2020年10月18日日曜日

引っ越しをめぐる(2)――石川義正著『政治的動物』(3)

非純粋ドア

団地からの引っ越し探し中に、石川義正氏の著作(『政治的動物』・『錯乱の日本文学』)を読むことになったので、その「建築/小説」をめぐって考察された文章を参考に、自分が何をやっているのか、文脈づけてみたくなった。 
まず、石川氏の、時代的な認識を要約してみよう。 
……
第二次世界大戦からバブル期にいたる半世紀にもみたない持家中心の社会システムは、1990年代以降の若い世代にとっては、まったくリアリティーが感じられなくなる。が、親元を離れた彼らの居住様式とは、「眠る」「休む」「養う」「育む」などの諸機能を発見した大正期の堀口捨巳による住宅建築、かつての民家には不可欠であった「接客」や「生産」といった機能を排除していく前提となった田園都市という日本の都市中間層のライフスタイル(天皇制のもとでのリベラル)が、より解体的な分離と散乱へ引き継がれていったものだった。いわばnLDK様式とは、実家の個室としての延長としてのワンルームマンション(n)、キッチン(K)としてのコンビニ、ダイニング(D)としてのファミレス、リビング(L)としてのネットゲームになっていったのである。その過程において、介護対象たる後期高齢者となった彼らの親たちは、ボケ老人となって持家に取り残されている。
……
たしかに、以上は、現在親になっていてもおかしくない年齢くらいの世代にとっては、そうかもしれない。が、父親である私の引っ越しの動機は、個室をもてない子供が、食卓の下に布団を敷いて寝ているのを毎朝みて、不憫にもおもったからであった。息子にとって、団地の2LDKの間取りとは、ほぼリビングしかないような世界であり、そこに、なにもかもがある、のが自明視されてきた世界である。私自身は、たしかに、石川氏の指摘の範囲におさまるのだが、それしかを生まれたときから経験していない世代への移行にあっては、意味が変わってきてしまっているのではないか。そしてその子たちの大半が、2LDKでさえ住んで結婚し子育てをする、という前提さえもてないかもしれない。ちなみに私は、団地に引っ越す前、子どもが小学校にあがるまえまでは、大家さんの敷地内にある2Kのアパートに住んでいた。学生中は六畳一間トイレ共同のアパートだったが、植木職人になった3年目くらいの30歳くらいのときに、移ったのである。二階建てで、一階の真ん中の部屋だった。隣は、発達障害と診断された子供をもつ30代の夫婦、もう隣は、老夫婦だった。息子の世話は、老人ホームへ移ることになる大家さんと、隣の老夫婦がよく面倒をみてくれた。駅前開発で立ち退いてからも、息子は夫婦喧嘩で家が荒れるたびに老夫婦が新しくかりた2kのより窮屈となったアパートへと飛んでいった。かつての長屋住まいみたいなものだった。そして団地にうつり、子供が中学生を卒業するくらいになると、息子の同級生たちも、もう少し広い家へと引っ越していった。私たちは、最後のようなものだ。

高校生になって、はじめて個室(n)をもつ。それはもはや、子供部屋、ではないとおもう。彼らには、子ども部屋に引きこもった私のような近代的な自我=内面みたいなものはないのではないのか? 少なくとも都会では、川の字になって、親と寝ていた子は多かったろう。私は、江戸時代に逆戻りでもしたのか、と感じられた。しかし、私たちのように、子どもを世話してくれる近所の手助けを得られなかった若い夫婦たちは、子を虐待してしまうことに追い込まれもしているだろう。親元が近い地元が東京の人たちは、回避しやすいかもしれない。おそらくそこが、江戸時代という比喩が当てはまらないところだろう。

