2026年2月1日日曜日

民法と徴兵制


大学へ進学しなかったいく子は、かわりのように中央大学通信教育部に通った。そこで沼先生という方を師事していて、その講義中のカセット録音テープも残っている。その先生の名字だけを検索してもひっかからず、当時の同級生女子(「沼先生のファン」だったと手紙にある)、中上健次の熊野大学にも一緒に同行した和歌山の方に年賀状ついでに尋ねても、私は会ったことがないのだ、という返事だった。だが、次創作準備に入り遺品を再整理再検討していると、中大通信教育部発行の冊子がでてきた。そこに、沼正也、という名前でエセーを寄せている。再検索をかけると、民法専門の中央大の名誉教授だとわかる。

 

私は、「白門」というその冊子の、「民法を成立せしめているテーゼ群」というのを読んでみた。(あちこちにいく子が線をひっぱっている。)

 

読んでいて、現日本総理の高市早苗の台湾有事での存立危機事態成立云々の発言をめぐっての、苫米地英人のYouTubeでの解説中の、よく腑に落ちなかった部分が、わかってくるような気がしてきた。つまりこういう法前提的な理解があって、しかも、もし高市らが憲法9条を変更しても、それをなお日本国憲法において無効にしえる法的根拠、あるいはそこを思考する示唆があるのではないか、と思えてきた。

 

事実上の“宣戦布告”!? 高市総理「存立危機事態」発言が国際情勢を揺らす(苫米地英人)

 

苫米地は、日常言語としてではなく、存立危機事態という法的用語を説明しながら、自衛隊をめぐる9条問題にも言及する。隊員の離職者が多いのだから、有事で戦争といっても、なおやめていったら実行維持できない。現今の自衛隊の法的位置づけは、警察権の行使なのであり、外国の侵略も泥棒にあたる。それに対処するのは(国家)公務員であって、ゆえに、その職業をやめる自由がある。が、憲法9条に、自衛隊は軍隊であると明記したらどうなるのか? 今でも実質そうなのだから実際にも何も変わらない、という話(現実)にはならない。憲法に明記されるとは、それが国家を縛ることになる、つまり、軍隊を維持するのが国家の義務になるのである。自然権の一部なりを国に信託すれば金がかかるのだから税金として納めるようになる、ただでやってもらうわけにはいかなくなるのと同じだ、つまり、国民の権利が義務として跳ね返ってくるのである。防衛の問題も同じになる。徴兵されることが、国民の義務になってくるのだ。9条2項で排除されている交戦権も認めれば、自衛隊はもはや自国領土・領海内での警察権行使としての存在ではなく、国境をこえた他の国への支援、集団安全保障の実行も明確に可能になる。

 

私は以上でいう、国民の権利と義務の転換の話が、よく腑に落ちなかった。職業選択の自由があるのだから、徴兵は、たとえ憲法改正がなされても、無理なんではないか、と。それが国民投票もいらず、与党の閣議や国会議論上で法的に成立しても、個人(市民)の権利として抵抗すれば、つまりその職業を選ばされることを拒否すればいいのだから、強権的な無理な実行をともなわざるをえないのだから、実際運用は成立しないのではないか、と。なのに、どうしてこの転換が、機械的に変わるのか、なんで原理が変わりうるのだろう、と。

 

が、沼先生の講釈によれば、なお近代法成立の過程において、その両義性が内包されているのだと。国民と市民が、この矛盾が、解決解消されていないまま残っているのだと。が、日本国憲法は違う、と。第九七条の「最高法規」の規定が、「『国民の権利および義務』中のそれとは次元を異に」させているのだ。むしろこの国家を超えた「最高法規」規定が、憲法9条の戦争放棄の定立を「演算的帰結」たらしめているのだ、と。

 

私は、法的知識、理解はまったくないけれど、これは、現選挙後の世界(国内外ふくめて)において、有効な視点、戦争を防いでいく、若者を戦争で人殺しさせずされない法的根拠を、提示してみせてくれているのではないだろうか?

