2022年12月31日土曜日

『対論 1968』(笠井潔・絓秀実・外山恒一著 集英社新書)を読む


 「対論」を行なっている笠井潔氏と絓秀実氏の作品は、1980年代後半頃の早稲田大二文の学生であった時から、読んではいる。が当時、その二氏が活動家だったということは知らなかった。あくまで、文学なり思想的な営みの延長として受容していた。それどころか、早稲田大の文学部の講師として、絓氏が授業を持っていたということにも私は気づかなかった。四年生のとき、文芸創作科の講師としてジャーナリズム専門学校からやってきた渡部直己氏の講義を受けていた時、柄谷行人氏の「探究」とともに面白く読んでいた「文学の隠喩」というタイトルで文芸誌連載していたその絓当人がこれまでは授業担当していたのか、とはじめて気づいたのだ。

そもそも、私は大学を相手にしていなかった。夜学を選んだのも、大学には行く気はないが、読書時間という暇が欲しかったからだった。私の現在進行形的なジャーナリズム界に関わる書籍の読書は、浪人中出版された柄谷行人氏の『探究Ⅰ』からだった。高校受験の延長で古典ともなった近代文学は読んでいたが、意識的に読み始めたのは小説ではなかった。中上健次の作品も、柄谷経由だった。自分の分裂病的常態を言語化整理・克服するために、野球馬鹿から読書世界に入っていったので、直接的な自己意識化以外のことをやる余裕はなかった。ただ、考えていた。そして直接的な言語化だけではすまない自己意識の方が大きかったので、書くことの主要は小説になり、卒論も創作を提出した。

 

そうしたなかでも、当時はまだ自治会も学園祭もあったのだから、政治活動する学生とは触れていただろう。新入生のクラスには、授業がはじまる前にビラを配り、教壇に立って、政治的な何かの話をしたあとで、席に着いた一年生のもとへ意見を聞いて回る姿があった。私の所にも、硬い表情をした女性が来て、何か質問をしてきたことがあった。その一つ一つに、司馬遼太郎だのの、引用で答えていた。で何かの質問に、柄谷の作品から引用して答えたところ、突然その女性は目を見開いて表情が変わり、「あなたは柄谷を読んでいるのか?」と聞いてきた。「読んでちゃわりいのか?」と、長い尋問を打ち切りたいような口調で返したとおもう。彼女は口ごもり、そして先生が来たので、教室をあとにしただろう。この「対論」の知識からしても、彼女は革マル派、ということになるのだろうか? その後も、構内で彼女を見かけて目があって話しかけたそうな雰囲気に会うこともあったが、私はうざったく感じていただろう。

といっても、私も絓氏と同じく旧制中学から高校になった地元の進学校出身だったので、いわゆる左翼的な活動をする生徒たちと無縁だったわけではない。群馬の高崎高校は、学生運動盛んな当時において一番過激な高校の一つだった、と国語の教師は発言していた。その名残りは、君が代斉唱で拍手をしたり、国旗掲揚で背を向けたりといった、意志表示をする生徒が幾人かでることに現れてもいたのだろう。そしてそういう生徒たちは、先生たちからも意識の高い者と評価され、一般の学生にも一目置かれていたと思う。で大半は、当時同窓生でもある総理の中曽根が講演に来たときなどは、全校生との記念撮影時には、「いなごの大群」(あとでの中曽根の表現)のごとくその現役総理の身の周りに寄り付いていったものだった。佐藤優氏が、浦和高校のことで、すでにそこの優等生たちに官僚的な振る舞いがあるのだと指摘していたと思うが、私もそこが鼻についたことだった。早稲田大では学費値上げ反対闘争とかで、試験の中止が幾度かあったが、そうした認識の延長で、大学に居る必要もなく感じる私には、一般の学生も意識高い学生も同じであって、親が払うってのだから払わせておけばいいだろう、敵はまず親だろう、そこまで本当に嫌ならば、払わないで退学していけばいいだろう、と思っていた。

 

大学卒業後、だめ連の集会にも参加したことがあるが、それを主催する中心人物の二人が、二文の同級生であったことなども、私は知らなかった。

 

私がこのような本を読むのは、以上のように、いわば「知らない」からだが、そこには、覚えられない、という事態もがはらまれている。私は、たしか絓の『革命的な、あまりに革命的な』の作品だったか、ベンヤミンの割れた壺の破片の復元の比喩を喚起させながらも、重箱の隅をほじくっているようでもある、と感想をこのブログでか綴った覚えがある。何も知らない者にとっては、小熊英二氏の『1968』でもまずは必要だと。しかし知識以前に、もっと根源的なわからなさ、があるような気がする。左翼運動の諸党派の違いの、どこに意義があるのかわからない、といおうか。自民党の派閥の系譜がよく覚えられないのとも似ているが、もっと根底でわかりにくい。それは、「労農派」と「講座派」の違いが、私には、いつもこんがらがってしまうのに近い。そこには、人脈だけでなく、なんでそこで、その認識で明確な差異が線引きされるのかが腑に落ちてこない、という感覚がつきまとうからだろう、と思われる。

