2017年12月3日日曜日

サッカー部へのメール――相撲界の混乱から(2)

「言語は常に貪欲に大言語であろうと求め、小言語を呑みこみ、その母語によって人々を残酷に差別する一面をもっている。しかも人々は、その残酷さによってしか、自らの存在をたしかにすることができないのである。モンゴル人がモンゴル人であるのは、かれらがモンゴル語を話すという事実によっている。そして、かれらがモンゴル語を話すのは、それが誇りであろうとなかろうと、他の道はないからである。だが人々がこのような認識に到達したときには、ことばは、人類にとってではなく、自分にとって何であるのか、そしてそのようなことばはどのように話され、書かれなければならないかが自覚されてくるのである。」(田中克彦著『言語の思想 国家と民族の言葉』 NHKブックス)

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《○田コーチ、○山コーチ
cc 鈴木コーチ

今日はお忙しい中、ご相談に乗っていただき、ありがとうございました。

○太郎に、帰ってから話をしたら、「いまは、ちょっと(野球よりサッカーが)好きになった。」と言っていました。
私が「コーチのお手伝いするかもよ」、には「いいよ」と。 
皆様のお陰で、サッカーが好きになっているみたいで、第一ハードルは徐々にクリアしつつあります。

○山コーチにはお話ししましたが、
私は○太郎には、サッカーを上手くなることよりも、真剣に取り組むことを望んでいます。
下手でもいいので、できる限り走り続ける、練習をちゃんとする、挨拶をする、等です。
真剣にやるのであれば、本望でないですが、野球でもいいと思っています。

そんな中、1年程見せていただいた中、○五S.C.やコーチという立場に関しての感想は、
・真剣さについては、○五チーム(低学年)は、足りないと感じています。でも、他のチームは知らないので低学年特有の事象なのかもしれません。
・コーチがやる気スイッチを押す必要があるのかもしれないですが、それはどこから、コーチの仕事なのでしょうか?試合の時も空を見ている子、走らない子のスイッチを探すこともやるのでしょうか?
・そもそも、人数が足りないのは人口が減っているからで、チームを維持するために、緩くなりすぎていないのでしょうか?所属人数が問題なのであれば、他チームと完全統合してはだめなのでしょうか?
また、個人的なこととして
・○太郎はサッカーを続けるだろうか?
・次男と遊んであげる時間が取れるだろうか??
等々、いろいろと疑問があるままですので、徐々に、消化させていただければと思います。

尚、私は、他の子供を教えたこともありませんし、自他ともに認める、他人に興味の薄い人間ですので、皆さまが仰っているいるような高みにたどり着けるのか、かなり疑問です。また、かなり短気な方ですので、保護者やほかのコーチからの苦情等来るかもしれません。仕事でもですが、個人的には人にものを教えたり、管理することがうまくないです。ですので、試用期間を半年程度、見ていただき、その後、決めていただければと思います。

私の個人的なことですが、
・コーチの人数が足りていないときには事前に仰っていただければ、次男は連れて行かず、手伝いますのでおっしゃってください。
・練習内容の例は、教えておいていただけると、助かります。
・今も遊びでフットサルはやっていますが、サッカー経験は中学生の時だけです。体が小さかったせいもあり、自分で上手いと思ったことは一回もないですw
・仕事はカレンダー通りの休み(土日祝)です。夏休み・冬休みは不定期/自由に取ります(お盆の間は取らないことがおおいです) 平日の練習は時間的に手伝えないです。今年の冬、12月31-1月9日に長期休暇で不在です。
・実家は北海道です。趣味はスキーとフットサルです。 ○太郎もスキー、かなり滑れます。今年は次男を滑れるようにしてあげようと思っています。
・サッカーで応援しているチームはないです。時々、TVで見る程度。
・会社の上のほうから、ゴルフへの激しい勧誘、命令?が続いています。まだやったことないのですが、そろそろ決壊しそうな状況。

・妻も働いています。
・○太郎は長男で、次男は4歳、その下に女の子1歳がいます。両方保育園に行っています。イベントが余り多くないですが、時々あります。
・妻はサッカーの手伝いなど、頼めばやると思いますが、あまり使いたくないオプションです。妻の遠征の付き添いは兄弟の面倒の関係で難しいです。
・○太郎は今のところ、習い事はしておらず、○2小コメッツにも参加する可能性があります。

以上です、長々と自分勝手なことばかり書いてしまいましたが、できる限りお手伝いしようとおもいますので、よろしくお願いします。

○中》

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《鈴木コーチ、

大変参考になるお話、ありがとうございました。

私も少年野球の行き過ぎた指導が嫌で、できればサッカーをさせたいと思った経緯があります。
少年野球は幾つか体験させたのですが、どこも無駄に、大きな返事と挨拶を強要させ、練習も無駄に長い印象がありました。
軍隊野球は脈々と続いているんだな、と感じました。

一方、過去の○五の話もとても興味深いです。
「ふざけが原因で練習が中止」は
サッカーを公園の遊びの延長として捉えないのであれば、もっとも、だと思います。
コーチの方がたも、ボランティアでやっているわけだし、
だらだらと遊びながら真剣 に取り組まないのであれば、中止したり、帰らせたりするのが妥当だと個人的には思います。
学校だって授業中にゲームをしだしたら、先生は怒ったり、授業から追い出したりするのと同じだと思います。

練習を真剣にしないなら、コーチの時間が勿体ない。公園でサッカーしてもらえばいい。
(一方で、親が「しめてください」、というのには、やや違和感がありました。

しめるというか、教育をするのは親の第一義務であり、コーチに丸投げしている感があります。それは、まず親がするべきことにコーチが助けることではないかと。)

というわけで個人的には、ある程度の時期までは、ある程度、絶対服従まで行かなくても、規律は必要だと思います(程度の好みはあるとおもいます)。
小学生に、サッカーでふざけながら好きな練習して良いよ、と言って、自主的に考えられる素地が作られるとは思えません。

少し飛躍しますが、野球の絶対服従は、私はやり過ぎだ、と思いますし、日本の社会の中に根付いていて、現在のブラック企業、パワハラ問題等につながっているのだと思います。しかし、一方で、ドイツや日本など、規律の高い国民性の生産性が高いことは否定はできないと思います。私は欧米留学したこともあり、職場にも外国人がいるので、よく考えさせられますが、日本には日本の良いところがあり、規律や勤勉さというのは、間違いなく優位性です  当然、その逆に硬直性が問題としてあがりますが・・

長くなってしまいましたが、個人的な理想だけ最後に付け加えます。
 負けると悔しがり、下手でも一生懸命に真剣に練習して、努力することの意味を少しずつ見つけ、コーチやチームメイトと交わりながら、協調性 社会性などを付けていけるようなチームであるといいな、と思います。

飲みながら話すと盛り上がりそうな内容ですね。
是非、今度ご一緒させていただければと思います。

今後ともご指導をお願いいたします。

○中》

----- Original Message -----
From: 鈴木  <@yahoo.co.jp>
Subject: Re: Fwd: 2015駒沢フェス動画集

鈴木です。
とりあえず、○中さんの問いかけに、参考として、二つの書籍から紹介してみます。

(1)一つは、セルジオ越後氏の、『補欠廃止論』(ポプラ新書)からです。

<子どもの習い事で、武道の人気が高まっているらしい。どうも補欠がないことと、「礼に始まり礼で終わる」精神で、礼儀が身につけられる。やはり補欠に悩む親は、個人競技をさせたいのだろう。それ自体はよいと思うが、ただ気になるのは、礼儀が身につくからという理由。本当にそうだろうか?
 サッカーでも、試合前にハーフウェーラインまで行き、対戦相手に大声で「お願いします」とおじぎする。試合後はベンチに挨拶に行く。しかし、大人に指示されたから礼をしているだけで、なぜそれをやっているのか本質を理解していない。だから、しまいには誰もいない後援会のテントに向かって礼をする。
 僕はこの光景に驚いた。そもそも、一体相手に何をお願いするというのだろうか?
 ブラジルでは対戦相手に挨拶するところを見たことがない。日本でも、Jリーグでは誰もやっていない。Jリーグどころか、W杯もオリンピックでもやっていない。なのに、大人たちは「礼儀」として教える。
 挨拶する子どもも「なぜやるのか」を考えることはしない。それは想像力に欠け、こなし上手になっているだけだと思う。大人に怒られないように、顔色をうかがいながら行動しているだけ。したがって、武道をやれば礼儀が身につくかどうかは、甚だ疑問だ。
 プロの場合は対戦相手ではなく、サポーターに向かって礼をする。大人になってもやらないことを、なぜ学校では強制的に教えるのだろうか。大声で挨拶するように教えるけれども、社会に出て大声で挨拶したら「うるさい」って言われるよ。(笑)。大人になっても使えるものを教えないと、ますます部活動は軍隊のように感じる。そんなうわべの礼儀よりも、大人と子どもが触れあう社会教育のほうが重要だと思う。
 僕の恩師は「社会」だと思っている。大勢の大人と子どもが集まってプレーして育ったから、誰がサッカーを教えてくれたかわからない。親以外の大人も、多くのことを教えてくれた。>

(2)もう一つは、自分が巨人軍の監督になっても日本のスポーツ的土壌は変わらない、もっと偉くならなければと、早稲田大学の人間科学部の大学院で学びなおした桑田真澄氏の対談『野球を学問する』(新潮社)からです。

<桑田 そうですね。ぼくが飛田穂洲の思想を表現するにあたって「絶対服従」という言葉を使ったのには、理由があります。野球は監督の指示に従ってプレーしますから、絶対服従のスポーツではあるのですが、じつは試合で絶対服従がどれだけ生きるかというと、生きないんです。言われたことしかやらない、言われたこと以外をやると怒られるわけですが、じつはそれでは勝てないんです。
 なぜなら野球では、1球1球状況が違って、飛んでくるボールの速さや角度も違えば、風もあり、打順、点差、さまざまな要因で、なにもかもが変わってくる。だから本当は、自分で考えて動ける選手じゃないと、首脳陣からの信頼は得られないんですよ。でも、練習では絶対服従で、自分の言うことをきく選手をつくっているわけだから、試合に勝てるわけがない。勝てないから猛練習をする。また勝てない。これは悪循環ですよね。>

*この対談は、サッカーJリーグの創設に携わった平田竹男氏となされており、平田氏は、「おそらくサッカー界は、野球の軍国主義的なやり方をすごく否定してきた」のであり、「言ってみれば、野球を反面教師にがんばってきたつもり」なのだという。しかしその過程で捨ててきてしまったものがあり、「絶対服従はいけないが、礼儀正しさとか、丁寧さとか、日本人として守らなければならないものまで捨ててはいけない」、と言っています。

(私は、軍隊野球部を出自とする者ですが、桑田氏と同世代で、似たような問題意識で、大学は文学部に入って哲学的に追求してきました。いま騒がれている相撲界では、貴乃花親方が、桑田氏と似たような立ち回りを演じているようです。)

私の息子の一希が、2・3年のころ、よくふざけが原因で練習が中止されていました。親から、「もっとしめてください」という声も出てきました。○藤監督もその父母会の声におされてそうするか、となろうとしていたとき、木曜日のコーチ担当の長い説教事件があって、「子どもを1時間以上たたせて夜遅く帰宅させるコーチの現状をやめさせてくれ」みたいな話が次にでてきたので、○藤監督も、「コーチの考えに任せている。そこは口出ししない」と、父母会の要求を一蹴することになったりしました。
で、その過程で、私と、当時○六小S.Cの監督をしていた○屋監督とのやりとりで出てきたことです。――○屋監督「子どもをしめてもしょうがないですよ。もし、しめて、子どもがほんとうに黙ってしまったら、もうそのチームは終わりですからね。」私も、その意見に同意しました。
その○屋監督が、去年のライオンズ杯決勝、○五・六合同チームと○んぼF.C.との決戦での評価は、次のようなものでした。(コーチ会のメールに流れました。)○五・六の子どもたちは、ひっちゃべっていた。○んぼの子どもたちは、コーチの言うことでしか動けなかった。それが、勝敗を分けた原因だと。具体的には、次のような状況です。(私は、その試合を○屋コーチと見ていたので。)相手のサイド攻撃がこちらの奥深くまできたとき、ゴール前のバイタルエリアが10秒近く空いている時間帯が何度もできていた、もしあそこでボールを受けられたら、簡単に点をとれるのに、なんで○んぼの子はそのスペースを利用しないのか? こちらのワントップの女の子を、中心のセンターバックやボランチの子3 人で囲ってマークしているが、いくらなんでもそんな人数いらないだろう。強いチームとやってきた名残なのか? そしてそのことを、○んぼの子どもたちは気づいていた。フィールドで話し合いがされているのが確認できる。が、結局は、一度もその形をくずさず、前半0-0のまま終わってしまった。後半は、○んぼはじっくりしたパス回しではなく、速攻的にいどんできた。ゆえに、果敢にはなってもパスミスが増え、こちらのカウンター反撃も多くなり、張り合う感じになって、もうバイタルエリアにスペースが生まれる時間はなくなった。そのまま、PK戦となってしまった。となれば、PKでもニコニコしていられるこちらのほうがメンタル的に優位になってしまった。……要は、○屋監督は、○んぼの子ども たちが、コーチに萎縮してプレーするようになってしまったことが敗因だ、と分析したわけです。私もそう見立てて、そんな話をしていたんですね。

あくまで参考までに、以上のエピソードを紹介しておきます。


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《鈴木 です。

(1)「公園とクラブ入部でのサッカー」の違い、(2)「失点を減らす」ことの具体化、についてミーティングで話したこと追記します。

個人技術の向上、そのサッカーに必要な走り方(ステップ)や「止めて、蹴る」という理屈以前の基本技術が水準に達するのには、地道に時間のかかることですが、それを目指させる態度転換は、手助けできると思うので。

(1)イツキの時代、練習中ふざけている子を注意すると、「ふざけているのは俺だけじゃない、なんで俺だけを注意する?」この理屈は正しいか?
例えを3つ例示します。
・大人世界の話。「君たちのじいさんよりちょっと前、日本は世界と戦争した。で、とある市長が、戦争で人を殺したのは日本人だけじゃない、なのになんで日本人だけ責めるのだ、それはおかしい」と発言した。この理屈は正しいか?(当事の大坂市長の慰安婦問題の変形ですが。)
・交通法規を守って注意深く運転しているタクシー運転手でもミスして事故を起こすこともある、それに自動車やバイクを楽しんで乗り回している暴走族が事故を起こして、「タクシー運転手も俺と同じだね!」と言った。この理屈が正しいか?
・○オ君がクラブチームで一生懸命練習して、6年の大会になった。ミスしてゴールを決められた。それを休み時間や公園だけで一緒にサッカーしている友達から「リオも俺も同じだね!」といわれたら、どう感じる?
○オ「いやだなあ。」
スズキ「そう嫌がられて、その市長は、外国人との話し合いをキャンセルされて、政治世界のワールドカップにでられなかったんだ。戦争が起きないよう真剣に話し合っても、ミスで起きてしまうこともある。だけど、はじめから戦争で人を殺すのは当たり前と思っている人と、真剣な議論ができるかい? 世界の政治家は、ふざけた人物として会うのを拒否した。君たちは、日本の中の仲間内だけでやっていればいいかい? それとも、世界に出たいかい?」
○ダイ「世界」
スズキ「サッカーをやるとは、そうした世界標準を身に付けていくことだからね。」

上のような人聞き悪い話に、○田コーチは顔をしかめてたようにおもいますが、知っておいてもらいたいのは、日本のサッカー協会は、明確に野球界を「軍国主義」思想と理解して、それを「反面教師」として指導方針をだしているということです。リーグ戦の普及もその一環です。○山コーチも含めた○ュンタロー父への○田メールでも、○中さんは、そうした理由で、子供が野球に興味を持ちはじめて体験入部しているけれど、本当はサッカーをやってもらいたいんだ、と言っていましたね。昨日、○藤コーチが、娘の高校見学にいくとしっかりしているのは野球部で、サッカー部は…、とおっしゃっていましたが、私が野球部の主要な方針に否定的なのは、「それで世界と戦って負けたんだよ。勝ちたくないの?」というものです。

(2)ウラへの意識。昨日の失点の大半は、ウラをとられてキーパーと1対1の状況を作られたことです。いつか飲み会で話した3年生問題です。で、1試合後、ライオンとシカの例え話をしました。強者ライオンでもシカを前からおそわない、気づかれないように後ろから。シカはどうしてる? 下向いて草たべてるだけか? この話でウラを意識しはじめたのが、○ュウヘイと○ョウタでした。○ウタがウラとられて失点しましたが。サッカーになれは、訓練を受けてるチームほど、サイド中盤でボールを止めて、逆サイドへパスだすこと狙ってきます。ウラへの意識がないと、ひたすら失点します。2試合目、ハイになって暴走するのを落ち着かせようと、フィクソをさせていた○ョウタが、いきなり相手のウラをついて、ボールがでてこないと知るとすぐにポジションにもどるという学習能力をみせました。ただいかんせん、ボールを止めて、蹴る、という攻撃の起点作りができていないので、利用できるのはまだ先になりますが。

*ポジションに関して、学校掃除での役割分担の例えで。あとこまごました技術的な話を、○山コーチと指摘したのが、1試合後のミーティングでした。あせらなくても、面白いサッカーをみせてくれるようになる3年生だと思います。》

2017年11月23日木曜日

相撲界の混乱から

「政治は、まとをはずさぬ正確な計算にもとづいて、単語のエネルギーを巧みに利用しつつ、ことばが社会におよぼす魔力を操作する。かくて天皇という語は、明治憲法発布にさき立つ一時期、類似の意味をもったさまざまな表現方法と激しくせりあうなかで生き残り、当時、この語の中にこめられた語感の印象は、おそらくまだ不安定で、後世からはとうてい思いもおよばないほど、みずみずしかったのである。明治維新黎明期、すなわち憲法発布以前のほぼ二十年間に残された様々な資料から、天皇を指す表現をことごとくひろいあげても、ここではあまり意味がないので、試みに、次のような一群の語を例示しておきたい。
 
 皇上 聖上 聖主 聖躬 至尊 主上 」(亀井孝「天皇制の言語学的考察」田中克彦著『言語学の戦後』所収 三元社)

モンゴル会で起きた事件をきっかけに、日本の相撲界が揺れている。
日本の相撲界や、他の運動部などでも、顧問や部員間での暴力沙汰は今でも取りさだされるけれど、それは残骸なように珍しくなったからで、戦後平和教育が、軍隊的な遺制を取り除くよう洗脳・戦略されてきたからだとは、このブログでも言及してきた。(例;中学部活動問題の中身」)

しかし、その若い世代へ行くほどのやわな現状にいらだつ反動的な勢力も根強いわけで、現政権自体が、なんとか敗戦後のその9条体制と呼べるようなものを変えたいわけだ。しかも、若い父親・母親自身に、敗戦という現実の影響・教訓が忘却されはじめているので、むしろそうした若い民衆のほうから、強い姿勢を求める、憧れる傾向があることが、今回の衆院選アベくん支持の結果に反映されたことの一つでもある。
で、その若い父親、サッカー小学生チームのパパコーチを引き受けてほしいと期待されている親から、次のような素朴な質問が投げかけられてくる。

<私は○○には、サッカーを上手くなることよりも、真剣に取り組むことを望んでいます。下手でもいいので、できる限り走り続ける、練習をちゃんとする、挨拶をする、等です。真剣にやるのであれば、本望でないですが、野球でもいいと思っています。そんな中、1年程見せていただいた中、落○やコーチという立場に関しての感想は、
・真剣さについては、落○チーム(低学年)は、足りないと感じています。でも、他のチームは知らないので低学年特有の事象なのかもしれません。
・コーチがやる気スイッチを押す必要があるのかもしれないですが、それはどこから、コーチの仕事なのでしょうか?試合の時も空を見ている子、走らない子のスイッチを探すこともやるのでしょうか?
・そもそも、人数が足りないのは人口が減っているからで、チームを維持するために、緩くなりすぎていないのでしょうか?所属人数が問題なのであれば、他チームと完全統合してはだめなのでしょうか?>

私も、息子の一希には、この「真剣さ」を学んで欲しいとおもっていた。が、いざパパコーチとして間近に<子どもー大人>と接していると、その実践の内実、方法と思想的理論に、素朴にそのまま「真剣にやれ!」と怒鳴ってすますわけにいかない複雑さが潜んでいることに気づいてきたのだった。(例;「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング」・「暴力(教育)と歴史・「見えること、見えないこと、見たいこと

とりあえず、サッカーやスポーツ、ひいては教育ということに限っての話なら、日本の近代化過程での暴力的文化土壌を考察した元巨人軍投手の桑田氏への言及ブログ(今回、貴乃花親方が、桑田みたいな立場なのか? 日本相撲界の土壌を変えるための陰謀めいた…)、そして日本の学級社会の特殊性や体罰の歴史に関する引用ブログ、があるが、もうひとつ、若いパパコーチには、次のセルジオ越後の言葉を紹介しておきたくなる。

