2023年5月20日土曜日

中上健次ノート(4)


 4 父殺し、母殺しを超えて

 

 

 『軽蔑』の女性主人公の名は「真知子」である。つまり、真理を知っている女、と設定されている。この女性の捉え方は、西洋文明の哲学、形而上学的な在り方からすれば、イロニーということになるだろう。ニーチェが洞察したように、男たちが女(真理)とは何か、とその謎に囚われ、獲得しようとした争いが、世界の歴史を動かしてきたのだ、と理解でき、されてきたからである。女をめぐる男の戦い。だから、ニーチェは言い返した。女は真理を欲していない、と。通俗的には、おまえは俺のことが「本当に、真実に、好きなのか?」と男が追求しても、その探究の姿勢ははぐらかされ、かわされてしまうのが落ちだ、となる。永遠に続く問い。が、女に深淵な謎も神秘もなく、女自身は真理などに無頓着である。だから、台所に何千年といようとそこから哲学ひとつ引き出してこなかったのだ、とニーチェはそんなあり様の女性性を肯定してみせたのである。

 

 中上がとりあえず引き受けたのは、そうした近代以降に明白になっていった男たちの哲学的前提である。ポストモダニズム的な認識、と言ってもいい。がそこに、いや女は真理を欲し、さらに、知っているのだ、と敢えて、挑戦するように設定仕返したのだ。

 

絓秀実は、<『軽蔑』が中上のターニングポイント>になっていたかもしれない、と『全集』版のとじ込み冊子で解説している。(「「路地」から鏡へ」『全集11』)

私もこの作品の構えに、似たような感想をもった。が、その<ターニングポイント>とは、この作品で得た認識が、未完となった作品群、私の読解においては、文明との戦いへ向けての意義と武器に、つまり大義名分的な根拠になっていった、ということである。

 

つまり、未完となった、男たちが戦う世界が、その背後で、この作品での認識が脱構築してゆくよう忍ばされ、裏書きされていくのだ。秋幸は、かぐや姫だった。真知子も、羽衣伝説を下敷きにした「天女」である。この「天女」の伝説は、もちろん大陸からやってきた。中上は、「韓国」からだと認定しているが(「水と空」「輪舞する、ソウル。」『全集8』)、その原型として、中国(あるいはインド)が想定されても実証的にはおかしくはない。そして浦島太郎の行く竜宮城を仕切るのは、豪傑ではなく、天女である。羽衣伝説とがそもそも、男に捉えられた女が衣の力で去ってゆく、という話なのである。

 

<四人兄弟の長女、一つ歳上の兄が一人、妹が二人。

 子供の頃から兄と一緒に育ったので、活発で男まさりだった真知子は女の子と遊ぶより、兄の友だちと遊ぶほうが多く、その時も、そんな遊びをすれば、男の子は無傷だが、女の子は疵を受け、血を流すという事も知らずにやり、起こった出来事に茫然としていた。

 兄が、その秘密の隠れ家と称した裏山の草や木で編んだ遊び場に来て、拭っても拭っても止まらない血に茫然としている真知子を見つけ、怒り、頬をはった。

 兄は成人しないうちに、複雑な家族関係に疲れたのか、恋愛に敗れたのか、自殺してしまったが、真知子は、子供同士の悪戯とはいえ、九歳、十歳で破瓜するという女としての決定的な粗相をした自分に、兄が毅然として優しかったのを思い出し、それは、カズさんとよく似ていると思う。

「ニューワールド」のカウンターの上では踊り子は天女のような存在だが、重力のみなぎる地上で振り返ってみれば、バタフライ一つを衣裳とし、興に乗ったチップをもらえばそれも外し、総てをさらし男たちの欲情を煽る為に交情の姿そのままに踊るのは、女として決定的な粗相を仕出かしていることになる。>(『軽蔑』『全集11』p71

 

 真知子の造形には、『地の果て―』までの「美恵」と、中本の一統に連なるその兄「郁男」との関係が投影されているが、しかしそこから、美恵が「天女」としてストリッパーと重ね合わされるわけにはいかない。中上の自伝からの私の推定では、おそらく、中上は、実際の歌手「都はるみ」とのつきあいにおいて、女をめぐる「真理」の在り方を洞察したのだ。あるいは、男世界の中を渡り歩く女性歌手のうちに、差別世界での男たちとは違った戦い方のヒントを感じ取ったのである。

 

