2022年4月29日金曜日
エマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」をめぐり――戦争続報(5)
トッドが、その家族人類学理論から、実践への提言をする場合、問題とするその国や地域の家族類型の行動的特徴を捉えて、問題症状はその行き過ぎから来るのであるから、その行動類型とは逆向きな方へと実践を誘導し、バランスを取らせていく、という提案になる。たとえば、日本の「直径家族」的な家族構造では、子育てを「家族」で賄う方へと過重になるが、そのことが「非婚化」や「少子化」といった症状を引き越している、ゆえに、フランスのような「平等主義的核家族」の政策にみられるよう、より国家の「公的扶助」によって家族の負担を軽減させてゆく方向にゆくべきだ、と。
私は以前、トッドの家族類型が、柄谷の交換理論と重なると指摘し、その四形態の交換を表した四象限の座標を、実践を考慮にいれたベクトル図として書き重ねてみたことがある。(ダンス&パンセ: <家族システム>と<世界史の構造>――エマニュエル・トッド『家族システムの起源』ノート(1) (danpance.blogspot.com))
ならば、今回のロシア侵攻によるウクライナとの戦争から再考されるべく『文藝春秋』五月特別号で掲載された、その「日本核武装のすすめ」も、上の家族類型理論からくるバランスとり的な実践への提議なのだろうか?
雑誌掲載文を一読して、そうではないことがわかる。(私個人が判断した勝手な引用抜粋は、下に添付する。)トッドの発言は、あくまで、地政学的な領域において、提出されているものだ。家族人類学と地政学とは、類比的に重なる思考もでてくるだろうが、その二つの併用に理論的な厳密さが定義されているわけではない。だからあくまで、トッドの類比的な直観での提案と言えるだろう。
が、そのリアルさは、日本人には驚きであり、戸惑ってしまう、ということは、私たち自身がまず、自身が無意識に前提としてしまうリアルさを検討してみる必要に迫られている、ということだ。まず素直に、私たちが島国的な平和ボケだからの戸惑いかもしれないと認め、日本での核の必要性をせまるリアルとはどういうものなのか、さぐってみる必要がある。
たとえば、ロシア軍によるウクライナはキエフへ目掛けた侵攻が手こずっているようにみえたとき、内田樹は、素人の自分でもロシア侵攻が失敗しているとわかる、と発言している(内田樹「プランAしかないプーチンが『核戦争』に突入しても負けは変わらない」〈AERA〉 | AERA dot. (アエラドット) (asahi.com))。私は、サッカーでも、Aプランだけしか用意していないのは日本代表くらいだし、そうメディアで吹聴される情勢把握は疑わしいだろうな、と、素人の推論ではなく、むしろ植木職人からくるプロのカンとしておもっていた。一本の庭木をみて、そこになにがあるか、素人とプロではまるで見方がちがう。のちに、自衛隊の元司令官(旧階級では陸軍大将)は、これは東部方面での軍事展開を有利にすすめるためのオトリ作戦だと指摘しているのを知った((131) ロシア軍の用兵はモンゴル式/用田陸将に聞く01 - YouTube、他つづき)。もともと、外を見る窓が狭い一カ所しかない戦車で都市部に突入したら上下左右から好きなように攻撃されるだけだからするものではない、と。だから、都市部の手前で動きを止めている。飛行場への特殊部隊の降下作戦失敗とかあったとしても、予定どおりなのだろうと。また、トッドもすでに「第三次世界大戦」ははじまっていると述べているが、この元司令官も、経済制裁とは軍事行動になるのであってゆえにそこに各国が参加しているとはすでに世界大戦がはじまっていると認識すべき、と説いている。
内田や、当時の日本メディアの風潮が、マリウポリでの製鉄所に追い込まれた現在のウクライナの人々の惨状をみると、とんでもない楽観視であったと思わざるを得ない。
一方、ロシア軍の侵攻とあわせたように、核共有や敵基地先制攻撃だか反撃だかの好戦的議論が、上の楽観視を下敷きとした反戦の声と歩調をあわせるようにでてきたわけだ。以前からあった発想が、現実性を付加されて再提出された。では、ここでいう現実性とは、どのようなものなのか?
すでに実際上の問題として、日本の核所持に関し指摘されてきたことを想起してみよう。まず、核実験の問題。日本の、どこで、するんだい? 小笠原諸島の海でか? とても、日本の住民自身の合意が得られるとは想定できない。次に、国連憲章にある、敵国条項の問題。「国連」、と日本語でいまは訳されているが、これは二次大戦中の「連合国」の、ということである。日本を含めた枢軸国側だった国々が、今でも敵である。日本の提案で、それを前提とするいくつかの条項の削除が議会上で可決されたが、批准はされていない。棚上げになったままだ。ということは、日本が核所持の意思をこえて具体手順にはいったとたん、それを撤回させるための攻撃や占領統治にまで進む法的根拠がある、ということだ。ロシアや中国は、そうした行動を示唆するだろうし、韓国も、許すわけがないだろう。現今のウクライナ情勢の進展が、日本に核所持できるよう改正されるまでいくというのだろうか? 国連憲章をもとにウクライナの現事態を判断しようとした国連事務総長とロシア大統領の会談は、平行におわった。グレーゾーンは残されたまま進むとみるべきだろう。安倍総理の唱える核共有については、下引用のような、トッドの反論がある。
たしかに、日本も核を、という現実性はある。が、現実味がない。敵基地攻撃だの反撃だのとも言われるが、上の元司令官の話では、中国の内陸にミサイルが一発着弾したら、千発が自動的に飛んでくるようになっている、と。だから、元司令官は、それを防ぐには、北京、上海、広州に向けた三発の核弾頭を備えていればいい、という。がその発言は、あくまでプロの軍人として、そういう線で実務的に思考を使えば、という前提においてである。元司令官は、アメリカはバイデン政権になってからおかしくなっている、このままアングロサクソンの同盟国についていくと、日本にとっては不必要な戦争に巻き込まれる可能性がある、だから、どこまでついていくか、その距離を作る決断が必要だが、それは政治の問題だ、とも発言している。日本の若者の命をあずかる職務としては、自身の身を切るような熟慮と慎重さが必要になってくるはずだ。彼らは、若者の顔をみて、日々仕事をしているのだ。日本の政治家に、そんな真剣さがあるのだろうか? 慰安婦発言で、ロシアでの政治家との会談を当時の大阪市長橋本はキャンセルされたが(ダンス&パンセ: 戦争続報(3) (danpance.blogspot.com))、それが意味してくるものは、世界で共存する気があるのかわからないそんな真剣味のない民族は、抹殺されてもかまわない、とのメッセージを伝えてしまっているようなものではないか、と私には思われる。
おそらく、核シェアリングなどと、ルーム・シェアリングのノリで発言している者たちは、それが現実味のないことをわかっているのだろう。がそう世間に注目されることで、しかもどうせ議論におわることだからとアメリカからの認可済みで、その従属国家としてのスタンスからくる自らの政治的地位を維持しようとするのが目的なのであろう。
他者が敵として出現し、襲ってくるという可能性がせりあがってきたとき、現実性がある、という。つまりあくまで、事実的な現象としては見えていず、潜在的なままだ、ということである。安倍や橋本の核シェアリングの議論が現実性をもつのは、それがなお対岸の火事であり、現実にはなっていないからだが、しかしそれゆえに、その現実性とが実際にどんなものでどのくらいのものなのかの分析をせずとも、対岸火事という現象によりかかっていられる、ということだろう。では、それを、現実性を、潜在性を分析するとはどういうことか?