<子どもの習い事で、武道の人気が高まっているらしい。どうも補欠がないことと、「礼に始まり礼で終わる」精神で、礼儀が身につけられる。やはり補欠に悩む親は、個人競技をさせたいのだろう。それ自体はよいと思うが、ただ気になるのは、礼儀が身につくからという理由。本当にそうだろうか?
 サッカーでも、試合前にハーフウェーラインまで行き、対戦相手に大声で「お願いします」とおじぎする。試合後はベンチに挨拶に行く。しかし、大人に指示されたから礼をしているだけで、なぜそれをやっているのか本質を理解していない。だから、しまいには誰もいない後援会のテントに向かって礼をする。
 僕はこの光景に驚いた。そもそも、一体相手に何をお願いするというのだろうか?
 ブラジルでは対戦相手に挨拶するところを見たことがない。日本でも、Jリーグでは誰もやっていない。Jリーグどころか、W杯もオリンピックでもやっていない。なのに、大人たちは「礼儀」として教える。
 挨拶する子どもも「なぜやるのか」を考えることはしない。それは想像力に欠け、こなし上手になっているだけだと思う。大人に怒られないように、顔色をうかがいながら行動しているだけ。したがって、武道をやれば礼儀が身につくかどうかは、甚だ疑問だ。
 プロの場合は対戦相手ではなく、サポーターに向かって礼をする。大人になってもやらないことを、なぜ学校では強制的に教えるのだろうか。大声で挨拶するように教えるけれども、社会に出て大声で挨拶したら「うるさい」って言われるよ。(笑)。大人になっても使えるものを教えないと、ますます部活動は軍隊のように感じる。そんなうわべの礼儀よりも、大人と子どもが触れあう社会教育のほうが重要だと思う。
 僕の恩師は「社会」だと思っている。大勢の大人と子どもが集まってプレーして育ったから、誰がサッカーを教えてくれたかわからない。親以外の大人も、多くのことを教えてくれた。>(セルジオ越後著『補欠廃止論』 ポプラ新書)

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日本で起きたモンゴル会での暴力事件のことを、もう少し、深く、ディープ・ヒストリー的に考えてみよう。

エマニュエル・トッドの家族人類学によれば、ユーラシア大陸の中央あたりから父権的な
共同体家族が文明として発祥し、それが周辺へと伝播していき、より周辺の亜周辺的なところに近づいてゆくほど、より原初的な核家族形態が残っている、ということになる。中国の文明も、とくに秦の始皇帝時代には、そのユーラシア的な騎馬民族の軍事組織にも転用される共同体家族の影響がみられる、ということになるだろう。もちろん、ヨーロッパという周辺地域に、中央集権的な家族・組織形態を伝播させたのが、モンゴル帝国である。そこでは、父権的な指示系統、教育が強いのかもしれない。日本でも、それは武家政権の成立過程とともに、伝播が実地してゆく。モンゴル帝国は上陸支配には失敗したが。封建制とは、文明的な共同体家族と、原初的な核家族とのせめぎ合いの周辺的事態である。そしてその封建制から民主主義が派生してきた。友愛とは、任侠である。しかし日本では、その近代の骨格を導入するに際し、伝統(封建)的なものは恥ずべき不適格、これからの時代に不適応なものとして捨象されてきた。とくに、二次大戦への敗戦は、アメリカの占領政策ともあいまって、より徹底的にその武人的な組織性は排除されていった。日本では、学校という近代的な教育制度、その勉強だけ教えればいいという形は、農村社会の在り方から受容されず変形され、体育や家庭科技術などどいった、総合的な子どもの面倒見、という体制になったため、そこで戦後、部活動という学校の余剰的場所が派生し、武人的な封建思想が残存された。民主主義のモデルたるヨーロッパ近代では、実はなお封建精神は、具体的な決闘の残存としても継承されている。それは青年時代の秘密結社的な性格をもつ。フェイスブックとは、ハーバード大学のそんな結社から排除されたものがそのノウハウを盗んでネット上に実装されたものだとは知られている。日本の町内会の青年部なども、なおその伝統をひきずっているとは言えるかもしれない。がとなれば、この封建的な暴力性は、原初的な核家族性を起源にもっているのかもしれない、となる。アフリカの部族では、今なおこの13歳頃からの若い青年団体が、狩りをしながら新しい土地を探し求める冒険をする。それがまた、大人社会へ向けての通過儀礼である。秘密結社の卒業には、勇気だめしのテスト(決闘)があるが、バンジー・ジャンプなどもその一例である。が、この若者の遊動性は、反抗期と結びつけられ、それがある種のホルモンの分泌を伴っていることが解明されてきている。ということは、サルからヒトへと、森から追い立てられた人類が、世界環境で生き延びていくために、身体的に発揮された脳力が、この新天地への冒険を恐れない青年期の<反抗=暴力>というホルモン作用だったのかもしれない、ということになる。ひいては、その核家族的な遊動的性質が、文明・定住的な共同体家族の父権的な暴力性へと換骨奪胎されていき、民主主義(封建制)とは、その中途半端な過渡的な半端形態、ということになる。もちろん、時間軸だけで考え、実践を組織する必要はない。文明は、めざすべき理念でもない。が、それが自然適応のための身体(ホルモン)と結びついているとしたら、リベラル理念で、戦後平和教育、9条体制で抑えようとしも無理が出てくる、ということになる。青年期の通過儀礼的な結社の実質を、近代化の過程で糞真面目に排除してしまってきたことが、とくに日本では現今の若者の犯罪事件を惹起させてきているようにもみえる。暴力との付き合い方が、私たちにはわからなくなってしまったものとして。それが、<真剣さ>をいざパパコーチとしてサッカークラブに導入する際の、実践的混乱として現象する。

2017年11月18日土曜日

座間事件

「美登利はかの日を始めにして生れかはりし様の身の振舞、用ある折は廓の姉のもとにこそ通へ、かけても町に遊ぶ事をせず、友達さびしがりて誘ひにと行けば今に今にと空約束からやくそくはてし無く、さしもに中よし成けれど正太とさへに親しまず、いつも耻かし気に顔のみ赤めて筆やの店に手踊の活溌かつぱつさは再び見るにかたく成ける、人は怪しがりて病ひのせいかと危ぶむも有れども母親一人ほほ笑みては、今におきやんの本性は現れまする、これは中休みと子細わけありげに言はれて、知らぬ者には何の事とも思はれず、女らしう温順おとなしう成つたと褒めるもあれば折角の面白い子を種なしにしたとそしるもあり、表町はにはかに火の消えしやう淋しく成りて正太が美音も聞く事まれに、唯夜な夜なの弓張提燈ゆみはりでうちん、あれは日がけの集めとしるく土手を行く影そぞろ寒げに、折ふし供する三五郎の声のみ何時に変らず滑稽おどけては聞えぬ。」(樋口一葉「たけくらべ」 青空文庫)

秋葉原事件、川崎事件、相模原事件、とうと、このブログでもいくつかの世間を騒がした犯罪事件を考察してきた。
そして、最近の座間事件……、相模原事件の時の唖然さを超えて、単に、判断が停止した。内心の気味悪さから逃げるように、もう考えるのはやめようという気だった。が、ブログ「世に倦む日日」の言及にふれて、やはり私自身が黙って処してしまうことは自身に対する怠けと敗北という気がしてき、とくにはそのブログ上での「40代独身女性、自営業」の方のコメント、<明るい未来なんてあるとは到底思えない、殺伐とした毎日。精神的に弱って頼れるものを求める女性をおびきよせ、短期間に、次々と殺す。そしてその遺体に囲まれて生活する。「どうせろくな人生じゃないし」「どうせいずれつかまるだろうし」「ここまでやればどうせ死刑だろうし」という気持ちがこみ上げ、五感、自分を取り巻く現実が急速に現実味を失い、自分と関係なくなるような感覚を覚えました。この犯人はサイコパスだ、という分析もあるようですが、案外そうとも言えないのかもしれない、絶望し自暴自棄になった時にこの状況は思いのほか近くに存在するものなのかもしれない、と思いました。>――を読んで、自分がこの事件から逃げようと、隠そうとしてきたことを掘り返してみたくなった。

この事件から、私が最初に連想したのは、無邪気に戦場を観光として訪ね、テロリストによって首切られてしまった香田証生さんの事件である。人を簡単に信じて、あるいは、世界を甘く見て、現実にさらされてしまった。……しかし今回の事件の多くは、まだ中学生や高校生なのだった。これから、だまされながら、世間知を知って、大人になっていく年頃だ。いきなりだまされて、殺されてしまう。世間知を積む暇もない。だまされるだけなら、他の多くの家出少女たちが、暴力団まがいの組織につかまって、風俗産業へと突き出されているかもしれない。そこでの自殺率は断然と高いそうだ。実際、被疑者の白石氏は、女性をそうした業界へと派遣させる仕事をしていた。それゆえか、彼自身には27歳という年齢以上の世間知がついていたようにもうかがえる。私は、香田氏の件に触発されて描いた上リンクの絵本(『人を喰う話』)で、その27歳という、カントやドストエフスキーによって特権視された自然・文化的境界のことを問題にした。肉体(自然)的に大人になる13歳前後から、もう10年生きてみることが、啓蒙(文化)としての大人になる条件(ずれ)なのだと。それはまた、職人が技術を身に付け一人前になるには10年かかる、という世間知的洞察でもあると。だから、24歳でなくなった香田氏が、あと3年いきていたら、と嘆いたのだ。

そうして白石氏は、27歳になったのだ。首を斬られる方ではなく、斬ってみる方の日本人として。

座間の現場の上空には、アメリカの軍機が轟音をたてて飛んでいるのが日常である。死体を処理していたアパートは、さらに線路沿いにある。騒音というより、爆音の中の生活になるのだろうか? 私は、現場を知らない。死臭が漂っていたというのに、近所の人には、それが「変な匂い」、「生温かい匂い」として、日常的に過ぎていったのは異様である。もし、行方不明になった妹を追う兄の強さがなかったら、もっと毎日が過ごされていたということだ。死臭にも慣れなくては生きていけない場所、それはむろん、戦場である。前線の戦場である。この戦争への不感症……これを、座間という、米軍基地に隣接した特異的な場所、としてやり過ごしていいものだろうか?

<明るい未来なんてあるとは到底思えない、殺伐とした毎日。精神的に弱って頼れるものを求める女性をおびきよせ、短期間に、次々と殺す。そしてその遺体に囲まれて生活する。「どうせろくな人生じゃないし」「どうせいずれつかまるだろうし」「ここまでやればどうせ死刑だろうし」という気持ちがこみ上げ、五感、自分を取り巻く現実が急速に現実味を失い、自分と関係なくなるような感覚を覚えました。この犯人はサイコパスだ、という分析もあるようですが、案外そうとも言えないのかもしれない、絶望し自暴自棄になった時にこの状況は思いのほか近くに存在するものなのかもしれない、と思いました。>――この女性のコメントは、山城むつみ氏が小林秀雄の戦争洞察に読みこんでみせた次の引用と私には重なってくる。

<連中は何と異常で「無惨」な行為に走ったことかという視線で彼らを見ているとき、自分はそうはならないということが暗に前提されてしまっている。しかし、そう考えていられるのは、僕らがあくまで「ここ」にいて「ここ」の日常感覚が「そこ」においても延長し、「ここ」のモラルが「そこ」でも連続的に保持し得ると信じ切っているからにすぎない。もし「そこ」が「ここ」の座標を延長した空間にはないのだとしたら、――もし「そこ」が「ここ」とは連続していない、断層のある、別の空間に属しているのだとしたら、――そう信じ切っている僕らが何かの拍子で「そこ」に置かれたとき、強姦・虐殺・放火に走らないという保証はどこにもない。>(「山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』

白石氏にとって、あるいは、いまや若い世代にとってはとくに、この日常が、もはや<戦場>に近いものとして感受されているのではないか? というか、年寄世代は、徐々にこの今の世界に移ってきているので、「不感症」になっているということではないのか? 戦場では、だまされる、ということが一命に関わることに直結するかもしれず、だますことは、殺すことになってしまうのかもしれない。ツイッターなどの言葉のやりとりの速さは、考える暇を与えない。経験が世間知として積み立てられていくのではなく、反応としての対処だけが絶えず強迫される。それは、でかい脳みそを抱えたヒトにとっては、エントロピーを増大させる不快なことになっていく。知的にとどまる時間差(暇)は、身体・生理的に必要になってくるのだ。だから、被害者は素直にスマホを明け渡して捨て、加害者は仕事をやめ塹壕の中に引きこもる。外に飛び交う銃弾の下で、いかに死ねるかの知的探索にオタク化する。その関係は、戦犯的な、単独的な、休戦、戦争の放棄なのだ。殺された妹は、ラインで後を追う親身な兄に頼るよりも、まずは戦場から降りることを選択した。しかし世界が、日常が戦争なとき、どこに降りられる場所があるだろう? メディアを捨てることは、ただ目をふさぐことに等しくなる。ネットや携帯を知らないで過ごせた経験の積んでいる年寄世代の者たちのように、面倒くさい、と適当に処理することもおそらく敵わないのだ。

しかし、戦争は過ぎる。というか、もう私たちは、また敗けたのだ。まだ終ってはいないのかもしれない。が、勝ちはない。年寄たちが頑張れば、引き分けぐらいはあるかもしれない。だから、私は、息子をはじめとした若者にはこういいたいのだ(というか、教えているサッカーチームでは、たまに言うことだけど)。敗戦後のことを考えて生き延びよ、賢しらな自暴自棄になるな、人生も歴史もリーグ戦だ。当たって砕けろなどというトーナメント方式・思考は、敵からの侵略はモンゴル帝国とアメリカ帝国しか知らない島国根性な平和ボケだ。実際、俘虜の辱めを受けずという教訓を無視して、年寄たちは敗戦から復興してみせたではないか? 受験に失敗したら人生終わりだ、みたいなプレッシャーは事実じゃない。人生も、歴史も、リーグ戦だ。失敗をフィードバックして、次を考えろ。君たちはサッカーを通して、世界基準を身に付けろ。……
 
予想通りなアベ君支持の選挙結果を目の当たりにすると、「歴史の必然」という小林秀雄の言葉を連想する。しかしこの言葉には、もはや鋭い情感は失われている。ばかばかしく、茶番にしかならない。が、若い世代には、それが初めての現実になるのだ。つまり、猶予(モラトリアム・暇)をくれない戦争が。

参照ブログ:
秋葉原事件「小さな過去」、「犯罪に――

2017年10月22日日曜日

衆院選挙とお笑いの動向

サッカーや野球を禁止するために設けられた広場中央の柵。すると子どもたちは、この柵をネット代わりに、テニスをし始めるのだった。笑える。

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「瀬山陽の『日本外史』は文学的表現が政治的権力とかかわらざるをえない一つの時代の起点に位置している。それは「文学が政治上の事業に附帯せしめられた時代」にちがいなかったが、一方、文学がその無力を自覚することによって、政治を批判する姿勢を獲得した時代でもある。この「有用」の世界と「無用」の世界との緊張関係を激化させつつ、幕末の文学は明治維新に到達し、「文学から政治へ」というサイクルを終える。維新から明治二十年代にかけては逆に「政治から文学へ」というサイクルが始まるのであって、いわゆる文学極衰論争は政治と文学の緊張関係が弛緩の兆しを示し始めた時点、いいかえれば政治的近代の挫折から、文学的近代の庶出子が生誕する時点で発生するのである。文学極衰論争をうけつぐ形で争われた愛山と透谷の二つの文学史は、この二つのサイクルの終結点から逆にさかのぼって、近代文学への転換期をトータルに把握しようという野心的な意図を潜在させていたのだ。
「近世から近代へ」という問題を、戯作小説から近代小説へという脈絡のうちに模索しようとする文学史は、逍遥の『小説神髄』ないしは不知庵の「現代文学」にあらわれていた文学概念を、逆に幕末に延長する操作によって構成されている。幕末から明治にかけて演じられた政治と文学の苛烈な劇を切りすててしまったこのような文学史は、もはや何程の可能性も残されていないであろう。」(前田愛著作集第一巻「幕末・維新期の文学」 筑摩書房)

今回の衆議院選挙結果がどうなるか、この文章を書き始める日中の時点ではわからないが、どんな結果になっても、大勢は変わらないだろう。私自身は、先ほど投票に行って、小選挙区では立憲民主党の候補、比例では共産党に入れてきたが、棄権を呼びかけているそうな東浩紀氏のような態度でも、充分結果に反映される、いいかえれば、結果などどうでもいいような選挙であると、私は考えている。その結果を受けて、ずるずる時勢にながされていくのではなく、坂口安吾的に前に進んで行く現実的な文脈づくりを、政治家にはしてほしいものだ。が、何が「現実」的なのか、人間にとってリアルとは何なのか、そこに基づいた現実政策とはどのようなものなのか、政治ジャーナリズムの世界では合意がない。というか、文学界ではマイナーとはいえ少なくとも議論しえる了解事項はあっても、結局は政治レベルには反映されてゆくところまでは、影響力なく衰退してしまった、ということなのだろう。

今回、私が興味をもち、もっと突っ込んでみる必要があると感じたのは、20・30代での投票動向である。選挙前の世論調査によると(「朝日新聞」10/19朝刊)、18~29歳では41%が自民支持(60代では27%)、安倍内閣の続投支持でも前者が49%で、後者は60%が不支持だという。安倍総理の以前からの街頭演説でも、「わたしたちを支持しているのは実は若者たちなのです!」と、何か証拠でもあげたように特異そうに声を張り上げているシーンもTV放映されていたようにおもう。この若者と高齢者との落差は、統計的に意味がある、とかいう差異を超えているだろう。この落差を、どうとらえたらいいのだろう?

中学2年になる息子が、お笑い番組ばかりみているので、これはどういうことなのか、と調べてみたくなって、吉村誠著『お笑い芸人の言語学』(ナカニシヤ出版)というのを読んでみた。東大の社会学部を出て放送界に就職し今は大学講師をしている書き手らしいが、文学的な教養がすっとんで書かれているので、そこへの突っ込みどころがそのまま問題点として明確になってきて、興味深い。
たとえば吉村氏は、新聞はエリートの書き言葉社会で、テレビは民衆の話し言葉の社会だ、という。が、たとえば夏目漱石が大学の先生から新聞社へ転職したとき、気が狂ったのかと騒がれたというが、それはむろんエリート社会を捨てて自ら民衆の生活へと降りていったからである。ニーチェによる大衆の定義は、新聞を読むような人たちである。エリートは、新聞など読まないのだ。私も早稲田大学の英文学の授業で、先生から、「ジャーナリスト」という字義通りな意味は「その日暮らし」ということだからね、と講義されている。明治政権のエスタブリッシュメントからもれた佐幕派のもと武士たちが、民権運動を盾に浮浪者的・ジャーナル的に始めたのがその大勢だったろう。もちろん、武士は識字率の高いインテリともいえる。が、この転換期の文脈抜きにして、新聞がエリート/テレビが民衆(生活者)、と短絡的につなげていると、もしかして、次の時代には、テレビ(でニュースを見る)のがエリート/スマホ(で趣味だけ覗くの)が民衆、ということになりかねない。吉村氏は、テレビでもニュースが「標準語」的なエリート志向で、そういう体制への抵抗として「方言」にこだわった「お笑い芸人」の姿勢(番組)を評価するのだが、その文脈だけけでは、趣味的世界が独特のスラング社会を縮約形成してゆくように、今度はそこが抵抗の拠点、と理解されるのだろうか? あるいは実際的にも、若きロックフェラーは、自分がフェミニズム運動を支援し資金援助するのは、女性が働きに出て子どもが独り家に残れば、勉強なんかせずテレビをみるだけのバカになっていくから社会を支配しやすくなるからだ、と言うような事を公言していたが、そんなエスタブリッシュメントの言葉を聞いたら、無邪気に民衆的なテレビが時代を変えていく力を潜在させていると期待することはできないだろう。

もともと近代社会とは、ラテン語(漢語)の聖書(原文)を方言(のちの国語)に翻訳してみせることから普及したネーションな運動であろう。それは俗語革命が基調であった。
日本では明治時代、人々の主体性、人民の主権性の思想を普及させるためにも模索されたのが、言文一致の運動だった。これは、書くことと言う(話す)ことを近づけようとする試みともいえるのだろうが、もちろんそういう書き言葉の世界の運動である。それが、なお識字率の低い明治時代(参照;前田愛「近代読者の成立」)、一般民衆とはかけ離れていたという事実性は確かであるだろう。が、漱石がそうであるように、エリート社会に属することもできた者でさえ抵抗していたのだ。ならば、抵抗の拠点を、実体的なスラングの場所、社会に求めるのは早とちりではないか? だから、抵抗の仕方もまた、生活の言葉に近づければいい、それを取り入れればいい、という安楽さも文学的に自覚されて、むしろ読ませない書き言葉としての抵抗の姿を見せる運動ものちに現れただろう。とにかく、まずは書き言葉の世界で「生活」を取り戻してゆくような生きた運動が始められたとしても、それはエリートなエスタブリッシュメントな社会で、民衆とは関係ないとはいえない。当時はなおほど遠かったとしても。必要なのは、そこにあったエリートの苦闘を、民衆たる「お笑い芸人」が参考にすることだろう。エリートがお笑いを参考にしたように。前掲書で前田愛氏は、言文一致に苦闘していた二葉亭は、落語家の円朝の「噺」から学びとって文体を作っていったのだと指摘している。それは、「外在的リズム」をもった「身振りとしての言語」である。しかし、であるがゆえに、その文の調べには、「滑稽めかした声、演技された声、誇張された声」が響いてしまう。当時は、新聞も家族(近所)みんなに聞こえるよう声をだして読んでやるのが普通だった。音読にはよくても、黙読には堪えない、ということが次なる問題となってくる社会の趨勢であった(らしい)。

<有明が幼稚な鑑賞力で高誦したという『佳人之奇遇』は美妙が排斥した「吟ずる」読み方で読まれたのであった。それは蘆花が『黒い眼と茶色の目』でいきいきと描き出しているように、学校・寄宿舎・私塾・政治結社等の精神的共同体の内部で集団的・共同的に享受された。このような享受の場は自由民権運動の敗退とともに失われて、享受の単位は家庭ないしは個人に縮小する。美妙が読者に要請した「通常の談話態(はなしぶり)」のように読む読み方は『小説神髄』が提示した「親子相ならびて巻をひらき朗読するに堪へ」る改良された戯作、その具体的実現としての硯友社文学に対応するであろう。新聞小説であり、家庭小説である。硯友社文学の優勢のまえに『あひびき』の読者が少数者であったことは否むべくもない。しかし、近代読者の系譜はじつにこの少数者の中から辿られる。それは漢文崩しの華麗な文体のリズムに陶酔して政治的情熱を昂揚させる書生達でもなく、雅俗折衷体の美文を節面白く朗読する家長の声に聞き入る明治の家族達でもない。作者の詩想と密着した内在的リズムを通して、作者ないしは作中人物に同化を遂げる孤独な読者なのである。>(前田愛・前掲書)

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で、平成時代ももうすぐ終わろうとしている我が家はどうか?

