2024年6月16日日曜日

劉慈欣著『三体』(早川書房)3巻を読む

 


これは、物理学ではまだ未解決な「3体問題」とは関係ないだろう。むしろ、解説でも言及しているような、宇宙人とはなんで出会えないのかを問うた「フェルミのパラドックス」の方に関わっているだろう。そして作者がだしたSF的解答は、SF的というより、あくまで中国の歴史的身体を拡張したもののようにみえる。タイトルにある「体」は、物理ではなく、歴史である。

私はこの身体性の問題を、トリシャ・ブラウンというダンサーの身体性とぶつける。妻のいく子が無意識に提出した問題文脈に従って。

がその前に、この三巻本を、その問題意識に抽出させる方向で要約する。新しく文を書くのは面倒なので、すでにラインでやりとりしたもののコピペですます。

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第Ⅰ巻「三体」 中国は文化大革命で父を殺された娘・葉文潔は、左遷された天文研究所で、恒星太陽を3つもつ惑星に住む宇宙人との極秘コンタクトに成功する。葉文潔からそのやり取りを教えられた男は、環境破壊を止められない地球人に見切りをつけ、三体星界から地球の科学文明以上の技術を入手すべく、陰謀的な組織を作り策謀する。が、三体星界自体が破滅の危機にあるため、移住しえる天体を探していたのだった。さらに、宇宙界での現実法則は、より過酷だった。その宇宙の真実に気づいた葉文潔は、教え子のルジオに、宇宙社会学を追求せよと遺言する。


第Ⅱ巻「黒暗森林」 ルジオが到達した宇宙の真理とは、果てしない宇宙では、他人に出会うという終着がないので、信用することが不可能という「猜疑連鎖」から導かれてくる論理的帰結だった。そこからは、他人の位置を知ったならば瞬時に抹殺せよ、という実践的命題が導かれる。そのように、地球の位置を知った三体星界は、地球を征服すべく艦隊を派遣していた。さらに、量子力学の応用で、智子という瞬時に情報を入手しえる粒子を地球に張り巡らせた。が、三体星人は、外に現れた情報は全て知りえるが、人の心の中は読めない、人間界なら人が良すぎるという弱点があることがわかった。そこで編み出された作戦が「面壁計画」。選ばれた数人が、心の中で策謀し、そこに全面的な支援と実行をたくしたのだ。ルジオがその一人に選ばれていた。なんで自分が選ばれたのかわからない彼は、愛する人と山に籠もり、そして三体艦隊を迎え打つ未来へと、人類が獲得した「冬眠技術」によって眠りにつく。


第Ⅲ巻「死神永世」 人類は、「面壁計画」とは別に、スパイを三体星に送り込むことも合作した。光速で飛ばすための軽さとして脳みそだけにしても、三体文明は復元できるだろう。それには、ルジオのあとを継いだ程心の男友人が選ばれていた。

 三体艦隊を迎え打つべく太陽系の縁へと派遣されていた地球艦隊もあった。が偵察機と思われた水滴型の兵器により、瞬く間に壊滅された。逃げ延びた数艦は、逃亡者として地球戦艦「万有引力」に追跡されるが、燃料の切れる太陽系の外で、彼ら自身が「猜疑連鎖」に襲われ、瞬殺した「藍色空間」だけが他艦の燃料を奪い生き延びる。「万有引力」との追跡劇も、しかし後から追尾してきた三体兵器の水滴によって、両者終わりかと思われたなか、他者は地獄であるという宇宙の公理から導きだされる、新たな定理、命題実践を手にいれる。宇宙での戦いは、3次元世界のみによって行われるのではないのだ。彼らは、宇宙戦場の跡地に残った4次元空間戦術によって水滴を無用化する。

がその間、地球は三体ロボット智子一人に征服されていた。全人類はオーストラリアに強制移住させられ、共食いして生きよ、と指示される。そこまで追い込まれたのは、ルジオのあとを継いだ程心が、三体の位置を宇宙に知らせることをためらったからだった。が、水滴を倒した「万有引力」が、地球の惨状を知り告知した。他の知性体に位置を知られた三体星界は、光一粒で破壊され、艦隊は逃亡し、智子も地球を去った。

