2022年3月26日土曜日

コロナ続報


 コロナで中断された大阪への旅行を、息子とその友達が、卒業旅行ということで行ってきた。早稲田のもと古本屋の爺さんのもとへ、藤井世代より一つ下にあたる息子は将棋をしにいくはずだった日曜日の昼食時、一緒にいった友達からコロナにかかったというラインがはいる。勝負は中止。息子が帰宅したのは二日前だ。まだ無症状みたいだが、女房に移ったら大変、となんやかや息子に注意する。が、女房も息子も、もうぜんぜん気にかけないのだった。子供の部屋ででかい声で喧嘩はするは、息子用に別のバスタオルをだしておいたのに「何これ?」と放り出されるは、夜おそくまで一緒にテレビみているわ…孤立無援、という気がしてきた。

 

もう一週間は過ぎたから、大丈夫だったのだろう。お隣の韓国では、ステルスオミクロンが流行っているというし、デルタクロンだっけ? なんだかウルトラマンAの怪獣みたいに、合体したのも出始めた、とニュースになっている。

 

そうしたなかで、岡田晴恵氏の『秘闘』(新潮社)を読んでいた。

 

政界官僚の裏話みたいなものだろうと思っていたが、それ以上に、陰暴論をこえて、これは恐ろしい話なんじゃないか、と思えてきた。

 

まず、たとえば処世術にたけた尾身会長はじめ、厚生官僚の誰も、「ADE(抗体依存性感染増強)」という言葉すら知らなかったと言っている。岡田氏は、厳しい対応の方を主張してきたということで、陰謀をあおっている人だ、と解釈されているむきもあるそうだが、彼女がそんなところから情報を仕入れてきている人ではないのは確かだろう。みな、科学専門的な知人たちからのメールや科学論文からだろう。

 

彼女は、RNAワクチンを、拒否はしていないが、検証不十分な未知数が大きいことを認めている。ウィルスの細胞受容体に結合する部位だけがコードされているのならば中和抗体の方が多くできるが、とげとげの末端領域まで複製されていたら、感染は増強されてしまう。だから、若い世代への接種は慎重であるできだ、と言っている。またこのウィールス自体の、「人工」説も、ひとこと言及している。それぐらい、動きが奇妙なようなのだ。

 

私が本書から注目した論点は以下のようなものだろうか?

 

(1) インフルエンザ…ウィルスの干渉現象は細胞の感染実験レベルでは確認されている。コロナ流行でインフルエンザが抑えられているが、もう2シーズンそうなっているということは、人類のインフルエンザの基礎免疫が低下していることを意味する。それだけでなく、季節性インフルエンザの抗原変異が行きつくところまで行って、新型が出やすくなっているだろう。

 

(2) ディリューションミュータント…遺伝子欠失。新型コロナの変異ウィールスは、抗体が認識する部分、中和エピトープを遺伝仕ごと消す。だから、抗体が効かなくなる。ウィルスにとって必須の遺伝子ではない部分をアミノ酸ごと消して、感染する宿主域を変えていく。違う動物の病気に変身できる。感染する動物細胞を変えてしまうのだ。腸管で増える豚コロナが、人の呼吸器感染症にもなった。病気が変わっていくのだ。

 

この作品は、オミクロン万延が日本に上陸する直前の、去年12月で終わっている。その現実を予見していたように。そしてその実態を、私たちは、知らない。コロナ専門の野戦病院の設立を彼女は大臣とともに働きかけていたが、相手にされないまま過ぎていったようだ。

 

ウクライナでの戦争をめぐるNATOでの会議では、誰もマスクを着けていない。コロナとの戦いを第3次世界大戦に見立てた日本の総理大臣だったが、ならば、ウクライナのような最中でも、Go to トラベルだ、オリンピック開催だ、万博続行だ、となるのだろうか?

 

また「気概」かい?