ルソーのような「孤独者」にあこがれる父親が、新聞を読んでぼそっと見解なるものをつぶやくと、2LDKのDKの所にいた女房が、「また気味のわるいわけのわからんことをいって!」とすかさず反撃してくる。1Lのところにいた私は、「別に俺の意見を言っているんじなくて、一般教養的な、前提となる現実の話をしてんだよ」と、その意見を補強するために、ときにはなんらかの書物を取り出して読み上げる。すると、「また誰々が言ってるか! 自分の意見はないのか!」と食ってかかってくる。障子戸を開けたままにしているので、1LとDKはつながっている。私と同じ1Lでお笑い番組を見ていた息子は、テレビにイヤホンをつけて聞き始める。それに気づいた女房は「いつまで見てるの! バカになるからイヤなんだよ!」と怒鳴りつける。「うるさいよ!」といって息子は立ち上がると、漫画本をもって隣の1Lへいって襖戸をしめたりする。そうして夜になれば、その襖の向こうの一部屋で、家族三人が川の字になって寝ているのだった。……この都会の団地にも、息子の同級生は何人もいる。兄弟・姉妹がいる家族だって。じいさんやばあさんがいる家というか部屋もある。やはり私は、前田氏の前掲書から引用したくなる。<この読み手と聞き手とからなる共同的な読書の方式は、日本の「家」の生活様式と無関係ではないと考える。それは夙にラフカディオ・ハーンが「日本人の生活には内密ということが、どんな種類のものも殆んど全くない。(中略)そして紙の壁と日光との此世界では、誰も一緒に居る男や女を憚りもせず、恥づかしがりもせぬ。為す事は総て、或る意味に於いて、公に為すのである。個人的習慣、特癖(もしあれば)、弱点、好き嫌ひ、愛するもの悪むもの、悉く誰にも分らずには居らぬ。悪徳も美徳も隠す事が出来ぬ。隠そうにも隠すべき場所が絶対に無いのである。」と指摘したところのプライヴァシィーの欠如を基調としている。>

子どもが、独りで読書などしないのは、もっともな条件なのだ。子ども部屋を獲得した昭和から、江戸の平和へと退潮していった平成。が、選挙闘争は、国土の防衛問題が焦点となるくらいだから、明治時代への移行みたいだ。つまり若者は、なお江戸時代から激動しはじめた時代をみている。しかし両親や老人には、敗戦の名残が、昭和の感覚がある。殿様が没落し、社会が変わってしまう、しまえることを知っている。しかも、自分たちが受けた教育には、昭和の軍隊的なものも濃厚だった。けれども、子どもたちは、知らない。殿様は、そのまま殿様であって、自分も自分だ。自分を変えていく、変えていける暴力的な力の発揮を許された感覚がない。ましてや、他人に対する暴力など。学校では、いじめか引きこもりだ。引き込もれる子は子供部屋を持っている。ときおり切れた奴がでてくるが、いつのまにかどこかにいなくなってしまう。テレビの事件でも、そうやって犯人がつかまっていく。それは余分な人たちで、やはり殿様は殿様、金持ちは金持ち、貧乏人は貧乏人、そう、世の中も言っている。それを変えて行く、というのは余分な余興なのだ。ニュースの事件がお笑い番組の余興みたいに。ぼくは1Lの隅でDSをやってるのが楽しい。アベくんも、アベくんなんだろうな。他にも政党ってあるみたいだけど、それも、余分ってことじゃないの?

2017年10月14日土曜日

遺体

「ようするに、先カンブリア時代は捕食の実験段階のようなもので、大半を占めていたのは平和を好む菜食主義者だったが、そうした連中も、たまたま動物の死体に出くわせば、喜んでごちそうにあずかっていたということなのだ。肉の味を覚えつつあったというところだろう。」(『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー著 渡辺正隆/今西康子訳 草思社)

先々週、草野球チームの元監督さんが亡くなった。59歳になる直前だったそうだ。私が植木屋さんに入って間もなくの27歳頃のときに、親方を通してその監督さんから呼ばれて、以来、仕事で樹から落ちてケガをする43歳頃まで、ずっとその新宿区は下町にあたる界隈のチームで野球を続けていたことになる。ケガも落ち着き、ぎっくり腰にもならなくなった去年から、そのチームの一員がはじめた別のチームで野球をまたはじめたが、元監督さんも選手としてかつてそのチームにも所属していたから、ここのところは、試合のたびに訪れてベンチに座りくだを播く元監督さんとは顔をあわしていた。歩くのもままならない状態なので、近所の球場へ来るのにも、タクシーでやってきた。本格的な野球経験のない人だったが、もしこの人に草野球へと誘われなかったら、私はもはや野球とは縁がなかっただろう。私にとって、高校野球の経験はつらいもので、テレビでスポーツ番組をみることさえもが忌避反応になっていたのである。職場地区の草野球チームに参加することで、私の後遺症は癒えていった。おそらく30歳もすぎてからの帰省中に、甲子園をテレビで見ていた私に、「おまえ見れるようになったのかい」と母がふともらしたことがある。気づている素振りを見せることもなかった母の一言に、洞察力があるんだな、と思ったものだ。
元監督さんは、荒行あとで悟りを開いた坊さんのように、静かに棺の中に納まっていた。私がそんな連想をしたのは、最近高野山での千日行を終えて聖となった僧のニュースをみていて、その坊さんの容姿と似たものを感じたからだろう。実際、白血病の移植手術の後遺症ということで、肺の機能が極度に低下していたため、病院に担ぎこまれたときは相当苦しがっていたらしい。「抗生物質は効かなかったらもう時間の問題になる」と医者からも言われていたので、覚悟はできていて、自分の棺をかつぐ若衆の位置を弟に口述筆記させていた。2・3日意識がなくなっていた状態がつづいたあとで、息をひきとったそうだ。その日の斎場で、野球仲間とともにその遺体と面会した。斎場自体が、元監督さんが暮らした草野球チームの界隈地区にあるのだが、土葬される天皇以外の皇室縁者の火葬場になるところだ。苦行を超えてこそ刻まれるような穏やかだが芯の入った表情……しかし、そこにはもう、魂がない、ここにはない、という衝撃を受ける。間近に遺体を見つめるのは、20代の頃の、父方の祖母のとき以来だが、当時は、特別な感慨はなかったろう。私は、棺を足方向から見つめる斜め上辺りを見回してみたりした。死後の霊が、そこら辺から集まった人を見降ろしているというような、風説を確かめてみたくもなった。がそれにしても、遺体はあまりに物体的であって、魂や霊などという存在自体を否定しているような衝迫性を湛えている。私は、ゾシマ長老の腐敗する遺体にうろたえるアリョーシャの描写をしたドストエフスキーのことを思ったりした。そこにある遺体は、あの世への信頼を懐疑的にさせてくる。

しかしそう懐疑的になっても、私は、仕事中でも、この強い個性的な人格をもつ監督さんのことを意識せざるをえなかった。白血病になってからは、髪を伸ばし、染め、見るからに、内田裕也というロックンローラーにそっくりだった。だから街や病院でも間違わられてサインを求められると、そのまま、「にょろにょろ」と適当なサインを何食わぬ顔でやってのけられる人である。女性からは毛嫌いされていたが、そのことも平気な沙汰で、キャバレーで知り合ったフィリピーナをフィリピンまで求婚しに訪れ、その妹の方がよくなったと求婚者を急に変えて、しかもまんまと騙されて帰国してくることにも平然としていた。内心はわからないが、自分はもう世間からはそう見下されている、見下されてきたものなのだ、という開き直りの強さがあって、それが男たちにはどこか愛嬌と尊敬の念を抱かせていたかもしれない。そんな彼の霊が、私を誘いに来るのではないか、身近な人の死はつづく、という迷信の存在を、私は遺体の衝撃を忘れるように、用心した。ちょうど、高木剪定の危険作業が仕事では続いていた。「○○さん、俺を連れてくんじゃなくて、守ってくれよな」、そんなことを思いながら、木を切っていた。

そして、女房の母親が死んだ。通夜も葬儀もせず、遺影も線香もなく、老人ホームから町屋の斎場へと送られ、死の翌日に火葬された。住まい近所の斎場で1週間ほど待ってから荼毘に付された監督さんと、同じ日だった。私は午前中は監督さんを見送り、午後は義理の母の遺体に対面した。ふくよかだった面影はなく、やせこけて、ミイラ同然、そう私はおもった。息子の一希は、どう感じたのだろう? 何も感じてないようにうかがえた。焼き終えるまでの待ち時間が耐えきれず、散歩に行ってくると斎場を出て行き、骨を拾う儀式には居なかった。だいぶん経っても戻ってこないので、私も周辺を捜しにいった。駅の繁華街の方ではなく、むしろ自然がある方を選ぶだろうと、土手越えの歩道橋を渡ると自然公園があるらしいとわかったが、これ以上時間をかけて捜しにいくとすれ違うだろうと思われ、引き返した。斎場入口まえで、息子と出くわした。「白鳥がいたよ」と息子は言う。「エサやりに慣れてるのか、口笛を吹いたら、寄って来た。」

私はそのとき、息子に不平を言ったが、しばらくしてふと、その白鳥が祖母だったのではないか、私たちが骨を拾っているあいだ、息子はおばあちゃんと会っていたのかもしれない、そんな思いがひらめいた。そんな閃きを信じているのか、そう想うことであの遺体の現実から逃避しようとしているのか、私には判然としなかった。

2017年9月23日土曜日

映画『ひかりのたび dream of illumination』を観る――北朝鮮情勢をめぐって(2)

「絓 …(略)…柳田は基本的に天皇制は祖先崇拝ということで、縮小した敗戦後の「日本」の版図をまとめた。この祖先崇拝というのは、基本的に呪物としてのコメを作る農民をベースにしてるわけです。農民ってのは先祖代々土地に縛り付けられているから、祖先を崇拝するわけだ、と。それで農業で食っている人口は戦後はまだ四~五〇パーセントくらいはいたんですか。敗戦後も、農民人口は明治維新時と変わってない。で、農民ベースに考えれば、祖先崇拝=天皇制は護持できると、柳田は、あるいは戦後日本は、考えたわけでしょう。…(略)」
「絓 ところが、ドゥルーズ/ガタリの戦争機械というのは、本来的にはそれをまったく外部的なものだと想定しているから、「土地」への執着がないということになるわけですね。こうしたドゥルーズ/ガタリ的な考えに由来して、日本でも、一時は(今も?)「ストリート系」と呼ばれる運動がもてはやされました。「だめ連」とか「素人の乱」とかは、その代表的なものだし、いわゆるニューアカ以後の若い学者たちが、いろいろ意味づけしていました。おれは、ストリート系の運動の意義を認めないわけではないけれど、「土地なきパルチザン」というのは、本当に可能なのか、かなり疑問なところがあります。詳述は省くけれども、それはつまり、キャンパスでビラも撒けないことを良しとするSEALDsに帰結してしまったわけでしょう。」(堀内哲編『生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ』第三書館」)

先週だったか、映画「ひかりのたび」を、雨の中、観に行く。新宿駅まえの通りは、神輿をかつぐ祭りの男女でごったがえしていた。私は、監督の澤田サンダー氏のことは知らないが、副島氏がHPで推奨していたことと、撮影場所が地元の群馬(中之条)だということもあって、観に行く気になった。鑑賞後、モノクロで静かな断片性で終わるこの映画を、どう受け止めていいのかとまどった。副題に、光の夢、とあるのだが、なんでそうなのだかわからない。最後、高3のひとり娘がバイトするレストランが夜の暗闇に消えていくのだが、その背後の森で、懐中電灯か何かの光が踊るように点滅して動き回っているのがうかがえたのだが、それはどこか手旗信号か、モールス信号のようで、注意深い鑑賞者へメッセージを伝えているのか、とも思えた。もしかしたら、「illumination」とは、啓蒙の意味の方なのかもしれない。では、だとしたら、何を?
映画上映の時間にはまだ間があったので、紀伊国屋書店に立ち寄っていた。その際買ってきたのが、上引用の著作である。そして帰宅後読みながら、まさにこの映画の解説になっているのではないかと、思えてきた。とくには、引用した絓氏の発言などにである。

映画のストーリーは、水資源にもなる山を代々受け継いできた元町長をはじめとした地元の人間と、そこへアメリカ人の注文でそれらの土地を買占めに派遣されてきた、不動産ブローカーとの人間模様である。冒頭、自転車に乗った女子高生、ブローカーの娘が、山林を背景に広がる田んぼ脇の坂道を疾走するところからはじまる。その構図からして、この映画の社会背景が、新自由主義的なグロバーリズムと、絓氏が指摘する戦後柳田的な日本の伝統的体制との相克が意識されていることが伝えられている。元町長もしまいには、奥さんの病気や選挙での敗北を受けて借金をおい、土地を手離すことになる。ブローカーは、職務的な忍従と優しさで客を獲得していったようだが、その仕事上の誠実さを評価されながらも、「やっぱり売らないほうがいい」と悔いを残す客の意識において嫌悪されている。元町長も、売り払ったことを町の人々に知られたくない、わからないように引っ越しをしてくれと、苦し紛れのような哀願をし、東京への転属を告げるブローカーを非難する。その一方で、娘は、はじめて一つ所に4年もの間とどまり友達もできたことから、たとえ父親の仕事でつらい目にあわせられることが予期できたとしても(学校で自転車がパンクさせられたりしている)、この地方にとどまって仕事を捜したいことを父親に告げる。東京や海外での進学を進める父と娘は、そんな進路をめぐって対立していたが、バイト先のレストランで、うたた寝をしていた父がコップの水をこぼして店員に平謝りを繰り返す様子をみて、娘はその滑稽さに安心したように微笑みを浮かべ、父に返す。父親も、娘が自分を受け入れ許してくれたような安心感を得たように、ほっとした笑みを返す。この二人の微笑みが、町長をはじめとした地元の人のネガティブな感情、醜さとも受け取れる様子とモノクロ的な対照さを際立たせている、といえようか。

ゆえに、だろうか、評価は、故郷を守る地元の人間倫理よりも、故郷のないと言える親子の、自立していこうとするひたむきな態度に、好印象がでるようだ。たとえば、まさに柳田の『遠野物語・山の人生』をあげて、この作品を評価している学者もいる。おそらく、アーティストの澤田氏も、世間的な勧善懲悪(よそ者を叩く)に疑義を呈したい態度の方が強い傾きがあるだろう。それが、「啓蒙(illumination)」ということであり、作者の公平への願い(dream)なのかもしれない。

が、故郷とは、あるいは「土地」とは、そういうものだろうか?

このブログ「北朝鮮情勢をめぐって」で、私はプーチンの、「北朝鮮は雑草を食ってでも、自分たちが安全だと思えるまで核開発をつづけるだろう」という発言を引用した。暗黙には、本土決戦も辞さない覚悟だろう、ということを含むだろう。私は、ニュースで、勇ましい体制側の意志を暗唱してみせる北朝鮮の民衆のその言葉を、文字通り受け止める気にはならない。植木屋に成り初めのころ、中国は上海からきた青年と一緒に働いていたが、その彼が、毛沢東が死んだときみんな号泣していたけど、あれは嘘泣きだからね、と言っていたのを思い出す。戦時中の日本でも、天皇に対し、似たような面従腹背だったろう。しかしそんな本音と、「雑草を食って」でも命令を遂行していく態度とは両立する。現に、ジャングルでの日本兵だの、そうだったと言えるわけだ。同じように、今の日本人は、内心はアメリカのことを「ふざけんな」と思っていても、自分たちが「雑草」を食うようになっても、アメリカに貢いでいくだろう。こっちは体張って戦争をしているんだぞ、だすものだせ、との脅しに屈する習慣性、その脅しを道理として変換させて自分を安定化させていたほうが、自分を変える勇気をもつより楽なことだろう。「雑草」を食うなどと経済的には不合理な現実を突きつけられても、自分のメンタル的な合理性にまず従ってしまう傾向を、人はみせるだろう。――しかしならば、現在、日本はアメリカの脅しから逃げる現実的な文脈があるか? 沖縄基地問題をめぐり鳩山氏が総理を辞めることになって以来、そう言い張る潜勢力が沈滞してしまったように伺える。短期的には、戦争させられるならその参加を縮小させ、金を出させられるならその金額を値切る、ぐらいのことしかできそうにない。いやそうやる勇気ぐらいはもった政治家は誰なのかな、と探ってみることぐらいだけが、現実関与として有効、というようにしか私には見えない。来月の選挙で、共産党が政権をとるぐらいにでも躍進すれば、また自立を志向する現実的文脈、大義名分がだせるかもしれない。そういう現実的変化なくアメリカへモノ申しても、人間的に道理がわからないおかしな奴、としか思われまい。

しかし、選挙を通した代表制(間接民主主義)だけが、現実有効な文脈、潜勢力を作っていくわけではないだろう。しかしその実践は、あくまで中・長期的な持続意志によるしかない。冒頭著作の編集者の堀内氏は、現に「共和制」を目指して運動している実践家だから、短期も長期もないかもしれない。が、現在ある選択に辟易している私には、そうした道筋を示して手続きしている氏の作業を知って、だいぶ共感する。私もこのブログで、9条よりも天皇条項のほうが問題で、そっちを改革する方が先だ、とか表明してきた。「共和制」という言葉も、使ったかもしれない。ただ私のそれは、坂口安吾の、「人間にできることは少しづつ強くなることだけだ」という言葉への共感による。安吾の天皇制批判は、その制度が日本人を真に「堕落」することを防いでいる、邪魔している、逆にいえば、天皇を差別化して日本人が甘えている、防波堤として利用しているということにあったろう。さらに哲学的につめれば、その態度は、スピノザの自然観を私には思わせたが、それも、浪人中から学生中によく読んだ、柄谷行人氏の『探究』経由である。

本土決戦……覚悟していようといまいと、その戦争を仕掛けようと回避しようと、すでに公的に言ってしまった言葉の習性に押されてやってしまう事態になる、というのが人間の歴史(「言葉と悲劇」=柄谷)でもあるようだ。ジャーナリストの間では、すでに今回の北朝鮮との戦争は、表向きの過激な舌合戦とは別に、対話・交渉解決へ向けて動いている、という話もでている(世に倦む日日田中宇の国際ニュース解説)。絓氏の「土地」への現実感は、イスラエルを連想させ、澤田氏のそれは、ISな感じ、と言えるのだろうか? 実践的な運動経験もほぼなく、次男坊だからというわけでもないが地元を離れて暮らしている私には、ブローカー親子への共感、もちろん、逆境にもめけず微笑んだ、そういうシーンに促されてだろうが、遊動民的な在り方への共感の方が生活実感だ。しかし地元といっても、その多くの人びとが、ちょっと前世代からそうなっただけであり、群馬の山民も、もとは移住民だったはずで、私の職場が三代目だといっても、じいさん世代は旅人的な渡り職人、非常民である。しかし確かに、闘うには、根城があったほうが有効なのかもしれない。植木屋として独立しようにも、脚立や道具、トラックを駐車できる土地が確保されていなければ仕方ない。暴力団世界でも、新地に進出する場合は、事務所を持つようだ。大阪からはじまった柄谷氏中心のNAMでも、東京に事務所を開いて、私は最後は事務所番みたいな活動をしたことがあったが、なんもおこらなかった。

澤田氏の、この「土地」をめぐる葛藤、農民的なロマンチックな祖国と、やはりローマン的にもみえる遊動民的な居候性――その描写が、嫌味なく受け止められるのは、やはりあの少女の笑み、による気がする。別段、コップの水をこぼしたのが父親ではなくとも、それを大した問題だと平謝りする人の真面目さを滑稽なものとして受け止めた上でほほ笑む、ことはリアルな話だと、私には思える。つまり、彼女の態度は、父―娘という家族関係を超えて、より普遍的な位相から発したもののように、私は受け止める。滑稽として受け止める客観性、自分を突き放した冷静さと、だからあざ笑うのでもばかにするのでもなく、ほほ笑むという寛容性、他者を受け入れる振舞い、彼女が、そんな倫理を実践できたのは、何故だろうか? おそらく、「土地」とは関係がないだろう。単に、面白いことがみれたのだ、滑稽なことが。だから、彼女はまず、自分を他者として見出し受け入れただろう。それが可能だったのは、彼女が、「土地」から遊動している在り方だったからだろうか?

北朝鮮の民衆は、真面目にインタビューに返答する。現体制と金委員長を称えるその身振りは滑稽である。おそらく多くの日本人は、その様を軽蔑する。しかし彼女は、ほほ笑むのだ。

このほほ笑みは、「土地」にまつわるものから来るのだろうか?

