2023年5月27日土曜日

中上健次ノート(5)


 5 補説――通俗小説と真理

 

 

 男女の性愛的な有り様が、「五分と五分」以上にあからさまに露出してきた現在においては、真理とは何か、という問いが、女とは何か、という問いと重ね合わされて追求される現実性は希薄であるだろう。かつては、夏目漱石の作品などが典型であったように、女をめぐる戦いを舞台に、さまざまな思考が隠喩的に追及された。ふと出会い、誘惑されていたのかもと惑わされた青年が、もしあの女性についていったらどうなったのだろうか、とその深淵に神秘さを伺い、あるいは世間を疎んで働かないインテリ人物が、俗物まるだしの男に恋人を取られて、その結婚後に煩悶し、または自身が他の男との競合に勝って女を手にしたものの、そのことで深淵に呑み込まれたように自殺してゆく。がもはや、そんなナイーブさを作品世界で維持することはできない。女性を神秘化することを前提にすることはできない。

 

 最近、唯川恵著『100万回の言い訳』(新潮文庫)を読んだ。ある新聞の欄で、なんとかという女優が、この作品を何回も読み返し、夫婦関係、男女関係についていつも考え込んでいる、と書いているのを読んで、私も夫婦20年の関係を考えてみたくなったのである。

 が、私としては、やはり字面の、エクリチュールの水準で、読み続けるのが困難になる。がステレオタイプになる人物の組み合わせパターンだけを追うことになるうちに、この中上ノートで綴っていることがよりわかりやすく捕捉できる素材になるのでは、と考えた。

 

 私には、この作品から、実際の人生、夫婦のことを考えるには、世界が違いすぎるので無理である。引きこもり、フリーターとなり、歳くってから結婚したものとしては、このトレンディー・ドラマな世界の主人公たちと、どう自分を類比していいのかわからない。強いて言えば、母子家庭を営む働き者の若い女性主人公に共感はできるが。だから考えさせられたのは、人生(夫婦)とは何か、といった哲学的な問いではなく、あくまで文学作品的な問いである。

 

 その作品のあらすじはこうである。結婚して七年目の子供のいない夫婦。ここで子供を作って転機を、と実行しようとしたその夜、暮らしているマンションが火事に巻き込まれてしまう。その事故をきっかけなように、夫は隣部屋の奥さんと、妻は職場の後輩と、できてしまう。そこに、後輩の金持ちの同級生の建築設計家、女性のことを道具のようにしか思っていない俗物があらわれる。かつて自分の恋人をこの俗物に寝取られていた後輩は、先輩の女がその男をあしらう姿に感動して付き合いはじめたのだ。妻は若い後輩からなお自分が女として認められているようにも感じる一方、俗物のマッチョ丸出しの強引さにも惹かれてしまう。夫の方は、隣人の人妻の直截的な誘惑と肉欲に負けはしたものの、一方で、仕事付き合いで使うキャバレーの実直な女性、女手ひとつで子育てしている若い女性の就職先の面倒などを、同じ地元同士ということの延長で、純粋行為として手伝っていた。彼女は、高校の頃のバイト先の旅館で、学生だった若い青年から言い寄られ、子を孕み、内密に産んだのだった。その子には戸籍もない。その産みの父親が、俗物男であり、その男の居場所を、夫は調査の先でつかんだ妻の後輩の口から聞き出した。いま俗物男はレストランにいる、俗物は同級生にいまおまえの付き合っている年増女と二人でいるから来い、とみせつけるために呼びつけた、つもりだった。が、レストランで、夫婦、勤め先の先輩後輩、大学の同級生、密会同士、といった関係にあった四人がかちあう。事情を知った後輩は同級生をなぐりつける。そのカタストロフィのあとで、夫婦はもう一度夫婦を始めるのも悪くないとおもい、後輩は、新しく自分をやり直すように沖縄へと向かう。

 

 ここでは、女性を神秘化する前提はない。男女関係に深淵はなく、謎もなく、みな世俗的である。妻の両親の「四十年以上」の関係の末に起きた別居や浮気が、男女とは何か、と言う女の神秘性を前提とした問いを相対化させ、「夫婦とは何か」、という問いとして更新されてくるが、それを追求するというより、典型的なキャラの組み合わせにおいて物語展開が試行錯誤されている、という提示の仕方である。だから、俗物男の登場といっても、もはや謎のない他の皆と同じ程度の差でしかありえないので、最後まで憎み続けるという過激さは現れずに消えてゆく。越えられない壁の向こうの謎への問いかけが、求心性(真剣さ)をもって言葉や物語を展開しだしていくのではないのだ。小説における近接の原理に忠実で、出てくる主人公はみな近づいて出会ってゆき、あとはどんな組み合わせのパターンで落ちをだすか、という物語展開の謎というより興味に収れんしてゆくしかなくなるのである。レストランでの四人かちあわせ現場での乱闘カタストロフィが、俗物がなぐられて読者の留飲が下げられる落ちというよりは、どこか大人的に落ち着いているのは、登場人物が俗物(ステレオタイプ)でしかありえないので、それを肯定するしかないからだ。大悪党ならそうもいかないが、そう想定するリアリティーをもたせる世間の合意がもはやないのだ。

その穏やかな首肯、俗でしかない世間を認めてやる思いやりが、女性作家ならではの視点、とも提出されているようにも感じる。不倫は悪だ、とツイート炎上する正義社会のマッチョさを相対化させる作者の姿勢に、フェミニンな思想性をはさませている、ともみえる。