 


「ロシアの政治は、革命以降ずっと男性ホルモンに動かされてきた。ロシアの歴代大統領を順に挙げてみよう。レーニン(ハゲ)、スターリン(ふさふさ)、フルシチョフ(ハゲ)、ブレジネフ(ふさふさ)、アンドロポフ(ハゲ)、チェルネンコ(ふさふさ)、ゴルバチョフ(ハゲ)、エリツィン(ふさふさ)、そして現在の大統領プーチンもこの法則のとおり、かなり生え際が後退している。ハゲた人間は革新的で、毛のある人間は保守的だという説もある。」「大まかに見れば、大人になっていく方向性(髪の毛も含めて)はシンプルだ。初期設定では女になるようにプログラムされていて、それ以外のものになるには努力が要る。」「性ホルモンは、しかるべき時と場所を選んで遺伝子のスイッチを入れる。そして、男女のどちらか一方だけに有益な機能が他方の性で発現しないように、コントロールする。だから男性の特徴に関わる遺伝子が、Y以外の染色体にも存在できるのだ。そうした遺伝子はゲノム全体に散りばめられているが、ホルモンのおかげて女性の体では活動しないようになっている。」「女性は男性になりきれなかった存在であるというフロイトの古典的な考え方は、完全に間違っていた。生物学はそれとは正反対の事実を明らかにした。男性は、放っておくと女性になってしまうので、そうならないように必死で努力しているのだ。卵と精子が結びつくと、胎児は、男らしさの化学反応によって困難で不安定な道を歩みはじめる。それにともなう危険の一つが、ハゲだ。もちろんハゲは大した危険ではないが、男という不自然な道を進む者たちは、他にも多くの危険を冒しているにちがいない。」(『Yの真実 危うい男たちの進化論』 スティーヴ・ジョーンズ著 化学同人)

 

ゼレンスキー大統領の国会での演説直後のインタビューで、外務大臣は国を守る「気概」に満ちていたと発言した。その林さんは、演説中、マスクの下で、大きなあくびをしていたようなのだが(その緊張感のなさに、私はびっくりした)。

 

侵攻前の、ロシア側からの協議打診を拒否することで侵攻が開始され、すぐに大統領は中立化への協議の受け入れか、戦闘機の提供を欧米主要国に訴えた。アメリカの戦闘機は慣れてないから、ポーランドにあるミグとの交換でウクライナにおくってくれ、と。それに、三次大戦に発展する可能性があるからとアメリカは断り、同時に、「まだ諦めるときではない」、と報道官は釘をさすように言った。私がゼレンスキー大統領の立場だったなら、その時点で、欧米を見限り、水面下でロシアとの妥協を協議するだろう。欧米の言い分の実際は、ウクライナ市民を犠牲にしていく、ということである。ならば、なんのために、戦争をつづけるのだろうか? まず説得しなくてはならないのは、欧米主要国ということになる。だから、その国会の場で演説し、断られるとわかっている大型武器の提供を、公然と主張したのだろうと。私たちはこれだけのことをやった、それが受け入れられなかったのだから、ロシア側に妥協してもしょうがないよね、という口実作りだ。日本では、戦後の「復興」の話がでた。いつ戦争が終わるかもわからなくなってきているのに、なんで唐突に、と私はびっくりした。もしかしてこれは、遺言なのか、という気もした。すでにロシア側とは妥結の意思を伝えてあるが、自分自身は、自分を支援してくれた好戦的な仲間とともに、その妥結まで戦う(それまでは自分たちを殺していい)が、住民の犠牲は最小限にして、戦争終結後は、その市民の安全と復興を約束しろ、との取引である。少なくとも、日本のメディアでは、ウクライナ側の反撃の優位が宣伝されていても、大統領の表情は、悲痛な覚悟があるように、私には見えた。

 

