2025年12月27日土曜日

『決定版 第二の性 Ⅱ 体験』シモーヌ・ド・ボーヴォワール著(新潮社)引用メモ

 


高群逸枝や森崎和江を読んでいると、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』を読んでおかなくてはならなくなる。私はおそらくそのタイトルは知っているけれど読んではいないだろうので、翻訳決定版というのを読んでみた。

びっくりしながら読んだ。第Ⅰ部の「事実と神話」はともかく、第Ⅱ部「体験」では、いわば女性がおちいる心理的表象を、網羅的に記述しているのだ。妻のいく子もこれか、と思わせられる記述もあり、男の私が勝手に推察しているよりも、正確であるに違いない。たとえ日本と西洋的な文化での差異があったとしても、高群の「一体化」を願望する恋愛観なども、その発生過程を参照しうる。森崎の『第三の性』は、ボーヴォワールのこの『第二の性』への批判的継承であろう(ボーヴォワールの仕事のなかでは、更年期後の性が「第三の性」であると俗称されているという説明もあるが)。

しかしボーヴォワールは、方法的に、「生物学と心理学の中間」としての「精神分析」範疇に限定して女性「体験」を分析している。まだかけだしのラカンへの参照もあるらしいが、要は彼女は、女とは最初のトランスジェンダーなのだという、ラカンを過激に読んだジジェクの考察を先取りしているのだ。男は単一だが、「一つの事実を女の子が受け入れるのに多様なやり方をとりうる」のだと。

 しかし、高群も森崎も、精神分析範疇を超えていった。しかしそのまえに、人(女性)の心のあり様をおさえておく必要がある。以下は、そのためのメモ、引用銘記である。

 

=====     =====

「しかし、いままで見てきたように、実際は、解剖学的宿命が女の子のとる態度を定めているのではない。女の子と男の子を区別する相違は、一つの事実を女の子が受け入れるのに多様なやり方をとりうるという点である。ペニスは確かに特権であるが、子どもがその排泄機能に関心を失い、社会生活に適応するようになると、その価値は自然に下がる。もし八歳から九歳を過ぎても、彼らの目にペニスが特権を保ち続けるとしたら、それはペニスが社会的に価値を認められた男らしさの象徴となったからである。実際、ここでは教育と周囲の人々の影響は計り知れないほど大きい。子どもたちはみな、離乳による分離を気を引いたり媚びることで補おうとする。男の子はこの段階を乗り越えるよう義務づけられる。彼はそのナルシシズムを自分のペニスに集中させることで、ナルシシズムから解放される。一方、女の子の方はすべての子どもに共通する、自分を客体化する傾向のなかに留めおかれる。人形はこの傾向を助長するが、決定的な役割を果たすわけではない。男の子もまた熊のぬいぐるみや道化人形を可愛がり、そこに自分を投影することもある。ペニス、人形などのそれぞれの要因が重要性をもつのは、子どもたちの生活が全体としてどのような形態をとっているかによるのだ。」(p24)

 

「多くの場合、彼女が実際に近づくのは社会的または知的威信はあるが、その肉体は性的なうずきをかきたてないような男である。少し変わり者の老教授などだ。このような年齢の男たちは思春期の娘が閉じ込められている世界の外で注目を集めているので、彼女は秘かに彼らのようになりたいと思い、神に身を捧げるつもりで彼らに献身できる。このような献身には屈辱的なところがまったくなく、肉欲において彼らを欲しているのではないから、気がねなくできる。小説じみた恋をする女は、意中の人が風采の上がらない、醜い、少々滑稽な男でもえてして受け入れる。より安心できるからだ。彼女は自分と彼を隔てる障害を嘆くふりをする。だが本当は、彼に現実的な関係を求めるのは不可能であるので、だからこそ彼を選んだのである。このようにすれば、恋愛を抽象的で純粋に主観的にできるし、それが彼女の純潔を脅かすこともない。胸は高鳴り、彼女は不在の苦しみ、そばにいる苦痛、悔しさ、希望、恨み、熱狂を味わう。だが、現実には何もなかった。彼女自身は何もしなかった。選ばれる偶像は遠くにいればいるほど輝くというのは面白い事実である。毎日会っているピアノの教授が変わり者で醜いというのは好都合だ。だが、手の届かない世界で生きている外国人を好きになるならば、ハンサムで男らしい方がよい。重要なのは、どちらの場合にも性的問題は起こらないということである。このような頭のなかでの恋愛は、<他者>が現実には存在せずに、性愛が本人の内在においてのみ現れるようなナルシシスト的な態度を持続させ、堅固にする。思春期の娘はそこに具体的な経験をうまく避けられる口実を見出すから、しばしば並外れて強烈な想像上の生活を繰り広げるのである。」(p108)