2017年9月7日木曜日

夢のつづき(7)――ドストエフスキーをめぐって

「メッシがパナシナイコスのゴールへと走るあいだ、シャビ、イニエスタ、ペドロは、ディフェンス陣の数学的特性を解析したわけではない。おそらく、自分の行動について頭で考えてもいなかっただろう。スペースへと動き、足元にボールを直接パスするという単純な法則に従っただけだ。試合後の分析で、彼らのパス・ネットワークの数学的な規則性を絶賛することはいくらでもできるが、一連の動きは彼らのプレイスタイルから生まれたものだ。天敵から逃れるために一瞬で広がるという魚群の動きが、個々の魚の動きから生まれるのと同じで、ゴールも選手たちの一連の単純な動きから生まれるのだ。
 先ほどのメッシのゴール、そして多くのゴールは、はるか昔につくられた一連の法則から生まれた。バルセロナは、選手の育成組織として名高い「アヤックス・アカデミー」にならってラ・マシアを設立したとき、アヤックスだけでなく何百、何千万年という進化によって裏づけられたシステムを取り入れていたのだ。粘菌は三角形の使い方をマスターし、魚は速度の調整や空間の使い方をマスターした。バルセロナはこうしたスキルすべてをマスターできる選手を育てたかった。ラ・マシアが若い選手に教えなければならなかったのは、高度な幾何学ではなく、正しい運動の法則だった。こうしたパス、動き、身のこなしの法則は、練習場で確率されたものだ。メッシはペナルティー・エリアの外側でパナシナイコスの9人の選手と相対したとき、頭で考える必要もなかった。メッシは、彼にとって世界一単純で自然な動きを実行したまでなのだ。」(デイヴィッド・サンプター著『サッカー・マティクス』 千葉敏生訳 光文社)

エマニュエル・トッドの家族人類学とされる考察を読みながら、中学生の頃から読み始めていたドストエフスキーをめぐる中断されていた思考をおもいだしていた。私がこの世界文学的作家において気にかけていたことは、いくつかあるが、なかでも一番素朴なものが、『カラマーゾフの兄弟』における、三人兄弟のあり様だった。長男が一途になって、次男が懐疑的になって、三男が素直な感じの子になる、そう物語的に設定される。いやそれが物語としてではなく、現に三人兄弟の次男坊であった私は、自分の兄弟だけでなく、身近に知っている友人たちの三兄弟、三姉妹においても、似たような傾向があると気づいていたからだ。そうして、そこから物語世界を参照してみると、三匹の子豚やシンデレラ、ジョン・ウェイン主演のエルダー兄弟など、いろいろ当てはまることがありそうなのだ。日本の昔話や逸話にはなかなかみつからないのだが、三本の矢はだいぶちがうが、鎌倉幕府を開いた源頼朝三兄弟は、そう言えなくもない。もちろん、実際問題として、たとえばサッカーなどでは、サッカーを果敢に初めに試みた長男よりも、次男の方が日和見的になって、それが周りとの関係でポジショニングをとっていくこのスポーツにはむいてくる、とかの傾向は発生しやすい。長男だけのチームだとボールしか見ていない子の集まりになるが、次男坊がいるとシステムが安定する、三男とかの末っ子となると、もう単に甘えん坊に近くなるので、違った次元で大変になる、とかは私自身の指導下でも見受けられるものである。が、とにかくも、私は、この類型的なるものはなんなのだろう、というのがこの大作の一番の疑問だったのである。

トッドを読むことで、三十年以上も前のそんな疑問に、一つの解釈が出てくることに気づいた。人類にとって原初的に想定される核家族の変遷的な在り方の一つに、末子相続的な型がみられるという。長男、次男、と家を出て行くので、両親の面倒をみるのが末っ子になってくる自然的推移があるのだと。この原初的バイアスに、後の文明発生地としての、父性原理を明確にした共同体的家族なるものがぶつかる。もちろんロシアも属すユーラシアの中心付近とは、その文明発生地に近い。ゆえに、トッドによれば、ロシアが共産主義という父権的な共同体家族主義を全面的に受容するようになるのは、当然な事態である。しかしもちろん、原初のバイアスがなくなるわけではない。また、地域によっては、そのバイアスは強く残存したりしているので、受容の強弱葛藤に、まだら的なグラデーションが伺えるようになる。ドストエフスキーの時代にあっては、あるいは作品にあっては、文明的(共同体家族)な皇帝と教会、それを転換(代行)させようと企てる社会主義と、そして異端的な宗派との葛藤である。亀山郁夫氏などによれば、三男坊のアリョーシャは、異端的な宗派の方から、社会主義に関わり、皇帝暗殺をたくらむグループへと接触することになるだろう、というような話になる。いいかえれば、核家族的なバイアスを担う末っ子的な役割存在をなぞっていくのだ。そしてむろん、この末っ子が説く思想、価値、愛とは、ゆえに原初的な核家族的なものが核になる。

<いずれにせよ、このトッドの分析は、階級が消え、もはや個人と国家しか残っていないように見える現代世界にも、アイデンティティの核として家族(家族形態)がしぶとく生き残っていることを示している。ぼくがいま家族の概念の再構築あるいは脱構築が必要だと判断する背景には、このような研究の動向がある。…(略)…
 家族についてふたたび考えようという僕の提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとしても提示されている(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。柄谷が国家(ステート)と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼくは国家(ネーション)と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が支える新しいアソシエーションについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。つまりは、ぼくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。>(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』genron)
 
そうして、東氏は、この著作の最後を、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を素材に論考した。そしてこの論考の動機の一つは、山城むつみ氏の「カラマーゾフ」を素材にしたドストエフスキー論への応答でもあるという。私の当時の理解では、山城氏は、むしろ、3.11での原発災害を受けて東氏が説いた確率論的世界観への批判として、ドストエフスキー論を提出したのである。原発の災厄に見舞われた親たちは、なんで自分の子どもが犠牲にならなくてはならないのか、と苦悶しただろう、それは、放射能がそうは襲ってこない地域の子どもを抱える親にとっても、身を切るような煩悶だったはずだ。そうした最中に、山城氏はわが子の「復活」を「カラマーゾフの兄弟」から読み込んだのである。私はそれを読んで、救われたような気がしたのを覚えている。ブログにも書き込んだ。私の文脈で、トッド氏と柄谷氏が交錯したのは、封建制、「私の中の日本軍(部活)」、ということをめぐる思考過程からだったろう。いま、改めて、3.11の騒動の最中に書かれた山城氏のドストエフスキー論に動かされて記したブログを読むと、その冒頭引用が、<夢>の記述であることに気づかされる。その記述を、時季を経た今さらの文脈で読み返してみると、このフロイトによってファミリーロマンスとして解釈され、あくまで近代的な仮説として理解されてきた夢が、実は、人類の原初的なバイアス、抵抗の痕跡・衝動なのではないかと伺われてくる。ならば、核家族の核(価値・思想)とは、「おのれみずからのごとく他を愛せよ」、ということになるだろう。

私たちは夢の中にいる。家族の中にいる。しかしならば、その関係は、環境適応の中にあるわけではない。夢の中にあるのだ。メッシが夢の中で打つシュートは、ゴールへと向かわないだろう。

2017年9月6日水曜日

北朝鮮情勢をめぐって

「私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。三光作戦の藤田中将のように「戦争とは殲滅だ」といい、浅海特派員のように「戦場は百人斬り競争の場」だと書き、また本多氏のようにそれが、すなわち「殺人ゲーム」が戦場の事実だと主張する――この人々は、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だがもう一つの人びとにとっては、戦場が殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく殲滅される場所なのである。
 その人びとはわれわれであり、全戦の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を超えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。」(山本七平著『私の中の日本軍』 文春文庫)

私が、現在のきな臭い北朝鮮情勢をめぐる状況のなかで、中学生になる息子に一番まず伝えておきたいことは、「人はその時突然変わる」、ということにこだわった漱石の認識になるだろう。部活のサッカー部にも、韓国からきた下級生がいるそうだ。まだ日本に来て一年目なので、日本語もままならないので、部活をやめるかもしれない、という話を息子からきかされている。大久保でのヘイトスピーチをみても、おそらく、北朝鮮と韓国の区別を、日本人が明確にしうる歴史経緯は内面化されていないだろう。戦前・戦時中も、昨日まで仲良く遊んでいた在日の子どもたちに対し、国の明白な態度変更とともに、子どもたちもが突然と変貌して排他的になったことが伝えられている。そうでなくとも、すでに私は、子どもたちへ教える少年サッカークラブでも、いわゆる昔の運動部的に子どもをいじる(しごく)ことでチームを強くしていこうとする指導の体制になってきたようなので、私は引退すると表明している。父兄にしても、また半分のコーチにしても、そういう方針でチームが強くなるわけでもなければ、そういうふうに子どもを強くすることに疑問な声なのが多数的なのだが、結局は強気なことを言うコーチの方針にバイアスがかかっていく。別にそうした方針に興味のない親は、単に練習に子どもを参加させることに熱心でもないし、参加したら参加したで、体力ないからとマラソンをさせられるのでは、子どもも面白くないので、来なくなる。そしてそうした成り行きの自然性を、そんなコーチも認識している。がゆえに、なおさらかたくなに、その正しい方針を貫くことが、大きくは世のため人のため、と思っているらしいのである。そしてその想念が、暗黙には日本的というか世間的な理念的前提、ということに若い親たちもが共有しているので、声をあげるのではなく、単にそこから遠ざかるか適当に距離をおいてかかわる。子どもには頑張ってもらいたいので、素直に手なずけるしつけの難しさもあって、それを他人がやってくれるのならと、黙って見過ごしていくことによって、少数派のコーチの声がヘゲモニーとして通ることになる。私も、息子がもうそこにいない現場で、権力闘争のようなことをする気力はない。

少年サッカーの一地区理事会でも、私ぐらいの世代だと、大半は野球部だったりするが、部活は「軍隊」のようだった、という比喩は共有される。そしてそこでも、強気な発言をする少数派が、体制・風潮を作ってしまう。山本七平氏の冒頭にあげた著作などを読んでいても、そう述懐されている。そして私自身が、そんな声高の少数派の一人であったろう。戦時中だったら、そのまま大人になれたかもしれない。が、戦後の民主主義的な原理も発育させていた旧制の中学から進学校になった高校では、建前上は後輩に対するシメのような儀式はやはりあったのだが、進学校に入学してくる者たちのほとんどは要領を得た個人主義的な地区のエリート―なので、そんな集団儀式には冷めているのだった。シメを行うのは、山本七平氏が初年兵への体罰をするのは2年目の兵士だと指摘しているように、部活でも2年生の役割だった。3年生は、見ているだけだ。2年生の私は、頭のいい子どもたちの要領のよさと、そういう者たちのニヒルさこそがここでは風潮を作っていくらしいことに不安と疑問、同時に中学までの自分を懐疑しはじめていたけれど、それまでに肉体化された習慣と、むしろまわりの冷めた二リルさに対抗するように、新入生に声をあらげた。「自分の声だって聞こえなくなるんだぞ!」と、すでにレギュラーで試合にも出ていた私は、スタンドの応援でかき消される声を例にだして、球拾いする下級生に、なっとらん、と叱っていたのだった。すでに自分でいいながら空々しい憂悶を抱え込んでいたが、自分はその葛藤を処理できなかった。今では、その時の自分、あるいは中学までの軍隊的部活を全否定的に対処することはできないと知的認識しているので、もっと方法的に対処して、サッカーを通して、子どもたちに指導してきたことになるだろう。といっても、その方法が自覚されてくるまでには、息子がまだ低学年の頃には、おもわず軍隊的な名残でやってしまって、その瞬間すぐさま知的に内省されて修正する、そんな過程を通らねばならなかった。私の父親には、そんな修正は必要がなかった。しかし、もともと無理がある強要指導になるので、いつしかは優しい父の地のままになる。が、知的対決をしていないので、もし父が若返ったら、やはり同じ教育を繰り返す他ないだろう。

プーチン大統領は、北朝鮮は、自らが安全と感じるまで雑草を食ってでも核開発をつづけるだろう、と発言しているようだ。彼らが戦後の日本人のように身代わり早い習性の人たちなのか、本土決戦をも辞さない覚悟な者たちなのか、は知らないが、私たち日本人は、プーチンが披露した北朝鮮の気概を理解できる過去(文脈)は持っている。その痕跡経緯は、若い世代でもなおなくなっていない、と私はおもう。が、そこから自分の立場を探り言語化する営み、訓練、知的対決をしてきただろうか? 単に、長いものに巻かれて当たりさわりのないことをいってその場をやりすごしていく、そんな良い子の態度の文脈しかみえない。潜在的には、日本の思想史を振り返ってみても、連綿とつづいた模索があるのだが、現実に働きうる潜勢力としてはどこかへいってしまったようにうかがえる。もはや、戦争はしょうがない、それが諦めではなく、良い子の理性的な判断としてあるようなマスメディアの風潮に伺える。だから、戦争を肯定する声高の少数派がでたら、自分のやましさから押し黙ることになるだろう。やましさとは、本当はしたくない、暗い世の中はいやだな、と生理的に思うことだが、理性的、冷静な判断で戦争を是とする趨勢の中で、そんな私事的なこと、弱音は声に出してはいけないのではないか、と黙ってしまうのである。そして声高の少数派には、「戦争反対」と叫ぶいわゆる運動家の人たちも入ってしまうだろう。それは、自分の過去を、私の中学時代までを全面的に否定することで現在の私を定立している人たちのようなものだ。自分の弱さにとどまって対決することをすり抜けて居直ってしまった反動家の言葉に、人を説得させる認識が孕まれているとは、私はおもわない。ただ、それでも戦争を遂行させる声高の人たちよりはマシなのかも、とおもうだけである。しかし、あの戦争を遂行させた軍隊と、戦後の民主主義を遂行させてきた勢力が、実は同じ穴のムジナだったとは、戦後の日本思想で自覚されてきたことではなかったか。

戦争になっても、いつも通りでいろよ、私が息子に言えるのは、とりあえず、そんなことだけだ。結局は、私は、そんなことしか考えてこなかったのか?

2017年8月31日木曜日

夢のつづき(6)

「人間がネコを認識するときに「目や耳の形」「ひげ」「全体の形状」「鳴き声」「毛の模様」「肉球のやわらかさ」などを「特徴量」として使っていたとしても、コンピューターはまったく別の「特徴量」からネコという概念をつかまえるかもしれない。人間がまだ言語化していない、あるいは認識していない「特徴量」をもってネコを見分ける人工知能があったとしても、それはそれでかまわない、というのが私の立場だ。
 そもそも、センサー(入力)のレベルで違っていたら、同じ「特徴量」になるはずがない。人間には見えない赤外線や紫外線、小さすぎて見えない物体、動きが速すぎて見えない物体、人間には聞こえない高音や低音、イヌにしか嗅ぎ分けられない匂い、そうした情報もコンピューターが取り込んだとしたら、そこから出てくるものは、人間の知らない世界だろう。そうやってできた人工知能は、もしかしたら「人間の知能」とは別のものかもしれないが、間違いなく「知能」であるはずだ。」
「そして、そうして得た世界に関する本質的な抽象化をたくみに利用することによって、種としての人類が生き残る確率を上げている。つまり、人間という種全体がやっていることも、個体がやっているものごとの抽象化も、統一的な視点でとらえることができるかもしれない。「世界から特徴量を発見し、それを生存に活かす」ということである。…(略)…私の研究室では、ディープランニングをこうした選択と淘汰のメカニズムによって実現しようという研究を行っている。組織の進化も、生物の進化も、脳の中の構造の変化も、実は同じメカニズムで行われているのではないか。そう考えると、個人と組織、そして種との関係性は思ったよりも密であり、そして「システムの生存」というひとつの目的に向けて、備わっているのかもしれない。」(松尾豊著『人工知能は人間を超えるか ディープラーニングの先にあるもの』 kadokawa)

アパートをさがしている。どうも(たしか)、夫婦げんかをしたからなようだ。そこで、学校を休んで、東京の街中を歩いてさがしている。(ということは、私は息子のイツキの立場に重なっている、ということか? そもそもこの夢は、その日の午前、イツキと女房で勉強をめぐるバトルがはじまったことを受けているのだろう。前もって逃亡を防ごうと女房は自転車を隠していたので、イツキは激しい雨の中、歩いて知り合いのジイサン・バアサンの所へ避難しに行っていた。)今住んでいるアパートは、私が学生の頃借りていたもののようにオンボロだ。どうも(たしか)、豊島区の方に近い街中に、いいアパートをみつけた。(ということは、「初夢」として見た今年の夢のつづきでも、あるらしい。)年があけたら、移ろうとおもう。保証金は払ってきたが、夫婦喧嘩か、仕事がうまくいったら、引っ越す必要がなくなるかもと、状況を見るために、しばらく(年末のことのようだ)、実家に帰ることにする。母との折り合いがつけば、移らなくともすむような気がする。洪水が起きる。ナイル川が氾濫する。その規模を示す世界地図、アフリカを中心とした地図が解説として映像に出てくる。洪水は、アフリカ大陸の西側までは広がらず、借りてきたアパートは大丈夫だとわかり、安心である。(どうも、西側のナイジェリアの辺にアパートはあるらしい。)というか、洪水になってもそこまでいかないという知識が前もってあるようで、平然なようだ。母が、以前のオンボロ・アパートを訪れたことがあるように、新しいアパートに移ったら、やはりまた訪れてくるだろうか、と思ったりしている。(女房と母が重なっているようだ。)そうこう思っているうちに、夢に気づき、目をつむったまま、この夢の分析をはじめていた。洪水を恐れていない。また寝ると、忘れてしまうので、起きてメモにした。4時半ごろ。寝たのは10時ころか。映像の少ない夢。というか、これは夢なのだろうか? わかりやすすぎる。その雰囲気も、夢の中というよりは、意識的な感じだった。浅い眠り。

その晩(つまりは、夢を見るまえ)、NHKの「ファミリー・ヒストリー」での、オノ・ヨーコの特集をみていた(女房も大会社の社長の娘だったので、重ねているのだろう)。「あの子は(サッカーでは)立ってるだけ、(勉強では)写しているだけ。一生懸命やることを覚えさせるのが大切だ」と、なにかの拍子でまた夫婦喧嘩になって、女房、以前の「人として最低限のことは覚えさせる」という論理とは違った理屈で、自分の暴力を正当化してみせる。そこで私が反論した理屈。「オノ・ヨーコが、結婚して子供ができたら、九九が覚えられないといって蹴とばすか? そうやって子供を追いつめるか? 黒沢美香が、子どもを産んでそんなふうになるか? そうした途端、自分がやってきたダンスが偽物だった、まがいものだった、ということになってしまうんだぞ。」「そう生きるには、覚悟が必要なのよ」「俺は文学をやっている。就活などしたことがない。今日ここで喧嘩していられるのも、植木屋で仕事がないからだ。あの時死んでたら、いまどうなっている?」――その二日後か、お盆で帰省した際、母がイツキのことを心配しているから電話をかけてくれと兄からメールを受けていたので、実家に電話した。母は、私と女房が、私がプリントしてきた谷川岳の地図をめぐりちょっとしたいざこざになった際、イツキが下を向いて悲しい表情をみせた、という。「あれは、虐待でしょ。(と、実家に帰った際も宿題をやらせようとする女房とイツキのやりとりを、何年もみてきたので。)児童相談所に言ったほうがいいのではないの?」「あれでも、だいぶおさまってきてる。」「何かあったら、こっちに避難させてもいいから」「突発的なことがないかぎりは、大丈夫だよ。」

夢は、「システムの生存」が私たちの目的なのかどうか疑わせしめる。死への衝迫の感触は、環境適応とは別の論理、潮流の在り処を私たちにほの見えさせてくれているように思える。

2017年8月19日土曜日

夢のつづき(5)

「人間の記憶はある種のビッグデータ処理機と見なしてよいと思う。サヴァン症候群の患者は、記銘力と芸術的能力において特異な才能を持っていると言われている。…(略)…サヴァン症候群の患者は、驚くべき量と正確さの記憶力を示す。一方、健常者の記憶は正確ではないし、裁判での証言者の記憶は不正確である。証言者の記憶は解釈の都合で如何様にも歪んでしまう。これは人間の記憶特性である。コンピューターのように一次元のメモリアドレスから正確に参照される類の記憶とは異なる。その代り人間の記憶は脳という記憶空間内に、幾重にも重なって畳み込まれていると考えられる。このとき潜在意味分析の如く特異値分解でキーベクトルを与えたときに想起される内容が人間の記憶と同一視することができると考えるならば、人間の記憶とビッグデータとは親和性が高い(人間の長期記憶と潜在的意味分析、あるいはその元となった特異値分解)と考えることができよう。さらに自動符号化によって抽象化が起こると考えるならば、…(略)」(浅川伸一著『ディープラーニング、ビッグデータ、機械学習 あるいはその心理学』 新曜社)


「事物の認識はこの関係によってこそ行われるのであって、実は見かけ上の類似性などは意味をもたないのである。抽象とは外観に現れたかたちの抽出ではなく、この具体性にもとづいた認識であり、判断である。」(岡崎乾二郎「抽象の力」)

↑↓

「もう一度出発点に立ち返って、機械の画像認識を向上させるために何が必要かを考えてみたい。図7・4を見ると我々は、画像には幼児の顔が写っていて、その子が何か(スクリュードライバー…引用者註)を手に持ってこちらに向けている、という状況を理解できる。畳み込みネットワークを使って制限ボルツマンマシンを重ねれば、この状況を察するユニットが形成されるのだろうか? 素朴には答えはノーであろう。このような状況をモデルに理解させるためには、古典的な人工知能の手法を取り入れて宣言的知識をシステムに与えたくなる。
 しかし、そうする前にまだなすべき仕事は残されている。マーガレット・ウォリトン(Warrinngton. 1975)は、意味記憶が視覚的記述と機能的記述に分かれている可能性を指摘した。すなわち神経心理学的には、視覚の対語は聴覚でも運動でもなく、機能である。人間の意味記憶障害では動物と非動物とに大別される。動物は視覚的に記述されることが多い。トラとチーターの違いは、主として視覚情報の違いによる。ところがイスとテーブルの視覚情報にはそれほど差がない。同じ素材で作られていて、同じ色をしていることもあり、同じ場所に存在し、どちらも四足であり、かつ、大きさもそれほど違わない。縁日で売っているミドリガメとゾウガメの大きさの違いの方が極端である。イスとテーブルの違いは主として、どのように使われるかという機能によって判別される。…(略)…視覚情報だけでなく機能情報も同時に与えて制限ボルツマンマシンで多層化して視覚情報に機能情報を連携させれば、動物と非動物の二重乖離という神経心理学的症状を説明するモデルができるだろう。その知識を使えば、ディープラーニングは図7・4の画像をスクリュードライバーと認識できるのではないかと思われる。」(浅川・同上)

・もし、健常者をぶんなぐってサヴァン症候群が成立するなら(事故でもいいが)、それは異常さの中に普遍性が見えてくる、ということではないだろうか? 私が主観(自我・意志)を超えて、捨てて、ぼんやりとモノを見ているときにこそ脳みその力が発揮されているのだとしたら? モノを見ている者が、私以上の者だったら?