女房にこんな推定を言うと、「あなたはすぐにそうあくどい裏を言う。人間の見方がおかしいのよ!」とすごい剣幕で言い返される。「はっ? 身近なところからそんなことぐらい想像できるだろう。息子がいた少年サッカークラブだって、ヘッドコーチらは監督には内緒で地域の強豪チームと合併した新しいチームを作ることを合作し、監督をやめさせて扱いやすい事務的な新監督を担ごうとしていたじゃないか。もし俺がそれを察して前もって理事会をやめていなかったら、理事会の席上で「やめるな」の糾弾にあって、今でも審判に担ぎ出されているかもしれないね。監督はまえも、過労とストレスで胃を切るまでになって、遅かったら死ぬところだった、と言っていたろう?」「それとこれとはちがうでしょ!」「同じだよ。もっと政治世界のほうが気味悪く、程度がちがうだけだよ。俺の今の職場の位置は、ウクライナみたいなものじゃないか。親方がプーチンで、三代目が欧米側だ。二人は対立しているが、そうすることで、俺はどちらからも都合のいいように扱われているだけだ。三代目の仕事がいやならやらなくていいよ、と親方は言いながら、私が断れないことを見越している。断れば、仕事も減る。三代目も、大変な仕事の時だけ私を呼ぶ。夏300本、冬300本と、俺ひとりで街路樹にのぼって切ってるんだぜ。できる人がいねえというか、従業員がいないんだから。それまでやってくれていた小さな業者は、傲慢なやり口にかかわりたくないから、みな都合のいいことを言って逃げてるから、結局俺と団塊世代の職人さんが借り出されることになっていった。そのままではつぶされ、実際に、俺も職人さんも、木から落ちて死にそこなったじゃないか。タイミングを逃したら、やめることもできない。無理してやめれば、喧嘩別れか、若造みたいにばっくれるしかないだろう。法的にはひと月前に言えばいいたって、家族経営の会社なんだから、働き手がいなくなれば、ほんとうに家族の死活問題になるんだよ。推定し、駆け引きをしながらでなければ円満にはならないんだよ。今回俺がタイミングよくやめる決断をしたことで、親方の顔がたち(「だから言ったとおりだろう、そんな方針では会社はもたない」という息子への教育認識が実証された)」、そのことで引退をせまられ、三代目は実質的にも自立せざるを得ず、私は独立を試行していく。どれもが困難でも、早く手を打たなければ、自滅していくだけだ。」

 

しかし以上のような例え話をしても、まったく通じる気配がない。ぶち殺したくなってしまうが、いつまで自分が我慢できるのか、心配になってくる。

 

スマホをみていると、こんな東浩紀の人生相談が目に入った。

 

「けれども、そんなことで家族の仲が悪くなるのはバカげたことです。家族とはそもそも思想や価値観の一致を前提につくられた集団ではありません。それは偶然によってつくられたものです。だからこそ尊い。思想の不一致など関係なく、お姉さまとの偶然の関係を大切にしていただければと思います。」

 

そうだそうだと思いながら、いや女房とは同じ社会運動での知り合いなんだから、むしろ「同志」のはずなんだがな、ほんとに『批評空間』読んでたのか? こうやって戦前の文学者たちが戦争礼賛になだれこんでいったのが検討されていたじゃないか。…しかし、我慢、我慢、と自分に言い聞かせながら、だけど東の理論からだと、「プーチンはたまたま侵攻した」となるのだけど、本当に、そんな言い方でいいのか? と考えさせられるのだった。

 

プーチンを暗殺しても、すぐ次なる「気概」ある男が出てくるかもしれない。全体主義的な官僚制がロシアの風土だ。順番からは、髪の毛が「ふさふさ」の男なのだろう。プーチンには銃ではなく、ホルモン注射を撃ってあげるべきであろう。

2022年3月14日月曜日

『進撃の巨人』論


<人を喰う話2 『進撃の巨人』論>を電子出版形式でだしてみた。

BCCKS / ブックス - 『人を喰う話 2』菅原 正樹著

epub言語のものをダウンロードしてみると、読みやすくなるようだ。

前回同様、摂津正さんに、表紙を描いてもらった。

以下は、前書きの添付。

※ 仕事帰宅後、昨夜のNHKの進撃アニメの録画をみてからこのブログを書いている。なんと生々しいことか。東浩紀等も指摘しているように、ウクライナとロシアは文化的に兄弟のようなものだ。が、ウクライナのここ10年来の右傾化が、この結果だ。欧米エリート・エスタブリッシュメント側は、もともとウクライナをNATOになど入れる気などなく、中途半端な曖昧状況の方が都合がよかったから、いまも、口先支援で見殺しにするのが判断なのだろう。降伏もさせてもらえないで、ゼレンスキーが追い込まれているように私には見える。日本のマスメディアの見出しをみているだけでも、ウクライナは、ロシアと組んだほうがよかったのだろうと思えてくる。欧米よりの中立化か、ロシアよりの中立化という差異のために、市民が犠牲を強いられている。もともとはゼレンスキーは、欧米仲間にはいりたがったが断られたので(訂正; いや、ロシア側にだったかもしれない。記憶曖昧。)、そのすきに右翼勢力が取り巻いた、といわれている。戦争をやめるのは簡単だ。くだらねえ男のメンツなど捨てて、本当の勇気と覚悟をもって、敵に対すればいい。

