ピロティに区画された団地の駐輪場から自転車をだすと、まだ西に高い陽の光が矢継ぎ早に降り注いで、シャワーを浴びたばかりの肌に、射るような痛みを覚えさせる。日向に剥き出た両腕は、二度目の真夏日になめられて黒光りしている。梅雨が宣言されるや雨がやみ、35度を超えていく猛暑日が続いたのだった。さっそくこれまでで一番早い梅雨明けが宣言され、追い打ちをかけるような本格的な夏がやってきたのだ。
二又路に挟まれた交番から駅へと向かう坂道に入ると、正岐は陽炎の揺れる坂の底へと潜っていった。風のように身を切る空気は熱い。沸騰するように、汗が噴き出てくる。製鉄所の地下のシェルターに身を潜めて、釜の底で煮られていくような人々の姿が、ふと連想されてきた。その戦争の地で、大統領は冬のことを心配していた。暖房の途絶えた厳冬期は乗り切れない、それまでには終結させたい……。
陽の淀みからそのまま真っすぐ駆け上がっていけば、戦前はプロレタリア通りと呼ばれもした駅前の銀座通りにでる。正岐は左斜めへの路地をにさらに降りて、火葬場へと向かう道の方を進んだ。どん底になったような左手に、生垣に仕切られた火葬場が見えると、車道にかぶさった枝を元のほうから切断したばかりの桜並木に入り、そこから、今度は駆け上っていく。途中右側、だいぶ以前、もう20年以上も前まで植木手入れにはいっていた民家がある。そこのお宅の庭にも古木となった桜があった。えっちゃんが、チェンソーでそれを小さくした。「いい形になったわよね。上手なものでしょ?」と、家の奥さんが、まだ植木職人の見習いになったばかりで、地に落ちた枝をさばくだけの正岐に聞いてきた。その後しばらくして、奥さんは老人ホームにはいっていった。そのお宅は、今はこじんまりしたアパートに建て替わっている。
坂を上りきると、車が行き交う早稲田通りへと出る。そのまま東に曲がってゆくと、もっと大きな四車線の山手通りへと交差するのだった。正岐がえっちゃんに告げた飲み屋、草野球仲間がやっている焼き鳥屋さんは、その交差点のすぐ近くにあった。セブンイレブンと、マクドナルドと、バーミヤンと地下鉄へと降りる出入口が交差点の四隅を陣取っている。もともとこの高台のような交差点は、古墳であって、そこに富士信仰に伴う富士塚が築かれ、浅間神社があった。環状6号線を構築し、道路を真っすぐに通すために、その築山を取り除いたのだそうだ。浅間神社は、この地区の地主の一人のマンションの敷地、マクドナルドの裏手へと引きこもった。山を象った溶岩石の朴石や仏像は、交差点を下っていった先に江戸中期からはあったお寺に引き取られた。そのお寺の庭を、正岐やえっちゃんが手入れしていた。が二人とも、えっちゃんはすでに、正岐ももうすぐ、この界隈の町場の植木屋を退こうとしているのだった。
正岐は歩道の中央にある分離帯、自転車と歩行者を分ける植樹帯の脇に、自転車をとめた。トレパン地の黒い半ズボンのポケットから、使い捨ての白いマスクをとりだして着け、簾ふうの暖簾をかき分けて、店のドアを開けた。
「とんちゃん、だいじょうぶかい?」 正岐はまず顔だけをのぞかせて、中をうかがった。カウンターの一番奥の席に、男がひとり座っていて、その向こうで、眼鏡をかけた坊主頭のとんちゃんの姿がみえた。
「待ってましたよ! そこのテーブルをとってますから。」と四人掛けのテーブルが三つあるうちの、壁際の奥の方の席を手招きした。マスクを外して席に向かうと、店を手伝っている奥さんが消毒液をもってやってきた。「いつもすいませんねえ」と言いながら、手を出した正岐の両手にスプレーを吹きかけた。席に着けば、カウンターの男をテーブル向こうに伺うことになる。白いTシャツに、なにやら流行りの漫画かアニメの絵が描かれているのがちらと見えた。
「もう一杯もらえっかい?」男は、正岐より幾分年上にみえる男は、調理場にもどろうとしていた奥さんににジョッキをあずけた。そのさい、チラと、こちらを斜の眼付で覗き込むような眼の動きをみせた。正岐はどこかで、この雰囲気の暗い男と、出会ったことがあるような気がした。
