2020年1月13日月曜日

多和田葉子をめぐる(2)



(2)日本語をめぐる



漢字を廃止し、日本語をカナかローマ字にした方がいいのではいか、と提言してきた言語学者の田中克彦氏が前提としてまずみるのは、言語の原理論的な有り様なのではない。



<漢文化と直接、濃厚に接触しながら、周辺民族は一つとして自らの言語の表記のために漢字を採用しなかった。このことはくりかえし述べたところであるが、あらためて考えてみると、これは強調してもしきれないおそるべき事実である。というのは、一般に無文字の民族集団が高い文化に接すると、まず相手から文字を学びとる。日本がいい例だ。しかし漢族周辺の民族はその影響を受けつつも、自ら文字を作り出すか、モンゴルやチベットのように、漢字以外の別の文字を採用した。前者はウイグル文字を、チベットはインドからデーヴァナーガリー系文字をとり入れ、変形して用いた。>(田中克彦著『言語学者が語る漢字文明論』 講談社)



 この歴史的、地政学的な一事から、田中氏は、言語の存在様態をではなく、それそのものに、他の諸言語の間で、そして日本語という一言語で、何が起こってきた、起ってきているかを考察しようとしているのである。田中氏の主張上、ポスト・モダニズムなエクリチュール分析を理解しない、文字と音声の考察をいっしょくたにし、音声の優位を巻き返そうとした反動家のようにみえるのかもしれない。これから検討していく『批評空間』(1993,No.11)における、「音声と文字/日本のグラマトロジー」と題した討議での、柄谷氏の発言などは、そうした批判の一つだろう。



柄谷 順序としてはそうですね。国学者に抜けていたのは、あるいはいまでも言語学者に抜けているのは、書くこと(文字)と話すこと(音声)が決定的に異質だということです。文字はすべて、ある意味では象形文字であって、それは音声と必然的に結びついていない。中国では、漢字はそのようにあったし、いまもある。のみならず、漢字は東アジアでそのようにあったわけです。それは、必ずしも漢字の性質によるとは思えない。中世のヨーロッパにおけるラテン語もそうでしょう。各地で違う発音で読んでいたはずです。そもそも本来の音がないわけだし、最終的に書けば通じるのだから。

 したがって、漢字かアルファベットかという差異は、さほど問題ではなくて、そうした標準的な文字の在り方に問題がある。ラテン語や漢文は、各地で日常話されているものと違って、どこでも妥当する「超越的な意味」を担うものとしてあったわけです。近代に起ってきたのは、この「超越的な意味」の否定ですね。>(前掲書 福武書店)



 理論的には、上のような議論前提が正当的・説得的にうかがえるのは、まさに田中氏が主張するように、文字通りカナだけで文章を書いてみれば自明となる。その試みを、上記誌上での山城氏の「訓読について」という論考が、例文を示しながら行っている。



<卑近なところでごく素朴に考えても、一頁全文を仮名文字で書くと、アルファベットの場合とちがい、かえって、意味が読みとりづらくなるのがなぜなのかは容易には知りがたい。たとえば、たった一文でも「くんどくは、かんぶんをよむためにではなく、わぶんをかくためにあんしゅつされたくふうである」と、ひらがなのみで書くことにわれわれはなぜ抵抗を感じるのだろうか。「訓読みは、漢文を読むためにではなく、和文を書くために案出された工夫である」のように、助詞や活用語尾(辞)の表記にはひらがなを配しても、体言や用言の語幹(詞)の表記には漢字の音訓(場合によっては、カタカナ)を要求せずにはいられないのはなぜだろうか。>



 カナだけで実際にやってみれば、その言語理論の不適切さは、理論上の議論など知らなくても、たやすく了解できるだろう。

ならばなぜ、田中氏は、誰もがうなずける有益さを排して、そうまで主張するのか? とりあえず、その柄谷・山城両氏の指摘に応ずるような考察箇所を引用しておこう。



<次には言うまでもなく漢字の知識である。しかもこの知識は単純だから、何字書けたかと知識を点数にできるので、誰にもわかりやすく、学校の試験には欠かせない。教師が試験問題を作る際には、最も頼れる道具である。

 それに、たとえば「みる」は、「見る」「視る」「観る」「看る」「診る」など、漢字で書けばその意味をこまかく区別して把握する力を養うことができるではないか。

 しかし、「みる」の意味は、漢字でこのように書きわけないと区別できないのだろうか。そうだとすれば、日本人は漢字を使うことによって、はじめて自分の母語を駆使できるようになったことになる。そんなことはありえない。漢字で書くことによって、はじめて一人前の言葉になったというのなら、英語なんてどうしたらいいんだろう。

 英語のseeにも、いろんな意味があって、それをいちいち漢字で説明していたら大変なことになる。(略)

 だから私は「みる」を書きあらわす漢字がどれだけ多いかを数えるよりも、日本語のオトのはたらきに気づく方が、はるかにことばについて高級な知識だと思うのである。>



<漢字は結論をあたえた、行きどまりな文字なのに対して、かなやローマ字は、意味にたどりつく前に、まだまだ長いみちのりがある。そのみちのりの中で、ことばについての深い思索や分析が必要とされるのである。>



<それぞれの言語(あるいは方言)が漢字で書かれることによって、オトということばの実体を消し去り、かくし去ったことによって、かぶせられた文字だけが残ったのである。この点から言えば、漢字は、「ことばかくし」「ことば消し」、さらにすすんで「ことばつぶし」の文字だと言えるだろう。(略)さきに述べた突厥、女真、契丹、西夏、さらにチベット、モンゴルのように、漢族と密接にからんで暮らしてきた民族が、一度でも「訓読み」をやって漢字を採用したらさいご、かれらの言語も、漢語のなかに取り込まれて消えていたであろう。

だから、ヨーロッパにこれだけ多くの言語が保存された――もちろん、エトルスキ語が想像させるように、多くの言語が名をもとどめることなく消え去ったが――のは、ラテン文字というオト文字が、それぞれの言語の実体すなわちオトを残したからである。意味ではなく、オトこそが言語を支えることを、日本人はもっと骨身にしみて自覚しなければならない。

私はよく西洋の国際語主義者たちに言うのである。ラテン語が漢字で書いてあったらどうでしょうか。そのばあい、ヨーロッパは中国のように単一であって、こんなに多くの言語を生みだすような不経済はなかったはずですと。>



<音声中心主義だとデリダのしりうまに乗って口まねする人たちは、音声なしで議論してみたらどうだろうか。>



 以上からもわかるのは、田中氏の現場は、言語という理論の上なのではない、ということだ。「議論」というような、実際上の、実践の中での考察なのである。そしてこの「実際」なり「有益」さは、国内向けというよりかは、まだ言語を覚えていない、子供や外国人との間でのことなのである。入試に苦労する子供たちや、床ずれですませられるものを、「褥瘡」という専門用語で暗記していかなくてはならない漢字テストのために、日本の医療現場から閉め出されてしまう「フィリピンやインドネシアからの娘さんたち」が想定されているのだ。山城氏の例文上の差異は、漢字と仮名の区別もおぼつかない者にあっては、あまり意味をもたない。日本語自体が、「言語の国際競争の場にさらされて、その学びやすさ、使いやすさがせりにかけられているのである」という対他的な言語、地政学的な切迫した認識を前提としているのだ。



