2021年7月17日土曜日

『東京自転車節』(青柳拓監督)を観る

 

右青柳監督、左音楽担当秋山さん

寝る前にYouTubeをのぞいたら、この「東京自転車節」の映画予告の動画が流れていた。なんでアプリのAIが私のスマホにこのドキュメンタリーをヒットさせてきたのか訝しかったが、すぐ家から自転車で行ける東中野駅近くのポレポレ座でやっているというので、翌日(先週の日曜のことだが)、さっそく見に行った。

 

私は、去年の盆、コロナ禍の帰省(=規制)にあたって、こんな短歌をこのブログで記していた。(「帰省下に詠む」)

 

《荷を背負い自転車で行く若人のスマホ片手の行く末は何処?》

 

今年28歳になる青柳拓監督は、その若人の行く末を、身を以って模索してみせていた。日本映画大学を卒業し、映画仕事にたずさわりながら、アルバイトとして運転代行を実家の山梨でしていたが、コロナで仕事が皆無になってしまった。そんななか、ウーバーイーツをしながら撮ってみないかとプロデュースされたこと以上に、所持金数百円になってしまったら出稼ぎに行かなければと、東京にいったらコロナに必ずかかるぞと噂されている田舎から、自転車をこいで出てきたのだった。卒業作「ひいくんのあるく町」が2017年全国公開された経歴をもつ。私はその映画をみていないが、どこかで予告をみたのだろう、この「東京自転車節」で「ひいくん」が田舎風景の中に現れたとき、記憶がよみがえった。ゆったりしているがシビアな、独特な時間の流れがただよっている。監督は楽天的で明るい、頼りなげな性格を素直に画中にも落としていくが、認識はシビアであり、浮かべた笑みの裏に、目の前に何が在るのかを洞察していこうとする思考がうごめいている。観賞後に設けられたサイン会で、私も購入したパンフにサインをしてもらったが、この近くに住んでいるからすぐにみに来れたという私に、「ではよく映画をみるんですね?」と尋ねてきて、私が「よく」ということになるのかなあしばらくぶりなような、と真面目に受け止めて考えはじめてしまうと、こちらを覗き込むような視線を笑顔の中でよこしたが、そこにはナイーブな若者の眼差しはなかった。パンフでも、知り合いのライターが、その計算高い一面を親しみをこめて解説している(「都会で聖者になるのは大変か」若木康輔)。

 

ではそんな監督が、ウーバーイーツという自転車配達業の向こうに、どんな現実を見たのか?

 

1945年の東京は焼野原だった」「2020年の東京も焼野原だ」

 

配達中、公園で出会ったおばあさんの戦争の話を聞きながら、画中でてきたテロップの言葉は上のようなものだった。そして、監督自身の声で、今を彩る言葉が叫ばれていく、「自粛要請、不要不急、濃厚接触、夜の街、新しい生活様式……」その声は、次第に、怒りにふるえ、奔放しだす。「…自宅待機も引きこもり、リモートワークも引きこもり、ズーム飲み会も引きこもり、陽性陰性わかりません、家にいるしかありません。拝啓 新型コロナウィルス様、私は元気です」

 

パンフでのインタビューで、青柳監督は、答えている。――<映画の後半はさながら『ダークナイト』や『ジョーカー』のような雰囲気になっていますが、当時の自分は確実に社会に対しての違和感や鬱憤が蓄積されていたんだと思います。自分で言うのもなんですが、自分のあんな素敵な笑顔は久しぶりにみました。まさか狂った先に笑顔があるだなんて思ってもいなかったし、それこそジョーカーのようで、恐ろしい状況だったと思います。これを映画として撮っていてよかったです。映画を撮ってなかったらどうなっていただろうと思うと……ちょっと考えたくないです。>

 

「考えたくない」のは、考えさせられる現実に触れたからだ。この映画は、何かを認識してみせたドキュメンタリーではない。認識の前提、思考の前身になるような現実の塊に突き当たったことを示してくれたものである。監督はこれから、いやでも考えていくだろう。もちろんその考えとは、ウーバーを資本主義社会の絡繰りとして解説する大家ケン・ローチ監督の認識につらなるようなものではありえない。そんな解釈があったって、どうにもならないじゃないか、と監督も若者たちの一人として突き当たっている困惑を、画中で表現している通りだ。ウーバーイーツのような労働形態が、現在の先端的な何かを象徴しているとしても、若い世代は、それしか知らない。物心ついたとき、そこにある現実には、ただもまれるだけだ。そのもまれた身体が、本当のところは何を意味してくるようになるかなど、誰にもわからない。しかし、盲目の中の洞察だけが、解釈をこえた認識をつかませる。そこには、彼らだけがつかんでくる現実の一面が刻まれているはずである。

 

そしてもう若くはない大人たちは、若い者たちと同様、社会や人生への答えなどわからないままであるけれども、もまれてきたことの反復経験が、現実を相対化させる。それしか知らないわけではないからだ。こんな今にだって、違うものがあるのだ、あるはずなのだと。それは、大家としての言動というよりは、見守る者の助言者のような振る舞いになるだろう。