私は、風雨がしのげる寝床があれば十分だ、と考えるものだ。持家幻想はない。若い人のなかには、無理してローンを組んで、東京の建売住宅に住まう人も多いだろう。今回、私たちが引っ越すのも、そんな建売住宅の2階建て借家だ。かつて、持家を構えていた親世代の土地が分割分譲され、そこに、細長い3階建ての家がたつ。3LDKくらいだ。が、そこに実際暮らしてみると、隣家の声は筒抜けで、三階まで子供を起こしにいったり、2階のベランダへ洗濯を干しにいったりするのも大変になり、ならばとそこは他人へと貸し、持ち主は、フラットなマンション住まいや、より郊外の広い敷地の家へと移っていったのかもしれない。そんな借家の空き家も、競争率があるのに、いまはなかなか住み手がつかなくなってきているようだ。都心近くだと、そんな3LDKでも、20万前後はするだろう。とても、若い世帯には借りられるものではないし、それくらい払うのなら、毎月払いやすい金額でのローンを組んだほうがいい、ということになる。が、では、どんな家が、間取りが、考えがいいというのだ? おそらく、いま、需要側は手詰まりなのだが、供給側は、相変わらず、3階の掘っ立て小屋を作っている。高給取りは、ある意味、持家幻想を抱擁できた親世代を反復しえて、ゆえに、引きこもりや家庭内暴力といった子どもたちが派生し、ひと昔前の事象をなお再生産していっているだろう。

なおブルジョワの夢を再帰させてくる女房の繰り言と、スマホや不動産屋からとりよせた物件情報をみるにつけ、これは、土地を買って自分でデザインして作ってもらったほうが安くていい物ができるんじゃないか、とおもいはじめた。団地からまっすぐ50メートルほどいったところに、売り出し中の土地があって、私はさっそくデザインしてみた。道路には面しているが、奥行きのある真四角な土地ではない。平行線のない台形みたいな感じだ。奥の一角だけが直角をひとつもっているが、あとは、みな斜めの線になる。おそらく、30坪ほどで、狭い。デザイナー建築だと、三角形とかのも工作するようになるみたいだが、原則的に木造建築は、辺と辺は直角でないと、構造的というより施工的な不備がでやすいのではないか、と素人的におもう。四角と四角の連結でも、屋根雨漏りとかの施工技術が困難になるのではないか、と考えられるが、真四角では無理な土地なので、¬型の第一案をねん出してみる。長い辺は東側を、短い辺が南側を向いている。駐車場におく自動車が目隠しがわりだが開放的に。一階にはトレイ・風呂・脱衣所・リビング(しかおけないだろう)。玄関ではなく、奥側のリビングの方から階段をのぼらせて、そのまま廊下をつくり、そこに、ベランダ・テラスを隣接させて洗濯干し場とし、廊下の突き当りの道路側が子どもの部屋。折り返した廊下があたる長い辺の2階にもう一部屋。で、もし一階のリビングの先にも3畳ほどでも部屋が確保できれば、そこが私の隠れ書斎だ。まだ部屋が必要とあらば、長い辺にもう一階つけたして三階にしよう。……屋根の形が未定のままのその第一案をみて、また女房がぎゃあぎゃあいいだす。ので、やる気がなくなる。が、思考実験として、いまでも続けている。がまた、土地の形と、そこに何人で誰が暮らすか、と前提されてくれば、もう自動的に形態はできてくるようなもので、あとは、みてくれと、細かい細部への日常的な想像力で、使い勝手を少しでもよくしていくしかない、と、機械的な作業になってくるだけのような気がしてくる。
たしかに、かつて重用だった客間、という発想がでてこないことからも、持家nLDK思想の延長のままだ。しかし、リビングや個室をはぶいて応接間というわけにもいかない。だいたい、そんな偉そうな客などこないだろうし、呼びたくもない。身内や友人くらいだから、リビングでの対応で十分だ。となると、ここには、どんな思想が欠けているのか? 