『批評空間』での討議者たちが射程にしているのは、ナショナリズムな言説である。この討議の副題は、「十八世紀日本の言説空間」としてあるが、そこに、『古事記』や『万葉集』の成立期、日本語の表記システムが確立していった頃に生起し、隠蔽されていった事態が江戸時代という日本史をこえて、世界史的に反復されたことが議論されている。たしかに田中氏も、奈良時代や江戸末期の歴史情勢と同様な、現代が直面している切迫さ、その国際的な危機感から、「日本の国の未来はほかでもない日本語の発展にかかっている」のだと愛国的な表明をするだろう。そのイデオロギー性に田中氏の立場を集約させるならば、この討議者たちの反駁は説得的であるかもしれない。

が私がみたいのは、田中氏の立論である。論理を立てている場所なのだ。そこは、「標準的な文字の在り方」を問題にしていくような一般理論的な場所なのではそもそもない。つまり、真理を問題にしているのではない。あくまで外と向き合っているときの論理の強さが問題なのである。理論も、論理的でなければ、説得的ではない。そういう意味では、他者と向かいあっている。が、論理がすなわち説得する力であるならば、論理的である必要はない。もともと、それが外に向けてのものならば、言葉が通じないことこそを前提とするからである。『批評空間』の討議者たちは、その理論で、田中氏が指摘した、なぜ日本人と成った者たち以外は漢字を排してきたのか、その「おどろくべき」歴史的厳然さに応答しているか? つまり、論理たりえているか? ――いや、依って立っている理論が不備だから、論理的帰結として、カナ文字実践という間違った解決策を唱え、ナショナリズムな言説に回収されていくのだ、と唯物論者の誰彼はいうかもしれない。なるほど、そういうこともあるだろう。人は考えたことを行うものだ、という理論的前提に立つならば。しかしその立論に、どれくらいの説得力があるというのだ?



私たちはのちに、多和田氏の最近作で、日本語が消滅した世界のなか、多言語の音声的な共通項を自身の内で改造し渡り歩く日本の「娘」の姿をみるだろう。彼女は、筆談するのではなく、議論する。作家がそう書きつけた夢想の背後には、田中氏が感得したような危機意識と切迫さがあり、作中においても、世界市場で言語が売買されるエピソードなどが挿入されるだろう。

田中氏は、「キラキラネーム」の現象を、「日本語をゆがめ、コミュニケーションの効率をさげて」おり、「反社会的」だとさえ言っている。事実、それが児童虐待の社会と関連しているようなのだから、そういう向きもあるだろう。その点からは、言葉遊びに近い要素を多分にはらむ多和田氏の活動は、田中氏の立場とは正反対になる。しかしそれは、多和田氏が田中氏より、絶望しているからではないか、日本国土が消滅したヴァーチャルな世界史の方がリアルになっているからではないか、という推定もできるのだ。そしてそうした読後感想こそが、多和田氏の言語活動、文学実践の発生の場所が、田中氏が立った論理の有り様と似ており、重なってくることを証しているだろう。



私たちは、真理を解いた一般言語理論が残り、日本語がなくなることのほうこそをのぞむのだろうか? あるいは、それでも世界は多言語状態なのだから、リベラルでありうるじゃないかと? まさにそう態度してしまうことが、自分のことを他人事と考えてしまう、日本語のカラクリの中にいる、ということではないのか?



がもうしばらく、理論的な有り様を追おう。

そもそも、「文字」と「音声」とが「決定的に異質」だとする理論的立場が、論理的展開として同一的な実践の根拠を提供することが怪しいのは、この1993,No13号の『批評空間』誌上が告げている。



ここでは、文字の外在・物質性を消去していく言語システムが、排外的・排他的なナショナリズムと結びつくイデオロギーを批判していく姿勢を共有する者たちが寄稿している。『万葉集』や『古事記』にまでさかのぼり、その表記発生の現場を緻密に解析した試みとして、先にあげた山城氏の論文などがあるわけだ。

 私が、(1)キラキラネームでみたような、日本語が「不整備な認識装置」として働くのではないかという想定を、山城氏は、「訓読」という行為にみた。中国近辺の諸族が、田中氏の指摘するように、「訓読み」することさえ拒否したのはなぜなのか、という問いには応答できない問題の設定になるということは、ここでは脇にどける。まずは、「装置の不備」の有り様の指摘をきこう。つまり山城氏の分析する「訓読のプログラム」、日本語の有り様とは如何様なものか?



 以下は、先の引用中にある問いへの答えである。



<ひらがなばかりで書いたりせず、漢字とカタカナを適当に使い分けつつ交ぜて書くのは、どんな機制がわれわれにはたらいているからなのだろうか。私が訓読のプログラムと呼んでいるのは、日本文を書くことに、無意識のうちにはたらいているこの機制にほかならない。それは、文字に先立って=書かれたもの(プロ=グラム)であるのみならず、そこから文字を生成しもするプログラム、すなわち漢文を読むテクニックとしての訓読ではなく、日本文を書く装置としての訓読である。

 仮名文字は、それだけでは文を構成しえないという意味において、文の材料(マテリアル)としての価値、文字の物質性、すなわち文字の文字性が半ば以上、奪われているといえる。仮名文字は、アルファベットとかわりない文字であるようにみえて、じつは、半ば以上、文字ではない。文字どおり、仮りの名(字)にすぎない。だから、長文にわたって連続して記した場合には、その非文字性が集積し、読解の障害として露呈するのである。>



 そのような文字性消去装置が、イデオロギーと結びつく、というか、消去(忘却)=隠蔽されることで、利用される。



<私の考えでは、むしろ、それのみでも文を構成できる物質的素材であるという、文字の文字性を仮名から消し去る機制にこそ、宣長の「音声中心主義」は依拠している。つまり、古言の音声がとる身ぶり手ぶりに過大な価値をおく彼の言説は、書くことにおいて訓読がもたらす、あの文字消去の上に成立しているのである。彼にとって音声とは、実際の音声ではなく、たんに、文字による文字の消去、あるいは文字性を消去された文字である。(略)だが、「皇国」のイデオロギーにせよ、「音声中心主義」にせよ、この発想の起源にあるのは、訓読をめぐる不条理な信念である。すなわち、それじたい、書くための装置でありながら、「書く」こと、つまり文語が文字のレヴェルにおいてもつ価値を実質的には消去してしまうという、訓読の作用と効果に対する依頼心が暗黙のうちに前提にもちこまれている。宣長の「皇国」イデオロギーや「音声中心主義」を批判するには、そこから批評し始めなければならない。>(前掲書)



 田中氏が、戦時中の、漢字だらけであった軍人時代の歴史教訓を人々に想起させることを、音声(かな)重視の理論の論理上の説得の一つとしてとりあげるとき、そこには、認識的な錯誤がある。確かに軍人は、難しい二字熟語などを書き並べ、国民を雲に巻いた。「皇国」と書いた、としよう。そして、「みくに!」と叫ぶ。人々は「みくに」がなんなのかわからず、「何か実のある肉のことか」、と思う人もでてくる。「具だくさんな配給でもあるのかな」と不安ながら、集まってくる。勇気をだした人が、「どんな字を書くのですか?」と聞いてみる。「皇帝の皇(こう)に、国(くに)だよ!」とかえってくる。「ああ、こうこく、ですね。」と勇気ある人が言うと、周りの人々も繰り返そうとするのだが、言いずらいので、「国家」が「こくか」ではなく、「こっか」と発声されてしまうように、「こっこく」、さらには、「こっこ万歳!」などと、ニワトリを賞賛するようなことを言ってしまった。その人は「非国民」あつかいされ、ある子供は校長先生から叱られてしまう。……