・心理学的視点から、「機能」に着目したのは面白いとおもった。が、「機能」は一義的だろうか? さらに、この図7・4の赤ん坊は、それをスクリュードライバーとして使っているのか? そんな通例的な「機能」ではなく、その道具の有限性的な限定から、想像力豊かに「機能」を新しく創りはじめている、というのが赤ん坊(子ども)の現実だろう。たとえ私たは、その新しさを、既存の社会的枠組みに触れたときにだけ、「ああそうしようとしていたのか」、と新鮮な感動を覚えるだけであっても。つまり大概な用法は、理解できないのだろう。

・中学生棋士で有名になった藤井氏が、モンテッソーリ教育を受けていたことが注目されている。→<しかし《フレーベルの教育遊具》は、その演習が、あまりに詳細な操作方法まで指定されていたことによって形式的すぎる、儀式的であるという批判もされていた。ここまで詳細に事物との関わりに指示を与えてしまうと、児童の自発性、自由はむしろ抑制されるのではないか。後続するモンテッソーリの《教育遊具》はそもそもマリア・モンテッソーリ(1870-1952)が知的障がい児の知能向上育成にあげた驚異的な成果をもとに発想されており、事細かな指示がいっさいなくても、ただ遊具と具体的に接していれば自動的に思考や感情が促されるように工夫されていた[fig.109]。まさにモンテッソーリの《教育遊具》は主知的な指導がなくても事物が身体を触発し、知性を生成させるという発想に基づいていたのである。

《感覚教育》として知られる、そのメソッドは以下のようなものだった。身体的な運動およびその感覚から、抽象的な概念、法則性の理解を自動的に促すこと。そして身体的な交渉、試行錯誤を繰り返すことで、その過程で与えられる具体的な感覚、感性的感受から高度な抽象概念の習得へと導くこと。すなわち事物との関わりこそ知性を維持し育成するきっかけになる。むしろ知性を誘うのは事物である。人は事物に触発され考えさせられるのだ。触発すなわち事物が与える感覚が人間を育てる。>(岡崎・同上)
私も、子どもへのサッカー指導から、オランダのトータルフットボールがどうして実践しうるのか、と調べてみて、その新しい教育実践のことについて知った→<オランダでは、1960年対後半、そうした制度から、いじめ問題が深刻化しました。オランダ人は、その原因を、近代国家によって導入された一斉集団授業という形式に問題があると原因特定しました。それゆえ、学校創立に自由を与え、生徒が一定数集まって場所もあると証明できれば、私立でも公立と同じく予算をだし、先生の給与全額を国が負担するという政策をとったのです。結果、ドイツはナチス政権下で弾圧されていた新しい教育理論を採用する人たちがあらわれ、一つの地区に色々な方針を実践する小学校が現れた。要約的にいえば、授業から「学習」という形態に移行し、それは近代以前の日本の寺小屋に近いです。教壇はもうなく、1から3年までが一緒の部屋 で勉強し、先生は個人の発達レベルにあわせた課題を与えて、定期的に、4人ぐらいのグループを作った机の間を見回ったり、床にすわっています。宿題を終えた子は廊下にでてもっと好きな勉強を一人ではじめたり、先生がレベルの高い自習問題をあたえます。そしてこの風潮は、なお数量的には主流にはならないとはいえ、EUを離脱したイギリスを除いて、ヨーロッパの理念的なメインストリームになっているといっていいとおもいます(最近の難民問題で次の課題に直面しはじめていますが)。なんで私がそんなことを知っているかというと、サッカーのクラブ活動だけで、トータルフットボールなどという、全員が一丸となって休まず走り通すモチベーションを育成することなどできないな、もっと子供が時間をすごす小学校に問題があるのではないかと、中野区の図書館程度でですが、調べたからです。>(D&P2016.92016.8)……というか最近は、小学校以上に「いじめ」を通り越した不登校が中学に入った途端びっくりするくらい増加するようなので(息子もその兆候あり)、もう一度探ってみようとおもっている。

・コンピューターはなぜそんな手を打てるのか、もはや人間にはブラックボックスになっているという。人がやれば何万年とかかってしまう場数経験を踏んだ上なので、私たちにはわからないのだと。が、そういう経験値レベルでのわからなさなら、遺伝子や身体レベルまで考慮したら、私がなんでこうしてしまったのかさえ、ブラックボックスである。しかし本当は、グーグルは、解析できるらしい。何年かしたら(おそらくはつまり、儲けを確保したら)、その解析本を出版するかもしれないらしい。しかしそんな参考書、ハウツー・テキストをみずども、すでに若い人たちは、コンピューター相手にゲームをしているのが日常的なのだから、何万年かの経験値をとり込んでいるのである。難しく正しい歴史的経緯など知らなくとも、そのノウハウ的結果、すなわち知恵はついてくる。コンピューターとまた互角に張り合える時期はくるだろうが、しかし、その時は、人間と自動車が競争しても意味がないように、疲れを知らない機械相手に戦っても、面白い見世物にはならないだろう。お笑いにはなるかもしれないが。

2017年8月11日金曜日

夢のつづき(4)

「もしそうだとすれば、国民国家と帝国の二層化は、数学的な必然で支えられた構造であることになる。人類社会がひとつのネットワークであるかぎり、そこに必ず、スモールワールドの秩序を基礎とした体制とスケールフリーの秩序を基礎とした体制が並びたつ。ぼくたちはもはやナショナリズムの時代に戻ることはないが、かといってグローバリズムの時代に完全に移行することもない。スモールワールドの秩序の担い手がいまのような国民国家でなくなる可能性はあるかもしれないが、人類が人間であるかぎり、世界がスケールフリーの秩序に覆い尽くされることはありえないだろう。
 人類全体がひとつのネットワークに包まれ、スモールワールドの秩序とはべつにスケールフリーの秩序が、すなわち、つながりのかたちとはべつに字数分布の統計的真理が見えるようになるためには、交通や情報の技術がある段階に到達する必要がある。動物たちの真理を二世紀にわたって政治と哲学的思考の外部に放逐し続けたヘーゲルのパラダイムは、技術がその段階に達せず、まだ多くの人々にスモールワールドの秩序しか見えていなかった時代の社会思想にすぎなかったのではないか。」(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』 genron)

目をつぶったまま瞳だけを開いて見えるまぶた裏の光景。光の粒子が、私には赤っぽくみえる粒の群れが、まだら模様を描きながら動いている。それはイワシの群れ、あるいはPCディスプレイでのスクリーンセイバーのような動きとも見える。








そしてこの粒々をもっとミクロに、目を凝らしてみようとすると、何か規則性をもったいくつかの幾何学的パターンで織られているように見える。それは魚の鱗みたいだったり、格子縞だったりして、丸い粒なのではなくて、そうした規則性で密集した粒子群、それは星団のようで、まぶたの裏では、そんないくつかのミクロな規則的パターンで織られた星団があちこちと展開されている。が、それら銀河の群れは目を凝らそうとすればそれを受けるようにその都度動きを速めるので、はっきりとした形はみえない。それを追ううちに、眠りがやってくる。ある星団が展開した光粒子の形が、何かを私に連想させたらしく、粒々が画像として、動画として浮かび上がってくる。そのまま夢に移行していくようだが、寝入るときは、もちろんそのストーリーを思い出せるわけではないが、それが不眠癖のある私の、「羊がいっぴき」と羊の姿を思い浮かべながら数える言い伝えの代用、私的な工夫だった。
しかし、目覚めるときは別だ。繰り広げられる夢の物語を見ながら、これが夢であることに気づく、そしてそうっとうまく操作できたとき、その夢の画像がぼろぼろと光の粒子へと崩壊していき、その様を静かに凝視、目を凝らすことができたとき、その粒子の模様が拡大されて、夢物語とはまったく別の静止画が現前してくることがある。「夢のつづき(2)」で再現してみたのとは別に、2か月ほど前だったか、次のようなパターンに出くわした。
(1)
(2)

あるいは、2週間ほどまえだったか、光の粒子が、したたり落ちようとする水滴のように集まっているような光景もでてきた。これらは、なんなのか? 夢のつづきにすぎないのか?

私が見た印象からの推論。
視覚から入る光景は、情報量があまりに「ビッグデータ」なので、それを圧縮して処理する必要がある。意識のある目覚めた状態のときは、その圧縮の方法には、生活に適応しなくてはという重み(プレッシャー)がかかる。だから、分類/整理(圧縮)以上に、回帰(誤差処理)のループ(修正)に重点が置かれて、それは部分では対象認識の正確さが、全体では意味の統一性が保持された縮約的なものになる。つまり光粒子からの連想方は隠喩的・象徴的になる。が、寝ている時は、適応の重みから解放されるので、その連想方は、換喩的・寓意的となる。しかしどちらにせよ、人は光景(データ)を見ないように処理されている。実際、私たちは、ものを見て生活していない。そこにコップがあれば、それを見て認識するのではなく、そういうものだと概念認識して(言葉で処理して)、すまさなければ、次の動作に移れない。だから、どんなコップだったか、そこにどんな汚れがついていたかなどまるきり覚えていない。その人間の傾向は、夢においても同じ、というか、夢だからこそ伺えてくる、ということか。まぶた裏の光の粒子自体が、すでにしてデータを圧縮するためのフィルターなのだ。外の光で輝いた窓を見てからまぶたを閉じると、窓の残影が白い光となって赤っぽいまだら模様の世界に浮かび上がっている。生活上では、それは窓として一致して認識されなければ、私たちは不適応を起こしてしまうという圧力をうけている。が、夢では、そう認識されるだけとはかぎらない。窓枠に似た白い光の形が、この私の今を左右させているより精神的にダイレクトな連想を惹起させてくるかもしれない。が、それでも、それは自由連想というわけにはいかないのだ。というのも、まぶた裏のまだら模様自体が、実はすでに概念的に縮約された文字パターンで編まれているからである。その意味を、生活上における言葉のように私たちは理解できないが、結局は、その文字を通してしか世界=光景を認識できないようになっているらしい。おそらく、そう「ビッグデータ」を圧縮して過ごさなければ、この世界自体に私たちは適応できないのだろう。その外部があったとしても、私たちは、少なくとも、見ることはできない。目を開けていようと、つむっていようと。

追記;
(1)見る、という行為が、意識的かどうかには疑問がつく。生活に適応するため対象物の境界(輪郭・エッジ)に焦点をしぼって概念処理している傾向があるといっても、それに収まらない経験も在るようだからである。見た光景を細部にいたるまで写し描いてしまう人もいるとされるサヴァン症候群、と呼ばれる現象まではいなかなくても、私たち自身、ふとしたことから、なんでそんな細部まで覚えていたのか、とびっくりするようなフラッシュバックがないだろうか? 私は、眠れない夜、その日起きてから目に映ったものを再現してみようと映像的に振り返っていく場合がある。朝目を開けて何をみたか、次に何を、と順次思い出そうとしていく。結構変な細部まで記憶がよみがえる。文学作品で著名な例としては、プルーストの「失われた時を求めて」であろう。あるいは、柄谷氏が近代文学の起源、「風景の発見」として読んだ国木田独歩の「忘れ得ぬ人々」。どうでもいい見過ごしてきた人の方が記憶に浮きあがってくる。それを文学的な思想的意図(ロマン主義的イロニー)としてではなく、単に、日常生活的な出来事の一つ、と受け止めることも可能だろう。というか、そっちのほうが普通の現象なのではないか? としたら、私たちは、実は監視カメラのように、光景を写し取っている、ということになる。死の危機の前に、走馬燈のように過去がフラッシュバックされてくる、ともよく言われる。
(2)まぶた裏の光景は、脳内イメージと、同時に、重ねて見ることはできる。
(3)まぶた裏の光景は、外の風景と重ねられない。同時に見れない。
(4)脳内イメージと(想像)と、外の風景は重ねられる。同時に見れる。
(5)脳内イメージ自体が、実は概念的に処理されていることが多い。想像して脳内で見ているように思い込んでいるだけで、では実際それをよくみようとすると、まったく映像がないことに気づく。ないものを、思い出して見ていると錯覚することで次の動作に移っていこうとしているのだ。子どもの頃の、野球試合でのあの場面を思い出していると思っている、たしかにそれは印象にあるシチュエーションなので、言葉的にストーリ性を付属させて思い返すこともできるようなのだが、実は、映像としては再現されていない。あるいは、かすかな境界、メインな映像部分の輪郭が動いているだけである。その細部まできちんと映像化するには、意識的な作業では無理なようで、やはり何か無意識を発動させるきっかけが必要なのかもしれない。
(6)もともと、目自体が、可視光線しか見えない、それ以外はふるい分けるフィルターなのだから、私たちは、生物的に、何かを守るように作られているのだろう。しかしそれは、単に人間という種の生物的適応のためだけの限定ともいえる。人には見えないものを見て生き延びている生物もいるのだから。臭いでもなんでもそうだが。となると、人工知能と呼ばれるものの思想は、深かろうが浅かろうが、世界を変えていくというよりも、単に環境適応にすぎない、ということか? 農業革命に匹敵する「ディープラーニング」という発想の転換、とも呼ばれているが、そもそも、農業は、人間を、世界を変えた、と言えるのか? 社会は変えたろう。が、この身体と、世界の境界との、適応力自体の在り方を変えたか、変えられるのか、というのが、問題なのではないだろうか?

2017年7月2日日曜日

三つの柳田論―柄谷・大塚・絓/木藤の著作から

「この分析結果は、狩猟民の進出する先々で大型動物は次々に絶滅へと追いやられたというマーティン仮説とは合わない。絶滅は徐々に進んだもので、気候の変化が絶滅速度を速めた可能性も考えられる。…(略)…しかし、最終氷期やその後の間氷期に伴う気候の変動で、こうした大型動物が好みの生息地が大幅に失われたときには、すでに現生人類(ホモ・サピエンス)がヨーロッパの広い地域に進出していたので、その狩猟圧で、それ以前の気候変動のときとは異なり、大型哺乳類の絶滅が引き起こされやすくなった可能性は考えられる。
 一方で、日本で起きた大型哺乳類の絶滅はヨーロッパとは異なっている。ナウマンゾウやヤベオオツノシカのような大型哺乳類は三万~二万年前に絶滅したが、この時期に人口が急増していることが、五四〇〇か所を超える地域から出土した旧石器時代の考古学的証拠が示している。この時期の気候変動は比較的に穏やかだったが、こうした大型哺乳類が絶滅していった。マンモスも中国中部から姿を消してしまったが、アジア象や二種のサイのような大型哺乳類は歴史時代に入ってからも、中国中部の広大な落葉樹林で生き延びていた。」(『落葉樹林の進化史』R・A・アスキンズ著 黒沢令子訳 築地書館)

絓秀実/木藤亮太との共著『アナキスト民族学』(筑摩書房)を読み終える。これで、研究者というよりは、ジャーナリズム界で実践的な意図を持った柄谷氏の『遊動論』、大塚氏の『殺生の民俗学』と、三つの柳田論に触れたことになる。
私自身は、柳田国男について何かを言いえるような教養も見識もない。が、これらの著作は、私自身が今の世の中で生き続けていくための一助になり、その読書を含めた生の在りか、あがきをより前方へと意識化、言語化していくことで、少しは見透しがよくなって生きることが楽になる、そのために、こうして書いてみることを試みるのである。

『アナキスト民俗』と『殺生の民俗学』とは、同時的に出版されているためか、お互いの言及はない。ある意味ではどちらも、それらより前に提出されてある柄谷氏の『遊動論』への応答という向きがある。が、『アナキスト…』が、思想(思考)の系譜・文脈的に緻密な構えによっていることから、以前作『遊動論』だけでなく、同時期大塚氏の『殺生…』もを批判的に相対化しえる視点を既にして含んでいる、とはいえるだろう。大塚氏のこの作品の主張を思考の型で言い換えるなら、狩猟することに生起する「快楽」という「気質」=「科学」から、人類の書かれた歴史を超えた「環境」、つまりは人間をも超えた先史的な射程を孕む思考形態に着地しようとしているもの、と置換できるからである。そうした型の対応が、現在の定型的な思考に位置づけられるのである、と。

<むしろ、それは今日まで続く、ヘゲモニー国家アメリカの没落に対する応接であった。ともかく、「六八年」の「地平」から柳田を再び召還することは、ほぼ無意味である。「客観科学」に依拠することも「生活世界」に依拠することも、ともに相関主義における、ウェイトの置き方の相対的な違いに過ぎないからである。
 ところで、メイヤスーはカントのコペルニクス的転回は、真のそれではないと言う。科学革命が、人間以前の世界――メイヤスーは、それを「原石化」という比喩で語る――つまり「祖先以前性」へのアクセスを可能にしたことに応接しえないからだ。その時、それを脱却するために、超越論的観念論は、一種の神学の様相を呈する場合さえありうる。メイヤスーは、「相関性が乗り越え不可能なものとして提起される際には、超越論的な視点(そして/あるいは現象学的な視点)、または、思弁的な視点という二つの様相がありうる」という。柳田「神学」を問う場合、問題になるのは、後者の「視点」である。>(『アナキスト…』)

絓/木藤氏によれば、「戦後天皇制は、やはりトーテミズムとして完成した」という「思弁」によっている、とされる。柳田への国民作家的な参照も、その現れなのだ。柄谷氏の「世界史の構造」から「柳田論」への展開自体が、いわば「ディープ・ヒストリー」(神学的思弁)である。逆に、最近のAIの囲碁や将棋での勝利から話題になっている脳みその階層化された神経現象をモデルにした思考が「ディープ・ラーニング」と呼ばれているが、それは「超越論的な視点(現象学的な視点)」、ということになるのかもしれない。
しかし、いま考えていることのあがきを、思想史的な文脈系譜に位置づけてみせることは、内省的に必要な一つの構えであるとしても、あがくこと自体も必要であるかもしれないではないか? 盲目の中の洞察ならぬ、凡庸の中の洞察、といったものも生起するかもしれないではないか? 「ニュー・エイジ」的と絓視点では批判されてきた神秘主義的な思想系譜をもつある種の考え方にも、そう批判してみるだけではすまない思考の種が播かれていることを、岡崎乾二郎氏の「抽象の力」などは教示しているだろう。思考を時間軸で腑分けしてみることや、テキスト間を明解にしてみることを教養不足でできない者でも、自分との思考のあがきで読むことはできる。その凡庸さを内省してみる必要はあっても、やめるわけにはいかない。

