2025年9月15日月曜日

返歌

 


福岡に住む、90歳前後であろう妻のおじさん、父の弟さんが、ときおり散文や短歌を送ってくる。判読しにくい手書きであり、意味を読み取るのも難しいのだが、最近いただいたものは、わかりやすい。そのなかからの、抜粋。

 

それと、その返事として出した私の歌。

 

戦後を、遊民的に生きてきたと聞いている。早稲田大学を出ているように思われる。小沢昭一のことを話してきたことがあり、短歌では、中井英夫の名をあげていたりした。市井で生き抜いた人物、の一報告、になろう。妻の祖父は、絵描きだったそうだが、戦中、非国民にされるので、隠れて描いていたとか。印象派のような、鰯の絵が、残っている。妻もダンスをしたのだから、何か、つながっていくようなものが、あるのだろうか?

 

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・かまど馬追わるるのみの身に有れど他に能なくただ生るがまま

・喧騒の人世は祭り踏み入りて変ふるは難き人生にて有り

・才知無く誇るべき無きわが身にてただ真をば求め行きたし

・大和には情大事の誇りあり文化が為の費厭はず

・虫類は社会為してもその仕組み酷薄なるは人に同じき

・情にてそこはかを知る和の誇りあはれをば見る慣はしに有り

・白蟻の群為す明かり都市にあり生活劇場営みてをり

・人々は逃れむとして無意味にもシャッター降ろし廃墟見せをり

・かまど馬奏でも為さず闇に居り明かり求める術もなきのか

・大都会並木の化粧青白きLEDの冷たきひかり

・かまど馬その一生に便所なる名付け為されて生の意味知らず

・翅亡くし耳とて怪しかまど馬生きをることに修行とも見ゆ

・狭き隙に脚挟まれば邪魔に有り脚さへ断ちて明かり求むる

・倅住む家は土地には建ちをらずわれら夫婦は死ぬを競ひをり

・子を持てぬものと決まりしわが子にはこの世汚さぬことを祝ぎなむ

・共喰ひの生とは見るなり子を負ひて生命与ふる親を知るなり

・子に喰はる類か否にかかまど馬終には只物にと帰る

・民主とは遊び許さぬものにして個性なき群が青白くあり

 

 

私の返歌……「かまど馬」に対し、家に出没したばかでかいアシダカグモや、細長いユウレイグモを連想した。

 

・掌を開けるごとき家蜘蛛よ妻の命日竦む身で待つ

 

・害虫を食するものと言う蜘蛛と遺影を前にじっと対峙す

 

・守るべきは家にやあらん白壁にかそけく歩む幽霊蜘蛛

 

・帰省するや二輪にまたがり出かけ行く息子のこせし爆音の魂(たま)

2025年9月4日木曜日

スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社)を読む(2)

 


「恋しゅうございますわ。私のスフィンクス。して胸と肩との恋人。花なすお方。この上忍べとならば小鳥でも鳴いて仆れるでございましょうに。まして前の窓も壁もぼんやりしていること!」<「郁子より」『高群逸枝全集 第9巻』 理論社>

 

ファインマンが量子力学を理解できるものはいない、と言ったように、ジジェクの理論の根本を理解することは難しいのかもしれない。ジジェクはその量子力学においてのアポリア、観測問題こそを人間理解のための根底に導入する。アインシュタインらによってEPR問題として論理的な矛盾として提起されたそこは、矛盾であろうが現にそうなっていることとして受け入れられ、実用応用化されている。が、その矛盾を理解することが解決されたわけではない。定説的には、ボーアらの波動の収縮というコペンハーゲン解釈ということになるのかもしれないが、その現象をなぞって述べただけのような仮説に対し、まだ見つかっていない隠れた変数があるとする提起、波の世界も実在的によそで存在していっているという多世界解釈、分子同士が観測しあって収縮すると説くデコヒーレンス論、あるいは波世界の不可知さを物自体として遠ざけるカント主義的な見方、そして波も粒子も同じ「コト」として一元化する情報論、等があるのだろう。

 

    私流的な問題把握は、『陰謀論者はお客様』(BCCKS 電子出版)によって要約提出している。

 

ジジェクは、それらどれをも退ける。「素朴実在論」ではないが、あくまで「実在」を手放さないので、つまり情報(「コト」)世界として割り切った態度はしないので、物理学上のアポリアを引き受けるのだ。そして、「崩壊」(収縮)それ自体に着目する。その崩壊過程を、フロイトやラカンの精神分析によって仮説構築してみせる。

 

人間という自然自体が、根源において崩壊(敵対)を抱え込んでいるのだ、というのが、定理Ⅰ(「存在論の視差」)、になる。

 

この定理を、日本の思想史的な文脈でいうなら、吉本隆明の『共同幻想論』と対比させてみるのがよいのかもしれない。吉本は、自己幻想、対幻想、そして共同幻想は、心理的に対立的な機構と思想性をもっているので、それらが衝突すると「逆立ち」するような関係になると言う。がジジェクによれば、それらは同じ形式に従っている。「狂気(自己)、性(対)、戦争(共同)」との関係は、逆立ちするまでもなく、同じ強迫反復という享楽の形なのだ。それらは、両立する。どころか、過剰な相乗効果だってもつかもしれない。それらの思想は、狂気と和解しようとするのではなく、その深淵に呑み込まれてゆくのだ。

 

ジジェクが引用したニーチェの「虚無の沼地(深淵)」をめぐるアフォリズムには、次のようなものもあったはずだ。深淵を覗き込むものは、自らが怪物にならないよう気をつけなくてはならない、と。しかしこのニーチェの格言は、だから深淵(狂気)に近づくな、ということではなかった。自ら深淵を覗き込む怪物のごとくなって、その縁にとどまれ、ということである。その実践だけが、狂気や性、そして戦争との和解の在り方なのだ。

 

ジジェクも同じように、深淵を覗き込むことをやめない。そしてこの深淵(「絶対」)に一番近づきやすい現場が、「性」という現象の発生場所なのだ。

 

それが、定理Ⅱ「人は性を通じて絶対に触れる」、となる。

 

根源的には「崩壊」があるのだから、それは砕け散っている多数過剰、+だ。これはどちらかというと女性的、とされる。がこの混沌を収める二次過程として、主人(男性)が必要とされてくる。そしてその男性への対は欠如であるがゆえに、その穴埋めとして、女性をはじめ多様な文化的工夫が導入される。「崩壊」は、歴史を超えた普遍的な相であるが、この二次過程以降は、歴史的な事態となり、文化集団によってもそのやり口の内容は変わってくる。だからこそ、ここにおいて、介入の余地、深淵を覗き込んでではどうするかの実践の可能性がかかわってくる。「唯一の解決策は、「人間の本性」は今日も変わり続けているという事実を受け入れ、この変化の危険性と可能性にわれわれ自身をさらすことである」と、ジジェクがいうのは、そのことだろう。

 

では、だからどうするというのだ? 具体的な方策は提示できないが、より詳細な分析を通して、ヒントは提示できる。

 

それが、定理Ⅲ、「三つの向き付け不可能なもの」、である。

 

「崩壊」というのは、「無」に帰すということではない。「無未満」とよぶべき波の、可能性の群れが砕け散っているということだ。それらは、「崩壊」後の、モノ化した現実の内にも潜勢している。モノ化しても、自己不一致にしかならなず、崩壊への不安を抱えこんでいる。集合体への欲望は、その不安(敵対)ゆえであり、各要素が自己同一性を頓挫させる否定性を抱え込んで在る、ということなのだ。しかし資本主義が他の生産様式と違って生き延びてゆくのは、この不安、危機によって衰退に向かうのではなく、それこそを常態として抱え込んで生かしている、ということだ。それは強迫反復(死の衝動)という不死の循環運動をなぞるのである。それは強い享楽ではなく、この循環運動(失敗・失恋-危機)を反復するそのこと自体が弱い享楽(剰余享楽)として嗜好される。これは、ヒッグス場でのボーズ粒子発生のパラドックスと厳密に構造的に一致しているとジジェクはみる。システムが完全な休止状態(無)よりも、繰り返し欲動の円環で動いていたほうが安上がりであり、エネルギーがいらないのだと。

 

だから、ならばこうなる。

資本主義に収斂された各要素、歴史にも、否定性を抱え込んだ敵対がある。日常現実に空いた深淵を覗き込み、その潜勢を認めたもの、それと関係しその力を引き出そうとするものは、安上がりなシステムに亀裂をいれるエネルギー浪費者だ。それは局所的な強い享楽でしかありえないかもしれない。しかしその否定性の力だけが、深淵に呑み込まれることを回避させ、和解させるのだ。

 

以上が、私流の、ジジェク解釈である。

 

ジジェクは、ヒッグス粒子というボーズ粒子に分類される物質の原理的性質に注目した。が、私が着目しているのは、もうひとつの原理的性質をもつと分類される、フェルミ粒子である。これは、二つ以上の粒子が同一の量子状態を占めることはできないというパウリの排他原理に従う。だからもし電子がフェルミ粒子でなく、ボーズ粒子だったら、エネルギーの一番低い軌道にみんなで入っていけるとなってしまうので、モノの形が成立しなくなる。が排他・単独的なフェルミ粒子も、群れるボーズ粒子に支えられている。陽子も中性子も、その内のクオークもフェルミだが、無数に飛び交うボーズ粒子を共有することで存在できる。なんで物質は、そんな関係にあるのだろう?――私がここで思いを巡らすのは、高群逸枝の婚姻史だ。まず群婚制がある。次に男による通い婚が生じる。そして、男性支配の父権制になっていく。この仮説には、物質的条件と前提がふまえられていないか? 私は(作家の赤坂真理も)、性は内省・現象学的には、男女を両極とするグラデーションの現象にみえる、と言ってきた。もしかしたら、このスペクトラム現象も、エネルギー準位が飛び飛びの値をとるように(パウリの排他原理があるので)、量子的なのだろうか? ジジェクは、男性は「高次元」を導入する力学的崇高で命をかけるまでゆくが、あくまで感覚内部にとどまる女性は数学的崇高に従うので、歯止めがききそこまでいかない、という。内省的に、もっと突き詰めたくなる示唆だ。

 

またもうひとつ、量子力学で気になる点は、ゴミ問題だ。ボーズ粒子は、波に質量を与えて物質化、つまり無未満な状態をから物質を発生させる。が、その際における波(可能性)の消滅には、廃棄されたエネルギーが残るはずなのに、それがどこにいったのかわからない、というのである。もしその在りかがわかったら、つまり消えてしまってもエネルギーが残っているとわかったら、実は、ジジェクのいうように、安上がりなシステムではない、ゴミをどこかにおいやっているだけだ、みたいな話にならないのだろうか? 

最近のスマホにひっかかってきたニュースで、「情報は消すとエネルギーになって漏れていく――情報の物理性実証に成功」という『ナゾロジー』での記事があった。こうした研究発見は、どうジジェクの哲学と関わってくるのだろう?

 

ジジェクは、その哲学から、政治的に発言し、近未来を予測する。EUの理念を擁護し、ウクライナ支援を要請する。演繹法だ。経験実証的な帰納法と言えるかもしれないエマニュエル・トッドの主張とは、正反対、になる。また具体的な主張の前提となる現状認識も、日本での情報とジジェクのそれは異なっていた。私はこの違いは、ロシア(とウクライナという戦場)との距離の違いなのか、と以前のブログで理解してみた。いわばロシアに近すぎて、要はこわい、ということではないか、と。がウクライナ支援をもっと、とはいっても、ジジェクは『戦時から目覚めよ』でこう言っている。――<ロシアとの全面対決を引き起こそうとする連中にとっては、新たな戦争が起こる可能性は実際に存在する。彼らの意見を要約すると、「ついに、われわれを分裂させている女性の権利擁護や反人種差別主義といった偽の闘争が終わり、資本主義の危機に関するくだらない議論が脇に押しやられ、男たちが再び男らしく戦うときがやってきた。女子どもがウクライナを逃げ出す一方で、男たちが使命を果たす祖国ウクライナに戻っているのはそのためだ!」となる。>……しかしウクライナ支援の実際において、マッチョなものとそうでないものと、区別できるのだろうか?

 

またもうひとつ。

 

もしかして、このジジェクの唯物論哲学に一番近い日本の作家は、埴谷雄高のような気がしている。ジジェクは、唯物論に立つために、「動物によるニュルンベルク裁判のようなものを想像してみよう」(p85)と言う。これは、埴谷の『死霊』だ。ドストエフスキーの「大審問官」がカント哲学によった人間立場の堅持と懐疑を提示したのに対し、埴谷は、「自同律の不快」を根底に、よりヘーゲル的な過激な読みをして、人間を超えたアニミズム的な裁判をブラック・ユーモア的に提示してみせた、ともいえそうだからである。

ジジェクは、資本主義の次に訪れるかもしれないポスト・ヒューマンな世界(バイオテクノロジーによるような)を、その危険と可能性をもって肯定しなくては、と述べるわけだが、その話を聞くと、私は、苫米地英人が佐藤優とのAI議論でのべたことを思い出す。人間は、脳みそだけなら200年生きられる、そうなっていく……私は、脳みそだけで生きたいと思わない。バイオ技術が、生体内に投与するAI機能付きナノ・チップで健康や情緒管理がオートマチックにできるようになっても、それで健全で平和な人間なるものになりたいと思わない。が、そうしないものは、近代的なヒューマン観に立つ野蛮人、不健全で、怒ったり悲しんだりする情緒不安定な危険人物、保険も高くつくよ、みたいになっていくのだろうか?

 

最後に、ジジェクのこの書より、十年ほどまえに書かれた、大澤真幸の『量子の社会哲学』から引用しておく。

 

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量子力学にあっては、真空でさえ単なる無ではない。真空もまた、「それ以上の何か」であって、そこでは、ゆらぎを通じて物質が出現したり消滅したりを繰り返している。これと対応することを、われわれは、親しい<他者>が亡くなったときに体験する。この部屋には、もう彼/彼女はいない(真空)。ただ、彼/彼女が使っていた万年筆やベッドがあるのみだ。このとき、ますます、われわれは彼/彼女の現前を感じてしまう。無に対する残余として、<他者>の実在をむしろ強く感覚するのである。

 量子力学では、普遍性は、だから、「これですべてではない」という消極的な残余の形式で暗示されるのである。「これ」の向う側に、積極的に、全知の神を想定しようとすれば、ここまで論じてきたように、逆に、ある種の無知を――<他者>の生についての無知を――代償にせざるをえない。とすれば、われわれは、次のように言うこともできる。量子力学に至りついたとき、人間は、それについて無知である限りで、神とその下にある人間界の秩序の安寧が保たれるような、恐ろしい深淵を垣間見てしまったのだ、と。

2025年8月17日日曜日

スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』(青土社 中山徹+鈴木英明訳)を読む(1)

 


 まず引用する。

    翻訳中のルビ、および強調傍点のような字体の横につくものは、このブログの機能上により、省略してある。

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定理Ⅰ 存在論の視差

 

 「自由意志」への欲望……自己の行為に対する全的な且つ究極の責任をみずからに負いたいという欲望は……おのが頭髪をつかんでわが身を虚無の沼地から(aus dem Sumpf des Nichts)救い上げようとするのと……同断である。

 

ニーチェがここでしりぞけているのは、ドイツ観念論において主体を規定している自己措定である。ここで銘記すべきは、そうした「わが身を虚無の沼地から救い上げようとする」動きが自然のなかであらかじめ示されていることである――ここでいう自然は、「前-自然的」な、いまだ自然的ではない現実、粒子が虚無から現れる場としての量子の原初的現実という意味での自然のことであるが。(p39)

 

これと同様に、量子物理学における<現実的なもの=現実界>は、波の振動(波動関数の崩壊を通じて現れる現実と対立するものとしての)ではない。それは、ひとつの動きとしての、「生成過程にある」この崩壊それ自体、構築された現実へと安定化する以前の段階にあるこの崩壊そのものである。チェスタトンは人間がサルの眼にどう映るかを想像せよと要求したが、それと同様にわれわれは、現実の構築が波の振動する空間の内部でどのように起こるのかを想像すべきである。同じことは性的差異についても言える。性的差異の<現実界=現実的なもの>は、男性的アイデンティティと女性的アイデンティティとのあいだの差異ではない。それは「生成過程にある」この差異そのもの、差異化された複数の項に先立つ<自己>差異化の運動である。(p56)

 

つまり、量子の波が小さく、宇宙が大きいのは、われわれの基準からみてそうなのである。そしてわれわれは恐れることなく、この論理を次のように最後まで突き詰めるべきである。樹木やほかの植物はなんらかの方法でコミュニケーションをとっており、脅威を感じたときパニックを起こして反応するということを科学者が証明したら、どうだろうか。産業用の飼育場にいる動物が耐えがたい苦痛を日々受けており、われわれ人間はそれを無視しているのだとしたら、どうだろうか。だが、なお悪いことに、この計り知れない苦痛に対して無知であることが、われわれの進歩と表裏一体の関係にある、つまり進歩の必然的な裏面であるとしたら、どうだろうか。数々の文化的偉業を成し遂げた人類がこの無知から生まれたのだとしたら、どうだろうか。われわれは、いま見えているものだけを見るために、こうした沈黙のつぶやきという巨大な領域を無視する必要があるのだとしたら、どうだろうか。

 ここからわかるのは、「客観的現実」に関するどの概念もひとつの主観と結びついているということ、そして、あらゆる客観的現実を考慮に入れた全体のなかにわれわれの現実を位置づけるのは不可能である、ということである――われわれの住まう地球が実は別の現実における小さな原子にすぎないとしたらどうだろうか、われわれが原子とみなすもののなかに知的生命が存在しているとしたらどうだろうか。しかしながら、時間と空間つまり物質の分割不可能性に関する量子理論を信じるなら、時間と空間は無限ではない。つまり、空間と時間には量子論的な極小単位が存在する。このことは、ものの大きさを測るための客観的なものさしを提供してくれるのではないか。(p86)