多和田氏の文学活動では、それ「こっこ」を肯定するが、田中氏は「みくに」なりの日本語として正すのがいい、とするだろう、という点で、軍人(ナショナリズム)に近くなる。が、「みくに」なり「こうこく」なり「こっこ」にせよ、その音声上の差異の発生は、「皇国」という漢字が前提としてあり、それを中国発音ではなく訓読みし、音便変化も、まずは文字が文という長さをもったものを目指す動きにあるかぎりにおいて派生してくるもので、書き言葉の世界に「依頼」しての「こっこ」の成立になるのだ、というのが、山城氏の言うことの例解になろうか。「討議」中の柄谷氏の発言をくわえれば、「言語史の本を読むと、古代の日本語がどう変わったかなんて書いてあるけど、あれは書き言葉であって、まるでそれが話されていたかのように言うのはバカげている」、となる。「令和」を「ぜろなん」と読むのに異化効果が発生するのも、まずは書かれた文字があるからである。はじめから、「ぜろなん」しかなかったら、「依頼」すべき「効果」など派生してこないのだ。だからといって、漢字だらけの文を否定するために、すべて仮名にすれば、単に意味不明に近くなってしまうことは、山城氏が言う通りなのだから、田中氏の漢字批判は、その理論内で錯誤があるのだ、といえる。



漢字を排した他のアジアの諸国では、そもそも「皇国」とは書かないので音声の派生もありえず、それを外来語として一度中国語の発音に近い独自表記でとりいれてしまえば、意図的に変更しないかぎり、違う発音表記が生じることは原理的にありえず(単に間違いになる、「こっこ」の肯定も否定もない)、そのままでいくだろうことは、推論として正しかろう。



しかしだとしても、私たちは、「みくに」や「こうこく」、さらには「こっこ」からも、「皇国」という概念、皇帝にあたるようなものが支配する国、というようなイメージを茫洋としてであれ了解する、教育されるようになる、ということを山城氏の理論は前提としているのだ。つまり、漢字圏という「超越的なシニフィエ」の前提である。私たちが、結局はそこに「依頼」している、甘えておりその甘えをごまかしているというのは、言語レヴェルに限定しての、唯物論的な仮説なのである。

柄谷氏が、「音声中心主義」を、あるいは近代的なナショナルな言説を批判するのは、漢字圏やラテン語圏がはらんでいたような雑居性、たとえば哲学や思想といった堅苦しくも俗な人間の全般的な営みを許容するような文化的な寛容性を、その言説が閉ざしていくからである。しかし言いかえれば、その寛容さは、言語という人間の営みのレヴェルにとどまっているということなのだ。そこを理論の前提として仮説する、ということなのである。



そうした仮説とは違った仮説に依拠する論考として、『批評空間』のその誌上に、前田英樹氏の「『くず花』をめぐる考察」が置かれているのだ。



<ここで語られていることは、万世一系の<皇国=日本>という国学のイデオロギーでは決してない。それどころか、宣長は、『書紀』が出発する「日本」という明確な区分こそ、まず疑われるべきだと言っているのである。さらに「且某年月日と、月日まで記されたるは、まして漢なり」とも言う。注意すべきことだが、「漢(カラ)」は、「異国(アダシクニ)」であるがゆえに排除されるのではぜんぜんなく、音声=文字の結合による区分(シニフィアン)の制度によって、シニフィエの抽象的流通を可能にし、すべてを均一に支配する意味体系を伝播させるがゆえに、拒否されるのだ。「日本」において訓読された漢文は、それが言語的に樹立する区分の制度をとおして、「漢」の「国ノ号」と「某年月日」に「対ムカひたる」抽象的なシニフィエの流通を獲得するにいたった。この制度は、「漢」と「日本」を対置させ、比較する装置として働くかのようだが、まったくそうではない。<ふたつの国>を「対ムカひたる」ものとして区分する音声=漢文は、それらのあいだに実在する質の差異を、ポジティヴで明晰な差異を消し去る装置としてこそ働いている。複数の「国」の区分は、「判明」であることによって曖昧なのであり、これらの区分を等しく貫通する「天地自然の理」という究極のシニフィエの下に、偽の地理化と年代化を引き起こすのである。>



 漢字圏という、音声と文字を結合させる思考を促進させながら規制してくる「究極のシニフィエ」にとどまっていていいのか、と宣長は疑っているというのである。前田氏が示している思考方とは、言語の唯物論的な限定をはずし、さらにその理論を論理的につき進めていく、ということなのだ。



<宣長が見る『古事記』の神典性は、この書物が、たとえば「歌の集(フミ)」などのように音声=文字の制度に依存しつつ、区分なき言葉のさまざまな顕れを示唆する、というだけではなく、これ自身が潜在的な存在それじたいを全的に、一気に示すものだというところにある。あるいは、区分なき言葉の存在を全的に示すことが『古事記』の目的であり、この目的の達成が『古事記』を唯一の神典たらしめる、宣長はそうも主張しえたであろう。そのような言葉の存在が「天地(あめつち)」の潜在的な過去一般を、どのようにして言葉固有の律動へと転換し、捉え込み、順序づけるかは、彼にとって最後の問いであると同時に、ついに『古事記伝』中のあらゆる注釈をとおして霧消させるべき謎でもあった。>(前掲書)



<謎>というよりか、神秘であり、不可能であり、夢想であろう。

だから、前田氏は、宣長は「そうも主張しえたであろう」という仮説だという指示を、露わにせざるをえないのである。科学的に、文献的に検証可能な、唯物論的限定の内にとどまるならば、それもまた仮説を前提としているにもかかわらず、そう断る必要もないという自明的な共通了解のもとに私たちはある。が、前田氏は、その了解のリミッターを外し、さらに理論を論理展開させていったのだ。言葉を使うという人間の営みをこえて、「天地(あめつち)」に生きるより根底的なヒトの営みをも包容しうるよう架設しようと。



 柄谷氏も、前田氏も、「シニフィエ」という言葉を使う。

 これは、ソシュールの言語学からきているというよりは、精神分析のラカンを通した用法だろう。「シニフィエはひとつ」なのだとラカンは言うのだが、この「ひとつ」を、どこに限定するかはわからない、というより、前提たる「科学的ディスクールの効果」に依存するのである。



<もし、わたしたちをしかるべき書かれたものの次元に導いてくれる何かがあるとすれば、それは、シニフィエは耳とは何の関係もなく、読むことだけ、シニフィエとして聞こえるものを読むことだけと関係があるのだと気づくことです。シニフィエ、それは聞こえるもののことではありません。聞こえるもの、それはシニフィアンです。シニフィエ、それはシニフィアンの効果のことなのです。