 

そのカタストロフィ(挑発的決裂、戦争や革命)をのぞまない大人的な平和な態度は、後輩が「沖縄」に向かうということで増幅される。ここでの「沖縄」はオリエンタリズムである。ここは同じだが、あすこは違う、とここの平等、どれも同じ俗物、が保証されるように、あすこが想像的に掲揚され差別化されているのである。そうした制度体系が、無自覚に温存され、循環的な構造をつくり、反復・維持されようとしているのだ。

 

 中上の『軽蔑』では、登場人物のほとんどが裏社会で生きているような、欲望まるだしの、俗物であることがあからさまであるがゆえに、さっぱりしたいさぎよさの社会が前面になっている。だから真知子が、偶然目にした新幹線の中でのサラリーマンの無邪気な好機の視線だけが、あたかも後景こそが本当にみえる「風景の発見」でもあるかのように、差別(軽蔑)を感じさせない「五分と五分」な男女関係を思わせてきたりする。そのサラリーマンとの普通さを反復してみたいという思いが残っていたから、真知子はカズさんの地元の成り上がりの銀行員の罠に落ちて、体を奪われ、それが俗物関係でしかないことを思い知るはめになるのだ。

 

 作品に超越性が、乗り越えられない壁、絶対的な悪でもあれば、勧善懲悪的なカタストロフィは大団円になるだろう。あるいは、女という神秘が、謎があれば、物語パターンとは別の訴求力が言葉を紡いでいくことになる。

 

 が、ナイーブにはもうそれはできない。漱石の主人公は、女に真理(神秘)はないと打ちのめされて宗教にいったり、自殺したりした。中上の主人公たちは、母系原理的な、筋・つじつまの合わない謎からくる、神秘さを湛えた路地消滅後、肉体生理的なセックスのスポーツ的反復にのめり込みながら、やはり「沖縄」へと向かった。そこにもオリエンタリズムは感じられるが、「朦朧」的な模索がある。無邪気・無自覚なものではない。

 

 漱石や中上の作品が直面した物語的な規制枠(ステレオタイプ)は、現在に流通する通俗小説の問題規制としても通底している。中上はその規制を打ち破って未来をみるために、まずはパラノイアックに物語展開を押し広げ推し進めようとした。スキゾフレニックに言葉の細部に過剰さを畳みかけてゆくのではなく。

 

 しかし未完の『宇津保物語』では、日本語の持つエクリチュールの運動の方から、新しい古文を創起しようとしたのかもしれない。しかしそれは、内に閉じられた島国的な和文ではない。念頭に対峙してあるのは、大陸の、聳え立つ文明の巨大な悪を孕んだ大陸の作品であり、現実である。卑小な小賢しい悪しかなく、この世を絶した壁も感じさせないのは、それが日本という島国にいることからくる錯覚なのではないか、と。

『宇津保物語』とは、遣唐使として派遣された公子が、難破して波斯国(ペルシャ)に辿り着くところからはじめられる日本最初の物語長編とされているものである。中上は、「うつほ」という言葉に、空洞、竹の筒、といった神話空間を読むが、その定型的な連想が、ファンタジーに向かうのではない。そこに、「精神の空洞、飢餓」を重ね合わせて、永山則夫事件を、“現実”を呼び出すのである。(「宇津保物語と現代」『中上健次エッセイ撰集〔文学・芸能篇〕』恒文社21)この「空洞」は、近代的な「内面」ではない。「永山はいかなる意味においても外部の人間(行動者)である」というのが中上の認識である。(「犯罪者永山則夫からの報告」『全集14』)つまり、その犯罪は、悪は、中上の未完作品群での「暴走族」と同じく、「侍」の系譜で理解されるべき歴史なのだ。

 

「精神の空洞」は、わたしたちから「内面」を奪い、その心理過程のない、突発的に見える行動の契機を誘発する。わたしたちは、この穴を、現実を、歴史を見ているか? わたしたちに行動を迫る目の前の穴を? 目の前の穴とはなんだ? それは中国であり、大陸だろう、島国の目の前にある、ユーラシアだろう、と中上は直面し、わたしたちに突きつけたのだ。つまり、いま、この目の前に見えている、文字が、中国から来たはずの文字が、穴だろう、わたしたちには、それが、見えていない、見失っているのではないか? 中上は、ラカンがポーの『盗まれた手紙』で分析してみせたように、目の前の状差しに隠されていたくしゃくしゃになった手紙=letter=文字を目の当たりにし、読んでいるかぎり意識されないそれ、見失うからこそ機能していくそれを引きずり出し、もう一度、その日本の始原にあった「うつほ」の物語を書きなぞりはじめたのだ。

2023年5月20日土曜日

中上健次ノート(4)


 4 父殺し、母殺しを超えて

 

 

 『軽蔑』の女性主人公の名は「真知子」である。つまり、真理を知っている女、と設定されている。この女性の捉え方は、西洋文明の哲学、形而上学的な在り方からすれば、イロニーということになるだろう。ニーチェが洞察したように、男たちが女(真理)とは何か、とその謎に囚われ、獲得しようとした争いが、世界の歴史を動かしてきたのだ、と理解でき、されてきたからである。女をめぐる男の戦い。だから、ニーチェは言い返した。女は真理を欲していない、と。通俗的には、おまえは俺のことが「本当に、真実に、好きなのか?」と男が追求しても、その探究の姿勢ははぐらかされ、かわされてしまうのが落ちだ、となる。永遠に続く問い。が、女に深淵な謎も神秘もなく、女自身は真理などに無頓着である。だから、台所に何千年といようとそこから哲学ひとつ引き出してこなかったのだ、とニーチェはそんなあり様の女性性を肯定してみせたのである。

 

 中上がとりあえず引き受けたのは、そうした近代以降に明白になっていった男たちの哲学的前提である。ポストモダニズム的な認識、と言ってもいい。がそこに、いや女は真理を欲し、さらに、知っているのだ、と敢えて、挑戦するように設定仕返したのだ。

 

絓秀実は、<『軽蔑』が中上のターニングポイント>になっていたかもしれない、と『全集』版のとじ込み冊子で解説している。(「「路地」から鏡へ」『全集11』)

私もこの作品の構えに、似たような感想をもった。が、その<ターニングポイント>とは、この作品で得た認識が、未完となった作品群、私の読解においては、文明との戦いへ向けての意義と武器に、つまり大義名分的な根拠になっていった、ということである。

 

つまり、未完となった、男たちが戦う世界が、その背後で、この作品での認識が脱構築してゆくよう忍ばされ、裏書きされていくのだ。秋幸は、かぐや姫だった。真知子も、羽衣伝説を下敷きにした「天女」である。この「天女」の伝説は、もちろん大陸からやってきた。中上は、「韓国」からだと認定しているが(「水と空」「輪舞する、ソウル。」『全集8』)、その原型として、中国(あるいはインド)が想定されても実証的にはおかしくはない。そして浦島太郎の行く竜宮城を仕切るのは、豪傑ではなく、天女である。羽衣伝説とがそもそも、男に捉えられた女が衣の力で去ってゆく、という話なのである。

 

<四人兄弟の長女、一つ歳上の兄が一人、妹が二人。

 子供の頃から兄と一緒に育ったので、活発で男まさりだった真知子は女の子と遊ぶより、兄の友だちと遊ぶほうが多く、その時も、そんな遊びをすれば、男の子は無傷だが、女の子は疵を受け、血を流すという事も知らずにやり、起こった出来事に茫然としていた。

 兄が、その秘密の隠れ家と称した裏山の草や木で編んだ遊び場に来て、拭っても拭っても止まらない血に茫然としている真知子を見つけ、怒り、頬をはった。

 兄は成人しないうちに、複雑な家族関係に疲れたのか、恋愛に敗れたのか、自殺してしまったが、真知子は、子供同士の悪戯とはいえ、九歳、十歳で破瓜するという女としての決定的な粗相をした自分に、兄が毅然として優しかったのを思い出し、それは、カズさんとよく似ていると思う。

「ニューワールド」のカウンターの上では踊り子は天女のような存在だが、重力のみなぎる地上で振り返ってみれば、バタフライ一つを衣裳とし、興に乗ったチップをもらえばそれも外し、総てをさらし男たちの欲情を煽る為に交情の姿そのままに踊るのは、女として決定的な粗相を仕出かしていることになる。>(『軽蔑』『全集11』p71

 

 真知子の造形には、『地の果て―』までの「美恵」と、中本の一統に連なるその兄「郁男」との関係が投影されているが、しかしそこから、美恵が「天女」としてストリッパーと重ね合わされるわけにはいかない。中上の自伝からの私の推定では、おそらく、中上は、実際の歌手「都はるみ」とのつきあいにおいて、女をめぐる「真理」の在り方を洞察したのだ。あるいは、男世界の中を渡り歩く女性歌手のうちに、差別世界での男たちとは違った戦い方のヒントを感じ取ったのである。

 

 それは、地上の「重力」、「諸関係の総体」に「革命(戦争)」を迫る男たちのような戦い方ではなかった。天女のように軽やかに浮遊してゆくようなものでなければならない、そしてそれはありうる、と中上は都はるみを見て思ったのだ。男と女の「五分と五分」との関係を真理だと欲し追求する真知子は、それを平然と崩す俗物男を一瞬は殺そうとするが、その試みを放棄する。ヘーゲルを援用し、女をめぐる男たちとの闘争という執拗な主題的原型を近代文学から読み解いてきた絓は、<鏡を割るというカタストロフィだけは避けられねばならない。そうしなければ、『軽蔑』という作品自体が、一挙にカタストロフィへと沈んでいくのだから、鏡を割らないことだけが、女の最後の倫理である。>と提示する。たしかに、真知子は「カタストロフィ(戦争・革命)」という男(作品)の戦い方を拒否した。が、そのことが、「女の最後の倫理」になってしまい、<秋幸以上に完璧な孤児>として<誰も、血縁を知らない>真知子が、“小説”的強度を更新させる「ターニングポイント」を示して終わった、ということではない。

 

 中上のサーガからすれば、明白に真知子は美恵という「血縁」を持つ。そして中上は、さらに様々な作品を書き続けた。ならば、『軽蔑』以降のそれらの作品は曲がり角を通って、どこに向かったというのか? 絓も高橋源一郎と同じく、近代“小説”という枠に囚われている。「ターニングポイント」と言いながら、結局は小説の理念型(強度)の反復であるべきであると、一つの批評的見方から作品や作家をさばいているので、その後の「朦朧」な作品群と関連付けられないのである。あるいは作家のその挑戦を失敗として遺棄する。

 

『軽蔑』は、こう締めくくられた。

 

<「嘘」、その男の顔を見て、真知子は、息の多い声で、まるでたった一言しか言葉を知らないように、言った。>(『軽蔑』(『全集11』p405

 

 この表現が、縊死してゆく浜村龍造を前に言った秋幸の言葉に対応していることは明白である。

 

<一瞬、声が出た。秋幸は叫んだ。その声が出たのと、影がのびあがり宙に浮いたように激しく揺れ、椅子が音を立てて倒れたのが同時だった。「違う」秋幸は一つの言葉しか知らないように叫んだ。>(『地の果て至上の時』(『全集6』p415

 

 秋幸は「叫んだ」。真知子は「言った」。秋幸は「一瞬」の「声」だが、真知子は「息の多い声」だ。「一つの言葉しか知らないよう」な秋幸と、「たった一言しか言葉を知らないよう」な真知子。「違う」と認識した秋幸に対し、「嘘」と、驚く真知子。「違う」なら、本当は、本来は何なのか? つまり、真理とは何なのか? と秋幸は問うている。それに対し、真知子の「嘘」とは、死んだはずのカズさんが出現したかに見えたことへの「本当? 信じられない」という驚きであり、受け入れである。彼女は、ニーチェの言うように、たしかに真理を問うていない。がそれは、それが「嘘」である「本当」を受理していくことである。真実は「一つ」だと秋幸は前提としていた、が、真知子は、「息の多さ」、声の多数さを、真実の複数性を認める。「一言」でいえば、その現実とは「嘘」である。真知子は、真理(本当)を男のように欲しているわけではない。だから、そこでは真理をめぐる戦いは、カタストロフィとしては発生しない。が、「嘘」でもいいから好きといってくれ、夢を見続けさせてくれ、と正常性バイアスに逃げるということでもない。死を賭けた命がけの戦いとは別の、あくまで真剣な忍耐強い、女の戦い方があるのだ。

 

 しかも、女の戦い方とは、『地の果て―』以降の、作品の戦い方でもある。それ以前までは、あくまでストーリー的な線的な繋がりとしての作品同士の関係であったが、『軽蔑』の認識が、他の未完の作品の前提、男の戦い方を相対化し脱構築させていくように、この完結された『軽蔑』もが、未完の作品によって相対化され、脱構築されるのだ。つまり、『軽蔑』の認識前提が本当(真理)ということではなく、そういう思考自体もが「嘘」としてはぐらかされるのであり、その運動こそが軽やかな羽衣としての武器、ということなのだ。

 

 未完となった『鰐の聖域』は、『地の果て――』までの秋幸の姉・美恵の娘・美智子と結婚した五郎という人物が中心主人公となっている。五郎の浮気に、美智子は「男と女は五分五分」だと言い出し遊びはじめ、結局ふたりは離婚する。が、そのことはカタロストロフィな破局大団円を演じて終わるのではなく、さらに、五郎は美智子のイトコ・園美と、美智子の母の実家「竹原」家で知り合って、そのままできてしまう。

その五郎は、秋幸との「兄弟喧嘩で死んだ」とこの作品ではされる暴走族の初代リーダー秀雄の知人であり、二代目のリーダーとなった鉄男の友人でもあることが示唆されている。

 五郎は他所から来た者であるゆえにか、路地社会の力学には飲み込まれず、それを相対化する。自身のふしだらさも、中上の実際の母の路地論理が、この実話に基づいた作品のイトコ婚も、「減るんでなしに増えるんやさかね」(「妖霊星」『全集5p291)とそのまま受容してしまうのとは違う論理において正当化される。

 

<母親きょうだいも園美のイトコらも驚き、怒った、と言う。五郎が考えても確かに驚き、怒るのは当然だが、五郎の立場に立てば、美智子の産んだ麻美をのぞいて誰とも血のつながりのない男が、どの女と寝ようと、どの女を孕ませようと非難される筋合はないとなる。>(『鰐の聖域』(『全集13』p23)

 

 この「筋合」には、東国の(侍=「暴走族」経由の)、外イトコ婚という外婚制を意識する直系家族的な影響があるのかもしれない。が、重要なのは、路地以外の思想によって作品が錯綜としてき、その外からの相対的な距離が、路地社会の力学を客観性を超える深読みとして発揮されてゆく、という過程である。

 

 この作品では、その読解力のことを、「死霊」と呼んでいる。五郎は、路地に渦まく人間関係の錯綜から、自殺に追い込まれた土建会社の「親方」の「死霊の力」が自分を動かしているのではないか、と推察するようになるのである。

 この五郎の推察は、中上の未完の作品群からみれば、作家中上自身のものでもある。外からの読解は、路地を超え、日本を超え、南方、そして中国からもやってくる。『異族』では、あらぬ噂に狂喜するオバのような年寄りはどこにでもたくさんいるとその神秘化は相対化される。さらに、未完の『宇津保物語』では、日本の物語が大陸の「書物」の存在で異化されていく方向をはらみ、この擬古文的に綴られた作品自体が、おそらく、中国を意識しているのだ。いやさらに、その原古典がペルシアを取り込んでいるのだから、大陸ユーラシアとの交通こそを前提として、さまざまな世界や価値が、絓の『軽蔑』の解説から引用していえば、「鏡」のように「乱反射」して、相対化され、そのことであくまでなんらかの「全体」めがけて意識・構想化されようとしているということになるだろう。

 

 中上の未完の作品群は、物語的な線で絡まるだけではなく、さらに、思想性や価値観においてもお互いが牽制しあい錯綜となることが仕組まれはじめている。作品群として、多声的なポリフォニーな様をみせてくるのだ。しかし、それはいわゆるポストモダニズムな、もう「真理」などなくあるのは相対化されてゆく戯れだけなのだ、という態度に収れんしない。なぜなら、あくまで、文明の中心地、中国やユーラシアが標的にされているからである。その標的めがけて、作家は、アキユキは、試行錯誤しながら進んでいる、ということなのだ。

 

 「アキユキ(私)」は、つまりは作家中上は、そうした認識覚悟を体得し、携え、文明の真っただ中へと潜り込んだのだ。

 

「天女」としての「かぐや姫」が、東京の路地たる「ニューワールド」な歌舞伎町で更新された認識作法を武器に、大陸の「前進前線」へと帰還した。中上は、複数の線と声を持つ物語群を、日本から外へと移動し描き始めた。男と女は、人間と人間は、人種や民族が「違う」とも、「五分と五分」であり、差別などありえない。その「嘘」は、「嘘」であっても、戯れではなく本当のこととして掲げられえる大義である。その虚構の真剣さで、秋幸は「中国の帝王」の身代わりたる鉄男とまず対峙するのだろう。「八犬伝」の志士たちや、アジア広域にわたった詐欺グループや、日本の芸能界を仕切って世論を動かす若い衆たちが、その戦いに連動し、支援する。彼らは、中本の一統の、若くして世に押しつぶされていった者たちの系譜である。郁男は死んだ、夏羽は死んだ、カズさんも死んだ、が、「嘘」のように蘇ってくるのだ。

 

 中上は、そうした若い「死霊」たちを引き連れて、突き動かされて、世界の力関係(地政学)を読み、文明と対峙しようとしているのだ。

 

 いやおそらく、路地出身の者たちやその霊(系譜)だけが協力者ではない。『讃歌』では、「ミス・ユニヴァース」の「中国の娼婦」ファ・チンが好意的に描かれている。真知子は、「ニューワールド」のストリッパーだ。だからたぶん、新世界へ、宇宙へと向けて、男と女、人と人との差別のない「五分と五分」の世界を目指して、国籍を超えた協調関係もが動員されるはずである。

 

 その動員の模索は、作品の形式においても試行錯誤された。絓は、『軽蔑』の<部分部分をギクシャクとして描写していくしかない>、<決して何か全体的なものをうつしてくれないのだが、同様に、話者も遅滞なく物語を語ろうとしない。視線が「全体」という重力から自由であるとは、そのような乱反射を意味している。>と言うが、それはその後の作品と作品との絡み合いを見ようとせず、あたかも完結したこの作品で作者の営みが終わった、「全体」を志向しない“小説”の在り方の方が優越的なのだ、という一時の批評の見方を押し出している。

 が中上は、未完の物語群で、超越的な語り視点をいきなり挿入させてみたりと、その機能が生きるのかどうか、未来への形式的な伏線となるのか、手探るように投機的に書いているのだ。私たちが見るべきなのは、その「朦朧」と化してしまうなかでの、文の模索の、真剣勝負な様なのだ。

2023年5月13日土曜日

中上健次ノート(3)


 3 詐欺の群れ

 

 中上がしかし、まず遺作となってゆく作品群で模索したのは、北方へと続くユーラシアへの経路ではなく、より周辺からの南方への経路である。『地の果て―』以降、すでに起点が東京へと移っていたそこから、また西域(路地へと)、そして南方へと降下する。

 

 東京・東国が、父系の強い直系家族の価値基盤であることを踏まえれば、その生地への帰還と、その向こうへの超越は、郷愁や後退ではない。路地での認識に、武士的な暴力性もが所持アイテムとして付加されていることになる。

 

『熱風』という作品では、南米から東京へとやってきたタケオ、移民した中本の一統「オリエントの康」を親に持つ日系の青年が、その東京で詐欺集団を営んでいたもと路地の者たちと出くわし、解体され開発された親の生地である路地へと復讐のためなように乗り込んでいくことになる。詐欺集団には、産婆だったオニュウノオバの親類「九階の怪人」や、徳川家に毒見係として勤めた中本一統の一人(折戸という名字)を祖先に持つ「毒見男」、そして徳川御三家のお姫様と呼ばれる徳川和子なる者たちがいる。

 

 詐欺とは、言葉たくみに相手をごまかす術だ。路地とは、あることないことが噂され、渦まく地帯であった。中上はその路地の現実を描く以前の青春小説群では、詐欺電話をかけまくり脅迫する若者の犯罪のことを扱ったりしていた。路地育ちの過程で体得する話術に、現実を編んでゆく言葉の糸の絡みと力加減を読解する認識洞察が、路地解体と開発の現場で暗躍する自らの家族を巻き込んだ土建世界で鍛え上げられる。そこに、徳川将軍に連なる侍の武力と判断力が付加されたのだ。

 

『異族』では、その武力は「空手」となる。我流の空手を覚えて路地出身のタツヤと夏羽は、東京へと出てくるが、右翼団体の道場の師範格となっていくタツヤと違い、中本(折戸)の血を引く夏羽は、その血に飲まれるように自殺した。沖縄からフィリピンへと凱旋する前にだった。夏羽は、毒見男の腹違いの兄弟であり、「この間、死んだらしい」ことが『熱風』の毒見男の口から説かれており、二つの作品が、平行していることが示唆されている。

 

 いや平行はそれだけではない。解体されてゆく路地出身の若い衆らが、オバたちをトレーラーにのせて脱出し皇居へと旅立つ『日輪の翼』では、『聖餐』で「死のう団」を組織していた中本一統の半蔵二世が、すでに一人東京へと抜け駆けしていて、売れっ子歌手としてデビューしているエピソードが挿入されている。それらの続編になる『讃歌』では、『日輪の翼』での中心人物ツヨシは、源氏名をイーブとしてジゴロ稼業をしながら行方不明となったオバたちを捜していたが、作品最後では、ツヨシという出身名に還っている。

 

 つまりは、路地出身の若い衆たちが、東京で得た新たな武器をもって、西へ帰り、さらには南へと目指し、東京に残っている若い衆も、武士政権崩壊後の戦後社会を覆すことを企んでいるような、不穏な潜在的な動きをみせているのである。

 

 が、それらが向かっている先は、日本ではない。その日本の土壌をそうたらしめている地政学的に枢要な、文明の中心地、中国である、ことが、作品群の全体像から示唆されているのだ。とくには、詐欺犯罪を素材とした『熱風』と、暴走族右翼『異族』との重なりを思う時、一頃のオレオレ詐欺から現在のアジア広域にまで拠点を広げて世間を騒がす、日本の犯罪組織の地下潜伏と、マフィア化の現実を先取りしているようにも見える。さらに、ロシアとウクライナとの戦争で喚起されたアジア領域での地政学的緊張の浮上も考慮すれば、『異族』で沖縄や台湾、フィリピンを巻き込んで構想される「台湾・琉球連邦共和国」、南沙諸島をめぐる「南海洋連邦」など、空想的な話ではなくなってきている。沖縄の血を母方に持つ佐藤優は、日本政府がウクライナ情勢にかこつけて、石垣島や沖縄の防衛強化への具体に県民の積極的協力を自明的に推進化するのならば、沖縄人は台湾や中国との独自な外交関係をのぞむようになるだろう、と忠告している。

 

 しかしならば、かつての文明大国の再興台頭を、どう受け止め対応すればよいのか?

 

 中上の未完となった作品群は、まさにそのことこそを追求している。おそらく、ヴェトナムという「中華帝国」の「前進前線」への潜伏から登場するアキユキは、「中国の帝王」の身代わりとなる鉄男と、もう一度、戦う羽目に陥るはずである。もう一度、というのは、この父殺しに邁進する後輩と、母殺しの認識の根底的な肝要さを洞察している先輩の秋幸は、『地の果て―』においてすでにやり合っているからだ。その時は、秋幸が人質のように監禁され、銃で脅され、なぐられた。

 

 二人は、ともにレベルアップしている。しかしその過程で、日本や中国の大企業家族をたぶらかしてゆく詐欺集団の一員となった『大洪水』での鉄男は、中国の怪奇さに直面し、その差異から、秋幸と似たような洞察を共有しはじめているのだ。

 

「日本の批判はいい。僕は中国や中国人に関して言っている。いいですか? 話を展開する前に了解してもらわなくちゃいけない。というのは僕は、リー・ジー・ウォンという人間だという事。蝋人形を父親として生まれていても、ジンギスカンの血を引いていてもいい。ミスター・ヤン、あなたの弟は、中国という巨大な国のそばに位置する日本に育ったんだ。

 僕はその日本でうろうろ歩き回った。日本にいて日本人でいる限り、他からどんなに言われようと条理がある。というのも日本の中心には天皇がおられる。天皇が難しいと言うなら、富士山でもよい。その中心を核に物事は動いている。

 しかし、そこから中国を見ると、一切が変形する。リー・ジー・ウォンならなおさら、中国が不思議に見える。あの古い歴史と広大な国土と膨大な人口を持つ国は、まず中心がない。天安門があるじゃないか、中国共産党があるじゃないか、と言うが、それは中心だろうか? そう考えているだけで日本にいると混乱する。」(『大洪水』(『全集13』p428

 

 『かぐや姫』の物語の最後に登場する富士山は、常に私たちを見ている。葛飾北斎の『富嶽百景』から伺えるのは、私たちから富士山が見える、という感覚ではない。常にどこかから、富士山に見られている、見守られている、という感覚である。京都においても、天皇は、そういう自然体として存在している、飛鳥山みたいなものなのだと、鉄男は認識しだしたのだ。が、広大な中国、帝国では、そうはいかない。帝王は、むしろ、全てを見ることはできない、そこで暮らす人民も、自分が見られている、見守られているという安心感を持つことはない。ゆえにそこでは、人工的に、監視カメラ的な管理と、帝王の恣意が、命令が「条理」の代わりとして強制される。それは、自ずから受容される自然的な道理ではない。自然な中心(富士山)がないかわりに、人為的な中心、天安門や共産党が構築される。しかし鉄男は、それが「中心だろうか?」と、問うのである。「鉄(刀)」という文明の武器でと闘う「侍(男)」と設定されていても、中国を前に、路地の認識に立ち帰るのだ。そして、「混乱」する。

 

 シンガポールから香港へと拉致された鉄男は、そこで「中国の帝王」と呼ばれるミスター・パオに直面した。その姿形は、「肩や胸、腹についているのは人間のまともな肉でも脂肪でもなく、石くれや木ぎれだというように全体がでこぼこの塊であり、それに硬い毛が生えている」と描写される。人間離れした豪傑の登場である。『異族』が、江戸の戯作『八犬伝』を下敷きにしていたというなら、『大洪水』では、その「水」という文字の媒介を孕んで、豪快豪傑な物語『水滸伝』が射程に入ってきている。自然的な寄り集まりの群れとしての「八犬伝」から、あくまで人工的な寄木細工としての構築物語、『水滸伝』との対峙に作家は迫られたのだ。しかし、この人物描写のところで、作品は中断した。

 

おそらくアキユキは、この鉄男の「混乱」の隙に乗じ、豪傑と対峙するだろう。「路地」の、双系家族の、核家族の中枢を潜り抜けてきている秋幸は、自然と文明をめぐる<真理>を、ヴェトナムにおいて深めている。いや作家中上自身が、中国とは何か、文明とは何か、人間の、自然の真理とは何か、とその地をさ迷いながら考えたのだ。

 

しかし中上が、その<真理>をつかみ展開しようと試みたのは、まずはここ日本の東京、新宿においてであった。さまざまな地からやっきてきた外国人が群れる歌舞伎町。完結した作品としては遺作となった『軽蔑』の「真知子」が、女性として遣わされた「秋幸(かぐや姫)」の真意を裏書きしていくのだ。

2023年5月7日日曜日

中上健次ノート(2)


2 侍と暴走族


  中上の作品の物語基軸は、ギリシア古典を背景にもして、父殺しと言うテーマだったと言われる。路地三部作での主人公秋幸が、その悲劇の主人公であると。が、秋幸は父殺しを貫徹できなかった。その様は、父自らが自壊してしまったこととして免罪された。その物語顛末は、ソ連邦の自壊という歴史の様と重ね合わされたり、父の権威の希薄な日本の土壌が想起されたりした。

 がそもそも、「秋幸」という名前自体が、父殺しとは距離のある設定であると推定される。秋に、行ってしまう人、つまりそれは、苗字の「竹原」とあいまって、「かぐや姫」を連想させるからだ。しかも、義父以前の母方兄弟姉妹の苗字は「西村」であるから、それは西方の死(異界)から竹林にやってきた、という構図になる。行幸、という天皇の外遊という言葉をも連想すれば、「秋幸」という名前自体に、貴種流離譚という設定がある。かの国(月)のお姫様、そう仮説してみると、まさに秋幸自身が、主体的に従属者を引っ張っていく男性というよりは、周りの関係や風景、自然に溶け込み染まってしまう受動的な存在とされる女性の性質を多分にもっており、その大事にされた女性的キャラが、なんだかんだと因縁をつけながら既成の縁起にはおさまらないで、ついには、自分を育ててくれた父母からも、路地(地球)からも去って遠くにいってしまうという物語なのである。

さらに、秋幸は、産みの親としての浜村家族に当てはめてみて、はじめて長男として捉えられるのであって、母フサの先家族にあっては、三男の末っ子なのである(次男は生まれてすぐに死んでいると設定されている)。つまり、父権社会での、相続対象者とは言えない。つまり、父を殺す動機として説得力をもつ位置にいない。むしろ、秋幸自身が最後に認識するのは、殺すべきなのは母であり、彼女の価値判断を生起させている大義や筋のないような路地社会である。

 

中上は、その社会を、「母系制」と理解した。だからそもそも、浜村龍造の自殺に父殺しを読み込もうとして当時の歴史と重ね合わせるのには無理があり、日本的な土壌に引き込まれた、という見方の方が正当になろう。ここでいう「日本的な土壌」とは、『地の果て―』にソ連崩壊を読み込んだ柄谷がその後、自身の作品で「日本精神分析」として説いた「双系制」とも言うべき認識前提である。むろん、その日本認識は、丸山眞男が「古層」として説いたようなもの、日本特殊論的な文脈として、マルクス主義の講座派が示してきた既存の教養と重なりもするだろう。

が、最近になって認知されたといっていいだろうエマニュエル・トッドの家族人類学によれば、日本特殊とされた「双系」的土壌とは、文明以前的な人類の家族形態の名残・残存である、となる。欧米近代の核家族が先進的な家族の類型とされてしまったのは、ユーラシアの文明からは周辺地域であったそこが、あとから政治経済的にヘゲモニーを握ってしまった現代において発生した錯誤にすぎない、となる。この周辺性の認識は、柳田國男の日本認識とも重なるとされる。この周辺地域での核家族では、長男から先に独立していくので、女性や末っ子が親の面倒をみたり相続したりすることになる。同性愛も含めて性的にも自由がある。

 

しかしその独立と自由を担保した家族類型も、文明に触れていくことによって変形されてきた。文明社会では、父権が確立し、その相続は長男となり、父が健在なうちは、子供たちはその下にとどまる共同体家族となる。この家族形態は、他の氏族を支配下におくという軍事的な要請によって形成されていったのではないかと示唆される。ゆえに、共同体家族=文明の伝播過程として、直系家族、つまり制度としては封建制となるものが、その中間形態として存在することになる。