(1) 風雨がしのげれば十分だという思想、あるいはランボーのいう「ところかまわずしけ込め」という覚悟、そのホームレスなホームを突き詰めていない、ということ。私が植木職人になっているのも、新宿で家賃2万のアパート(いまも崩れたままのこっている)の裏に、そこに植木屋があったから、ということだ。 

(2) 長屋住まいや団地の話をだしたのも、このブログで言及した、中谷礼仁氏の「納戸」の反復=古層の露呈、みたいな歴史の構造性のことが念頭にあったからである。住んでいるうちに、でてきてしまう、というか、やってしまっていることがある。その身体的な予期とデザインとの関連性を突き詰めていない、ということ。いわば、人間、あるいは民族というような文化的な風雨をどうしのぐか、ということだ。この視点は、石川氏の著作では、赤瀬川源平を論じた箇所において重なってくるのだろう。――<そこには匿名の人びとの慣習によって徐々に形成されてきた時間制が折り重なって堆積している。…(略)…しかし現代の都市の生活様式は民衆の基盤となる村落的あるいは共同体的な規範ではなく、むしろ断片化した共同体の廃墟なのだ。超芸術はこの生活様式の廃墟を、芸術とその外部の短絡を可能にした不在の表象とみなすのである。>(「芸術・大逆・システム」『政治的動物』)

石川氏は、その赤瀬川の「短絡」と、柄谷行人の「単独―普遍」という回路の「短絡」とを結びつけて考察している。私はこの「短絡」と、大澤真幸氏や佐藤優氏からも指摘されていたそこを、「量子のもつれ」として理解できないか、と考えている。非局所性としての「単独―普遍」である。

2020年10月9日金曜日

『政治的動物』石川義正著を読む(2)――中上健次をめぐり


まず、中上健次の『地の果て 至上の時』における特権的な場面、浜村龍造の縊死をまえに「違う」と叫んだ秋幸の言葉を、どう石川氏が理解しているかをみてみよう。

<中上はおそらくこの「事物の氾濫、アナーキー」を天皇制によって規定されない個別、普遍に包括しえない悪無限とみなしているはずだ。ここでの中上の解釈は決定的にジジェクと分かれる。ジジェクがいうような「主体化」に抵抗する残滓は、主体「という」不可能性の具現化であり、そこにおいて「シニフィアンの欠如のシニフィアンに転換する」ためには、「「すこしぐらい」と言う」主体にあらかじめ無としての国家が刻印されていなければ不可能なはずだからである。だが、無としての国家が刻印されていない主体に革命は不可能である、というのも見誤りようのない現実だろう。「事実の氾濫」はけっして革命たりえない。
 にもかかわらず、そうした悪無限をあえて革命たらしめようと試みた者として、『地の果て 至上の時』における秋幸こそがそうみなされるべきである。浜村龍造の使嗾によって展開された「路地跡」での不法占拠は新たな革命――アイデンティティーの抗争といってもいいものだった。だが、その闘争は龍造という父との癒着を通してしか持続しえない。眼前で縊死している龍造を前にして秋幸が「違う」と叫んだきり言葉をのみ込んだのは、このとき「父の名」の不死を目撃したからにほかならない。>(「精神は(動物の)骨である」『政治的動物』)

この引用を解説すると――中上が例にあげていた「事物の氾濫(アナーキー)」とは、高速ではバックしてはダメかという運転試験問題に対し、「すこしぐらい」はいいのが現実なのではと本気でテスト中に悩んで解答できず、免許をとることができない青年、のような存在(アイデンテンティティ)の限りない連鎖「等々(etc)」のことである。ラカンのいう「すべてではない」女性性の延長に論理的に想定されるような「悪無限(ヘーゲル)」、ということだろう。が、その論理、あるいは体現する人物たちとの連帯=革命という秋幸の試みは、龍造という資本家である父のバックがあってしか、現実的な実践とはならない。龍造の金をもって、「路地跡」を「すこしぐらい」と占拠するヨシ兄たちに接触し、警察がそこにむやみに介入できないのも、龍造がかつて番頭をしていた佐倉の私有地になっているからである。が、秋幸が刑務所から出所してこの小説がはじまったとされるころ、つまり、1980年5月、材木価格は下落しはじめた。外国産のものが入ってくるようになったからである。グローバリズムが、はじまったのだ。龍造は、投資に失敗した。石川氏は、そこに、自殺の背景をみている。この材木価格を示す折れ線グラフの呈示とともになされた指摘ははっとさせられる。作品内イメージとしては、成金成功の絶頂において死んでいったようにおもえるからである。が、秋幸は、この世俗の現実の向こうに、死なない父、つまり国家という論理階層の現実をみだしたのだ、というのが石川氏の見立てであろう。