 

「受け身の役割には多少とも正確に適応するにしても、女は能動的な個人としてはいつも満たされない。女が男をうらやむのは彼の所有する器官のためでなく、彼の獲物のためである。男がやさしく、愛情のある、柔らかな感覚的世界、女性的な世界で生きているのに、女は困難で厳しい男性的な世界で生きるというのは、奇妙な逆説である。女の手は柔らかな肉体、溶けそうな果肉、若者、女、花々、毛皮、子どもを抱きしめたい欲望をもちつづけている。自分自身の一部を自分の意のままにできるし、男にゆだねる宝とおなじ宝を自分ももちたいと思う。多くの女に多少とも潜在的にではあるが同性愛の傾向があるのは、これで説明がつく。複雑な原因が合わさって、この傾向がとくに強く現れる女もいる。女たちがみな、社会が唯一公認する昔ながらの解決策をそのまま受け入れて、自分の性の問題を解決しているわけではない。批難される道を選んだ女たちのことも、私たちは考察しなければならない。」(p177)

 

「同性愛は女にとって、彼女の総体的条件、とくに官能性にかかわる状況によって課される問題を解決するための数ある手段の一つなのである。あらゆる人間の行為と同じような同性愛も、それが欺瞞、怠惰、非本来性のなかで生きられるか、それとも、明晰さ、寛容さ、自由のなかで生きられるかに応じて、悶着、不均衡、挫折、嘘をともなうことにもなり、また逆に、豊かな経験の源泉ともなるのだ。」(p203)

 

「自然は倫理的な選択を命じることはけっしてできないだろう。倫理的な選択は世界への参加(アンガージュマン)を前提としている。子どもを産むこと、それは参加を選ぶことである。産んだあと母親がそこから逃げるとすれば、彼女は一人の人間的実存、一つの自由に対して過ちを犯しているのだ。しかし、誰も彼女にそれを強要はできない。親子の関係は夫婦の関係と同じように、自分から望むものでなければならない。そして、子どもは女にとって特権的な自己実現だというのも正しくはない。ひとは、女について、あの女は「子どもがいないから」男に媚びる、浮気だ、同性愛者だ、野心家だと、とかく言いがちである。女が追及している性生活、目的、価値は子どもの代用品というわけだ。実際には、こうした言い方にはもともとのあいまいさがある。なぜなら、女が子どもを欲しいと思うのは愛情の対象がないから、やることがないから、同性愛の傾向を満足させられないからと言うこともまたできるからである。似非(えせ)・自然主義の下に隠されているのは社会的・人為的なモラルである。子どもは女の最高の目的であるというのは、まさに宣伝用スローガンの価値をもつ確信なのだ。」(p364

 

「男たちは自分たちの世界であるこの世界でお互いに出会う。ところが、女たちは自分たちに固有の領域を定め、推し量り、検討しなければならない。女がとくに伝えあうのは美容のアドヴァイスや料理や編み物のやり方であり、女たちはお互いに意見を求めるのである。彼女たちのおしゃべり好きやみせびらかし好きをとおして、時には本当の苦悩がやっとわかったように感じる。女は男の規範が自分たちのものではないことを知っているし、男の規範が公然と弾劾している中絶や姦通、過失、裏切り、嘘に女が追いやられるのは男の規範のせいなのだから、女がそれを守ることなど男でさえ期待していないのを女は知っている。だから女は、女たちに協力を求めて、一種の「仲間の規範」、女に固有の道徳の掟を定めるのである。女たちが女友だちの行動をあれこれと論評したり、批判したりするのは単に悪意だからではない。女は、それらを判断し、自分自身で行動するために、男よりずっと多くの道徳規範を考え出す必要があるのだ。」(p388

 

「男たちは自分の人生のある時期には情熱的な恋人であったかもしれない。しかし、「恋にすべてを捧げる男」と言える男など一人もいない。最も激しく熱中する場合にも、彼らは自分を完全に捨て去りはしない。愛人の足元にひれ伏したとしても、彼らのつねに変わらぬ望みは、彼女を所有し、独り占めすることである。人生のさなかに彼らは絶対的主体にとどまる。恋人は他の諸価値のなかの一つの価値にすぎない。男は女が自分の存在に同化してほしいと思う。女のなかに自分の存在が完全に飲み込まれるのは望まないのだ。反対に、女にとって、愛は主人のために全面的に自己放棄することである。」(p512