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0 はじめに


「威力偵察」の任務をもって潜入していたパラディ島から、ひとり生還した鎧の巨人ライナーは、大陸の帝国マーレの生地レベリオ収容区で過ごしていたある日、銃口を口にくわえた。自殺をはかろうとしたのである。やっと生き延びて来たのに、何故だろうか?

ライナーは、いわゆるPTSD、心的外傷後ストレスと呼ばれる病に襲われたのだろう。

この後遺症は、精神分析学を創始したフロイトが、第一次世界大戦での帰還兵の診察にあたって直面した人間の現実だった。フロイトはその強迫反復される症状分析から、人は、エゴイスティックな生の欲動だけでなく、無機物に還りたいという、死の衝動をも根底に抱えこんでいるのではないかと、推察した。(脚注1)

この「死の衝動」に襲われているのは、ライナーだけではなかった。進撃の巨人のエレンもまた、そうであることが提示される。

人喰いの巨人たちから解放され、平和を取り戻した島国から、海を隔てた大陸の帝国マーレへと潜入したエレンは、戦士として徴兵されるエルディア人の収容区にある病院施設で、「傷痍軍人」に変装する。そしてマーレでの戦闘開始の直前、ライナーを呼び出し、俺もおまえも同じだ、俺はおまえがわかる、と言うのだ。

エレンは、何を了解し、「同じ」だと言ったのだろうか? 何がわかったと言うのだろうか? たんに、同じ病気だね、ということだろうか? エレンは5回、「同じ」だと繰り返すのだが、その都度、この「同じ」の意味が、「PTSD」からそれを乗り越えていく認識に変わっていく。そのライナーとの対話のあと、エレンは世界を「地鳴らし」するために、始祖の巨人の能力を発揮していった。社会心理学的には、これは他人を巻き込んで実行される「拡大自殺」と言えなくもない。

最近の日本社会でも、京アニや渋谷ハロウィン騒ぎ中における京王線での、大阪の精神科クリニックでの放火事件などがある。(脚注2)

おそらく、そんな社会的な出来事の考察もが、この若い作者の思考射程にはいってはくるだろうが、そこにとどまらない広さ、大戦後議論されている哲学的な世界観、戦後の世界を推進させている科学的な自然・宇宙観もが、この作品から読みこめるだろう。



『人を喰う話』は、戦場のイラクへと観光に行き、いまはテロリストと世界から名指されるゲリラに捕捉され斬首された、当時24歳の香田証生さんの事件に刺激されて描かれたものである。(脚注3)

事件を受けてまもなく、私的なホームページ上に掲載されたその絵本に、近未来の破局世界を背景にしたともいえる『新世紀エヴンゲリオン』をめぐる論考を付記して、昨年2021年、電子出版ものとして再提示された。(脚注4)

『人を喰う話2』は、まさに人を喰っている話であるコミックを知るにおよんで啓発されたものだ。テレビでアニメ化された『進撃の巨人』を、中学生の息子と一緒によく見ていたものだ。が今回、高校を卒業する息子が進学なり就職なりと社会へと出てゆくにあたって、初老を迎えた父から、その世代の少青年たちに向け、この10歳から20歳くらいまでの子供たちの葛藤を描いた物語への考察を、世間に落としておきたい衝迫をもった。(脚注5)

香田証生さんの死後、戦場のイラクやインド洋での給油活動へと派遣されていた自衛隊員から、50人を超える自殺者が出ていたことが報道され、国会でも議論された。ライナーやエレンの自殺願望は、他人事でも絵空事でもない、日本に生きる若者にとっても身に迫る、人間や歴史の現実が反映されているのだ。(脚注6)

以下は、そうした社会、歴史的な問題をも加味して考察されたものだが、その背景にある自然科学的な認識も、現在の知見とも対照させて試みてみたものである。世や人の裏側にまで配慮を張りめぐらせる諌山氏の構成力は驚くべきものだが、その基になる構想に、昆虫の捕食生態や、遺伝子・ウィルス的な、生命の根源へとおもむく直観らしきものが提示されているからである。