 そこには、ディスクールの効果、そのものとしてのディスクールの、つまり、それだけで絆として機能するものの、その効果でしかない何かが見分けられます。ものごとをひとつ書かれたものの水準で捉えてみましょう。その書かれたものというのは、それ自体がディスクールの、科学的ディスクールの効果であるもの、すなわちシニフィアンの場所を共示するために作られたSという書かれたものと、シニフィエを場所として共示するsという書かれたものです――この場所という機能はディスクール自体による以外には創られず、各々がその場所に、ということはディスクールのなかでしか機能しません。さて、それら二つのSとsの間に横棒があります、S|s。>(『アンコール』ジャック・ラカン著 藤田博史・片山文保訳 講談社)



 上でいう「効果」のことを、山城氏は「依頼心」と言ったのだとも言える。そして依拠しているもの、そこで前提する「科学的ディスクール」とは、「漢字(ラテン語)」といった検証可能な大文字の文化圏である。しかし、この文化圏を、より「科学」的に、<遺伝子>としたらどうか? 私たちは、すでにそれを、書かれたものとして、読みはじめている。そこには、太古からの声が、「遺伝子のプログラム」が書き込まれている。いや、遺伝子はしゃべらないではないか、私たちは、遺伝子を「聞こえるものを読む」として認めてはいないではないか、と現状での常識として、反駁することもできる。実際、ラカン自身は、上著作で、ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』は中国語には翻訳できないと太鼓判を押すのだから、そこまで論理を展開していくことを望んではいないのかもしれない。が、科学技術の進展によっては、遺伝子の声が、聞こえてくる可能性もあると予測することは、空想ではない。最近でも、植物が悲鳴をあげたりしてコミュニケートしていることが、高度な周波解析から知れてきている。当初は理論展開上の仮説でしかなかった量子やブラックホールが検証され、ダークマターという物質の存在もが科学的な射程に入ってき、それゆえ、霊の存在様態などもが、単なるSF小説的空想ではなくなってきている事態になってもいるだろう。どこで線引きし、その向こうを「想定外」として排除するのかが、不安定になってきているというのが、現「科学的ディスクール」の現状ではないか、と言えてくるのである。



 前田氏が、宣長に読み込もうとしている自然と、そこに「潜在」しているとされる「過去一般」という不可思議な「存在」=「言葉」、とりあえず、科学的にはなお検証不可能な神秘世界のもの、であると認めてもいい。ここで確認したいのは、理論というものが、そこでの論理を一貫させていったものであっても、線引きによって、まったくちがった思想の結論を導き出してくるということである。あの『批評空間』誌上でも、相反した線が、ひとつの論理の展開から導きだされてしまうのである。ならば、柄谷氏が示唆しているかのように、音声に偏重した言語学者を「バカ」と呼ぶことは、東京電力的な「想定外」を暗黙しているに等しく、正当ではないだろう。

さらに、同誌上の「ハングルと<女>と」という安宇植氏の論考を加えていえば、なんで日本では仮名が生まれたのに、朝鮮では生まれなかったのか、という問いへの答えは、「科挙」を通して漢字圏に完璧に支配されてしまっていたからだ、というものだろう。だから、たとえハングルが、女性への漢字文化強要のために案出されたとしても、女たちは、それへの抵抗として、ハングルだけの歌を書き始めた、というのである。漢字かな交じりなのは、なお漢字が遠いからにすぎない。田中氏ならば、「濃厚」ではなかったからだ、となろう。漢字が他人事でなく、身に降りかかってくるものであるならば、それを振り払い、自身の言葉を持つ動機も強くなる。しかし、漢字を教養として身につけたインテリ階級は、逆に、保身が強くなり、陸つづきに「密接にからんで暮らしてきた」他の諸族の知識階級では、なおさらであった。そこでは、漢字に呑み込まれて消えるか、それを排して違う文字をもつかということが迫られたのであって、両用併記などという半端はゆるされなかった、ということになろう。私たちが、あくまで文字との他人事な距離をたもっていられるのは、漢字圏との関係が希薄であり、さらに、その関係で生起した日本語というシステムが、文字を無意識に沈ませるのではなく、意図せざる意識として浮上させてしまう装置になってしまったから、となる。文字遊びのように、言葉が主体を超えて、ひとり歩きしていく様を、私たちは、いやでも意識し、見せられてしまう。キラキラネームとは、大衆がそこに魅せられている現象である。言葉と主体との乖離が、中国と日本との海を隔てた地理的な距離なように、私たちの意識を分断し、錯乱させている。



 しかし……たしかに、漢字は海の向こうにあった。しかし、その海が意味するものは、日本を隔てているもの、としてしかないのだろうか? 漢字圏の支配下にあって、私たちはそう観念する。しかし、インターネットで情報が電子記号として飛び交うとき、その「海」という意味するものは、シニフィエを、意味されるものをもまた、変更し、更新し、刷新していかないだろうか? 私のこの日本語の文章が、ネット上のAIによって自動的に翻訳されてしまうとき、それは、日本語なのだろうか? つまり「科学的なディスクール」が、「海」という言葉を拡張しないだろうか? 私が浮かぶ概念の海は、漢字圏なのか、グーグル圏なのか? 電子の、量子の世界には、海などないだろう。いやその海の中を、ケーブルが通り、もし、Google圏とHUAWEI圏との対立が過激になって、それが物理的に切断されてしまえば、電脳空間など、消えてなくなってしまう、のだから、私たちは、漢字圏やラテン語圏といった、「超越的なシニフィエ」の海の中を、泳いでいることに変わりはないのだ……私がこうした思考の拡張によって言いたいのは、線引きが、どこまで「想定」するのかが、揺らいできているのではないか、ということだ。そして理論拡張的には、私たちが、「令和」くんを、「ぜろなん!」と呼ぶとき、それが、そう聞こえてくるものが、人間の言語活動に限定されてくるものであるかどうかも、わからないのではないか、ということである。



多和田氏は、多言語の音声的な編成を空想する。そのとき、その想像力には、唯物論的な批評家の限定活動よりか、もっと夢想的な、よりユートピア的なヴィジョンがないだろうか? それは、そもそも、言語活動によって、実践可能なものなのだろうか?

私たちは、ここでようやく、多和田氏の作品を読解する準備ができた。『献灯使』という原発事故後の、ディストピアから、ユートピアを思考しようとする文学の活動を。いや、ヒトをこえて、ちがうものへと変成していこうとするヴィジョンのあり様を。



2020年1月11日土曜日

多和田葉子をめぐる(1)-※(付記)





私は、自分の息子に、「一希」と名づけた。

出典は、柄谷行人の署名を持つ『NAM原理』(太田出版)である。



<それは絶え間ない生成過程にあり、今後の実践の中で書き加えられていくだろう。とはいえ、これは、過去二〇〇年の社会主義運動を総括し、今後に、唯一、積極的で可能的な方向を与えるものだ、と私は思っている。少なくとも、それは私自身にとって「希望の原理」である。>(序文より)



私の母は、この「唯一」の「希望」として想いをたくされた「一希」という名を、「かずき」と読ませたほうがいい、と手紙で助言してきた。字画数や何かで姓名占いをしてみると、その発音では、ひとと角があたって調和しにくくなる、というのだ。私が、「いつき」と、読ませていたからだ。「一揆(いっき)、みたいでしょ。」とも、電話で話したときは言ったであろう。

