このブログで、量子論をめぐる試行錯誤的なメモをだいぶ積み重ねてきた。もともと、その関連の書籍を読み始めたのは、
河中郁男氏の中上論における「観点」という概念が、量子力学からきているのかな、と推察し、その方面に全く不案内だったので、確認してみようということだった。が、読んでいるうちに、現今の科学、社会的領域にまで、いろいろ考えさせられてきた。とくには、若い頃、人間の基礎学を、柄谷行人経由で学んできたものには、その量子論をめぐる問題は、柄谷氏の『探究Ⅰ・Ⅱ』で宙づりにされたままであった、哲学的な課題を想起させてきた。今回のメモは、そこでの、単独と普遍との関係をめぐる考察へのメモである。
上のような私の連想が、そう突拍子なものではないことは、他の人の記述からも確認できる。
<柄谷自身も述べているように、もちろん「固有名を確定記述に置き換えると可能世界で背理が生じるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということは、固有名がすでに可能世界をはらむ現実性にかかわるということを意味する」以上、あらゆる固有名の存立構造(を支えている現実世界の枠組み)は、可能世界を経由することで遡行的に成り立っているとも言えよう。しかし、そのような固有名の単独性をめぐる形而上学思弁とは無関係に、この現実世界の唯一無二性は、柄谷の論旨とは別の角度からなお問い返すことができるように思われる。たとえば、赤間啓之は「彼(柄谷―引用者註)にはもともと固有名の「他ならぬこれ」を、歴史が実現されたもの以外ではありえなかったという単純明快な必然史観と結び付ける傾向がある」と述べており(『ラン・ウィズ・ア・《ベルクソン》――あるいは「可能的なもの」と「潜在的なもの」』(『現代思想』第二二巻一一号、一九九四・九)、固有名(=超越論的歴史)が基礎づけられる現実世界/可能世界の階梯秩序は、存在論的なレベルでのさらなる議論を誘発しうるはずである。言うまでもなく、これは『存在論的。郵便的――ジャック・デリダについて』(新曜社、一九九八・一○)以来の東自身による哲学構想とも密接に関わる問題系であり、…(略)>(加藤夢三「偶然性・平行世界・この私」『現代思想』二○二○二月号「量子コンピュータ」)
より通俗的にいえば、柄谷が単独性を定義的に言い換えてきた「他ならぬこの」とは、量子論でいう、「波(他なるもの=潜在性・可能性・普遍構造)」と「物質(この=現実・単独性」との同時存在的関連性、と言えるのではないか、ということだ。この柄谷の物言いを、小林秀雄的に歴史の必然性として理解することは、その歴史観を柄谷が批判してきたのだから、間違いになろう。だから、この論点を把握するのに、「傾向」という用語を、上引用記述者らは導入しているわけだ。しかし、「傾向」とは、暗に批判してみせているだけで、その用語選択自体が、論点をずらして他の記述をしはじめる口実なのではないかと予感させる。むしろ、私には、かつて大澤真幸氏が、柄谷との対談で、その単独―普遍との関係づけが、唐突すぎてわからない、と発言していたときがあったとおもうが、そう不明と批判しておいたほうが誠実なのではないかとおもう。たしかに、論理的には、詰めがない、ということなのかな、と私自身、宙づりのまま数十年が過ぎていったわけだ。が、本能的には、唐突的に関連しているのではないか、単独者であることは、そのまま、普遍的ではないのか、という思いが抜けきらないのである。私は、東浩紀氏の論考を追ってきたわけではないのでよく知らないのだが、最近になって、とくには量子関連の書籍を読み進めるうちに、東の問題領域と重なってきているらしいことが知れてきた。一昨日買ってきた最近作の『ゲンロン12』でも、「訂正可能性の哲学」なる論を発表している。まだ読んでいないが、エマニュエル・トッドなどを挿入しているようである。私は、このブログでも、トッドをめぐって、またトッドと柄谷の世界史の構造をめぐる図解などを提示してきた。がおそらく、引用導入の意図は違うのではないかという気がする。東はたぶん、単独―普遍の関連において、家族というような媒介項、中間的なものを導入するための布石として、トッドを導いてきているのではないかな、と。だいぶ以前に、『クォンタム・ファミリーズ』を読んだが、やはり、私には、そこでの平行世界を重視していくような姿勢には、違和感を抱いたものである。「中動態」をめぐっての理解でも、私は東のものより、國分氏の方に近い気がする。
で、その國分功一郎の中動態をめぐる著作から、この問題にかかわる箇所を抜粋してみる。