 

パンフではその役割を、青森県立美術学芸員の奥脇嵩大氏がしていることになるのかもしれない(「転がる自転車の先」)。まだ三十半ばと若いが、示唆していることは古い。古いというか、古くなって忘れ去られたものがもう一巡りしてきているのかもしれない。引き合いに出してくる思想が、戦中派の運動家、谷川雁なのだから。というよりも、この映画自体が、「昔」を、「炭坑節」を呼び覚ましてきたのだ。

 

<労働ってシステマチックなものじゃなくて本来もっと人間らしい血の通った作業だと思うから、ウーバーイーツという身近なシステムくらい自分の力で血の通ったものにしたいと思いました。システムによって断絶された社会で、それぞれが「孤独」だということを意識し自覚したけど、それなら「孤独」だからこそ会いたい!繋がりたい!と強く思うようになりました。『東京自転車節』のタイトルに「節」と付けたのは、昔、労働者たちが汗をかいて自分たちを鼓舞するように歌っていた炭坑節のように、自転車配達員での仕事も血の通った人間臭いものしたいという想いから、こういうタイトルにしました。>

 

この映画の音楽は、監督の幼馴染の、地元のアマチュアの人が作ったそうだ。打ち合わせをしたわけではないのに、ウーバーイーツの仕事中での電話でのやりとりから、「月が出た出た月が出た」の「炭坑節」の編曲を思いついたのだと、上映後の、二人のやり取りの中で話されていたこととおもう。「ジョーカー」の現実が、人間の血を噴出させるのではなく、通わせるようなユーモアで包まれる。マクドナルドの店員などが、雨の中での仕事は大変だと、差し入れや声掛けをしてくれていると呟かれていたのを思い出す。映画が、自転車節にはまっている。固定したシステムの最中においても人の血はなお通っており、それはシステムへの潤滑油であると同時に、亀裂にもなりうる連帯の保証でもあるだろう。

 

谷川は、「連帯を求めて孤立を恐れず」と言った。それをもじって、「孤立を求めて連帯を恐れず」といって社会運動をはじめた今を生きる現代思想家もいる。が、今の後者も、要は、連帯こそを求めていたわけだが、あまりに孤立化しはじめた新自由主義下の時代に、その孤立を慰撫するしかないような若者たちを傷つけないために、そうひねくれた物言いをしなくてはならなかったのではないか、とその運動に参加した私は、今思える。だから、「昔」の言葉のほうがストレートで、強いだろうと。しかも、谷川の原典では、それは個人にではなく、メディアに対して言われているのである。「そして今日、連帯を求めて孤立を恐れないメディアたちの会話があるならば、それこそ明日のために死ぬ言葉であろう」と。奥脇氏は、その「メディア(媒体)そのものとなった」のではないかと、この『東京自転車節』を評価する。

 

去年の、帰省下に詠んだ歌は、こう閉められた。

 

《世の中はスマート社会へと瘦せ細るのかAI・ウィルスが人削除して》

 

私たちの漕ぐ社会は、どこへと向かうのだろうか?

2021年7月4日日曜日

『NAM総括』(吉永剛志著 航思社)を読む(2)

 


「総括」という漢字をみると、どうしても内向的に過激化していった左翼組織の生々しい現実(内ゲバ、リンチ)を連想してしまう。私が、NAMに入会したとき、日大の体育会系を卒業している弟は、「それはアルカイダみたいなものかい?」と、聞いてきている。私たち1970年前後に生まれた世代では、もうそんな経験に触れることはないはずなのだが、世間的なイメージとして、ノンポリであることが当たり前になったような学生の間でも、なおネガティブな記憶の歴史が付きまとっていたのだろう。NAM内のメールで、これに参加したからといって公安ににらまれることなんかないのだと柄谷は発言していたとおもうが、田中さんは、公安スパイがすでに潜入してメールを監視しているのは当たり前だよ、とも言っていた。そうした現実権力との切迫性が、どれくらい実際にあったのかは知らないが、NAM解散後20年近くの人生がすぎて、もう左だからといって怖い、危ない、というイメージはなくなっているような変化があったと感じている。もしかしてなのだが、そこには、3.11の災害が引き続いているなか、ほとんどの普通の企業のテレビコマーシャルが自粛で中止を判断していったなかで、生活クラブの虹色のコマーシャルが目立って流布されていたことと関係しているのかもしれない。以後、左翼とはいわず、リベラルという、より範囲のひろい曖昧な中立用語に置き換えられて世俗化していっているように感じている。

 