 

「とはいえ、遠くからの恋は幻想にすぎず、現実の経験ではない。恋への欲望が実際に情熱的な恋になるのは、それが肉体的に確認されたときである。逆に、恋が肉体的抱擁から生まれる場合もある。性的に支配された女が、初めはどうとも思わなかった男を賞賛するようになるのだ。しかし、女が知り合った男たちの誰一人として神に変えられない場合もしばしばある。恋は一般的に主張されているほどには女の人生に場所を占めない。夫、子ども、家庭、楽しみ、社交界の生活、虚栄、性生活、職業の方がずっと重要である。女たちのほとんどすべてはかつて「大恋愛」を夢見た。が、彼女たちが経験したのはその代用品である。彼女たちはそれに近づいただけなのだ。偽り、不完全、惨め、災い、中途半端といったかたちで、それは女たちを見舞った。けれども、それに自分の存在を本当に捧げた女はごくわずかだった。」(p514

 

「すでに見たように、性行為は女に完全な自己疎外を要求する。女は受け身のせつなさのなかに沈んでいる。目を閉じ、匿名になって、自分を消し去った女は波にもち上げられ、嵐のなかを転がされ、夜の闇、肉欲の、子宮の、墓場の闇に埋められたように感じる。自分を無にした女は<全体>と一体となり、自我は消える。だが、男が女から身を離すと、女は大地に、ベッドの上に、光のなかに投げ出されている自分を見出す。女は名前を、顔を取り戻す。女は敗北者、獲物、モノだ。愛が女に必用となるのはこのときである。離乳後の子どもが両親の安心しなさいという眼差しを探し求めると同じように、自分をうっとり見つめる恋人の眼差しをとおして、女にとって自分の肉体がつらい思いで離れた<全体>にふたたび戻ったと感じることが必要なのだ。女が完全に満足するのは稀である。女は快楽の鎮静を知ったとしても、肉欲の魅力から完全には解放されない。官能のうずきは感覚のなかに残っている。女に快感を惜しみなく与えて、男は女を自分につなぎとめ、自由にさせない。しかしながら、男は女にはもはや欲望を感じない。女がこの一時的無関心を許せるのは、男が彼女に絶対的で永遠の感情を捧げたときである。そうなると、瞬間の内在は乗り越えられる。灼熱の思い出はもう後悔ではなく宝物となる。快感は消えるが、それは希望と約束となる。快楽は正当化されたのだ。女は自分の性欲を超越したのだから、それを誇りをもって受け入れられる。官能のうずき、快楽、欲望は一つの状態ではなく、贈物だ。自分の肉体はもうモノではない。それは一つの賛歌、一つの炎である。そうなって、女は性愛の魔術に情熱的に自分を委ねることができる。夜は昼に変わる。恋する女は目を開け、彼女を愛してくれ、彼女を称える眼差しをした男をじっと見つめることができる。彼によって、無は存在の横溢となり、存在は価値に変貌する。彼女は暗闇の海にもう沈んではいない。翼に乗って大空へと舞い上がり、高められる。自己放棄は聖なる恍惚となる。愛する男を受け入れるとき、女は聖母マリアが精霊によって、信者が聖体パンによってそうなるように、それを宿し、訪れを受けるのである。」(p520)

 

「さて、恋する女は単に自我に自分を疎外するナルシストではない。彼女はまた自分自身の限界を超え、無限の実在に到達する一人の他者を介して、自分も無限になりたいという激しい欲望を抱く。彼女はまず自分を救うために恋に身を委ねる。しかし、偶像崇拝的愛の矛盾は、自己を救うために、ついには自己の完全否認にいたることである。彼女の感情は神秘的な次元を見せる。彼女は神に対してもはや自分を賛美するように、自分を認めるように求めない。神のうちに自分を合体したい、神の腕のなかでわれを忘れたいと願う。「私はできることなら恋の聖女でありたかった」(と、ダグー夫人は書いている)。高揚と熱狂的禁欲の瞬間には殉教者をうらやみました」。これらの言葉に表われているのは、最愛の人と自分を隔てる境界をなくし、自分自身を完全に解体してしまいたいという欲望である。それはマゾヒズムではなく、忘我的結合への夢である。」(p521