「しろちゃん、ひさしぶりなのに、ピッチはやいねえ!」カウンター向こうの調理場でお通しを準備しているのだろう、とんちゃんが応じた。
「ぼくにも、ナマくださいよ。もう我慢できないや。先に飲んじゃおう。」おしぼりとお通しをテーブルに置いた奥さんが、すぐにまたもどっていった。おしぼりで手をぬぐっているあいだ、奥さんがサーバーからジョッキへとビールを注ぐ。
「お客さんはどうなの?」 正岐はおしぼりを畳んでテーブルの隅に置く。
「いやまた流行りだした、ってニュースになったでしょ。もうその日からぱたっと来なくなっちゃったよ。これなら、時間制限して援助してもらったほうがいいくらいだよ。」ととんちゃんは言う。コロナ第七波がやってきているのでは、と騒がれ始めていた。
「そんなもんかねえ」とカウンターの男が、奥さんからジョッキを受け取って、間に入るようにつぶやいた。
「そういうもんですよ。」ととんちゃんは笑いながら応じた。「しろちゃんは、仕事してないから、世の中に疎くなっちゃったんじゃないの?」
奥さんが生ビールを正岐のテーブルに置いていった。てっぺんの白い泡を口に含んだところで、開けたドアをつかんだままのえっちゃんが、顔をのぞかせた。
「まあちゃん、遅かったかな?」とテーブルに歩み寄ると、顔の半分くらいは覆っているマスクの中で、もごもごした声をだした。
「いま口につけちゃったところですよ。奥さん、生ビールもうひとつ。あと冷ややっこ二つと枝豆ひとつください。」 奥さんはテーブル脇に立ったえっちゃんの手のひらにも消毒スプレーをかけて、調理場のほうへもどった。えっちゃんが席についてマスクを外すと、日に焼けた真っ黒な笑顔があらわれた。日本の昔話や能の世界にでてくる、翁のようだなと、いつも思わされる。
「市川さんは、ここははじめてですよね?」 とんちゃんがカウンターから身を乗り出すようにしてきいてきた。透明なアクリル板が調理場とカウンターの敷居を仕切っているから、声を少し張り上げるような感じになる。「まあさんからは、よく話をきいてますよ。たくさん飲むほうなんでしょ。遠慮しないでくださいよ!」
とんちゃんは、正岐のことをまあちゃんではなく、まあさんと呼ぶ。この新宿の下町のような職人仲間の若い衆は、年上にちゃんではまずいからと、さんと言い換えて呼んでいるが、それに倣っているわけではないだろう。とんちゃんのほうが正岐より年上だ。が、野球が正岐のほうが経験者で、上手と認めているからなのだろう。
えっちゃんは奥さんから直接受け取ったジョッキをそのまま前に差し出すと、「乾杯!」と音頭をとった。
「とんちゃん、ネギマのタレ二本と、タン塩も二本おねがいね!」 正岐は注文を付け足した。
「えっちゃんは今日は、シルバーだったんですか?」 正岐もビールで喉を潤しながら、話しかけた。
「そうだよ。ハーちゃんところは、四日間で、金・土ってシルバーをやってるんだ。」とえっちゃん。
「フルで働いているんですね。僕より忙しそうですよ。だいじょうぶなんですか?」去年いっぱいで会社をやめて、シルバー人材に登録して、体力的につづけられる仕事をしようという話だった。いっときコロナが収まったころ、懇意な隣の地区の親方も呼んで、慰労をこめた「お疲れ様会」を、えっちゃんの家族が暮らすアパートの近くの飲み屋でやったのだった。会社では、そうした席を設けることはしにくくなっていた。去年の仕事納めの酒を飲む席で、親方はえっちゃんに、俺もあと数年で引退だからそれまでもう少し頑張っていっしょにできないか、というような話をほのめかせた。がそれに親方よりいくらか年上のえっちゃんは、いやもう無理です生活保護でも…と、答えたのだった。がえっちゃんは、親方の誘いに気付いて断ったのかはわからない。親方はそう思ったろうが、『鉄道員』の高倉健のような律儀な仕事人のえっちゃんに、そうした拒否ができるように正岐には思われなかった。