<中世のスコラ哲学に「ハエッケイタス(haecceitas)」という概念があります。文字どおりには、「これ(haec)」であることを意味します。英語ではthis-nessと言うので、ここでは「<この>性」と翻訳したいと思いますが、個別具体的に特別な意味をもつものとして対象が現れてくるとき、その対象には<この>性があると言うんですね。言い換えれば、ほかならぬこの個体、取り替えがきかないこれとしてこの物やこの人を見るとき、そこには<この>性が見出されていると考えるわけです。…(略)…こう考えてくると、<この>性が固有名と結びついていることがわかります。固有名によって名指される個体には<この>性があるわけです。…(略)…
ドナルド君(自閉症者――引用者註)はそのときの状況を正確に記憶しており、それを「あなたの靴を引っ張って」という言葉に対応させている。言い換えれば、ドナルド君はこの表現を使うたびにその具体的な状況をいわば追体験しているわけです。その具体的状況から言葉を引きはがさない。
ドナルド君は経験した出来事のクオリアを別の言葉に還元することを拒絶していると言えます。言い換えれば、固有名として捉えられるべき出来事を確定記述に還元することを拒絶しているわけです。一語文が二語文、三語文より貧しいわけではありません。むしろ逆で、二語文、三語文を使えるようになるということは、目の前で起こった新しい出来事を手持ちの言葉の組み合わせに還元してしまうということです。つまり現実を抽象化し、一般化し、貧しいものにしている。
それに対し、ドナルド君は出来事を経験したときの驚きと喜びを何度も追体験しているわけです。ドナルド君はすべての言葉を<この>性をもつものとして経験していると言ってもいいでしょう。言葉を一回きりの文脈から引きはがして貧しくすることがない。>
果たして、ドナルド君は、自閉症者と診断される者たちの一「傾向」は、歴史的必然観として理解されえるものなのだろうか? ドストエフスキーの『白痴』におけるムイシュキンとは、このドナルド君のような存在だった。私は、その「傾向」を抽出してモデル化した作品として、鹿島田真希著作の『ゼロの王国』を論じた。
ところで、私の問いは、単独―普遍という回路が、本当に不明であり、論理的詰めを欠いているもの、なのだろうか、というものだった。言い換えれば、それらが、直接的な関係であることはありえないのか、早とちりな思い込みにしかならないのか、というものだった。が、量子論関連の書を読み進めているうちに、そうでもない論理が、数学上にあるらしいことが示唆されている、ということを知った。このブログは、そのメモが本意である。
<ここまで、量子確率論あるいは非可換確率論のような量子論の数学的構造が、量子現象のみならず、人間レベルの現象のモデル化においても役立つことを述べてきた。繰り返しになるが、ここでは決して人間レベルの現象の核心が量子現象に還元できるといった強い主張をしたいのではないし、もちろん「電子も人間と同じように自由を感じている」といった擬人観的な主張をしたいわけではない。むしろ、量子レベルの現象と人間レベルの現象が異なっていることを踏まえた上で、その間の「本質的な同じさ」の核心を捉えようとしているのである。なぜなら、量子現象も人間現象も同じ「現実」の出来事であり、そうである以上、その双方を記述できる普遍的な仕方があるはずだからである。(でなければわれわれは古い物心二元論を暗黙のうちに前提し続けることになるだろう。)
その核心とは、数学的には量子確率論あるいは非可換確率論によってはじめてモデル化できるような、「あらかじめ選択肢の集合や重みが与えられている」という仮定では成り立たないタイプの非決定性、すなわち「不定元としての現実」ということである。われわれが常に、そして時々刻々と新しく直面し続けるこの現実は、量子場のレベルから人間のレベルに至るまで、「問いがなければ答えがない」という構造=出来事に貫かれているということである。たしかに決定論的モデルは、現実のある側面を理解する上で役立つ。しかし、それはきわめて限定的な状況に限られるのであり、一般的には確率論的なモデルによらなければならない。それどころか、通常の確率論をも超えた「量子確率論」や「非可換確率論」すら必要になることがあり、しかもそれは何も原子以下のレベルにおける特例ですらないのである。>(『<現実>とは何か 数学・哲学から始まる世界像の転換』 西郷甲矢人・田口茂著) 筑摩書房)
そこから、私と他者、単独と普遍との関連で、何が言えるというのか?