 

たとえば、柄谷は、労農派なのか、講座派なのか? 私には、そういう党派的用語(区別)を使用するならば、両方ともに、としてしか理解できないからである。宇野弘蔵の影響が強いからといっても、その日本把握には、講座派的な認識があるとしか思えず、その線引きに、本当に真理把握のための枢要があるのか疑念を抱いているのだろう。

 

佐藤優と池上彰の左翼概説史の新書も読んだ。その二人がこの新書を上梓したのは、どうもまた左翼の暴力性が若者に浸透し、影響力をもって惹起してくるのではないか、という危惧によるようである。それは杞憂だろう、と思っていたが、私がこのブログで書いた『NAM総括』の感想に、著者の吉永剛志氏が自身のブログで私を“糾弾”しているのを目にすると、もしかして杞憂ではないのかも、と思い始めた。とくにコロナ災害やウクライナでの戦争にまつわる左右両陣営ともにの同じ暴力肯定(コロナ統制とゼレンスキー・ウクライナ頑張れ)への世論迎合と相まって、私にもその危惧が共有されてきていると感じる。

 

この「対論」は、ロシアの侵略ではじまったウクライナでの戦争までは射程にはいっていないが、「暴力」の再評価、という視点を大きくだしているといえよう。

 

<我々を苦しめている空虚感や不全観は、親たちの世代が本土決戦に日和見を決め込んで延命し、擬制の「平和と繁栄」を謳歌してきたからではないのか。すでに全共闘運動は戦後民主主義/戦後平和主義/戦後啓蒙主義の三位一体を攻撃していた。こうした全共闘の戦後批判を徹底化し、異次元に飛躍させるものとして革命戦争論は提起されている。>

<アメリカでも西欧でも日本でも、「68年」の時点で群衆化が著しかったのは大学キャンパスだった。しかし資本主義の21世紀的な変貌の結果、階級社会の本丸としての労働者階級は解体、全社会的な規模で群衆化が進行し始めた。それは一方で2011年以降の国際連続蜂起をもたらしている。他方で群衆の政治的ロマン主義は、ナチズムに組織された過去を反復するように、今日ではトランピズムに代表される右翼ポピュリズムと新排外主義に動員されつつある。群衆の政治が機械原因論の呪縛を越えることができるかどうかも、「68」から持ち越されてきた課題といえる。>(笠井「反復と逸脱――「68年」から持ち越されたもの」)

 

私には、「本土決戦」というあり得た歴史の現実性と、赤軍派に行くような学生たちの現実化した暴力を同じ文脈で捉えてみせる思考にははっとさせられるが、そのままでは容認できない検討の余地を感じる。笠井は、「どんなわけで、日本にだけ“転向論”が生まれたのか?」と問うているが、それこそ、広義の意味で、天皇制があるからなのではないか。いまテレビで、スマホで簡単に転職できます、という宣伝が大量に流されているが、それでも、日本人の多くは、一度所属してしまった場所からの転属に、強いわだかまりを抱くだろう。だから、世間知のない若いヤンキー系の人ほど、それをふっきるように、ばっくれる、という行動にでる。がそれも、帰属しているところからの離脱に裏切っていくような圧力がかかって、負い目を感じさせられる現状があり、最近の言葉でいう「同調圧力」というその無意識的な制度性は、相も変わらずであろう、と私は講座派的に認識する。だから、その帰属先へと矛を向け返す、「本土決戦」から本土攻撃へのような転回は、地続きであるとするような、同じ文脈としては把握できないのではないか、と感じる。やはり、柄谷がマクベス論で示したように、言葉を使うインテリ環境に偏重された観念性の、主体を越えてやってしまうという関係の現実性の向きの方が強いだろうと認識する。どこか体育会系運動部の閉鎖関係からくる暴力性と類比的なところがあっても、運動部では、死ぬまで殴る、とは行きにくいだろう。こいつとは考えが違う、という前提が、そこではないだろう。あくまで、先輩後輩でも仲間のままなので、手加減が生じる。

 

*現今ウクライナは「本土決戦」をやっているが、硫黄島の戦いのようなマリウポリの防衛では、日本人のように玉砕はしなかった。この<投降と決戦続行>と、日本の<玉砕と決戦放棄>との対比で、どちらが「暴力」を貫徹し回避しているのかは、一概には把握できないということにならないだろうか?