たぶん、体力的に無理になった自分は退いて若いものに道を譲るべきだ、みたいな男気を思いつめて、もうそれしか頭に入らなくなっていたのではないか、が親方からすれば、自分とやるのがもう嫌なのかと思われただろう。それから、えっちゃんを送った飲み会から二カ月もたたずして、今度はえっちゃんから飲もうよ、と言ってきた。その間えっちゃんは、若社長のハーちゃんの方から手伝いに引き出されていた。正岐は、えっちゃんがいなくなったぶん、ひとりでか、親方といっしょに庭の手入れにおもむくことが多くなっていた。朝、会社の倉庫まえでえっちゃんと顔をあわせるときもあったが、役所仕事の多い親方の息子の若社長とは別の段取りだったので、そっちのことの方はよく知らなかった。
「いや最初、電話受けた時は、若いのがやめてるなんて知らなかったんだよ。ちょうどシルバーでも仕事がなくなってきていた時期だったから、手伝いみたいな感じならいいかって行ったら、オレひとりしかいねんだもん。」
「手伝いというより、前線になっちゃいますよね。」
えっちゃんは、う~んという感じでうなずき、ビールを飲む。
「それでさあ、」と喉を鳴らしてから、顔をあげる。「計画表ってのをみせられたんだよ。このお宅はこれまで二人工で一日とか二日とか……で、えりちゃんといっしょにやるらしいんだよ。」
「えっ?」と正岐は口につけていたジョッキをテーブルにおいて、えっちゃんを見返した。えりちゃんとは、ハーちゃんのお姉さんだ。よそに嫁いでいったが、これまで人手がたりなくなったときなど、自身の介護の仕事を休んだりして、手伝いに来ることはあった。子供が三人いて、長男は今年大学生になったらしい。
「この間、山下親方と飲んでだときは、ハーちゃんは、お寺も神社も民家も、親方の仕事は引き継がない、ぜったいやらない、と言ってたって話でしたけど……。まあ、ひとりじゃ役所仕事なんてできないでしょうけど。だけどそれ、僕とえっちゃんでやってたことを、そのままえりちゃんと二人でやって、ってことですか?」
「そうなんだよ。」とえっちゃんはまた、ビールを飲む。「この間も榎山荘でさ、去年はここ二日で終わってますから、ってハーちゃん現場からいなくなるんだけど、そういう言い方されたら、おわらせなくちゃならなくなるじゃないか。若い奴らがやってたのに。こっちは昼休みもなくしてさ。」とえっちゃんは下をむいた。えっちゃんが弱気をみせるのは、珍しい。はじめて目にすることかもしれない。やはり歳を取り、体力的にこたえてくるので、精神的にもまいってくるのかもしれない。しかも、この暑さのなかだ。
「同じようにやれるわけがないなんて、体つかってれば、わかることですよね。それで勤まるのなら、プロいらないし。」ちょっとビールを口につけてから、「計画表作ってそのまま計画どおりやれるなんて、頭でっかちだなあ。」とつぶやく。
正岐はだいぶ以前、まだハーちゃんが現場を仕切り始めて間もなくの頃、植木仕事をやりはじめたばかりのいなせな若者が、居残りなように事務机に座っているのを目にしたことがあった。「何してるんだ?」ときいてみると、今日の反省文を書かせられているのだという。改善点を提出するのだとか。若者は、戸惑った表情の内にも、何か冷ややかな感情を目の奥にみせていた。
「ハーちゃん、この間ここに飲みにきてくれてたんですよ。」 とんちゃんが、ぼそっと言ったのが聞こえた。焼き鳥を皿にのせて、奥さんがもってくる。正岐は少し間をおいてから、ネギマの方をとって、口にもっていく。
「何か、仕事のことで、言ってた?」 カウンターの方へ顔をあげて、こちらに背中をむけたしろちゃんと呼ばれた男ごしに聞く。
「俺にも、悪いところがあるんだよね、って言ってましたよ。」すると、えっちゃんが口にしていたジョッキをテーブルに置いて、声を張り上げた。
「悪いのはわかってても、何が悪いかがわかってないんだよ! だから、繰り返すんだよ!」
正岐はびっくりした。とんちゃんも、あとずさりするような驚いた表情をした。えっちゃんは、空になったジョッキを、調理場への入り口に立っていた奥さんの方へ差し出した。