 

「女が与えるもの、それを男は受け取る気はまったくないからである。男は自分が要求する無条件の献身も、自分の虚栄心を満足させる偶像崇拝的愛も必要としない。男は、逆にそれらの行為に含まれる要求に応じないという条件でのみそれらを受け入れるのである。男は与えるように女を説教する。そして、女が与えるものは男をうんざりさせる。女は自分の贈物が無用であるのに非常に困惑し、自分の存在がむだであるのにすっかり途方に暮れる。弱さのうちにではなく強さのうちに、自分から逃げるためではなく自分を見出すために、自分を放棄するためでなく自分を確立するために、女が恋愛することができるようになったとき、そのときは、恋愛は男にとっても女にとっても生命の源泉となり、死にいたるような危険ではなくなるだろう。さしあたっては、恋愛は、最も悲壮なかたちで示される、女の世界に閉じ込められた女、自立できない、手足を奪われた女に重くのしかかる矛盾の縮図である。恋愛の数知れない殉教者たちは、女たちに不毛の地獄を最後の救いとして指し示す運命の不公平に抗して、証言したのである。(p544

 

「女が男と女を隔てていた距離の大部分を乗り越えたのは労働によってである。労働だけが実質的自由を女に保証してくれる。寄生的な生き方をやめたときから、依存することで成り立っていたシステムは崩れ、女と世界のあいだに男の仲介はもはや必要ではなくなる。従属者としての女につきまとう不運は、何もしないでいることしか許されないことだ。そうなると、女はナルシシズムや恋愛や宗教をとおして実現不可能な存在の追及にしがみつく。一方、生産的で活動的な女は超越を獲得する。彼女たちは自らの投企(プロジェ)を通じて自分を主体として確立する。自分の追及する目的に対して、また、自分が手にする金銭と権利に対して責任を感じる。多くの女たちはこの利点を自覚している。最もつましい仕事についている女でさえそうだ。私は日雇いの女がホテルのホールのタイル磨きをしながらこう言ってるのを聞いた。「私はなにひとつ人にせがんだりしたことはないよ。これまでたった一人でやってきたのさ」。彼女は自活しているという点ではロックフェラー〔アメリカの富豪〕と同じくらい誇りをもっているのだ。」(p561

 

「快楽を期待して、その場かぎりの情事しか考えていないと女が言うとき、女が本当に嘘偽りない気持ちで言っていることはめったにない。というのは、快楽は女を解放するどころか、彼女を縛りつけるものだからだ。別離は、いわゆる円満な別離であっても、女を傷つける。女が昔の恋人について友情をこめて話すのを聞くのは、男が愛人たちの話をするのを聞くよりはるかに稀なことなのだ。/女のエロチシズムの性質と自由な性生活を送るむずかしさが女を一夫一婦制へと向かわせる。しかし、愛人関係や結婚と職業の道とを両立させるのは、女にとっては男よりもはるかに困難である。」(p577

 

「芸術、文学、哲学は、人間の自由、創造者の自由の上に新しく世界を構築しようとする試みである。こうした意欲を育てるためには、まず、自分を明確に一つの自由として定めなくてはならない。教育や習慣が女に押しつける制約が、世界に働きかける女の手がかりを制限している。この世界のなかで地位を占めるための闘いがあまりに厳しいとしても、そこから自分を引き離すことは問題になりえない。したがって、この世界をふたたび捉え直したいと思うなら、まず、絶対的な孤独のなかでそこから浮かび上がらなければならない。女にまず最初に欠けているのは、苦悩や自尊心のなかにあって、見捨てられ独りになった孤独と超越の修練を積むことである。」(p597

 

「問題は、ある本源的な呪いによって男女は決裂するように運命づけられているのか、それともこの対立は人類の歴史における一つの過渡期を示すものでしかないのかを知ることである。/すでに見たように、これまで言い伝えられてきたこととは違って、どんな生理的運命も、<雄>と<雌>をそれだけで永遠の敵対関係にあるように定めてはいない。あの有名なカマキリの雌も、他に食べ物がないときにだけ、ただひたすら種を守ろうとして、雄を食べるのだ。下等動物から高等動物にいたるまで動物の個はすべてこの種というものに従属している。ところが、人類は種とは別のものである。それは歴史的生成である。人類は自然の事実性をどう引き受けるかで決まっていくのだ。実際、どんなに悪意があっても、人間の雄と雌のあいだに、文字通り生理的なレベルで対立関係があることを示すのは不可能である。それなら男女の敵対関係を生物学と心理学の中間ぐらいの領域においてみたらどうか。つまり精神分析という領域である。」(p603