 

しかし笠井・絓両氏とも、「そもそも自分たちのことを知識人とか」「思ってもいない」ということだ。私は『NAM総括』の感想で、組織創立のそもそもから、中心(柄谷、知識人)において分裂があって、それが金太郎飴の構造となって、どこを切っても「知識人と大衆」ともいうべき温度差が貫いており、そこの亀裂が拡大波及した、というもう「一つの見通し」(岡崎乾二郎)をあげた。それは言い換えれば、柄谷からの距離、イロニー、茶化しが「高幹部」となるべき人たちの間にあったこと、その一般参加者には知り得ない事態が根本の原因にあったのではないか、という示唆である。絓は、NAMの中堅幹部であったろうような私のような人物がいて柄谷(組織)は大変だったろう、と言ったそうだが、それに参加していたはずの自身は、どこにいたのか? その私への発言こそが、私のもう「一つの見通し」が正しいのではないかとの傍証を与えている。少なくとも、ネット・メールでの炎上を恐れることもなく、一般の会員とともにその間で言動返答していたのは、柄谷と岡崎氏だけだった。もちろん、この見立てには、いわゆる「知識人と大衆」という枠組みは破棄されており、その上で、他に言いようがないので、積極的に関わるプロジェクトの人≒知識人と傍観的な参加者≒大衆、という既存用語を使用したのである。柄谷も岡崎も、大衆とともにあることを厭わなかった。「知識人」ではないという絓は、どこにいたのか?

 

この「対論」でははっきりと言及しているとは言えないが、そもそも当時の柄谷の言論思想に、両氏には異議があった、と推定はできるだろう。とくには、最近になって、立場の違いが開いてきた、ということであるのかもしれない。柄谷が柳田を引用したり、9条を前面に出したり、戦後民主主義に依拠しているようにみえたり、災害ユートピアを喚起させる交換Dなどの概念を作ったり、という点であるかもしれない。しかし、絓も天皇制の問題など、「憲法を改正して天皇条項を破棄すればいいだけの話」というように、その改正を前提にするならば、9条を抽出してそこを擁護し押し出す、ということは、戦後憲法の成立事情に伴う天皇と9条はセット、という問題規制は実践的には意味をなさない。単に、実際的な改革順番の問題になるだけだ。柄谷自身は、天皇を肯定するとも発言していないだろう。朝日新聞に書評を書いていても、だから戦後民主主義の枠でいいのだ、とも言っていないだろう。言わない、ということは日和見ではあるが、実践的に必要な段取り戦術なのかもしれないではないか。また、柳田と交換D(災害ユートピア)の問題は、フロイトの理論仮説と関わってくるだろうが、絓は確か、フロイトの理論は「ほら話」だ、と説いていたと思う。私には、そうした認識のあり方に、柄谷に対する茶化し、同時に、かつて柄谷が、絓と渡部はなんであんなにも上機嫌なんだ、と批判していたところに伺える洞察がその「ほら」認識にも当てはまってくるのではないか、という気がしている。

 

柄谷は、『世界史の構造』でであったか、民主主義は封建制から生れる、というような認識を示し、職人の親方と資本主義の社長は違うんだ、みたいな文脈を導入していたと思う。活動なり政治運動のことなど全く知らない私がNAMに参加したのは、自分の病気を治癒していくに役立った著作活動をしてくれた人へ恩義を感じたからである。その人物がやるというのなら、「いざ鎌倉へ」と、私ははせ参じたのだ。このブログでも言及したが、大澤真幸氏が考察した鎌倉時代の天皇への謀反のあり方にこそ社会変革可能性の道筋があると私も感じる。戦後憲法の天皇条項を削除しても、広義の天皇制の問題はなくなりはしない。が、もう天皇の名によってごまかすことができないことによって、その問題がより露呈する。そのとき、それは否定すべきものであると同時に、生かすべき自分たちの素材であることが、はっきりするだろう。

 

9条は、切腹である。日本人は、これをもって、戦争する世界や人間と戦う、と決めたのではないか?

2022年12月24日土曜日

考える葦


人間は考える葦である、我思う故に我在り、とは、文字通りな意味でそうなんだな、と思う。すなわち人は、考えられなくなったら、死んでしまうのだ。ダンサーは体を動かすことで、絵描きは絵を描くことで、物書きは物を書くことで、考えている。踊れなくなる、描けなくなる、書けなくなることは、そのままで死に直結する。踊らなくとも、描けなくとも、書かなくとも生きていられて在るのなら、その人はダンサーでも絵描きでも物書きでもなかった、ということだ。そういう職についているかどうかは、関係がない。そしてそういう風に、人間は生きている。すなわち、考えている。どんな人間でも。そこには、なおジャンルとして定かでもなく、また世間に公認される必要もない仕草もあるだろう。しかしどんな人間でも、考えることをやめてしまうことは、死へと直結する。考えるゆえに我あり、なのだ。


朝は近所の公園で、近所のお年寄りたちと、ラジオ体操をやることからはじまる。体力や筋力を落とすと仕事にならないからと、早朝自主トレをやってたら、重なってしまった。しかしきちんとラジオ体操第二までやると、体がほぐれる。

ラジオ体操というと、その起源から、国家主義がどうの近代化がどうのと、教条主義的な話がでてきそうだが、もはやそんな起源を生きているわけでもない。集まるのは10人ほどの半分以上は女性で、体操の音楽が流れている間も、まだ若い奥さんが散歩させている子犬と戯れている。