トッドは、最近『二十一世紀フランスの階級闘争』という書を刊行し、日本でも翻訳がすすんでいるそうであるが、その分析を記述するに、すでに暗記しているマルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」を再読したという。そのマルクスの書は、日本では、ソ連が崩壊し、フランシス・フクヤマの「歴史の終焉」論がもてはやされていたジャーナリズム界に投石するように、柄谷行人が「表象と反復」という論考をそのマルクスの新翻訳に付加して、太田出版から刊行された(1996年)という経緯がある。柄谷はマルクスの論考を、意味するものとされるものとの恣意的つながりというソシュールの記号論を援用し(表象論)、そこに、抑圧されたものが回帰してくるというフロイトの精神分析をつなげた(反復論)読解を提示したわけだ。要は、見えている表象の裏側で、見えていない潜在的な力が動いており、それが強迫反復的に回帰してくるという構造的な、つまりはあくまで潜在的な現実性を説いてみせたのである。
トッドが、『シャリルとは誰か――人種差別と没落する西欧』(文春新書)でおこなったのも、統計学を使用しながらの、その代表(意味)するものとされるものとのずれに、カトリシズムという抑圧されたものの回帰を見出し、それが、一見先進的にみえる社会運動の裏側で、人種差別的な現実を露呈させてきているのだ、という指摘だった。
ならば、トッドの分析手法にみられる現実性(家族形態分布からくる潜在的構造)と、日本に核所持を提案する地政学的なリアルさは、どうつながっているのか?
ここでもまず、実際面からみてみよう。
トッドは、ウクライナでの戦争がはじまるまえの著作で、こう述べていた。
<いずれにしても、欧州とロシアは非常に敵対的な関係になったのですが、この緊張に歯止めをかけているのが、核の存在です。ウクライナ危機にもかかわらず、ロシアと西欧が全面戦争に至っていないのは、核による恐怖の均衡があるからです。核兵器による相互壊滅の可能性があるがゆえに、戦争になっていないのです。>(『老人支配国家日本の危機』文春新書 2021年)
が、戦争は起きた。トッドは、そこに、新しさがあると付け足した。――<つまり、本来「通常戦」に歯止めをかける「核」であるはずなのに、むしろ「核」を保有することで「通常戦」が可能になる、という新たな事態が生じたのです。これを受けて、中国が同じような行動に出ないとも限りません。これが現在の日本を取り巻く状況です。>(以下にある引用参照)。
トッドによれば、核所持とは、「パワーゲーム」、つまり政治・軍事的なかけひきから超然とした位置を持つことであるとされる(引用参照)。核をもつことによって、江戸時代のような鎖国・自律したスタンスを保持できるようになるのだ、と。直接的には、不平等条約締結前のような、アメリカの従属からの自律である。その自律志向として、日本は核を持つべきだ、という説得である。そして次に、北朝鮮もが核を持つようになったのだから、アジア地域での均衡のためにも、日本も持つべきだ、との推奨になる。そういう論理の展開である。
しかし、トッドが指摘するように、核が通常戦を発生させる「新たな事態」が生起したというなら、核がそれを所持する国を超然とさせる、という認識が、そのままで定立するのだろうか? なるほど、発生するのは通常戦であって、核保持国同士の核戦争ではない、かもしれない。が、そう一段階リスクがあがったということは、やはり、核戦争の現実性も確率があがった、と考えるのが普通なのではないだろうか?
中国に関しても、トッドは、軍事的な脅威ではなく、あくまで経済的な脅威であって、そこを誤解すると、不要な戦争の惹起の可能性があることも指摘している。ならば、なおさら日本が核武装など必要なのか、その挑発は偶発的な戦争の確率を高めないのか、というのが、二段階目の論理での疑問になるだろう。
こうなってくると、大枠での地政学以上に、やはり、専門的な、より詳細な情報を蓄積した者でなければ、厳密な判断はできないだろう。トッドは、私が以上指摘した疑問を抱いてはいないようだが、そこには、やはり大陸の人物が暗黙に前提するリアルへの感触があるのかもしれない。
実際面は、以上の指摘までにしよう。問題としたいのは、その実際を動かす、哲学的な前提である。
トッドは、「核による恐怖の均衡」を、言い換えれば、死が怖い、ことを前提としている。ほんとうか? 死にたかったら、どうなるのか?