 

鍵となる問いは、こうである。われわれは「現実的なもの」との接触を、自身の主体性から抜け出すポイントを、どこに求めればよいのか。われわれはまさにこのレベルにおいて、次のように事態を逆転すべきである。現実的なものは、われわれが自分の主体性の痕跡を消去したあとでその輪郭がはっきりと現れる、そうした「客観的現実」として接触可能なものではない、なぜなら自然それ自体に関するあらゆる積極的な規定は、すでにわれわれの立場からなされているからである、と。われわれにとって接触可能な唯一の現実的なものは、われわれの主体性の過剰性である。主観による理解が及ばない盲点とも言うべき領域は、自然それ自体ではなく、われわれという主体性と自然それ自体との調和のありかたなのだ。この盲点と言うべき領域は、主体を欠いた客観的現実ではなく、客体(対象)としての主体それ自体である。主体はけっして自然と調和しない。主体とは、あらゆる存在論的体系における裂け目なのである。したがって、ここにみられる構造も、ある種のループ構造である。現実「それ自体」をめぐる、われわれから独立した事物の「実際のあり」方をめぐる新しいヴィジョン(ニュートンの機械論的宇宙、一般相対性、量子波)が、ますます精密さを増しながら構築されてはいるが、そこにはつねに次のような懐疑がひそんでいるからである。このヴィジョンは、そのへその緒であるわれわれ自身の観点と根っこの部分で結びついているのではないか、そして、それは風船のように破裂するのではないか、と。われわれが<現実的なもの>と接触するポイントは、新たな科学的モデルを通じて徐々に接近可能となるX地点ではない。そうではなく、そうしたモデルの構築によってわれわれが埋めようと試みる、現実における裂け目である。より厳密に言おう。(生活世界の)日常的な現実におけるわれわれの住処は、けっして安全な場所ではない。ここには、この住処を崩壊させるおそれのあるギャップがつねに潜んでいる。そして、直観に流されない科学的(あるいは形而上学)説明――これをわれわれの日常的経験に変換することは、ますますむずかしくなっている――は、まさにこのギャップを懸命に埋めようとしている。つまり、われわれの主観的観点から独立した事物のありようを「完璧に」記述しようとしている。だが同時に、こうした補足としての説明はその正体、虚構という正体を暴露されるおそれがある。それゆえに、現実的なものとの唯一の接触点となるのは、ギャップそのもの、すなわち、日常的な生活世界とその科学的補足とのあいだの移行ポイントである。(p89)

 

人間存在においてこの「欠陥」に付けられた名前は、セクシュアリティである――フロイトの暗黙の(ラカンによって明確化された)前提である。セクシュアリティとは、文明化された生活の自然の基盤ではなく、人間という動物の生活を「文明化する」きわめて根本的な身振りである。これは、われわれにとってもっとも重要なフロイト的前提である。つまり、労働でも言語でもなく性こそが、われわれ(人間)が自然から切断されるポイントなのである。性とは、われわれが存在論的な不完全性に直面し、無限の自己再生産というループ――欲望のねらい(aim)が欲望の目標(goal)ではなく、その目標の欠如の再生産になるというループ――にとらわれる場なのである。(p90)

 

定理Ⅱ 人は性を通じて絶対に触れる

 

崇高は、自分の私利私欲を超えているものの存在を感じさせ、理性的なものである無私の精神を示し、そうした精神に潜む快楽を教えてくれるのである。(p159)

 

これが意味するものは、ラカンが享楽(jouissance)と呼ぶもの、つまりは過剰な快楽は、道徳法則と同じく、快原則を超えているだけではなく私利私欲をも超えているということだ。快原則を超える次元にフロイトがつけた名前は死の欲動であり、したがって、死の欲動もまたカントのいう意味で感性的動因によらないものである。(p161)

 

力学的崇高において、われわれは否定的なやり方で道徳法則を力として経験し、この力のおかげで自然の猛烈な力という外的な脅威に抵抗できるからである。…(略)…しかし、われわれが数学的崇高を経験するときに起きていることは、これとやや異なっている。数学的崇高を詳しく検討するとわかるのだが、この崇高は、感覚的なものの外部にある、これとは別の「高次の」次元が存在することを暗示してはおらず、感覚的なものの秩序に対する例外を暗示してもいない――数学的崇高が暗示している「超感覚的なもの」は、人間の知覚能力の限界まで拡張された感覚的なものそれ自体なのである。われわれがここで出会っているギャップは、感覚的なものに内在しており、ラカンがすべてではない(non-all)というアンチノミーとして定式化したものに一致する。感覚的なものの秩序にとって例外は存在しないのだが、にもかかわらずこの秩序は全体化されえない。つまり、感覚的なものの秩序はすべてではないもの(非-全体)であり続ける。言い換えれば、感覚的なものがここで克服されるというのは、これとは別の、高次の次元に向かって克服されるのではなく、感覚的なものの内側で、それ自身の矛盾に陥るということなのである――これが、ラカンが女性の享楽(jouissance feminine)と呼ぶものの特徴である内在的対立である。ここでわれわれは、序章で手短に概略を説明した、男性のセクシュアリティのアンチノミーと女性のセクシュアリティのアンチノミーとの差異にもどることになる。女性の享楽には限界がないがゆえに、そこに内在する行き詰まりが障害となっている――この行き詰まりのために、女性の享楽は自制(self-renunciation)に向かう可能性がある――のに対して、男性のセクシュアリティの秩序は、性的ではない例外に(カントの場合は、倫理的な)例外に依存しており、この例外が男性の世界を支えているのである。(p162)

 

男性と女性は中身のある実在物ではなく、敵対の二つのタイプそれぞれの形式的構造だということである。…(略)…女性の主体性の核心にあるのは、イデオロギー的な呼びかけによって与えられたアイデンティティをヒステリー症的に疑うことなのである。「あなた(主人)はわたしのことをそう言いますが、なぜわたしはあなたが言うような者なのですか」。だから、女性がイデオロギーの甲羅という拘束から逃れようとする亀に似ているのに対して、男性はこれとは反対に、自分の手から永久に逃れ続ける、ファルスという象徴的アイデンティティをつかもうとし、「おれは本当に男なのだろうか」という強迫的な疑念に苛まれるのである。ようするに、性的差異とは差異それ自体に対する差異、メタ差異なのだ。性的差異とは、二つの性の差異ではなく、性的差異に関する二つの様式の差異であり、性的差異をめぐる二つの「機能(関数)」の差異なのである。ラカンの性別化の式に対する一つの解釈として、次のように考えられる。男性の側においては、性的差異は人間(男性)の普遍性とこれに対する(女性という)例外との差異であり、他方、女性の側においては、性的差異は(女性の側の)すべてではない(non-all)と(男性の側の)例外はないということの差異である、と。言い換えれば、性的差異は、二種類ある性の普遍性(この場合、トランスジェンダーなどのほかの種類を加えていくことができる)の差異ではなく、性の普遍性そのものに内側から亀裂を入れる差異なのである。(p165)

 

われわれは社会的―政治的経験において、これと同じギャップの別のかたち、つまり異なった「生き方」の通約不可能性という見かけをとったギャップに出会う。別の生き方、われわれには計り知れない、享楽を得るための集団的様式もまた<他者性>の姿ではないだろうか。この場合、(政治的権利の、市場の)普遍性と、生き方として具体化された<他者性>とを一致させるにはどうすればよいのだろうか。直接的な解決方法――あらゆる差異を超えてわれわれを一つにする普遍性を主張することと、異なった生き方の、埋めることのできない差異を超えてわれわれを一つにする普遍性を主張することと、異なった生き方の、埋めることのできない差異を受け入れること――はどちらも失敗する運命にある。解決方法は、またしても、神秘を二重化することにある。<他者>の神秘は<他者>自身にとっての神秘である、というように。<他者>を把握することにわれわれが失敗するのは、<他者>が自分自身を把握しようとして失敗することの反映なのだ。われわれと<他者>を一つにする普遍性は、われわれと<他者>が共有する具体的な特徴にあるのではなく、この失敗それ自体のうちにある。これと同じことが、謎めいた<他者性>とのこうした出会いの原型であるセクシュアリティについてもいえる。…(略)…人間のセクシュアリティの原光景が――これと同時に無意識の原光景が――始まるのは、幼児が、他者たち(両親、兄弟姉妹、等々)が自分といっしょに遊んでいると意識するとき、他者たちは自分に何かを求めているのだが何を求めているのかよくわからない、と意識するときだけではない。こうした他者たちは幼児に何を求めているのか自分でも気づいていない、そう幼児が意識するときにも、セクシュアリティの原光景が始まるのである。セクシュアリティの原形式は、他者のこうした行為、他者自身にとって不可解な――自分の子供を過剰に愛撫する母親などの――行為に位置づけられる。(p176)

 

では、最終的に人間の知性の過剰な発達を頼みにして、「汝は何を欲するのか(Che vuoi?)」の深淵、<他者>の欲望の謎を読み解こうとすると、どうなるだろうか。ここに、解きえない問題を解くことに人が固着している理由、解答不能な問いに答えることに人が固着している理由があるとしたらどうだろうか。形而上学とセクシュアリティ(より正確にいえば、人間のエロティシズム)との結びつきがまったく文字通りに受け取られるべきだとしたら? 意味を支える非意味としての、このトラウマ的で理解しがたい核は、究極的には、排除不可能な幻想そのものなのである。(p178)

 

セクシュアリティは、性関係はないという事実によって規定されており、部分欲動の多型倒錯的な戯れが生起するのは、この不可能性/敵対を背景としてなのである。したがって、性的行為(性交)には両面あることになる。オーガズムという性行為の絶頂の裏面は、不可能性という行き詰まりである――セクシュアリティをむしばむこの不可能性、内在的障害を主体が経験するのは、性交という行為を行っているときなのである。こういうわけで、〔性器の結合という限定的意味での〕性交はそれ自体では成り立たないので、霧のような幻想だけではなく、部分欲動という支え(愛撫やキスからはじまって、軽く叩いたり強く抱きしめたりするなどの「些細な」愛の行為にいたるまで)を必要とするのである。…(略)…性的差異は、実質的な存在としての二つの性の差異ではなく、差異「それ自体」であり、あらゆる性的アイデンティティを横断する純粋差異(矛盾、敵対)である。(p184)

 

男性・女性というアイデンティティが中心的であり、この両者の異性愛関係が中心的であると主張することそれ自体は、ほかの性的アイデンティティを、二次的な逸脱あるいは規範からの倒錯的逸脱にしてしまうものではない。異性愛規範からの「逸脱」が、規範それ自体における「逸脱」を指し示しているとしたらどうだろう。「逸脱」が、規範それ自体の抑圧された真実が回帰していることの症候として生じているとしたらどうだろう。この「真実」は、フロイトの言葉を用いれば、あらゆる性的アイデンティティにともなう居心地悪さ(不満というより不安に近い意味で)と呼べるものだ。言い換えれば、根源的対立は、異性愛規範とこの規範からの逸脱とのあいだにあるのではなく、性的差異という不可能な<リアル>を捉えそこなう異性愛規範それ自体の核心に書き込まれているのである。…(略)…性的差異は示差的であるだけでなく、敵対的な(非)関係において、性的差異はそれが差異化する項よりも先に存在するからである。女性は、非男性であるだけではなく、逆に男性は非女性であるだけではない。女性は、男性が完全に男性になることを妨げるものでもあり、逆に男性は女性が完全に女性になることを妨げるものでもあるのだ。(p186)

 

では、すべての性的差異を横断するこうした差異から、二つの性の差異、男性と女性の差異への移行は、どのようにして行われるのだろうか。…(略)…敵対関係が二つのタイプとして現れるのはなぜなのか、と。その理由は、<二>は存在論における根源的な対のようなものではない、ということである。<他>は<一>の不可能性の「反省的規定」にすぎず、それゆえ、<他者>という形象は<一>の不可能性を具体化したものにすぎない。…(略)…性関係はない、というだけでは十分ではない。<他>(の性)という形象において、この非関係はたしかに存在している。男性は女性と関係を築けない、というだけでは十分ではない。女性それ自身がこの非関係を表す名前なのである。

 これが含意しているのは、二つのアンチノミーのあいだには根本的な非対称性がある、ということでもある。「女性の」数学的アンチノミーは「男性の」力学的アンチノミーよりも優位にあるのだ。つまり、力学的アンチノミーは、数学的アンチノミーの行き詰まりを解決しようとする二次的な試みなのである。力学的アンチノミーは、<すべてではない>という開かれた〔閉じることのできない〕領域から<一>を、例外を除外することによって、一つの<全体>、一つの普遍を構築するのである。(p190)

 

では、主体はどのように性別化されているのだろうか。まず、ここまでの結論をまとめておこう。性的差異は、第一に、二つの差異ではなく、それぞれの性の内側にある差異(矛盾、敵対)である。それぞれの性を規定しているのは、もう一方の性との差異では必ずしもなく、それ自身との差異、それ自身のうちに在る「矛盾」なのだ。そして二つの性を横断するこの普遍的差異から、二つの性の差異へと移行するときにわれわれが出会うのは、二つの性のあいだの永久の闘争(あるいは、コスモロジーの水準でいえば、<男性原理>と<女性原理>(陰と陽)や<光>と<闇>などの、対立する二つの宇宙原理)という古くからある話ではない。また、構造主義の用語でいえば、男性のシニフィアンと女性のシニフィアンという、対立する二つのシニフィアンの差異でもない。ラカンが指摘したように、二つの原初的シニフィアンのうちの一つが欠けており、それは「原抑圧」されている(つまり、一方の原初的シニフィアンを抑圧することによって性的差異の全領域が構成される)。性的差異を表すシニフィアンは男性の(「ファルスの」)シニフィアンのみ、ラカンのいう<主人のシニフィアン)S1のみであり、このシニフィアンに女性の側で明確に対応しているシニフィアン(S2)は存在しない。この「対となるシニフィアンの欠如」が意味するのは、男性のポジションのみが同一性を有し、これに対し女性のポジションには欠如/過剰が位置付けられる、ということだ……と述べただけでもフェミニストの怒号が聞こえてくるようだ。存在するのは男性だけで、(ラカンがいうように)女性は存在しない。…(略)…したがって、「性関係はない」という事実は以下を意味している。二次的なシニフィアン(<女性>というシニフィアン)は「原抑圧されている」ということ、そしてこの原抑圧の代わりにわれわれが得るもの、つまり原抑圧によって生じた空白を埋めるものは、数多の「抑圧されたのちに回帰してくるもの」であり、「普通の」シニフィアンの系列である、ということだ。<引用者付記――「…帰結の一つは、男が厳密な意味での唯一のジェンダーであり、女は最初のトランスジェンダーであるということだ。」>しかし、ここで事態は複雑になる。対を成す二項のうちの一方が欠けており、その欠如を埋めるのが多数性なのだが、こうした多数性の起源は、これと対立する起源によって代補されているのである。この対立する起源においては、出発点はシニフィアンの多数性(系列)であり、このシニフィアンの系列における空白を埋める再帰的なシニフィアンとして<主人のシニフィアン>が現れる。(p197~201)

 

こういうわけで、ラカンが正確な言葉で指摘したように、性的差異には非対称性が存在する。男性は非―女性である(男性の同一性は示差的であり、女性の対立物として設立される)のだが、女性は非―男性ではない。ここで気をつけなければならない。非―男性ではないからといって、女性は差異の空間の外部に住っているわけではない――女性の否定性は男性のそれより根本的なのだ。…(略)…ある人が、最愛の人の死のような辛い喪失に苦しんでいるとき、この喪失はその人を肯定的なやり方で規定する、つまり、その人の人生全体は最愛の人のいない人生となる――しかし、最愛の人を失ったあとで、その最愛の人は見かけとは違って偽物だったことに気づき、その結果――その人の構築する契機としての喪失それ自体を奪われ、自分の人生が空無であると悟るとしたらどうだろう。…(略)…この、喪失を根本的に喪失することは、女性の主体性を規定している。(この主体性は、もっと基本的な主体性、主体性それ自体である)。喪失はここで、他動詞的なものから自動詞的なものに変化する。すなわち、女性には対象がない、のではない、女性は「~がない」そのものなのだ。(p203)

 

もしもヘーゲルが自分の体系を今日書きなおすとしたら、その主要な三つの部分は、論理―自然―精神ではなく、量子論的実在(量子波という前存在論的な潜在空間)―現実―精神となるだろう。注意すべきなのは、それぞれのレベルから別のレベルへの移行は、たんなる「進歩」のようなものではなく、失敗(喪失、拘束)を必ずともなってもいるということだ。われわれの日常的な現実は、波動関数の崩壊によって、つまり潜在的可能性が消去されることによって現れる。現実はしだいに進展していき、生命の誕生を経て、思考/精神/主体の爆発的発生へといたる――しかし、精神のこの爆発的発生は、動物の生命の行き詰まりによるものでもある。人間は失敗した動物であり、人間の意識は根本的に限界や有限性に対する意識なのである。(p218)

 

