2017年10月22日日曜日

衆院選挙とお笑いの動向

サッカーや野球を禁止するために設けられた広場中央の柵。すると子どもたちは、この柵をネット代わりに、テニスをし始めるのだった。笑える。

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「瀬山陽の『日本外史』は文学的表現が政治的権力とかかわらざるをえない一つの時代の起点に位置している。それは「文学が政治上の事業に附帯せしめられた時代」にちがいなかったが、一方、文学がその無力を自覚することによって、政治を批判する姿勢を獲得した時代でもある。この「有用」の世界と「無用」の世界との緊張関係を激化させつつ、幕末の文学は明治維新に到達し、「文学から政治へ」というサイクルを終える。維新から明治二十年代にかけては逆に「政治から文学へ」というサイクルが始まるのであって、いわゆる文学極衰論争は政治と文学の緊張関係が弛緩の兆しを示し始めた時点、いいかえれば政治的近代の挫折から、文学的近代の庶出子が生誕する時点で発生するのである。文学極衰論争をうけつぐ形で争われた愛山と透谷の二つの文学史は、この二つのサイクルの終結点から逆にさかのぼって、近代文学への転換期をトータルに把握しようという野心的な意図を潜在させていたのだ。
「近世から近代へ」という問題を、戯作小説から近代小説へという脈絡のうちに模索しようとする文学史は、逍遥の『小説神髄』ないしは不知庵の「現代文学」にあらわれていた文学概念を、逆に幕末に延長する操作によって構成されている。幕末から明治にかけて演じられた政治と文学の苛烈な劇を切りすててしまったこのような文学史は、もはや何程の可能性も残されていないであろう。」(前田愛著作集第一巻「幕末・維新期の文学」 筑摩書房)

今回の衆議院選挙結果がどうなるか、この文章を書き始める日中の時点ではわからないが、どんな結果になっても、大勢は変わらないだろう。私自身は、先ほど投票に行って、小選挙区では立憲民主党の候補、比例では共産党に入れてきたが、棄権を呼びかけているそうな東浩紀氏のような態度でも、充分結果に反映される、いいかえれば、結果などどうでもいいような選挙であると、私は考えている。その結果を受けて、ずるずる時勢にながされていくのではなく、坂口安吾的に前に進んで行く現実的な文脈づくりを、政治家にはしてほしいものだ。が、何が「現実」的なのか、人間にとってリアルとは何なのか、そこに基づいた現実政策とはどのようなものなのか、政治ジャーナリズムの世界では合意がない。というか、文学界ではマイナーとはいえ少なくとも議論しえる了解事項はあっても、結局は政治レベルには反映されてゆくところまでは、影響力なく衰退してしまった、ということなのだろう。

今回、私が興味をもち、もっと突っ込んでみる必要があると感じたのは、20・30代での投票動向である。選挙前の世論調査によると(「朝日新聞」10/19朝刊)、18~29歳では41%が自民支持(60代では27%)、安倍内閣の続投支持でも前者が49%で、後者は60%が不支持だという。安倍総理の以前からの街頭演説でも、「わたしたちを支持しているのは実は若者たちなのです!」と、何か証拠でもあげたように特異そうに声を張り上げているシーンもTV放映されていたようにおもう。この若者と高齢者との落差は、統計的に意味がある、とかいう差異を超えているだろう。この落差を、どうとらえたらいいのだろう?

中学2年になる息子が、お笑い番組ばかりみているので、これはどういうことなのか、と調べてみたくなって、吉村誠著『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版)というのを読んでみた。東大の社会学部を出て放送界に就職し今は大学講師をしている書き手らしいが、文学的な教養がすっとんで書かれているので、そこへの突っ込みどころがそのまま問題点として明確になってきて、興味深い。
たとえば吉村氏は、新聞はエリートの書き言葉社会で、テレビは民衆の話し言葉の社会だ、という。が、たとえば夏目漱石が大学の先生から新聞社へ転職したとき、気が狂ったのかと騒がれたというが、それはむろんエリート社会を捨てて自ら民衆の生活へと降りていったからである。ニーチェによる大衆の定義は、新聞を読むような人たちである。エリートは、新聞など読まないのだ。私も早稲田大学の英文学の授業で、先生から、「ジャーナリスト」という字義通りな意味は「その日暮らし」ということだからね、と講義されている。明治政権のエスタブリッシュメントからもれた佐幕派のもと武士たちが、民権運動を盾に浮浪者的・ジャーナル的に始めたのがその大勢だったろう。もちろん、武士は識字率の高いインテリともいえる。が、この転換期の文脈抜きにして、新聞がエリート/テレビが民衆(生活者)、と短絡的につなげていると、もしかして、次の時代には、テレビ(でニュースを見る)のがエリート/スマホ(で趣味だけ覗くの)が民衆、ということになりかねない。吉村氏は、テレビでもニュースが「標準語」的なエリート志向で、そういう体制への抵抗として「方言」にこだわった「お笑い芸人」の姿勢(番組)を評価するのだが、その文脈だけけでは、趣味的世界が独特のスラング社会を縮約形成してゆくように、今度はそこが抵抗の拠点、と理解されるのだろうか? あるいは実際的にも、若きロックフェラーは、自分がフェミニズム運動を支援し資金援助するのは、女性が働きに出て子どもが独り家に残れば、勉強なんかせずテレビをみるだけのバカになっていくから社会を支配しやすくなるからだ、と言うような事を公言していたが、そんなエスタブリッシュメントの言葉を聞いたら、無邪気に民衆的なテレビが時代を変えていく力を潜在させていると期待することはできないだろう。