たとえば、NAM以降の、柄谷氏の読解に関して、私と絓/木藤氏の『アナキスト…』との間では、違いがあるようだ。『アナキスト…』によれば、柄谷氏は、封建制を批判的な根拠として認める講座派的な構えから、その日本的特殊性を認めない労農派的な思考立場へと転回した、と捉えている(だから、天皇制という日本特殊的な文脈を思考しうる射程もが手離されてしまった、とされる)。が、まず植木職人世界での経験から、私は主従的な封建遺制のなかに、「可能性の中心」があるのではないか、と体感していたところに、NAM以後の封建制を再評価する柄谷氏の言葉を受容したのである。(参照HPブログ)そして封建制が、民主主義(互酬的)なユートピア性を将来させているだけでなく、それが狩猟民的な「遊動」性への反復契機でもあるのだ。つまりは、講座派的な見方の徹底が(それは、父系的な系譜の中に双系的な痕跡をみていく志向となるだろう――)、先史時代的な仮説(神話)をも射程に孕みこんだ最近の「ディープ・ヒストリー」に連なっているのである。だから、私の思考文脈では、大塚氏の柄谷批判の方が正鵠である。狩猟民の世界に、柄谷氏がみる互酬的なユートピア以上に、「殺生の快楽」という「リスク」をみようとしているからである。このブログの冒頭で引用した「落葉樹林の進化史」でも、とくに日本での数万年前での大型哺乳類の絶滅が、純粋に狩猟圧(食うことを超えた快楽の追求)によるのではないか、ということを示唆している。大塚氏によれば山民の狩猟儀式も、アスキンズによれば瓦屋根や樹皮を用いた屋根、イグサの畳など伝統的な和式建築の技巧も、動物や樹木の絶滅後の工夫なのである。ならば、人類の狩猟的な在り方から「可能性の中心」として互酬的なユートピア性を注視してみせることは、やはり片手落ちになってしまうだろう。
しかし、両手ではなく、片手で手探りしているところ、いわばあれからこれ、あれもこれもという「転回」ではなく不器用な徹底だからこそ、次の視点が獲得されてくるのかもしれない。大塚氏は、狩猟から「戦争」へのリスク(非道徳)をみた。そして絓/木藤氏は、この「戦争」を、とくには日本の二次大戦を、「王(天皇)の(象徴的)殺害」への「悔恨」という倫理的位相で了解した。が、「戦争」とが「快楽」であるのなら、それはモラル的な問題、倫理の位相ではなく、美学の範疇になってくるはずである。ゆえに、柄谷氏は、9条擁護の背景に、フロイトの戦争批判の言葉を引き合いにだしてくるのではないか? そのフロイトの引用を、柄谷氏の論からではなく、私の作品(「パパ、せんそうって、わかる?」)にリンク参照させる。そこで、フロイトは要は、戦争は残虐だから反対だ、と言っているのではなく、もうその快楽にあきた、だから嫌になった、と言っているのである。戦争反対の理由は、倫理にあるのではなく、生理的な、好き嫌いの美学、趣味判断によるのだ。柄谷氏が9条に読み込もうとているのも、そのような人類の前線的な趣味である。そしてもしかして、日本の象徴天皇制下でその戦争後も生きながらせられている天皇自身が、そうした理由で、もううんざりしているのかもしれない、ということだ。天皇ファミリーの「お気持ち」は、「退位」どころか、「廃位」なのが無意識かもしれない。

うんざりには、論理的文脈などないだろう。複雑な理由経路はあるだろうけれど、それは系譜的に遡行できるというよりは、遡行を突発的に頓挫させる身体的な反応だ。その「身体」もが、「不死の身体」なるものと同等なものなのかどうか。

2017年6月13日火曜日

夢のつづき(3)――河瀨直美「光」を観る

「 夢の中で見た真昼の光の残像を、真っ暗闇の中で目をさました熊谷は見たというのである。この残像は光学的なものでも生理的なものでもない、熊谷が見出しているのは、われわれの脳が直に把握しているところの知的構成物としての光である。」(岡崎乾二郎著「抽象の力」

雨の音で目が覚めたのだろう、見ていた夢は記憶にも消えて、少しだけ開けたドアを通して響いてくる欅や桜の葉にあたって反響する雨音は、もはや夢の作用でその文字通りな意味を変えて、他の音響へと転移していく籠ったリアルさを窺わせはしなかった。むしろ私は、目をつむったままで、この現実への意識を研ぎ澄まさせていった。4時前には鳴く向い側向こうの家の一番どりの鶏の声も起きていないようだから、まだ真夜中に近い時刻なのかもしれない。だいぶ土砂降りだ。今日はもう仕事をせずともいいだろう。その判断は、私にある、その期待に、もう一度眠るよりも目覚めることへと気持ちが急いていて、だから、もはや雨音が夢に転換されることを防いだのだ。私は頭の中で、今日やることを考えている。いつも通り6時過ぎにおきてコーヒーを沸かしトーストを焼き、朝刊を読み始めながら、7時に職人さんに仕事中止の携帯をいれ、7時30分まえに、元請けの社長息子にもその意向を伝え、それから、予約本が届いたと図書館からメールがあったけど、まずは区民健診を終わらせておこう、そのために8時半には家を出るのだから、そのついでに、カンヌでも何やら賞をとった「」を観に行こう、女房を誘った方がいいだろうか? 前作「殯の森」を一人でみにいったときは、あとから「何をみにいったの」と問いつめられるように質問されて監督の名を教えたけれど知らなくて……と意識がぐるぐると続いているうちに目覚ましが鳴り、寝床で考えていたように行動を始めたのだった。ただ、予定とはちょっと違っていた。朝の7時前頃に、雨がやんでしまっていたのだ。私は仕事にいくつもりはないし、あれだけ降ったのだから、職人さんには連絡をいれなくともわかるだろう。NHKのデータ放送でも、今日は雨傘続きのマークがお昼過ぎの時間帯までつづいている、親方は元請けの仕事など半端でいいという方針だから、むしろこんな雨模様で会社に顔をだしたら不機嫌になるだろう、が7時も10分もすぎると明るくなってきたので、職人さんには電話しとくかとかけてみると、息切れとともに、「おはようございます」と声が聞こえてくる。70歳に近くなる職人さんは、起伏に富む目白台近辺の坂を自転車でこいでのぼれない。いつもどおりアパートを出て、職場にむかって、会社の事務所というか親方の家の電気もついていず、私がいないのを見届けてから、またひとり坂を反対に上り下りしていくのだ。やっぱりそういう行動にでるのかもしれないな、と私は予想もしていた。元請けから何日までに公園の手入れを終わらせてほしいという話も昨日の作業中に聞かされているから、なおさらその通りな機械的な行動にでるのだ。そして考えの違う親方の顔に出会って、右往左往する。今は私が指揮をとっているので、私の顔色をうかがう。が、どちらにせよ、相手との駆け引き、暗黙な取引で判断をこちらはしていくのだから、結局は職人さんには読めてこない。元請けにしろ親方にしろ、都合のいい話に振り回されていたら、こちらの身が持たない仕事である。そうやって、職人さんも私も、木から落ちて死に損なってきたではないか? ハア、ハア、と息を切らす声を尻目に私は電話を切った。

そうして、映画をみてきた。女房は、両親の様子を実家と施設にみにいった。

別段泣ける映画ではないのに、3.11以降、涙もろくなって、思考回路の身体性が破壊されていると感じる。

私は色々考えた。1週間ほど前、冒頭引用した岡崎乾二郎氏の「抽象の力」という、豊田市美術館での常設特別展での論考を読んで、唯物論と神秘思想の繫がりが、理論的にも美術・思想史的にもあとづけられうることを知った。それは、柄谷行人氏の思考と中沢新一氏の思考とが相反しているのに似ているのは何故だろうというこのブログでも表明してきた私の疑問にも答えてくれ、また、「夢のつづき」で触れた私の夢分析の在り処をより明解にしてくれた。冒頭引用の絵描き黒田氏の日記の言葉などは、まさに私の注目したところそのものだろう。というか、すでにその問題群が問題であることを意識させてくれたのがそもそも岡崎氏だったので、当たり前なのだが。私の「サッカーIQテスト10問」も、その影響である。たとえば、以下の「抽象の力」の引用での道具を、サッカーボールへと考えてみればいいのである。

<いっさい馬のかたちと類似性を持っていない、ただの棒がこどもたちにとって馬なのは、それに実際にまたがって走ることができるからなのであり、馬とはこどもたちと事物の関係、またがって遊ぶ行為そのものを呼ぶのだ。事物の認識はこの関係によってこそ行われるのであって、実は見かけ上の類似性などは意味をもたないのである。抽象とは外観に現れたかたちの抽出ではなく、この具体性にもとづいた認識であり、判断である。

 一言でいえば、それは身体行為に組み込まれる道具のようなものだ。いや道具こそが身体行為を規定し、道具に沿って(効率よく)身体が動くことを導きもする(それは道具たとえば金槌が他の道具たとえば釘や木材などと関係し合うことと違わない、人間もまた同等の道具=事物として、その関連に関わる)。

 むしろ身体の諸性質は道具との触発によってはじめて生起させられるのだから、道具の中に身体が潜在しているとさえいえるだろう。道具を持てば誰の身体であれ同じように行為する。身体は道具によってはじめて具体化される潜在性である。>

そういう思考過程を持ったまま、私は河瀬氏の「光」をみたわけだ。映画中、音声ガイドによってだけ映画を観ようとする盲人や弱視者のためのそのガイド制作協力者のひとりは、自分たちは映画を超えた想像の世界に入って触れていくのだ、とその体験を告白している。視覚を超えた世界、そのリアルさ。むろんタイトルの「光」もまた、視覚を超えた輝きのことである。

そしてこの輝きが、老人(の痴呆)と、関係している。前作「殯の森」でのテーマが、「光」に連結されている。ガイド制作に携わる若い女性の「悪意」は、認知症の母と弱視になったカメラマンに媒介されるように、溶解されていく。夕日に、溶け込んでゆく。風の音(私は、この映画作者の木々に吹く風の音が好きで、その音を聞きに「光」を観に行ったようなものだ)。

見た帰り、新宿の紀伊國屋に立ち寄って、副島隆彦氏の「老人一年生」(幻冬舎新書)と、佐藤優氏の「悪の正体」(朝日新書)を買う。中学二年生になった息子には、影がでてきた。思春期特有な一般的なそれを超えて、単独的な暗い恐るべきものを私は感じ取りはじめている。そして昨日50歳になった私は、子どもが幼年期の頃のおぞましさと変わって、子どもとの関係に諦めの内での恐ろしさみたいなものを感じはじめている。その静かな怯えの予感は、世の中のことを曲がりなりにもわかった気にさせていたこちらの理解を、転倒させていかせるようなものだ。その感覚が、この新書2つを買うことに私をさせていた。おそらく、死と親しみはじめようとしている今、むしろわからないという真相に触れてきている、という感じだ。この感じを確認するために、まるで生きてき、これから生きていくような。わからない、それで死ぬのだ。……

帰り道、外では、雨が降っていた。折りたたみ傘をカバンからだして、さして歩く。事実どおり、今日は雨で中止になったから、私の「悪意」は、死を覚悟できているかもしれぬ職人さんへの口実となるだろう。しかし、もはや私自身が、それが通用する若い世界から足を踏み出して、それが溶解していく静かな音に満ちた別の世界へと入っていきはじめていることに、気づかざるを得ないのだ。そして私は、今記述してきたいくつかの要素たちが、どう「光」の世界で連関されているのかを知らない。父がどう記憶をとどめ、母がどうその忘却を愛し、子どもたちを見送ろうとしているのかを知らない。わからない、のはいい。しかし、知ってどうする?

2017年6月10日土曜日

「戦闘」をめぐって(6)

須藤(JFAユース育成ダイレクター) ヨーロッパの子どもたちはサッカーをよく理解しているという話を聞きます。それはなぜか。毎週レベルの高いゲームを見ているからだと言われています。しかし、私がFCバルセロナ(スペイン)の育成指導者にその話をしたところ、「それは違う」と言われました。確かに試合をよく見ていることはありますが、一番は「6歳から7歳で、すでにサッカーのリーグ戦をやっていることである」と言っていました。彼らは幼い頃からリーグ戦を毎週戦う中で、誰にパスを出したら点数がとれるのか、またはその逆の状況を把握し、どうやって勝つのかを考えているのです。…(略)…「小さい頃からリーグ戦を通じて子どもたちなりに勝ち方を考えていることが大きいのである」と言っていました。
山口(JFA指導者養成ダイレクター) 日本ではリーグ戦文化が産声を上げたばかりです。Jリーグは25年ですが、育成年代のリーグ戦は始まったばかりで、さまざまな課題があります。今後も皆で知恵を出し、リーグ戦を定着させることが重要になってきますね。」(『JFA TECHNICAL NEWS』「育成年代指導者 座談会」)

私も指導に関わる少年サッカーチームの子どもたちが、池上正氏の新作に伴うモデル・キッズに起用された。これまでの運動部・暴力的な指導や、大人の過剰な干渉を戒める言説を流布させてきた池上氏だが、今回の新作を立ち読みしてみると、結局は、自分の啓蒙思想は普及しなかったと認識しているようだ。サッカー界における氏の言動は、どこか日本教育界での日教組の機能に似ている。いまや現実政治への実践的な影響力は崩壊させられたが、その思想の本質的な部分は、無視はできない「ゆとり教育」として体制側にもとり込まれている。が、その愚直な実践では子どもたちの成績を世界上位まではあげられないと、あくまで建前的な保持としてその思想は掲げられる形で引っ込められてしまって、実際上は、官民が一体となって点数向上の手練手管を模索している、と。で、結果が思うようにいかなければどうなるのか? 森友学園で見られてしまったように、集団的なメンタル強化=洗脳という手段になるのだろうか?

しかし、今月あった息子の公立中学校の運動会の模様を改めて聞くに、もはや森友学園など必要もなく、洗脳教育制度ができているのではないか、という気がしてくる。去年、組体操が世間的に問題になったので、今年は集団行動だという。みんなして一斉にあちこち歩いてぶつからない、というやつだ。その発想の変わりなさに、唖然とする。人と一緒にいる感覚を小学生年代にまで味あわせる必要を私はおもうけれど、もう中学生になったのなら、大人へ向けて、自立できるよう後押ししてやる、という方向性を強くしなければならないのではないだろうか? 社会(世界)とは、集団というよりは、集合だ。それは、個人やグループとの連結の集まりであって、一体を期待できるようなものではない。一体とはなり得ないもの、個人、グループとでも、無関係な関係として、どこかで繋がっている、ので、やっていかなくてはならない、戦争よりは平和的に渡り合っていくメンタルやノウハウを身に付けさせなくてはならないのではないか? そこでのふんばりが、ホームが心にあるかないか、が大切になってくるけれども、それは幼年期、遅くとも小学生までにしか根づけえない。家庭の事情などで不安を根底に抱えてしまった人はもう取り返しがつかない。それを偽善で解消(一体化)させてみても、無理なのだから、その人格を認めて、そこから新たに作っていくしかない。

ふがいない練習試合の結果をメンタル問題としてあげつらわれたからか、もうキーパーは嫌だと3年の先輩たちと部活ボイコットした息子は、その3年生最後の地区予選大会、新入生にポジション奪われてずっとベンチにいた。私でも、息子の一希の扱いには手こずったが、この控え選手というより補欠選手のような干し方に、やめていった一希の友達もいる。誰が出場しても勝敗の行方は変わらないような有様なのだから、3年間やってサッカーの知識が増えた、小学生よりもっと余分にやってよかった、と思うようになってほしい。が、都心部の公立校の部活など、少子化で一昔前の運動部の根性考えなど機能しないことが明白なのに、どうもあの時が懐かしいのだろう。ゆえに、すぐには転向できないのだろう。私立のクラブチームのほとんどは、昔の運動部精神がそのまま移行したみたいに、子どもたちをふるいにかけていくようだ。24時間戦える日本企業として、新入社員をたくさんとってたくさんやめさせていく生き残りエリート競争のように。そうやってなお過労死者がで、活発だった子が中学にあがったとたん登校拒否をおこしたりする。先生に刃向かう校内暴力はどこかにいったが、いじめはいっそう深刻度を増しているようにみえる。

こんな状態では、まだ日教組の方がマシだろう。池上氏の教条主義の方がマシだろう。開き直りの保守主義より、リベラルの方がマシだろう。マシだけれども、問題はそんな対立軸にあるのではない。

*関連:「中学部活動問題の中身


2017年5月14日日曜日

認知症をめぐって

「しかし柳田の学問は普通の人々が学問の主体である。柳田学は「常民を研究する」のではなく、「常民が研究する」学問として設計されている。そこが柳田論では常にスルーされる。このことはアカデミズムの人たちは決して認めたくないのであり、こういう体質はばかばかしいが今もアカデミズム全体にある。
 そもそも柳田のアカデミズムへの批判は、「民俗学」と仕方なく彼が呼ぶものは観察と記録に基づく「社会」構築の方法そのものをいう。学問の目的そのものの違いに根差す。言うなればそれは、「日常の技術」なのである。
 例えばWEBの出現で、表現することや発信することの「民主化」が少なくともインフラの上では実現している。柳田が考える「民俗学」とは、そういう状況でこそ本当は意味を持つ「学問の民主化」に他ならない。そのためには民俗資料という研究者が抱え込みたいものをデータベース化しようと昭和の初めの時点で考えていたのだから、アカデミシャンから見れば何を言っているのかわからないのは当然ではあった。」(大塚英志著『殺生と戦争の民俗学』 角川選書)

去年のことだ。
父は、まだ夜半と言える早朝、切り倒した庭木の幹を、両の手に一本づつ持って、家庭ごみの捨て置き場へと運んでいた。幹は成人にとっても重いもので、八十も半ばになる父は途中、前のめりに倒れてしまった。両手がふさがっていたので、顔が道路にあたるのを防ぐこともままならず、そのまま強打した。運よくか、通りがかりの人が救急車を呼んでくれて、間もなく病院へと運ばれたようだ。その見舞いには、父の兄弟が、もう会うのも最後かもしれないと、やってきたそうだ。私は、兄からメールを受け、弟に確認をとったが、見舞いには行かなかった。まだ私が若いといえる時分にも、父が交通事故にあって入院したことがあったが、その時も行かなかった。どちらの時も、「だいじょうぶだから」という返事が、身内からあったとおもう。その字義通りの応答以外の感情が私には希薄で、イトコが見舞いに行くのに実の息子が来ないのか、という親戚の話もあったときく。
そもそも、上京した19の歳いらい、年に一度か二度、お盆や正月の時に帰省するだけだった。地元のかつての野球仲間などにも、母は、行方知れずだから、というように吹聴していたらしい。子どもの頃の友人とは、子どもの時いらい、まったく会っていない。

そんな自分が結婚して子どもができて、帰省する機会も増えた。息子の小学校の入学式には、父も東京までやってきたぐらいだから、なお丈夫だった。が、息子が上級生になった頃から、年ごとに、ボケの症状が深刻になっていくようだ、ということが、家の者の話から知れてくる。そういうこともあるし、息子ももう中学生にもなったので、実家には、私一人で帰ることが多くなった。

が、私には、ボケてきているのはわかるけれども、いわば認知症と呼ばれる高齢者の病気に父が本当になっているのか、わからないのだった。私の名前を間違えて、弟の名前で呼ぶときはある。というか、それが帰省した当日などはいつもなような感じである。さらに、自分が名前を間違えたことを父は自覚できるようなのだが、では私がなんていう名前なのかは、すぐには出てこないらしい。名前を呼ばれるのは、二、三日たってからであったりする。いや今回ゴールデンウィークに帰って、やはり名前は数日後に出てきたのだが、それでも、私が誰なのか、本当に次男坊のマサキなのか、腑に落ちていないのではないか、という気が私にはしてきた。が、私はそうしたことどもも、父が病気だから、という気がしない。たんに、老人になれば細胞がたくさん死んでいくのだから、当たり前なことだ、ぐらいにしか気にならない。帰省したその日、父の近くによると、小便の臭いがした。その夜、家の皆が寝静まった時刻に、代替の宅配便で、オムツをかねた新式のパンツがとどいて、私が支払った。翌日にもそれを穿いてと母から言われたからか、以後そんな臭いは漏れてこないのだったが、兄も、弟も、母も、父が糞尿をもらさず、怒鳴り散らすこともせず、大人しくしているのは、どうもマサキがいるらしいからだ、という。よそよそしい者が、家にいる、それが父を行儀よくさせるのか。弟が介護疲れで倒れた母を病院に連れて行っている間、糖尿病でもある父は、私の女房が作ってもたせたおかずをむしゃむしゃと食べ始め、さらに母が私にと出してくれたお菓子まで食べはじめたのだけど、私には、腹が減っているんだな、ことぐらいしかわからない。兄にいわせると、満腹感がもうわからなくなっているのだ、という。しかしそれが歳をとるということなら、そのまま病気をこじらせて死んでいっても、別に自然なことなのだから、なんでそれを病気として騒ぎ立てるのか、そうした家族の事態を目の当たりにしても、やはり私にはわからないのだった。

そんなあと、近所の家庭菜園の畑へと水やりにいった父は、そのまま徘徊してしまったようなのだが、もし私が家族から認知症という言葉を知らされておらず、それで家の者が困っているという話を知っていなかったら、探しにいくということもなかったろう。夕刻遅くに戻らなかったのならば考えるし、たとえその父の放浪が、近所の住民や公共機関への事故とうで迷惑や損害を与えたとしても、老人とはそういうものだという寛容さで、あまり騒ぎ立てることもせず、静かなわがままを皆で弔ってやることのほうが、ずっといい社会ということになるのではないか、と今の私は思い込む。それはしかし、介護がいる現場から、私がまだ遠いところにいるひとごとな立場でものを見ているからだろうか。

しかしそんな私でも、老化した父を、注目して見ていることがある。
父が、早朝に庭のゴミを運んでいるのも、それが父の特化した行動になっているからだった。今年の正月、父の散歩に息子と一緒に後ろからついていくと、道端に落ちている吸殻、紙くずなどを、たとえ小さなものでも、しゃがみこんで拾い上げて、服のポケットへと片付けてゆく。いやゴミだけではない、石ころが落ちていても、それを手に取って、道路の外の空き地へとぽいっと下投げに放り投げるのだった。そんなものだから、なかなか前に進まない。息子と私は、そんな父の行動を不思議そうに見て後追いしていたのだが、と、石ころがいくつも落ちている道端に出くわしたのだった。これをひとつひとつ処理していたら、大変だぞ、と息子も思ったことが感じられた。すると、父は、なんと足でその石ころを蹴とばして道の脇へとどけはじめたのだ。さらに、ちょっと道の中ほどにあった石ころを、インサイドキックで強めに蹴ると、それはころころと長めに転がって、側溝の蓋のつなぎ目の小さな穴に入って消えていったのだった。「おじいちゃん、すげえ」と、息子はつぶやいて、私と目を見合わせた。
外だけではなかった。家の中でも、ゴミ拾いに忙しかった。私が居間のゴミ箱に紙くずひとつ捨てても、それを炬燵からやおら起き上がってゴミ箱までよちよちと歩き、手を突っ込み、拾い上げ、洗面所にあるゴミ箱へとまとめていき、それが一杯になるまでもなく、いくばくかの時間がたつと、ゴミ箱に挿入されゴミをまとめているビニール袋をとりあげて、庭の隅においてあるゴミバケツに捨てにいくのだった。そして収集車がやってくるゴミの日になれば、まだ夜ともいえる早朝に、ひとりゴミ袋を運んでゆくのである。

私が、父といえば思い出す光景といえば、野球グランドにうずくまって、カマをふるい草刈りをしている姿だった。

この、どこか昇華してゆくような記憶の作用には、何か意味があるのではないだろうか? 余分なものが削除されていって、コアな何かが残って行く。父にとって、ゴミ拾い、雑草取り、これらは、何を意味しているのだろうか? 老年になって、強迫観念、反復にもなっているこの作法には、父にとっての意味と、その意味をもたせようとする形式があって、そこに、より普遍的な意義があるのであろうか?