「住んでるアパートの隣部屋の子供の名前が<かずき>なんだよ。」と私が言うと、「それではだめよねえ。」と、母は押し黙った。

 私は、日本語の口の使い方だと、「スズキ」という苗字からしてイ音が続くその仮名綴りが、言いにくくなることでためらわれるのは理解できたが、むしろその音にこそこだわったのだ。そういう名の人物がいるのかなと、インターネットで検索してみたりした。トップであがってきたのは、歌舞伎町かどこかのホストの、源氏名だった。「いつき」と読んでいる。じゃあ、格好いいということじゃないか、と私はそのまま名づけることにした。「一希」という字面の名は、生後、散見している。Jリーガーにもいる。がその発音は、やはり「かずき」というのが多いようだ。

「一希」という字面が、キラキラネームであるとするのは微妙だろう。「かずき」、と読むならば、和風により近くなる。そういう文体感に、つまりは自明視された近代文学を通した語感のなかに私たちはいる。が、きらびやかな風俗産業で働くホストが源氏名で「いつき」と自身を呼ばせるとき、それを聞いているお客と店の空間には、そのイ音の連なりが、異国風の雰囲気をただよわせはじめる。しかも、まだ字を知らず、「いつき」という発音だけでは、「女の子」なのかともおもわせる。「なつき」などの女子名が連想されてくるからだ。実際、見かけの性が不定な赤ん坊のとき、「一希」はよく女の子と間違われた。男性であることもが異化されてき、一層の非日常的な異空間を現出させてくるのである。

 私はそういう知識を、まずは中上健次氏の作品や対談から得ている。中上氏は、イ音にまつわる日本語と朝鮮語との関連について、どこかで述べていたはずだ。中上氏の作中にも、「イーブ」と自身の名前を読み直し、歌舞伎町のホストとして働く主人公がでてくる。



<次に、語が複合するとき上の語の語尾音の最後の母音が他の母音に転ずることがある。これを転韻ということがある。これには種々ある。…(略)

イ段の仮名にあたる音がウ段にあたる音に(神(カミ)―神(カム)ながら、身(ミ)―身実(ムザミ)、月(ツキ)―月夜(ツクヨ)…(略)

 エ段イ段あるいはオ段の仮名にあたる音が二つある場合には、右のごとく転ずるのはその中の一つだけであって、他の一つは転じない。>(橋本進吉著『古代国語の音韻に就いて 他二編』 岩波文庫)



この研究から言えることは、イ音の連続は、少なくも日本語として書き言葉を模索していた奈良時代の体制言語当時でさえ、言いにくい外国語の感じがあったということだ。それゆえ、時代がくだると、なおも変化することになる。



<平安朝において、音便といわれる変化が起った。これは主としてイ段ウ段に属する種々の音イ・ウ・ンまたは促音になったものをいうのであるが、その変化は語中および語尾の音に起ったもので、語頭音にはかような変化はない。音によって多少発生年代を異にしたもののようで…(略)…また促音も同様に音便によって生じて国語の音韻に加わった。>(前掲書)



「いつき」と強引に日本語として発声させていくことの葛藤が、「いっき」という呼び名を誘発させてくるのである。母が「一揆」を連想しただけでなく、「一希」のまわりの友達は、当然なように音便変化させ、「いっちゃん」とか「いっき」と呼ぶようになるのだ。とくには、この小さな「つ」の促音は、関西から関東へと体制の中心が移った後、江戸っ子の言葉として頻繁に発声されはじめ普及したようである。(ネット情報)



 私は、自身でつけた子供の名前が、日本語の語感を異化していることに自覚的であった。上のような教養もあった。しかしそんな教養のない人たちでも、とくにはより若い世代では、その異化効果こそが、ネーミングの要であると、意図しなくとも意識しているはずだ。端的に、普通ではもう読めないからである。当事者はむろん、それを意識するだろう。団塊世代の職人さんの孫の名前は「萌亜菜(もあな)」だ。夫婦ではじめていったラブホテルの名前からとったという。他にも、私に来た年賀状からあげると、「紗菜」「凛乃」「凛心」「虹花」「蒼葉」「晴登」「雷」「冴」「寧」「英」……最後も、兄弟でみな一文字なので、「えい」と読むのか「ひで」と読むのか、いやどちらもちょっと変な気がするから調べてみると、「はなぶさ」「はな」「あきら」「あや」「すぐる」「たけし」「つね」「てる」「とし」「ひでる」「ひら」「ふき」「ふさ」「ぶさ」「よし」、というような名前読みがあるのだそうだ。

 私は小学生のサッカーチームのコーチをしていたとき、選手名簿に子供の名前を記入してから出席をとっていたのだが、イメージ喚起は強いがその文字面が読めず、そして、なかなか覚えられなかった。



 それらは、和風であってもどこか変で、異国風であっても、ほんとに外国語であるわけではない。つまりは、私たちは、ここではないどこかへ逃亡したいのだが、実際に行くのではなく、その代わりに、文字によって、その発音によって、外国まがいの異国情緒によって、自身の内なる葛藤をなだめようとしているのではないか? その葛藤は、外との折衝たる現実からくるはずだが、日本語による活動によって、それが自覚しずらくなっている。自分の目をごまかすために、現実から目をそらすために、自覚的に母国語を使っている、などということはありえない。しかし意図的ではなくとも、ちょっと使用した、ここでは自ら名づけた子供の言葉を振り返ってみれば、意識せざるをえないほど明白な事態なのだ。自他の区別、男女の区別さえもが曖昧に溶解して幻出し、ここではないどこかが志向されている。が、そう意図的に思考しているわけではないとなれば、私たちは、それを反省する気にはなれない。そのきっかけが、モチベーションとして、内面的な強度をもちえない。自分のことなのに、他人事となる。

 しかしこの事態は、個人の内面だけのことですむのか?



「令和」という元号は、万葉集が出典である。

 今回のその元号を、「れいわ」と読むとき、その発音はどこか異国風だ。少し、舌がもつれるような言いづらさを伴う。だから、「れえわ」、とイ音を転音させて言いたくなる。しかし現政府は、それが万葉集からの日本語だとして提出したわけだ。

 おそらく、この元号を受けて、子供にその文字面の名前を名づける親も出てくるだろう。しかしそのとき、そのように読ませるには、素直にはなりたくなくなるのではないか、というのが、これまで展開してきた分析からの推論になる。「れいわ」が日本語音で遍くなったのならば、それをさらに、異国風に異化してみたくなる、よりここではないどこかへ独り立ちしたくなる、目立ちたくなる、というのが、日本語の主体とも言えない主体運動であると理解できるからだ。実際に、この「令和」という文字面は、次のようにも読みうるという。「えれな」「おかさつ」「おさたか」「おさちか」「おさとし」「おさとも」「おさまさ」「おさやす」「おさよし」「おさより」「かざれ」(みんなの名前辞典)……いや、名づけ名は、自由に読む=呼ぶことが法的に許されているそうなので、私なら、「ぜろなん」とか、ポケモン風に呼ばせて役所に提出したいぐらいだ。しかしこうした事態を、いったい何が生起しているのかと、整然と記述しうる論理性を、私たちは所持しているのか? 錯乱とも気づかず、平気なだけではないのか?