柄谷が、表象のずれに回帰してくる構造を、反復強迫という、フロイトが第一次大戦での負傷者に突き当たって見出したその概念とは、死への衝動、なのだ。それが、他との関係において潜在していたそれが回帰(現実化)してきたとき、私たちは、生を、ではなく、むしろ、死をのぞんでいる、のかもしれないのである。やるときは、やってしまうかもしれないのだ、自らの死を、世界の破滅を。アウシュビッツでの生存者が、高齢になってから死の衝迫に襲われ、自殺を実行してしまうように。
だから、トッドとは違い、死を恐怖ではなく、死を望んでいる者として、核戦争を、世界大戦を前提として思考しなくてはいけないのではないか?
ならば、核により破滅、しかないのか? いや違う。すでに、核弾頭被害を受けている、私たち日本人は、その後遺症として、9条を抱いている。それも、死の衝動、強迫反復なのである。ニーチェは、深淵に引きずられないためには、自らが怪物にならなければならない、と認識した。怪物を乗り越えるためには、怪物によって、ということなのだ(ダンス&パンセ: 怪物と反復――柄谷行人の『憲法の無意識』を読む (danpance.blogspot.com))。
自衛隊の元司令官は、ロシアの関係が維持していれば中国をみておくだけでよかったが、これで、ほかにロシアと、その属国である北朝鮮からの、三面同時作戦を考慮しなくてはならなくなった、と言っている。これを防げる国はありません、と。またアメリカ軍は、中国からのミサイル射程距離1000km以上を確保するため、グアムぐらいまで海軍は退避することになっている、と。オトリとして、日本の基地に戦闘機をちらばせてはおくだろうと。
私は、実際的に無理なんだから、腹をくくって、9条の信条保持で外交に徹しよ、死の衝迫でもって、死を覚悟して、政治家は職分を果せ、と言いたい。9条によって日本を守る、とかではなく、世界大戦を防ぐ、という外交だ。自らの命を差し出す、心臓をささげる覚悟がなかったら、プーチンが相手にするわけがないだろう。
*9条をめぐっては、自衛隊は違憲だとか(私は機械的にそうなるとは思わないが)、一章の天皇制とセットなのだとか(それは単に現憲法の成立過程の話にすぎないと思っているが)、いろいろ付加議論があるが、私たちはまず、自身の負っている後遺症のあり様をよく考えた方がいいのだ。実際にどうするかは、そのメンタリティーをよく踏まえた上で、である。スポーツでも、身に余る気負いで作戦たてると、失敗するだろう。へたに核なんかもつと、それこそ恐怖に耐えきれず、自爆したくなるかもしれない。たしか、村上龍だったろうか、核のボタンをもって日本の総理大臣が歩けるのか、と言っていたとおもうが、安倍君よ、おまえ自身は本当に、大丈夫だとおもっているのか? 他人事として言動しているとしか、私には思えない。
トッドは、核によって江戸に回帰する、といい、柄谷は、9条によって、江戸に回帰するのだ、という。どっちが私たちを支える、私たちのメンタルにあっているだろうか? それをまず、しっかり考えよう、ということだ。というか、もう考えている猶予はないかもしれないが。
※ 以下、『文藝春秋』トッド「日本核武装のすすめ」からの引用―――――
「ミアシャイアー(註-シカゴ大教授の国際政治学者)の指摘でもう一つ重要なのは、ウクライナの加盟でNATOが国境にまで迫ること自体が、ロシアにとって存亡に関わる「死活問題」だ、ということです。ここから彼は、ロシアは米国やNATOよりも決然たる態度でこの戦争に臨み、いかなる犠牲を払ってでも勝つだろう、と結論するのですが、この点は間違っていると思います。というのも、このウクライナ問題は、米国にとっても「死活問題」になりつつあるからです。…(略)…米国は、軍事と金融の覇権を握るなかで、実物経済の面では、世界各国からの供給に全面的に依存する国ですが、このシステム全体が崩壊する恐れが出てきます。ウクライナ問題は、米国にとっても、それほどの「死活問題」なのです。」
「いま人々は「世界は第三次世界大戦に向かっている」と話していますが、私は「すでに第三次世界大戦は始まった」と見ています。ウクライナ軍は米英によってつくられ、米国の軍事衛星に支えられた軍隊で、その意味で、ロシアと米国はすでに軍事的に衝突しているからです。ただ、米国は、自国民の死者を出したくないだけです。」
「ウクライナ人は、「米国や英国が自分たちを守ってくれる」と思っていたのに、そこまでではなかったことに驚いているはずです。ロシアの侵攻が始まると、米英の軍事顧問団は、大量の武器だけ置いてポーランドに逃げてしまいました。米国はウクライナ人を“人間の楯”にしてロシアと戦っているのです。今後、この裏切りに対して、ウクライナ人の反米感情が高まるかもしれません。」
「「戦争がなぜ始まったか」を理解するには、まず戦争前の各国の思惑を理解する必要があります。/米国の目的は、ウクライナをNATOの事実上の加盟国とし、米国に対抗できない従属的な地位にロシアを追いやることでした。それに対してロシアの目的は、米国の目論見を阻止し、米国に対抗しうる大国としての地位を維持することでした。」
「私の専門の家族システムで言えば、ロシアは共同体家族(結婚後も親と同居、親子関係は権威主義的、兄弟関係は平等)の社会で、ウクライナは核家族(結婚後は親から独立)の社会です。…(略)…核家族は、英米仏のような自由民主主義的な国家に見られる家族システムです。しかし民主主義は、強い国家なしに機能しません。問題は、ウクライナに「国家」が存在しないことです。しかも西部(ガリツィア)、中部(小ロシア)、東部・南部(ドンバス・黒海沿岸)という三つの地域の違いが著しく、正常に機能するナショナルの塊として存在したことは一度もありません。/あくまで冗談ですが、歴史的に“兄弟関係”にあるにもかかわらず、ロシア人はウクライナ人を「少し劣ったロシア人だ」と見ているところがあります。ピラミッド型社会のロシア人からすると「自分勝手で、アナーキーで、ポーランド人みたいだ」と見えるわけです。」