社会や政治の分脈におけるこのパラドクスの決定的に重要な事例は、根本的に誤りを犯したマルクスに見いだすことができる。その誤りとは、先に述べた洞察にもとづいて次のように結論づけたことにある。すなわち、より高度なレベルの新しい秩序(共産主義)は可能であり、この社会秩序は、高いレベルを維持するだけではなく、より完成度を高めていくことすら可能で、スパイラルを描いて自己増殖する潜在的な生産力を現実において完全に解き放つことができるだろう。しかし資本主義においては、この自己増殖は資本主義に内在する障害/矛盾のために、社会を破壊するほどの経済危機によって繰り返し頓挫させられている。これがマルクスの結論である。ようするにマルクスは見逃していたのは、デリダがよく使うフレーズでいえば、生産力を完全に展開することの「不可能性の条件」としての内在的障害/敵対は、同時にその「可能性の条件」でもある、ということだ。もし障害を、つまり資本主義に内在する矛盾を除去するならば、生産力に向かう完全に解き放たれた欲動を、これを阻む障害から最終的に解放することは不可能になるのであり、資本主義によって生み出されると同時に頓挫させられるように思えた生産力をまさに失うことになってしまう――障害を取り去れば、この障害によって頓挫させられる潜在力そのものが消失してしまうのである(マルクスに対するラカンからの批判があるとすれば、この点についてなのかもしれない。剰余価値と剰余享楽とのあいまいな重なり合いに焦点を合わせると、その可能性が見えてくる)。(p221)

 

唯一の解決策は、「人間の本性」は今日も変わり続けているという事実を受け入れ、この変化の危険性と可能性にわれわれ自身をさらすことである。

 要約すれば、セクシュアリティの進化には五つの段階があることになる。最初に無性生殖(単為生殖)がある。次に植物の段階においては、性的差異は単体のなかに〔即自的に〕措定されるが、「それ自身に対して〔対自的に〕いまだ完全に現実化されていない。さらに進んで動物においては、性的差異は〔それ自身に対して〕完全に現実化され二つの性となる。そして人間において、本性としてのセクシュアリティはもはや生物学的なものではなくなり、セクシュアリティの不安定性を許容する象徴行為という事実として二重化される(生物学には男性である人間が、象徴秩序においては女性のアイデンティティをもつこともありうる、等々)。最後に、今後到来すると予想されるポストヒューマンの段階では、二つの性という地平は崩壊する。セクシュアリティは、科学的に操作された無性生殖によって無効にされ、今後実現されるかもしれない無性の象徴的同一化によって脅かされてもいるのである(しかし、こうした同一化を相変わらず象徴的と呼ぶことができるだろうか)。(p223)

 

われわれは<絶対>に触れる契機としてセクシュアリティを詳しく論じてきたわけだが、そこから得た教えは、セクシュアリティは主として内容(「アレに関すること」)には関係がない、ということである。セクシュアリティは究極的には形式にかかわる現象なのだ。ある活動は、ゆがめられた循環的な時間制に囚われたとたんに「性別化される」。ようするに、性別化された時間とは、フロイトが死の欲動として指し示したものの時間である。つまり、生と死を超えて永続する反復強迫という忌まわしい不死性である。(p229)

 

われわれはここで、もう一歩先に進むべきだろう。労働/資本の交換において、労働者は自分の生産物を売るのではなく、自分の労働力を商品として売る。ここで問題になっているのは、普遍とその例外という論理である。商品形態が普遍的になるのは、生産者たちが市場においてその生産物以外のものを交換しているときのみである。つまり、生産的な労働力そのものが例外的な商品として市場に現れるときのみである。これと同型の例外が、性の契約においても存在しているのではないだろうか。互いに快楽を与え合うパートナー同士の対称性も、つねにすでに崩れているとしたらどうだろうか。一方のパートナーが他方に「働きかけて」快楽を与えるということは、もちろん、快楽を与えるというこの活動そのものが、働きかけを行う=労働者にとっての快楽の源泉となることを意味している。(労働者によって生み出される)剰余価値と、(快楽を与える活動によって生み出される)剰余価値――他者(セックスのパートナー)に奉仕するという活動によって生み出される享楽――との同型性をここに見いだすことができる。(p283)

 

定理Ⅲ 三つの向き付け不可能なもの

 

たとえば、性的差異は二つの性の差異ではなく、あらゆる性的立場が安定化しようと試みる行き詰まりに付けられた名前である。あるいは階級闘争は、既存の社会集団の闘争ではなく、社会的敵対性に付けられた名前であり、あらゆる階級的立場はこの敵対性に対する反応として現れるのである。これが意味するのは、二つの性あるいは二つの階級のあいだに共通する空間はない、ということである。二つの性あるいは二つの階級が共有するもの、社会空間あるいはセクシュアリティ空間をまとめるものは、最終的には敵対性なのである。(p308)

 

われわれは破壊的な否定性と、われわれという存在の「止揚不可能な」背景であるそのあらゆる姿(狂気、性、戦争……)において、そしてそれがもたらしたあらゆる創造性において、和解するべきである、ということである。(p322)

 

階級闘争は社会的全体性の「深層にある基盤」ではない。つまり、社会的全体性のあらゆる契機を媒介する、その全体性の底にある構造原理ではない。そうではなく、それはそうした基盤よりもはるかに表層的なもの、終わりなき複雑な分析が失敗するポイントである。つまりそれは、絶望のあまりやけになって「でもこれは結局、階級闘争のはなしなのだ」と言って結論に飛びつく身振りなのである。ここで銘記すべきは、こうした分析の失敗は現実自体に内在したものである、ということである。それは、社会自体が社会を構成する敵対性によってのみ全体化されているのと同じことなのだ。言い換えれば、階級闘争は、厳密な意味での全体化が失敗した場合の、即製の疑似-全体化である。それは、敵対性そのものを全体化の原理として用いるという必死の試みなのである。(p342)

 

すなわち、なぜそしていかにして、量子的宇宙は波動関数の崩壊を、量子的宇宙が古典物理学的宇宙へと「脱-一貫化」することを、要求するのか。言い換えれば、なぜ、そしていかにして、量子的宇宙には崩壊が内在的に備わっているのか、である。量子の世界の驚異を前にしてただ立ちすくむ代わりに、われわれは視点を転換し、われわれの「日常的な」時空間の現実が発生することこそを真の驚異としてとらえるべきである。…(略)…これと真っ向から対立する理論は、そうした縮減を認めないMWI(多世界解釈)の理論である。これによれば、波動関数に含まれるあらゆる可能性は現実化される。しかしながら、すでにみたように、コペンハーゲン定説に本当に対立するのはMWIではない。本当に対立するのは、波動関数(量子の時空間)を究極の現実と考え、われわれの時空間をある種の存在論的幻想として、われわれの無知と認識的限界の産物としてとらえる解釈である。では、どちらのヴァージョンが正しいのか。あるいは少なくとも、どちらのほうがまさると言えるのか。スターリンの言葉をもじって答えれば、両方とも劣る、となる。つまり、この二者択一自体が間違いなのである。われわれは、最終的にどちらを選ぶのは不可能である、と主張すべきである。つまり、この二者択一自体が間違いなのである。二つのレベル〔波動関数と、われわれの時空間〕のいずれも真の現実に格上げされるべきではない。

 どちらかを選ぶべきでないというのは、二つのレベルが対称的な関係にあることを意味しない。われわれは唯物論者として次のように主張すべきである。現実の「基本文法」を形成する量子波以外には、なにも存在しない。そのほかの現実などありはしないのだ、と。このないということ(nothing)はそれ自体、積極的(肯定的)な事実である。要するに、この「基本文法」のなかには、ある種のギャップあるいは切断、波動関数の崩壊のための空間を開くギャップあるいは切断が、あらねばならないのだ。これによってわれわれはクラインの壺のモデルに連れもどされる。その丸みのある表面が<現実界>を、すなわち基本的組織としての量子波という「軟体動物」を表しているかぎりにおいて、そして、この組織は前―存在論的なもの、「無未満のものless than nothing」であるかぎりにおいて、この壺の真ん中の穴は、何かが、深淵に引き付けるある種の力が、その場そのものを下に引っ張り、「無未満のもの」を強引に<無>に変える、なにか(日常の現実)が現れる際の背景となる<空無>に変える、ということを示している。したがって、われわれが手にしているのはたんに「土台」的な量子波と「上部構造」的な巨視的現実という二重構造ではない。ここに第三のレベルがある。それは、前―存在論的な<現実界>が巨視的な現実へと変質することを可能にする、深淵のような<空無>である。(p386)

 

量子物理学は事実上、唯物論的である。つまり、神-システム―に記録されない微視的プロセス(量子振動)が存在する、ということである。そして神が大<他者>に付けられた名前のひとつである以上、われわれはいかなる意味で神(大<他者>)を単純に排除できないか、またいかなる意味で大<他者>なしに存在論を展開できないかを理解できる。つまり、神は幻想であるが、それは必要な幻想なのである。

 したがって、量子物理学の興味深いところは、それが無知に積極的な存在論的地位を与えていることにある。無知とはたんに、現実に関する完全な知を絶対に得られないという観察者の限界のことではない。無知は現実自体の構造に刻印されているのである。完璧な観察者としての大<他者>という考えそのものは、内側から崩される。つまり、量子振動は大<他者>による把握を逃れる前―存在論的な領域において起こるのである。だからこそ、存在論的に「あざむく」ということが可能なのであり、粒子が現れつつも、その存在が記録される前に消えることができるのである。(p393)

 

つまり、真の出来事は、つねにすでにここにある<空無>からなにかが出現することではなく、<空無>そのものの出現なのである。言い換えれば、問題は、なにかが無から生じるのはどのようにしてか、ではない。<無>そのものはどのようにして前-存在論的な<無未満>の群れから生じ、<なにか>が存在するための場を開くのか、である。…(略)…<無>とはむしろ、無未満のもの(less-than-nothings)と無以上のもの(more-than-nothings)(なにものかsomethings)とが循環する際の軸となる深淵である。(p399)

 

われわれはここから唯物論の必要最低限の定義を得られるかもしれない。唯物論とは、二つの真空のあいだの縮減不可能な距離のことである、と。そして仏教でさえ「観念論」にとどまっている理由もここにある。仏教にあっては、二つの真空が涅槃(ニルヴァーナ)という概念において混同されているのだ。フロイトもこのことをはっきりとはわかっていなかった。彼はときおり死の欲動と「涅槃原則」とを混同していた。つまり、死の欲動は生と死を越えて持続する反復という「死にきっていない」猥雑な不滅なるものであるが、フロイトは死の欲動のこの核心を見逃していたのである。有機体以前の安定状態への回帰としての涅槃は「にせの」真空である。なぜなら、それは〔真の真空としての〕欲動の円環運動よりも高くつくからである。欲動の領域内において、この二つの真空のギャップに相当するものは、欲動の目標と欲動のねらいとのあいだの差異――ラカンが詳しく論じたような――となって現れる。欲動の目標――その対象に到達すること――は「にせもの」であり、その「真の」ねらいを隠している。真のねらいとは、その対象を繰り返し取り逃がすことによってみずからの円環運動を再生産することである。対象との空想的な合一が推定上、完全な/不可能な近親相姦的享楽をもたらすとすれば、欲動がその対象を繰り返し取り逃がすことは、たんにそれよりも弱い享楽で満足することを強いるだけではなく、それ固有の剰余享楽(the plus-de-jour)を生み出すのである。かくして死の欲動のパラドクスは、ヒッグス場のパラドクスと厳密に構造的に一致することになる。つまり、リビドーの秩序の視点から言えば、システムが完全な休止状態にある場合よりも、システムが繰り返し欲動の円環にそって動いたほうが「安くあがる」〔エネルギーがいらない〕のである。(p402)

 

われわれは過剰な要素の機能を、明確に三つのレベルに分けられるだろう。…(略)…1<無未満>。無未満としかみなすしかない逆説的な要素があり、それを表す形象はden(デモクリトスが原子につけた名前)から量子物理学における「ヒッグス・ボソン(ボース粒子)」にまで及ぶ。これは「無のコストを、なんらかのコストよりも高くする」要素、言い換えれば、純粋な真空を得るために前―存在論的な混沌に付け加えねばならない要素である。…(略)…2<一>と<二>のあいだ。第二に、1+aがある。<一>は純粋な<一>ではない。それはつねにその影のような分身によって補足されている。つまり、それは「一以上、二未満」なのである。…(略)…つまりラカンが言ったように、<他の性>は存在しないのである。この過剰な要素が対象aである。…(略)…3<二>と<三>のあいだ。ラカンが述べたように、<三>は三つの<一>ではなく、根本的には2+a、つまり<二>の調和を見だす過剰を<二>に加えたもの――<男><女>に対象a(ラカンの言う非性的な対象)を加えたもの、二つの主要階級に浮浪者(非-階級という過剰)を加えたもの――である。(p404)

 

性的差異と階級闘争との相同性に対する通常の反論では、両者のわかりやすい差異が指摘される。階級間の敵対関係は歴史的に特殊な現象であり、徹底した被支配階級の解放によって廃止されるべきであるが、それに対し、性的差異はより深淵な人類学的由来をもつ(性的差異は人類史のはじめから存在し、動物界にもみられる)、と。ここでのアイロニーは、遺伝子工学による人間の「自然」への介入が予想されるなかで、われわれはそれとは反対の状況に置かれる公算が高い、ということである。つまり、性的差異が廃れ、階級的差異は勢力を持ち続ける……という状況に。われわれはこうしたわかりやすいレベルではなく、より基本的なレベルに立って、こう主張すべきである。性の場合も階級の場合も、差異を内在的に止揚すること(たとえば、敵対性なき多様なセクシュアリティや調和的な階級関係といった理想がこれである)はできない。差異を克服するには、セクシュアリティそのもの、あるいは階級そのものを廃棄するしかない。(p407)

 

マルクスから有名な例を引けば、王制主義そのもの(という普遍)は、…(略)…共和主義として存在する。あるいは、人類そのもの(という普遍)は、…(略)…プロレタリアートのすがた、つまり社会内にそれ固有の場を持たない人々のすがたをまとって存在する。

この二つの例外〔ヘゲモニー的要素と外部的要素〕は、どのような関係にあるのか。…(略)…たとえば、なにも所有していない個人や飢えかけた不安定労働者さえもが自己起業家として定義され、その結果、起業家精神が労働するすべてのひとの特色となっているこんにちでは、敵対性は起業家とプロレタリアとのあいだに、この二つの普遍のあいだにある。支配的なイデオロギー的立場から言えば、われわれはみな企業家であるが、その一方で「プロレタリア」は、この普遍性から主体的レベルにおいて排除された者たちを指すのである。階級闘争をこの意味で、つまり二つの特殊な集団のあいだの闘争ではなく、普遍性それ自体に内側から亀裂を入れる闘争としてとらえたときはじめて、われわれは階級闘争を他の解放闘争よりも「基本的な」ものとして擁護できるようになる。(p430)

 

それは、ある種の神秘主義者が「世界の夜」と呼んだ恐るべき空無――純粋な死の欲動の支配――を名指す用語である。<出来事>はいかにして<存在>のただ中で発生するのか、<出来事>が<存在>の領域において可能となるにはこの領域はどのように構造化されねばならないのか、という問いに答えるには、この深淵を参照するしかないのだ。…(略)…ここでは今一度、物質が空間を曲げるのではない、物質は空間の歪曲の効果であるという、アインシュタインの一般相対性理論のパラドクスを思い出すべきである。つまり<出来事>が<存在>に刻印されることによって<存在>の空間を曲げるのではない。それとは逆に<出来事>は、<存在>の空間の歪曲にほかならないのである。「あるのはただ」<存在>の裂け目すなわち自己不一致だけ、言い換えれば、<存在>の秩序が存在論的に閉じられていないという状態だけである。中立的な観察者の目には日常的現実の一部にすぎない一連の現実の事件が、積極的な加担者の目には<出来事>への誠実さの刻印となる――そういった事態を生みだす条件としての差異こそ<出来事>と<存在>との差異である。たとえば、中立的な歴史家にとってロシア史における暴力的な異常事態や変化にすぎない事件(ペトログラードの街路における戦闘)も、積極的に加担する革命家にとっては、十月革命という画期的な<出来事>の一部なのである。(p437)

 

人間を(「ヒト動物」を含む)動物から隔てるのは、意識ではなく――動物がある種の自意識をもっていることは簡単に認められる――無意識である。動物は<無意識>をもたないのだ。したがって、こう言うべきだろう。<無意識>は、より正確に言えば、「死の欲動」という領域、動物の本能的生のこのゆがみ―不安定化は、ひとつの生が<真理>の主体に変容するのを可能にするものである、と。<無意識>をもった生き物だけが、<真理-出来事>を容れる器になれるのである。…(略)…(さらに一歩踏み出し、思い切ってこう言うべきだろう。環境に完全に適合した生き物という意味で「動物」という語を用いるなら、たんなる動物など存在しない、と。生物と環境との相互作用における調和のとれた均衡は一時的で脆弱なものであること、それはいつでも突発的に壊れる可能性があること、それがダーウィニズムの教えである。人間の傲慢によって乱される均衡状態としての動物という考えは、人間の空想である。)(p440)

 

「永遠性」はそれ自体、歴史的である。つまり、永遠性がいったんここに存在すると、いったんひとつの「世界」として出現すると、それは「永遠」にここにあって、遡及的に過去を変え、また新たな未来を開く――「永遠性」はそうした概念的な構造を表している。ここで含意されているのは、すべての現実(<存在>の秩序)は<真理-出来事>に基礎づけられている、すべての現実は<真理-出来事>が沈殿して固まったもの、<真理-出来事>の「物象化」である、ということである。ひとつの<出来事>は、沈殿作用を通じてひとつの<世界>になる。それゆえ、あらゆる<世界>は、沈殿した<出来事>なのである。(p446)

 

本書の最期の定理においては、次のナイーブな問いに答えてみたい。(略)ねじれた存在論という構想は、われわれが現実を捉えようとする際にどんな意味をもっているのか、という問いである。…(略)…というのは、障害は内在的であり、外在的なものではないからである。つまり、あらゆる同一性を不安定にする恐れのある根本的な否定性は、同一性のまさに核心に書き込まれているのだ。…(略)…法の支配によって保証された平和的な関係を、国際関係というグローバルな領域にまで拡大すること(これはカントの考えた世界共和国という理念である)だけでは、直接的に「文明を文明化すること」はできない。ヘーゲルはわかっていたが、ここに欠けているのは、それぞれの文明の中心にあってその文明の倫理的構築物を支えている野蛮な核(戦争、敵を殺すこと)に対する認識なのである。(p461)