私が野球をやってたということも知れて、近辺のソフトボール大会にも人が足りないとかりだされた。そのまま居住地区の、地域の発達障害者も交流する80歳すぎの牛乳屋さんが監督する年寄りアパッチ野球団みたいなチームにも入った。そのついでということなのか、もう若手がいないということで、市だか区のスポーツ推進委員とかにも、来春からなるそうだ。準公務員だそうである。ゲートボール大会時の設営とかだそうだ。防犯夜回り隊員にもなった。他に暇な人もいないだろうからと、言われたままやっている。この衰退していく国家の末端組織がさらにどうなっていくのか、違った線が出てきて蘇生していく道筋ができていくのか、興味もわく。

自主制作した植木屋開業のチラシのおそらく意図どおり、奥さん側から電話が入り、全てのお客さんがよろこんでくれて、来年もお願いしますと言ってくれた。「あの人仕事してないのかね?」とラジオ体操のおばあさんたちは噂していたが、たぶん、来年の秋口からは、さらに近所からのお客が増えて、それなりに忙しくなりそうだ。「初老」「都」「女房」などが戦術的なキーワードだった。そのチラシをわが女房にチェックしてもらったとき、そんな言葉はいらない、とか文句を言われたが、商売事務的な広告だったら今どきは詐欺かとも疑われるだろうから自己紹介的なアットホームな感じの方がいいのだ、と押し切った。内のかみさんがね、という刑事コロンボのノリと言おうか。家計を夫が仕切るマッチョな家庭からはアホかと思われても、そのチラシの文を面白く思ってくれるかかあ天下的なご家庭とは、金銭関係を超えた信頼が作りやすいだろう。商売や会社人間の価値に固まった人との間からは、希望へ導く可能性の隙間はないだろう。

ネクタイの意味がわからず、満員電車にも生理的に乗れなかった者の、隙間探しの延長だ。

まだ歩ける範囲でしかチラシ配りもしていないから、春が近くなったら、今度は自転車でいける範囲、そしてモノレール沿いを探索してこよう。

しかし手入れするような庭をもっているのは、みなお年寄り世代だ。アパート暮らしの人もいれば、若い世代の建売住宅みたいのには、トネリコみたいな木が一本植えてあったりするだけだ。そもそも庭手入れ自体の時期が、初夏と秋口から年末までの半年あまりでしかない。下請け産業にはかかわりたくはない。東京は新宿の前の職場に残っていたら、代々木の外苑前だかの再開発にかり出されることになるだろう。あのイチョウ並木が気持ちよい散歩道になるのは、ギンナンが落ちる前に、下請けの職人が木に登って、一つ一つ落として処理しているからである。私も登った。臭いが体にこびりつき、地下足袋はカビてきてしまう。私がとりあえずそんな産業から解放されても、時代が止まったままの発想はそのままだ。その再開発に反対する人も、現存の快適さがどう維持されているかは考慮しない。誰が嫌なおもいをしてその快適さを作っているのか。もちろん、土建会社の社長たちは、稼ぎ場所だと暗躍しているのだろう。

だから未来へ向けて、違った切り口から、隙間をこじ開けなくてはならない。おそらく時期をみて、自分の電子出版物を利用した仕掛けを作るだろう。また、生活クラブ関連の映画観賞の会合でも、参加を続けて欲しいと声をかけられている。年頃のお子さん抱えた奥さんなどは、やはり深刻だ。いや私だって、息子がなお社会人としての特訓がはじまったばかりなのだから、たぶん深刻な事態なのだ。国の治安を守る先生からは「進退」のことを示唆されたらしい。息子は、ワールドカップのサッカー試合が見られないのに文句を言ったんではないだろうか。冬休みになり今日にも帰ってくるはずだが、中学時代の友達五・六人を引き連れてこの千葉に帰宅するそうだ。友人たちはみな学生だから、今どきの学生が何を考えさせられているものなのかも、様子を探ってみよう。


現金稼ぐ仕事としては暇だが、自分の作業はもう時間がない。おそらく人は一つの時間、歴史しか生きられないから、もう自分の枠を突き詰めていくしかない。いま既に盲目の最中に巻き込まれているとしても、それを受け止める子供の感性が衰弱しているだろうし、それを洞察していく体力も時間もないだろう。だからなんとか、自分が受け取ったかぎりのバトンに、自分が生きた時代への考察を刻みこんで、次の時代、歴史にわたしていける仕事をしたいものだ。

2022年12月17日土曜日

引用;秋山清著『昼夜なく アナキスト詩人の青春』(筑摩書房 1986年)

 


『昼夜なく アナキスト詩人の青春』より「下落合、上高田」

 