 

「今日では闘いは別のかたちを取り始めている。女は、もう男を監獄に閉じ込めようとはしないで、自分自身がそこから脱け出そうとしている。男を内在性の領域に引きずり込むのではなく、自分が超越性の光のなかへ浮かび上がろうとしている。こうなると今度は男たちが新しい軋轢を生み出すような態度をとる。男は、いやいやながら女に「暇を出す」。男は、至高の主体、絶対的優越者、本質的な存在のままでいることが気に入っている。自分の伴侶である女を具体的に対等と見なすことはしない。女は男のこうした不信行為に対して攻撃的な態度で応えようとする。こうなると戦争はそれぞれが自分の勢力範囲に閉じこもった個々人のあいだで起こることではなくなってくる。自分たちの権利を要求する一つのカーストが猛攻撃をしかけ、特権をもつもう一つのカーストによって妨害されるということになる。闘っているのは、二つの超越である。それぞれの自由が、互いに相手を認めるのではなく、相手を支配しようとするのだ。」(p605

 

「男女がお互いに同類だと認め合おうとしないなら、つまり、女らしさをそのまま永続させてしまうなら、こうした闘争はいつまでも終わらないだろう。女らしさを維持するのに熱心なのは、男と女のどちらなのだろうか。…(略)…しかし、対立する両者が純粋な自由のなかで向かい合うなら、和解は楽にできるはずである。それにこの闘争は誰の得にもならない。といっても、この問題全体にわたる複雑さは、それぞれの陣営が敵の共謀者でもあることからきている。女は責任放棄の夢を見続け、男は自己疎外の夢を見続ける。非本来的な生き方では何も得られはしない。それぞれが、安易さの誘惑に負けてみずから招いた不幸を相手のせいにする。男も女も、相手の嫌なところを見ているものは、実は他ならない自分自身の自己欺瞞や臆病さによる明白な失敗なのだ。/歴史の起源になぜ男たちが女たちを従属させたかについてはすでに見た。女であることの価値低下は人類の変遷の必要な段階だったのである。しかし、人類の変遷は男女の協力を生み出すこともできたはずだ。」(p607

 

「ふつう男は社会の正員だから、彼にとって時間は金、名声、快楽になる積極的な富なのである。これに対し、ひまで退屈している女にとって時間はどうにかしてつぶさないといけない重荷である。うまく時間をつぶせれば、彼女は得をしたことになる。男の存在は、だから、まったくの純益なのだ。たいていの場合、女との関係で男が何よりも関心をもつのは、そこから引き出す性的な利益である。つきつめれば、彼は愛の行為をするのに必要な時間だけ女と過ごせればいいと思っている。それに対し――例外を除いて――女は、何をしていいかわからない、あり余る時間を「流して」しまいたいと思っている。そこで――カブを「買う」のでなければ、ジャガイモは売らないという八百屋と同じで――、女は男がおしゃべりと外出の時間というおまけを「つけて」くれないと、体を任せたりはしない。男にとって引き当てる商品全体の値段がそれほど高くなければ、釣り合いは、当然、彼の欲望の強さと彼が犠牲にする活動が彼にどれほどの重要性をもって映るかにかかっているということだ。しかし、もし女があまりに多くの時間を要求する――提供する――なら、彼女は、氾濫した川のように、迷惑そのものになってしまう。男は、こうなれば、もちすぎるより、何も持たない方を選ぶだろう。」(p611)

2025年12月21日日曜日

野浪行彦著『フランスで考えた中上健次のこと 宗教二世にとっての社会物語学』(田畑書店)を読む

 


母系制を追求した高群逸枝をめぐる論考を中心にした読書が続いているが、疲れてもくるので、息抜きしようと、買い置きしたままだったこの作品を手に取ってみた。たしか夏頃、近場の千葉駅ビルに入っているくまざわ書店をぶらついていたとき、一冊だけこの著作が置いてあって、なんだこれは、と購入しておいたのである。

 

一読して、びっくりしてしまう。著者は、安倍元総理を殺害した山上徹也の件で明るみに出てきた統一教会信者の二世であるという。山上の母が中途信者としての「人の子」であるなら、自身は集団結婚の祝福を受けた者から生まれた「神の子」であるが、やってしまった山上のことを「兄」として受け止める。そして自分たちが受けた「痛み」を、中上の物語論を読み通すことで、その由来と在り方を解明し、まず苦しみを抑えること、そして「生き血を吸った言葉たち」(宗教的な物語のことであろう)を、「生者」の世界から祓うことを願い意図して書かれたもののようである。