「まあ、はじめてなことではないですからね。もう、何人もやめていったわけだから。」 正岐は、取り繕うように付け足した。えっちゃんは、だいぶ弱っているのだろうか。今年にはいってから、えっちゃんよりひとまわり若い奥さんは、糖尿病がひどくなって、人工透析になっていた。
「そういや、もうすぐ土用の丑の日だよね。」少し緊張した空気をやわらげるように、とんちゃんに声をかけた。「うなぎ、できるの?」ときく。できますよ、というとんちゃんに、テーブルに置いてあるメニューをながめながら、「肝焼きってのは、にがいの?」
「にがいけど、おいしいよ。俺は好きだな。」とえっちゃんが答える。
「じゃあ、ふたつ焼いてよ。」ととんちゃんに言ってから、「えっちゃん、お代は僕も払いますからね、だいじょうぶですよ。」と、新しいビールを飲み始めたえっちゃんに言う。前回の飲み会のときは、正岐と山下親方で支払ったので、今回は自分の方から誘ったのだからと、えっちゃんが支払うと言っていたのだった。がうなぎは、少し高めだ。
「いいって、いいって。」とえっちゃんは身振りを交えてさえぎった。
店内は、こげ茶の板張りで囲われている。通りに面したビルの一階にある店への入り口以外に、外の光がはいる場所はなかったが、西向きに面した明かり窓が、夕日を目いっぱい採り入れているので、明るかった。奥隣の倉庫やトイレへとぬける、ちょっとした廊下のような空間の壁には、カレンダーやポスターが貼ってある。「ツギコメ」と大きな文字の目立つポスターもあるから、もしかしてとんちゃんは、公明党員なのかもしれない。それとも、お客にたのまれて、若者につぎ込んでいこうという政策を掲げたそのポスターがはってあるのかもしれない。美術の専門学校に通っていたがやめたという娘さんの、お化けの絵がその上にかかげられている。近くのマンションで暮らす落語の師匠が、その絵を褒めてくれたと言っていた。テレビの「笑点」のレギュラーにもなっているその落語家のサインも、天井近くに飾ってある。師匠はこの店に通う草野球仲間のために、いや胸に自分のネームが大きく入った特注のユニホームを着たいためか、自分の名を冠したカップ杯を設けたが、去年は雨、今年も雨で中止になったのだった。代わりの飲み会では、ドアから顔をだしては、小降りとなってきた空模様を見上げながら、「これならできるんじゃない?」とうらめしそうに言っていたそうだ。がその日中からの酒の席で、野球仲間たちが、子供への指導方針をめぐって熱くなった議論をはじめると、耳にうるさくなったように、店を後にしていったそうだ。
正岐はそんな議論があったという話を思い出しながら、カウンター席にうずくまったままの男の真上に飾られた写真を見あげて、顎で指すようにして、えっちゃんをうながした。
「ほらっ、この柔道の写真。」 額に入った、柔道着姿の男たちが整列するそれには、Budapest
World Cupと、大きく印字されてある。
「とんちゃんは、柔道やってて、先輩にはオリンピック選手もいるんですよ。」と説明する。
とんちゃんが、うれしそうに笑う。
「締め技で、いつも首しめられてたんだって。」と正岐が付け足す。
「ええ、いじめられてばかりでねえ。」と立ち昇る白い煙に渋い目つきになりながらも、とんちゃんは笑顔を増す。
「へえ~、柔道やってたんだ、すごいなあ。」とえっちゃんが、感心するというより、どこか気後れするような小さな声でうなずいた。えっちゃんの若い頃は、まだ部活動なんてなかったのかもしれない。えっちゃんは中卒でプレス工になった。当時の新宿闘争と呼ばれた争乱のなかにいて、石を投げてたと言っていたが、どんなつもりでそこにいたのか、今の姿からはわからない。