まだ若いはずの作者に、ここまでのことが洞察できてしまうのか、という驚きには、諌山氏の才能をこえて、それだけ世界や人間の駄目さ加減が目立ってきている、ということのような気がする。だからこの試論は、年長者からの、申し訳なさとしてもなされているのかもしれない。

※原則的に、出版されたコミック本34巻を参照対象にして考察する。引用においては、コミックでは付けられている全漢字の振り仮名は省き、適宜、読みやすいよう、コミックでは付けられていない句読点を、こちらで付記した場合もある。

2022年3月9日水曜日

アイデンティティと逃走

 


〈祖母たちの竹槍よりもはかなかり木の銃構えるキエフの女性〉

(水戸市)中原千絵子(朝日歌壇2022/3/6 )



「勝つか、負けるか、それをぎりぎりの地点で迫られたときは、負けるがよい。負けて、無一物の姿となり、世間の陰を流れて歩くがよい。それが《ケンシ》の道だ。負けるはいや、勝つもいや、それでは世間には生きられぬ。だから世間を離れ一所不住の道をゆくのだ。負ける心、捨てる心、別れる心、それが《ケンシ》の心だとわたしはさとった。哀、よく言ってくれた。この世のすべては、亡ぶときは亡ぶ。山も、海も、川もそうだ。わたしは冥道さんを間違っていると思う。だが彼と争って勝とうとは思わぬ。ただし、手をつかねて負けるのも困る。だから力をつくしてやれる事はやろう。しかし、どうにもならぬ時は、負けるのだ。負けて、すべてを捨てるのだ。講を捨ててよい。一族の未来を捨ててよい。遍浪先生の思い出も、山も、川も、すべてを捨ててよい。人間として生きることさえもだ。われらは非常の民である。非常民の魂には非常識こそふさわしい。」(五木寛之著『風の王国』新潮文庫)



「80年代に自分が逃走を呼びかけたことが間違っていたとは思いません。人は必ず何らかのイデオロギー状況の中で生きるしかないものであるし、旧左翼と新左翼の問題を清算せずに進んでも絶対にダメだったと思うからです」


 「『アイデンティティーへの固執をやめよう』というあのときの提唱自体の大事さは、むしろ当時より強まっているとも思います。現在の重要課題は、アイデンティティー政治の問題だからです」


――かつて左派の「アイデンティティーへの執着」を解毒しようと考えた浅田さんが、今度は右派の解毒を試みているように見えます。


 「アイデンティティーへの固執を解毒するための逃走は、今も必要なのでしょう」


「カギカッコつきの『普通の人々』が、強烈なアイデンティティー政治を始めたのです。そこには『白人である』『男性である』というアイデンティティーへの固執があり解毒が必要ですが、洗脳を解く作業に近い難しさもあって簡単ではありません」

(〈「逃走論」40年後の世界 浅田彰さんは今なお「逃げろ」と訴える〉

https://digital.asahi.com/sp/articles/ASQ285VXYQ27ULZU009.html?iref=amp_rellink_05#comment_area)



「In all cases a group,whether a great power such as Russia or China or voters  in the United States or Britain, believes that it has an identity that is not being given adequate recognitionーeither by the outside world, in the case of a nation, or by other members of the same society. Those identity can be and are incredibly varied, based on nation, religion, ethnicity, sexual orientation, or gender. They are all  manifestations of a common phenomenon, that of  identity politics. 」


「In this book, I will be using identity in a specific sense that help us understand why it is so important to contemporary politics. Identity grows, in the first place, out of a distinction between one's true inner self and an outer world of social rules and norms that dose not adequately recognize that inner self 's worth or dignity. Individuals throughout human history have found themselves at odds with their societies.  But only in modern times has the view taken hold that the authentic inner self is intrinsically valuable, and the outer society systematically wrong and unfair in its valuation of the former. It is not the inner self that has to be made to conform to society's rules, but society itself that needs to change. 」

(FRANCIS FUKUYAMA『IDENTITY  THE DEMAND FOR DIGNITY AND THE POLITICS OF RESENTMENT』)