 天皇の代替わりに名づけられる元号。そもそも、「天皇」という日本語自体が、中国の「皇帝」に対する言葉上の区別、異化としてあらわれた。本当に大国と対決する意思として自覚されたのかは、怪しい。そう相手を挑発してしまう、そうなってくるとは、いくらなんでも意識はしただろう。が、そのことで、大国たる相手が、荒海をこえてこちらまで攻めてくるかもしれぬと、現実的な切迫感をもって、意図したのだろうか? のぞむところだ、と覚悟があったのか? 来やしない、来られやしない、と見越した、単なるはったりをかましただけだったのではないか? 「遣隋使」を送った聖徳太子の当時は知らない。が、このはったりは、それから2000年近くたった現在においても、諸外国にも、そして国内的にも、効きつづけている、といえる。大敗を喫したとはいえ、私たちは、図らずも、隣の大国どころか世界相手に戦わざるを得なくなって、その記憶が、世界史として刻まれてしまったからである。「図らずも」、意図せずして、というのは、もちろん、戦後の裁判で、誰も、天皇みずから、そんなことは望んでいなかったと証言してきているからである。いったい誰が、覚悟を決めて大戦に踏み切ったのかわからない。ならば、こちら側としては、から威張りな、目立ちたがり屋な、はったりでしかなかった、ということだろう。

 もちろん、はったりをかましたくなる、この野郎という心情には、嘘いつわりの入る余地はない。ほかの諸部族でも、そんな気持ちは起きるかもしれない。が、そこからとられた現実政策としての、日本語の建造には、前提とされる現実との距離的な入力値を、誤ってしまったのではないか、ということが、事後的な今、推論されてくるのだ。東日本大震災後に繰り返された「想定外」という認識放棄を肯定する言葉は、むしろ私たちが、現実を隠蔽するために、敢えて言語的にも地政学的にも距離を不正確に測って計算し、偽造していっている様を露呈させた。この私たちの態度は、もしかして、太古の島国が設けた不整備な認識装置がもたらしているのかもしれないのだ。そしてその不整備な装置の最中にいるからというだけではなく、図らずもやってしまったためのはったりが今なお内外に効いているために、変革や更新の必要性を感じさせない、その必要が自覚されてこない。



 山城むつみ氏は、太古の書冊を典拠に戦争へと編成されていく時局に抗し、『万葉集の精神』を対置させた保田與重郎を論じるに、こう締めくくっている。



<保田與重郎は、『万葉集』の「精神」のメタモルフォシスだけではなく、そのアナモルフォシスも示していた。むろん、明示的にそれを描いていたわけではない。だが、彼がそれをみていないその盲目性の中心は、たしかにそれを示唆している。『万葉集の精神』を読むとは、最終的には、そこに焦点を合わせて凝視することである。そうすれば、メタモルフォシスがその勃起を誇示してみせた「精神」は一転して萎縮する。『万葉集』の「精神」をその起源から批判し、その並々ならない精力を去勢するのは、何よりも、保田自身がその盲目性の中心において示唆しているその明察ではないだろうか。>(『文学のプログラム』所収 講談社文芸文庫)



 多和田葉子氏の作品を読むにあたり、山城氏の上の箇所が重要になるのは、日本語という認識装置の有り様をその「起源」の時点で問題注視しようとしているからだけではない。そこに、日本語という特殊をこえた、洋の東西を問わない国語一般の背後にあるかもしれぬ、男根主義(ファロセントリスム)を喚起させているからである。山城氏がここで保田の著作にみようとしているのは、『万葉集』」の編集にあたった武家の名門、大伴家持の「ますらお(男根)」が、「勃起(メタモルフォシス)」して暴れたのではなく、「萎縮(アナモルフィシス)」へと変容していった一事である。

 私たちは、多和田氏の作品に、その文字ずらの、言葉遊びにもみえる言語活動に目がゆきがちになる。が、その内容を受けるならば、彼女が主題として射程にしているものが、男性中心主義的に偏向した思考や趣味なのではないか、ということは明白なぐらいである。文字それ自体やイメージの諸表層に注目して作品から意味を排除した読解批評が席捲したため、作品の主題を論じることが忌避される傾向が文芸界には瀰漫しているかもしれない。が、多和田氏が、言葉と戯れるポスト・モダニスト的な文学活動に専心することに関心があるというよりかは、そうした営みこそを根底から支持している思想性こそを穿ちたいのではないか、いや攪乱させたいのではないか、ということの方が、正直な読みになるのではないか。彼女にいわせれば、「戦争」へと人を導いていくかもしれぬ言語のあり方自体を、性への眼差しを通して壊していくこと、その意欲が、私が彼女の作品から一番読み取れる一事である。



「現代文学なんかやってもドイツ人に負けるに決まっているだろう、と和男は道子に向かって何度か言った。負けるって何のことよ、戦争じゃないのよ、と道子は言い返した。戦争のようなものさ。和男は内心思ったが口に出しては言わなかった。外国に住んでいながら、“戦争”を少しも感じていないらしい姉は意外におっとりしているのかも知れない、と和男は思うのだった。言葉がきついので、きつそうに見える姉も、本当はおっとりしているのかもしれない、と和男は思うのだった。そう思うと姉が好ましく思え、姉の言うことにも腹が立たず、言い負かされたという気持ちにならずにすむのだった。」(「ペルソナ」/『犬婿入り』所収 講談社文庫)



 いかにも日本人であることを前提的に象徴させるような「道」と「和」という文字をもった姉弟だが、姉は、弟を「中性」ではないかと感じ、その弟は、「戦争」という益荒男ぶりを萎えさせていく関係を、近親相姦的な姉との間で作っている。とりあえず日本人であることをその主人公名からして引き受けながら、その思想価値とは抗っていきたい意志が、この初期作品からも伺えるのだ。



 しかし断っておいたように、具体的に多和田作品を読み解いていくまえに、次は、日本語という認識装置、さらには国語という私たちを規制してくるより一般的な問題のあり方を、理論的に追っていく作業が先である。


2020年1月9日木曜日

多和田葉子をめぐる(1)


(1)キラキラネーム



『献灯使』から検討してみよう。

むめい、とフリガナつきで綴られた「無名」という子供の名前からはじめられるこの作品。その名は、曾祖父の義郎がつけたものだった。

「これがお前の息子だ、名前は無名とつけた。名前が無いという名前だ。文句あるか」

生後13日目にして病院に現れた孫の「飛藻(とも)」に、彼にとっての祖父はそう言ってみる。飛藻の妻は、出産後3日して亡くなっている。飛藻が遅れたのは、賭博依存症を治癒するための施設に入っていたからだ。彼の母、義郎の娘にあたる「天南(あまな)」は、夫とともに沖縄へ移民しており、東京にある病院には来られない。彼らにとっての祖母、義郎の妻「鞠華(まりか)」も、地方にあるのだろう施設長をやっていて、仕事を抜けられないらしい。

「無名の面倒は俺がみるから、安心して、ちゃんと病気をなおしてもどっておいで」

しかし結局、飛藻は「雲隠れ」のように、子供をおいてどこかへいってしまったのだった。その子が、本当に自分の子かどうかもわからない、という含みを残して。妻が、腰の軽い、浮気が日常的な飲酒好きな女性だったのだ。