が、ということは、地球の位置も知られたので、破壊されるのは時間の問題となった。光一粒で太陽を破壊するという攻撃をかわすには、地球を脱出し、木星の裏に隠れることだ。が、攻撃者が使用したのは、2次元攻撃だった。紙切れのようなものが果てしなく拡張し、太陽系も一筆の巻絵のようにつぶれてしまった。そうなってしまったのも、またもや心優しい程心のミス。宇宙をさまよう三体艦隊でスパイとなった友人からの暗号物語の解読ができても、それが教えた技術開発をストップさせてしまったからだった。リスクをおかしてまで木星裏の平和を壊すべきでないと。が、ルジオがひそかに、その技術、光速艇の開発を実行していた。程心は、光速艇で太陽系を脱出し、スパイとなった友人がプレゼントしてくれていた恒星へとむかい、そこで「万有引力」の乗組員と出会い、宇宙戦争の有り様を知らされる。

が、宇宙戦争はそこまでもやってきた。巻き込まれた程心と乗組員は、時空をさまよい、何億年後かの同じ惑星に着陸する。それを見込んで、スパイ友人が時間の外に脱出するカプセル宇宙と智子を過去から送っていた。二人はそこでやりすごそうとするが、宇宙から何百万もの言語でメッセージがはいる。そこには、三体語や地球語もある。宇宙の質量は一定なので、カプセル小宇宙が時の外に物資を運びだしてしまったままだと、宇宙は新たなビッグバン、新たな宇宙ができなくなり、ただ膨張して終わってしまう。だから物資を大宇宙に返して帰還せよ、カプセルには記憶だけを残せ。そうすれば、新しい宇宙で、新しい文明が、われわれの記憶を復元してくれるだろうと。

程心らは、そのメッセージに従った。カプセル宇宙で生き延びることを智子はすすめたが、地球人の優しさ、小さな世界に引きこもるのではなく、他人に開かれ、他人を信じるために、宇宙への帰還を選択したのだ。


※※※


「後書き解説では、ホラ話、とも言っていますが、ハンパない。たぶんそれは、「水滸伝」などもそうですが、中国が絶滅の歴史を繰り返してきているからなのだと思います。例えば、ウクライナやイスラエルの戦争で、民間人避難の人道回廊作ったりとやりとりしますが、日本人の感覚だと、そうやって戦争するなら権力者と軍隊だけで違うところでやれば、とか思ってしまいますし、逆に、やるからには玉砕覚悟で、となってしまう。がそれは、絶滅の怖さ悲惨さが、なお歴史文化に血肉化してない甘えなんだと思います。大陸の人たちは、その真実現実を知っているので、面倒くさい論理段階的な手続きをふむ。本当に、怖いわけです。が、その血肉化されてしまった文明の倫理に、錯誤の固定化があるのでは、と思います。三体では、記憶というのは、あくまで文字、外在化された物質やデータで、つまりは内面が忖度できない三体星人が、中国人のカリカチュアなんですね。 が、実際に宇宙人に会った人たちの最近の取材からは、宇宙人が霊であることが共有的な事実としてわかっています。漱石が影響受けたスウェデンボルグなども、他天体の霊と交信しているのです。アインシュタインまでの古典物理学でなく、量子力学からの新物理学は、霊の存在を示唆します。が「三体」は、それもまた外在的・唯物論的な古典物質に還元する。しかし、前世の記憶をもって生まれて来てしまう人が出てくるのは、見えない記憶がリサイクルされていること、それは古典物理的な物質と理解してはいけないのではないかと思います。 結婚後、私はいく子にこういったことがあります。「おまえを妹と感じる」、バカにされるのかと思ったら、「わかってる」と真面目に答えるので、こっちが面食らった。霊の原理はわかりませんが、かつての消えた物質はまた集まってくるように感じます。」

2024年6月3日月曜日

「徒然に」――山田いく子リバイバル(18)



 