「たくちゃんの息子さんはどうなの? もう準決勝、いった?」 正岐は草野球仲間の間でも評判になってきた、入学したばかりでレギュラーの座を奪って大会に出ている高校生のことに話をふった。チームメイトの父親は野球部出身ではなかったけれど、この地区の草野球をやりはじめた縁で、息子の方は小さい頃から大人とまじって野球をやりはじめた。中学の部活動ではなくクラブチームに所属し、高校は春の選抜甲子園に出場していた文武両道をうたう私立の進学校へと、野球推薦で入学したのだ。そこですぐに甲子園にでていた三年生の先輩から遊撃手のポジションを奪うと、この夏の西東京予選で先発選手として出場していた。
「いやまだエイトですね。この間コールド勝ちしてましたよ。そこで三塁打打ったから、たくちゃんも大喜びで、ラインがいっぱい入ってきて大変になったって言ってましたよ。」
「甲子園にいっちゃうじゃん。」と正岐がはやしたてると、
「いやあ、無理でしょ。」ととんちゃんは真剣な面持ちになって言う。「やっぱりねえ、夏は進学校には無理なんですよ。練習時間も夕方6時半までとか決まってるでしょ。ばてちゃんですよね。」
「まあ、そうかもね。わかるよ。」正岐はうなずく。えっちゃんがまた空になったジョッキをあげて、奥さんにナマを頼んだ。
「いつも甲子園めざしてるようなチームは、夏の練習でほんとうに人が死ぬからね。毎年ひとりふたり、熱中症だかボールが頭に当たったとかで、死んだって話が流れてきたからね。だけどそれが普通で、死ぬ気でやるのが当たり前のような雰囲気があってさ…」とそこまで言うと、
「そうそう。」ととんちゃんが相槌を打つ。「締め技されてさあ、ほんとに死んじまうんじゃないかってとこまでやるんだからな!」
奥さんがうなぎの肝焼きを運んできた。店の手伝いをはじめて、まだそんな月日がたっていなかったかもしれない。コロナになってから、他の仕事が暇になって、手伝うようになったのだったか。とんちゃんは、時おり、まだ自身からは不手際に見える奥さんを叱りつけた。声が厳しいのは、やはり柔道家の訓練を受けているからだろうか。
えっちゃんは、肝焼きの串を手にして、頬張っている。とんちゃんや正岐より一回り以上年上のえっちゃんは、むしろ死ぬ気でやるというのが体質的な言葉に、身体的な価値になっているかもしれなかった。肩を入れた瞬間に脳天がいかれていくような重い植木を天秤担ぎに運んだり、剪定したあとの枝の束をひたすら担いでトラックに積み込んだり、棘だらけの枝を腕のなかに抱えたり、前身が発疹だらけになって痒くなったり刺されると電気のように痺れたりする毛虫だらけの樹にもぐったり、体力の限度や苦痛の最中を弱音ひとつもらさないのが生き様であるかのようだった。が、加齢による肉体自身の衰えのなか、なおそれを続けていくという生活は、心と体を分裂させていく。もう統一されない。えっちゃんが若い衆がいない、というとき、それは我慢という統一を自身に矛盾なく維持させてくれる補佐がいない、ということを意味していて、価値自体には変更がないのかもしれなかった。そしてそれは、えっちゃんの態度ばかりではなかった。職人の世界に入りたてのころ、正岐は仕事終わりによく酒の席につきあわされた。何の話であったか、正岐が、言うことを聞けと言ったって死ねと言われて死ぬまでするということではないでしょ、と答えたのに、親方は、「へえ~、そうなの」と、あたかもそんな常識は軽蔑するというような口調と眼差しを向けてきたのだった。
「高倉健じゃさあ、だめなんだよ。」 突然、カウンター席の男が言った。
「しろちゃん、なんだいいきなり。まさか、またはじまったんじゃんないだろうね。」 とんちゃんが一瞬とまどったあとで、ニヤニヤしながら受け継いだ。
「へっ、たしかにさ、健さんは最後は中国に息子をさがしにいって、あの朴訥とした態度があっちの庶民たちから共感されたよ。今でもスターで、人気者かもしれないな。しかしだからって、井の中の蛙が、島国の世間知らずの価値が、普遍的だとおもうな。」 男は、俯いたままだったしろちゃんは、顔をあげて、ビールをぐいっと飲みほした。「もう一杯!」
奥さんがその勢いにおされて、あわてたようにジョッキを受け取った。