2022年3月6日日曜日

映画『ドライブ・マイ・カー』を観る

 


当初、新聞の記事などでは、妻を失った男の人生の話、みたいな枠での紹介ばかりだったので、それを映画として上手に撮った作品なのかな、そこに東洋のエクゾチズムみたいのが加味されてカンヌでも評価されることになったのかな、と思っていた。『万引き家族』や『スパイの妻』とかも、そういう印象だったから、その延長なのかな、と。韓国の『パラサイト 半地下の家族』もそうだし、村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を映画化した韓国の『バーニング』も、そういう枠にはいるだろう。が、韓国映画は、予定調和的な落ちではなく、自らの思想が世間とずれていても最後まで貫いて終わる、という残酷さみたいなのが徹底しているところが違うから、今回の村上作品を原作とした『ドライブ・マイ・カー』も、その文化的な差異を露呈させて終わるのかな、とその確認でもしようかと、映画館に向かったのだ。

 

が、見事に、裏切られた。上にあげた作品らと比べても、私は、ダントツに推す。それは、映画として職人芸的によりうまく作られているから、ということではない。現実を切りとる見方の思想性において、現実に対応できている、追いついている、と共感できるのだ。

 

映画は最初、演劇演出家の男と、脚本家の妻とのセックスシーンが反復される。妻は、精神的な病を抱えているのか、残酷にも幻想的な物語を、性交中に言い始める。いかにも村上作品的な雰囲気なので、このまま大人のメルヘンみたいなものを三時間近く見せられることになるのかな、とうんざりしそうになる。セリフも長い朗読ふうで、映画をみにきたものとしては、居心地が悪くなる。

 

が、そこに、意味があったのだ。伏線というより、脚本による、カットのつなぎによって、意図がホラー映画か、ミステリー―のように浮き彫り迫ってくるようになっている。

 

若い俳優との浮気を繰り返す妻の、今夜話がしたい、というその話を聞くこともないまま、男は妻にくも膜下出血で突然死された。そこで初めてオープニングの曲と俳優や監督の字幕がでて、映画がはじまったのだった。

 

舞台は東京から、広島に移った。

 

もう、ストーリは、語るまい。決定的なところで、夕やみに浮かぶ原爆ドームがうつる。四歳の娘を失っていた男も、劇場側から用意されたお抱え運転手の23歳の女も、みな傷を負っている。その妻も、運転手のキャバレー勤めの母親も、多重人格的な病を内に秘めて仕事をして、亡くなった。男の演出は多言語で、観客のために、背景に字幕が映写される方策をとっている。口がきけず、手話で演技する女性が、チェーホフの『ワーニャ叔父さん』のソーニャ役をしていて、「苦しくても、生きていきましょう」と、無言で伝えて、映画は最後、運転手の女が、韓国ナンバーにかわっていた男の赤い外車を、手話で演技した女性の飼い犬とおぼしき犬と、一緒に乗って走ってゆく姿で終わる。

 

私は、いまウクライナで起きていることを思った。重なってきた。世界の人々の苦しみは、どこにあるのであろうか?

 

池袋での映画をみるまえ、なお時間が少しあったので、岡崎乾二郎さんの壁画をみにいった。以前、女房と二人でみているが、今回、ひとりで黙ってみていると、みえてきた。エスカレーターをおりて、階段下からみあげて確認した。

 

冒頭の写真がそれだ。

 

反復ずらされてゆく十字架、そこから流されてゆく大量の血の川……

 

フェイスブックに投稿した文章を添付する。

 

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A ghost called a man is wandering around the world

We should look at ourselves before blaming others. I'm Japanese, but I remember the words of Jesus Christ. "Let him who is without sin cast the first stone."

 It's more against humans than against war. Both Biden and Zelensky knew Putin's seriousness. Nevertheless, They  accepted the quarrel. Mankind is involved in the logic of these Yakuza. The logic of crappy men. Putin will use nuclear weapons. And instead of shooting his head with a pistol like Hitler, he would also shoot a nuclear warhead into the Kremlin and self-destruct.