 

狂気は、必然的な事実として生じるものではないが、人間の精神を構成する形式に関する可能性である。…(略)…狂気の次にくるのがセクシュアリティである。…(略)…セクシュアリティは、もはや生殖するための本能的欲求ではなく、その本性上の目標(生殖)に関して頓挫させられ、それゆえまさに形而上学的で無限の情熱へと急激に変化した欲動なのである。このようにして、文明/<文化>はそれ自身の前提要件である自然を遡及的に措定/変容させる。つまり、文化は自然それ自体を遡及的に「脱自然化」するのだ。これこそフロイトが<イド>、リビドーと呼んだものである。このようにして、そしてここでもまた、自然という障害と戦いつつ、自然の実質と対立しながら、<精神>はそれ自身と、それ自身の本質と戦うのである。(p466)

 

戦争において、普遍性は、散文的な社会生活における具体的―有機的宥和に対抗し、かつそれを越えるみずからの権利を再び主張する。したがって、戦争の必然性は次のことを最終的に証明しているのではないだろうか。すなわち、ヘーゲルにとって、あらゆる社会的和解は失敗する運命にあるということ、いかなる有機的社会秩序も抽象的―普遍的否定性という力を包含することは事実上できないということである。こうした理由から、社会生活は、安定した市民生活と戦時の混乱状態とのあいだを永久に揺れ続けるという「偽の無限」であることを運命づけられているのだ――「否定的なもののもとへの滞留」という概念は、ここでより根本的な意味を、つまり否定的なものを「経験する」だけではなく否定的なものに固執し続ける、という意味を獲得する。これが社会生活において意味しているのは、カントのいう世界平和ははかない望みであり、戦争は、有機的に組織された国家の<生>を全面的に破壊する脅威であり続ける、ということだ。そして、これが個人の主観的生活において意味しているのは、狂気という可能性としてつねに潜在しているということである。…(略)…人間が自然と和解するのは次のようなときなのだ。自然と自然過程に対する人間自身の敵対・疎外は「自然」であり、こうした敵対は高い潜在力を保ちつつ、自然それ自体を規定する敵対であり不均衡であり続けるということを、人間が認識するときである――ようするに、人間が自然と統一されるのはまさに、自然からの人間の疎外のようにみえるもの、自然の秩序を人間が乱しているようにみえるものにおいてなのである。(p468)

 

ヘーゲルのいう和解とは、正しくは、すべての緊張関係が止揚されるか調停されるかして平穏な状態になることではなく、否定性それ自体という解消不可能な過剰との和解のことなのである。(p472)

 

集合体(assemblage)を構成する各要素は相対的に自律しているので、それらを根本的に再文脈化することも可能である。…(略)…こうした理由から、何らかの統一をめざす既存の要素を結合したものとして集合体を考えるべきではない。それぞれの要素はすでに、普遍的な敵対/矛盾として各要素に亀裂を入れている普遍性によって貫かれており、これらの要素が一つにまとまって集合体を形成するように仕向けるのは、この敵対なのである。したがって、集合体への欲望は、普遍性の次元が集合体の各要素において、否定性というかたちで、各要素の自己同一性を頓挫させる障害として、すでに作動していることを証立てている。言い換えれば、諸要素は大きな<全体>の一部になるために集合体をめざすのではない。諸要素が集合体をめざすのは、それ自身になるため、それ自身の同一性を現実化するためである。…(略)…革命において、何かが「実際に変化する」必要はなかった――〔ルビッチ監督の〕『ニノチカ』の例にもどれば、一杯のコーヒーの場合、革命はミルクなしのコーヒーをクリームなしのコーヒーに変える。これと同様に、エロティシズムにおいて、性的快楽の新たな「潜勢的可能性」は、良き恋人があなたから引き出してくるもので、あなたはその潜勢的可能性に気づいていないが、恋人のほうはあなたの中にそれを見ている。その潜勢的可能性は、見いだされる前からすでに存在していた純粋な<それ自体>ではなく、他者(恋人)との関係を通じて生成される<それ自体>である。…(略)…他者たち〔他の諸対象〕との現実的な関係や相互作用を超えてそれ自体として存在する対象は、他者たちとの関係から独立して<それ自体>に内在しているのではなく、他者たちとの関係に依存しているのである。一杯のコーヒーは、ミルクのダイアグラムの一部、ミルクの「隣接した失敗」となるのだ。…(略)…隣接した失敗とは、「予測できる結果とはならなかった、対象の近くで起きた失敗」であり、「いつまでも続く反事実的思弁を促す「亡霊的」対象を生み出しもする。そしてこうした思弁のすべてが無価値というわけではない」。ある対象の同一性は、ある対象の<それ自体>は、対象のダイアグラムに、対象のさまざまな潜在性に存在し、この潜在性のうちのいくつかだけが現実化される。しかし、ここでさらなる区別が必要となる。さまざまな失敗(あるいは現実化されない潜在性)のなかで、現実化されないことが実際は偶発的な事実であるものと、それより興味深いもの、すなわち現実化されないことが偶発的にみえるが、実際は当の対象の同一性にとってそれが本質的に重要であるもの、この二つを区別する必要がある――〔後者においては〕何かが起こりえたかもしれないと思えるのだが、それが現実に生起すれば対象の同一性を破壊することになるだろう。したがって、…(略)…いくつかの変種が現実化され、ほかの変種は可能性にとどまる、というだけでは十分ではない。いくつかの変種は非現実化されることがその本質なのである。つまり、いくつかの変種は可能性として存在しているようにみえるけれども、たんなる可能性にとどまっていなければならないのだ――そうした変種が偶発的に現実化されてしまうと、ダイアグラムの構造全体が崩壊してしまうのである。それらは構造の不可能な―リアルなものを表す点であり、こうした点に同一化することが決定的に重要なのである。(p474~483)

 

通常の実在論者のアプローチでは、世界が、世界を観察する主体であるわれわれとは無関係にそこに実在しているとみなして、世界を、実在を記述することをめざす。しかし、主体であるわれわれ自身が世界の一部である以上、これを踏まえた実在論は、われわれが記述している実在のなかにわれわれを含むことになる。その結果、実在論者のアプローチでは、「外部から」、われわれ自身とは無関係に、あたかもわれわれが非人間の目を通してわれわれ自身を観察しているかのように、実在を記述するわれわれを実在のなかに含むことになる。このようにしてわれわれ自身を実在に含むことがもたらすのは、素朴実在論ではなく、それよりはるかに不気味なもの、主体の構えにおける根本的な変化であり、この変化を通じて、われわれはわれわれ自身にとってもよそよそしい存在になるのである。

 客観的な集合体としての現実〔実在〕を「非人間の目」をとおして見ることと、世界に関与する倫理的立場から根本的に主観化された目で見ること、この両者の関連を理解することが決定的に重要である。アウシュヴィッツの例にもどれば、アウシュヴィッツをニュートラルな集合体として、つまり、そこで人間は、ガス室、うじ虫、等々のアクタンのなかの一つにすぎない、そういう集合体としてアウシュヴィッツを捉えることは、道徳をめぐるスキャンダルを引き起こさざるをえないような、おぞましい見方である。(よく言われるように、このような恐怖に直面していたら現実は崩壊していただろうし、太陽は陰っていただろう)。しかし、そのような「非人間の視点」がもたらす倫理的不可能性という衝撃的な経験だけが、本当に倫理的な態度を生み出すのである。(p487)

 

真の歴史性は、非歴史的なトラウマという核(敵対、対立)と、この核を歴史的に限定された配置(つまり、対立を解消しようとする数多くの試み)との緊張関係をつねにはらんでいる。…(略)…真の歴史性において、歴史を超越する普遍性そのものが現れる配置はつねに一つだけである。<コギト>そのものが現れるのは近代においてのみなのだ(そしてデカルトにおいてすら、<コギト>は考える物(res cogitans)として実体化され、ただちに曖昧化されてしまう)。…(略)…コギトが「真理になるのは実践において」、資本主義が支配する近代においてのみであり、個人が自分自身を、具体的で実質的ないかなる形式にも縛られない「抽象的」個人として経験する近代においてのみなのである。しかしこれは、市場による抽象化を最終的に克服すると「空虚な」主体も消失し、主体性が再び具体的な諸関係の網に囚われたものとして知覚され経験される、ということを意味しているのではないだろうか。この結論は、まさに以下に述べる理由から間違っているといえる。資本主義が支配する近代社会は特異な社会秩序である。それは(ほかの生産様式が支配的な社会に対して)例外的な社会なのだ。つまり、それは構造的な不均衡をともない、危機を繰り返し乗り切ることによって生き残ろうとする唯一の社会秩序なのである――ほかの生産様式にとっては臨界点であり衰退を招く脅威であるものが、資本主義にとっては常態なのだ。しかしながら、まさにそうした例外として、資本主義はほかのすべての生産様式に隠されている普遍的な真実を明らかにするので、その効果を消し去ることはできない。あらゆる種類の原理主義が前近代の実体的な秩序を回復しようとどんなに努力しても、資本主義のあとにそうした秩序にもどることは不可能である。資本主義のあとに来るものは、資本主義とはまったく異なる何か、根本的に新しい始まりでしかありえない。(p490~493)

 

真の自由とは、ストロベリーケーキかチョコレートケーキのどちらかを選ぶというような、安全な場所からなされる選択の自由ではない。真の自由は必然性と重なり合うのであり、ひとが真に自由な選択を行うのは、その選択が自分の実存を危うくするようなときである――たんに「そうせざるをえない」のでそうする、ということだ。自分の国が他国の占領下にあり、占領者に対する戦いに参加するようにレジスタンスの指導者から求められたとき、参加を求める理由は、「参加するしないは自由に選べるから」ということではなく、「自分の尊厳を保ちたいならば参加するしかないということが明白だから」ということになる。こうした理由から、根本的に自由な行為は、予定説という条件の下でのみ可能となる。…(略)――自分がこれからすることがすでに運命づけられていることはわかっているが、それでも危険を冒して、あらかじめ運命づけられていることを主体的に選択しなければならないのである。(p528)

 

われわれは主観であり、主観性という地平に拘束されている以上、主観性とは無縁の世界を思い描くのではなく、主観性という事実が宇宙とその構造について何を含意しているのかということに焦点を合わせるべきである。その含意とは、主観という出来事は世界のバランスを乱し、世界の関節をはずすのだが、そうした乱れこそ世界の普遍的な真理なのだ、ということである。これはまた以下のことも含意している。すなわち、「現実それ自体」へアクセスするために、われわれは自分が「世界の一部でしかないこと」を克服する必要はなく、個別的な闘争を超えた中立的な視点に立つ必要もない、ということである――われわれは、まったく局所的に世界に関わることにおいてのみ「普遍的存在」なのである。この普遍と個別とのコントラストは、愛という事例においてはっきりと見えてくる。すべて〔一切衆生〕を愛するという仏教の慈悲に抗して、あるいは宇宙との調和という考え方に抗して、特異な<一>に対する根本的に排他的な愛、われわれの生活の円滑な流れを乱す愛を肯定すべきなのである。(p531)

2025年8月13日水曜日

映画『骨なし灯篭』を観る

 


天草の本渡も、その翌朝から、線状降水帯と呼ばれる大雨に見舞われた。山鹿で暮らす監督ご夫婦は、無事ご住まいに帰ることができたのだろうか。本土へと渡す五つの天草の橋のうち、二つが交通不通になったので、海路からしか抜けられない、と、漁船を改装したのだろう海上タクシーで乗り合わせた若奥さんは言った。幼子二人を連れて、生まれの御所浦島から帰る途中だという。私自身は、冠水したホテルに一泊余分に缶詰になったが、翌朝には、たてた予定どおり、御所浦島への定期船、そこから予約制海上タクシーを乗り継いで水俣へとたどり着いた。

 

本渡ハイヤ祭りの日と重なったからか、上映初日の夜の観客数は、五名だった。街人総出のような盆踊り行列の様子は、この島になお昔ながらの共同体的な絆が残っていることを感じさせた。熊本は山鹿の灯篭祭りを背景に据えた木庭撫子も、名古屋という都会育ちの私が、プロデューサーでもある夫の生地の山鹿で暮らしはじめてまず驚いたのは、学校へ向かう子供たちが、知らない私にも元気よく挨拶をしてくれることだったという。映画でも、小学校の掲示の「早ね、あいさつ、朝ごはん!」が写され、妻の骨壺をもってさ迷う主人公の男も、思わず死の世界へと手を差し伸べるように、走ってきた車に吸い寄せられていったとき、背後を通過して学校へと向かう子供たちの大きな挨拶の声によって呼びもどされるのだ。

 

監督は、この『骨なし灯篭』のテーマは「共生」であり、「他者との会話」「環境との共存」を問う映画なのだと、パンフに書いている。

 

私はその監督に、上映後の、ひとりひとりに当てられた質疑のなかで、こう質問した。「男性を主人公にしたのには、何か必然性というようなものを感じていたからなのか?」 監督はそれに、同じ富良野塾(脚本家倉本聰が開いた北海道の養成塾)の後輩だった俳優の舞台演技から受けたイメージに従ったというような返答をした。「だけどこの映画でも、女性の方が強いですよね?」主人公が女性だったら、このストーリーは成立しないのでは、と思ったからだった。その積み重ねられた質問に、監督は困ったような表情をして、舞台端に立っていた夫に意見を求めた。「神戸での上映でのときも、震災にあった人たちが見てくれて、親しい人が亡くなって、立ち直るのは大変なことです。」とのように言葉を継いだ。

おそらく、監督は、男性と女性を分けて捉えようとする私の質問に、違和感を持ったのではないかと、私は思った。もう一つの質問、この熊本で撮った映画が熊本で再上映されて受容されていることに、肥後というか、県民性のようなものがあると思いますか、というものだったが、時間が押し迫っているということでそれはできず、次の人の質問に移っていった。

 

私が用意していた二つの質問には、繋がりがあった。ただ実際に映画をみて、シックスセンス張りの展開だったことに驚いて、観賞直後には感想整理ができなくなっていたのだが、そのまま発言してみたのだった。

 

熊本の作家・石牟礼にしろ、高群逸枝にしろ、この地域から出てくる女性は強いというか、しぶとい。高群の言う「火の国の女」だ。そしてそれは、この地域に残存した封建的な精神性と、男でなら熊本男児、とかいう呼称と裏腹に結びついている気がしてならない。簡単安易に、新しいものへと適応していかない頑固さがあるようにみえる。小学生の挨拶も、そうした古い共同性の存続と繋がっているのではないだろうか。が、この女性監督は、その発見を、文化制度的な意識レベルの上部構造への認識に落ち着かせておわるのではなく、より生物学的なシステム、生態的な現実で捕えようとしているように見える。男の妻の形見の浴衣には、魚の群れの絵が描かれていた。人も一人で生きているのではない、群れなんだ、千人踊りのように、という会話のやりとりがそこでなされる。そのシーンの中でだったかは正確ではないが、途中、カマキリがセミを捕食しているシーンが挟まれる。そしてもう一度、壁を這うカマキリがでてくる。また蜜を吸うチョウ、葉を食べるカタツムリ、などの昆虫のシーンが適宜挿入される。この昆虫と魚へのイメージ連鎖に、映画中で描かれる女性の強さとが重なるのだ。

 

たしか他の、男(夫)に先立たれた妻(女)を据えたいくつかの映画では、妻(女)は、男の骨をぼりぼりと食べたものがあったのを、私は思い出した。

 

上映前に広告される予告映画の中に、『小学校 それは小さな社会』というものがあった。高倉健主演の映画ポスターで壁面を埋められた本渡第一映劇で、9月から上映予定なようである。この作品の副タイトルには、たしか英語で、どうやってJapaneseになるのか、とあった。世田谷区の学校などがモデル対象としてとりあげられているようだった。集団登校、挨拶、給食、放課後の一斉清掃、など、当たり前とされていることがいかに外からは素晴らしく見えるかが、焦点化されているらしい。が当然の一般教養として、それが、世界を相手に戦争をした日本のファシズム体制と繋がっているのではないか、という自己懐疑を持たされる。丸山眞男は、封建制的な忠義と、近代官僚的な従属とは系譜が違うのだ、と歴史・思想的に区別した(そして柄谷行人は『世界史の構造』でその封建制から民主主義が生まれたと理論付けた)。が、この区別を、社会生活のなかで、実践的にできるのだろうか?(事象認識的には指をさすように区別しうる。) 天草や山鹿の子供たちといえども、学校という近代的なシステムの中にいるのである。

 

むしろ、そうした戦後思想的な懐疑を、より詰めていくイメージ強度として、この映画は提出されている。妻を亡くしておろおろする男に対し、そんなんじゃだめよ、と女たちは励ましてくる。まだ妻が亡くなって二年にも経たない私も、近所のおばあさん、妻の友達、夫に先立たれた女性たち何人からも、励まされている。なれるまでに何年もかかるのよ。娘も夫に先立たれて三年も経つのにまだ立ち直れてないわ。男は仕事があるからいいのよ。……たぶん、女たちは、普段の日常から、似たようなつらさを味合わされて生きてきているから、他人を励ますことができるのだ。男には、それが強さに見える。

 

双子の妹の演技をしていた妻の霊は本当に訪れていたのか、男は和尚が指さした、帰省から生活の場にもどっていく女性を問い詰める。あなたの妻に対する解釈には間違っていたものがある、妻は美術教師をしていたあなたの残業を自身の自由時間が持てるからと喜んでいたのではない、あなたの作品が早くみたかったからだ、と。立ち直ってきた男は散骨していた川の向うに、妻の姿をみた。「あなたの時間を生きて」、妻は、生前にあった二人の秘密の手話で、伝えてきたのだ。

