及部門、とかの折衷的な教科書(方針)作成。
(2)うえ(1)の、子供への育成方針と代表育成方針との、まだ決着のつかないヘゲモニー争い途上としての矛盾表出。たとえば、岡田元代表監督は、子供の育成方針に対し、ヨーロッパでは勝つこと目指さないプレイヤーズ・ファーストだなんて日本ではいってるけど違うよ、あっちはガチガチだよ、というような発言をTVでしていた。それは、あきらかに育成部門方針に関与していた、池上基盤への批判ではないだろうか? 協会内部に、ヘゲモニー争い、イデオロギー闘争はあるのか? または、方針を理論・哲学的に追求・フィードバックしていく部署・人材はいるのか? ない、いない、となると、(1)の現状でしかない、ということになる。

私は、おそらく(1)であろうと推定しているが、その現状が、歴史の推移に押し流されて、(3)になろうとしているのではないかと認識する。(2)が現状であるならば、歴史の進行を利用して、戦略的に(1)の住み分けを徹底化させて、価値方針としては代表に絞っていかせる(3)の途上としての矛盾。

(3)暴力的に要約すれば、池上理論とは、敗戦後日本へのGHQ政策の延長にある。二度と世界へと戦争しかけないようにと、サムライ魂を骨抜きにしていこうとする教育部門での占領政策である。池上氏は、学生指導でぶん殴った反省(反動)として、その後の考えを確立したのである。一方、野球部からサッカー部へと転向した岡田元代表監督に象徴されるように、サッカーには反軍隊方針、いわば戦後民主主義的な価値が挿入されているわけだが、ロシア・ワールドカップから森保ジャパンで見えてきたのは、まさに部活動主義である。岡田ー西野ー森保、と早稲田大学サッカー部の先輩ー後輩関係だ。そしてこれからのワールドカップを乗り切っていこうと提示された戦術例が、先発ー補欠のような選手起用である。6人交代枠があるキリンチャレンジカップで、経験値のある相手監督は今の時期だからかは知らないが、みな使いきるのに、未経験なはずの森保監督は、二人ぐらいしか代えない。「なんで?」と乾選手はきいたそうだ。これはおそらく、世界には稀な特異な事例なのではなかろうか? そうではない、と事例で反論する記事もみかけたが、その検証はおいて、ソフトな軍隊主義なのではないか、という私の見立てで論を進める。
そうだとすると、対立するかに見える二つの価値は、同じ価値のポジとネガだ、ということになる。
が、(3)として私が言いたいのは、そうした認識前提に立った上での、その先にある。これまでは、戦時(軍隊/部活)体制のポジとネガ、それを矛盾のまま同居させていてもすんだかもしれない。が、少年サッカーの大会規定徹底化への動きとは、もうそんな曖昧な誤魔化しのままではやっていけないのではないか、という危機の現れなのだ。小学高学年では最低二十試合しなさいという要請は、そうしないと世界に追いつけないという切迫さからきているのかもしれない。「リーグ戦」文化の導入自体は、まだヨーロッパの模倣教育、敗戦への反省段階だった。生きて虜囚の辱めを受けず、という玉砕的トーナメント思考から、捕虜の人間的扱いという国際ルールへの転換、島国日本よりも血なまぐさい大陸史の論理、負けても次があると規定しないと本当に絶滅されてしまう現実回避のための倫理的要請、命題。が、ロシア・ワールドカップに当たり、次会の参加枠拡大方針などを目の当たりに、ヨーロッパの監督から学びながら、などという余裕を失ってしまう、なんらかの現実情勢をサッカー協会は感受したのだ。その新しい歴史転換に乗り遅れまいと、なり振りかまわず、手っ取り早く遅れを解消するかもしれぬ戦術として、先輩(先発)ー後輩(補欠)という使い慣れた方策が採用されたのではないか? だからそれは、もはや根底となる価値(イデオロギー)ではなく、手段に過ぎなくなったのだ。根底の価値とはもはや、おそらく、そう迫ってきたEUとしてのヨーロッパ資本世界そのものなのだ。そしてそれとは別個に、グラスルーツとしての、幅広く楽しんでやるサッカー普及がある、とした。現状の少年サッカー大会方針が行き着かせる先は、池上的にやる地元チームは大会からは辞退してもらってグラスルーツ枠へゆき、代表に連なる本大会は金銭的にもしっかりしたクラブチームに絞っていく、そうした明確な区別である。草サッカー的な価値方針の世界とは、言ってみれば、プレイヤーズ・ファーストとしての、アメリカ(イギリス=アングロサクソン的な)・ファーストな鎖国的世界である。CO2削減のために世界的枠組を作ろうとするヨーロッパとアメリカの対立は見えやすい事例だが、もちろん、アメリカがヨーロッパ中心のFIFAを裁判に訴えてサッカー利潤を分与させようとしたかのような事件も生々しい。つまり、日本の末端の街クラブでさえ、生き残りをかけた世界情勢に振り回されているのではないか?