 それは、地上の「重力」、「諸関係の総体」に「革命(戦争)」を迫る男たちのような戦い方ではなかった。天女のように軽やかに浮遊してゆくようなものでなければならない、そしてそれはありうる、と中上は都はるみを見て思ったのだ。男と女の「五分と五分」との関係を真理だと欲し追求する真知子は、それを平然と崩す俗物男を一瞬は殺そうとするが、その試みを放棄する。ヘーゲルを援用し、女をめぐる男たちとの闘争という執拗な主題的原型を近代文学から読み解いてきた絓は、<鏡を割るというカタストロフィだけは避けられねばならない。そうしなければ、『軽蔑』という作品自体が、一挙にカタストロフィへと沈んでいくのだから、鏡を割らないことだけが、女の最後の倫理である。>と提示する。たしかに、真知子は「カタストロフィ(戦争・革命)」という男(作品)の戦い方を拒否した。が、そのことが、「女の最後の倫理」になってしまい、<秋幸以上に完璧な孤児>として<誰も、血縁を知らない>真知子が、“小説”的強度を更新させる「ターニングポイント」を示して終わった、ということではない。

 

 中上のサーガからすれば、明白に真知子は美恵という「血縁」を持つ。そして中上は、さらに様々な作品を書き続けた。ならば、『軽蔑』以降のそれらの作品は曲がり角を通って、どこに向かったというのか? 絓も高橋源一郎と同じく、近代“小説”という枠に囚われている。「ターニングポイント」と言いながら、結局は小説の理念型(強度)の反復であるべきであると、一つの批評的見方から作品や作家をさばいているので、その後の「朦朧」な作品群と関連付けられないのである。あるいは作家のその挑戦を失敗として遺棄する。

 

『軽蔑』は、こう締めくくられた。

 

<「嘘」、その男の顔を見て、真知子は、息の多い声で、まるでたった一言しか言葉を知らないように、言った。>(『軽蔑』(『全集11』p405

 

 この表現が、縊死してゆく浜村龍造を前に言った秋幸の言葉に対応していることは明白である。

 

<一瞬、声が出た。秋幸は叫んだ。その声が出たのと、影がのびあがり宙に浮いたように激しく揺れ、椅子が音を立てて倒れたのが同時だった。「違う」秋幸は一つの言葉しか知らないように叫んだ。>(『地の果て至上の時』(『全集6』p415

 

 秋幸は「叫んだ」。真知子は「言った」。秋幸は「一瞬」の「声」だが、真知子は「息の多い声」だ。「一つの言葉しか知らないよう」な秋幸と、「たった一言しか言葉を知らないよう」な真知子。「違う」と認識した秋幸に対し、「嘘」と、驚く真知子。「違う」なら、本当は、本来は何なのか? つまり、真理とは何なのか? と秋幸は問うている。それに対し、真知子の「嘘」とは、死んだはずのカズさんが出現したかに見えたことへの「本当? 信じられない」という驚きであり、受け入れである。彼女は、ニーチェの言うように、たしかに真理を問うていない。がそれは、それが「嘘」である「本当」を受理していくことである。真実は「一つ」だと秋幸は前提としていた、が、真知子は、「息の多さ」、声の多数さを、真実の複数性を認める。「一言」でいえば、その現実とは「嘘」である。真知子は、真理(本当)を男のように欲しているわけではない。だから、そこでは真理をめぐる戦いは、カタストロフィとしては発生しない。が、「嘘」でもいいから好きといってくれ、夢を見続けさせてくれ、と正常性バイアスに逃げるということでもない。死を賭けた命がけの戦いとは別の、あくまで真剣な忍耐強い、女の戦い方があるのだ。

 

 しかも、女の戦い方とは、『地の果て―』以降の、作品の戦い方でもある。それ以前までは、あくまでストーリー的な線的な繋がりとしての作品同士の関係であったが、『軽蔑』の認識が、他の未完の作品の前提、男の戦い方を相対化し脱構築させていくように、この完結された『軽蔑』もが、未完の作品によって相対化され、脱構築されるのだ。つまり、『軽蔑』の認識前提が本当(真理)ということではなく、そういう思考自体もが「嘘」としてはぐらかされるのであり、その運動こそが軽やかな羽衣としての武器、ということなのだ。

 

 未完となった『鰐の聖域』は、『地の果て――』までの秋幸の姉・美恵の娘・美智子と結婚した五郎という人物が中心主人公となっている。五郎の浮気に、美智子は「男と女は五分五分」だと言い出し遊びはじめ、結局ふたりは離婚する。が、そのことはカタロストロフィな破局大団円を演じて終わるのではなく、さらに、五郎は美智子のイトコ・園美と、美智子の母の実家「竹原」家で知り合って、そのままできてしまう。

その五郎は、秋幸との「兄弟喧嘩で死んだ」とこの作品ではされる暴走族の初代リーダー秀雄の知人であり、二代目のリーダーとなった鉄男の友人でもあることが示唆されている。

 五郎は他所から来た者であるゆえにか、路地社会の力学には飲み込まれず、それを相対化する。自身のふしだらさも、中上の実際の母の路地論理が、この実話に基づいた作品のイトコ婚も、「減るんでなしに増えるんやさかね」(「妖霊星」『全集5p291)とそのまま受容してしまうのとは違う論理において正当化される。

 