秋幸は、自らを「私生児」として自称していた。がたとえば、津島裕子は母子家庭で育った主人公のことを、「非嫡出子」と呼んだ。

<だが、私生児という概念が、正確には家父長との関係においてそう規定されるのに対して、非嫡出子は「第三の父、記号としての父、あるいは、父の名」つまり国家の法との関係においてそう呼ばれる。…(略)…中上に対する「黙市」の優位は、父の名を構造として剔出し、相対化する母親の視点を確保した点にある。>(「動物保護区の平和」上掲書)

つまり秋幸は、遅ればせながら、自らと父との関係を、情動的ではなく、論理的に理解しはじめた、その確認として「違う」と叫んだということになるだろう。
しかし、龍造は、ゆえに「父の名」は、死なない。トランプとは、「成功した浜村龍造である」と石川氏は指摘してみせる。あぶれた白人労働者等々の支持をかきあつめて「グローバル資本主義への抵抗の根拠」をつくろうとする。「革命」の続行だ。ジジェクは初の<女性>大統領になったかもしれぬヒラリーではなく、トランプを支持する。しかしその全体主義は、すべてではない、のが論理的な要請である。家父長的な存在に誘引され「個別に汚染された普遍は、包摂ではなく排除として機能する。それはすべてを包摂する全体ではなく、全体を形成するための例外をつねに必要とするのだ。トランプが公約したメキシコ国境の長大な壁の建設がその象徴である」。同時に、「個別としてのマジョリティーは、その「政治体自身が生き延びるために、亡霊的で否認された、公共領域から排除されたありとあらゆるメカニズムに頼らざるをえない。」トランプには、ネオナチのような「白人至上主義的な地下組織」が陰に陽に影響力を発揮している。

トランプ自身はどうも、投資に失敗し、莫大な借金を抱え込んだので、大統領選に打ってでて知名度をあげてまた民間で出直そうと企んでいたが、図らずも当選してしまった者のようなので、成功者といえるのかどうかわからない。大統領をやめて、借金を返済できるくらい稼いでから、そう呼ぶにふさわしいというものだろう。落選したり、順当に引退してからも、借金かえせず、ホームレスになってしまうかもしれない。自殺においこまれるかもしれない。大統領になった者がそこまでとは、とおもうが、潜在論理としては、龍造と同じ位置にあるともいえる。世俗的には、死(失敗)を、延期しているということだろう。

<しかし秋幸は「残りの者」という彼自身の夢想を護るために龍造に加担し、その走狗のように山林の売買を渋る地主を脅し、ヨシ兄に金を渡す。秋幸が「違う」と叫んで絶句したのは、革命から死へと逃亡した龍造の最終的な裏切りに対してなのだ。龍造の革命はそもそも敗北を予定されていたのかもしれない。勝利したのは市場とういう「父の名」である。>(「「路地」の残り者たち」)

しかし「父の名」とは、「国家の法」なのではなかったか? 勝利したのが資本(市場)かもしれないというのはいいとして、それもまた「父の名」であるとするのは、どういうことなのかな? と私は戸惑う。1979年に国家覇権が弱体し、1980年代から資本のグローバリズム化がはじまる。そしてまた、バブル崩壊後の1994年に国家主権が台頭しはじめ、2016年のトランプ出現にいたる、とされる「決定的な断絶」の時期区分。いいかえれば、浜村龍造の死と再生、ゾンビの復活みたいな話になっているということだろう。ならば、そこには循環構造があるということであって、「父の名」として同定していくような固定的な構造の見方ではとらえきれないものがある、ということではないのか? 世俗現象の、直観的な理解としては了解できる。父の座を、「資本」や「国家」が交代的にやってきて占め、飴と鞭を交互にふりまわす……。が、石川氏の見立てでは、「交互(循環)」なのではなく、あくまで、「国家」の体制的な構造の内での優位―下位といった浮沈の現象ということになるのだろう。だから、近代文学(小説)の死もまた、延期されている、ということだろう。「小説を書くこと――それは資本の流れが最後には国家の信用によって価値を確定(決済)しなければならないことに似ている。」