<ことのついでに、その頃親しみを持っていた乞食村の人々のことを、ここで少し語ってみよう。ちょうどいい機会だし、彼らについて何かを語る人は、めったにあるまいから。

 上落合の火葬場に近い、北向きの崖の中途に彼らの集団があった。

 私が山羊と共に住んでいたのは、東洋ファイバーKKという堅紙工場と墓地との間の五百坪の空地、そこを所有しているのは万昌院という寺で、吉良上野介や大岡越前などの墓があり、賤ヶ岳の七本槍の一人糟谷裕典や水野重(十)郎佐衛門や歌川豊国などの墓石もあった。友だちが遊びに来ると、よく垣根を越えてそこに案内したものだった。その墓地の向うで、北側が急な崖になってるあたり、小径の両側に沿って小さい家が十六、七軒あった。

 毎日のように夕方から出て歩く私は、自転車でない日は、墓地裏の彼らの住宅の中を通って崖の上に出ることにしていた。夜もそこを通る人は全くなかったが、私は上り下りするので、いつしか顔なじみになり、その中央のあたりに据えられた木の風呂に「まだ誰もはいってはいないから」といってよく誘われた。けぎらいしたのではなかったが、こっちは元気な身体、彼らの仲間は故障の人が多く気の毒で、一番風呂を誘われても、とうとう行かなかった。

 ついでに言えば、ここの人々は落合の火葬場の乞食権(そんな言葉があるかないか)を自分たちのモノにして、そこの入口の左右に女や子どもが毎日並んで、出る人、入る人に、例の「戴かせてやって下さいまーし」と連呼していた。私など多少の顔見知りが通っても、まるで見知らぬ人のようにしていた。これもついでに言って置けば、有楽町や当時はまだ在った数寄屋橋の袂や銀座通のデパートの松屋の前にも彼らは出ばっていたが、目が合ったとてけっして知っている人らしくは振舞わなかった。さすがという他はない。集落の下まで松葉杖をついてヨタヨタ来た男が、崖のすぐ下から、いきなりそれを肩にかついでさっと上へ行くことなどにも、いつの間にか驚かなくなった。つづめていえば、仲よしになったということであろう。さすがにその集落には電灯はついていなかった。

 夜更けてその道を上ってゆくと、小屋同士大きい声で、話していたこともあった。

 私の「山羊飼育」は一九三四年(昭和九)の三月から三年間に及んだが、思い出して語るとなれば、自分だけの記憶に於て数かずのことが温存されている。総じて苦しいこと楽しいことで一ぱいだ。中でもこの集落の連中とのその奇妙な往来は、語ればきりがない。わが家に届け物に来る十六、七の近所の米屋の小僧さんがいた。曰く、「あの集落の連中は皆特等か一等米です。二等なんか届けたら叱られますよ。金持ちですからね」

 一寸しゃれた話だ。その乞食さんたちに米代を借りに行ったこともあったのだから、ぼくにもなかなかしゃれたところがある。夜になってから集落の中の小径を行き帰りしても、文句を言われなかったのだから。小屋の中から「乳屋の兄さんネ」といわれて「そうだよ」といって通った。

 その集落に大きなバクチが立つという話も時々きいたが、これがそうなのか、ということにはたった一度だけ出遭ったと思う。

 北は立木のある崖でその下は「バッケの原」という湿地、西は私の家と五百坪ほどの畑と山羊の場所、その次が墓地、その東が彼ら一党の巣。ある日、外から自分の家の木戸をはいろうとすると、集落の者がいそいで来て何やらいった、と「すみません」と崖の上に行ってしまった。墓地の中にも、僕の家との境にも、彼らの小屋のまわりにも、見かけぬ者どもがいて、人を寄せつけまいとしていた。

 日暮れが近くなって、東中野駅へゆく途中の、早稲田通りの交番の巡査が来て、「今日、何か気がつかなかったか」といった。そして、「今日大きなバクチがあったそうだ」といった。

 たまにそういうことがあるというのである。その時は、集落を中心として四方八方に、そして遠く見張りが立つ。やがてその見張りはいなくなるという。事の真偽はともかく、私は一度だけそんな経験をした。

 山羊をやめて近くに引っ越したのは一九三七年(昭和十二)の夏のはじめだった。私は詩をかくことがあり、乞食村、火葬場、バッケの原(これらは落合、上高田にわたり、その中心に当たるところに彼らの集落がある、ともいえる)、そして上高田をよく歩き、このあたりを(風景詩という意味ではなく)詩にかいてやろうという気になった。ある日、火葬場に座っている女と子どもたちを描いてから、そう思いたった。そのあたりの眺めとともに、そこに居る人間たちの少しちがった風景を、と思い立ったのである。

 