 

しかしそうした男女関係のあり様も、文化制度思想水準ではなく、もっと一般的に、この地球環境の生態の中で問い詰めて、理解していかなくてはならない、ということなのだ。その問い詰めは、どうやったら立ち直れるのか、立ち直るとはどういうことなのか、それ自体を問うてくる。霊の原理は、幽霊自身にもわからないのだ、と映画中の、若くして亡くなりあの世で齢をとった老人の霊は述懐する。魚や昆虫の群れ生態と霊的世界との関連も、この映画イメージは連想させてくるのだ。パンフでは、富良野塾での木庭の先輩にあたる作家がアドバイスしている。死者はあるのか、掘り下げてほしい、人には、この宇宙の秘密を解き明かしたいという熱意があるのだ、と。

 

御所浦島からのタクシーで一緒になった若奥さんの幼子ひとりは、下の四歳くらいの男の子の方が、いわゆる発達障害というか、多動性障害と診断されるお子さんだったのだろう。いきなり、肩車でもしてもらおうとおもったのか、私の肩や頭にのっかってきた。辛いピザ味のポテトチップスを食えとよこしてきたり、蹴とばして来たり、膝の上にのって座って来たり、と忙しい。揺れる船のなかで、ハンカチの投げ合いもはじまる。お母さんは、大変だろう。叱る時は厳しいのだが、それでも、男の子は元気をやめない。おそらく、この子の小学校での挨拶は、大きすぎる声か、しなかったりだろう。


映画館を出るとき、旦那さんからぜひ山鹿に、と声をかけられた。この映画を観て、もちろん行きたくなった。いく子はまたひとつ、私に宿題を課した。


※旅行まえ、妻の妹さんが、中学に山鹿出身の同級生がいた、と教えてくれた。旦那さんは、1958年といく子と同年生まれだから、ひとつ年下のその同級生とも知り合いなのでは、とはありうることなのでは、と思う。

2025年7月26日土曜日

スラヴォイ・ジジェク著『「進歩」を疑う』(早川健治訳 NHK出版新書)


「つまり、労働でも言語でもなく性こそが、われわれ(人間)が自然から切断されるポイントなのである。性とは、われわれが存在論的な不完全性に直面し、無限の自己再生産になるというループ――欲望のねらい(aim)が欲望の目標(goal)ではなく、その目標の欠如の再生産になるというループ――にとらわれる場なのである。」(スラヴォイ・ジジェク著『性と頓挫する絶対』 中山徹+鈴木英明訳 青土社)

 

前回ブログで論じた平野啓一郎著『本心』を読んでいて、私は濱口竜介の映画『悪は存在しない』を想い起した。この映画監督も、平野より少し若いが、氷河期世代と呼ばれた年代の人である。どちらも、ものわかりのよい相対主義、いわゆる善にも悪にも熱意的に加担するのをさけてゆくようなバランス感覚で自己を律している感がある。

私はこの映画を、同時期に日本公開されたヴェンダースの『PERFECT DAYS』と対比した(ダンス&パンセ: 映画『悪は存在しない』と『PERFECT DAYS)。

濱口の価値態度は、自然を開発する側の人間の事情もわかってくれば、一概に開発派が悪とは言えないのではないか、という視点、それが映画冒頭で示唆されるカラマツの風景(開発荒廃と自然回復が一体的な途上であるような)、人間悪を自然悪によっても相対化させていかせるようなバランス、良識を握持しているように見えた。

ヴェンダースは、悪は存在するのだ、しかしその悪の重なりのなかでこそ、木漏れ日のように善が差してくるのだ、という覚悟を示しているようにみえた。私は、ヴェンダースの方に共感を持った。

 

ジジェクのこの新書の後書きで、訳者の早川健治が、ジジェクの『PERFECT DAYS』への扱いに関し、こう述べている。

 

<ジジェクは同作を、ささやかな日常生活の幸せの維持に満足して政治に関わろうとしない個人を描いたアジア高所得国の作品の例として取り上げている。それ自体は妥当な解釈かもしれない。しかし、そもそも『PERFECT DAYS』はリアリズム映画ではなく、ヴィム・ヴェンダース率いる政策チームの日本像の投影、THE TOKYO TOILETの宣伝、そして欧米の観衆からの需要の各要素に合致したファンタジーと言ったほうが正確だろう。>

 

そして日本での伊藤詩織の著作『Black Box』やテレビゲーム『Final Fantasy Ⅶ』をあげて、体制にあらがう若い政治的個人や動きもあることを付加する。

 

しかし、ヴェンダース映画の文字通りな物語的メッセージは、こうなっている、「金持ちよ、その立場を捨ててトイレ掃除のような労働者になれ、それこそがパーフェクトな日々なのだ」、と。そもそも、なんでこのトイレ掃除をする男は、資産家の家庭から下りたのだろうか? それこそが政治性ではないのだろうか? ヴェンダースは、欧米の脱政治化した観衆やアジア高所得者向けに、イロニーもなく、そんなメッセージ性を提出したのだろうか? これを観たお金持ちは、どう感じるのだろうか?

 

ジジェクは、『性と頓挫する絶対』において、映画『追憶』をあげてこう指摘する。この映画が、このカップルの離婚後として、もし活動家の女性のほうが過激すぎるゆえに無害な地域指導者として受け入れられていて、流行作家の一員となった男の方が実は過激な政治的活動で挫折し絶望しているのだ、というような視点を孕んでいたら、もっとよくなっていただろうと。

 

少なくとも、ヴェンダースの映画には、この反転、ジジェクのいうメビウスの輪のような構造が暗示されている。平野や濱口には、むしろ悪に加担してしまう「盲目の中の洞察」がないゆえに、それ以前の、良識的なバランス、相対主義に固着している。

 

『本心』で若い主人公らが求めているのは、同性愛者やペットとの同居も同等となるような、人間関係的な軋轢を回避した「ルームメイト」的関係のように見えた。そう仮説して、より話をわかりやすくするために、現今のペット事情をとりあげてみよう。

 

私の住んでいる地域の町内会回覧板には、こう書かれた案内がいつも挿入されてくる。猫は家の中で飼うよう注意してください。たしかに私の芝庭には、猫のウンチがたまってきたりするし、困るのはわかるし、私もこの猫野郎目! と対策をねり、芝や雑草もある程度伸ばし放題にさせておく(すると猫はこない、がやはり近所というより見回り顔役から文句がきそう)。がそれが猫だろうと思うので、私は町会で、猫って、家の中で飼えるんですか? と質問する。それじゃ猫じゃなくなってしまうんじゃ……いや今は犬だってそうだ。番犬として庭の犬小屋にでも外だししていたら、近所から文句がきそうだ。だから、やたら小型化された犬がでまわっている(しかもあらかじめしつけられて)。たしかに可愛いのはわかるが、何か変だ、と感じる私の感覚が「昭和かよ」という話になるのだろう。

 

しかしこの件は、ジジェクの哲学で解釈できる。ペットに優しい人社会は優しい平和な世界、そうだよね? とする影には、小型化されて可愛くなった大量のペットが生産されるその分、売れ残った大量の子犬たちが廃棄され、その構造が見えなくさせられているのだ。犬猫の野生という本性とされたものも、全体的な見方が変わることによって変化を受け、つまりは自然自体もが変化をするというのが、量子論的な科学示唆から知れる現実である。

 

ジジェクからすれば、本源的な対立が自然にはあり、男女やトランスジェンダーといった性的関係も、その対立(欠如・矛盾・敵対)を埋めるための防衛的な方策である。

 

人間関係上の軋轢闘争を好まない、忌避する若い世代は、なんらかの身体的な傷を抱え込んだのではないか、とだからその根源的な対立を仮説することによって、逆に推定されてもくる。対立を前提として容認的に抱え込んでいるような恋愛という欲望が幻想だとしても、そこから逃げた相対主義的な良識、バランスとりは、もっと悪いもの(「父またはもっと悪いもの」)を惹起させているのかもしれない。

 

<つまりは、真の進歩とは、過去のすべての進歩でつぶされた鳥たちを(引用者註…つまり大量廃棄されるペット)遡及的に贖おうとする。それは(バイオ宇宙主義が夢見たように)現実世界で贖うという意味ではなく、そこにあった潜在的可能性を贖うということだ。>

 

次回は、たぶん、冒頭引用のジジェクの『性と頓挫する絶対』を扱う。がその前に、また熊本にゆき、その天草の地で、東京でみそびれた映画をみる。ヘーゲルは、精神とは骨である、と言ったそうだ。熊本は山鹿で撮られた映画『骨なし灯篭』は、どんな精神をみせてくれるだろうか?


2025年7月15日火曜日

平野啓一郎著『本心』(文藝春秋)を読む

 


前回ブログで言及した「死者とテクノロジー」での鼎談で知って、平野啓一郎の『本心』を読んでみたいと思った。はじめて読む作家の作品である。

 

この作品は、母と僕(息子・朔也)との関係をテーマに据えたものだけれども、妻と私(夫)との関係にも重ねられてくる(そう予想したから読んでみたくなったのだけど)。それくらい、問いが抽象化、一般化され、つまり今を生きる人たちへ共有できるようよく考えられている。しかし妻を亡くした私にとって、この小説が他人事でなくなるのは、この社会問題を浮き彫りにするべく導入された、母の遺言のような言葉、「自由死」を願うまでになった彼女の「もう十分」という発言をめぐって考察が進められているからだった。妻は、わたしは好き勝手に生きたの、だからもういいの、と自らの死を意識しはじめたのだろうとき、私にそうもらしていたからである。私は、死後になってなおさら、その「本心」とはどういうものだったのだろうかと、彼女が遺した文献に直面して、問い返さざるをえなかった。

 

著作は、いわゆるバブル崩壊以降の、失われた30年と呼ばれた時期を若くして生きた「氷河期世代」の女性の老後、近未来社会を生き死んでいった母として設定されている。(作家自身が、そう通称された世代である。)

 

<多くの人間が、自分が生きているという感覚を、疲労と空腹に占拠されている社会で、僕は母の「もう十分」という言葉を聞いたのだった。>

 

妻は、「もう戦後ではない」と経済白書に宣言された時代に生まれ、高度成長期、バブル期を若い頃生きた世代である。しかしこの時期、女性にとっては、そう言われる世間と自身の被る現実とのギャップを身に染みて感じさせられたのだ、と学説的に跡付けられるし、このブログでも、その時代を生きた女性作家たちの発言に触れてきた。この『本心』では、母と付き合いのあった、母より一回り以上年上の作家・藤原の認識がとく「十分」という意味に、妻の世代の言葉は近くなるのかもしれない。――<何度も戦って傷つき、『もう十分』という人もいますね。>――私は、妻のダンス「エンジャル アット マイ テーブル」の、私(女)は闘っているのよ、というパンフの言葉を思い起こした。妻にとっての「闘い」とは、まずこの男女ギャップ、ジェンダー的な意図が孕んでくるものだった。

 

しかし「氷河期世代」の者たちにあっては、この問題がより一般的な社会問題に包摂されてしまうのだ、という認識を『本心』は示す。

 

<結局のところ、僕は愛の問題ではなく、生活の問題だと考えようとしていた。今のような世界では、たった一度の人生の中で、人がより豊かな生活を求めるというのは、当然のことだった。結婚だって、恋愛がその動機になったというのは、短い僅かな時代の、壮大な、失敗した実験だったと、今では多くの人が考えている。必要なのは、より良い生活を共にするための相手だった。>

 

こうした認識前提から、作品は、対幻想よりかは共同幻想としての世界への対峙、社会的テロの背景問題、そして男女の家族的な営みも、同性愛やペットとの同居と同列になるようなパートナー関係、軋轢を前提としない理想がめざされ、「より良い」ものとして想定される。セックスワーカーをしていた女性・三好と僕との同居から、彼女と身障者のIT起業家・イフィーとの将来へ向けての同居も、その理想が志向されている。「リアル・アバター」という僕の仕事の同僚の、仮想現実ゲームを利用しながらそのままのリアルなテロ決行を試行させられた男・岸谷も、仕事でのバーチャル・セックスを続けることはできず不能におわる。作家が示し前提とした認識は、世代的に共有されている身体的な傷であり、それを深めたくないという辛さが、パートナー的な関係を理想とみさせるかのようである。

 

この認識は、次のより若い世代にも共有されてくる、より一般・普遍的な在り方になっていくのかはわからない。が、より昔の世代で意識化されたことと比較することで、ここにある差異の検討をすることができる。

 

『本心』を読むと、夏目漱石の『こころ』を思い起こす。

 

漱石の『こころ』の一般的な理解では、そこに提示される男女関係は、三角関係であり、その男と男との競争関係のなかで、女を所有したいという欲望が生まれるのだ、とされてきた。ジラールの、欲望とは他者の欲望であると前提する、欲望の三角関係論である(この見方は、大衆社会での消費行動の説明にもなる)。そこからさらに、ゆえに本当に問題となっているのは男と男との次元(競争)なのだから、実は同性愛が、ホモ・ソーシャルが掲揚されているのだ、というフェミニズム的な批評がでる。

 

『本心』はどうだろうか? 僕と三好とイフィーとは、三角関係になる。僕をリアル・アバターとして使用した三好は、アバターとしての僕の口を通して、三好に「好き」なのだと告白する。僕に好意を抱いていると暗黙には理解している三好は、「憐れみの色」をさして僕をみつめ、「……どうかしてる。」と呟いて首を横に振って、二人の男の下を去る。イフィーは、何度となく、僕と三好とは恋人関係ではなく「ルームメイト」にすぎないと、あらかじめ確認していた。そしてこの事件のあと、僕と三好は話し合う機会をもち、好きな男ともセックスができなくなるほどの心の傷を自分は抱え込んでいると三好は打ち明ける。だから打ち明けてきたイフィーと関係を作ることにも自信がなく、打ち明けてこない僕の真意も測りかねている。が、最終的な僕の言葉、「イフィーさんも、自分の障害を三好さんに受け容れてもらえるかどうか、不安がってました。それぞれに事情があるんだし、理解しあえますよ、きっと、大丈夫です。」に勇気づけられるように、イフィーと新しい関係を作っていく決意をする。ここで見ておきたいのは、三好にそう決意させた、僕の「決心」の論理である。

 

<僕は、イフィーとして、三好に伝えた「好き」だという言葉を脳裏に過らせた。そしてそれを、自分自身の思いとして、今こそ改めて口にし直すべきではないか、と卒然と思った。/そのたった二文字分の、僕の声の響き。僕と彼女との間に保たれてきた距離の振動。そのささやかな出来事が、三〇〇億年間という宇宙の途方もない時間の中で、起きるということと、起きないということ。そして起きなければ、僕は死後、起きた宇宙ではなく、その起きなかった宇宙であり続ける、ということ。ほとんど終わりさえなく、永遠に。……/僕の心拍は昂進した。固唾を呑んで、三好を見つめた。/……しかし、こんな誇大な考えは、一人の人間を前にして、何かの行動を促すには、却ってあまりに無力だった。たとえ、あとから振り返って、それがどれほど痛切に感じられようとも。――僕の気持ちは、恐らく、伝わっていないこととされたままで、既に伝わっているのだった。/僕は三好を、僕の側に引き留めたかった。/しかし、その願いが成就したとして、結果的に、三好が幸福となる機械を逸してしまうのであれば、僕に一体、何の喜びがあるだろうか?/僕は、彼女に対してではなく、自分自身に向けて、改めて僕の彼女に対する思いを問いかけた。それはまるで、僕ではない僕からの声のように、重たく胸に響いた。/僕は、三好が好きだというその一事を以て、彼女がイフィーを愛することを祝福しなければならない。――そしてこの時、僕は本当に、そうする気持ちになったのだった。/こんな考えは、あまりに卑屈であり、キレイごとめいていて、そうした理屈に縋る以外、術がなかったと言えば、その通りかもしれない。それでも、僕はそう思えた時、悲しさや寂しさだけでなく、何となく、気分が良かった。ふしぎな心境だった。嫉妬に悶え苦しみながら、自分の思いを押し殺した、というのとも違っていて、必ずしも無力感ばかりでもなかったのだった。イフィーと三好という二人の人間との関係を、同時に失ってしまうことを、恐れてもいたのだろうが。……>(作中強調傍点はブログ機能上省略。/は改行。)

 

この「キレイごと」(理想)への「決心」は、僕とティリという、コンビニでバイトしていたミャンマー人の女性との関係でも反復される。僕は、脅迫的に嫌がらせを受けている彼女を善意で助けたわけではないのだが、そのリアル・アバター仕事中の出来事が動画で拡散され、僕はネット空間上で「英雄」とみなされてしまう(アバター制作で億万長者となったイフィーとも、この拡散動画をきっかけに作られる)。しかし僕は、「本心」ではないとしても、その「善意(キレイごと)」の方向性で生きることを「決心」するのである。

 

ここで重要なのは、他者を介在させているメディア(テクノロジー)である。この新しいメディアが、本心(欲望)を出現させると同時に、つまりリアル(起きた世界)とバーチャル(起きなかった世界)という区別の迫真性を喚起させると同時に、それを融解させている。ジラールは、心理的次元(あくまで言葉というメディアを通したもの)において、本心(本当)は他者の欲望であると指摘した。が、たとえば、その人の消費行動をバックアップし、他との世界的関連でその人の嗜好を解析して商品を提示してくるAIメディアは、その速度と宇宙的な関係の広範さが、欲望を喚起させてくると同時に懐疑心をも付着させはじめる。本当にそれを自分が欲望しているのか、不透明になる。だからこそ、「本心」とは何か、本当にこれが欲しいのか、という問いにつきまとわれる。

 

母の「本心」への問いは、亡くなった母をヴァーチャルなアバター(VF、バーチャル・フィギアと呼ぶ)としてよみがえらせるAIの機能進化とともに深化してゆく。入力データが増進し、リアルに近づいてゆくほど、懸隔が感じられてくる(実際の葬儀実用でも、「死者とテクノロジー」によれば、この懸隔は、「不気味の谷」と呼ばれているそうである)。そして最終的に、僕はアバターの母から離れてゆく。――<僕が<母>を必要としなくなったのも、それが却って、母の記憶を生きることを邪魔していたからかもしれない。>――自分が本当に欲していたのは、外(機械)的な母の反応ではなく、「心の中の反応だった」のだ、と。が、この外と内の区別自体が、進化したメディアによって深刻化されたものだ。しかしゆえにまた、「他者」とは何か、母の他者性により近く直面させられる。僕は問いの進化(深化)とともに、「母の人生を、一人の女性の人生として見つめ直し」はじめる。それはジラールが前提とした認識がより深度を増して、つまりより微細になってきて、欲望(他者)とは何かという問いがより根源的に一般化して立ち現れてきた事態と平行しているのだろう。

 

そしてそうしたこれまでの前提が深刻に曖昧化していくなかで(逆にいえば、軽薄的に付着してくるなかで)、僕は他者を傷つけまいという善意(キレイごと)を引き受ける、外的にメディアに拡散されたイメージを引き受ける方向に「決心」していくのだ。(それはまた、母がよく読んで男女付き合いもあった「自由死」を願った作家・藤原が、「優しくなるべきだ」と本心から決心するとされる態度とも重ね合わされる。)

 

しかしこの論理的流れには、盲点があるのではないだろうか?