私がこう付言したのは、このブログでもとりあげた河中郁男氏の『中上健次論』と比較したくなったからである。

<マルクスは、『経済学批判要綱』の中で、「貨幣」の作り出すものを「理念」と「私が私であること」の関係であると考えた。そして、「資本」は「超越的な理念」と「私」との同一性の関係によって構成される世界を崩壊させるのだ、と。
 『地の果て 至上の時』で起こっていることも同じことである。つまり「資本」が現れることによって「理念」=「父の名」と「私が私であること」の同一性の関係・位相関係が崩壊するのでる。>(河中郁男著『中上健次論』<第二巻> 父の名の否、あるいは資本の到来)

河中氏にとっては、近代文学(国家)は終わっており、それはあくまで、資本の循環構造の中で変貌している。秋幸も、龍造も、ゆえに「同一性」が崩壊されていて、自ら位相をずらしながら生き延びていこうとするしかないのである。二人のすれ違いは、そこにいるとおもってみると、もう相手は移動してそこにはおらず、ということをお互いがしているからなのだ。ラカン的には「普遍」「個別」「特殊」と言い得る階層を、二人はミスマッチなまま変貌していく、とされる。『地の果て』以降の時代もまた、その歴史過程(循環)として、把握されているだろう。秋幸や龍造のなかにも、いろいろな秋幸や龍造が現れるように、余剰として「現実界」においやられた「亡霊」たちのなかにも、いろいろな位相が蠢いているのだ。『地の果て』以後の中上は、その右翼的なとされる「亡霊」を、定点からではなく、さまざまな観点から観測提示してみせた、というのが河中氏の主張であろう。量子力学と同じで、それ(亡霊=素粒子)は、どんな観点で観測するのか、位置なのか運動量なのかをあらかじめ決めておかないと、現れてこない。粒子は、常態的には、あらゆる可能性をもって潜在し、蠢いているのである。

私には、この「亡霊」(現実界)をつかまえるのには、石川氏の切り口は、単線的ではなかろうか、と思われる。つまり、古典力学的に、収束したあとの物体としてのみ現実をみていることにしかならないのではないのか? おそらくネトウヨも、ひとからげにできはしないのだし、そうみなければ、国家的な固定的な差別構造が自身において浮沈するだけではないのか? そこでは、「仮死(の祭典)」(蓮見)があるだけである。たしかに、死んだふりとは、お祭り的に楽しいことでもあるだろう。しかし、中上がいうように、「切って血の出る物語」はある。トランプは、本当に、死ぬかもしれません。死の延期、ということ自体が、架空の論理なのではないか? 死を収束(終息)とみるのと同様に。 

石川氏は、ツイッターで、マスクをしていない人たちの主張は、古典力学的な、近代的均質空間に依拠している人たちなのだ、と説いている。私には、インテリのこじつけにしか聞こえない。こうしたひとからげが、問題だというのだ。たしかに、PCR検査に疑問符をつけた陰謀論を説く大橋氏のまわりでは、マスクをつけないことが「正義」であると言葉をかかげてデモ行進するような動きになってきているようだ。私はびっくりだが、だからといって、ひとからげにできるものではない。にもかかわらず、いまは、マスクする=左翼、マスクしない=右翼、みたいな話になっていて、石川氏の論の立て方もまた、その近代的なロジックをなぞっているということではないのか? スーパーマーケット(資本市場)に復活徘徊しはじめたゾンビたちは、みな一様な、国家論理優勢な亡霊なのだろうか?

