2011年1月9日日曜日

子孫へ


「チンパンジーやゴリラが一日のうちの長い時間を毛づくろいしながらすごすように、初期人類は彼らの原初的な言語を使ってムダ話を楽しみ、あるいは、気のきいた挨拶を交わして緊張を解消し、棒で殴り合うかわりに言葉で殴るといったことのために使うのである。そういった言語がやがて適応的な意味を持つようになったのは、生まれ故郷の熱帯を離れ、狩猟に大きく頼って暮らし始めた人類の歴史の後期になってからのことであろう。その後の人類史において、「仕事をする言語」はしだいに成長し、そしてついには現代日本の社会では、「安全保障の言語」が「仕事をする言語」のあまりの肥大膨張と過大な評価によって、急速にその力を失いつつあるように思える。教室や家庭における暴力が社会問題化しているが、「安全保障の言語」の衰退の徴候と読めはしないだろうか。(西田正規著『定住革命』 新曜社)

夜はいつも8時すぎには床につく。仕事で疲れているときは、7時には寝ている、ときが月に何度かはある。今日も、正月休みの年明けに欅の高木に登って作業をしていたので、8時には寝入った。本当に疲れていると、朝まで起きないが、精神的に何か心配事でもあると、夜半に目覚めてしまう。そして、それから寝付かれない。今夜もそうだった。おそらく、実家に帰って、親しくもおぞましきもの、に触れてきたからだろう。たしか去年の最初のブログは、「初夢」と題して、精神分析的な夢の解析を記述したかとおもう。昨夜は、なぜか目覚めた後、「子孫」という言葉を思いめぐらし始めていた。……年明け早々、自転車に乗った息子の一希がタクシーと正面衝突しそうになり(年末に友達の一人が事故にあって大怪我したときかされたばかりだった)、川崎大師へ元朝参りにいった祖父母から「交通安全」のお守り(――私が両親に頼んだのだった――)をもらったばかりだった。「あぶない!」と叫んだとき、そしてそのあとにきた感情。また私と一緒に社会運動に参加した若者が、できちゃった結婚をするときいたのも年末だった。そのとき、私は女房と結婚すると伝えることになったときのことを思い出した。すでに腹の中に子供がいると知ったのは、新婚旅行で香川県の石切り場(山)へ登った後からのことだったが、そう決断したときのあがきのことを思い起こした。性欲などおよびもつかない生存欲、本能、一人じゃだめだもちこたえられないという直感、底から突き上げてくるもの……自分が、こんなにも生きたいのか、そんなおそるべき力があったのか、と自身で驚いたのだった。サッカーの岡田元日本代表監督が、W杯出場をかけた絶体絶命の危機にあって、人類が生き延びてきた遺伝子のスイッチがはいったような、と表現していたが、そうインタビューでの返答をきいたときも、私はあの自身の本能のことを連想した。……おそらく、そんな年末から年始においての生活が、疲労のあとの不眠のなかで「子孫」という言葉を想起させてきたのだろう。帰省中に、群馬の山奥に追いやられた織田信長の子孫の墓を見に行ったのも関係しているかもしれない。

子供をもってはじめて、悲しみ、というものの深さのことがわかる気がする。死んだら、と想像するだけで、身がひきちぎられる痛みを覚えるくらいだ。人間の歴史とは、この「悲しみ」の連続であることをおもうと、またそれが歴史であるかぎり、自分ひとりではない他の人との共有であるのだから、それを知るとは、知ることができるには、この「悲しみ」を知っていなければならないことになる。というか、実際の子供の死と隣り合わせの生存の傍らにいることで、なにか人類の歴史、といったものをより深く考えるようになってきたのだった。しかし、冒頭で引用した西田氏が「定住革命」で述べるように、400万年以上の人類の遊動生活の間は、死体は置き去りにしていけばすむものだった、定住するようになったこの1万年ほどにおいて、それを埋葬して物理的に処理し、それが及ぼす精神的な処理も葬儀(宗教)として必要とされてくる、とするなら、私の悲しみも、400万年分の1万年分程度の話なのだろうか? といっても、サルでも親しいものの死への悲しみに沈んで、朽ちていく死体のそばでずっとすごしていた、という事例も観察されているようだが……。

このブログを、私は古本屋の店主からCDコピーしてもらった小林秀雄の講演をパソコンで聞きながら、同時に打ち込んでいる。演題は「考えること、信じること」となっていて、たまたま、本居宣長がおもう「考える」とは、「まじわる」、「つきあう」ということ、「信じる」ということに近いのだと、母親が子供を育てることを例にして述べている。親は子のことを一目でわかってしまう、それは長いあいだ、ずっと一緒にいて考えてきたからだ、と。歴史を知る、ということも、そういうことなのだ、と。まだバブル期の頃だったろうか、文芸批評家の小林氏を超えてと登場してきた柄谷行人氏は、子供に財産など残さず自分で使い切る、と思想的な宣言のような発言をしていたときがあった。いまは、「未来の他者」のことを、手段だけでなく目的としても扱え、と言うようになったのだが、その「未来の他者」には、自分の子孫のことは入っていない、ということだろうか? 子供が大きくなるにつれ、この野郎、なんでおまえはこんな奴になって……と否定的な見方へ傾いていくものなのかもしれないが、いまの私には、実際には残せるものなど何も所持していなくとも、何か残していきたい、このブログが考えることや生きるヒントになるだけでもいい、そういうものだけでもいいから残しておきたい、と切に願っている。