しかし野球馬鹿であった私は、運動部活動の体験から、内ゲバやリンチに連なる人間関係の生態を理解していく素地を抱え込んでいた。早稲田の二文にいってつづいた夜の読書のなかで、柄谷のマクベス論を読んだときも、だからすぐに、この論考が、幼い頃テレビでなんの気もなくみていて雰囲気の暗い記憶として無意識に刻まれた浅間山荘事件へとつらなる、あるいはその後も海外でのテロ活動の新聞記事の見出しをみることもなくみて感受していくことになったであろう、いわゆる左翼組織での人間関係が引き起こした現実への解析なんだな、とすぐに理解がおよんだ。同時に、私の受容は、部活での暴力沙汰からの連想できているので、それは左翼と呼ばれる組織をこえた、人間一般の現実としても、理解された。ゆえに、他人事にはなりえない、切迫した認識を言語化してくれたものとして、その柄谷の文芸批評は衝撃だったのである。

 

この著作でも言及されているように、NAM批判を率先した鎌田哲哉は、「彼らが今回人殺しをしなかったこと自体、ただの偶然でしかない。」と発言している。そのようなことを言っているということは、私も伝聞的に知っていたが、そこまで行ってはいないだろう、そんなたまがいたのか、行き過ぎた見方だな、と思っていた。が、今回、吉永さんの著作を読み、蛭田さんから借りた『ゲンロン11』での特集などを読み、もしかしたら、それはありうる可能性だったのではないか、と思い返した。おそらく、鎌田が想定し、私が思い浮かべているNAM会員たちとは、私と同世代的な、当時若かった者たちのことである。私は柄谷の『ニュー・アソシエーショニスト宣言』(作品社)は、読む気がおきないので読んでいないが、記事でみかけた書評によると、結局は左翼運動にかかわっていた人たちが古い考えのままだったのが解散の一原因、と発言しているのをみかけた。いわば、旧ブント系の人たちの年寄り世代のことなのだろう。吉永さんの著作の中では、もう少し若い、全共闘世代での、中核派や革マル派に関わって、暴力関与の前歴のある人たちのことにも言及されている。私自身は、そんなことは全く知らず、感知せず人と接していた。解散後だいぶたって、高瀬さんも、そうした前歴があってあやしい人なんだときいている。私はそんな高瀬さんに、大前研一を引用してフィリピンのことを話したりしていたのである。蛭田さんもそうだ。Qをめぐる最後の会合で、おそらく自身が深く関与したQ擁護の発言をもらしたのであろう、すると柄谷から、「おまえはマルクスを侮辱する気なのか!」とののしられたそうで、以後、左翼の奴らは品がない、すぐに断言すると「切断」しはじめたが、今でも過激な性格のままである。が、私が思い返したのは、私たち若い世代、左翼組織での経験があったとしても、まだ大人しいとされるだろう者たちのことだ。しかし、最後は、金が関わってきた。もし、Qを続けていたら、それは円と連動しているので、具体的な借金として存在してくることになる。Q退会のとき、実際に、会員の多くは、赤字額を円建てで返却しもしたはずだ。私も、事なかれ主義で、数百円だか送金した覚えがある。金がかかわってくれば、人は追い込まれ、追い込んでいく関係に入りやすい。よくある世俗の現実が、私たち若い世代の間でも、発生してきておかしくはなかっただろう。私には、そう思えてきたのである。

 

東浩紀の『ゲンロン11』の特集に、浅間山荘事件につらなる連合赤軍のことを描いた漫画家との対談がある。その『レッド』の作者の山本直樹は、自身の部活動での感覚が描写に反映されていると前置きしているが、この革命組織での運動も、前半は、楽しかった、と回想され、後半、陰惨になる、と指摘している。NAMはある意味、前半の楽しいところがおわって、後半をむかえずにして解散にいたった、との見立ても可能なのかもしれないのだ。

 

が、私が『ゲンロン11』から導入したいのは、以上のような文脈ではなく、暴力へと収れんしていった組織を把握するのに、山本氏との対談への前段階として、座談会『革命から「ラムちゃん」へ』とタイトルされたものがあるように、女性性をめぐる、座談会の言葉では、「ジェンダー」をめぐる文脈が浮上してくる、ということである。

 

私は、先のブログ(1)で、ジャーナリズムを生きる著名人柄谷の被害妄想かと疑う伏線があった、と述べた。私が「スターリン主義者」として評議会で断罪されるまえ、ある一件で、たしか規約委員会上でか、裁判みたいなものがあった。それは、柄谷にかわる新代表を決めることに、強硬に反対意見を述べた、ある女性をめぐるものだった。吉永さんの著作の中でも言及されている飛騨さんの文章のなかで、NAM形成期に活躍した「七人」のうちの一人、「女性ダンサーのY」として出てくる女性である。解散まえは、地域系東京の新しい事務局の会計を担当することになっていた。いまは、私の女房である。彼女・山田は、とにかく柄谷が代表でいつづけるべきだ、と意見していた。その事態を柄谷がとりあげて、こういう私へのおっかけみたいのがいて私は困る、「こんな女には、徹底的に冷淡にすべきだ。」とメールやりとりされたのである。オブザーバーとしてメールを覗いていた私は、一連のその評議員の間でなされた魔女狩り裁判のようなさまをみて、気味が悪くなった。それなりに長いやりとりになっていて、王寺さんが、もうこういうのはやめようと、介入して打ち切ったのだ。私が柄谷のメールにすぐに陳謝して黙ったのは、危うきには近寄らず、という本能のようなものである。この件で、事務局で一緒にやっていた建築系の有銘さんと、「通るわけがない話なんだから無視していればいいのに、なんでわざわざとりあげるのかね」とうなずき合ったものだ。言葉にはでなかったとおもうが、病気なんではないか、と二人は認識していたとおもう。