「死ねって言われて、死ぬだって? 言われなくたって、死ぬんだよ!」 しろちゃんは、テーブルに座る正岐の方に振り返り、背を向けていることになるえっちゃんの頭越しに吠えたてた。「居候させてもらっただけで、流れのもんがそこの親分のために命を投げる、だって? 終身雇用は時代遅れですって、転職アプリで片足だけかけてる浮気もんが、結局は井戸に生き埋めされる蛙じゃねえか!」
「ひゃあ~」と、とんちゃんが頓狂な叫び声で応じた。「しろちゃん、まだ酒乱ははやくねえ?」
しろちゃんは、今度はカウンター向こうのとんちゃんの方を振り返った。「あいつがさ、先生さまが、おそいんだよ。待ちくたびれる、まったく!」またテーブルの方に振り返り、指さすようにジョッキを正岐の方へ傾けた。
「じゃあ聞くがさあ、植木屋さん。なんでマリウポリの製鉄所の地下に追いやられて閉じ込められたウクライナ人たちは、玉砕しなかったんだ? 正義なんだろ? 命かけなくていいのか?」身を乗り出すようにして、じろりと正岐をにらんだ。
正岐は一瞬たじろいだが、
「沖縄戦みたく、住民に手りゅう弾わたして死ね、っていうよりは、正義なんじゃないですか?」としろちゃんを見上げた。
「ほう~、情けねえとおもわねえわけか。」しろちゃんはビールを一口飲みほした。「住民を置いては逃げない。住民を楯にしてもな。それでスマホをかけて世界に助けを呼びかける。すげえなあ、なんてふてえ野郎どもだ。そうでもやって生き延びていくのが大陸の正義か? 正義は、死んでも明かすものじゃないのか?」
「生きて捕囚の辱めを受けず、のほうが、正義だということですか?」 正岐が言い返すと、一瞬、間ができた。二人はしばらく黙ったまま視線を交わした。
しろちゃんはその視線をはずすと、自分に言い聞かせるように答える。
「それが島国だって、言いてんだよ。捕虜になって、終わりか? 降伏して、終わりか? 嘘だったじゃねえか。俺たちはこうして、ビールを飲んでいる。」そして、ビールを飲んだ。
「だけど、本当かい?」 ジョッキから口を放すと、そのまま量の減ったビールをみつめた。少しの間のあとで、またいきなりなように、
「おまえの親方は、亡霊だったな?」視線をビールに落としたまま、聞いてきた。
「亡霊?」 正岐は繰り返す。「いや、まだ生きてますよ。もう引退はするみたいですけど…ねえ、」とえっちゃんをうながした。うむ、と苦笑を返したえっちゃんも、ビールを飲みながらうなずいた。
「ちぇっ、」としろちゃんは下を鳴らした。「ちがうよ。暴走族の名前だよ。ここらへんじゃ有名だろ。高度成長期、一世を風靡した族の番長だって。」
「ああ、スペクターのことですね?」正岐が聞き返すと、「番長はタイゾウさんだよ。親方は一緒にはじめた同級生だよ。」とえっちゃんが説明する。ちぇっ、とまた舌を鳴らすと、しろちゃんはつづけた。
「その亡霊の親方が、歳とって、最期まで自分を貫き通せるものなのか? 子分の面倒を、最後まで面倒みれるっていうのか? 途中で放棄すりゃあ、資本の都合のいい論理とおなじだぜ。使い捨てだ。生き様でも、倫理なんかでもありゃしねえ。そもそも、人が歳をとり、体が言うことをきかなくなる条件で、さらには体の言うこともわからなくなる認知症の現実で、そんなことが人に押し付けられる価値になりえるのか?」問いつめるように、正岐をみつめた。しかし…と、その目の奥で怒っているような瞳に惹きつけられるように、正岐は考えはじめた。むしろ、すでに価値に殉じていても、おかしくないのではないだろうか? 親方は、もう厄年をむかえたころから、気力がひとつ抜けて、体力も落ちて、にもかかわらず自分がやってきたお寺の庭木などにヘルメットもかぶらずのぼり、脚立にあがり、何度も落ちている。死んでても、おかしくない。そしてそれは正岐もいっちゃんも同じだ。二人とも、ちょうど厄年をむかえた四十二歳のとき、大木から落下し、一命をとりとめた。お互い、そのときの身体的な後遺症をひきずっている。自然を、時間の条件を、どこで区切るのか? 春か、夏か、秋か、冬なのか…。人は老いる、冬をむかえる、しかしそれは、生において、知識でしかないのではないか?