この物語は、そんなふうに子供を預けられた曾祖父と曾孫が、どうやら原発事故後に出現したらしい日本社会の中で、どのような心持ちで生きていったらいいのか、を説話していくものである。言い換えれば、生起したディストピア社会のなかで、未来へ向けて、どのような倫理があるかを模索してみせた作品である。しかしその模索は、カタストロフィ後の社会というSF的設定のなかで、それを乗り越えていけるような理想像に思いを馳せていくようなものではない。むしろ設定は、原発事故があろうがなかろうが、すでに制度として偏在していた社会のカリカチュアだろう。現在を拡張させて実験的な近未来を描いたというよりは、その現在を、原発事故後も持続させているものを告発すべく、舞台が設定されているのである。この作品のストーリーは、無名くんが朝おきて、小学校へいき、その一時間目の授業までの話である。小学二年生の無名は授業中に気を失い、物語はそこで飛躍して、15歳の無名になるのだが、それは気を失っていた間の夢なのかもしれない、という暗示でこの作品は終わる。その短い時間軸の間に、ブラックな社会と世界の説明が挿入されるのだ。

しかし読者は、そんな深刻な設定であるにもかかわらず、この作品が、多和田葉子的なと呼ぶべき言葉遊びに満ち溢れ、その言語活動によって字数が埋められていく、という印象の方が強いだろう。ほぼ全編に、同音異義語や、音韻からの意味飛躍な連想が散りばめられている。原発問題を、こんな言葉遊びで扱うのは、不謹慎ではないか? そう言う批評家の声が聞かれないほうがどうかしているくらいだ。ならば、それが不謹慎で不真面目でないのなら、どうしてなのか? 事故の悲惨を言葉で茶化す言語活動の、どこに、真剣さがあるのだ? 日本を離れ、ドイツで活動をしはじめた多和田氏が、諸言語の狭間で、稀にみる文学活動を続けていることはみな知っている。そういう活動の延長として自明なのだから、つまり文学活動はお笑いではなく高尚なのだから、その下で、原発事故を扱うことは、当然、真剣なものになるはずだ……そういう前提のもとで、最近、被災者の現場にも足を運ばない言葉の世界だけで作られた盗作まがいの作品が、芥川の名を冠した賞を受賞したのではなかったか? 同じ文学として、差がない、たいしたものだ、ということなのか?



私がここで、多和田氏の作品を通して作業したいのは、そう大差のなくなり自明視されはじめた感がある文学の、腑分けである。それはひところ、柄谷・蓮見両批評家のもとで掲揚された、小説と物語の区別、ということではない。いや俗語革命(言文一致運動)と出版ジャーナリズムとがあいまって惹起した近代小説、という教養的な枠をふまえながら、その前提共有とされるはずのものさえもが無効化されている文学言説の場で、もう一度小説活動のあり方を一現代作家の中に掘り起こしてみることで、その前提を違った形で反復してみることである。つまり多和田氏が、具体的に実際、どんな文学活動をしているのか、自明とされ茫洋とされてしまっている様に、ひとつの社会的視点、教養前提を共有しない者たちへも通じる見方を架橋してみたい、ということだ。そしてその橋は、まずは子供たちの名前から架けられるのである。



<しかし何といっても多いのは、虐待による犠牲です。最近の例をあげても、親の虐待で亡くなった子の中に、心(ここ)ちゃん、龍空(りく)くん、憂(ゆい)ちゃん、咲華(さいか)ちゃん、碧(へき)くん、成智(なち)くん、月(るな)ちゃん、桃々(もも)ちゃんといった名前の子がいます。これらはまちがった読み方で人に読めなかったり、男女がわからなかったりするといった珍奇ネームの典型です。>(牧野恭仁雄著『子供の名前が危ない』 ベスト新書 2012.1初版)



 無名くんが通う小学校の生徒たちの名前をみてみよう。

「賀露(かろ)」ちゃん、「安凪(やなぎ)」くん、「窯(かま)」ちゃん、そして「龍五郎」くんというのもでてくるが、これにはフリガナはない。そのまま「りゅうごろう」でいいのだろうとおもうが、「義郎」以外の名前のわかる主人公の身内が、みな珍奇ネームで出てくると、まともに読んでいいのかがわからなくなる。「安川丸」、とフリガナなしだと、名前だか苗字だかもわからない。だから、無名と一緒に「献灯使」に選ばれたのかもしれない隣近所だった「睡蓮」ちゃん、フリガナなし、は、ほんとうに「すいれん」ちゃんと呼んで、いや読んでいいものなのか、さらに不安になってくる。

 自身もが珍奇ネームで、だれも「くにお」と読める人がいなかったという前掲書の命名研究科の肩書きをもつ牧野氏は、珍奇ネームの発生を、親の「無力感」「欠乏感」「孤独感」そして「劣等感」の「代償行為」なのだと分析する。<名づけこそ、自分が主導権をもって行った証であり、なおかつめずらしく見た目もよければ、自分の心が満たされることにもつながります。だからそういう名前をキラキラネームと呼びたくなるのでしょう。言いかえれば「主導権がない」という欠乏感、「力がない」という無力感が、珍奇ネームを生んでいるのです。>

牧野氏は、誰もが抱きうるネガティブな感情が、個人には抱えられなくなる現象を、「文明社会」のなかでの「人間の競争」という背景でとらえ、「平成」になってから珍奇ネームが増えはじめ、児童相談所であつかわれた虐待件数が、「平成はじめに年間1100件ほど」だったのが、「2010(平成22)年は44000件を超え、20年で40倍に増え」たことを指摘している。令和に入ってからの虐待事故で、世間を騒がせた名前は、「結愛(ゆあ)」ちゃんだろうか。

多和田氏の『献灯使』にもどれば、すでに「ママ」という言葉が死語になっており、家族崩壊が当然の生徒たちが集う小学校という舞台以前に、すでにして三代前の「義郎」の妻の名前が「鞠華(まりか)」というキラキラネームである。作品設定のディストピアは、原発事故後、暗示的には平成23年に起きた、東日本大震災に伴う放射能汚染によってもたらされたわけではない。子供の名づけにみられる、より根底的な社会制度、文字と名にまで直結する人間の行為が前提とされているのだ。

その人間の行為を、小説という構築現場でみるならば、作者という親と、作品という子、という主従関係として一般的には置き換えることができる。牧野氏は同書で、森鴎外が自分の子につけた名前を列挙している。「於莵(おと)」「茉莉(まり)」「杏奴(あんぬ)」「不律(ふりつ)」「類(るい)」「半子(はんす)」と、洋風にしたかったのが意思であったようだという。そういう自身のペンネームでも奇抜なものを好む文筆家たちは、言文一致運動の過程では、小説の中では、あくまで自然風な、奇抜ではない主人公のネーミングをしてきたわけだ。キラキラネームでは、自然主義ふう(リアリズム)ではなくなってしまうからである。そこに、なにか象徴的な意味をもたせるにも、世間的にみてもおかしくない字面と語感で知恵をしぼることが、近代文学の文体を維持していくための工夫でさえあっただろう。志賀直哉の「直子」とか、三島由紀夫の「鏡子」とか。大衆文学として区分けされたジャンルではともかく、純文学の異名をとるそうした近代文学の伝統のなかに、大江健三郎氏の、「根津蜜三郎」というネーミングが登場する。江藤淳氏は、その様を、日本の文学を脱した「ノーベル賞」の方を向いた作家行為だと批判した。しかし柄谷行人氏は、そのいかにも象徴的な名前をもった作品『万延元年のフットボール』を、アレゴリー的に読解し擁護した。一方で、主人公に固有名のない村上春樹氏の作品を対置させ、その「鼠」なり「小指のない女」や「100パーセントの女の子」なりという作者の名づけ行為に、他人を交換可能な存在と見下すイロニックな、不真面目な態度を読んだのだった。その批評を受けた東浩紀氏の最近の論考では、村上氏が、おそらくはその柄谷氏の指摘に影響され、内省を積んで一転した作品が『ねじまき鳥クロニクル』であり、そこでは固有名に転換され、皮肉という自意識をこえた「井戸」=(無意識)というメタファーが導入されることで、柄谷氏の論考を凌駕していくような寓意(アレゴリー)を提出しているのだ、と主張している。その言論の是非はここでは問わないが、主人公の名前をめぐる、上記のような議論を確認しておく。

それでは、多和田氏の作者としての作品、ここでは『献灯使』にみられる名づけ行為はどうなのか? キラキラネームのほかに、医者の苗字として「佐鳥(さとり)」、小学校の先生の苗字に「夜那谷(よなたに)」、「蓮連」ちゃんのお母さんかもしれない女性の苗字は、「根本」(フリガナなし)、である。一見、意味をもたされたシンボリックな名前にみえるが、どうも「佐鳥」は「悟り」を開いたような医者の態度からの音韻連想であり、「夜那谷」は、「ヨナタン」という外国人名を隠すために、あとから意図的に創作された名前だということが説明されている。主人公本人による、同音異義語的な当て字ということになるだろう。そしてそもそも、多和田葉子という名は、どうなのか? 言の葉が繁る日本の風土、を連想させる文字面である。本名なのか、ペンネームなのか、私は知らない。が言い得ることは、キラキラネームから言葉遊びによるネーミングには、親の立場としての、権力関係的には上位にあたるだろう主体に、亀裂が入って錯乱的になっている、ということだ。実際に、珍奇ネームをつける親の主体が、自身も虐待を受けてボロボロなんではないか、というような社会学的推論はどけておこう。小説という文学の場で、多和田葉子と著名された作品の主人公の名が、世俗社会でも日本人に読めない珍奇ネームであるとは、どういうことなのか? 江藤氏が大江氏に言うような、「ノーベル賞」向けに、日本という特殊ではなく、普遍的な場所を志向した、ということではなくなるはずである。作中でも、その賞が賭博対象となっており、その賭け事で無名の父飛藻が入院することになったと揶揄・批判されている。しかも、主人公の名前たちは、原発事故以前から想定される日本人の名づけ行為に見られる、世俗風景の自然主義風描写、リアリズムにもなっているのだ。この作者名の眼下には、言語錯乱した名、文字とフリガナの乖離と一致が、その言の葉の戯れが、たわわに実る大和の田園風景として広がっている。これは、どんな事態なのか? その事態が文字通り告げているのは、日本語自体が、錯乱している、ということになるが、実際、日本語でなくして、こんな名づけは可能ではないだろう。放射能に汚染されるはるか以前に、私たち日本人が、日本語で読み書きする者たちが、主体をぼろぼろにされ、「無力感」、「欠乏感」、「孤独感」、そして「劣等感」の「代償行為」に勤しんできた、きている、という姿が、多和田として遍くゆきわたっている、という風景なのではないか? 言文一致をめざした近代文学は、そんな様を模糊してきた。多和田氏の作品は、その文字と音声を慎ませてきた隠蔽が、一時的にすぎなかったことを告げている。が、世俗の普通の親たちが、そんな文学の活動とは直接的には無関係に、せっせと自身の破綻した主体を取り繕おうと、子供の名づけ行為に専横をふるい、身をもって破綻してみせることで、日本語が抱えてもつ問題規制を暴きだしていたのだ。

となれば、次の私の作業は、その問題規制を、理論的に明確化して提示し、その上で、再び多和田氏の作品にもどって検討してみることだろう。



が、その前に、もっと深く、その「民なる」者たちの身をもっての暴露行為を内省し、遡行してみよう。「民なる」とは、空港「ターミナル」の多和田氏の言葉遊びだが、terminalには、いやターミナルという日本語(?)には、「末端」の「民」のほかにも、「終末」という意味もが付加されているだろう。ターミナルケアとは、安楽死を考慮した終末期医療として、日本語になっている。しかしこの日本語のターミナル(「終末」=「民」)とは、日本語の常態なのであるから、終わりではなく、日常、ということなのだ。末端に生きる民の終末的な日常、こうした重層的なイメージ連鎖の中で、私たちの頭は混乱し、錯乱しだす。西洋のエクリチュールのように、無意識のうちに文字が文の構成を操ってしまっている、ということではなく、意図せずともいやでも意識されてきてしまう、という存在のあり方になってきてしまう、ということだ。そこから、やったことは意識しながらも、意図的ではないという、敗戦に伴う責任者の無責任な答弁さえもが、日本語下では論理的な必然、として導かれてもきよう。私たちは、それを「錯乱」とは認識できないだろう。盲目的に、日本語の最中で生きているのだから。ドイツ語と日本語の狭間で、多和田氏は、その最中を相対化しえる洞察を得ているのかもしれない。しかし、多くの日本人はなお、錯乱を健全に過ごす日常=終末のなかにいるのだ。

私が、そのあり方を認識するために、もう少し「内省と遡行」をおこないたいのはそのためだ。外国語をふくめた語彙量の多寡は関係がない、より原理的な根底で発生しているだろうということは、鴎外も現世間の親たちの子供の名づけの発想も同様だろう、という事象が状況証拠になる。

私は、私の内面をみつめる。私自身が、自分の息子に、キラキラネームをつけているからである。

<多和田葉子をめぐる(1)ーキラキラネーム
多和田葉子をめぐる(1)―※付記
多和田葉子をめぐる(2)―日本語をめぐる
多和田葉子をめぐる(2)―付記「視覚のカイソウ」岡崎乾二郎(豊田市美術館)

2020年1月5日日曜日

初夢にかえる短歌


<正月、群馬に帰省中の散歩から。短歌をやる兄を習って。>



霜おりて土手をいろどる枯れすすき

朝日の花道われひとりゆく



息白く空に散るかや初霜の

枯れ草の土手われひとりゆく



朝日うけ雲に包まる浅間山

姿見せずも立ち現れおり



陽を浴びて光とどまる榛名山

したたる雫の赫くように



赤城山朝日に射抜かれ座りおり

腹あかくして空の屏風に



地にふして刃をかくすか妙義山

空を切り裂きいざ躍り出るために



空と地のあいだに広がる山々よ

坂東太郎をやさしくつつむ



嵐すぎなぎたおされた川べりの

木々を知らぬか玉石と水



青空の下嵐のあとの土手の上

ひとりたたずむ朝の気が過ぐ



※ だいぶしばらく、熊や洪水におそわれる夢を見なくなっていたが、去年の暮れぐらいか、また、あふれるように流れる川がでてきた。身内や過去の友人がいるなか、人助けのために、実際は泳げない私が、飛び込んで水をかいていったりする。そんな葛藤が、短歌にも出てくるものなのか、とおもう。水に呑み込まれたとき、狂うのだろう。

※ 「まだ上州の山はみえずや」とうたった朔太郎。その「帰郷」という詩の一節は、群馬県に帰省する人々だけでなく、山のおおい日本では、だいぶ多くの人が抱きうる感慨かもしれない。

浅間山と妙義山
榛名山
赤城山