中上健次は、マスクをつけて、街を徘徊するだろうか?

2020年10月4日日曜日

花粉、ウィルス、量子――新型ウィルスをめぐる(18)


「「ここにもあそこにもいる」状態の原子が、観測された瞬間に「ここにしかいない」状態へどのようにして変わるのか、その実際のプロセスについては誰も本当のところを知らない。ほとんどの物理学者は、それは「単に起きるだけだ」という実用主義的な見方で満足している。しかしその問題点として、不気味な出来事が起きる量子の世界と、物体が「分別よく」振る舞う日常のマクロの世界とを、都合のいいように独断的に区別しなければならない。電子を検出する測定装置は、マクロな世界に属しているはずだ。しかしその測定プロセスがどのようにして、なぜ、どんなときに起きるのかを、量子力学の創始者たちはけっして明らかにできなかった。」(『量子力学で生命の謎を解く』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン著 水谷淳訳 SB Creative)

前回ブログで、新型コロナに対し、スウェーデンは集団免疫獲得を目指していたのではなく、ヨーロッパでの科学界が議論してきた結論に従ったまでだ、という指摘があったことに言及した。その出所がみつかったので、リンクしておこう。

現地日本人医師に聞く「スェーデン方式の真相」(スェーデン移住チャンネル)

その話の真偽や妥当性までは、私にはわからない。田中宇氏のジャーナリズム解読にも、そういう指摘はなかったように記憶する。現地の医師自身が、なんでなんでしょうね、と口ごもっている。科学に従わなかったのは、政治的陰謀なのか、単にパニックになってしまったのだか…。発生源とされる中国が大規模な都市閉鎖措置をしたのだから、他がパニックになってもおかしくはない。そして当の中国では、本当のところがどうのなのか、不確かなままだ。死者数もふくめ、そのまま信用はできない。アメリカに亡命した中国や香港の医師が、ウィルスの人工性や抗体などできない等、暴露しているが、それも本当の話なのかどうか信用できない。トランプがPCR陽性とでて、死のうが元気なまま戻ってこようが、もう科学的な探究どころではなく、政治的な茶番劇につきあわされている感じだが、笑えるどころではない。ワクチン無料だよ義務だよ、などという話にもなっていきそうなのだから、おそろしい話だ。しかもアメリカの製薬会社の開発のなかには、流通にのる家畜がタグ付けされるように人にもワクチン接種時に識別票を体内注入させ、免疫パスポートを導入していこう、というアイデアというより思想と一体となっている動きもあるという。皮膚にピッと検査機当てるだけでワクチン打って安全な人とそうでない人が即時に検出され、安全確認できた者だけが国境をまたげる。国保証のパスポートだけでは不十分で、世界認知の基準を作っていこうということになる。いったい、私たちは、どんな世界に住ませられるのか? そもそも、それは、科学というものに根拠を置いた思想なのか?