<母親きょうだいも園美のイトコらも驚き、怒った、と言う。五郎が考えても確かに驚き、怒るのは当然だが、五郎の立場に立てば、美智子の産んだ麻美をのぞいて誰とも血のつながりのない男が、どの女と寝ようと、どの女を孕ませようと非難される筋合はないとなる。>(『鰐の聖域』(『全集13』p23)

 

 この「筋合」には、東国の(侍=「暴走族」経由の)、外イトコ婚という外婚制を意識する直系家族的な影響があるのかもしれない。が、重要なのは、路地以外の思想によって作品が錯綜としてき、その外からの相対的な距離が、路地社会の力学を客観性を超える深読みとして発揮されてゆく、という過程である。

 

 この作品では、その読解力のことを、「死霊」と呼んでいる。五郎は、路地に渦まく人間関係の錯綜から、自殺に追い込まれた土建会社の「親方」の「死霊の力」が自分を動かしているのではないか、と推察するようになるのである。

 この五郎の推察は、中上の未完の作品群からみれば、作家中上自身のものでもある。外からの読解は、路地を超え、日本を超え、南方、そして中国からもやってくる。『異族』では、あらぬ噂に狂喜するオバのような年寄りはどこにでもたくさんいるとその神秘化は相対化される。さらに、未完の『宇津保物語』では、日本の物語が大陸の「書物」の存在で異化されていく方向をはらみ、この擬古文的に綴られた作品自体が、おそらく、中国を意識しているのだ。いやさらに、その原古典がペルシアを取り込んでいるのだから、大陸ユーラシアとの交通こそを前提として、さまざまな世界や価値が、絓の『軽蔑』の解説から引用していえば、「鏡」のように「乱反射」して、相対化され、そのことであくまでなんらかの「全体」めがけて意識・構想化されようとしているということになるだろう。

 

 中上の未完の作品群は、物語的な線で絡まるだけではなく、さらに、思想性や価値観においてもお互いが牽制しあい錯綜となることが仕組まれはじめている。作品群として、多声的なポリフォニーな様をみせてくるのだ。しかし、それはいわゆるポストモダニズムな、もう「真理」などなくあるのは相対化されてゆく戯れだけなのだ、という態度に収れんしない。なぜなら、あくまで、文明の中心地、中国やユーラシアが標的にされているからである。その標的めがけて、作家は、アキユキは、試行錯誤しながら進んでいる、ということなのだ。

 

 「アキユキ(私)」は、つまりは作家中上は、そうした認識覚悟を体得し、携え、文明の真っただ中へと潜り込んだのだ。

 

「天女」としての「かぐや姫」が、東京の路地たる「ニューワールド」な歌舞伎町で更新された認識作法を武器に、大陸の「前進前線」へと帰還した。中上は、複数の線と声を持つ物語群を、日本から外へと移動し描き始めた。男と女は、人間と人間は、人種や民族が「違う」とも、「五分と五分」であり、差別などありえない。その「嘘」は、「嘘」であっても、戯れではなく本当のこととして掲げられえる大義である。その虚構の真剣さで、秋幸は「中国の帝王」の身代わりたる鉄男とまず対峙するのだろう。「八犬伝」の志士たちや、アジア広域にわたった詐欺グループや、日本の芸能界を仕切って世論を動かす若い衆たちが、その戦いに連動し、支援する。彼らは、中本の一統の、若くして世に押しつぶされていった者たちの系譜である。郁男は死んだ、夏羽は死んだ、カズさんも死んだ、が、「嘘」のように蘇ってくるのだ。

 

 中上は、そうした若い「死霊」たちを引き連れて、突き動かされて、世界の力関係(地政学)を読み、文明と対峙しようとしているのだ。

 

 いやおそらく、路地出身の者たちやその霊(系譜)だけが協力者ではない。『讃歌』では、「ミス・ユニヴァース」の「中国の娼婦」ファ・チンが好意的に描かれている。真知子は、「ニューワールド」のストリッパーだ。だからたぶん、新世界へ、宇宙へと向けて、男と女、人と人との差別のない「五分と五分」の世界を目指して、国籍を超えた協調関係もが動員されるはずである。

 

 その動員の模索は、作品の形式においても試行錯誤された。絓は、『軽蔑』の<部分部分をギクシャクとして描写していくしかない>、<決して何か全体的なものをうつしてくれないのだが、同様に、話者も遅滞なく物語を語ろうとしない。視線が「全体」という重力から自由であるとは、そのような乱反射を意味している。>と言うが、それはその後の作品と作品との絡み合いを見ようとせず、あたかも完結したこの作品で作者の営みが終わった、「全体」を志向しない“小説”の在り方の方が優越的なのだ、という一時の批評の見方を押し出している。

 が中上は、未完の物語群で、超越的な語り視点をいきなり挿入させてみたりと、その機能が生きるのかどうか、未来への形式的な伏線となるのか、手探るように投機的に書いているのだ。私たちが見るべきなのは、その「朦朧」と化してしまうなかでの、文の模索の、真剣勝負な様なのだ。

0 件のコメント: