「独身稼業の活動屋人生という、同時代の社会における裏街道を歩いていた小津には、むしろ都市部での皆婚化と家族形成というこの時期新しく始まった日本人の生き方こそが、戦争に淵源する巨大な暴力のもとで形成された、奇妙な様式であることが見えていたのだろうか。やがて佐藤忠男が最初の本格的な小津研究で指摘するように、監督・小津安二郎が誕生した昭和初年とは、実は親子心中の激増を見た時代だった。当時の男性優位の賃金慣行の下で、夫との離婚ないし死別後の母親が自力で子供を育てることがきわめて困難となったためである。軍需主導の重工業化に伴って農村社会が解体し、近世以来の「村」という地域レベルの共同性が衰亡するなかで、「家族」という単位のみに日常生活や相互扶助の基盤を求める日本的な近代化の歩みが、一面では情愛ある家族関係への過剰なまでの羨望を育み、他面では後に遺すぐらいなら子供の命もわが手にかけるという悲劇を生んだのだった。」(与那覇潤著『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』 NTT出版)
最近とみにつきまとう虚ろな感覚を言ってみるならば、自分の体はカリモノであって、その仮の物質を通して、永遠に存在するのだろうような何者かが、他人事のように外の世界をみている、というふうだ。そして霊魂とでもよびたくなる永遠の何者かは、この世に関与せず、ただじっと見ているだけの存在……その沈黙は、私をぞっとさせる静かな恐怖をたたえている。先月、ヒナから育てたインコが逃げてしまって、夜半、早朝、木上や藪の中をその名を呼んで目を凝らしたが、呼ばれ探されているのはこの私であるような錯覚がふとおそってくる。いやその捜索の大半のあいだ、津波に飲み込まれさらわれ、生死のわからぬ行方不明となった肉親を追い求める被災した人たちの気持ちが想起され、小鳥が息子だったらどれほどのつらい真剣さでこの世界をみつめるだろうとおもったのだった。しかしその胸迫る想いと、虚ろな感覚は同時・表裏的な現象なのかもしれぬ。なぜなら、このつらい想いと空々しさは、子どもが生まれ、そのか弱き生から死への想像へとかりたてててやまぬ赤ん坊との共生がはじまったころからせりあがってつきまとう感覚だからである。それ以前にも、この生死への感性と呼び換えてもいいかもしれぬ実感の根は、あったような気がする。しかし子どもとの共存は、私を問い詰めさせる。そのおぞましさは、私の子というより、私自身からたちがってくるような気がする。ハイハイしていた頃の息子の姿や思い出は、目前の大きくなった息子に追いやられ実像を結ぶ暇もないが、呼び起されたおぞましさは、相変わらずなのだ。もうすぐ10歳になる息子はどこか親離れを開始している。そのことが、論理としてもなおさら、子どもから独立した感覚として私に取り残されて在る。もっと強さを増して。親離れする子とともに生は遠のき、老いる私とともに死は強くなっているのかもしれぬ。いや取り残されているのはあくまで意識する私であって、ゆえに、虚ろな感覚はその私の向こうの冷ややかな私を超えた存在との間隔を露わにさせることで、その何者かの存在を、日々私に教えているのかもしれぬ。しかし、だからどうしたのだ?
私はまだ、あきらめていない。何を? 身近なことでいえば、息子のいるサッカーチームをそれ相応に勝てさせてあげたい。その勝敗を伴う真剣さを通して、世界のことを考えていけるようにさせてあげたい。その日々の営みをとおすことで、私自身が子供たちといっしょになって、この世界の悲惨さを少しでもましな方へ変えていきたい。おそらく、そんなとこだ。
コンフェデレーションズ・カップで、日本は三戦全敗。実力通りだったとおもうが、悪くない内容(真剣さ)だったとおもう。ここでの教訓を生かすには、個人の力では限度があるだろう。というか、世界で通じる個人を多数として培っていくためにも、遠藤選手がJリーグやアジア大会での制度改革が必要と説いているように、まず日本という全体が変革されなくてはならない。会場のまわりでは、100万人デモだ。イタリアのバロッテリは、外出禁止の勧告があっても、ブラジルのスラム街へと出かけていったという。おそらく、そこに暮らす子供たちを励ましにいったのだろう。サッカーをやるとは、そうした世界の問題に参加するということなのだ。個人の参加が、世界を変えるということはないのかもしれない。虚ろな感覚は、黙ってみている。しかしその感覚を、死を保持していることは、私を自暴自棄にさせるのではなく、落ち着いた微笑ましさを与えてくれるような気がする。子供の成長を温かく見守っているように、それは、世界を見ているのかもしれない。