 門の両側にすわって

 年よった女 膝から下のない男 子供。

 みんな汚れてくろい顔だ。

 あごひげを垂らしたのもいる。

 雨が南風にあおられてパラパラ落ち

 煙突から煙が突きおとされるように散っている。

 電気ガマのモーターがごうごうと渦まく。

 門のなかは玉砂利の広場に自動車が充満し

 控所は紋つきの女やフロックや羽織袴や。

 東京市淀橋区上落合二丁目落合火葬場。

 出入する自動車目がけて

 彼らはうたうように呼びかける。

 ――供養にいただかせてやって下さいまーし。

 自動車が通りすぎると 私語し ほがらかにわらい

 口汚く子どもをののしり

 菓子をほおばる。

 型のごとき蓬頭襤褸のなかに

 炯々とひかる目をもち

 たくましく健康でさえある。

早春(一九三六年>

…(略)…

<いい忘れたが、数軒の寺、火葬場、豚飼いの屋敷跡、私のいた崖の外れの山羊小屋、それにこの諸君を加えて、何か歴史の時代にふさわしいハナシが書き残されそうな気さえする。今そこには寺と火葬場を残して、何もなくなった。湿地のバッケの原もいつしか、平屋建ての都営住宅となっている。また、あの北向きの崖のあたりには十階建てくらいのマンションというやつが背くらべをしている。>

2022年12月6日火曜日

大澤真幸著『この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方』(朝日新書)を読む

 


理論的な考察を、具体的な実践での方向へと思考実験してくれる、これまでのインテリではきわめて稀な作業提示に思う。これまでは、具体性を敢えて見えないように捨象した抽象論か、逆に抽象論からの道筋からは飛躍的におもえる社会事象論を説いていくような日本知識人の態度が大半だったとおもう。

 あるいは、NAM挫折後、佐藤優氏のように、はじめからパフォーマティブな言論の構えで実践的な世界と関わっていくような態度となった。

 

が、大澤氏は、一般の知的大衆にもわかりやすいように、理論考察と実践知との結びつき、いわば手品の種明かしをみせながらのように論を作っていく、のは、おそらくその態度自体に、これまでの知識人への批判的実践が潜まれているのだろう。

 ※

大澤氏の論理手順は、どのテーマ(現歴史的事象)にあっても、(1)現状認識とその分析、(2)そこから導き出すリアリズム的実行解、(3)それを乗り越えていくべき「ほんとうの意味」=方向の在り方の提示、というものであるようにみえる。

 

私は、(1)の段階には、同調とともに、だいぶ啓発された。ただし、プーチンのロシア現状においては、私の文学的な想像力においての認識とは異にする所がある。(3)についても、共感する。が、(3)へと成りゆかせるための(2)の現実実行解において、大澤氏とは違う見解をもち、また論理的に矛盾を抱え込んでいる箇所があるのではないかと、指摘する。

 

     実行・実践といっても、様々というか、いくつかの位相があるだろう。一番身近な実践は、まさに自身の具体的な現場での話になるから、試行錯誤でもあるし、言ってはいけない次元のものもでてくる。だからそこは私は言わないが、ここでは、あくまで、国民大衆がどうするか、という、大枠仮想での実行・実践解、という話の位相である。

 

まず(1)。私が一番はっとさせられたのは、次の記述。

 <戦争は一般に、いかにも崇高そうな理念や大義をかかげて遂行される。が、そうした理念や大義は、たいてい、もっとも現実主義的な目的を覆い隠す「口実」や「アリバイ」でしかない。侵略相手国にある地下資源(たとえば石油)が大きな富をもたらしうるとか、その国を軍事的な拠点とすることが戦略上、きわめて有利になるとか、といった現実主義的で、利己的な理由が戦争にはある。だが、それを公言するわけにはいかないので、戦争遂行者たちは理念主義を標榜してきた。従来、戦争とはこういうものであった。

 だが、ロシアのウクライナへの侵攻に関しては、現実主義と理念主義との関係が、逆転している。戦争へと駆り立てている真の動機は、述べてきたように「文明」に関連した理念主義的なものである。しかし、それを覆い隠すように、NATO云々といったような現実主義的な目的が公言されているのだ。>(「1章 ロシアのウクライナ侵攻」)

 

しかし、この「逆転」を正確に認識するがゆえに、大澤氏の現状説明は、陰謀説に近接する。世のいわゆる陰暴論も、資本主義(資源獲得だのの)がどうのという現実が問題(犯人)なのではなくて、資本家(金持ち階級)が仕掛けてくる「文明」支配の悪だくみが本当の問題(犯人)なのだとしているからである。そしてその支配のやり方は、社会主義的な中国並みのテクノロジーを使った管理統制だ、とする。となると、そこも、アメリカ資本主義自体が、中国の権威主義的資本主義に成っていくのだと認識する、「2章 中国と権威主義的資本主義」もまた、陰謀説に近づいていることになる。違うのは、資本家を、システム構造からくる仮像とみるか、実体(人格)としてみるかという、マルクスが指摘していたような一般的な錯誤を把握しているかどうかの違いでしかなくなる。

 