「ウクライナから安価で良質な労働力を吸い寄せてきた西欧諸国にも重い責任があります。ウクライナは独立以来、人口の一五%を失いました。まさに「破綻国家」と呼べる状態です。しかも高等教育を受けた労働人口が流出しました。本来は国家建設を担うべき優秀な若者が、よりよい人生を求めて国外に出ることを選んだのです。現在、大量の難民が発生していますが、ウクライナからの人口流出は、実は以前から起きていたのです。」
「プーチンとしては、「破綻国家」である小ロシア(ウクライナ)を「母なるロシア」に回帰させることで立て直そうとしたのかもしれませんが、ロシアが強硬に出るほど、国内に残ったウクライナの人々は、むしろ「反ロシア」に自らのアイデンティティーを見出し、ナショナリストでニヒリスト(自暴自棄)の武闘派になっていきました。しかもそこに「ウクライナ軍の武装化」という提案が米英からもたらされ、ロシアを相手にした具体的な軍事目標も与えられたわけです。プーチンが「ネオナチ」と呼ぶ極右武装勢力にしても、多くのロシア語話者も加わっているようです。これは、ロシアが想像していなかった事態です。現在ウクライナの人々は、「自分の国のために死ぬこともできる」と見られていますが、この戦争が、ウクライナの人々に「国として生きる意味」を見出させたと言えるかもしれません。実に悲しいことです。」
「西欧の人々は、眼前の事態に動揺しています。まさか欧州で戦争が起きるとは思っていなかったからです。戦争が始まった時、私自身こう思っていました。「ウクライナ人が真のヨーロッパ人かどうかが分かるだろう。ウクライナ人がヨーロッパ人であれば、武器をもって戦わない」と。現在の「ヨーロッパ人」は、“戦争は遠い過去のこと”にしたがっているからです。ウクライナ人は、ある意味で「ロシア人」だったと言えます。」
「「プーチンは狂っている」と言われますが、ロシアは、一定の戦略のもとに動いています。その意味で予測可能です。ロシアの行動は「合理的」で「暴力的」と称することができます。欧州の行動も、「卑怯」ではあっても、半ば予測可能です。ロシアと同様に「合理的」で「暴力的」な中国の行動も、ある程度、予測可能でしょう。/それに対して予測不能なのが、ウクライナです。米英に背中を押されて、クリミアとドンバス地方のロシアからの奪還を目指したわけですが、軍事力や人口規模から見て、非合理で無謀な試みだと言わざるを得ません。…(略)…非合理的な行動で地政学的リスクになりかねないもう一つの国が、ポーランドです。ロシア相手に無謀な戦争を繰り返して負け続け、自ら国家として崩壊したことのある国です。ポーランド、ルーマニア、ウクライナというバルト海から黒海に至るゾーンは、核家族社会で、一八世紀以来、国家が十分に機能してきませんでした。過去にユダヤ人の大量虐殺も起き、地政学的リスクを抱えたゾーンです。外交的に注視する必要があり、ポーランドとウクライナが協働する動きを見せたら「危険あり」です。プーチンの「核発言」も、私が思うに、何よりもポーランド向けのメッセージでした。」
「しかしそれ以上に、予測不能で大きなリスクとなり得るのが米国の行動です。プーチンを中心とするロシアと対照的に、中枢がないからです。米国の“脳内”は、雑多なものが放り込まれた“ポトフ”のようです。「ロシアの体制転換」など、無責任で予測不能な失言を繰り返すバイデン大統領は何を考えているのかよく分かりません。トランプにしても、大統領の地位にあったにもかかわらず、思うような対露友好外交を展開できませんでした。米国では誰が権力を握っているのか分からないのです。…(略)…戦争はもはや米国の文化やビジネスの一部になっています。こうなってしまったのは、戦争で間違いを起こしても、世界一の軍事大国である米国自身は侵攻されるリスクがないからです。だから間違いを繰り返すのです。」
「米国の行動の“危うさ”は、日本にとって最大のリスクで、不必要な戦争に巻き込まれる恐れがあります。(実際、ウクライナ危機では、日本の国益に反する対露制裁に巻き込まれています。)当面、日本の安全保障に日米同盟は不可欠だとしても、米国に頼りきってよいのか。米国の行動はどこまで信頼できるのか。こうした疑いを拭えない以上、日本は核を持つべきだと私は考えます。」
「…核の保有は、私の母国フランスもそうであるように、攻撃的なナショナリズムの表明でも、パワーゲームのなかでの力の誇示でもありません。むしろパワーゲームの埒外にみずからを置くことを可能にするものです。「同盟」から抜け出し、真の「自律」を得るための手段なのです。過去の歴史に範をとれば、日本の核保有は、鎖国によって「孤立・自律状態」にあった江戸時代に回帰するようなものです。その後の日本が攻撃的になったのは「孤立・自律状態」から抜け出し、欧米諸国を模倣して同盟関係や植民地獲得競争に参加したからです。」
「ウクライナ危機は、歴史的意味をもっています。第二次大戦後、今回のような「通常戦」は小国が行なうものでしたが、ロシアのような大国が「通常戦」を行なったからです。つまり、本来「通常戦」に歯止めをかける「核」であるはずなのに、むしろ「核」を保有することで「通常戦」が可能になる、という新たな事態が生じたのです。これを受けて、中国が同じような行動に出ないとも限りません。これが現在のような日本を取り巻く状況です。」
「いま日本では「核シェアリング」が議論されていると聞いています。しかし「核共有」という概念は完全にナンセンスです。「核の傘」も幻想です。使用すれば自国も核攻撃を受けるリスクのある核兵器は、原理的に他国のためには使えないからです。中国や北朝鮮に米国本土を核攻撃できる能力があれば、米国が自国の核を使って日本を守ることは絶対にあり得ません。自国で核を保有するのか、しないのか。それ以外に選択肢はないのです。/ヒロシマとナガサキは、世界で米国だけが核保有国であった時期に起きた悲劇です。核の不均衡は、それ自体が不安定要因となります。中国に加えて北朝鮮も実質的に核保有国になるなかで、日本の核保有は、むしろ地域の安定化につながるでしょう。」