For most of post-historical Europe, the World Cup has replaced military competition as the chief outlet for nationalist strivings to be number one. As Kojève once said, his goal was to reestablish the Roman Empire, but this time as a multinational soccer team. It is perhaps no accident that in the most post historical part of the United States, California, one finds the most obsessive pursuit of high-risk leisure activities that have no purpose but to shake the participant out of the comfort of a bourgeois existence: rock climbing, hang gliding, skydiving, marathon running, ironman and ironwoman races, and so forth. For where traditional forms of struggle like war are not possible, and where widespread material prosperity makes economic struggle unnecessary, thymotic individuals begin to search for other kinds of contentless activities that can win them recognition.〉(Francis Fukuyama,  ”The End of History and the Last Man”

他人を責める前に、自分を見つめたらどうなのか? 私は日本人だが、イエスの言葉を思い出す。「罪なきものがまずこの女に石を投げよ」戦争反対よりも、人間反対だ。バイデンもゼレンスキーも、プーチンの本気をわかっていた。にもかかわらず、その喧嘩を、受けてたったわけだ。このヤクザものたちの論理に、人類が巻き込まれている。くだらない男たちの論理。プーチンは、核を使うだろう。そして、ヒトラーのように、頭を拳銃で撃ち抜くのではなく、クレムリンにも核弾頭をぶち込んで、自爆するだろう。

https://danpance.blogspot.com/2022/03/blog-post.html?m=1

 



I want to appeal to the Ukrainian people. Everyone knows that the Russian Putin has begun to invade this time. So you can surrender with confidence. In the past, the Japanese also fought a thorough fight to prolong the war, and as a result, indiscriminate carpet bombing and two atomic bombs were dropped. I don't want to see other people like that again. On TV, a Ukrainian grandmother sadly says "Surrender to Russia will kill all lives, not just our territory. It was once thought that if the Japanese surrendered to the United States, the men would be killed and all the women would be raped. But that didn't happen. If we had surrendered earlier, many people's lives would have been saved. But Ukraine is still in time. Please survive. Surrender to war is neither the end of life nor the loss. The fight continues. Endure the intolerable, and survive. Please.

私は、ウクライナの人々に、訴えたい。今回、プーチンロシア側か、いっぽう的に侵略をはじめたのは、みなが知っている。だから、自信をもって、降伏してください。かつて日本人も、徹底抗戦して戦争をながびかせ、その結果、無差別絨毯爆撃と、原子爆弾を二つ、落とされた。もう二度と、他の人々に、そんな目にあわせたくありません。テレビでは、ウクライナのおばあさんが、ロシアに降伏したら、領土を失うだけでなく、みな殺されてしまう、と嘆いていました。日本人もかつて、アメリカに降伏したら、男は殺され、女はみなレイプされるのだとおもわされた。が、そんなことにはならなかった。もっと早く降参していたら、たくさんの人の命が助かった。しかしウクライナは、まだ間に合う。どうか、しぶとく生き抜いてください。戦争への降伏は、人生の終わりでも、負けでもない。闘いは、つづくのです。耐え難きを耐え、どうか生き延びてください。

2022年3月1日火曜日

戦争の論理ということでわかりきっていること


 バイデンの話によれば、プーチンがウクライナへ侵攻することはわかっていたというのだから、戦争に本当に反対であるならば、防げたはずである。ウクライナのNATO加盟という議題を棚上げし、ロシアに譲歩すればよかったのだから。が、ほっといた。ウクライナ側も、プーチンの本気度をわかっていたようなのに、戦争を受けてたった。

 

欧米各国は、侵攻がはじまってから、武器は支援する、とか言っている。

 

サッカー日本代表の本田圭佑が、それは変だろうと疑義を呈するツイートをして、炎上がおきた、とニュースになっていたが、私は本田とそこでは同じ意見だ。犠牲者がでてから協議に応じる、とは、なんなんだ?

 

状況が進展するなかでの発言なので、言い方が面倒になるから誤解されて炎上しているようだが、ニュースで受け取るかぎりでの本田の論理とは、以下のようなものだろう。

 

①ウクライナは侵攻されるまえに譲歩すべきだった。

②侵攻され犠牲者がでてから協議に応じる、とは、すでに犠牲になった人はなんだったのか?