 

日本では、この中間形態、封建的な直系家族の定着は、東国から、鎌倉時代の武士政権においてであろうと推測されている。とくには、モンゴルとの軍事的交渉が、その影響として強いのではないかと、推定されてもいる。

 

 つまり、馬に乗って戦う侍が、父系制と父権家族の基盤となるのだ。日本において、父殺しが遡上に乗るとしたら、この文脈においてであろう。

 

中上は、その歴史文脈も、『地の果て―』において刻んでいた。ジンギスカンの末裔との妄想を抱く父、路地では龍造の朋友とされる「ヨシ兄」を殺すその息子、「鉄男」という主人公を導入することによってである。この名前自体に、おそらく、意味がある。鉄とは、文明であり、男とはもちろん父権を意味する。父を銃殺した鉄男が、のちに、シンガポールへと乗り込み、異形の怪物たる中国人と香港で出会うことになるのだ。

 

その鉄男は、暴走族あがりだった。秋幸が『枯木灘』で殺した義弟の秀雄が初代番長だった暴走族を引き継いだのが、鉄男だったと『地の果て―』では龍造の調査として示されている。秀雄を殺して秋幸が獄中にあった時期のことを描いた『聖餐』では、「母よ、死のれ」と歌う、「死のう団」という音楽グループを作る半蔵二世の友人として、「テツオ」は「暴走連の頭」として言及される。

 

ところでその秀雄の暴走族のオートバイには、髑髏のシールが貼ってあったと描写される(『枯木灘』)。おそらくこのマークは、実在した関東の暴走族組織から引用したものである。

 

中上は、1979年の2月3日に放映されたNHKテレビ「ルポルタージュにっぽん」に出演し、「元暴走族の右翼団体の若者たちをリポート」したと全集の年譜にある。私はこの番組は見ていないが、スマホ検索によると、その番組では、在日の元暴走族で右翼になっていった若者の、暴走族の取り締まりが厳しくなったので、右翼という政治的建前があれば街路で騒げるので入団したという発言などがあるらしい。未完となった『異族』での設定を連想させてくる。

 

ともかく、東京に、実際に髑髏のマークを掲げた暴走族があった。「スペクター」と言う。『異族』では、「メデューサ」という暴走族名も紹介されるが、それは「スペクター」から派生したグループの名前だと私は聞いている。今でもその髑髏のステッカーがダンプカーの後ろなどに貼られてあるのを見かけることのできる「スペクター」という暴走族は、未曾有な規模になって、全国的に名を馳せたのである。暴力団なりを系譜にもたず、自然発生的にそこまで膨張していったのだ。(私の植木屋親方がその創成期の番長の一人なので、伝承を聞いている。)

 

オートバイが、馬であり、暴走族とは、それを操る侍の継承として意図されている。天皇の方からではなく、将軍たる東国の方からの影響が、西域の路地にまでやってきた、ということなのだ。そしてジンギスカンを名乗る父を殺した侍が、父権確立した共同体家族たるユーラシア文明の中心たる中国に挑んでいくのである。つまりここには、父殺しというテーマが、日本特殊的文脈においてではなく、皇帝殺し、という、より普遍的な文脈において導入されているのだ。

 

しかし、「中国」というユーラシア文明の中心を目指しているのは「鉄男」だけではない。遺作となった小品では、「アキユキ」は、「ヴェトナム」にいるのだ。

 

<そこでこの地帯は単に、主に北方から、そして副次的には北西から到来した父系原則の前進前線を具現していると考えることができる。歴史資料がこの解釈に何かを付け加えることができるとすれば、それは侵入の年代である。早くも共通紀元前一一一年には中華帝国に征服されたトンキンは、おそらく早期に父系化・共同体家族化された。中国の父方居住共同体家族は、われわれの推定によれば、共通紀元前二世紀から共通紀元八世紀までの間に、明確になったことを想起しよう。ヴェトナム文化はこの家族モデルの開花の間に形成された。それゆえトンキンでこのモデルが支配的であったとしても、驚くことではない。>(『家族システムの起源Ⅰユーラシア』上 p364 エマニュエル・トッド著 藤原書店)

 

そのヴェトナムの中の、「ラー族」の村に、アキユキは潜った。「ラー族」とは、なお狩猟・採集生活を営む少数民族であり、そこの男たちは竹を編む職業にもつく。そこを統一した人びとが、「アメリカ」と「戦争」し、その近代の「核家族」組織を撃退し、共産主義(共同体家族のイデオロギー)の「革命」にもみまわれたのだと、中上は意識している。

 

<ホーチミン(サイゴン)の朝、ただ歩き廻る。/革命(戦争)があった。/戦争(革命)があった。/アキユキ(私)は迷路にことさら踏み込もうと角を曲がる。>(「VCR(カムラン湾)」『全集12』)

 

 姫(娘)という両性的具有性を印字された秋幸は、「母殺し」の系譜の方に潜伏した。芸能に性向してゆく中本一統のようにその血に併呑されることを忌避し、かわしながら、その近接で得た洞察を武器に、共同体家族たる「中華帝国」に支配されたヴェトナムの「路地」をさ迷うのだ。しかしそこは、直系家族下の「路地」ではない。まさに、文明の懐の「前進前線」へと飛び込んでいるのである。