(私はこの父の認知症を、私の不眠・夢の作法と関連しているのではないかと推察している。私事を超えた、一般的な関係があるのではないかと思っている。)

*以上の材料をブログに記入しておこうと思った昨日から、今日、冒頭引用した大塚氏の著作を読んで、面白く感じた。そしてさっきの夕食前、朝日新聞に、柄谷行人氏が、その大塚氏の著作の書評を書いているのを知った。柄谷氏は、氏の柳田読解を、大塚氏から批判されているのだが、書評中、その著作の内容紹介に終始しながら、最後にこう暗示的に付記する。<柳田―千葉―大塚という流れには、柳田にあった一つの面が抜けている。それは、柳田の学問の根底に、平田派神道の神官となった父親が存在する、ということだ。柳田が先祖信仰にこだわったのは、そのためである。>――柄谷氏の柳田論(「遊動論」)は、「世界史の構造」や、さらにトッドの家族人類学「世界システム」との文脈の重なり合いを踏まえて読み込まないと意味(方向)が指示されてこないと私は理解しているが、おそらく、その柄谷氏の読解を批判的にとらえようと、絓 秀実 /木藤亮太 著『アナキスト民俗学: 尊皇の官僚・柳田国男』 (筑摩選書)という柳田論も出版されている。それをも読んで、総体的な視点に触れることができて、このブログに記入できれば、と思っている。

2017年5月10日水曜日

「戦闘」をめぐって(5)

「五年間日本に駐屯していた米軍は、戦闘部隊としての士気を失っていた。頼みになるのは制空権だが、韓国軍の遁走はとどまるところを知らない。一九五〇年の夏、戦争は重大な局面にはいる。国連軍は釜山の周辺地域に追い込まれ、あわやダンケルクの二の舞になりそうにみえた。マッカーサーは、米韓両軍に釜山を死守するように命令した。
 この時である。米国側がある噂を流布しはじめた。この噂は朝鮮で苦戦していた米軍の兵士の間でまことしやかに伝えられていた。これはダレスと国務省の観測気球が火元だったのであろう。
 その噂とは日本陸軍の精鋭部隊が応援に駆けつけて、北朝鮮の軍隊をやっつける、というのである。日本国会でも質疑応答があり、韓国大統領李承晩も、これをとりあげた。もし日本軍が投入されたら、韓国軍は北朝鮮と一緒になって、日本軍に抵抗するというのである。」(片岡鉄哉著『さらば吉田茂』 文芸春秋)

ゴールデンウィーク、予定どおりの帰省の前夜に、実家に電話しても誰もでない。まだ夜の8時だが、認知症の父も、統合失調症の兄も、すでに薬を飲んで寝ているのが習慣だ。母が起きているはずだが、でない。「腰痛になったというから、寝込んでるかい? とにかく朝早く帰るからね」と留守電をいれておく。そうしたら案の定、奥の納戸と化したような日本間の、家具の隙間に倒れていたのだった。いったん起きておかゆを作って食べたが、みんなもどしてしまったという。腰よりも、胃が気持ち悪いという。父と兄は、腹が減っていたのか、私の女房が作ってもたせたサバの味噌煮やイクラの煮込みなどのオカズをむしゃむしゃと食べ始める。私は、こんなにも衰弱した母をみるのは初めてだった。乏しくなった長髪をまばらに乱して、苦痛に顔をゆがめてお岩さんのような幽霊表情だったが、哀れという感情に襲われた。小さきものへの労りを、母と感じ捉えることとは、こういう体験なのか、と私は合点したような気になった。日常的に出会わしている兄には、もうそんな感性はないのか? 夫としての父は、もっと複雑になるのかもしれないが、両者とも、もうアパシーという風だった。母はまた寝入ったので、とりあえず午前中は様子をみることにしたと、弟にメールを送る。「祭日の当番医が新聞の地元欄に書いてあるはずだから調べておいて」と返信がくる。老人ホームの夜勤中だそうだが、ほどなくして、家に弟は現れた。「明日からは早番で病院には連れていけなくなるから、今から行くから。脱水症状なったら大事だから、点滴打ってもらうだけでもちがうよ。」と、気の進まない母を起こして、車に乗せた。「お父さんが徘徊するかもしれないから、留守番たのむよ」と私に。「疲労からくるウィールス性の胃腸炎」と昼過ぎにメールが届いた。私が庭の植木を手入れしている間、父は畑に水をやってくると、家の前の道路を50メートルほどいったところにある家庭菜園の所へと、ペットボトルを両手にして出ていっていた。刈り込んだ枝葉の掃除を終えてふと、まだ父が戻っていないと気付いて畑までみにいくと、いない。国道まで出向いて、セブンイレブンで何か買い食いでもしているかと、迎えにいってみると、ちょうどレジで菓子パンを買っている爺さんがいたので、「お父さん!」と声をかけると、ちらとこちらを一瞥しただけで反応が鈍いので変だと思って後追いしてすぐに、人違いだと気づいた。よろよろして顔つきも似ているのだが、あんなにしっかり歩けないなと。家に電話で確認すると、まだ戻っていないと兄は言う。今度は国道とは反対側の、土手沿いの散歩コースを捜してみることにした。こういうふうに、親を捜してあるく家の人たちが、いまいっぱいいるのだな、と、丈の高くなった雑草の濃いグリーンを揺らしてゆくそよ風を気持ちよく眺めながら、私は確認していた。これはやはり、深刻だな、と、あの母の姿を目にしたときにぞっとした認識を、眩しい日の光の中で再確認しながら、そして、自殺を思い詰めていた青春時、よくこの土手から川沿いの林の中をさまよった当時の自分をも思い起こしながら、私自身が認知症の父になってさまよっている気がしてくるのだった。河川敷に設けた菜園まで行ってみようか、まだ父も健康で、幼い息子の一希と一緒に犬の散歩によく行った場所。父がもう行けなくなったから、どうなっているだろう、あの犬のお墓は、まだ草むらに見えるだろうか……「戻って来た」と兄から携帯が入り、私は途中で土手を降りた。……「おまえの旦那は、歩ってるじゃないか」と、地区の班長負担は後回しにしてくれと頼むと、そう言ってくる人もいるんだよ、と少し気分が回復した母は言う。「いまに覚えてろよ」とも。菜園が荒らされたときもある。夜に、庭に保管してあった肥料が盗まれたりした。すでに近所の家庭では、どこもかしこも、認知症の両親を抱えたり、独り身になっていたり、子どもはよりつかなかったり、親が施設に入ったきりだったりしている。それでも、誰もが助け合いみたいにはならないらしい。生活レベルが似ているので、あるいは似ているように見えるレベルなので、疑心暗鬼になるのだろう。落差が見え過ぎるくらいだったら、足の引っ張り合いはしようもないのではないか。

そうしたで下世話な世間から世界をみると、世界情勢もそれに似ている、ことに気づく。その卑俗な世界での現実主義、政治的リアルとは、次のような意識によっているのであろう。

<ましてアメリカは、冷戦時代は戦略的に重要な日本を手放すわけにはいかないから、多少、日本のすることに不満でも大事の前の小事として目をつむっていてくれたが、これからはもう少し気をつける必要があろう。イギリスもスペインの脅威がある間は、オランダが滅びれば次は英国が同じ運命と思って庇ってくれたが、スペインの脅威が去った途端に、過去の同盟義務不履行までむし返してオランダを叩いている。…(略)…「あいつはどうせつき合わないのだから誘わないでおこう」と思われた時こそ、同盟の黄信号灯った時である。それを、「やっとアメリカは日本の平和主義を理解してくれた」とほっとなどしていることこそ、日米同盟の基礎を揺るがし、ひいては現在の平和主義体制自体の墓穴を掘り、軍国主義への道を開いているのである。>(岡崎久彦著『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』 土曜出版)

スペインやアメリカといった落差を感じさせる支配者が失墜して、誰もが揚げ足をとれるようになった。

で、そんな田舎世界で、平和を志向するとは、それをこの著者の元外務官僚にも説得提示できる論理とは、どんなものでありうるのだろう?

2017年4月28日金曜日

「戦闘」をめぐって(4)

「私が若し開戦の決定に対して「ベトー」(拒否権行使)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない[後略]。
 
 内乱が起きて、側近のみならず、自分も殺されるような事態が起きたかもしれないと、天皇自身が回想している。このような空間が、四一年八月、九月にできてしまっている。天皇は、一九三六年の二・二六事件を、まさにつぶさに目撃し、青年将校や、それに呼応しようとした軍部のトップの姿を見てしまっていたわけです。二・二六事件では、当時の内大臣だった佐藤実、大蔵大臣だった高橋是清、陸軍の教育総監だった渡辺錠太郎などが、蹶起将校らによって殺害されていました。まさに天皇が「信頼する側近」が殺された事件が四年前に起きていました。」(加藤陽子著『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社)

ゴールデンウィーク中の少年サッカー大会、3年生の部は2戦が不戦敗となる。連休中なのだから、そんなものだ。しかし私が「そんなものだ」と自己納得できるようになるには、それなりの時間が必要だった。私の子どもの頃、父親が監督をしていた少年野球クラブは、お盆三日と正月の三箇日にしか休みはなかった。だから、私と息子がサッカー・クラブにお世話になりはじめた7年前当時、ゴールデンウィーク中であっても、練習に通い詰めるのが普通というか、癖が抜けないような状態だった。案の定というべきか、開始5分前になっても、私と息子しか校庭にはいない。「こんなものなのだな」と普通ということをなんとか了解しようと、子どもとボールを蹴っていた。

休みを家族で過ごす、それは普通なことかもしれない。が、サッカー・クラブを通してその家族・親子関係をみるにつけ、そして晩婚だった私よりひと回り若い世代になるのだが、この普通のあり方が気がかりになってきた。

統計的にはどうだか知らないが、今は団体競技よりも、個人競技のほうに親は子供を参加させたがる傾向があるのではないだろうか? 水泳が一番多い気がするが、体操なども多い。要は、自分の子どもだけの健全さに関心を集中できる種目形式である。体育的なことにも、だから母親が主導的だ。仲間との一体的な感動を味あわせたい、喜びを他人と共有することを体験させてあげたい男親は、ゆえに体育館ジムとグランドを掛け持ちすることになる。グランドの方の競技には、関心を示さない母親もでてくる。むろん、父母会やその連絡網には参加しない。参加している母親たちからは不公平だというような不満もでてくる。その声を背景に、コーチをしているから父母会への選出から免れているわけではないのだから、女房を説き伏せて父母会に参加させるかコーチを控えろ、それが公平だ、と揚げ足をとろうとするコーチ陣もでてくる。

こうした様が、私には、現政権の安倍首相への高支持率とつながっているような気がするのだ。森友学園の事件をめぐって、まるで北朝鮮の「将軍様」を連呼するような映像が放映されても、支持率はあがっていく。その北朝鮮をめぐって紛争でも起きれば、おそらくもっと支持率はあがるのだろう。なぜなら、集団(国家)的なことは、それに興味を持つ人、そしてその持ち方が強烈な人ほど任せられる、自分はタッチしなくていい、という話になるので、状況がひどくなればなるほど、自分には好都合、ということになるからである。あの人に任せていて大丈夫なのかどうか、という判断は必要ない。政治への関心を排除させられればそれだけ自分のこと、自分の子どものことに関心を集中できるので、一方的に強権的なほうが都合よくなるのだ。

もちろん、どこまでそんな非現実的なことが持ちこたえられるかは疑問である。他人事のままで済んだのなら、単に運がよかっただけの話だろう。

2017年4月6日木曜日

「戦闘」をめぐって(3)――『シン・コジラ』を観る

「こうした大本教が思想的な軸としたミロク信仰については、従来いくつかの研究成果があるが、ミロクが下生する時に、その世界はユートピアとなる。しかし、破壊と混乱の中で救世主を迎えるという期待が民衆の間に薄いのであり、つきつめた「終わりの日」という認識が少ないのである。これは一つに東洋の時間認識によるところが大きい。日本人にとっての時間は、あくまで現在=今が中心であり、現在に向かって未来のイメージがつくられるといった表象でとらえられるのである。キリスト教的終末論に対比される東洋的神学としてのミロク信仰の特徴が、アジアに共有の時間認識から生じたのだとすると、何故そのような認識論が優位を占めるようになったのかを問うて行く必要があるだろう。
 このことと対比して、たとえば現代アメリカの終末論を検討した荒木美智雄は、日本からは想像もできないような、激しい終末的緊張が、アメリカの社会・文化にみなぎっていることを指摘している。」(宮田登著『終末観の民俗学』 弘文堂)

今週末で、ようやく子どもより長い春休みが終わる。やっと休みに慣れてきてこれからだ、という時なので、名残惜しい気もするが、これ以上の休みは、休みというより失業に近いだろう、という気もするのだが、ちょっと昔は、みな職人さんはそうだったはずだ。ただ、それでも意義深く生きていけた共同体がもはや見える形ではあるわけではないので、やはり私にも不安はある。そういう不安が底流するなかで、暇なので、レンタル・ビデオがはじまったという映画『シン・ゴジラ』を借りて来て観た。

面白かったが、前向きな作品ではないな、とおもった。総監督を務めた庵野氏の「エヴァンゲリオン」も引用編集な作品だったというが、この作品も、既存作品・テキストの引用というだけでなく、実際世界の映像の引用、編集で満ちている。避難所での段ボールで仕切られた生活風景や、官邸での動きの有様なども、私たちは近過去を既視・追体験させられるようにできている。リアリズムであると同時にパロディーであり、希望的なスタンスを見せて終わるところで劇画的である。だから、いいのだろう。ゴジラの漢字表記「呉爾羅」をクローズアップさせたり、その退治作戦名で古事記を連想させるところなど(参照WEB「続 島の先々」)、おそらく、形式的には、日本人の民俗的学的な学説をなぞるように意識して文脈づけられているのだろう。が、本当に意識していたら、私はこうした一般受けする劇画調にはなりえないのでは、とおもった。私は、東京の高層ビル・文明都市社会が見事に破壊されていく様を唖然とした痛快さで追いながら、その破壊者ゴジラに新幹線や山手線などが特攻していったときは、なぜかおもわず笑い出し喝采したくなる自分を発見した。電車は無人運転であったとしても、そこに、私たちは自分の魂、神風で散った遠くない先祖を戦後の文明が無駄にしているわけではない日本人としての魂を乗せて、突っっ込んでいった気になってくる。弁解と鎮魂、そんな虚偽で複雑になった苦渋した感情が、ゴジラの足元で大破するのではなく竜のように空を駆け登っていったとき、一瞬、昇華されたような気にもなるのではないだろうか? 私はならなかったが、しかしそれは、その手前で、戦後の電車が竜になったとき、考えがやってきてしまったからである。

この映画を観る前日まで、前回ブログでも引用した、白井氏と内田氏の『日本戦後史論』を読んでいた。そのなかで、白井氏が佐藤建志氏の『震災ゴジラ』での意見、ゴジラの日本破壊は日本人がそれを待望し、破壊欲望をもっているから、というものを賛同紹介したのに内田氏が呼応し、<ゴジラは日本人の罪責感と自己処罰の欲動を形象化したものですね。><反近代・反中央・反都市・反文明というさまざまな「反」がゴジラという形象をまとって近代日本を破壊するために登場してくる。>(――となると、この『シン・ゴジラ』は、近代の日本という特殊的な傍流から生まれたオタク的延長からその近代を肯定してみせる論理をイメージ化してみせた、ということで「シン」、新しい、ということになる。というか、「ハン・ゴジラ」ということだ)――そしてどうも、内田氏は、そんなゴジラ観に内蔵させるように、現総理の「戦後レジームからの脱却」思想を捉えているようなのだ。

<安倍さんの「戦後レジームからの脱却」がある種の人々の暗い情念に点火するのは、その自己破壊衝動に共感している日本人が多いからでしょう。「こんな国、一度壊れてしまえばいいんだ」という自棄的な気分は右左を問わず、多くの日本人に共有されていると感じます。>

私には、この内田氏の発言はよくわからず、眉唾物なのではないかとおもっていたが、なぜか、この『シン・ゴジラ』を見ている自分の心の動きに出くわして、もしかしたら氏の洞察は当たっているのではないか、とわかってしまったのである。シン・ゴジラとは、アベクンだったのか! 私はそれを面白いと見た、そういうふうに、今の政治風景を見ようとしている、ということではないか? 破局を期待しながら……

しかしそれはまだ、「忖度の構造(天皇制の本質)」(白井氏)の内における破局観である。『シン・ゴジラ』でも、最後は、この破局の中から日本は再生してきたのだ、という歴史的教訓からくる希望(観測)に焦点化させるように結末させている。が、今回ブログの冒頭引用での民俗学からの指摘にもあるように、<つきつめた「終わりの日」という認識が少ない>のだ。それはアメリカでの<激しい終末的緊張>とは違う。彼らの政治的脅迫、政治のリアルが、この<終末>から来ているとしたらどうだろう? 破局と終局の違い。私たちは、破壊のあとに再生がありえるとおもいこんでいる、が、彼らは、終わりなのだ。そこには、楽観の入り込む余地はない。この『シン・ゴジラ』は、そうした他者性に直面して描かれたといえるだろうか? アメリカの政治的脅迫を、破局へ向けてのいちエピソードとして挿入・消化してみただけだろう。他者はイメージ化できない。そのできないことをしようとする努力を映画製作の中で試みようとしたら、まともな形式ではできなくなるだろう。もちろん、私はそれをこの映画に求めているということではなくて、この映画から考えさせられてしまった、ということである。

しかし私は、文化が内面化している時間意識の違い、みたいな比較をしているのではない。破局にしろ、終局にしろ、どっちにしても幻想である。アメリカの他者性は、そんなところにあるのではない。そして日本人の他者性、現実も、そんなところにあるのではない。「忖度の構造」が日本人の現実などではない。それは文化という幻想にすぎない。そうではなくて、たとえば、もし、本当に、アベクン(シン・ゴジラ)の破局が映画ではなく、本当に訪れたら、笑ってはいられない、ぞっとする一瞬がある、その一瞬にだけ、私たちは現実を見れるのであって、またすぐ見えなくなるだろう。が、その一瞬を理念的に握持していないかぎり、まともな現実政策など思考しえないのだ。終局に緊張したアメリカの恫喝も、当人にとっては幻想にすぎない。むしろ、私たち日本人のほうが、その現実表象を経験している。アメリカの歴史では、やっと9・11で、ということかもしれない。ビルいくつかの倒壊でヒステリーを起こしているのだから、彼らの政治的リアルに飲まれているほうがばかばかしい。こっちがしてきた経験知からしても、相手にならないだろう。私たちの破局幻想のほうが、ずっと腹がすわっているに違いないのだ。何を恐れるのだ? もうやられてるのだから、またやってみろ、核爆弾落としてみろ、とすでに挿入されている私たちの民俗学的事実をつきつけてみればいいだけの話ではないか?……とこう、すでに私の思考自体にニヒリズムが入っている。それでも、無意識の願望が本当に実現したとき、私はぞっとするだろう。そんな破局願望は、一瞬にして、吹き飛ぶだろう。

が、政治的リアル、というものを考えた時、私たちのニヒリズムは、現実的に有効なのではないか? それを使ってみるということが、真にリアルなものを踏まえた本当の現実政策に近づくのではないか?