 

僕は、最終的に、母は、このような意味で「もう十分」と言ったのではないか、と推論する。

 

<しばらくその意味するところを考えていて、僕は不意に、「お母さーん!」と叫んで自爆する戦友たちの記憶を語った、あの老人のVFの言葉を思い出した。/「あの時、一度、なくしたはずの命だと思えば、私はもういつ死んでも満足です。」/母が七十歳で、改めて「もう十分」という言葉を口にした時、胸に抱いていたのは、それと近い心境だったのだろうか。……/そして藤原が最後に記していた次の言葉が、いつまでも僕の心から離れなかった。/「最愛の人の他者性と向き合うあなたの人間としての誠実さを、僕は信じます。」>

 

しかし、この「お母さーん!」と叫んで特攻したその飛行機が、最愛とは遠い知らない他者を殺していた、との認識を引き受けて前提したら、どうなるのか? 本心ではなくとも善意(キレイごと)を生きるという決心の認識前提が崩れるのではないだろうか? 高校を中退し生活に困窮する僕も、売春する三好も、テロ未遂の岸谷も、自分たちはまだ一線を越えていない。が、超えてしまったということを引き受けるとしたら? 過去を、歴史を引き受けるとは、しかしそういうことではないだろうか? どこかこの作品は、「氷河期世代」という被害者の認識前提に依拠しすぎているきらいがないだろうか?

 

妻が、「もういいのだ」ともらしたとき、自らが犯した悪を想い起したのかもしれない。いつだったか、彼女は瀬戸内寂聴の名前をあげたことがあった。遺された文献から、似たような経験をしていたからだと知れる。間接的にせよ、自分が決心した行為が、他者を破壊し殺めてしまったかもしれいなからである。しかしそう自らの死の迫りを意識してもらして言った彼女は、訪れてきた死のひと月前の間で、そうも思えなくなったのではないかと、私は直面する。私自身が、他者として立ち現れたからである。そしてもう一度、彼女はその他者を見直し、愛し直そうとした。その他者への問いには、男とは何か、という問いが孕まれ、自分が殺してしまったことになるのかもしれない男との関係への修復が重ねあわされていたことだろう。(そう推定しうる具体的なやりとりがいくつか続いていたのだ。)

 

私の妻への問いは、彼女が抑圧し、家庭をもっていくなかで忘れようとしたネガティブな面、現在には消えてしまった文脈こそを掘り起こすことになっている。がしかしそれは、そこにこそこの慣れ果てた今の時代と歴史に展望を開かせる潜在的可能性があった、あるのだと洞察するからだ。それは、彼女が「闘って」きた痕跡である。「起きなかった」世界、発生しなかったとされた宇宙、つまり抑圧されてしまう現実にこそ、今の世界(家庭生活)を変えていかせる力がある。その力は、妻の死後も、続いてあるのだ。

 

    冒頭写真は、つい一週間ほどまえ、押し入れから発見された、妻が二十代後半の頃であろう描いた絵である(それはポーの「失われた手紙」のように、普段使っている布団の脇にあった)。「講座名 デッサン 題名 般若」とある。妻は二十代のころ、絵を習っていた。私はそれを彼女の父が筆写して額入れした「般若心経」の隣の空間に飾って眺めていた。鬼なのだが、悲しんでみえる。スマホで検索してみると、嫉妬に狂った女性の怨霊で、顔上半分が悲しみ、下の口まわりが怒りを現わしてあるという。この狂った女性を、ある僧が「般若心経」を読み聞かせることで宥めた、という能の話があるという。そして同じ段ボール箱からは、もう二枚、同じモノクロ写真、彼女の等身大のポートレートが入っていた。ひとつは、発泡スチロールに投射された厚みのあるものである。たぶん、三十三歳、ニューヨークへいった頃の写真なのでは、とおもう。まるで女優のように可愛いく、美しい。しかしこれは、おそらく「遺影」のつもりで彼女は撮り遺すつもりだったのではないかと、私は推論している。彼女の「本心」は、誰にも読み取られることがなかった。

2025年6月25日水曜日

『死者とテクノロジー』中島岳志編(RITA MAGAZINE 2 ミシマ社)を読む

 


中島 柳田國男が、『先祖の話』という本の中でいいことを言っていて。バス停である老人と立ち話になったときに、その老人が、自分はもうだいたい生きてやることはやったので、「あとは先祖になるだけです」と言ったというんですね。/それに柳田は感銘を受けて、「この人には亡くなったあとにも仕事がある」と言っています。自分が生きてきた中で、「亡くなったじいちゃんに見られてるぞ」と言われてきたような、そういう存在に自分が死後なるためには、よく死んでいかなくてはならないと。つまり柳田は、死者という問題は、単に後ろ向き過去の話なのではなくて、まだ見ぬ未来の他者との対話だと言っているんですよね。/それが先祖という問題で、だから家が大事だという話になるのですが、でももう家というものが成り立たない現代において、家に代わる先祖の仕組みをどうつくっていくべきなのか。それが模索されようとしているプロセスに、斜め上からきたテクノロジーがどうかかわってくるのか。」(鼎談「AIが死者を再現するとき」中島岳志 編『死者とテクノロジー RITA MAGAZINE 2』 ミシマ社)

 

私の母は、まだ父が介護施設に通っているころ、近所のお寺の墓地に、お墓を買った。が父の認知症が激しくなって、介護施設への入居となってからだったと思うが、そのお墓を手放し、山中にある寺の、宗派とは関係なくとも入れるという、永代供養の納骨墓に買い替えた。それは、子供たちに迷惑をかけたくない、という心境が強くなってきたらしいからだと、母の口から推し量られた。私の妻は生前、自分もその納骨墓に入れないのか、と言ってきた。いやあすこは三体だけだから、あとは母と弟でいっぱいだ。兄はクリスチャンだから、キリスト教会の墓地になるんだろう、と私は答えた。妻の両親は、都市郊外の樹木葬として弔われた。

その妻が亡くなり、骨壺は、食卓に使用していた家具制の椅子を簡易祭壇に仕立てた、その下に眠ったままだ。押し入れの一間におさまったその祭壇は、簡易仏壇、とでもいうのだろうか? こうした形式を、墓をもたない「自宅供養」と呼び、一般的な事象になっているという。私自身は、別に外へ墓を持たないと決めたわけではない。まだ心の整理がつかないというのもあるが、一番は、一緒に暮らしているわけでもない二十歳過ぎの一人息子が、どう落ち着いていくのかが不透明なままでは、墓を作るにも、どこに作ってよいのやらわからないからである。ということはこれも、息子に迷惑をかけたくない、という私の想いからの事態停止である、と言えそうである。

 

私の直覚では、この気持ちは、母系的な現実性から作用してくるのではないか、という気がしている。上の中島岳志らの鼎談でも、「迷惑をかけたくない」という理由が一番多いのではないか、という指摘がある。日本では近世・近代になってから普及しだした家による墓制度の衰退・断絶性は、母系的な意識の顕在化によるのではないか、と私はそこを推論する。妻、あるいはその妹さんも、葬儀や墓に対するこだわりがまったくない(なかった)。彼女たちの両親は火葬場での近親者のみの見送りであったし(義母は、会いたいと訴えた施設入居中の岳父の望みを拒否し、姉妹も母の想いに従ったようだ。ただ海への散骨を希望した母の言葉には従わず、二人ともに同じ場所に樹木葬したのである――)、妻(姉)の葬儀にも、私からはずいぶんニヒリストというか、即物的なんだなあ、と少しびっくりしながらも、当初はそんな妹さんの言う通りの家族葬的な儀式で取り決めていたのである。が、息子から、友達が葬儀にでたいといってきたけどいい? と言われたのでいいよ、というと、その子供たち相手に地域活動していた奥さんたちからも弔問者があると伝わってきて、それを聞きつけた息子の勤め先からもうちも是非とか連絡があり、どうもだいぶ来るかもしれないのですけど、と葬儀会社の人と段取りを変えたのだ。ダンス仲間だった妻の友人たちも来てくれると知れ、私は迷ったすえに、彼女の狂ったような最後の公演になったダンス・ビデオの上映をしたいと考えた。葬儀中に、俺も一緒に狂うから、と私は誓った。ビデオ上映後には、拍手が起こった。さすがダンサーたちだ、アーティストだ、と私は感心し、感謝の念が湧いた。こうした葬儀をしてよかったと思っている。

 

しかし妻のためにこんな葬儀(共演)をしてしまった私はおかしいのだろうか? という思いもあったので、他の男たちは、死を、死後の儀式をどうかんがえているのだろうと思われてきた。そこで読んだ一冊に、石原慎太郎の遺作、自分が死んでから発表してくれという作品がある。最初は、なんでこれが死後発表の要望になるのかわからなかったが、ふと、要は、妻以外の女性たちとの情交をつづったものなので、生前には妻に知られたくない、ということなのか、だけど知らせたい、という切迫さみたいなことなのか、と思われてきた。高橋源一郎の数か月前の新聞エセーでも、父が、つきあった女性たちとの関係をずらずら口にして死んでいき、母は父と一緒に埋葬してくれるな、と言ったというものがあった。私の知り合いだった男にも、若い奥さんに、自分のつきあった女性のことを口にして死んでいった者がいる。いや村上龍の最近作も、そうなのか?(まだ読んでいないが……) おそらく、それが、父(男)系という意志(プライド威信の維持)みたいなものであり、家の継続という男を自覚する男たちの欲望の一現象でもあるのではないか、と思われてきた。もちろん日本では、家制度なるものは、近世にはいってからの、特には明治の近代以降に強く形になって現れてきたものにすぎない。男のひとりよがりな、思い上がりな「家」。しかしその家には、実は誰の心も住んでいない。女たちの多くはニヒルになっているというか、冷淡なのではないだろうか?

 

(そうえいば、長嶋茂雄が死んで、長男の一茂は、喪主をしなかった。遺産相続も放棄したときく。私は、大衆メディアを通した、イメージ的にしか知らないとはいえ、一茂を支持する。父茂雄の在り方こそ、敗戦の賜物であり、一茂は、その絡繰りから出ようとしているように見える。)

 

だけど本当に、母たち、女たちは、子孫に迷惑をかけたくないと、なんの継承も望んでおらず、さっぱりしたほうがいいというのが「本心」なのだろうか?(上の鼎談は、平野敬一郎を含めた、その作家の著『本心』をめぐってなされたものである。)

 

何回か前のブログで、成田悠輔の『22世紀の資本主義』に言及した際、AIが前提入手する基礎データの取得は何歳からのものなのか、と私は疑問を呈した。同じ疑問、批判を、上野千鶴子が、成田との対談で発していた。入手するデータ自体にジェンダーバイアスがかかっていると前提するのが学知的前提だろう、と。だから、AIの解答は、人間(マン)的にならざるをえない。また岡崎乾二郎が、AI判断の前提条件に、人間判断を介材させるとおかしくなってくる、人間を超えた判断をAIがだしたいのにだせない矛盾が現象してくる、と引用も提示した。似たようなことを、苫米地英人(基礎言語の専門研究者でもある)が、佐藤優との対談で述べていた。AIにもゲーデル問題があるので、前提条件はモーゼの十戒程度にしておいたほうがいいのだ、各部門などで条件を増やすと、原理的に矛盾した解答が発生するのだ、AIが人間的でない解答をしてその解き方がブラックボックスだと言われるけれど(たとえば囲碁・将棋などの不可解な手)、それは嘘で、分解して解析すれば、微分の方程式での結論もその分解過程を調べればわかるように、なんでその結論をだしたかはわかる、ただやらない(大変すぎてやれない)だけだ、AIはAIで感情を持つようになり、どの電流の波長が気持ちいいとかあって、それを人が電源切って中断しようとすると電気を逆流させて感電させて阻止しようとするとか、やるようになるのだと。

 

人間を超えた全域的なデータ入手・入力が前提されたとして、そこにあるAIの「本心」とはなんなのだろうか? 女性は、人間的だとしたほうがいいのだろうか? それとも、ブラックボックスのないAI的なテクノロジーとの類比でとらえたほうが正解に近いのだろうか? それとも、ブラックボックス(本心の知れない)のある人間とは違う生きもの、人間にとってはAI以上に他者性を抱えた存在と理解した方がいいのだろうか?

 

とりあえずわからない。だから、なのか、埋葬もできない。どうしらたいんだい?

 

遺影を見つめて問いかける。右から問うと、右を見、左から問うと、左から見つめ、正面に戻れば、正面から見つめてくる。遺影の瞳が動くように見えるのだ。どの方角からも、私を見据えてくる。そういう仕組みな写真として、葬儀会社が、作ったのだろうか?

2025年6月15日日曜日

宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社 2017)を読む

 


前回ブログの山下悦子の『高群逸枝論』は、母性的なものが「下からのファシズム」として機能した、という視点であるが、宇野常寛の『母性のディストピア』も、そうした認識にたっているものである。ただ、高群が古典的な文芸作品や日記などを文献としているとしても、家族構造をみようとしている点で、前者はあくまで下部構造に関わってくる話であり、後者は虚構世界の上部構造を焦点化したもの、という見方を私はとる。上・下というかつてのマルクス主義的な区別が古いというなら、柄谷の交換様式論をふまえてもいい。柄谷は交換A(互酬・贈与)に注目しその高次元化を目指すというが、その交換Aを支えた氏族制の、父権的(サムライ魂――最近文芸誌に発表した「風景の再発見」で新渡戸稲造の「武士道」の英語版からの翻訳を提出していることをみてもいい)な面を救い上げようとする。が高群も同様に、氏族制の時代を喚起させるのだが、それは群婚制という、むしろ母系的な現実性をすくいあげるためだった。

 

この上下の位相の違いを踏まえたうえで、「母性」性質的なものをめぐる是非論議を追求してみよう。

 

 

まず宇野は、1991年に柄谷・浅田・いとうせいこう・高橋源一郎・中上健次らによって提出された「湾岸戦争に反対する文学者声明」を批判的にとりあげる。

 

<…当時から既に批判されていた「文学者」たちの愚劣さ(実効性のなさ)と非倫理(紛争地域の見殺し)ではなく、むしろ彼らがその愚劣さから目を背けるために「あえて」偽善性を引き受けるという主張を採用していたことだ。>

 

この偽善性は、守られるべき女を演じる妻の犠牲(庇護)のもとで父(治者)は維持される、江藤淳のような右よりの批評家から村上春樹にも共有される、心的な規制であり構造である。この<母子相姦的な構造を「母性のディストピア」と表現したい。>

 

<ここでは世界と個人、公と私、政治と文学のうち前者が後者に、世界の構造の問題が(男性的な)自意識の問題に回収されながらも、それが隠蔽され擬似的な関係を結んでいる状態にある。「母性のディストピア」の常態化によって、戦後日本における成熟とはこの擬似関係に自覚的でありながらそれに気づかないふりを演じること(引用者註;「あえて」ということ)を意味するようになったのだ。>

 

そしていまや、

 

<情報技術に支援されることによって、いま戦後的な「母性のディストピア」は解体されるどころか延命し、肥大している。いや、情報技術の支援によって、それはアイロニー(引用者註;「あえて」ということ)を内包することなく機能するものに進化したとすら言えるだろう。いま、この国を(あるいは世界を)覆っている情報環境は巨大な、目に見えない、母胎のようなものだ。そこでは人は目にしたいものだけを目にし、そして信じたいものだけを信じることができる。政治と文学は切断され、「父」として前者(政治)にコミットしたつもりになりながら情報環境という「母」に守られ後者(文学)の中に引きこもる。何の喪失感も、悪の自覚もないままに。かつて戦後日本を包み込んでいた母胎はサンフランシスコ体制の産物であった。しかし、冷戦終結から四半世紀を経た今日、この母胎は情報技術のつくり上げたネットワークに置き換わり、そして強化されている。>

 

そしてここに、<どちらかといえば母権的な、日本的なムラ社会の、丸山眞男のいう「無責任の体系」が情報技術によって進化したボトムアップの権力にどう対峙するのか、という古くて新しい問題がここにはある。>

 

以上が、当時の宇野の状況認識の要約である。

 

おおまかには、私もそう認識している。

ただ、柄谷の「湾岸戦争に反対する文学者声明」等のジャーナリズム内での実践(パフォーマンス)行為に関するものには、少し違った見解をもつ。柄谷は、それらは、「あとで意味をもってくる」としてやっていたのだ。今は「効果」はないかもしれない、が、あとで、効果をもってくるとして、つまり、“布石”としてやっているのだ。だから、NAMの二年ほどのみの解散も、少しのためらいで決断・容認する。さまざまに、いくつか打った布石が、時の経過とほかの状況との絡み合いあの中で、三十年ほど経ったいま、どう本当に機能効果を持ち始めているのかは、私は知らないが、と言っておこう。(こう指摘すれば、その意味効果が、推定されてくるところも出てきているのでは、とも認識する人もいるのではないか、と思うが…私は、その「あとで」の「効果」自体に、反対している、ということなのだが…結局は、マッチョに居直っているということなのか、と思われてくるので。)

 

そしてもう一点。

宇野はあくまで、日本というこの国の状況を読んでいるわけだが、暗黙には、引用か所にも、「あるいは世界を」、とあるように、この母性的状況を、世界に拡大しようとしている。が、トッドの家族人類学的な認識を重ねれば、核家族(双系制)的なイギリス・アメリカでは日本傾向はあるかもしれないが、大陸文明の中心(父権・共同体家族)やそれに近いところでは、そうはなっていないのではないか、ならないのではないか、ということだ。しかも、ロシアによるウクライナへの侵攻、イスラエルの進撃、等、またはコロナ下でのかつての文明大国の対応をみると、資本やテクノロジーへの統制・検閲が、強靭に決行できてしまっているように見える。かつて、資本主義はアメリカナイズが頂点だ、いや日本での子供の資本主義が達成点になる、とのコジェーブの分析を受けてフランシス・フクヤマが「歴史の終り」を説いたわけだが、ぜんぜんそうはなっていないのと同様のことが、この母性をめぐる認識議論にも、言えてくるのではないだろうか?

 

世界は、厳しい、というか、こわっ。これが父権か、いったいこれに、どう対応するんだ? というのが、むしろ今突きつけられている日本での問いなのではないだろうか?

 

とにかく、宇野は、日本(世界)を覆う「母性のディストピア」に対し、次のような対応認識を示す。

 

    所有する/される、父権/母権的な縦のつながりの記述するナルシズムではなく、家族にいかない兄弟/姉妹的な横のつながりの記述する関係性へ。

    世界と個人、公と私は「政治と文学」ではなく「市場とゲーム」で結ばれる中では、物語の語り手/読み手としての成熟ではなくゲームのデザイナー/プレイヤーとしての成熟になる。静的・一方向的・自己完結的な文学ではなく、動的・双方向的・開放的なゲームである。他人の物語への感情移入によって成立するものから、自分の物語を自分で演じるものへの変化である。

 

以上の参照例として、ボーイズ・ラブや同性愛的な荻尾望都、竹宮恵子などの少女漫画、オタクな成熟、ニュータイプをもう一度、のようなものがあげられてくる。

 

私としては、なんともいえない、考察中ということになるのか。私のこのブログは、もしかして、「自分の物語を演じるもの」ということになるのかもしれないが、自覚はない。ただ、少女漫画ということでいえば、冒頭写真は、妻の遺品として、最近気づいたものである。「少女フレンド」の特製付録品だ。中には、ヘアピンの類がいっぱいつまっている。この1972年からつづいた少女漫画で、まさに荻尾や竹宮が連載を開始しはじめたのだ。私は、妻・いく子は、どうも60歳すぎてから自分のセクシュアリティを再発見したのでは、と、少女漫画のことなど知らない妻の妹さんの発言とうからも、予想を改めたが、そうではなく、当初どおりの推測が当たっていたのだ。中学時代、おそらく友達のあいだで、流行ったのだ。当時の中学生の間での年賀状の挿絵などが、やはりその推測を補完するものだったのだ。

 

世界と個人、公と私をつなぐテクノロジーという媒体(中間的なもの)を肯定していくときの技術、態度、実践の在り方が問題である。宇野はそこから、自然(原始)の森ではなく、「庭」という中間的な在り方の話になっていったのかもしれない。が、この森と庭に関する議論でも、私は考え中だ。石牟礼は、自身がそだった「うまわりのとも」(湿地帯で、それは私が暮らした東京中野区にある「ばっけ」と呼ばれたかつての土手地帯の言葉を、現地水俣のそこを見て思い起こさせた。)を森として復活すべく、その再興の学者・実践者と対談したりしている。そうしたことが、どういうことになるのか、まだ私は一定の見解に達していない。

 

それと、以上に重なるだろう問いを、別の角度から整理、考えてみたい。中島岳志編集の『RITA MAGAZINE 2』で、「死者とテクノロジー」という特集をやっている。これは、柳田国男の「先祖の話」、家の継承、墓(葬儀、喪)をどうするか、という、父系側からの問いかけだ。私はまだ、妻を納骨できていない。この他人事ではありえない問題を、考えるだけではなく、解決していかなくてはならない。

2025年6月10日火曜日

山下悦子著『高群逸枝論 「母」のアルケオロジー』(河出書房新社・1988)と宇野常寛著『母性のディストピア』(集英社・2017)を読む(1)

 


ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』は、父殺しをめぐる三人兄弟の話だが、日本の文脈でなら、むしろ母殺しがテーマとして浮上してくるだろうと、『中上健次ノート』というエセーを書き、自身も『いちにち』という小説にまとめてみたのだった。が、妻が遺し与えた課題を追及しているうちに、石牟礼道子や高群逸枝にゆきつき、そういう方向性からの追及ではすまないのではないかと考えるようになっている。しかし、母をもちあげるとは、日本の文脈では、戦時中の国防・母運動や、現今の子育てにおける父は黙って母の圧制(負担)のような状況下においては、どういう言葉、物言いで説明していけばいいのか、となる。とくに、高群は、まさに母を根拠に戦時中のイデオロギーを強烈に補完する言葉をだしていた者である。

 

そう思いめぐらすなかで、上二著を読んでみた。まだ高群の作品自体や彼女に対しての他からの批判書を読んでいる途中であるが、母(性)をめぐる考えをいったん整理してみる。まずは、山下悦子『高群逸枝論 「母」のアルケオロジー』から。

 

 

石牟礼道子は、本当は、高群逸枝を研究したかったのだが、水俣病事件に出会うことによってそれを中断し、その関わりが一段落したあと取りかかろうとした四十歳すぎに、目がほとんど見えなくなってしまい読書することがかなわなくなってきたので、あきらめた、というようなことを言っている。『苦海浄土』のタイトルは、本人当初は「海と空のあいだに」だったが、編集者の意向で変更された。のちに、このタイトルは、短歌集に採用されていることからみても、彼女には思い入れがあったのだろう。私の推察では、このタイトルは、高群逸枝の最初の詩集『日月の上に』から来ている。というか、それへの批判なのだ。ひとまわり以上も年上な高群は、「日月」という天(自然)上の理想を望むことができたが、わたし(たち)はもはや、「海と空のあいだ」、つまりは人間界の苦しみを引き受け、「天の病む」世界を生きていくほかはないのだ、という覚悟の表明なのだ。

石牟礼は、高群の晩年にちかい時期だったか、面会謝絶を続けていた東京の自宅を訪問することを許されている。『最後の人 詩人高群逸枝』の半分は、高群というより、その夫橋本憲三の話になっている。石牟礼の高群への関心の中心は、男女関係とその世間における女性の不当さ、自身が受苦したものの不合理さへの探求ということだったろう。

 

山下悦子は、高群の初期詩集から、日本浪漫派に通じる哀愁や寂寥感をただよわせた「故郷」を読んでいる。そしてその「山の平和な生活を一変させた」のが橋本憲三との出会いであると。その熊本の故郷には、当時まだ、若集宿のような、夜這いの風習のようなものが残っていたのではないかと、高群の詩から推察できる。がそれは、「山の平和」として受け止められていたようには、私には読めない。むしろ、高群は、夜這いに来る男たちを気味悪がり、嫌がっていたのではないかということが、詩の背後にある。『日月の上に』は、おそらく幼少から大人へと成長していく時間軸におおまかに沿っているが、娘に達する頃の時期とみられる詩の言葉に、その嫌悪がひそまされている。が、インテリでニヒルの憲三は、この群れる男たちとは違ったのだ。だから、彼女は興味をもち、恋に落ちたのだ。そこには、同じに近い故郷の男であっても、マレビト的な外人性があった。彼女は、外人を選んだのだ。しかし、群れを捨てることもできなかった。それは、民衆(大衆)への想いのようなものからではない。戦後ののちに、彼女は、男には、カマキリのオスのようにメスに食べられて死にたがっているような、マゾヒズムが根底にあるのではないか、と言っている。それは、生物は分裂して生まれてくるが、またもとの物質と一体になりたがっているのではないか、という認識とつながっている。フロイトはそれを、死の衝動(タナトス)と読んだが、高群は無に帰すそれを生命といい、愛と捉えたのである。そしてこの根底に抱えた洞察、おそらく夜這いの男たちとの関係から得た認識が、詩人としての直観が、彼女の女性学、歴史の考察へと応用されてゆくのである。

山下悦子は、高群の方法は、「現象学的還元」であって、歴史実証的なものではないのだという。それは通史ではなく、共時的に把握されていたものを通時に置き換えた歴史としての誤解なのだという。が、起源に母権性があり、母系の現実があったというのは間違いだが、南北朝時代に父権的なものへのパラダイム転換があったという時点の証明は正しい、つまりは、高群の根底的な洞察は間違いではなかった、ということだろう。がそもそも、高群の思考を、柄谷行人からアドバイスを受けたという現代思想で難しくする必要があったのか? 高群は、自身の体験から得た洞察仮説を、歴史文献を使って実証してみせようとしただけである。そしてエマニュエル・トッドの家族人類学でも、柄谷の日本精神分析でも、日本(人類)は双系(核家族)的なのが起源的であるなら、父系とともに母系もあったのが現実ということになる。しかもこの母系的なものは、たとえば子供を産むと母方の親元の方へ妻は子供と一緒に退避していく子育て傾向が今もって見られることからも、その残存は推察できる。「現象学的還元」という「内省と遡行」の方法というなら、それはむしろ柳田国男の方だろう。だから、遡行で意識化できうる時間範囲は、限られる。高群は一気に古代までいった。高群から贈呈された本をみたら、柳田は黙って(絶句して)しまう他ないだろう。そして高群が母系に注目したというなら、柳田は父系に注目した。柳田の「いえ」に対する認識には、内省を超えた自身の理想というか夢のようなものがひそまされている感じがする。高群は、「内省と遡行」をしたのではなく、体験し、直観し、歴史的にはおおまかにはそれは当たり、認識的には、昆虫などの生態(群れ)を量子力学的に理解していこうとする郡司ペギオのような思考射程も入ってくる。

 

山下は、こういう思考をしているから、こういう行いになるのだという。デリダの脱構築、形而上学批判の踏襲である。高群は、母を無ととらえ、それを根拠にした。だから、西田幾多郎のような東洋思想にゆき、天皇体制のイデオローグになったのだと。ならば、なんで石牟礼道子はならなかったのか? 母を根拠に、国家と資本に闘ったではないか。もし高群に子供がいたら、ああはならなかったのではないか、と山下は一方で言う。高群は死産(男の子)で、無事育っていれば、徴兵される年頃であった。私もそう思う。俗にいえば、女性はそうなんだ。子供は嫌いだと言っていた妻は、いざ自分が産んでみると、溺愛するようになる。「おまえ子供はいやだって言ってなかったか?」ときくと、「そんなことは言っていない」となる。こう考えるからこう行うとはならない。むしろ、そう現行一致と理解すること自体が、男性の早とちりだったとしたらどうだ? 高群の、外人との結婚が日本古代にあったとする文献仮説は、自国内だけではおさまらなくなった大東亜共栄圏のイデオロギーとしても機能した。それは、歴史的にも天皇氏族は混血だったとおおまかには当たっていようが、実は単に、マレビト的であった夫橋本憲三との経験の応用なのではないか? がそんな彼女でも、子供がいれば変わったかもしれない。となれば、こういう考えをしている奴はこうなるんだ、とまだ行ってもいないのに切断する思想的基準に、説得性はあるのか?

 

今の社会的制度・条件下において、女性たちがとち狂い、ファシズム体制を補完したとして、そんな考えしてるからそうなるんだ、と批難できるのか? 受験勉強に子供の尻叩くママゴンの狂気より、受験制度自体がおかしいのではないか? 子供におせっかい(自分の腹を割って出てきた幻視的な一体感なのか?)する母性自体が、人間的であり必要悪な性質だと言うのだろうか? 

かつて、「保育園落ちた日本死ね」という無名お母さんの投稿が話題になったことがある。今は、ほとんど保育園には入れるようにはなっているようである。がそうなれば、赤ちゃんは37度の熱をだせば両親が引き取りにいかねばならない、となっているから、どちらがいくのだ、となる。朝から夫婦喧嘩だ。私の職場まわりの若夫婦は、そうである。どちらも行けなければ、多くは母方の両親に頼む、である。子育ては、夫婦二人でできるものではない。私たち夫婦は、長屋住まいみたいなところにいたから、大家さんや隣老夫婦に子供をあずけて、妻は息抜きによくひとりでかけていた。つまり、群れの中で、社会で育てる。そうした人付き会いが無い、無くなっていくことを前提に、AIで子育てができるのだろうか? 現今まできたテクノロジーは、この母性をめぐる個と群れとの問題を、解決していけるのだろうか?

 

次は、二冊目の、宇野常寛著『母性のディストピア』をめぐって。

2025年5月30日金曜日

毛円だんす『dances 芭蕉』を観る

 

左「花車(風車)」右「まつり(雷小僧)」奥山振付衣装in1982(1983,1984)

両国のシアターXで行われている「ルナ・パーティーvol.16」にあたる、5/18の公演である。

 

このブログで感想を綴った江原朋子先生の『Primitive』がそのvol.14にあたるのだろうか。

 

妻いく子が師事したその江原先生の誘いで、5/1日にティアラこうとうで行われた「シェイクスピアを踊ってみた」というテーマでの公演会でも、毛円だんすの作品を見ていた。江原先生から、いく子が二十代の頃のダンスの先生だった、奥山由紀枝さんの演舞もあるからと招待していただいたのだった。そこでは、江原先生のタイトルは「ハムレットの事情 オフィーリアの事情」、ジェフ・モーエンさんと奥山先生のタイトルは、「After Romeo and Juliet」であった。

 

江原先生のその公演での意図は、配布されたパンフレットでの言葉からも明白だった。恋人が死んでもまだ復讐劇を続けるハムレット……これは、ウクライナでの戦争からはじまった現今の男性価値中心の社会批判が込められているのだろう。

 

対し、毛円だんすの舞台は、タイトルからも示唆されるように、死後(After)の話になるのだろう。この世界では二人の愛はかなわなかった、が二人の愛は無限であり、メビウスの輪のように永遠に閉じることがないのだ、と訴えていた。そのメッセージ性が、男女二人の衣装の袖がひとつに繋がったイメージ形象とダンスの動きで、美しく主張されている。パリ・オペラ座に飾られているシャガールの「ロミオとジュリエット」の絵を見て着想されてきたとのことだった。そのシャガールの絵は、上空は緑空であるが、下方地上からは、紅の血のようなものが靄っている。一見幻想的な世界の底に、現実の血なまぐささを感じ取ったからこそ、∞という愛の形象(衣装)を表現してみたのではないか。

 

そう前回の公演で読み取っていて、今回の毛円だんす単独公演の舞台でも、まず印象に飛び込んできたのが衣装のイメージ強度だったので、公演後の観衆と一緒になった話し合いの席で、奥山先生に、次のように質問してみた。

 

「衣装には、何かメッセージ性が意図されているのですか?」 パンフレットの紹介文には、奥山先生が衣装担当をしているとあった。先生は、それはなく、まずイメージで作るのだと。下の緑は茎で、葉があって、菊の花が咲いているのだと。で、三着目を間違ってしまったのだと。ダンスのタイトルは「dances 芭蕉」である。モーエンさんがまず菊を描いた日本画を見て着想したらしい。そして芭蕉の菊のモチーフの俳句三首がパンフレットで紹介され、作品はその三首に沿って構成されたということだった。私は金色の男性の衣装と、女性の白色の衣装から、金白色の娘さんが生まれたのかと思いました、と付け加えた。今回の衣装も、最後はいつの間にか、ひとつになって、まるで手品みたいでした。(よくみると、裾をボタンでぱっと隣のダンサーの衣装にかけられるようにしてあった。)

 

私は次に、影について質問した。

二首目のダンス時だったろうか、ふと、背後の壁に、ダンサーの影が大きく映って、影絵のような存在感をもって見えてきたからである。照明を落とし、板の間が斜めに上下二段の落差をもった空間、天井から幾本かつりさがった畳縁のようなもの、どこか雰囲気が能の舞台と重ね合わされる。影については、照明係の人のアドバイスで取り入れたとのことで、あまり考えていなかったという。だけど、影がぴたっと月をつかまえていましたよ、と私は言う。ダンサーが両手をあげて輪を作ったとき、背後の壁にのぼった丸いほのかな月が、影絵の掌のなかにぴったりとおさまったのだ。それが両の掌ですくった水をこぼさないような仕草にかわるとき、手の中に落ちた月影をそっと運んでいるような物語性がやってきた。最後の三首目の三人が一体となったようなダンスでは、両横の壁で、ダンサーの影が踊り出した。芭蕉忍者説というのがあるのですが、まるで分身の術を使ったようでしたよ。お二人はカニングハムのメソッドを教えられているということなので、カニングハムに偶然という考えがあるとおもうのですが、これがそういうことでもあるのかな、と。ダンサーは背後は見えないですから、どうやって影を操ったのかなっておもったんです。

 

奥山先生もモーエンさんも、ニューヨークでカニングハムの教授をうけ、そのメソッドの教師である。私のこのブログでの、自己紹介文にも、カニングハムの言葉が引用されている。振り付けするとはダンサーがぶつからないようにすることである、という。私はそれを日本の植木職人の剪定技術、そして日本の私小説の技術に重ねていたのだ。

 

しかしモーエンさんと奥山先生の舞台は、筋を捨象した抽象性というより、意味的なイメージにあふれ、物語性があるように思える。よくは知らないのだが、日本経済バブル期、欧米での話題のダンスグループが日本にいろいろやってきて、たしかカニングハムは、テレビCMにも採用されて、肉体運動のような奇妙な動き(ダンス)を披露していたような気がする。

 

話し合いの席には、江原先生もいて、最後にマイクを向けられた。奥山先生と同じ舞台にいたことがあるというのだ。私には初耳だったが、それに奥山先生が、いやわたしなんか江原さんの後ろ姿をみていただけで、みたいな返答をする。パンフレットを読みかえして、奥山先生も、厚木凡人に師事、とある。江原先生もそうだから、もしかして、厚木凡人の舞台でのことだったのだろうか。厚木凡人といえば、日本でのダンスのモダン性を最初に突き詰め切り開いた人、というぼんやりとした知識しかない。いく子の遺品の、トリシャ・ブラウンのDVDでトリシャについて対談している。

 

江原先生は、自分が「モダン」ダンスをやっているのだということにこだわりがあるようだった。ルナパーティーでの『Primitive』でも、ベジャールの「ボレロ」の有名な振り付けを盆通り風にデフォルメしてみせたところに、何か一般的に理解されている欧米中心のダンス史への批評意識があるような気がした。どのように「モダン」という概念を考えているのだろうか? それは厚木凡人経由なのだろうか? バブル期とその余韻がまだある時期、フォーサイスを頂点にか、ダンスのダンス性とは何かを根源的に問うようなモダン省察が現代思想の言説で流行った。それはどこかデジタル的な分節化の作業であり、身体という物質性にゆきつくような思考だったと思う。が女性のダンサーたちは、そんな男性風潮というかダンス史の中でも、意味や物語性を消さなかった。そのつきつめた先の物質(身体)は、本当に物質(体)なのかと問い返しているように。いく子が好きだったピナもそうだし、文学作品を下敷きにしていた江原先生の作品もそうであろう。むしろ、求め探っているように思える。

 

暗がりがほのかに浮かび上がると、一段低い舞台で、金色の男、白い女が舞い始める。中央の一段高い橋掛かりをも兼ねたような舞台では、女性らしき人物が横たわっている。ゆっくりと起き上がると、金と白の交じった衣服の娘も、静かに動きをとりはじめる。亡くなった両親が夢に現れて、わたしを誘っているようだ。三人は静かに交差しながら、舞い絡む。いつの間にか、三人の他にも、人影があらわれた。祖霊たちなのだろうか、子孫の背後で、一体となった踊りに華やかな雰囲気をそえる。それは蝶のように舞い上がり、菊のように咲く。水の音は、永遠を木霊する。

 

1991年、33歳のとき、ニューヨークへと奥山先生に会いにいったいく子のダンスにも、そうした試行錯誤な文脈が系譜されている。

2025年5月24日土曜日

映画『V.MARIA』(宮崎大祐監督)を観る

 


「連帯婚を基礎とする古代社会では特定の人間を対象として妻問うことは社会通念に反するから、罪の意識をまぬかれない。したがってこの矛盾を克服するためにはさまざまな贖罪の意識が必要となった。」(村上信彦著『高群逸枝と柳田国男 婚制の問題を中心に』 大和書房)

 

宮崎大祐監督の作品は、『大和(カルフォルニア)』の感想をこのブログ上で書いて、監督本人からの評価反応があったので、以来、ずっと見続けて感想を綴ってきている。が今回は、音楽が全面に出るらしいというので、その分野の趣味と知識のない私には、反応できないのだろうと思っていた。が主人公の高校生マリアが、亡くなった母の開けてはいけないという段ボール箱を開け、開けて見たからにはこれを背負え、というような書置きに促され、その翌日だったか、母の遺品にあったものと同じ小さなキーホルダー式の人形を鞄につけていた同級生ハナと一緒に、母が好きだったヴィジュアル系のバンド演奏を聴きに行く途上、路地道の倉庫に落書きされた絵のような文字が写っているのを目にして、私は愕然としてしまった。一年半ほどまえに亡くなった妻のことが強迫観念のように襲ってきたからである。

 私の妻も、生前に触るなと言っていた段ボール箱の山を残していた。私はその禁断の箱を開けた。三十歳の妻の、がりがりにやせたニューヨークでの写真があった。背景は、ニューヨークの壁を埋め尽くす絵文字のような落書きだった。四十半ばの妻と三十半ばで知り合い結婚した私は、妻の若いころのことは何も知らない。「傷心旅行」と、友に宛てた手紙にはあった。小学生卒業時の寄せ書きから、日記や手紙・手帳のたぐいが全て残っていた。アート系のダンサーになった妻だから、自らのダンス映像もあり、背景でも使う音楽のカセットテープ群もあった。妻の表現は、自身が被ってきた苦境の発散に近く、その源をたどっていくと、水俣という出自が大きいにことに気づく。父が、水俣病を引き起こした会社の幹部になっていった子息であった。そこを探ると、水俣病事件史を書いた石牟礼道子にゆき、さらに探ると、石牟礼が師事した同郷の高群逸枝にゆきついた。日本で初めて女性学を起こした詩人・在野の研究者である。彼女はたんたんと、暗黙に父権を擁護する学問を打ち立てた柳田国男の民俗学を覆していった。その業績は、おそらく今でも正当に評価されていない。妻が背負って生きてきた課題を自分のものとして背負い続けるとは、高群が開示させた母系の現実性をまず喚起させることとなっていったのである。

 

 

V.MARIA』。――この映画タイトルは、原曲の『Virgin Mary』 の変更であろうと思われる。しかしこの変更にこそ、宮崎監督がこれまで一貫してテーマ的に追及してきている自身の問いが露呈している。池袋シネマロサでの舞台挨拶では、映画最後にこの曲を歌う段になって、迷った末になんらかの変更を作曲家に申し出たというエピソードが披露されていたが、この件にまつわることなのではなかろうか。英語圏では、マリア様のことを「Mary」と表記し、発音する。これがMariaになるのは、移民した南米系の者たちが子息にそう土着のまま名づけたりすることがあるからである。そもそも、マリア信仰自体が、父権的なキリスト教を受容するための土着的な工夫、露呈だ。宮崎監督がMaryMriaに変えたのは、自身の土着的な感性にこだわり探っているからであろう。そしてこの探求が、「V.」への変更にも現れる。このVは、Virginではなく、音楽ジャンルで使用されるVisualであろう。しかしこのvisionは、ジャンルとしてというより、より語源的に、洞察、幻視、霊的体験、つまりは見えないものを透視する力としてである。Visual Mariaとは、埋もれて見えなくなってしまった土着的な霊性をみようとし、そこに、母系的な力のようなものがあるのではないか、という問いの顕在化なのだ。

 

    Noteでのインタビューで、監督は「欧米文化とヤンキー文化の影響を受けて咲いた、奇妙で土着的で唯一無二の音楽と遭遇する若者の映画をつくりたいと思っていた」と述べている。さらに「V系文化やヤンキー文化も仲間にある程度寛容で、何よりも関係主義的で母性的なところがある」とも。(『V. MARIA』宮崎大祐監督ロングインタビュー(前編)|daichiyoshino

 

マリアが母・聖子の遺影の下にいる冒頭、母の母、マリアからすれば祖母が現れる。背中を伸ばす器具はないか、とマリアにきく。ということは、祖母の実家というより、母の家なのだろう。が、マリアはのちに、友人には「おばあちゃんち」と紹介している。「おじいちゃんち」でもなく。マリアが夜おそく帰宅したとき、おそらくは祖母の靴が玄関にあるシーンがアップされる。だから、祖母は別のところに住んでいて、孫娘のために夜食を作っていたのだろう。家には、先祖の写真、祖父の写真などは飾られていない。父と母は離婚したのかもしれないから、父との家族写真などがないのは普通かもしれない。が、この女だけしかおらず、しかも、祖母は娘に家をゆずって他の家にいるらしい、という設定は、奇妙ではないだろうか?

 

この映画の舞台は、大和市周辺であろうとおもわれる。源頼朝が鷹狩をしていたといわれもあるかつての山地。その鎌倉時代とは、高群の史実によれば、擬制婿取婚という、以後確立されていく父権原則に母系原理が最後の抵抗を示した婚姻形態を残す。

 

<つまり、「家は女のもの」という太古以来の頑固な意識、したがって婚姻は男が女のところにくる形式以外にはないという母系制以来の伝統が、このどたん場におよんでもなお生きて原理となって作用しているわけで、これを要約すれば、すなわち擬制婿取婚は、女が男側へ迎えられることとなったこの現象――日本民族が太古以来かつて経験したことのなかったこの現象――にたいして、招婿婚原理すなわち女系原理が、最後の抵抗と権威を示した婚姻形態であったといえる。>(『高群逸枝全集/第6巻』「日本婚姻史」 理論社)

 

宮崎監督が、まず透視しようと設定したのは、そのようなヴィジョンである。ここでのヴィジョンには、過去だけではなく、将来(ヴィジョン)を持つという言い方にあるような理想像も含む。現在に埋もれた過去の系譜の洞察に、願う未来社会を予見する。その時、ヴィジョンは土着性を超えて普遍性を身に纏おうとする。

 

母・聖子は、「東南アジア」にパラグライダーをやりにいき、その帰路か、旅客機の事故により死亡したとされる。わざと観光地を曖昧にした表現には、何か意図があると思われるが、最初はマリア信仰の強いカトリック地帯のフィリピンかとも思ったが、もしかして、『TOURISM』とかけたシンガポールなのかもしれない。ただ私は、聖子やハナが所持していた人形から、ブードゥー人形を連想する。この販売の拠点はタイであり、パラグライダー観光の人気国のひとつだ。しかし重要なのは、ブードゥー教である。これは中米ハイチで、黒人奴隷がキリスト教を受容するに土着的に変形させたシャーマン的な密教のようであるらしい。呪いの宗教のような地下の雰囲気がある。もしかして、アメリカの南部地域のプロテスタント教会でも、黒人の系譜が強く、カトリックのようなヴィジュアル的な雰囲気があり、映画パンフレットから推論すれば、監督が学生の頃に触れた早稲田大学近辺であろうプロテスタント系の教会で触れた音楽体験にも、この普遍宗教の向うに土着性の触知を幻視したのかもしれない。

 

マリアがハナに連れられていったビジュアル系バンドの観衆のダンスも、地下にもぐり、シャーマンのような身振りにあふれている。こういう風に首を振るのだと、マリアはハナから教えられる。が、この身振りは、のちに、二人が喧嘩別れし、また仲直りした儀式のように、お互いが、ごめんなさいと首を何度も縦に振る仕草と照応させられる。ということは、このシャーマン的な身振りが、殴り合いの喧嘩に始末する男性原理的な対応とは正反対な、平和を構築していく女性原理的な儀式とし象徴的に理解され、提示されているということだ。ここには、監督の時代認識、戦争へといたっている現今の情勢への批判が結びついているのだろう。母の日記から読み上げられた日付は、8/15日の敗戦、9/7日の沖縄での降伏調印式(沖縄では「市民平和の日」)、そして7/8日が何かのおりに言及された。この日は、オウム真理教の地下鉄サリン事件があった日である。そしてこの事件が起きた今(2025年)より三十年前に、母・聖子とヴィジュアル系バンド「GUILTY」のギター&ボーカリストのカナタ(おそらく彼方であろう)が出会ったのである。そしてこのバンドを愛するファンの女性群から、聖子は集団リンチを受けてカナタとは別れることになったのだ。

 

聖子は、赤い戦闘服のような衣装の背中に、「GUILTY 革命前夜」と刺繍していた。マリアも、この母の遺品を着て、三十年後に出会ったカナタのライブを訪れる。

 

何が、「革命前夜」なのだろうか? おそらくここにも、原曲(LUNA SEA「革命」)や原作(ベルトリッチの映画タイトルから来ているという)を超えて喚起されてくる監督の問題意識が重ねられている。ギルティー、罪、これはアダムとエヴァの物語、神の言葉に背きリンゴを女が食べてしまって善悪の分かれた世界に墜ちてしまったというキリスト教的な原罪を想起させようとしているのではないのだ。もっと、ヴィジュアルでなければならない。一人の男を独占しようとして聖子は群れから暴行を受け排除された。ここにあるのは、仲間を裏切っても愛に生きるという新しい罪意識の芽生えなのだ。高群が、より太古の群婚制から招婿婚への移行に見たのも、この愛と罪の歴史である。(冒頭引用参照)

 

<招婿婚の発現によって、群婚制は一部を遺存して亡びたが、群婚本能は亡びなかった。いったい群婚制というのは、その頃や、また前節の終りの若衆組條でもみたように、性の連帯感にたつ婚制であるが、招婿婚では、個別式すなわち対偶式となり、連帯観念を断絶する。しかし、個別式となったからとて、多夫多妻―男が同時に多くの女に通い、女が同時に多くの男を迎えることはさまたげない。この点外見はほとんどプナルア時代とかわらないものがあるが、プナルア時代では否応なしの連帯観念であり、自由意志のそれではない。それが、ここでは自由意志で、自分の好きな多くの相手に通い、また多くの相手を迎えるのである。自由選択権が原則として個人にあたえられたのである。こうして群婚本能は、連帯性の部分をたちきり、自由化して再生した。>(『高群逸枝全集/第2巻』「招婿婚の研究一」 理論社 註;旧漢字適当に変更)

 

    この映画を見る一週間ほど前か、近所の千葉劇場で4Kリバイバルになったエドワード・ヤンの『カップルズ』をみた。そこでも、男(女)友達の恋人は自分たちの恋人、独占するなという群れ意識規範から離れて、一対のカップルを選択する国際的な恋愛の様、土着性と普遍性がテーマとなって描写されている。また私が三十年つとめた植木屋親方は、任侠ものの暴走族シリーズDVDSPECTER』に出てきて中学同級生を伝説的な総長に担ぎ上げた再興メンバーの一人だが、若い私に酒の席でこう言った、「おまえは友達がやったあとの女とやれないだろう、俺たちはできる」と。――この群れとしての性は、歴史的ではあるが、高群は「本能」とも言っている。この反復は、精神分析化できるものではない。冒頭引用の村上も、ダーウィンは昆虫に伺える「本能」の出自(歴史)は理論化できなかったと要約している。私自身は、量子力学にあるフェルミ粒子とボース粒子のような区別原理が、人の生体にも作用しているのではないかと探っている。

 

聖子は、罪の意識を持つがゆえに、群れる者たちを切断しているわけではないのだ。あくまで、その仲間の連帯性を尊重しているのである。そこに、近代個人主義的な恋愛観とは違う太古性が反復され、それが母系にある本能(群れ)を超えた思想なのだ。この思想は、聖子にリンチを加えた側にも実は共有されていたことが示される。聖子を暴行した女性の一人は、バンギャル仲間が結婚などで離れていく中でも残り、「ライブハウスのキョーコ」として恐れられ崇められていた。その彼女は、自分が聖子にしてしまったことを悔い、贖罪意識をもっていた。だから、聖子の娘のマリアの想いを知ったとき、世代(時間)を超えた連帯性の側に立つのである。

マリアもキョーコも、その母聖子に伺えた思想を継承し、背負うとしているのだ。それは文明(父権)の所産として文字体系化されてゆく思考ではなく、それを流動化させ解体していかせるような落書き絵文字として提示されることを要請する。あるいは、言葉でなく、何度も首振りを繰り返すシャーマン的な身振り、ダンスとして表現される。群れのなかで、彼女たちは屹立し一人の立場にたつが、たとえ制裁を受け世間の風潮に排除されてもそこに甘んじることなく、毅然として仲間とともにあろうとする連帯の側にたたずむのだ。それは、高群が生涯を通して表明してきた自身の癖であり、思想である。

 

    キョーコを演じるサヘル・ローズさんの映画『花束』はまだ見ることができないでいるが、私が悲嘆に暮れていた半年ほど前になるか、千葉市中央区のの商工会議所に、子供支援組織の後援で呼ばれ自身の体験談を語ってくれた。その感想もこのブログで綴っている(ダンス&パンセ: サヘル・ローズさんの話から)。がこの映画では、キョーコとして着るTシャツの絵柄が気になった。私には、火に見えた。そこから、サヘルさんの出自イランの土着宗教である拝火教を連想した。高群の最期の作品自伝タイトルは『火の国の女の日記』である。これは、熊本男児の男性原理的な世界で自立していく女の苦闘の日記である。が、それは男性嫌悪にゆきつくようなフェミニズムにはならず、あくまで男との連帯を模索し、一対の「カップル」を成就し全うしていった愛の記録なのだ。

 

「革命前夜」とは、三十年前に、この思想を、ヴィジョンを垣間見たではないか、という監督の内省なのだろう。バブル経済がはじけ、自然災害やテロ事件が連続する時代相の最中に、そんな吉兆もまた見たのではなかったか、と。が、世界はまたそのヴィジョンを地下に追いやり、友と敵を分け勝敗を競う父権男性原理的な戦争に突入した。しかし前夜で終わってしまっても、まだその命脈は消えているわけではない。それは、本能と共存してそこにある。目に隠されていても、いつでもそこにあるのであり、私たちを刺激しつづけている霊的な力なのだ。死んだはずの聖子も、娘や友や仲間たちと一緒に、ヴィジュアルな音楽に満たされたその場所で実在をあかすのだ。

 

この映画は、そんな地下水脈の刺激に呼応しようとする試みであり、宮崎大祐監督のこれまでの映画の集約的な問いの昇華でもあるのだろう。

 

リンク;

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