もともと近代社会とは、ラテン語(漢語)の聖書(原文)を方言(のちの国語)に翻訳してみせることから普及したネーションな運動であろう。それは俗語革命が基調であった。
日本では明治時代、人々の主体性、人民の主権性の思想を普及させるためにも模索されたのが、言文一致の運動だった。これは、書くことと言う(話す)ことを近づけようとする試みともいえるのだろうが、もちろんそういう書き言葉の世界の運動である。それが、なお識字率の低い明治時代(参照;前田愛「近代読者の成立」)、一般民衆とはかけ離れていたという事実性は確かであるだろう。が、漱石がそうであるように、エリート社会に属することもできた者でさえ抵抗していたのだ。ならば、抵抗の拠点を、実体的なスラングの場所、社会に求めるのは早とちりではないか? だから、抵抗の仕方もまた、生活の言葉に近づければいい、それを取り入れればいい、という安楽さも文学的に自覚されて、むしろ読ませない書き言葉としての抵抗の姿を見せる運動ものちに現れただろう。とにかく、まずは書き言葉の世界で「生活」を取り戻してゆくような生きた運動が始められたとしても、それはエリートなエスタブリッシュメントな社会で、民衆とは関係ないとはいえない。当時はなおほど遠かったとしても。必要なのは、そこにあったエリートの苦闘を、民衆たる「お笑い芸人」が参考にすることだろう。エリートがお笑いを参考にしたように。前掲書で前田愛氏は、言文一致に苦闘していた二葉亭は、落語家の円朝の「噺」から学びとって文体を作っていったのだと指摘している。それは、「外在的リズム」をもった「身振りとしての言語」である。しかし、であるがゆえに、その文の調べには、「滑稽めかした声、演技された声、誇張された声」が響いてしまう。当時は、新聞も家族(近所)みんなに聞こえるよう声をだして読んでやるのが普通だった。音読にはよくても、黙読には堪えない、ということが次なる問題となってくる社会の趨勢であった(らしい)。

<有明が幼稚な鑑賞力で高誦したという『佳人之奇遇』は美妙が排斥した「吟ずる」読み方で読まれたのであった。それは蘆花が『黒い眼と茶色の目』でいきいきと描き出しているように、学校・寄宿舎・私塾・政治結社等の精神的共同体の内部で集団的・共同的に享受された。このような享受の場は自由民権運動の敗退とともに失われて、享受の単位は家庭ないしは個人に縮小する。美妙が読者に要請した「通常の談話態(はなしぶり)」のように読む読み方は『小説神髄』が提示した「親子相ならびて巻をひらき朗読するに堪へ」る改良された戯作、その具体的実現としての硯友社文学に対応するであろう。新聞小説であり、家庭小説である。硯友社文学の優勢のまえに『あひびき』の読者が少数者であったことは否むべくもない。しかし、近代読者の系譜はじつにこの少数者の中から辿られる。それは漢文崩しの華麗な文体のリズムに陶酔して政治的情熱を昂揚させる書生達でもなく、雅俗折衷体の美文を節面白く朗読する家長の声に聞き入る明治の家族達でもない。作者の詩想と密着した内在的リズムを通して、作者ないしは作中人物に同化を遂げる孤独な読者なのである。>(前田愛・前掲書)

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で、平成時代ももうすぐ終わろうとしている我が家はどうか?