「台頭する中国と均衡をとるためには、日本はロシアを必要とする、という地政学的条件に変わりはありません。ロシアの行動が「許せない」ものだとしても、米国を喜ばせるために多少の制裁は加えるにしても、ロシアと良好な関係を維持することは、あらゆる面で、日本の国益に適います。感情的にならざるを得ない状況のなかでも、決して見失ってはならないのは、「長期的に見て国益はどこにあるか」です。」
2022年4月26日火曜日
戦争続報(4)
ウクライナはマリウポリのアゾフスタリ製鉄所の地下シェルターに閉じこめられた状況に関し、スマホ・ニュースのコメントでも、様々な意見、判断(選択肢)が提出されている。私には、どれもがもっともな意見におもえる。そしてそのどの意見もが、半々の賛同と否定に取り囲まれているようにみえる。部外者が当事者に近づいていく勝手な言葉さえもが、すでにそれに、itな非人称な世界に呑み込まれてしまいそうな感じだ。しかしまだ、実質併呑されているわけではないだろうから、余裕あるうちに、なんでもいいから言語化、意識下しておいたほうがいいのだろう。それが、無意識の深淵に落ちないであがく、一つの方法ではあろうから。
私は、巨人に襲われている最中に、リヴァイがエレンにいったアドヴァイスをおもう。
<俺にはわからない。ずっとそうだ…自分の力を信じても…信頼に足る仲間の選択を信じても…結果は誰にもわからなかった…だから…まぁせいぜい…悔いが残らない方を自分で選べ。>(BCCKS / ブックス - 『人を喰う話 2 『進撃の巨人』論』菅原 正樹著)
ここにあるリヴァイの認識とは、もうどう判断し実行しようと、必ず後悔を迫る結果にはまる、ということだ。必死に抵抗して鉄砲を撃って生き延びた兵士も、良心に従って空砲に徹した兵士も、その状況を脱したとき、罪悪感に襲われる。いや兵士だけではない。巨人の襲撃で子供たちを食われ、一人生き延びた村人の自殺を、超大型巨人を体現していたベルトルトは、「あのおじさんは…誰かに――裁いてほしかったんじゃないかな」、と理解する。
アウシュビッツで生き残ったユダヤ人も、恥と悔いに襲われたのだ。三島由紀夫も。
そこでは、敵と味方の区別もなくなる。捕虜になった山本七平は、自分たちに一番やさしくしてくれたのは、前線で一緒に戦った敵の兵士たちだった、と述懐する。
それを、itを、子供たちは、知っている。
このロシアの侵略戦争に、ウクライナの子供たちに復讐心が焼き付いて、悪の連鎖がおこるのではないか、との意見もでた。が、そうでない。チェチェンでの戦争を生き延びた子供たちが、復讐を語らず、山で悲しんでてもらえればそれでいい、と答えているのだ(ダンス&パンセ: 「春になったら」 (danpance.blogspot.com))。
私も、息子の子育て中、そんな認識をもった。まだ、幼稚園の頃だったろう。なかなか言うことをきかない幼児の胸倉をつかんで、この野郎、となっていたおり、こいつはわかっている、もうみえてるんだ、という洞察が突然やってきた。それ以来、私は放任主義的になった。切れるときがあっても、すぐに、思い返されて、自制されてきた。それは、息子に特異なことということではなくて、子供一般に、さらには人間とはそういう能力をもつものなのだ、という信頼としてやってきたのだ。
誰もが、子供のころのそんな能力を、忘れてしまい、扱えなくなっているかもしれない。が、それはある。たぶん、それは、無意識とは、一様な広がりではなくて、量子的なもつれとして、他人と重なっている、つながっている。私は、他の者たちの身代わりなのだ、とレヴィナスは言う。私の身代わりとして、いま、戦争で亡くなっていく人が、子供たちがいる。が、私たちはなお、それを、itを、コントロールする術をしらない。おおざっぱな構造把握しているだけだ。性欲が消えないように、戦争も消えない。修練した聖人だけがそれを自らのうちにうまく慎ませることができるだけなように、それを人為的に防げるという認識自体が状況を拡大させる。それとの交渉を、力づくでやることはできない。
私たちは、子供のころ、どうしてたっけかなあ? 子供が子供だったころ…
2022年4月20日水曜日
戦争続報(3)
今週日曜の「たけしのTVタックル」とかいう番組になるのか、食卓の下で昼寝しながら、そのコメンテイターの話をきいていた。日本語が達者な、ウクライナにいるのだろうウクライナの男性がゲストにむかえられていた。声だけしかきいていないので表情はわからない。出席者たちは、以前はだいぶ好戦的な援護の声をウクライナ側へとおくっていたとおもったが、それが今回、ウクライナ人自身のゲストに対し、暗黙にはなんでこれだけ犠牲者がでているのに降伏しないのか、というニュアンスでの質問があいついでいた。どういうつもりでそんなこと言ってんだ、もうありえないだろう、交渉なしの無条件降伏か玉砕じゃないか、もう見守ってやるしかないじゃないか……そのうち、共感疲労から、無関心へ、感心を持つことの忍耐切れから否認の成り行きになっていくのだろうか。ウクライナからのゲストは、少しいらだってきたようにおもわれた。最後に、日本人にアドバイスしたいと言った、私たちのようになってほしくない、アメリカは、武器はあげるけど、助けにはきませんよ、と。エマニュエル・トッドは、戦争がはじまるや武器を置いて逃げていったアメリカに対し、反米感情がウクライナから出てくる可能性を指摘していたが、もうその兆候があらわれているということだろうか。