「俺が言っているのはよう、」としろちゃんは、こちらの考えを遮るように続ける。「今なんだよ。この瞬間的な時間においてだ、人は、それをのぞんでいるのか? いや、その死ぬまでの価値を、のぞんでいいものなのか?」 また問い詰めてくるように、しろちゃんは迫った。
正岐が答えあぐねていると、癖なように、ちぇっ、とまた舌打ちをした。
「子供のことを考えてみろよ。(しろちゃんは拳で威嚇するようにジョッキを傾けた。)経験が記憶されて意識されるでもない子供に、季節の知識もあるとおもうか? 厳しい野球の練習に耐えていくことを、前提にできるのか? 冬を乗り切れば春が来る、それを、根拠にできるのか? いやなら、やめるだけだろ。 あきたら、よそをむくだけだろ。それが、前提じゃねえか!」
「まあ、わかりますけど、」と正岐はためらいがちに、受け継いだ。「サッカーでもテニスでも、欧米のコーチは、子供をあきさせないメニューを開発していくのが仕事みたいなものですからね。」
「ああそうだ。(しろちゃんはおもむろに言う。)いやならやめることもできない、痛いならわめくこともできない、そんな価値は浅はかな強制以外のなにものでもない。やめたら終わり、負けたら終わりのトーナンメント方式など、リアルでもなんでもありゃしない。やめずに我慢して上達した雨蛙を青田買いに囲い込んでレールにのせる。ペットの犬猫でも、生まれたばかりは可愛くて高く売れるとしても、売買は禁止になってるのにな。それでもできのいい選ばれた雨蛙を自由に引きずりまわしてるのは、井の中の島民だけだ。親元を幼い頃引き離されたガキ蛙はホームシックにきゃんきゃん鳴いてもう躾けられない。自分たちで、自分の住処を、井戸を、ホームを壊していることにも気づかない。何が近代化だ? 壊れるにまかせて、新しいガキをコンベアーにのせてすり潰していく。なんで島民代表は、子供のころは世界大会でも強いのに、大人になると弱いんだ? うまいのに、弱いんだ? 謎でもなんでもありゃしない。バカなだけだよ。じゃあなら、あきないようおだてられた井の外の蛙どもが優れてるってのか? 捕虜になっても降伏しても次ありますからって人生のリーグ戦が真実だというのか? ……まあ、そうだろうぜ。命令で死ぬのではなく、自発的に死んでいくんだからな! 面白くなってチャレンジする、失敗はよくやったとほめられる、うれしくなって、本気で体当たりしていくようになる。言われねえことやるからヘマするんだなんて大人たちから怒られやしない。だから生き生きと育ち、死んでいく! マスクなんて糞くらえってな! 我慢ならんのがなんでわりい! 息苦しかったら外せばいいだろが! それが本場の民主主義だとさ。そいつらのお友達になりてんだとさ、この同調ガエルどもめ! ゲロゲロいつまで合唱してる? ゲロゲロ、ゲロゲロ、ゲロゲロ!」ビールの泡を噴き出しでもするように声をあげて、傾けていたジョッキを高くかかげた。「いっぱん庶民を、ぶっこわ~す!」
しろちゃんは、最近のN政党党首がみせるような、片手をアッパーカットで持ち上げるガッツポーズを真似てみせて、もう片方の、ジョッキを握っていた手を勢いよく口元にもっていき、残っていたビールを一気に飲み干した。「もう一杯!」
とんちゃんはあきれたように、「待って待って」と笑い声をあげながらも、困った表情を態度で示すように、腰に手をあてた。
「でも、」と、正岐は遮るように短く言った。「死ななかったんでしょ? マリウポリの人々は。(正岐はしろちゃんを見返した。)たしかに、自発的に死をおそれなかった。しかし、硫黄島の戦いみたく、玉砕もしなかった。」