ジジェクは、コロナ禍での論考において、もし陰謀説が本当なら、それは資本家が資本主義の問題点をマルクス主義から学んだからだ、というような記述をしていた。私は唖然とした。資本主義がやばいのでは、と認識するのに、あるいは単に感ずるのに、マルクスなど読まなくても、誰でも、わかるだろう、感じざるを得ないだろう、ずいぶんと頭でっかちなインテリなんだな、とおもった。この点も、大澤氏は、正確にと私には思われる認識を示してくれる。

 

<基底部にある不安は、資本主義そのものが持続可能なのか、ということへの懐疑である。今日、多くの人々が、資本主義が永続できる、ということに関して確信を持てずにいる。富裕層にしても同じである。資本主義は死につつあるのではないか、という不安が広く分け持たれているのだ。

 このような不安が浸透し、蔓延しているということを示す証拠はたくさんある。あまりにもあからさまな証拠は、国連が掲げているSDGs(持続可能な開発目標)である。なぜ、わざわざ「持続可能」ということが目標とされなくてはならないのか。誰もが、普通にこのままシステムを運営していけば、持続できないこと、破局に至ることを知っているからだ。>(「2章 中国と権威主義的資本主義」)

 

ともかく、問題は、資本主義のメカニズムからくる。<プーチンの究極の「敗因」は、戦いを、階級闘争として実行できなかったことに、つまりきわめて暴力的な文明の衝突としてしか実行できなかったことにある。>――私は、ここに、もっと深刻な認識、というか、文学的な想像力を介在させる。

 

比喩的にいえば、プーチンが、三島由紀夫みたいに、追い込まれていた(?)らどうなるのか? 三島は、切腹した。つまり、自らの命を無理やり日本人に贈与してみせることで、柄谷風に言えば、交換Cとは違う交換Aの存在を喚起させることで、その彼の死後生きる我々に、本当のことを考えろ、真剣に考えてみろ、とたじろがせるような負債感情というか、いったい何故腹なんか切ったんだという謎かけ、敗戦後に成長しはじめた思考を停止させてしまうような衝撃を与えた。

 

これと同じ覚悟を、プーチンが持っていたらどうなるのか? どちらも、若い頃のひ弱な体を無理やりマッチョに鍛えたりして、似ているし。

 

つまり、プーチンが、無意識化において、次のような思考に追い立てられているとしたらどうなのか? 人類よ、本当に、真剣に考えてくれ、地球環境以前に、人間の尊厳とは何なのか? 西洋が作った文明が本当に善であったのか、立ち止まって反省してくれ。もう一分待つ。もう待てん。あなたがたに、真剣に考えてもらうために、私はわがウクライナとモスクワを西洋文明の核によって自爆する。ロシアは、命をささげる! 人類は、わがロシアの命を無駄にするか? 考えてくれ! ほんとうに、考えてくれ!

 

だとしたら、呑気なことを言ってられない。手順としては、まずゼレンスキーをふざけんな!と叱咤して停戦させて、その上で、みなでプーチンのところへ押しかけて、俺たちがおまえのところになんで来ているのかわかってるよな、と吊るしあげながら、トッドの政治的リアリズム風の認識甘言も加味してなだめもし、とにかく現状停戦させて、時間をかけて実行解をまとめていく、というものだ。

 

大澤氏は、まずウクライナへの全面支援を説く。その上で、「ほんとうの意味」での解決のためには、「ロシア人が、まさにそのヨーロッパの最良の部分を代表する理念を、ヨーロッパ人以上に忠実に実行して」いくことが大事になる、と。

 

今までの現状では、即座に停戦とはなりようがないだろう。タイミングがなければ、それを作らなければ、話し合いははじまらない。ウクライナがヘルソン州の東岸部の一部をもとりかえし、ロシアが劣勢になって小康状態になった時点で、現状容認から示談、という線を示さなければ、戦争は長引くだけだろうし、もしロシアをウクライナ外へ全面追い出してからなら、むしろ話し合いの契機などなくなり、それこそ、核戦争に行くのではないか、と私は懸念する。

 

大澤氏は、以上のような論理段階を経るわけだが、中国・台湾をめぐる情勢をめぐっても、思考の内実は同様だろう。日本は、アメリカが所持する理念の側に立たなくてはならないし、ゆえに、将来ほぼ確実な中国の台湾進攻に対しては、ウクライナへと同様、軍事支援をしなくてはならない、その上で、「ほんとうの意味」での解決のために、アメリカに追随するに終わるだけでなく、資本主義そのものを超克していくことを目指さなくてはならない、と。

 

が、このアジアの件に関し、大澤氏が問うていないことがある。それは、台湾市民の意見である。ウクライナの人々は、選挙世論等で、はっきりと西側の方がいい、と態度表明した、ということが認識され、前提とされうるからその実行解でいいかもしれない。が、台湾の人々は、ゼレンスキー・ウクライナのように、領土防衛のために武器を持って戦うことを是としているのかどうか、大澤氏は問題としていない。台湾の人々の多くが、戦争するくらいだったら、中国に従属してもかまわない、と思っていたら、大澤氏の(2)現実実行解は、前提認識から崩れるのではないか?