私は自身のフェイスブック上で、プーチンはクレムリンに核弾頭をぶちこむだろう、と書いた。そのぐらい、腹を据えて決断しているだろうということだが、その想像力の根拠は、ドストエフスキーの『白痴』における、日本の切腹への共感的興味の記述にある。切腹とは、人類学的には、狩猟民の儀式、獣の内蔵を白日のもとにさらすことが、自身の神聖=真正さを証明してみせることにつながる、というような衝迫性からきているとか指摘されているわけだ。私は日本国憲法の9条も、その狩猟民に由来する切腹の精神(贈与、自己犠牲的な死の衝動)の反復性を読み、それが、災害ユートピア的な他者との共感原理=倫理とつながっているのでは、と説いてきた。
あおり運転、と日本のニュースで頻繁にとりあげられる事態のことを考えてみよう。私の勤め先でも、トラックにカメラが取り付けられるようになった。そこで、私は年上の職人さんにきいた、「そんなことしたら、自分たちがあおっているのがバレちゃうんじゃないんですかね?」職人さんは、考えたすえ、答えた。「そうだよね。」その団塊世代職人さんは、とろとろ運転している女性や、不規則運転している高齢ドライバーに後続から出くわしたりすると、危うきには近寄らず、ではなく、興味津々というか、親しみを感じるのか、近づいていく。車間距離が、なくなる。「そんなことしたら、びっくりして、急ブレーキふむんじゃないんですかね?」親方にしても、若い頃は、二日酔いがさめないうちの運転となると、無意識のうちに暴走族のころの走りがでて、右からプレス、左からプレス、と気持ちよさそうに蛇行運転をはじめていた。その息子は、後ろから危険運転をされたのか、突然大通りの車道にダンプをとめるや後続車へと怒鳴りつけにいく。おいおい、道の真ん中でやんのかい、とこんなところで喧嘩をしでかされないように、私も助手席から降りてなだめにはいったこともある。ではなんでカメラなんかみなと同じようにつけるのか、といったら、正義感が強いからだ。自分たちが、道義的にも、法規的にも、正しいときは正しい、と確信しているところがある。変な言い方になっているが、警察の取り締まりなど平気な沙汰みたいなところがある一方で、間違っていると明白なときは、あっさりと、というか、男らしく、いさぎよく、ということになるのだろう、俺が悪かった、と経済的不利益など考慮せず、ためらうことなく認めるからである(そういう事故現場にも立ち会った)。だから保険屋とおした言い合い交渉や裁判になど、ならない。
あおり運転をはじめた者は、人格破綻したようなおかしな者もいるだろうが、そのきっかけは、相手が先にやった、と認識しているはずだ。で道義的に、やり返す。そんな目にあった場合、たいがいの普通の人は、ドアも空けず、ロックしたまま車から降りない。スマホで証拠動画をとったりしている。「おまえが先に挑発したんだろう!」「してねえよ。先に手をだしたのはおまえだろうが!」と、窓やドア越しに喧嘩などはじめない。
今戦争の当初、普通の日本人の多くが、そうしたドア越しの戦いの続行をよしと認めていたわけだ。
私も、自身の思考、思想過程においては、その戦争、他者の排除ではなくそれとの交通を認める。他者を遠ざけた安全など、虚偽でしかない。しかしそれは、低次元ではなく、高次元においての反復を志向したものでなくてはならない。
ウクライナ人側の降伏を説いていた橋本徹は、いまは元総理の安倍といっしょに核共有の議論をしているとか。この橋本の思考過程は、相変わらず、ということなのだろう。このブログでも、私が少年サッカーの指導をしていたころの、橋本の慰安婦発言をめぐるものを紹介した。喧嘩をはじめた子供に注意すると、ほぼ必ず言い返してくるわけだ、「俺が先にやったんじゃねえ。なのに、なんで、俺だけ注意するんだ?」そこで、当時の大阪市長の意見をだして子供たちに考えさせる。「戦争になればどこの国でも人を殺す(「慰安婦」をつくる)。日本人だけではない。なのに、なんで日本人だけが責められるんだ? おかしいだろう? と大阪市長は言ったんだけど、君たちも、そう思うかい?」そうだ、おかしい、と喧嘩をしていた子供たちは考えたすえに、答えた。「じゃあさあ、○○くんのお父さんは、ドライバーだよね。事故が起きないよう、本当に注意して運転していても、交通事故をおこす場合もあるよね。その事故と、はじめから交通法規のことを気にかけないで、運転していて事故るのは当たり前、と暴走している暴走族の事故とは、同じかい?」子供たちは、考えはじめて、答えない。のでつづけて言う。「戦争になれば人を殺すのは当たり前だ、そうはじめから高をくくっているような考えは、この暴走族の人と同じなんではないの。戦争をおこさないように、真剣に話あって、それでも、戦争が起きて人を殺してしまう場合もあるかもしれない。が、はじめから戦争で人を殺すのは当然、と前提しているような人と、いったいどんな真剣な話し合いができるというんだい? だから、ロシアの政治家は、その大阪市長の発言を知って、ロシアでの対談の招待を取り消したそうだよ。」
戦争の当然さを前提に、降伏推奨から核所持の議論へとゆく。橋本がどんな立場で議論しているか私は知らないが、およそ真剣味のあるものではないだろう。そもそも、ありえない話で盛り上げているわけだから、自分たちのステイタス保持にしか貢献しない議論だろう。
最初の素朴な疑問はいい。アメリカの大統領のロシア大統領への「悪魔」だの「犯罪者」だのという罵りに疑問を呈するのは当然だ。が、なんで、そういう疑問から、結局は現状を追認し過激に進めていくような思考過程にはいるのか? 思考の前提に真剣味がないとは、他者がいない、観念論になっている、ということだ。
私のフェイスブックでの、日本人の無差別爆撃や被爆の体験からくるウクライナ側の降伏を願う文章が(「降伏」というより、戦争ではなく、ロシア側からくる協議の要請の承認、それは力の差が歴然なのだから、交渉過程での屈服的妥結にならざるをえない)、加藤典洋の思考に近づいている、という指摘があった。私は加藤の主張を知らず、ちゃんと読めたときがないので、今回、講談社文芸文庫の『戦後的思考』というのをみてみた。ですぐに、なんで私が彼の文章を体質的に受け入れ難いのか、思い出した。