「ハッハー!」としろちゃんは上向いて、爆発的な笑い声をあげた。「そこだよ、そこ!(意を得たり、とでも言うように、ぱちんと手を合わせて叩いた。)そこが、井の外の蛙たちなんだろうな! だってその野っぱらには、蛇も蜥蜴もいるからな。上空には鳥の目も光ってるぜ! つまりは、自分の価値なんて背後から食われちまうってわけさ。虐殺の大陸史だ。天下統一たって、次の瞬間にはどことも知れぬところから大群がやってきて、天下の同族を皆殺しに破壊していく。そんな野っぱらで、どうやって生きていくんだ? 死が、全滅が前提としてあるのに、どう生きたらいいの?なんてノウハウなんて小賢しい。そこで、蛇や蜥蜴と一緒に暮らすしかねえじゃねえか。それは優劣の価値問題じゃない。降参も玉砕も同じにさせられる、ニヒルで、ユーモラスな現実なんだよ。人道回廊で救出された奴らは死ななかったじゃないかって? すでに、亡霊なんだよ。生も、死も、同じになる。ペットの犬猫と一緒に育ったライオンはペットを食いはしないぜ。しかしそれは、食っちまうこととおなじだろ、ライオンは、ライオンなんだから。そのライオンの鼻先で、ペットのワンちゃんがペロっとなめられるのか、パクっと食われるのかに違いなんてない。ユーチューブの動画でまあ可愛い仲良しさんねえなんて喜んでた次の瞬間、パクッて子猫が食われちまう現実がなくなったとでもいうのか? それが、ライオンだろう、ライオンが、それだろう……いや、待てよ、まだ…まだそれは、来てねえかも知れねえけどな。」
しろちゃんは、突然瞳を内に凝らしたように押し黙った。「そう、まだ来ていない……おせえなあ…」独り言のようにつぶやいて、また黙った。正岐も、その沈黙に引きずりこまれた。話しかけるのがはばかられるような間ができた。がまたふいと顔をあげると、正岐の顔をまじまじとみつめた。陰気に返ったその表情をみて、やはり、どこかで会ったことがある、と正岐には思えてきた。
しろちゃんと呼ばれた男は、正岐をみつめながらも、どこか上の空なようにつぶやいた。「なんせ議員の七割が新人になったって言うからな。プーチン君にすれば、素人に現実を教えてやるよ、野っぱらの現実を思い知らせてやるよ、くらいなものかもしれねえな。啓蒙のつもりなんだろ。がだとしたら、本当のそれが来るのは、これからだぜ。こんなのは、悪魔を呼ぶための儀式にすぎないんだろ。だけど、それは、来るんだぜ(と顔をよせてきた。)何億匹の、悪魔を連れてな……」
そう言ったとき、店のドアの開く音がした。
暖簾をくぐって、キャップ帽をかぶり、マスクをした男があらわれた。ステッキをついていた。いつのまにか、日が沈んでいて、店内の蛍光灯が男の背景を黒く浮き出させるためか、背が高いように見えた。淡い色の反射で光る長袖のシャツに、黒のスラックスのようなものを穿いている。目が、据わっていた。それは、すぐにカウンター席のしろちゃんを見つめて、動かなかった。
しろちゃんは、内に向いた瞳を外に引きずり出されるようにして、敷居に立つ男へ振り向いた。不遜な笑いが目元に現れると、口が開いた。「それが、やっとお出ましかい。」いちど言葉を区切ると、刺すような口調の言葉を男に投げた。「おまえだよな、ヨシキ。あいつに、もと総理の暗殺をそそのかしたのは。」
正岐は、思い出した。島原史郎と時枝兆輝。もう20年ほどまえか、兄の慎吾につきそっていってみた、ある新しい社会運動と称した組織の人たちだった。