 

しかしその件を私が考えさせられたのは、彼女と結婚してからである。そして、東らの座談会でまず引用されてくる大塚英志の『「彼女」たちの連合赤軍』を読んだのも解散後で、それが、この件を左翼組織文脈で解明させていく手引きになると理解したのだ。『テロリストになる代わりに』とタイトルをうたったダンスも創作する彼女は、「かわいい」となにかといい、「ラムちゃん」が好きだった。そしてとにかく、「うるせえやつ」だった。ダンスの講演前のグループ演習でも、「この女をだまらせろ!」と演出家がどなっているのを見たことがある。私は大塚の永田洋子の記述を読んで、私よりひとまわり年上の山田のことを考えた。「遅れてきた永田洋子」、という比喩が私には浮かんでいたが、リンチにいたる方とされる方が、同居している。たぶん彼女自身、それをなんとなく自己意識化している。組織というよりも、人間関係のなかで、男女関係のなかで、そして二人の間で生まれてきた息子との家族関係の中で、そのことが実際的・実践的にどう機能してき、どう論理構造的な帰結を予感させ、意味としてはなにが生成してくるのか、というようなことを考え、考えさせられてきた。大塚は「かわいい」という視差を抽出してきたにとどまって、結局は「女性をアイドルのように見ている」と『ゲンロン』では批判されているが、私には、柄谷にうかがえた左翼的なるものの感覚を、大塚の著作は考えさせてき、NAM解散後の家族関係が、観察思考させてきたのである(私自身が、夫婦喧嘩のさなか、なんど「こんな女には徹底的に冷淡にすべきだあ!」とわめいたことか)。そして今回『ゲンロン11』での特集にふれて、「ラムちゃん」がでてきて、なおさら合点がすすんだ。自分の言葉で要約できるまでには咀嚼されていないので、目だったところをピックアップする。

 

 永田は、ひらたく言えば「生き方が不器用なひと」です。それはさきほども述べたとおり、一周まわってかわいいと言えなくもない。けれど、それはポストモダンな消費社会を肯定するような大塚的な「かわいい」感性とは真逆のもので、むしろすごく生真面目で一生懸命なものです。>

 

 一九八二年の永田の一審判決では、その判決文に「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味」という有名な文章があって、それにフェミニストから抗議が殺到するということがありました。そういうなかで『ビューティフル・ドリーマー』が作られた。

大井 ラムは、あくまで押井が解釈した永田洋子ということですね。

 そうです。そしてここで指摘しておきたいのは、その解釈が、まさに当時ミソジニーとして批判されていた判決をなぞるものになっているということです。それは押井さんの限界を示している。今日はむしろ批判してきましたが、大塚さんの『「彼女たち」の連合赤軍』は、まさにそのようなミソジニーをひっくり返すために書かれたものでもあった。

さわやか 押井が考えるラム=永田は、無意識で女性同志に嫉妬し粛清する人物でしかなかった。でもほんとうのラムはちがうわけでしょう。>

 

山本 だからただの鬼ババじゃないんですね。そもそも永田さんも、ほんとうは、どこの会社にもいるような、ふつうのちょっと困ったひとだったと思います。元連合赤軍で、途中で山岳ベースから脱走した前澤虎義さんが言っていましたが、永田洋子は保険の外交員とかやらせたらすごく成功したんじゃないかと。押しが強くてまじめ。けれど茶目っ気がある。そして何よりも説得に熱心。>

 

さわやか 永田は革命を楽しめなかった。性の不和を抱えていたから。

 けれどもその不和こそがいまふりかえるとアクチュアルです。『レッド』はその視点を入れたことで連合赤軍事件を現状のものとして蘇らせている。大塚は永田を「かわいい」少女として対象化した。それに対して、山本さんは永田を「#MeToo」の主体にように描いている。>

 

ちなみに、山田は、NAM解散にいたるドタバタのなかで、経理をしていたであろう会社をやめ失業し、保険のおばさんになろうとしたがだめだった。その能力というより、まずは資本主義がどうのこうのと営業には余分な知識があるので経営側と対立してしまうこと、そして通産官僚系の家族からも切れていたようなものだから、初手のツテがなくなっていたからだ、と言った方が当てはまるな、とおもう。その彼女が生活的に行き詰まり、不安定な状態の頃のことを、倉数さんらは見知っていたはずだ。当時東中野の長屋のような私のアパートで、会員の幾人かと雑魚寝して宿泊したことがあったと記憶する。京都から、やはり生活に行き詰まった渡部さんが私のところで居候していたのもその頃だ。渡部さんは、私と彼女が結婚することになったと知って、他のアパートに移ることになって、私と彼女が手伝ったのである。