私は後書き解説の、東浩紀の解読を受け入れてもいい。が、それが加藤に当てはまるのか、疑わしい。東は、加藤が「語り口」に固執していることを注視し、「論理」の言葉では解決できないところからくる「文学」の必要性の根源を考察しているのだ、という。おそらくその「語り口」とは、加藤の敢えて試みた「軽薄な」「わたしたち」の文体のことなのだろうが、そこに、ほんとうに、「わたしたち」が内包されているのだろうか、という疑問だ。私が加藤の文体(文学)から感じとるのは、むしろ他者の軽蔑、イロニーである。そのあり様は、加藤の評価する村上春樹の文章と似ている。このブログでも『風の歌を聴け』の出だしで指摘し、そこでも加藤に否定的に言及している。柄谷は、その論理的ないい加減さをうまく言いくるめる技巧に、「日本浪漫派」を読んだわけだが、私には、加藤にも同様な文体を感じてしまう。というか、「日本」や「浪漫」が、ほんとうにあるのかさえ、うたがわしい。パトリシズムがそのまま普遍に通じていく回路を加藤は指摘しているが、加藤に、そのパトリシズムがあるのか? (高橋源一郎の憲法論議についてのブログでも、同じ感想を繰り返している。) 大西巨人は、加藤の『敗戦後論』を「下品」と評価したそうだが、私も、日本語感的に、そう感じるのである。つまり東の言う文学的実践が、ほんとうになされているのか?
私小説文学としての私がやっていることは、柄谷理論で言い換えれば、交換Aの領域を身近な素材で追求していることになるだろう。あおり運転を安全な場所からスマホ撮影しているという者としてではなく、むしろあおっている側にいる人間として。しかし、未開な部分、野蛮な領域こそが、反復されるべき交換Dだ、という話になっている。NAM以降の柄谷の思想が、贈与だの9条だの三島評価だのと、加藤と重なってきているとしても、それは「世界史の構造」(交換論)へと至る交通の、相対的な他者との関係の絶対性をめぐる思考過程での部分領域での一致ということにすぎない。
低次元が高次元で反復される……自分の体を使って実験し、考えてみることなのが、私の作業である。
2022年4月15日金曜日
戦争続報(2)
『文藝春秋』5月号の、歴史人口学者と紹介されるエマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」をめぐり、その是非を彼の理論的作業を参照しながら考察してみると、前回ブログで述べたが、そのまえに、同紙に掲載されている元総理・安倍晋三の「「核共有」の議論から逃げるな」、を抑えておく必要があると感じた。話している内容というより、話しの前提となる枠組みがにじみ出てくる文体の様、が、理論を実地に応用していく段に考慮されなくてはならない現状(理論と応用のズレ)の度合いが、はからずも露呈しているのではないか、と思えるからだ。
元日本総理が言っていることの抜粋が、以下である。
「核の脅威に対し、世界ではどのように国家の安全が守られているのか。現実を冷静に分析し、様々な選択肢を視野に議論すべき段階なのではないでしょうか。/核シェアリング(核共有)も含め、様々な選択肢を議論すべき時に来ています。」
政治家とは、すでにして実践をしなくてはならない職業の人たちのことであろう。
が、上の思考枠は、××という認識をもつ議論をすることが抑止にもなるという認識にもなるのだと議論すべき時にきているとまず認識すべきである、ということであろう。私はこうしたい、とか、すべき、とかではなく、あくまで、議論以前の、認識を説いているのである。
唖然とした。たぶん、本人は何も実は言っていることにならないので、まわりの人が、その空虚さを埋めるべく行動しやすくなる、という感じで、安倍人脈なるものが形成されるのだろうな、と思った。彼自身は、空虚な器。ここでは、核と書かれた器がだされていて、そこに、その言葉に感応する者たちが蝟集してくる、という仕掛け。
が、そんな内輪の話だけではすまない。なんで、一国の総理ともなった政治家が、こんなまわりくどい認識論に終始することになるのか? おそらく、文中でも示唆されているように、日本の政治家なり自衛隊の幹部なりには、その議論が許されていない、からだ。自国を自分で守る作戦計画やシミュレーションを試しにおこなってみることすら、たぶん、許可されていないのだ。もちろん、アメリカに、である。
だから、元総理は、国民に暗示的に、訴えているわけだ。私たち政治家には、できません。けれど、国民的議論として世論ができてくれば、アメリカも、私たち日本人自身が作戦をたてること、シミュレーションしてみることを許してくれるかもしれない、と。あるいは、アメリカが建てる計画に日本の政治家や自衛隊参謀も主体的な協議者として参加しえる立場が持てるかもしれず、日本自身が試みてみる計画の相談に応じてくれるようになるかもしれません、と。つまり、政治家は現状無能なので、国民よなんとかしてくれ、ということだろう。
最近のビデオニュースコムでも、国連で武装解除の仕事についていた経歴をもつ伊勢崎賢治氏が、日米同盟なるものの内実について指摘((104) 伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係
- YouTube)していたが、それを、安倍元総理の話は、上書きしている、ということになるだろう。
2022年4月9日土曜日
戦争続報
共感疲労、という言葉が社会心理学にはあるそうだ。長引く戦争の惨状映像を見聞きするにつれ、出始めてきた症状であるそうな。3.11の津波映像以来、とにかく涙もろくなってしまっている日本人は多いだろう。
が、それも、テレビや新聞などの古典的なマスメディアからの影響が強い高齢の者たちでの間の現象であろう。TikTokだかなんだか、YouTubeにも入ってくるショート動画には、おそらくウクライナの兵士が、ヘルメットにカメラなどをつけて闘いに参加しているのだろう、その戦闘中の画像がピックアップ編集されて大量に流されているようだ。ホースで水をまくように、弾幕の蛇が戦闘機を追いかけていく。撃墜された火炎の中から、パラシュートが降下してくる。「いいね!」との高評価が、何十万、何百万と貼り付けられる。