2017年4月5日水曜日

「戦闘」をめぐって(2)


<ところで鳩山首相がやめた原因が、北朝鮮の核だったのではないかとPART1で書きましたが、これはあてずっぽうで言ったわけではありません。実は細川護熙首相が辞任した理由が「北朝鮮の核」だったことが、非常に有名な関係者の証言によってあきらかになっているのです。その証言者とは、小池百合子・元防衛大臣です。…(略)…
 文字通りの盟友だった武村長官を切ることに悩みぬいた細川首相は、ついに内閣改造を決意したものの、社会党の連立離脱をちらつかせた反対にあって断念。4月8日、辞任することになります。最初に小池議員に電話をしたときから、わずか2か月後のことでした。マスコミは突然の辞任の理由として、国民福祉税の導入失敗や、佐川急便に関するスキャンダルをあげていましたが、側近として苦楽を共にしてきた小池議員は「私の見方はまったく違う。ずばり、北朝鮮問題だ」と断言しています。それは辞任前に本人の口から、こう聞いたからだというのです。
「北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない。ここは私が身を捨てる〔辞任する〕ことで、社会党を斬らなければダメなんです。それで地殻変動を起こすしかないんです」

細川内閣で官房副長官をつとめた石原信雄氏は、この1994年2月の日米首脳会談の「相当な部分が北朝鮮問題だった」とのべています。(『内訟録――細川護熙総理大臣日記』)そして北朝鮮に対して海上封鎖を行うつもりだったアメリカから、その場合、北朝鮮は機雷を流してくるだろうから、それを日本が除去してほしいと頼まれたが、内閣法制局の判断でダメだったということも証言しています。「北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない」とは、おそらくそういうことを言っているのでしょう。

社会党に反対されて武村官房長官を更迭できず、機雷の除去にも応じられない。核を持つ北朝鮮が、いつ「暴発」するかわからないのに、アメリカからの要望にこたえられず、うまく協力関係が築けなくなって辞任に追い込まれてしまった。これは鳩山首相が辺野古案に回帰することになったときと、ほとんど同じ状況です。
 このときアメリカ側のだれか、または日本側のだれかが、意図的に細川首相を辞任へ追い込んでいったかどうかはわかりません。細川首相の独自の安全保障構想が警戒されたという話が本当かどうかもわかりません。
 ただ言えるのは、安全保障面でアメリカと距離をおこうとする日本の首相があらわれたとき、いつでもその動きを封じこむことのできる究極の脅し文句を、このとき「彼ら」が発見したのはたしかだということです。それは「言い方や表現」は別にして、「北朝鮮が暴発して核攻撃の可能性が生じたとき、両政府間の信頼関係が損なわれていれば、アメリカは「核の傘」を提供できなくなります。それでもいいのですか(=北朝鮮の核をぶちこまれたいのか)」という内容だと断言して、まずまちがいないでしょう。>(矢部宏冶著『本土の人間は知らないが沖縄の人はみんな知っていること』 書籍情報社 2011年発行)

日本がアメリカから独自的な判断で動こうとすると、テポドンが飛ぶ、とか言われていたことがあった。北のナンバー2は、アメリカのスパイだとか。上の話をきくと、言うこと聞かないと北の核をぶち込ませるぞ、という脅迫現実が本当にある、ということなのだろう。それを身近に見知ってきた小池都知事は、ではそれをどう教訓とするのだろう? 相手の手の内はわかってきたからもっと逆をついて独立スタンスを作っていこう、とするのか、自分の地位を維持するためにも以前の首相たちよりもっとうまくやらないと、と思うのか……。もしかして、すでにこうした件で、安倍と話しがついて共闘体制に入っているか、あるいはさらに、現総理を飛び越して、アメリカ側からのコンタクト(要望)に応えようとしているのかもしれない。週刊誌の見出しによると、佐藤優氏は、アメリカの金正恩暗殺計画に協力するしかない、ような立場らしいが、庶民はいったい、そんな政治のリアルを、どう受け止めればいいのか? 協力しないと、逆に、北の核をぶち込ませるぞ、となるのだろうか? それはあくまで脅迫だが(アメリカ軍隊を撤退させたフィリピンでは持ち得ない被爆経験者の恐怖だろう…)、それを本当にそうなるかもなこととして腹をくくって、それが陰謀であるとすることに依拠しない(証明など不可能なのだから)、誰とも共有しうるより誠実な論理を紡いでいくことは、あんまり難しくないのではないだろうか? みな戦争はきらいだし、仲良くしようよ、という話が前提なのだから。そこに、個々の具体的な文脈を流し込んでいけばいいだけの話だ。そのバカみたいな話を、大胆に言える勇気があるかないか、の話だろう。脅迫に負けてずるずると悲惨さを味わう生き地獄のほうが、大変なのではないだろうか?

2017年4月4日火曜日

「戦闘」をめぐって

白井 現場のプロは冷静ですね。全然現場を知らないような連中に限って、タカ派的な言動をする。基本的には安倍晋三もそういう気質だと思うんです。最近やっていた『NHK特集』の自衛隊についての番組を非常に興味深く見ましたけれども、やっぱり自衛隊の現場と「積極的平和主義」のような政治のスローガンとは、まったく乖離していると感じました。ここ一〇年、二〇年ぐらい自衛隊がやってきたPKO活動というのは、国際的にも結構高い評価を得ている、と。そういう実績を積み重ねてきたところで、安倍さんの路線は「ますます活躍してもらいますよ」というのだけれど、自衛隊の現場からすれば「それは全然違う話じゃねえか」と思っているのが伝わってくる。もちろん彼らは政治的発言を規制されていますから、ストレートには言わないんですけれども、間違いなくそれが本音だろうと思うんですよね。そこら辺はどうですか。防衛研究所なんかで話されていて、今の政権が取っているような方向性と現場のトップとかの温度差について知りたいですね。
内田 僕を講演に呼ぶというわけだから、バランス感覚はいいですよね。クールな人たちです。できるだけ広い範囲で情報を取ろうとしている。情報を解釈する文脈もできるだけ多様であった方がいい。憲法集会で護憲の発言をするというので、後援を拒否した神戸市に比べると防衛庁の方がはるかにオープンマインドです。それだけ自分たちの職務に本気だということです。
白井 そう。だから、「積極的平和主義」なんて、現場からすればもういい加減にしてくれ、という話だと思うのです。」(内田樹・白井聡著『日本戦後史論』 徳間書店)

南スーダンでのPKO活動に参加するために派遣された自衛隊の、「戦闘」と記述された
日報の隠ぺい問題。とりあえず、防衛大臣からの指示調査ということで、宙づりにされたままなようだ。現場仕事をする職人としてこの件の記事に目を通していきながら、これは現場の人間が、基幹方針・設計をする会社=政府を告発するために仕組んだリーク事件なんだろうな、と感じた。昨日、冒頭で引用している、2年ほど前に出版された内田・白井対談の中で、私がそう感じたことがすでに言及されていたので、次期遅れだが改めてブログで書き留めておこうとおもった。

おそらく、現場の意図には、次の3点があったろう。
(1)事実を知ってくれ。
(2)事実を捻じ曲げたところで成立する政策・方針のもとでは、仕事をする態度が決まらない。これでは俺たちはやってられないぞ。
(3)誰か助けてくれ。

日報を隠ぺいしたのは、防衛省側ということになっているが、実体はそうではないだろう。もちろん、省内や自衛隊幹部の中にも、政権よりに動いていく役割を引き受けた人もいるだろうから、そういう人が、リークが確認されたあとで、削除という忖度行為に出たのかもしれない。追求の追っ手は、自民党内部から、あるいはこの件では共闘できる野党の一部との協力ではじまったように伺える。が、結局は、問題を喚起しただけで、権力側追求の手はひっこめたようにみえる。もちろん、まったく逆の見方もできる。隊員が単に意図なく書いた日報を読んで、法の根幹に触れる恐れがあると気付いた幹部の一部が削除し、その早まった処置を知った政権側が、それを出汁に、より強固・全面的に自衛隊を統制し牛耳っていく手段にした、とか。現政権よりよっぽど文民的な軍隊を、より軍隊の名にふさわしいものとするために。内田・白井両氏も、上のような指摘をしながらも、冷戦後にアメリカを仮想敵国の一つとして政策立案する必要性を説いた自衛隊幹部候補生は、除隊を迫られた例がある、とも報告している。とにかく、アメリカの真の友人となるために、自衛隊員に血を流すことを求める勢力の方が声高のようだ。といっても、おそらく自衛隊のメンタル的実情を知っている総理大臣自身は、なおそこまでの覚悟はできていないので、撤退の決断にしたのかもしれない。もちろん、まったく逆の見方もできる。この隠ぺい問題から、何を事前に処理しておかなくてはならないかも見えてきたので、次にはより巧妙に大胆なことができるだろう、それをするために、今回は撤退を世論に見せておく、とか。

前線の隊員たちは、私たちのメンタル的な実情を露わにしてみせてくれているけれども、そこにいない私たちには、なお自分たちのことがわかっておらず、勇ましい言葉に流されている。私たちが強くない、というよりも、そういうふうに、強くあること自体が本心は疑問なのだ。サッカー界で、清武選手や山口選手が、なんでヨーロッパでないと駄目なのかな、と考え直して、日本に舞い戻ってきたのに似ている。そのまま無理してたら、戦争後遺症になってしまうかもしれない。この内向きな態度を、(若手研究者にも多くなっているのだそうだが)、各々個人の人生の是非を超えて、考えてみなくてはならない。

いま、<忖度>という言葉が国会でも議論になっている。これは、小池都知事が、日本の体制的あり方を批判する根拠として引用した<空気>という概念同様、私たちの構造的な心性、敗戦の原因として原理論的に考察されてきたものだ。それが国会で、政治家に、ギャグにされている。<忖度>・<空気>があると<忖度>する<空気>があるだけじゃないか、と。政治のリアルは、そんなものじゃないよ、と。

おそらく、その通りなのだろう。私たちの内的な構造(心性)など考慮してくれない世界=政治のリアルがある。そこでは、<忖度>ではなく具体的な強迫が、<空気>ではなく具体的な強圧があるだろう。豊洲問題、地下水と建造物は構造的には別なので基準値以上の毒素が検出されても科学的には安全だ、というのだから、もはやなんで検査が必要なんだかもわからないくらい、つまりは事実が問題なのではなく、豊洲か築地かという空気・世論風潮をどう操作して決定していくか、という内的な政治談議になっている。しかしおそらく、そんな内向きな関心を超えて、横やり的に、外圧が入るのだろう。そして私たちは、自分たちの関心から物事を決定していく道筋を提出してくれている政治勢力をほぼ失っており、ただ、外圧と真の友人となろうとする勢力が、実質は少数派なのに、現場を仕切っているのだ。前線に触れず自分のことにも気付いていない私たちは、その勇ましい人たちをなお支持している。本土空襲まで戦争の実際を気づけずにいたかつての庶民のように。だから、気づいて、率先して戦おうというのか?

が、私たちが本当に戦えるメンタルを付けるには、清武選手の決断の方向からによって、と私は考える。もちろん、個人の人生問題ならば、ヨーロッパでチャレンジしていく若者が出てくることは奨励すべきことだ。が、私たちの気分、こんな「戦闘」やってられねえぞ、そこに正直に帰って立て直すことからしか、負けない持続的なメンタリティーを構築していくことはできないだろう、と、弱者の少年サッカー・クラブに関わる現場職人さんは思うのだ。

2017年3月25日土曜日

夢のつづき(2)


「古代人は脳の内部から発光するこの光のイメージのことを、よく知っていたようです。トゥカノ族をはじめとするアマゾン河流域のインディアンたちが、幻覚性植物を服用することで体験し、家の壁やさまざまな装飾品の上に描いたのとまったく同じ図形を、考古学者たちは早くも旧石器時代の遺跡から発見してきました。そればかりではありません。このパターンは世界中に見出すことができるのです。…(略)…これは人間が自分の脳の内部から出現してくる光のイメージを、幾何学的なパターンとして表現したものなのです。自分の内部からわきあがってくるこのようなパターンについて、人類はずいぶん古いころから豊かな体験と知識をもっていたようです。…(略)…眼球の中に出現する同じような光のパターン発生の現象は、ハッシシやメスカリンなどを吸引した時ばかりではなく、高熱を出した時にも、白昼夢を見ている最中にも、あらわれることがわかってきました。」(中沢新一著『カイエ・ソバージュ』「第四部 神の発明」「第一章 脳の森の朝」/講談社)

このブログでも取り上げた東浩紀氏編集の『ゲンロン 4』の対談において、東氏が、まず情報量の多さにおいて、柄谷氏より中沢氏のほうが圧倒していてそれだけでも勉強になる、という趣旨の発言をしていたので、私もその著作は未読だったので、読んでみた。内容の表面上においては、やはり柄谷氏と中沢氏の思考は似ている。が、たとえば一神教においてモーゼの評価をどうするかで、二人が決定的な差異をみせていることからも伺えるように、やはり、似て非なるもの、なのだろう。が、それはあとで考えよう。

今日は、中沢氏がその著作で論じていた、「内部視覚」とか、「内部閃光」と呼ばれるものについて、私も今年の「初夢」に続いた「夢のつづき」と言うブログでどうもそういう類いの現象に触れていたのかもしれないので、さらに書き留めておきたくなった。

私は、そんな現象がすでに研究されていることは知らなかった。ただ、何かすでにあるだろうとおもっていた。中沢氏の話が、真実かどうか、私にはわからない。が、私の「眼球の中に出現する同じような光のパターン」について、関心が向かうのだ。

最近、寝ざめの朝に、こんな経験をした。
夢をみていて、これが夢だな、と気づいたので、寝る前にやっている訓練のように、目を開けるのではなく、目を閉じたまま眼球だけをあけて、あげてみた。すると、夢の映像がボロボロと崩れていきながら、緑色の輝きの中に、上の図のような模様が現れてきたのだ。中沢氏の著作の中での引用紹介では、p502にあるトゥカノ族の「基本パターン」8に似ている。中沢氏の著作を読んで気になり始めたから、ストーリ性ある夢のつづきとして、そのような模様の夢を見たのかもしれない。が、それは異様に輝いていた。それがおそらくは一月近くまえ。

次に、1週間ほどまえ、次の図、ヨットのような絵文字をみた。やはり、夢だな、と気づいて、その夢が崩れて、浮き上がって来たのが、やけに白く輝いた背景の中での絵文字群だった。群というのは、もっとたくさんあったからで、それが日本語の縦列とか、英語の横文字とかの秩序よく並んでいたのではなく、バラバラな向きで散らばっていたのだ。私は、これは記号というより、文字なのではないか、と夢の中でおもった。目前に広がっているので、ひとつひとつの形ははっきりしない。そこで、中央付近にあったヨットのような形の文字に目を凝らした。下のほうが、2線であったか、□であったか見取れなかった、というより、目覚めてすぐに書き留めなかったので、そのとき、2線か□と記憶したのか、今はおもいだせなくなってしまっている。ただ、ヨットの帆が、斜めになっていたのだけははっきりしている。

寝入る前に広がる紫色のまだら模様を目を凝らしてみれば、格子模様や、指紋のような波だったり、色々あるようだが、よく見取れない。

こうした内部視覚が伺える領域は、夢の映像をみる脳の領域とは違っていると私は推察している。それは、「眼球の中に出現する」ような感じで、ゆえに「視覚」的だ。夢は、脳裏に、という感じで、脳みその中だ。しかしその2領域は連動している。私の見た印象では、荒い視覚模様が下地で、それが夢の複雑な映像を連想構築していく感じだ。基本的には、印象画の点描の原理に似ている。が、その点から画像への移行のどこかで、処理する領域が変わる。スイッチが入れ替わる。

私が、そう見える、そう感じる夢を見ているのかもしれないのだとしても。

2017年3月18日土曜日

サッカーIQテスト10問

本年度、新宿区の最後の11人制サッカー大会で、プロあがりの監督率いる強豪クラブ・チームを延長・PK戦の末破り優勝する。15年振り、不良ヤンキーたちで優勝した初大会25年前を含め3度目となる。昔と違い、単に活発な子どもたちが集まればなんとかなる時代ではなくなっている。逆に言えば、運動能力のそれほどない子どもたちの集まりでも、サッカーの知識・理解度が深まれば、強豪チームに張り合えるようになることが証明されたといっていいだろう。新宿界隈の上手な子どもたちがみな集まってくるような相手チームなので、判官びいきからか、応援はみな私たちに集まっていた。しかし、来年度からは、関わる小学校の生徒数、入部している子どもたちの減少を見越して、新体制でのぞむことになる。私は引退した監督に代わって、連盟理事に派遣される。そうした立場から、今後どう常勝チーム、いや負けないチーム体制に固めていくのかが、作業になる。



*****

(1) 弱い奴が強い相手を倒すことを、相撲では金星という。では、サッカーではなんという?

(2) ジャイアント・キリングとは、サッカーだけの話ではありませんね。たとえば、君たちのおじいさんをたどっていくと、巨大なマンモスを追いかけて日本列島にやってきたおじいさんに出会います。そしてもしそのおじいさんがマンモスにやられていたら、君たちはここにいませんね。では、おじいさんたちは、どうやってマンモスを倒してきたのでしょうか?


(3) サッカーでも、マンモスをみんなといっしょに落とし穴や崖に誘導して突き落とし、身動きを封じてから仕留めるように、ボールを持った強い相手をまずはワナの方へ誘導します。では、サッカーでは普通、そのワナはどこといわれる場所にしかけるでしょうか?


(4) サッカーは狩猟民、狩りをすることで食料をとっていたヨーロッパ人の間で生まれたものなので、田んぼや畑で食料を栽培していた農耕民の日本人にはなかなかゴールを仕留める決定力がない、とか世の中では言われています。しかし、お米を食べられるようになる2千年前よりもっと前までは、もちろん日本人も何万年と狩りをしていたので、その習性はもう君たちの遺伝子に本能として眠っていると考えられます。では、その狩りの本能は、相手がボールを持っている守備の時と、自分たちがボールを持っている攻撃の時と、どっちの時がよく発揮されると考えられますか?


(5) 攻撃の時とは、相手から奪ったボールをゴールへと運んでいる間のことですね。その間とは、ゴールという一つの目標を達成していくための筋道、と言えるでしょう。では、守備が本能によるとしたら、攻撃とは、人間のどんな能力が発揮されやすい、あるいは目標達成のためにどんな能力が必要とされる、ということになるのでしょう? その能力を表す言葉を知っていますか?


(6) 理屈、理性、筋道をつけていく論理力とは、問題を解決していく能力のことです。真実は一つ、と名推理力を発揮していく名探偵コナン君の得意なスポーツが、一つのゴールへと突き進んでいくサッカーであるのは、どちらもが事件、問題を解決していこうとする考え方として共通しているところがあるからですね。では、サッカーにおいて、その問題とはなんですか?


(7) 目標達成の邪魔をする相手がいるので、その邪魔をどかそうと工夫して選手は動かなくてはなりませんね。つまりそうやって、サッカーの動きは生まれていく、生まれてくると考えられます。サッカーでは、その動きのことを、○○○○を作る動き、とも呼んでいますね。つまりは、そのサッカーの動きを産み出すおおもと、原動力と考えられるそのカタカナ四文字のサッカー用語とはなんですか?


(8) スペースを空けて、埋める――その二つの動きがサッカーの基本原理に見えるのは、電気を流す、止める、という0と1、オンとオフという二つの基本言語だけで複雑な現象を産み出しているコンピューターの世界に似ています。そしてゴールは中央にあるので、それを守ろうと真ん中ほど邪魔する相手選手がたくさんいるのがその世界の筋になりますね。つまり、そこにはいかせるスペースを作りにくい。それゆえ、攻撃もまず人があまりいないサイドから侵入し、中央に密集した相手選手の間隔をあけようとするのが普通になります。が、守備のチームも相手をサイドへと誘導し、攻撃のチームもサイドへと相手を誘導する、これは矛盾ではないですか? いわゆる、このサイドの攻防の問題は、あらかじめ想定されるケモノ道のような筋道ですね。そのため、サッカーの監督は、発生する矛盾をあらかじめ目に見えるよう想定して問題解決のためのイメージを選手が持ちやすいよう、試合前に選手たちへと提示しておく設計図を描きます。この設計図のことを、サッカーではなんと呼んでいますか?


(9) システム、フォーメーション、単純には、形と呼ばれるもの。なんで人間の営みには、それが重要なのですか?

(10)たとえば、ここに棒が落ちていたとして、君はそれをどうしますか? 漢字の一のような形のものを手に、どう使おうとするでしょうか? この形のもので、サッカーはできますか? 丸いボールのような形のものでなければ、難しいですね。つまりそれは、この棒という形の弱点かもしれません。では、強味はなんでしょう? 君は、これを使って、何ができますか? 他の人をたたく? たしかに武器の剣になりますね。それから? 地面に絵を描く。できますね。地面を突っつけば、穴を掘ることもできますね。木の幹や、他のものを叩いて色々な音をたててみたらどうでしょう? 音楽もかなでられますよ。つまり、できない、やりにくいというその形が持っている限定、弱点が、今度は様々な想像力、そして創造力を産み出してくれます。不自由を受け入れることが、人間に自由を与えるのです。自由にやってごらん、そういわれるほど、人はどうしていいかわからなくなるものです。そして人間という形自体が、一つの限定、不自由ですね。四足の獣たちより足は遅いし安定していません。脳みそがたくさんなので頭が大きく、それを細い首で支えるだけで、肩こりや腰痛にもなってしまいます。しかし、その獣たちになかった大きな脳みそゆえに、私たちはあらかじめイメージし、問題を想定し、矛盾を解決していくことができたのです。そしてそうやって、君たちはいま、ゴールの前に迫っている。囲碁のようにスペースを陣取りながら、将棋のように王手をしている。記憶の大きさと計算の早さが進歩した今の科学技術では、もう囲碁も将棋も、人間はコンピューターにかなわなくなっています。けれども、コンピューターにできることは、王手までなんですね。論理的に詰みの筋道を開発していくまで、です。将棋なら王手で終わりですが、サッカーでは、ゴール前まできてフリーでシュートをしても、本当に入るかどうかわかりません。王手しても、本当に王様が取れるかどうかは、やってみるまでわからないのです。そこに、人間とコンピューターとの違いがあるのかもしれません。君たちはでは、この違いに、どんな意味を認めますか? そもそも意味があるとおもいますか? コンピューター・ロボットの鉄腕アトムは、自分が人間として認められなかったことを悲しみ、人類を救うために空のかなたへと消えてゆきました。サッカーをする君たちは、そのサッカーという人の営みを通して、どんなことを考えていけるでしょうか? イメージできるでしょうか? 


<Above us only sky
Imagine all the people
Living for today...>


僕らの上には空だけ
想像してよ、
すべてのみんなが今日を生きている……
(ジョン・レノン「イマジン」)


*その後の情勢については、2019.2.10「世界システム論で読む少年サッカー界」