ルソーのような「孤独者」にあこがれる父親が、新聞を読んでぼそっと見解なるものをつぶやくと、2LDKのDKの所にいた女房が、「また気味のわるいわけのわからんことをいって!」とすかさず反撃してくる。1Lのところにいた私は、「別に俺の意見を言っているんじなくて、一般教養的な、前提となる現実の話をしてんだよ」と、その意見を補強するために、ときにはなんらかの書物を取り出して読み上げる。すると、「また誰々が言ってるか! 自分の意見はないのか!」と食ってかかってくる。障子戸を開けたままにしているので、1LとDKはつながっている。私と同じ1Lでお笑い番組を見ていた息子は、テレビにイヤホンをつけて聞き始める。それに気づいた女房は「いつまで見てるの! バカになるからイヤなんだよ!」と怒鳴りつける。「うるさいよ!」といって息子は立ち上がると、漫画本をもって隣の1Lへいって襖戸をしめたりする。そうして夜になれば、その襖の向こうの一部屋で、家族三人が川の字になって寝ているのだった。……この都会の団地にも、息子の同級生は何人もいる。兄弟・姉妹がいる家族だって。じいさんやばあさんがいる家というか部屋もある。やはり私は、前田氏の前掲書から引用したくなる。<この読み手と聞き手とからなる共同的な読書の方式は、日本の「家」の生活様式と無関係ではないと考える。それは夙にラフカディオ・ハーンが「日本人の生活には内密ということが、どんな種類のものも殆んど全くない。(中略)そして紙の壁と日光との此世界では、誰も一緒に居る男や女を憚りもせず、恥づかしがりもせぬ。為す事は総て、或る意味に於いて、公に為すのである。個人的習慣、特癖(もしあれば)、弱点、好き嫌ひ、愛するもの悪むもの、悉く誰にも分らずには居らぬ。悪徳も美徳も隠す事が出来ぬ。隠そうにも隠すべき場所が絶対に無いのである。」と指摘したところのプライヴァシィーの欠如を基調としている。>

子どもが、独りで読書などしないのは、もっともな条件なのだ。子ども部屋を獲得した昭和から、江戸の平和へと退潮していった平成。が、選挙闘争は、国土の防衛問題が焦点となるくらいだから、明治時代への移行みたいだ。つまり若者は、なお江戸時代から激動しはじめた時代をみている。しかし両親や老人には、敗戦の名残が、昭和の感覚がある。殿様が没落し、社会が変わってしまう、しまえることを知っている。しかも、自分たちが受けた教育には、昭和の軍隊的なものも濃厚だった。けれども、子どもたちは、知らない。殿様は、そのまま殿様であって、自分も自分だ。自分を変えていく、変えていける暴力的な力の発揮を許された感覚がない。ましてや、他人に対する暴力など。学校では、いじめか引きこもりだ。引き込もれる子は子供部屋を持っている。ときおり切れた奴がでてくるが、いつのまにかどこかにいなくなってしまう。テレビの事件でも、そうやって犯人がつかまっていく。それは余分な人たちで、やはり殿様は殿様、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、そう、世の中も言っている。それを変えて行く、というのは余分な余興なのだ。ニュースの事件がお笑い番組の余興みたいに。ぼくは1Lの隅でDSをやってるのが楽しい。アベくんも、アベくんなんだろうな。他にも政党ってあるみたいだけど、それも、余分ってことじゃないの?

2017年10月14日土曜日

遺体

「ようするに、先カンブリア時代は捕食の実験段階のようなもので、大半を占めていたのは平和を好む菜食主義者だったが、そうした連中も、たまたま動物の死体に出くわせば、喜んでごちそうにあずかっていたということなのだ。肉の味を覚えつつあったというところだろう。」(『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー著 渡辺正隆/今西康子訳 草思社)