 

しかし私は、ここで彼女だけの事柄をとりあげてみているのではない。そもそも、NAMには女性会員自体が少なかったわけだが、そうしたジェンダー的視点をいち早く指摘していたのが岡崎さんだった。「男ばかりだよね。だめだよこれは」と発言したのは、芸術系の会合でも、最初期だったろう。根底的なところで、「かわいい」とのぞきこむ、いわばミーハー的なおっかけに連なっていくような異質性を、あらかじめ排除していくことで成立していたということだろう。そしてそのことは、柄谷本人にあっては、確信的なことだったのかもしれない。たしかYouTube上で、小森洋一をインタビュアーとしたNHKでの昔の番組がアップされていて、そこで、運動では同性愛的な同志になるのが不可避になるものなのだ、というようなことを発言している。

 

が、運動の実際の中では、やはり女性会員がいたのである。だから、ちがった線は描かれていたのだ。山田は大学を出ておらず、文を綴るのがへたくそなのでメールはあまり書かず、具体的な顔のみえる人間関係で「うるせえやつ」だったが、NAM組織が当初めざしたヴァーチャルな現実性の中で、際立って活躍したうるせえ「アイドル」がいたことを、多くの会員は思い出せるはずだ。「りえりん」こと北村さんだ。近畿大学の大学院生だったはずで、私は事務ひきつぎに京都の南無庵にいったさい、「おまえ、コピペも知らずに事務員になろうとしているのか!」とあきれられたのを覚えている。『NAM総括』にも名前が出てくるが、京都の事務局には、他にも二人の女性が引き受けていた。もしかして、左翼組織運動的な関わりでの参加は目立っていなかっただけで、経済的な、協同組合的な運動の関わりでは、それなりにいたのかもしれない。「わっ、植木屋さんみたいな階層の人と接するのは、わたしはじめてなの」とおっしゃったNAM会員のお嬢様も、東京のメンバーのなかにはいたのである。そもそも、田中さんとペアなように活動していた阿部さんがそうだ。この年代の活動家をどう女性たちが支えてきたか、たしか数年前にか研究書も出たはずで、その新聞書評されたであろう何かを読んで、不思議な存在にみえた阿部さんの輪郭がほのみえてきたような気がした。

 

いくら複数の系を作って交差させても、それが同質的な系であったら、本来の意味はなくなるのではないか。私は、第三世界系の関心系にも参加して、夜勤のバイトで知り合った南米からの出稼ぎ労働者としての友人たちの間から、日本語を教えてほしいとの声があったりしたので、大和田さんらと勉強会を開いたりしてもいた。本著作で、Qイヴェントでの出店の表に、「在日ペルー人手製のケーキ」出品者として菅原の名前として私は出てくるが(恥ずかしいことに、自著販売との記入もある)、彼らは、日本の経済的縮小とともに、故国へもどっていった。私には、一般的な活動として運動をつづけていくまでの動機や人生がない。あくまで、友人・知人との関わりの延長での支援活動であった。アパートの保証人も、多いときは5件ぐらい引き受け、歌舞伎町のディスコ・レストランを開いた日系ペルーの友人から頼まれて、その連帯保証人にもなっていた。日系でも仕事がなくなってビザがなおりないという友人からたのまれて、入管を説得する文章を書いて提出し、身元保証人になって無事発給になった件もある。彼らが国へかえるさい、これにはいってくれと言われるままにはいったフェイスブック上で、いまも関係はつづいている。がよほどのきっかけがないと、個的な関係を超えて運動を継続していくのは困難だ。しかしだからといって、日本でむごい目にあう外国人の問題への関心がなくなるわけではない。一般的な活動は潜在していっても、それを呼びおこすかもしれない個的な文脈がくすぶっている。その固有的なものが、異質な線として重ね合わさって、系の実質的な複雑さが実現できるのではなかろうか。指針や教訓として、あらかじめ活動(家)を目指したような運動の必要性と有効性がなくなることはなく、なくなってもいけないと私は思うが、それが中心になろうとするとは、同質的な一般性の系=組織でしかなく、人の生が、営みが、持続可能になるとは私は思わない。活動が仕事になってしまえばなおさら、生き生きしてこれないので、メンタル(脳精神)が退廃してくるだろう。自分の固有文脈を手離せないぶきっちょなものは、持続しかない、反復しかない。解散など、成立しない。

 

吉永さんの「総括」がメインストーリーを描いた概括だとしたら、私が付記したものは、「外伝」みたいな逸話になるのかもしれない。が私としては、忘却されてはならない微細かもしれぬが異質な線である。大きな物語に回収されず、またされてはならないようなもう一つの現にあった話である。がそれは、可能的だったものとして、潜在させられていってしまう世界や歴史のことなのかもしれない。

 