 

実は、私の父方の従妹が、集団結婚して韓国に暮らしている。群馬は富岡製糸場方面の親戚だが、私が子供のころ、〇〇ちゃんは集団結婚で韓国に行ったんだって、と母から聞いていた。今回の元総理殺害の件のときにも、〇〇ちゃんはどうしてるかねえ、と母がもらしたのを聞いた。私自身は、従姉やこの件をめぐって特別な心情を抱かず、傍観的だけれども、なんで母が関心を維持しているのか、そのことが不思議でいる。

 

しかしより一般的な問題としては、私も関心は持続してきた。私が早稲田二文の学生だった1990年前後頃は、蓮見重彦の「物語批判序説」をはじめとして、「闘争のエチカ」として、中上を「小説家」として擁護しようとする議論が目立っていた。俺が言ってるのは蓮見の薄っぺらな物語ではなく、「切って血の出る物語だ」、という中上が柄谷行人を前にした発言も記憶に残る。私は中上が羽田で荷物担ぎをしたように佐川急便の夜勤務で外人らと共に荷物をさばき、そして新宿区の職人街にある植木屋に入り土建業の世界で三十年働いた。千葉で独立して一年目、柄谷がはじめたNAMで知り合い結婚した妻が亡くなった。彼女は中上亡きあとの熊野大学の常連で、NAMの創生にもかかわっていた。妻が亡くなるひと月前にやっと中上を通して言語化し問題意識を描写した『中上健次ノート』を電子出版し、妻はそれを入院中に読んだ。亡くなる数年前から書き始めた小説を、妻の一周忌を迎えたあと、『いちにち』として仕上げた。

 

その作品『いちにち』で、山上事件のことを取り入れている。それは、父殺しという文脈でだった。作品自体は、『カラマーゾフの兄弟』を日本の現実文脈で書きなおすという、高校生の頃からの物語の続編六作目くらいで、長男が父殺しなら、次男が母殺しのテーマをもたされている。

 

野浪の、中上の小説ではなく、エセーや対談だけを文献素材としたようなこの論考でも、山上事件、あるいは統一教会問題を、「父殺し」の文脈、日本での「父の不在」の問題系で受け止めているようである。

 

<私の父はまさにそんなありふれた力を物語の緒としつつ、神の積年の恨(ハン)を語りはじめた。すると、三島由紀夫事件の起きた一九七〇年ごろから、物語の呼びかけに呼応する若者たちがあらわれ、人類史の禍根を解くための尖兵へと転身してゆくようになった。それは単に戦後生まれの若者の無知ゆえ、物語への免疫の欠如ゆえのことではない。そうではなく、むしろ戦時中に蔓延した八紘一宇の物語、現人神の物語が、その変異種としての再臨主を到来させる土壌となっていたということ、それが団塊世代のナラティブ・ハビトゥスをひそかに育むものでもあったということなのだろう。私の父はまず、創世記の昔話を梃子にして若者たちの魂に小さな傷穴を穿った。そして、それを時空間を超えるような物語の抜け道とすること、それを一種の代理物(プロキシ)として経由することによって、過ぎてしまったものの痛み、歴史の禍根を、積年の恨みを、冷戦下における今の痛みとして蘇らせることができた。そのような手続きを踏むことで、素のままであれば単なる時代錯誤や歴史修正主義として切り捨てられていたものが戦後生まれの魂にまで触れ、痛みを感染させるようになる。私の父がそのような痛みの感染源となることができたのは、ただ単に半島生まれの彼が被差別を潜りぬけるなかで日本への恨みを募らせてきたからではない。そうではなく、戦後に口を噤んだ昭和天皇に代わり、その沈黙の隙をつくようにして、不可視のものとして蔑ろにされつづけてきた痛みにむきあう意志があったためなのだろう。勝手に戦争を終わったことにしていいはずがない。痛みをなかったことにしていいはずがない。だから、怒りとともに、時代を巻き戻さねばならない。>

 