 

最近の、台湾における、全国知事選挙なのか、の結果は、西側よりの現政権側より、中国よりの野党側が勝利した、という話になっていると思う。私としても、一般的にいって、アジア人は、あんまり領土のために、だか、国土のために、だか、わざわざ戦うことを好まないのではないか? 西側とは、主体、ひろくは主権の内面的あり方が、やはり違うのではないだろうか? たとえアジアの人々も、自由や平等といった理念に共感しそれを望むとしても、それを手に入れるための手続き、つまり(2)の現実実行解は、変わってくるのではないだろうか?

 

それを間近に、自身のこととして考えてみる思考実験として、「5章 日本国憲法の特質――私たちが憲法を変えられない理由」があるだろう。

 

私は、(1)の現状認識の仮定として、台湾の人々は、戦争を望んでいない、と認識してみる。すれば、(2)の現実実行解として、自衛隊は、中国の台湾侵攻があった場合でも、軍隊として関与しない。軍事的には、台湾を見捨てる、となる。そして(3)の「ほんとうの意味」方向として、世界大戦を実行しようとする中国はじめアメリカとうの世界に対し、不戦の戦いを宣言する。つまり、日本は、世界から孤立しても、もう一度、世界と戦う!

 

大澤氏は、<律儀に九条の理念を実行に移すこと>と言うが、それでは、ウクライナと台湾に軍事支援する、というリアリズム実行解と、まっこうから矛盾してしまうのではないだろうか? その本当の意味へと到達するために軍事実行する、との具体段階に、律儀に実行、という「本当」を繋げることができるのか?

 

私は、こう問うてみる。

 

現代までを生きている、日本人の、誇りとは何か?

 

一つ、負けを覚悟でも、強い相手と戦い、世界大戦を挑んだこと。

二つ、もう、戦争はしない、と誓ったこと。たとえ、押し付け9条だろうが、解釈かえてそれを骨抜きにしようが、その形を守り抜いてきたこと。

 

この、戦うことと戦わないことは矛盾しているが、もう一度世界大戦を不戦の覚悟で挑む、とするならば、矛盾でもなんでもない。私たちの、日本人の誇りに合致することである。

 

大澤氏は、真の愛国者が、普遍主義者、コスモポリタンになるのだ、そうでなければ、説得力をもたない、と説く。が、大澤氏はともかく、誰かに刺された宮台真司氏は、そうした愛国者だったろうか? 少なくとも、外的な言動はそうは思えない。かつて、浅田彰氏が日本人を「土民」と呼んだように、「愚民」と言ってはばからない。だから、右からも左からもうらまれているだろう。大澤氏が言うように、<しかし、どうして暴力が噴出したのか。人は一般に、言葉では説明できないことを求めているとき、暴力に訴える。言葉で表現されているすべてのことに違和感があるとき、人は、暴力によってその違和感を表現するしかない。「それじゃないんだ」と思いつつ、それではないものが何であるかを言語化できないとき、暴力でその不定の欲望を表出することになるのだ。>(「4章 アメリカの変質」)

 

宮台氏を刺した何者かが、映画『ジョーカー』に触発されるような、渋谷をたむろする若者のような大衆たちではないだろう。まず彼の話をきき、理解していなければならないのだから、知的大衆だ。しかし、そこも、言語化できない違和感が暴力として噴出せざるをえない自然過程に呑み込まれているのかもしれない。宮台氏が、ネット番組の「ニコ生深読み」で、ワールドカップ・サッカー日本対ドイツ戦の直前、この著作をめぐって大澤氏らと会談し、その後、刺傷したというのは皮肉なことだ。それは、宮台氏に、なお言語化が不十分だったこと、どこかずれているところがあったことを通知しているからだ。

 

※ 私は、サッカー・ワールドカップのベスト4をかけて、日本と韓国が対戦したらどうなるのだろう? と考えていた。日本人として、どうこの複雑になる心境を整理し、両国のよりよい関係を築いていく論理を導いていったらいいのだろう、と考えていた。実際に試合観戦しながらの、臨場感、情動の最中で、論理の説得性を吟味できたら、と。

 残念ながら、日本は負けてしまった。おそらく、これ以上の勝利には、選手ではなく指導層、大きくはサッカーを日本の国技みたいにできるのか、というところまでいくのだろう。アメフトだのバスケだの色々あるアメリカが、サッカーでも欲を実現するなんて、本気では思えないだろう。

 しかし、私は、今の戦争状況がなかったら、深夜に起きてサッカー観戦をするまでには、いたらなかっただろう。いったいいま、世界で何が起きているのか、を知るために、ワールドカップを見ているのである。

 それは、まだ、終わっていない。眠い。興奮したからか、眠れなかった。優勝は、フランスかなあ。ライオンやチーターが戦っているみたいだ。