世の中が、気違いになっているとしか思えない。
戦争のポンチ絵にブロックチェーン技術でオリジナル保証をつけてクラウドファンディングにするとか…。
戦争という関係の絶対性が、人を残虐非道にするのであって、それは、身体の限度を超えて主体を破壊してしまう。だから、戦争に反対するのであって、私は人を殺しません、などという意識や意志では統制できない確率状況を発生させないために、反戦を人は訴えるのだ。聖戦なり正義の戦争などというものはない。二次大戦の日本では、当初の中国との戦いには疚しさを感じて乗り気がしなかった文学者たちが、アメリカを主敵とした戦争に移行すると、解放されたように戦争肯定派に転じていったさまが、柄谷や浅田などの『批評空間』誌上で検討されていたわけだ。最近では、山城むつみが、ドストエフスキーと小林秀雄を素材にしながらそのテーマを追跡し、その論考を、このブログでもとりあげたりした(ダンス&パンセ: 三つの著作から―――<山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社)、柄谷行人『帝国の構造』(青土社)、すが秀実『天皇制の隠語』(航思社)>
(danpance.blogspot.com))。
いや当時の日本が侵略者なのは明白なのだから、そこに乗っかったインテリの間違いは明白で、しかし今の私たち日本人は、明白な侵略者ロシアに対するウクライナおよび欧米西側諸国、つまりは国際社会の側についているのだから、正義の戦争を支持していることにしかならないのだから、昔と一緒にするな――という話、論理にはなれないのだ。
「なれない」、というのは、それが論理、理屈の話ではないからだ。一度ならず二度も世界大戦をやってしまったという歴史の、成り行きの中にいるということである。ロシア軍から解放された瓦礫のなかで、おばあさんが空に両腕を広げて嘆いていた、「私はただ生きたいだけなのに、なんで、こんなにも残酷な目にあわなくてはならないの!」朝日歌壇への新聞投稿をみていても、当時子供であったろう高齢者の人々の、ウクライナと戦時中の日本とを同様にみなす短歌が多い。つまり、違いはもうないんだよ。侵略者だろうが被侵略者だろうが。戦争が、主語なのだ。ロシアでは、反戦デモがある。ウクライナでは、ない。それは、ウクライナの民衆が外にでてそんなことをやっていたら狙撃・爆撃されてしまうからだけでなく、言えるような状況にないからだ。その状況とは、言論弾圧やその空気などといった民主主義云々の論理からではなく、戦争という関係の絶対性が、人に沈黙を強いてくるからだ。言葉を絶していく関係に、人々は強制収容される。
すでにテレビでも、経済封鎖からくる物価高騰のため、ペルーやスリランカで大衆デモが起きていることが報道されている。戦争が長引けば、それは西側ヨーロッパでより過激に発生してくるだろう。戦争に「いいね!」などと余裕な正義の立場を維持しうる裕福層はどんどん先細りになるだろうから、国際社会なる世論はどう反転するかもわからない。
ウクライナ側に降伏をすすめる言説は、ロシアがなしてきた残虐な歴史を知らないからだ、という向きも強い。チェチェンでは、人知れず何十万という住民が虐殺されている。なるほど、そのロシア固有の非道さなるものを認めてもいいだろう。が、それは、過去としての歴史からの法則にすぎない。それに従えば、また過去の法則を強化していくだけである。が、私たちは、二度の世界大戦をし、私たちを内省し、再帰化させていく新たな私たちを、未来に投げかけることができるのだ。
『進撃の巨人』の、ハンジの言葉だ。
戦争に反対する理由は、善悪判断ではなく、好き嫌いという趣味判断の、美学の範疇に移行したのだと説いたのは、フロイトとアインシュタインの対話だった(BCCKS / ブックス - 『パパ、せんそうって、わかる?』菅原 正樹著)。
戦争を「いいね!」の趣味の問題に変えている膨大な動画も、そのうち食傷気味になっていくだろう。
この正義の戦争も、長引けば長引くほど、国際法では人権の考慮外になってしまう、市民の武装化を強要したその実態が、タリバンやアルカイダを育てた欧米西側諸国の、ウクライナをアフガニスタンのように中立化させるその意味が、露呈してもくるだろう。世界の穀倉地帯でそんなことをすることがどうなるかも、部外にいる世界の人々も、身近な生活問題として実感されてくるのだろう。
三次大戦を予期させるこの戦争が始まるまえは、量子論読書の延長で、土や微生物、内臓と微生物、性染色体遺伝子、などへの好奇心からくる読書をしていたのだが、受験世界史に毛が生えた程度の知識しかないだろうから、少しは戦争の実態も知る必要あるだろうと、付け足し読書が増える始末。トッドの『思考地図』であげられた参考文献なども。で、ウクライナで、ドイツ(EU)とロシアの思惑の衝突が起きるとだいぶ以前から予測していたそのトッドの、日本核武装論が、今月の『文藝春秋』で、安倍晋三の文章とともに、掲載されているらしい。そうくるな、利用されてくるな、とは以前のブログでも言及していたように、予想はしていたが、この状況でかい、と幾分の危機意識をもつ。日本の右派の主張は、考えてみる気も起きないが、マルクス主義者のトッドの文脈においては、日本核武装論の理屈を検討してみなくてはならない、と、すでに他の著作での言葉から、やってはいた。今日、女房とロシア映画をみに出かける予定があるから、そのついでに「文藝春秋」を買って、その主題にしぼった論考から再検討してみることになるのだろう。
しかし、バクダンでも核実験でも、どんだけの微生物やウィルスが亡くなり、ネットワークが寸断されるのだろうな、と考えてしまう。