<倫理をめぐって「置き換え」ということを言うと、「置き換え不可能な個人、あるいは人格をおろそかにするのか?」という疑念や懸念があるかもしれない。たとえば「労働者が置き換え可能な歯車として扱われる」といった文脈では、「置き換え」ということがしばしばネガティブに語られるからである。
しかし、ここで言う「置き換え」は、多数の項(将棋のコマや碁石のようなもの)を上空から眺めて、それらを互いに入れ替えるようなことではない。むしろ倫理において、私と他人を上空から眺める視点はない。完全に第三者的な神のような視点が確保されるなら、そこで行われるのはもはや倫理的な決断ではなく、計算・衡量による判断である。いまここでどうすべきかの決断を迫られるとき、倫理の問題が浮かび上がってくる。そこでは、ある意味では、置き換えのきかない仕方で私の自由な決断が要請されている。しかしその置き換えのきかなさは、恣意的な決定を意味しているのではない。私の自由な決断が要請されているからといって、私がなんでも勝手に決めてよいということではない。私はまさに、ある普遍的な「置き換え可能性」のなかへ自らを投げ入れるのである。そこでは、自由で個性的な決定そのものが、ある普遍的な置き換え可能性の創造でもある。「置き換え可能性」とは、この意味で「置き換え不可能性」、かけがえのなさそのものの「置き換え可能性」を意味しているのである。
これはまさに、「私」という語についてわれわれが述べた構造とまったく同じである。「私の視点からしか一切を見ることはできない」という置き換え不可能性(個体性)そのものが置き換え可能であるということを理解することが、「私」という語を使えるようになるということであるだろう。レヴィナスが言うように、「私である」ということは「他人の身代わりである」ということである。「身代わり」とはsubstitutionのことであり、これは「置き換え」とも解釈できる。「私である」ということは、かけがえがないのであるが、このかけがえのないあり方そのものが、「他人のための身代わり」として置かれているのである。みずからが置き換え不可能であるということそれ自体の置き換え可能性を理解したとき、われわれは自己の存在の根本的な倫理性に気づくはずである。>(同上)
この共著では、私と他者との回路を、「回転扉」という比喩で述べてもいる。それは、中間項の媒介の余地があるとするより、より直接的な関係に近いものであろう。数学での圏論からそう論理づけられてくるらしいのだが、私には、正確にはわからない。しかし想起するのは、柄谷は、中間団体の必要性を説きもした。東は、アニメや漫画などでの「世界系」とされる作品を批判するに、そこに家族や組織のような中間的な媒介がはしょられ描写されない非現実性をとりあげた。イエスは、「その者の敵は家の者となる」と言った。私の「傾向」における問いとしては、たぶん、こうなる。<単独(私)と普遍(他なるもの)との回転扉的な直接的な関係において、家(族)や組織(仲間)といった中間的なるものは、どのように関与することができるのか? その在り方と是非を、どのように私は、あるいは人は、判断したらよいのか?>……自衛隊員になる、といった息子に、私は、関与できるのか? どのようにしたらよいのか? ということである。
おそらく、これらの問題系を、少なくも意識化してみようと、諌山創氏のコミック漫画『進撃の巨人』を、『人を喰う話2』として、考察してみることになるだろう。この若い想像力によって描かれた世界系の作品は、これまでの乗り物系の系譜を踏まえながらも、明白に、「エヴァンゲリオン」で顕著になった大人たちの世界観を告発している。それは、量子論的な現実を踏まえることによってなされている。