③欧米各国も、そうなってはじめて武器供与とかいっているが、それは、他人事としてみている、ということではないのか? もう、死んでるんですよ? と。

 

で、次に、日本も中国との問題があるから他人事ではないんですよ、とつけ加える。

 

私も、むしろ前提的に、隣人との関係を考慮するが、そこにおいて、本田選手と同じような認識・態度なのかは、不明だ。

 

が、日本政府側は、この戦争を契機に、これが現実だ、平和ボケの民衆よ目を覚ませ、世界の出来事は他人事ではないんだぞ、防衛力を増強するぞ、9条なんかじゃ日本を守れないだろう、と出ている。

 

そしておそらく、反戦運動の大勢も、隣人への怯えから、ロシアが侵攻する戦争には反対、ということで、暗黙に、中国が侵攻する戦争には反対、イコール、欧米列強その他のウクライナ支援の戦争には賛成、日本を守る防衛強化に賛成、と心理的になっていく普通の人たちの参加が多くなっていくのでは、と考える。

 

そんな応酬に、現実などない、リアル・ポリティクスなどない、とこのブログで再三言ってきた。人間の現実とは、カントからフロイト、マルクス、そしてラカンへの認識系譜の線で理解していく教養を、私は受け入れている。彼らのリアル・ポリティクスとは、自己妄想の堂々巡り、悪の連鎖・循環だ。

 

もし、ウクライナがロシアを撃退したとしよう。ジャイアント・キリングだ。がそれは、問題をなおさら根深く拡大するだけではないか。悪の循環が反復されるだけだ。ならば、どちらかといえば、負けるべく負けるほうが、弱いほうが、譲歩しなくてはならない。犠牲にならなければならない。

 

サッカーだって、相手が強いとわかっていたら、勝ちなどめざさず、引き分けを狙うじゃないか。本田の感覚も、そういうものだろう。が、戦争は、ゲームではない。フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にも記述があるように、国家という父権主義的な枠組みのみでなく、資本主義という経済活動さえもが、実は、不合理な男気で駆動している。

 

もうそろそろ、中高生対象の、『進撃の巨人』論を無料電子出版するけれど、作者の諌山氏はよく考えている。そこからすれば、もう、いまのデモ標語は、「戦争反対」ではなく、「人間反対」となるだろう。みんながマンに、つまりマッチョになりたがっている。Mankind、男ってやつに取り込まれていく人類。哲学上は徹底的に批判され、日常的にも空回りがみえてきたけれど、なお私たちは、その亡霊にとりつかれている。

 

プーチンが、進撃の巨人たるエレンよろしく、「地鳴らし」を発動しないことを願うばかりだ。が、その首を落とさないかぎり終わらない、と漫画のようになるとは、つまり相変わらずの茶番としての反復によって、しぼんでいた亡霊がまた息を吹き返し世界を席巻しはじめる、ということだろう。

 

どうやったら、この悪循環から、抜け出せるのか?

 

諌山氏とは違った解として、オードリー・タン氏の言葉を引用しておわる。

 

「私の成長期において、男性ホルモンの濃度は八十歳の男性と同じレベルでした。そのため、私の男性としての思春期は未発達な状態でした。二十歳の頃、男性ホルモンの濃度を検査すると、だいたい男女の中間ぐらいであることがわかりました。このとき、自分はトランスジェンダーであることを自覚しました。

 私は十代で男性の思春期、二十代で女性の思春期を経験しましたが、今述べたように一回目の思春期のときは、完全に男性になるということはなく、喉仏もありませんでした。また、男性としての感情や思考を得ることもありませんでした。二十代で迎えた二度目の思春期には、完全ではないけれどバストが発達しました。結局のところ、私は男女それぞれの思春期を二~三年ずつ経験しているのですが、一般的な男性や女性ほど、完全に男女が分離しているわけではありません。そのため、行政院の政務委員に就任する際、性別を記入する欄には「無」と書きました。」(『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』 プレジデント社)

 

参照ブログ;

 ダンス&パンセ: 「歴史の終わり」をめぐって(1) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 普遍論争――世界での戦い方(3) (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 世界での戦い方 (danpance.blogspot.com) 

ダンス&パンセ: 9条と論理 (danpance.blogspot.com)

ダンス&パンセ: 戦争を準備する (danpance.blogspot.com)