 

以下、その箇所を抜粋引用。

 

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『市民社会』は、ほんらい理念態であるから、その発想の端緒においてはこの世に現実に存在するものではありえなかった。その実在化は封建社会の崩壊と表裏を同じくするが、封建社会の倒壊を腕力的に早めたのがフランス革命であった。フランス革命の成功は、フランス国家の滅亡を意味するものではなかった。フランス国民が引き続いてフランス国民であることにおいては、変わりがなかった。アンシャン・レジームのフランス国家の領土は、引き続いてフランス国家の領土たることを止めたのではなかった。政権の交替が起こったまでのことであった。ブルジョワジーが、新政権をほしいままにした。新政権は、フランス国家の領土内に独立・平等・自由の理念的属性を帯有する市民から成る『市民社会』を営むことを宣言した。ことの本質において……(『人権宣言』)。

 そのとき、フランス国民は、『国民』という資格のほか、『市民』というもう一つの別個の新たな資格をもつこととなったのである。惜しむらくは、フランス新政権は、新生フランス国家の目的を市民社会の樹立一つに絞ることをしなかった。国家は、あい変わらず雑多な対外的・対内的な目的を背負って(封建的人間関係の許容さえもが、形を変えて……)愚昧な道をたどることに結果したのだった(後年マルクスでさえもが、プロレタリアによる政権奪取に成る社会主義国家は共産社会の樹立のみが唯一の国家目的であることの強調を遺忘した)。それにしても、市民社会が国家権力のバックアップをうけ、封建社会の現実的崩壊の後釜としてじわじわと座り込むというアウトロー的存在から転じ、表面きって呱々の声を上げたのであった。

 市民社会は人間のあらゆる自然的属性の法的受容の拒絶態であるから、人種・民族の差別にも自然発生的な言語にも背を向け、一個の全人類社会の規模においてみずからを完成するという演算関係にある。国家は、みずからの領土内に細切れの市民社会を運営しうるばかりである。市民社会の高度化とともに国家はみずからの生命を死滅せしめざるをえないという宿命はここにあるが、それへの一里塚としては国家はこんにちなお市民社会の樹立について現代的役割をはたしている。死処よろしきをえることが、将来における最大肝要事なのである。

 啓蒙論者たちは、独立・平等・自由の演算数値に思い思い幻想的な観念論の外被をまとわせた。自然状態において人間は、独立・平等・自由であったなどと……。独立・平等・自由われにありという市民の権利の総称が基本的人権と名づけられているものであるが、これを目して天賦の権利などと性格づけるのも、同断であった。二〇世紀が近代自然法思想という浴槽を洗い流したとき、赤子までをも流しはしなかった。独立・平等・自由は演算的所産であったのだから、神や形而上学から切り離されてもなお健在であり続けているのである。奇妙なことにこの国日本では、健在であるものが健在でなく、洗い流されてしまったものがなお健在であるかの観を呈している。基本的人権を天賦のあるいは人間生来の権利であって国家といえども奪うことのできない権利だとか、独立から派生した語である個人の尊厳を生まれながらにして尊いことなどという理解がそれである。基本的人権は、独立・平等・自由を主張することのできる資格の総和であり、個人の尊厳はイコール独立すなわち他者から切り離されていること・差し金をうけないことという形而上学的外被を脱いだ演算成果の意味においてのみ解せられるべきものである。

 アメリカ占領軍当局は、日本国憲法に『最高法規』と題する第一〇章をこっそりとおいた。その冒頭第九七条に規定する基本的人権の宣言は、第三章『国民の権利及び義務』中のそれとは次元を異にして、新生日本の国家目的を日本国領土内に市民社会を運営するということにのみ絞る世界の国々に二つとはない寓意を与えた。それは、第九条第二項と結合して戦争放棄の第九条の定立を演算的帰結たらしめた。(沼正也著「民法を成立せしめているテーゼ群」『白門』12 1中央大学通信教育部 1978121日発行)