*いく子は、熊本の方の中・高一貫校で、文芸サークルに所属していたことがあったようである(まだ未確定)。それが、こうした編集業務へのアイデアや参加につながっているのだろうか。しかし、秋号における詩は、前号の散文以上に、おどろくべきものだ。その落差が。まだ二十歳の彼女は、何を抱え込んでいたのだろう? この二つの号に(どうもこの二号で終わったようなのだが)、のちにダンスで表現していくことになる問題意識、NAMへの参加への思想的必然性のようなものが、すでにうかがわれる。

が、何よりも私を驚かせたのは、そのきれいでしっかりした文字である。新聞は、手書きが反映される印刷物である。いく子は、小学2年生には、ほぼ初段級なみな書道書体を身につけていた。知り合ってからの丸文字しか知らない私には、その完璧な形に瞠目したが、その字体は、まだ二十歳には発揮されていたのだ。が、年賀状書きなどでは、丸文字に近い。その二重性、二重人格的なものを、いく子は抱え込んだ。しかし私は、息子が二十歳になったとき、いく子がそこから解放されてゆくきっかけをつかんだ、と洞察している。

 

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季刊サークル・ニュース‘78秋の号(中大スポーツ芸術サークル)  9月24日発行

 

徒然に      山田いく子

 

美しいといえばそれは美しくなくなる。

悲しいといえばそれは悲しくなくなる。

言葉の総称性と事象の刹那的なものが

かみあわなくなったことなのでしょう。

言葉にできないときのその気持ちを言葉に行為に

表現に変えるには、なんらかのものとの比較によって

生じるのだから経験や思考は必要とします。

そして別にある日突然にわかる時のために

そのもやもやを心にとめておくべきで、無理に表現

してはならない。

また表現できずにあるとき、人は狂人となるんじゃないか。

できない時は、できないままでもよいはず。

しかしある日、言葉にしたのを真理だと思ったら、その時

その刹那は確かに正しいが、それを定義づけ胸に常に

持ち出す時は、その真理は醜いものとかわり始める。

言葉に出たときそれは一つの性格が加えられる。

その時本来のものと離れ始めたのではないか。

人は自身を他人を空間を定義づけたがる。

それは刹那には正しいが言葉に出された性格は、

徐々に醜く変わってゆく。

正義は流動的であり、もしくは刹那に動めくものの上に

動的平衡をとるもの――いえいえ正義だけでなく

美も真理も言葉も。

決めつけたときに物は人は醜く変わってゆく。

その意味で私は人を真理をいみ憎む。

 

 

待つ   パンダ(いく子の高校時のあだ名)

 

tel tel tel

雨ふり坊主

Telぼうず

 

 

祈祷

 

神様  私を殺さないで下さい、

神様  私を殺さないで下さい、

神様  私を殺さないで下さい、

神様  私を殺さないで下さい、

 

 

幻想  (註; 鉛筆で、―忘却― と付け足されている、あるいは、変更したいのか)

 

―こよいの月夜

 金木犀へさそわれつつに― 

白き光りに

白き衣が舞い病む中を

竹姫の御殿に

夕鶴が飛びたったそうな。

飛びたったそうな。


※月夜、金木犀の匂にさそわれて、病んだ私が外へとでるなか、かぐや姫のいる月へと、羽を使い果たした夕鶴が、かぐや姫のもとへと飛び立っていった、おそらく、精魂尽き果たした私も月のもとへと帰りたい、ということだろう。最期、私の中上論を読んだとき、いく子は、自分の二十歳の詩を思い出せただろうか?)

「自由と法学について」――山田いく子リバイバル(17)

 


いく子の、20歳からの、いく子宛の手紙を読み始めた。その一枚目が、中央大通信教育のサークルの紙新聞だった。発行責任者から送られており、編集責任者は、いく子だった。

ひと月前の週刊誌で、松田聖子が中大通教の法学部を卒業し、卒業するのは難しいのだと記事にあった。いく子はたぶん、卒業はしなかっただろう。が、クラスの華だったのではないかと思う。ちょうどNHKの朝ドラ「虎に翼」をやっているが、その主人公の女性のように、はっきりものを言う華やかな女性だったのだろう。次は、秋号から抜粋する。

 