こう記すと、『ゲンロン11』での、東の「原発事故と中動態の記憶」という、柄谷の『探究Ⅰ・Ⅱ』の変異のような論点と重なってき、『NAM総括』での、唯一というべき吉永さんと柄谷・浅田らを分ける「科学」という営みの受容理解のあり方ともかかわってくるのだが、それは、直接的にはNAMとは関係ないので、違うブログ・タイトル(たぶん、「中動態と量子論」)でメモすることになるだろう。また、現在、遺伝子操作ワクチンをめぐる「科学」への疑義を提起した文をふくむ電子出版を、NAM会員でもあった安里ミゲルさんや鈴木健太郎さんらと作成中でもあるのだが、3人でことを成そうとするだけでも大変である。みな過激な病人であるがゆえに、であるとおもう。

2021年7月2日金曜日

『NAM総括 運動の未来のために』(吉永剛志著 航思社)を読む(1)

 


吉永さんとは、面識があったような、とおぼろげな映像が脳裏に浮かんでくる。ひとりではなく、もう一人の誰か、二人でいっしょにいて、こちらと挨拶をかわしたさいの立ち姿だ。宮地さんとふたりで全国集会に向かった、と本書にあるから、隣にいたのは宮地さんなのかもしれない。お顔は、まったくおもいだせないのだが、その会ったことがあるはずだという記憶を確認しようと、NAM事務員のころ使っていたノートパソコン、パソコン用の手提カバンにはいっている、そのカバンの表側についた物入から、数枚の紙きれをとりだした。20026月の全国集会あとの、評議員や事務員が参加した会議の場で、各自が住所と氏名を記入した用紙のコピーがとられ配布されたものが、そこに残ったままのはずだったからだ。柄谷行人らの自筆サインにまじって、吉永さんの署名もある。ならば、もっと記憶にあっていいのにとおもうのだが、そこで何が話し合われたかさえほぼ皆無な記憶だ。

 

NAMで私が関わったことどもの記憶も、20年近くがたって、きっかけがあたえられなければ、思い出すのも難しい。手元にのこしてあるパソコンから、当時のメールを再読することもできるし、事務員のさい、京都での事務局長だった杉原さんが、記録に残っていたメールや会員名簿などのはいったファイルを作って、新東京事務局に送ってくれていたものも保存されているはずだから、パスワードをおもいだせれば、私が参加する以前のNAMの当初から解散までの顛末が反映されたMLリストが閲覧できるはずである。しかしもちろん、そんなモチベーションはない。が、それがないのは、もう終わったからではなく、私のなかでは終わってないので、振り返る必要が邪魔になるからである。そういう意味では、いまなお反芻している記憶はあるのだ。

 

たとえばその全国集会あとの会議での、たしか休み時間だったとおもう。ラウンジのソファで、会計係であった当時まだ20代前半だったであろう関口君と休んでいると、柄谷がやってきた。たぶん、会議でも、NAM会員の年会費の件が話し合われたのかもしれないのだが、いきなりこう切り出したのだ。

「会費を無料ではだめなのか?」(言葉は正確ではない。)

私は一瞬きょとんとしたが、関口君がすぐに、「それは無理です。」と返答した。ちょうど私たちが、倉数さんが事務局長になった新事務体制が直面したのが、会員更新に伴う年会費徴収手続きだったからだ。たしか、財政の帳簿みたいのをみて、私が、このままの推移だと、予算がなくなって、サーバー代金など払えなくなるのじゃないか? と事務所メールで問題提起したのではないかとおもう。それに対し、たしか倉数さんは、そうですね、だから1万円にしたら、とか返信したような。さらに、現在はコンサルタント会社の社長をやっているという生井さんは、いや10万円でも高くない、とか言い出して。記憶間違いになっているかもしれないが、そこらへんから、いったいどういう感覚の人たちなんだ、と私が突っ込みメールを書きはじめ(あとで倉数さんから直接、人格破壊だ、とかの批判をいただくことになったが…)、そもそも事務が決める話ではないのだから、財政のシユミレーションを作って評議会に問題提起したらどうなんだ、という話になったとおもう。(本書によると、二千円から三千円の値上げになっている。)しかもそこに、近いうち導入するかもしれない地域通貨Qとの組み合わせと、どう事務作業を簡略化するかの話が付け加わっていったような。そういう背景の中で、柄谷の、「無料」という提案が、私的な場面でだとはいえ、投げ出されたのだったとおもう。だから、もしかして、円では無料で、すべてQでの年会費でいいのではないか、という含意だったのかもしれないのだが、記憶ではわからない。

 

しかし私がここでそんなエピソードを引き出したのは、埋もれた一場面を紹介したかったからでなく、NAMの解散にいたる、いわゆる左翼運動の「生々しさ」の伏線として喚起されてくるからである。Q組織のどさくさがNAMに波及して、もう表のメールでは何が起こっているのかさっぱりわからなくなりはじめた頃だったろう、旧事務員としてなおオブザーバー役で評議会などのセンターメールを閲覧できた私の見れる何かのメールリストに、「スターリン主義者」だの、「こんな奴に乗っ取られたNAMはもう終わりだ」(言葉は正確ではない)、と、抜粋された文章が、誰かから、どこかから、転送されてきたのだ。私は直観的に、「スターリン主義者」の「こんな奴」とは、私のことだろうと推察した。そして即座に、「これが私のことであるのは明白です。以後慎みます。」とオブザーバーであることを超えて返信した。あとから考えて、摂津さんのことかな、とおもいもしたが、むしろ、私が見ることのできるところにわざわざ転送したのが、摂津さんだったろうとおもわれた。私の勘違いではなさそうなのは、あとで、なお芸術系のプロジェクトで残っていた岡崎乾二郎さんらとの会合で、田口くんからその柄谷の口真似で揶揄されもしたからである(半分は、冗談でだが)。

 

柄谷は、Q組織では、実務をになった事務労働側についたわけだ。がNAMでは、事務側を批判する権威側の立場にたった。そしてその事務を仕切って影響をふるっているかのようにみえた私をやり玉にあげるシーンがでてきたわけだ。全国集会での会議をこえて、私と、会計の関口君のところにやってきたのは、そのときすでに、そういう認識の下地があったということだろう。常識的に考えて、社会的立場としても日雇いのような植木職人にすぎない私が、NAMを仕切るとか乗っ取れるとかありうるはずもないはずだが、そう思いこむのには、ジャーナリズム世界で著名な活躍をしている者の被害妄想なんだろうな、と私は思う。そう思わせる伏線については、あとで言おう。(というか、すでに似たようなことは、摂津さんが主宰したHPかどこかで提出してきている記憶があるが…)

 

ここにある事態を一般化して、吉永さんの言葉で引用付言してみれば、

 

NAMはヴァーチャルだから、現実の社会的諸関係から脱しようとする自律した個人の集まりとされた。しかしそれが集まってプロジェクトを作るとなると、それではすまない。誰もがアドヴァイスやコンサルティングや社外取締役的な立場に収まって発言するだけであれば、それは気持ちがいいだろうが、そうはいかない。どうしても、使う、使われるの非対称な関係が発生する。現実の場であるので、使われる側は定常的な実務が、使う側はリアルな責任が発生する。…(略)

 QとNAMの対立のきっかけも私見では以上のことが原因だ。しかしこれは一般にそういうもので、これに処するにはもはや理論や組織技術、政治技術ではなく、人の器・度量しかないのかもしれない。理論的あるいは経験的に豊かな人に教示を請いたい。私にはここまでの認識が今のところ限界だ。>(p273~274)

 

しかし私の認識では、吉永さんが本著作の最後で希望的にとりあげた岡崎さんが主宰していた、芸術系プロジェクトも、結局はそこで自然消滅になったのだ。岡崎さんは、柄谷はニコニコしていなければならない、とか言っていたし、岡崎さんは、おおらかな人である。私は、だからそれは、「人の器・度量」が問題なのではない、と認識する。「使う、使われる」という用語は漠然すぎて、私のこの件での感覚ではもっと狭く、ヒエラルキーという用語をしたくなるような構造がはらむ問題だ。広い用語でなら、知識人と大衆とかといったほうが近くなる。インテリ同士でプロジェクトをくむ、たとえばこの吉永さんの著作を編集していくような作業ならばまだ成立しても、どんな相手なのだかはっきりしない匿名的な人たちを集めた組織で、フェアな関係を目指してことをなそうとしたら、認識差や動機の温度差が生じてくるのは不可避であろう。Q組織でどたばたがはじまったと伝え聞いたとき、私はそれはNAMに波及し、いずれはRAM(芸術系プロジェクト)にも来るだろうと認識していた。金太郎飴みたいに、どこを切っても同じにみえたのである。そしてなんでかは知らないが、私は知識人と大衆を媒介するような位置にいるようだったので、私が手をひけば、両者がバラバラになって、もとの理念としての組織形態は解散する方向にぶれていくことになるのは論理必然だろう、と洞察していた。そういう意味でなら、柄谷が「こんな奴に乗っとられたNAMは終わりだ」との認識は正解なのだろうが、それは、私のあずかり知るところではない。

 

柄谷は要するに、NAMでは最後、大衆を切り捨てて「前衛」でやり直すと言ったわけだ。あのメールでの謝罪後、沈黙を決めこんだ私は、若い関口くんに、いまごろ柄谷はNAMを解散して新しいNAMの合作をしているとおもうよ、と言い、関口君は「そんなことはありえない」とびっくりした返答をしたことがあったが、吉永さんの著作で、浅輪さんを担いではっきりとそう動こうとしていた、とあると確認できる。が、この著作では触れられていないが、新代表の田中さんは田中さんで、柄谷を切って、NAMに集まった人たちと再結集した運動組織をたちあげる合作もしていたはずだ。そういう証拠をたまたま東京の事務所で私がみつけた、というような文もどこかに書いた覚えがある。

 