私は以前、コロナ状況は、花粉症の情勢と似ている、と書いた。花粉そのもので症状の出る人はそうはいないが、都市化にともなうディーゼル排気ガスと混然となることで、免疫反応を示す人たちが多くなっている現代病みたいだ、と。花粉とディーゼルとの関連性は、科学的に明確になっていることではないようだ。とくに、石原都政のときの、排ガス規制導入時に席捲した学説でもあるので、政治的な話なんではないか、という意見も多いようだ。そういう点でも、今回のウィルス騒動にも似ている。花粉やウィールス自体の「どのようにして、なぜ、どんなときに」症状が出てくるのかはわからないまま、「排ガス規制」や「人身管理(規制)」といった「実用主義」的な観点から、問題明確化は棚上げされたまま事態はすすんでいく。とくに医療分野では、ヨーロッパ系譜でのコッホ四原則にしたがった手間のかかる確認作業はどけて、「早期発見・早期治療」方針がアメリカで推進され、その立役者のひとりがロックフェラーだったので、政治経済活動的な陰謀説がからまって説かれたりもしている。が、アインシュタインをふくめた20世紀当初の、量子力学をめぐる科学界の議論にも、そういう事態があったらしい。量子論に対し、量子力学という名称があるのも、まわりくどい量子論は棚上げして、実用的な「量子力学」でいい、という話であるようにみえる。この発想から、原子爆弾の製造・実行へといってしまったわけだが、いまもって、この科学上の態度転換は、そのままで来ているようにみえる。アインシュタインは、しかしあくまで、「なんで」を問い続ける量子論にこだわったということだろう。それが、量子力学につきつけた思考実験、相互作用することになった粒子の「量子もつれ」が本当なら、光より速いものはないという相対性理論と矛盾するぞ、と問い詰めたわけだ。死後、それが本当に起きていることが実証実験され、その応用が、いまの量子コンピューターの開発につながっている。光よりも早く、というか、ペアになった粒子同士は、同時に、情報を処理しうるという量子の性質現象を生け捕りしようとしているのである。それが、なんでおきるのかは、問わないまま。日本の数学者の岡潔も、そういうふうに、なんでもありになってしまう数学世界に異論を唱えていたわけだ。それは、アインシュタインの光の根拠が、キリスト教という一神教な宗教と暗黙に結びついて、「神はサイコロをふらない」という信念にこだわっていたからだ、ということでもあるだろう(小室直樹著の『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済)が科学と宗教との関連話で面白い)。しかし、そのこだわり、宗教的な信条が棚上げされると、できればいいじゃん、という話におちつき、今にいたっている、ということだろう。

で、花粉やウィルスというマクロな物質と、つまりこの世界と量子という原子以下のミクロな粒子との関連性は問いつめられないままだった。が、実は、植物の光合成や、鳥や魚の帰巣本能や、人の呼吸にも、量子現象が関与しているのではないか、ということを研究する分野が新しくできているらしい。それは、量子は波であることの数学(潜在)的現実を関数として数式化してみせたシュレーディンガーの「生命論」の継承でもあるらしいが。その「量子生物学」という分野は、冒頭にも引用したように、世の「実用主義的」な方策で棚上げされてきた問題に、より突っ込んだ「なんで」という疑問を提起し追求していく姿勢にあるようだ。もしかして、花粉と排ガス粒子との間で、ウィルスとなんらかの粒子との間で、量子的な現象が起きているのかもしれない。それは、顕微鏡でみえる話ではない。一粒の花粉が、排ガスにあるなんらかの物質と、「トンネル効果」という量子性質を通して交換(交感)しあっているかもしれないからである。大澤真幸によれば、その「偶然(サイコロ)」的な現象の意味は、ベンヤミンの歴史哲学と比例した、過去を変えられる革命性にあるのでは、となる(『量子の社会哲学』講談社)。しかし、だとしたら、もし生物学的、生体的に文字通りその意味を敷衍していくと、どうなるのか? 顕微鏡(観測装置)ではうかがい知れない変化が、過去を書き換えるように人体に症状されてくる、ということにならないか? 遺伝子組み換え食品の人体への影響も、短期的には目に見えず、つまり観測されず、統計(確率)的に意味ある症状が、理由は不明だがでているかも、という指摘されるにとどまっているのではないか? その技術と比例した、今回の新型コロナへの遺伝子組み換え的な新ワクチン技術の実施にも、量子的に観測されえない潜在的現実として、人体に影響しだす、とかならないのだろうか? 最近の学説には、ネアンデルタール人の遺伝子をもった人種にコロナ重症化のリスクがあるようだ、というのがあるらしい。このブログでも、ホモ・サピエンスにかわる新しい人種、つまり人体自体の変異が問われているのか、とも書いた覚えがあるが、本当に、世俗の勝利者によって抑圧され忘却された過去(遺伝子)が、物質の量子的性質によって読み替えられ、生態的な「革命」が起きようとしているのだろうか?

トランプが陽性になるより、とんでもない話になってきたような……。