先々週、草野球チームの元監督さんが亡くなった。59歳になる直前だったそうだ。私が植木屋さんに入って間もなくの27歳頃のときに、親方を通してその監督さんから呼ばれて、以来、仕事で樹から落ちてケガをする43歳頃まで、ずっとその新宿区は下町にあたる界隈のチームで野球を続けていたことになる。ケガも落ち着き、ぎっくり腰にもならなくなった去年から、そのチームの一員がはじめた別のチームで野球をまたはじめたが、元監督さんも選手としてかつてそのチームにも所属していたから、ここのところは、試合のたびに訪れてベンチに座りくだを播く元監督さんとは顔をあわしていた。歩くのもままならない状態なので、近所の球場へ来るのにも、タクシーでやってきた。本格的な野球経験のない人だったが、もしこの人に草野球へと誘われなかったら、私はもはや野球とは縁がなかっただろう。私にとって、高校野球の経験はつらいもので、テレビでスポーツ番組をみることさえもが忌避反応になっていたのである。職場地区の草野球チームに参加することで、私の後遺症は癒えていった。おそらく30歳もすぎてからの帰省中に、甲子園をテレビで見ていた私に、「おまえ見れるようになったのかい」と母がふともらしたことがある。気づている素振りを見せることもなかった母の一言に、洞察力があるんだな、と思ったものだ。
元監督さんは、荒行あとで悟りを開いた坊さんのように、静かに棺の中に納まっていた。私がそんな連想をしたのは、最近高野山での千日行を終えて聖となった僧のニュースをみていて、その坊さんの容姿と似たものを感じたからだろう。実際、白血病の移植手術の後遺症ということで、肺の機能が極度に低下していたため、病院に担ぎこまれたときは相当苦しがっていたらしい。「抗生物質は効かなかったらもう時間の問題になる」と医者からも言われていたので、覚悟はできていて、自分の棺をかつぐ若衆の位置を弟に口述筆記させていた。2・3日意識がなくなっていた状態がつづいたあとで、息をひきとったそうだ。その日の斎場で、野球仲間とともにその遺体と面会した。斎場自体が、元監督さんが暮らした草野球チームの界隈地区にあるのだが、土葬される天皇以外の皇室縁者の火葬場になるところだ。苦行を超えてこそ刻まれるような穏やかだが芯の入った表情……しかし、そこにはもう、魂がない、ここにはない、という衝撃を受ける。間近に遺体を見つめるのは、20代の頃の、父方の祖母のとき以来だが、当時は、特別な感慨はなかったろう。私は、棺を足方向から見つめる斜め上辺りを見回してみたりした。死後の霊が、そこら辺から集まった人を見降ろしているというような、風説を確かめてみたくもなった。がそれにしても、遺体はあまりに物体的であって、魂や霊などという存在自体を否定しているような衝迫性を湛えている。私は、ゾシマ長老の腐敗する遺体にうろたえるアリョーシャの描写をしたドストエフスキーのことを思ったりした。そこにある遺体は、あの世への信頼を懐疑的にさせてくる。

しかしそう懐疑的になっても、私は、仕事中でも、この強い個性的な人格をもつ監督さんのことを意識せざるをえなかった。白血病になってからは、髪を伸ばし、染め、見るからに、内田裕也というロックンローラーにそっくりだった。だから街や病院でも間違わられてサインを求められると、そのまま、「にょろにょろ」と適当なサインを何食わぬ顔でやってのけられる人である。女性からは毛嫌いされていたが、そのことも平気な沙汰で、キャバレーで知り合ったフィリピーナをフィリピンまで求婚しに訪れ、その妹の方がよくなったと求婚者を急に変えて、しかもまんまと騙されて帰国してくることにも平然としていた。内心はわからないが、自分はもう世間からはそう見下されている、見下されてきたものなのだ、という開き直りの強さがあって、それが男たちにはどこか愛嬌と尊敬の念を抱かせていたかもしれない。そんな彼の霊が、私を誘いに来るのではないか、身近な人の死はつづく、という迷信の存在を、私は遺体の衝撃を忘れるように、用心した。ちょうど、高木剪定の危険作業が仕事では続いていた。「○○さん、俺を連れてくんじゃなくて、守ってくれよな」、そんなことを思いながら、木を切っていた。

そして、女房の母親が死んだ。通夜も葬儀もせず、遺影も線香もなく、老人ホームから町屋の斎場へと送られ、死の翌日に火葬された。住まい近所の斎場で1週間ほど待ってから荼毘に付された監督さんと、同じ日だった。私は午前中は監督さんを見送り、午後は義理の母の遺体に対面した。ふくよかだった面影はなく、やせこけて、ミイラ同然、そう私はおもった。息子の一希は、どう感じたのだろう? 何も感じてないようにうかがえた。焼き終えるまでの待ち時間が耐えきれず、散歩に行ってくると斎場を出て行き、骨を拾う儀式には居なかった。だいぶん経っても戻ってこないので、私も周辺を捜しにいった。駅の繁華街の方ではなく、むしろ自然がある方を選ぶだろうと、土手越えの歩道橋を渡ると自然公園があるらしいとわかったが、これ以上時間をかけて捜しにいくとすれ違うだろうと思われ、引き返した。斎場入口まえで、息子と出くわした。「白鳥がいたよ」と息子は言う。「エサやりに慣れてるのか、口笛を吹いたら、寄って来た。」

私はそのとき、息子に不平を言ったが、しばらくしてふと、その白鳥が祖母だったのではないか、私たちが骨を拾っているあいだ、息子はおばあちゃんと会っていたのかもしれない、そんな思いがひらめいた。そんな閃きを信じているのか、そう想うことであの遺体の現実から逃避しようとしているのか、私には判然としなかった。