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季刊 サークル・ニュース’78夏の号(中大通教スポーツ芸術サークル)

昭和53年6月25日発行

 

自由と法学について     山田いく子

 

 自由と法学この対称的とされたもの、若ものとして限りなく自由を求めながら、かつ法学を志した今、そこで感じ始めた矛盾というより初心として思うことを書き綴りたい。何故ならば、漠然とさせておくままなら、私は既成の法学に甘んじてしまうことになるのだから。

 秩序とか規則は(狭義における法)共同体の利益を先行させ、個人に義務を押しつける。その意味で個人の自由をうばう。憲法には自由の保障があり、法体系には諸々の権利を認めながら、法についてそんなものを感じる。法に対する意識が弱い。それは何故なのか?

 立法化された法以外に私たちを規制してくるもの(規則)はさらに多い。今まで中・高校において規則というものにどんなイメージをいだいてきたか。学校差にもよるでしょうが、かつての校則を読みなおしてみるとよい。校風として、自由・博愛をときながら、校則には罰則と禁止だけ、さらに明文化されていないものすらあったことを思いだせるだろう。もちろん現在中・高校は諸々の問題をかかえており、一概におかしいとも言えない。法が私たちを守ってくれるというよりも、生活をきつくしめあげていた。私たちは幼いころから、法に対する不信をもって生活してきたのではないか。

 憲法と一般法との関係を聞いたことがない人でも、道徳と法を対にした言葉を耳にしたことがあるでしょう。法を破っても仁義をつくすことを美徳化したものを見たことがあろう。私たちは法以前の問題として道徳を思わされる。しかし道徳教育の主眼は忠臣教育・家族制の尊重それから押しつけがましい善教育であった。今なお残骸が残り、因習の範を出ないものが往来する。そしてそこに権利の意識はない。また道徳には各人の自由がない。自分より他人を優先させ、自己に忍耐を強いる意味において。

 特にアメリカを例をとってみる。「ここは自由の国だ」ラジオ・映画等で誰もが聞いている言葉であろう。そして彼らは、その自由の由来・歴史を知り、それを守るために法が制定されている。もちろん奔放な自由による諸害…犯罪の多発・人種偏見、また孤独を含み決して、アメリカを崇拝するわけではないが、しかし彼らには守るべきものがある。それから生活が生まれ行動が起こり連体を持つ。法以前の問題としてそこにある。

 ある人が言っていたことに犯罪をおかさない理由として、本人の回りの環境・とりまく集団…親・兄弟・知人…それらに抑制されることで犯罪をおかさないと聞いた。しかしこれは逆の場合にも適用される。自由を求め現在から新しいことに向かうのを何かを求めてラジカルに動こうとするのを前の集団は抑制しようともつとめる。自由を抑制するのだ。

 「法は支配者階級による体制擁護だ」ということも聞いたことがある。そしてこれは特に日本で強いのではなかろうか。日本社会の弊害として何度も繰り返されているように私たちは社会管理を上層部にあずけている。道徳も忠臣教育化され、道という響きにさえ嫌悪を覚える人が少なくないはずだ。日本における共同体の比重は重い。共同体は静的状態を維持したがる。その静的状態を保護するため各人を規則でしばる…。

 法治国家という言葉に甘えてはいけない。私たちは何を守るために法を制定したのか。それを知らなければ、支配者階級・官僚による勝手な法解釈が行なわれ、そしていつかまた戦争ファシズムへとつながって行くかもしれないのだから。法を定義づけるのは私たちなのだ。自由と平等とそして平和のために…。

 

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恋歌三題     パンダ(註;いく子の千葉の高校でのあだ名)

 

挽歌

髪に優しく触れたとて それは愛とは言わぬ

涙をためてむせびたとて それは愛とは言わぬ

 

  哀歌

右にいきゃ  あの人にあえる

右にいきゃ  あの人にあえる

右にいきゃ  あの人にあえる

右にいきゃ  あの人にあえる

………………

右にいきゃ あの人にあえた

 

  初歌

雨ふり窓から 風が吹く

雨の数だけ 思い出す

たくさんのたくさんの 貴方様