冒頭で引用した山下氏の「世界システム論」が、その理論的な把握となる。敷衍的に単純化すれば、サッカー界の中での曖昧な住み分け(誤魔化し)ではなく、別なルールに従う別なサッカーとして、お互いが不可視化=無交流化される、ということだ。従う世界自体が違ってしまうのである。しごかれてサッカー(スポーツ)が嫌になっていった者たちや、オリンピックやワールドカップに反対する民衆の世界も露呈している。彼らの抗議があるということは、なお交流が前提とされているということだが、もはやそれもなくなり、自ら従属していく世界の外が、見えなくなるほどにまでゆくというのである。しかもその世界は、一国に閉じられていく趣味的なものではなく、複数あるうちの一つの帝国に従う現実政治的なものなのだ。江戸時代の鎖国が、実は中華帝国内での交通に開かれて閉じられていったように。が「新しい近世帝国」とは、地政学的な住み分けにはとどまらず、「「伝統的」な普遍性のかわりに、生の本源性の名において設定された理念の共有によって構築された」ものになってゆく。なっていったとき、なお私が少年サッカー・クラブにたずさわっていたならば、私の周りには、運動が得意でなくとも笑顔で頑張る子供らしい子供たちの姿は、もう見当たらないのかもしれない。

2019年2月6日水曜日

江戸の明るさ/暗さーー(3)


「この空のようなあっけらかんとした絶望感が、江戸市民の心の大半を占めていたのではないか……。明るい絶望感というとちょっとおかしいかもしれないのですが、絶望に近いほど明るい、そういった湿り気のなさ、その感覚に、東京人である私たちが共感を覚えた時、東京もまた江戸へとたどりつく事になるだろうと思っています。」(『江戸へようこそ』杉浦日向子著 筑摩書房)

「江戸時代に関するイメージは、ひと昔前まで、一口で言えば暗いものだった。いわく搾取と貧困、鎖国、義理人情、そういった言葉がこの時代を表す常套句であった。…(略)…他方で、現在の江戸時代に対する世論は、大きく変わった。一種の「江戸ブーム」とも言える風潮の中で、賛美に近い評価さえ出てきている。…(略)…「江戸暗黒説」から「江戸礼賛説」へという江戸時代像の変容には、この三十数年間に生じた内外の社会的変動も関係しているのだろう。七○年代末の社会主義国家中国における改革開放政策の開始、八○年代の日本の高度経済成長とバブル崩壊、八九年のベルリンの壁崩壊とそれに続くソ連邦解体は誰もが予想しなかった大きな出来事だった。こういった過程のなかで、江戸時代暗黒説は次第に影を薄くしていったのである。」(『歴代のなかの江戸時代』速水融著 藤原書房)

「いま日本の論壇は、一種の「江戸時代ブーム」が真っ盛りです。江戸時代というのは、少なくとも初めと終わりを除けば、何かとても幸せで、平和で、日本古来の文化にあらゆる層が浸ることができた時代であった、と。とくに文化史では、そうした面が強調されがちです。しかし、歴史人口学の立場から言えば、江戸時代がそう語られるほど幸せな時代だったとは決して言えません。…(略)…例えば平均寿命。諏訪地方の例で言えば、十七世紀前半で平均三十歳未満です。それが幕末になると、おおよそ三十歳代後半ぐらいまで伸びる。明治期になると、四十歳前半というところです。実際は、もっと長く生きた人もたくさんいたわけですが、平均寿命がこうした値になるのは、疫病などで働き盛りの二十代、三十代の死亡が多かった一方で、一歳、二歳といった乳幼児の死亡がとくに多かったからですね。」(同上)

「そのとき彼らは異人たちと初めて出会ったかに感じた。もちろん長崎出島にはオランダ人が居て、時折は江戸へ出かけて来た。だが、彼らと接したのはほんの一部の日本人で、オランダ人は目を楽しませ珍しい話を伝えてくれる、珍奇な風物詩にすぎなかった。しかし、いま押し寄せて来るヨーロッパ人はほとんど津波と言ってよかった。彼らはこの異人たちと、ニ○○年の昔繁々と交わっていたことを、すっかり忘却していたのだ。
 彼らがヨーロッパと初めてコンタクトしたと感じたのは、ヨーロッパがその間変貌していたからでもある。それにはアメリカという出店までできていた。だが事実を言うなら、これはセカンド・コンタクトにすぎなかった。お目通り、すなわちファースト・コンタクトはニ○○余年前にすんでいたのである。それも行きずりに眼が合ったというのではない。一○○年にわたる濃密な交わりがあった。最後には彼らの信じる神をめぐって血が流れた。だがそれ故にこそ、ファースト・コンタクトは忘却された。いや、忘却させられねばならなかった。一○○年にわたる”日本におけるキリシタンの世紀”は、徳川政権の徹底的な記憶抹殺の営為によって忘却された。その徹底ぶりは十八世紀初頭、新井白石がシドッチを訊問した際、キリシタン関係の資料を参照しようとしても、ごく僅かな断片しか入手できなかった一事に示されている。」(『バテレンの世紀』渡辺京二著 新潮社)

「先に述べたように、グローバルな「長期の十六世紀」の後半期の特徴は、リスクに対する態度の変化である。急成長する経済社会の背景に、さまざまな可能性を錯誤するような交通の拡大の時代は終わり、交通の回路の制度化が進んだ。
 これは、一般的にも予測のできる成り行きではある。要するに、試行錯誤がある程度行われた結果、ペイするルートとしないルート、リスクの高いルートと低いルートなどの分布状況が結晶化されてきたわけである。すると当然、ペイしないルートやリスクの高すぎるルートは放棄される。また放棄されずに維持されたルート間でも序列化が進む。そしてその結果として一定に達した交通の回路が権力の管理下に回収される。「長期の十六世紀」の前半期の交通の拡大が、基本的に開拓であり、実験であり、またそういった意味で自由であったのに対して、後半期の交通の拡大は、基本的に選別であり、制度化であり、またそれを通じての権力による増収圧力の強化である。…(略)…そしてこのような管理の強化は、ひとつの重大な帰結をもたらした。それは、地域的な求心性の形成と名指すことができる。交通の管理化によって、空間的想像力の固定化が生じ、地域的な規模での中心に投影された普遍性を分有する範囲で「世界」が完結してしまったのである。」(『世界システム論で読む日本』山下範久著 講談社)