「少し長めのエピローグ」として書かれたあとがきの上のような言葉たちは、本文の、中上の「物語」という、エセー等での曖昧な概念変遷をたどって追及していった文章よりも強烈である。本文の構えには、限定がある。――「折口がなにより人間の身体に付着、感染、憑依する霊的、神秘的な存在としてモノ=マナを捉えていたのは確かだが、そのような存在論的なあり方はここでの関心の対象にはならない。」つまり、神(霊)は本当に実在するのか、という問題は問わない。あくまで、記号論的に、言語世界に限定して追及してみること。

 

本文を読んでいると、背後に、量子力学の考え方を念頭にしているのではないか、という記述や比喩にであう。「音の粒立ち」「音の波動に物語の発生の粒子」……野波の本文での立場は、量子論でいう「観測問題」、人が月を見ていない時は月は存在していないとでもいうのか、というアインシュタインの素朴な疑問を棚上げしたところでの現今の応用科学、情報論と構えが似ているように私には伺える。「神の子」を前提にできるのは、それが言葉として限定されているからだ。エリ、エリ、レマ、サバクタニ、神よなんで私を見捨てるのか、と十字架上のイエスは、本当に神はいるのか、と疑った。そして、全てをあなたにゆだねる、と息をひきとった。

 

私は、妻に会いたい。言葉ではなく、本当に会いたい。不思議な現象が時たまあるようだけど、すぐにこの世だけになる。妻が遺した宿題を解くとは、物語を追求発展させることだ。中上の小説を読めば、父不在の葛藤に生きる秋幸ではなく、むしろメインキャラクターが、『地の果て至上の時』で、ジンギスカン妄想を抱く父を端的に殺してみせた鉄男に移っていることにも気づく。そしてそこには、エクリチュール(漢字=中国)の問題系が露岩してき、「宇津保物語」の反復という書記実験に続いてゆく。要は、私には、中上は、野波の言葉を敷衍すれば、「物語」の「敵意」という前期から後期の「畏怖」へ、そして死後を前に、物語に身をゆだねる十字架上のイエスへと転身したようにみえるのだ。ここでの「物語」とは、シュタイナー哲学でいう、「カルマ」と重なるのではないか、と野波の物語論考を読んでいるうちに思えてきた。が野波のスタンスは、『地の果て――』までを評価するような中上論評を受け入れている。私には、それ以後の方に着眼点を見出す。

 

私が初めてみた妻のダンス公演での芸名は、「Nobody」だった。前作での「やまたいこく」から、ジム・ジャームッシュの映画『デッドマン』に出てくるインディアンの名からとった、と遺品のパンフにはあった。最近そのパンフを見ていて、『デッドマン』を私は見ていないことに気づいた。おととい、帰省してきた息子のアカウントを借りてアマゾンプライムで見てみた。負傷した失業中の白人青年が、植民者を撃ち殺して逃亡してゆくなかで、インディアンに助けられ見守られながら、死を前に、魂の生まれてきた場所へとひとり船に寝かせられ海へと送られる、という話だ。私との出会いで、四十半ばの彼女が、そんな物語を背景にした公演を見せていたことに、今はじめて愕然とする。

 

私は、妻の遺品を飾った二階の部屋の中央に、少女のシルエットを象った彫刻品を掲げていた。なんでだが、これはそこだろうと飾ったのである。妻の妹さんに、これは何か、と聞いてみたが知らないといい、でもそれアイヌ人じゃないの? と言う。いく子は、アフリカはモロッコに行ったことがあるからその土産かな、と思ってもいたのだが、スマホ検索してみると、北海道のアイヌのお土産品がヒットする。私は、妻の生まれ故郷の水俣の作家石牟礼の島原の乱を素材にした作品の続編として、津島祐子の『ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語』があるのではないか、とその文庫本を購入したばかりだった。

 

物語に、神に、身をゆだねろ、本当にそれは実在するのか、とこの世にひきつけられながら。私の今の立場は、そんなところであろう。

2025年12月7日日曜日

町の文化祭

 


2年に一度の、住んでいる町内会の文化祭に、今回は、妻の遺品で出てきたスクラップブックと、その妻を歌った私の『千葉集』という短歌集を展示した。(前回初展示作品は、「庭と戦争」と題した解説と、私の庭論冊子だった。)

妻のものは、おそらく東京は中野区の団地に住んでいるとき、やはり地域のこうした展示会があって、それに出品したものなのだろう。東電原発事故の記事を集めたものに、自身の衝動から共感したアーティストの言葉の抜き書きや、ダンサー黒沢美香のパンフの端切れなどを張り付けてある。(ちなみにいく子が社会運動NAMでとっていた関心系は、環境と理論であって、芸術系はない。)