しかし以上のような問題点も、吉永さんの大枠の問題、<「権力を特定の人間に集中させない」「中心があって中心がない」という組織を作ることの圧倒的な困難>、ということに帰着するだろう。が、私が言っているのは、それにも、前提がある、ということだ。「前衛」的に、意があらかじめある程度は通じ合えるインテリの間でだけでなら、それは可能ではあるだろう。それが「困難」になるのは、匿名的な大衆なり民衆を巻き込んだ組織でありたいのならば、ということだ。そして私自身は、その「困難」を回避した「前衛」になど、興味がない、ということだ。

 

NAM内でのメールでも私は言っていたとおもうが、『原理』がめざす組織は、要はフリーメーソンみたいなものでは、というのが、私の解答だった。ただ、秘密結社ではないメーソン、貧乏人でもはいれるロータリークラブ、といったイメージ。ボスのいないイタリアのマフィア組織、といってもいい。ネット組織上の前例では、「副島隆彦の学問道場」などがうかがえるが、中心がある、ということになるのだろう。

 

<NAMは「NAM原理」の承認(「契約」といわれた)に基づく個人の自由連合だったわけだが、その妥協を許さない最大限綱領たる「NAM原理」から「外」に出ることで、現実の文脈との妥協を伴いながらの闘争が可能となる。例えば「NAM原理」では、「議会による国家権力の獲得とその行使を志向しない」とされているが、議会制民主主義へのはたらきかけを目的とするプロジェクトも充分可能だ。わりと柔軟だったのである。>(P272から273)

 

私が重きをおいているのは、吉永さんの上のような注釈の部分になるのだろう。「中心があって中心がない」というよりも、「在野」があって、その関係の濃密度なところが、中心的に働く、そのように見えてくる、という感じだ。だから、吉永さんは、「現場」というと、活動家の現場のこと、つまり対抗運動の「中心」としてなりうるものを掲揚しているが、私の「現場」は、あくまでそこらの資本主義下の労働現場そのものみたいなものだ。そこで、矛盾がでてくるのだから、そこで闘うという大衆の当たり前が前提ではないのか、と。

 

もう少し比喩をつかえば、国家官僚の佐藤優がNAM会員であったとしても、それは会員本来の姿でもありうるのだ。私は佐藤優にはむしろ批判的であるけれども、いまはともかく、外交官だった当時、彼は柄谷の著作や認識思考を使用・利用しながら活動していたという。解散後、柄谷は佐藤とも何度か対談している。彼がNAMの会員であっても、驚くには値しない、というのが私の理解だ。彼はキリスト教徒であるが、NAMには、仏教徒のお坊さんだって入会していた。それらがどういうことなのか、そっちの在野の意味をくみ取って考えるほうが、私には大切なことであり、その現実受容がなければ、頓珍漢になるのではないか? 吉永さんは、「中心」のモデルとして、湯本さんをとりあげているようにみえる。岡崎さんの芸術系の会合での報告によれば、湯本さんは、その後イタリアの修道院にはいってしまった、あるいははいろうかと言っている、みたいなのがあった。私には、チンプンカンプンな世界の出来事だ。湯本さんとも、たしかTQCのイベントでか面識があって、こちらの記憶は、その顔がはっきりしている。たしか、背が高くて、上から私をみおろしていた。その静かだが鋭い眼光は、私を吟味するようだった。

 

この吉永さんの、この著作を紹介するブログに、編集にたずさわった若い研究者の考察が紹介されている。そこでは、東浩紀のツイッターからの文句が冒頭引用されて、その「ゲンロン」での、「批評空間」でなされた以後の批評・文学史のことが言及されてもいる。私自身のブログでも言及したことがあるが、その東の現代文学・思想・批評史には、佐藤優の名はない。しかし好き嫌いはともかく、中上健次の後釜は、佐藤なんだ、というのが私の理解の仕方である。もう、基準の違う見方をしなくてはならない。というか、そもそも、NAMを、その「原理」を、そう取り込める広さであらかじめ読んでいた、ということでもあるのだろう。

 

柄谷本人はどうだか、知らない。

長くなってしまったので、いったんここでこのブログを閉めるが、以上のようなことは、すでにどこかで、摂津さんの主催したHPなどで言及してきたことである。まだ、以前への言及を繰り返さないと話を作れないところもあるが、次回は、その東の最近の『ゲンロン11』での特集などをふまえて、新しい装いで言語化できたら、とおもう。ちなみに、その「ゲンロン11」は、蛭田さんから、先月、借りてきたものである。そういうふうに、なお、人間関係はつづいている。フェイスブックでつながっている、もとNAM会員も結構いるし、京都の後藤さんとも、年賀状のやりとりをしている。結婚し、お子さんもできたと手紙をもらっている。吉永さんも、パパになったとか。私の息子は、高校3年生になる。

 

NAMの原理は、遺伝子だったはずだ。ならば、解散など、ありえないというべきである。私はおもうんだが、少なくとも、私くらいの世代で参加した人は、いま交流がなくとも、心が、通じてないですか?