 

しかし、この千葉市にある町の文化祭も、今年が最後か、中止の段取り一環としてのものになるのだろう。これまでは土日の2日間だったが、日曜日だけの開催となった。会場作りなどの理事が若返り、となると、共働きで、今の働き方は随時合理性になっているから定期の週休二日となっているわけでもないらしいので、そんな暇はない。また、若手で趣味的な絵や手芸などを創作している人もほとんどおらず、万年作品を展示することに意義などないだろうと、若い理事、女性が中心となって年寄体制を突き上げているからである。

 

が、私はこの町内会から派遣され、市直轄のスポーツなんとかやら委員会は、そうもいかない。オリンピックやらなんやらと、行政利害に関係した国策末端組織だから、圧力も強い。がそうも言ってはいられないので、コロナ以来の開催になるらしい、先週の地区バレーボール大会では、委員に圧力かける役割の振興会の会長をつきあげる。これは伝統ではなく高度成長期の現実政策ですよ。委員だって成り手などボランティアで出てくるわけがない。コロナで中止になった大会というのはコロナのためではなく、それ以前から実質がなくなっていたものがコロナではっきりしたというのが本当だ。もう若い世代はわざわざお膳立てされたちっこい大会などモチベーションが起きないのは目に見えている。千葉市の大会だけで十分で、練習試合みたいなのは自分たちで開催してやっているとさっき聞いたら選手が言っていましたよ。もと役人の委員が動いたから、役所も動かざるを得なくなっただけでしょう。しかも以前は14チームの内の4チームが集まらなかったら中止の前提で、今日も3人来るというはずだったのに一人しか役人は来ていない。若い子育て世代が日曜日つぶしてくるんですからね。運動会だって小学校側の先生たちは手伝いから手を引き始めたでしょう。私の地区で運動会に参加しているのは、医者や税理士の親子で、アパート暮らしの土方親子や母子家庭の子は来てませんからね。誰がこれをやりたいの? ずるずるべったりゆくわけ? 先輩のあとを引き継ぐというならあの元役人の後輩はどこにいるの? 伝統だというなら、その人の息子はなんで引き継いでいない?

 

今日の、各町会長、地区連、校長、などが集まるはずの懇親忘年会でも、私は発言せざるを得なくなるのだろう。

 

しかも、最近の女性総理大臣の存立危機事態発言後である。この働いて働いて働いた仕事の結果として、法形式上の宣戦布告になってしまったという話である(苫米地英人解説)。アメリカの同盟国、オーストラリアやフィリピンや韓国になど中国が侵出するわけはないので、これまでの表向きには中国は関与しなかったが、台湾有事にはそれが成立するのは「どう考えても」そうだというのは、まだ公には国家としても公認されていない台湾を軍事同盟国とみなして、そこが自分たちの国の一部だと前提している中国にとっては、その軍事侵攻では尖閣諸島付近の日本領海を通ることになるので、総理発言は相手より先に宣戦布告の喧嘩を売ったも同然となる、と言うのである。日本がそうすれば、国連憲章の敵国条項を援用して中国は日本を抑える大義も持つ、と。もちろん、日本の首相には、そんな意図はなかっただろう。だからこそ、日本人あるある事態、誰も望んでいないことに、ずるずると入ってしまって、中国どころか、またアメリカを、世界を相手に戦ってしまうこともあるのではないか、と私は危惧してしまうのだ。

 

町内会にあっても、誰かが千葉市に、隣組を作ってお互い励ましあう絆組織を作っていけばいいのではないでしょうか、などとアイデアをだし、それは素晴らしいと採用されて懸賞金付与政策実施となれば、当人たちには無自覚に、戦時中の末端組織体制、陰険な監視社会が成立してしまう。もちろん、誰もそんなことはのぞんでいないのに。が、あるある日本人じゃないか。

 

町内会の展示では、一番この伝統に文句を言って施策方向転回で動いていた女性が、アート経験があったのか、一番の大作を展示していた。妻の妹さんにその作品写真を送ると、三日月に座る、これは「星の王子さま」ではないかしら、と言う。私は、草間彌生の、黄色に黒のかぼちゃを連想していたが、たしかにそうだ。「すずきさん笑って」、と私が王子様になって座る写真を撮るとき言った彼女は、私の歌集を読んでいたのであろう。

 

もちろん私の展示は、自己表現ではなく、ずるずる社会への、認知戦である。