2022年4月20日水曜日

戦争続報(3)


 今週日曜の「たけしのTVタックル」とかいう番組になるのか、食卓の下で昼寝しながら、そのコメンテイターの話をきいていた。日本語が達者な、ウクライナにいるのだろうウクライナの男性がゲストにむかえられていた。声だけしかきいていないので表情はわからない。出席者たちは、以前はだいぶ好戦的な援護の声をウクライナ側へとおくっていたとおもったが、それが今回、ウクライナ人自身のゲストに対し、暗黙にはなんでこれだけ犠牲者がでているのに降伏しないのか、というニュアンスでの質問があいついでいた。どういうつもりでそんなこと言ってんだ、もうありえないだろう、交渉なしの無条件降伏か玉砕じゃないか、もう見守ってやるしかないじゃないか……そのうち、共感疲労から、無関心へ、感心を持つことの忍耐切れから否認の成り行きになっていくのだろうか。ウクライナからのゲストは、少しいらだってきたようにおもわれた。最後に、日本人にアドバイスしたいと言った、私たちのようになってほしくない、アメリカは、武器はあげるけど、助けにはきませんよ、と。エマニュエル・トッドは、戦争がはじまるや武器を置いて逃げていったアメリカに対し、反米感情がウクライナから出てくる可能性を指摘していたが、もうその兆候があらわれているということだろうか。

 

私は自身のフェイスブック上で、プーチンはクレムリンに核弾頭をぶちこむだろう、と書いた。そのぐらい、腹を据えて決断しているだろうということだが、その想像力の根拠は、ドストエフスキー白痴における、日本の切腹への共感的興味の記述にある。切腹とは、人類学的には、狩猟民の儀式、獣の内蔵を白日のもとにさらすことが、自身の神聖=真正さを証明してみせることにつながる、というような衝迫性からきているとか指摘されているわけだ。私は日本国憲法の9条も、その狩猟民に由来する切腹の精神(贈与、自己犠牲的な死の衝動)の反復性を読み、それが、災害ユートピア的な他者との共感原理=倫理とつながっているのでは、と説いてきた。

 

あおり運転、と日本のニュースで頻繁にとりあげられる事態のことを考えてみよう。私の勤め先でも、トラックにカメラが取り付けられるようになった。そこで、私は年上の職人さんにきいた、「そんなことしたら、自分たちがあおっているのがバレちゃうんじゃないんですかね?」職人さんは、考えたすえ、答えた。「そうだよね。」その団塊世代職人さんは、とろとろ運転している女性や、不規則運転している高齢ドライバーに後続から出くわしたりすると、危うきには近寄らず、ではなく、興味津々というか、親しみを感じるのか、近づいていく。車間距離が、なくなる。「そんなことしたら、びっくりして、急ブレーキふむんじゃないんですかね?」親方にしても、若い頃は、二日酔いがさめないうちの運転となると、無意識のうちに暴走族のころの走りがでて、右からプレス、左からプレス、と気持ちよさそうに蛇行運転をはじめていた。その息子は、後ろから危険運転をされたのか、突然大通りの車道にダンプをとめるや後続車へと怒鳴りつけにいく。おいおい、道の真ん中でやんのかい、とこんなところで喧嘩をしでかされないように、私も助手席から降りてなだめにはいったこともある。ではなんでカメラなんかみなと同じようにつけるのか、といったら、正義感が強いからだ。自分たちが、道義的にも、法規的にも、正しいときは正しい、と確信しているところがある。変な言い方になっているが、警察の取り締まりなど平気な沙汰みたいなところがある一方で、間違っていると明白なときは、あっさりと、というか、男らしく、いさぎよく、ということになるのだろう、俺が悪かった、と経済的不利益など考慮せず、ためらうことなく認めるからである(そういう事故現場にも立ち会った)。だから保険屋とおした言い合い交渉や裁判になど、ならない。

 

あおり運転をはじめた者は、人格破綻したようなおかしな者もいるだろうが、そのきっかけは、相手が先にやった、と認識しているはずだ。で道義的に、やり返す。そんな目にあった場合、たいがいの普通の人は、ドアも空けず、ロックしたまま車から降りない。スマホで証拠動画をとったりしている。「おまえが先に挑発したんだろう!」「してねえよ。先に手をだしたのはおまえだろうが!」と、窓やドア越しに喧嘩などはじめない。

 

今戦争の当初、普通の日本人の多くが、そうしたドア越しの戦いの続行をよしと認めていたわけだ。

 

私も、自身の思考、思想過程においては、その戦争、他者の排除ではなくそれとの交通を認める。他者を遠ざけた安全など、虚偽でしかない。しかしそれは、低次元ではなく、高次元においての反復を志向したものでなくてはならない。

 

ウクライナ人側の降伏を説いていた橋本徹は、いまは元総理の安倍といっしょに核共有の議論をしているとか。この橋本の思考過程は、相変わらず、ということなのだろう。このブログでも、私が少年サッカーの指導をしていたころの、橋本の慰安婦発言をめぐるものを紹介した。喧嘩をはじめた子供に注意すると、ほぼ必ず言い返してくるわけだ、「俺が先にやったんじゃねえ。なのに、なんで、俺だけ注意するんだ?」そこで、当時の大阪市長の意見をだして子供たちに考えさせる。「戦争になればどこの国でも人を殺す(「慰安婦」をつくる)。日本人だけではない。なのに、なんで日本人だけが責められるんだ? おかしいだろう? と大阪市長は言ったんだけど、君たちも、そう思うかい?」そうだ、おかしい、と喧嘩をしていた子供たちは考えたすえに、答えた。「じゃあさあ、○○くんのお父さんは、ドライバーだよね。事故が起きないよう、本当に注意して運転していても、交通事故をおこす場合もあるよね。その事故と、はじめから交通法規のことを気にかけないで、運転していて事故るのは当たり前、と暴走している暴走族の事故とは、同じかい?」子供たちは、考えはじめて、答えない。のでつづけて言う。「戦争になれば人を殺すのは当たり前だ、そうはじめから高をくくっているような考えは、この暴走族の人と同じなんではないの。戦争をおこさないように、真剣に話あって、それでも、戦争が起きて人を殺してしまう場合もあるかもしれない。が、はじめから戦争で人を殺すのは当然、と前提しているような人と、いったいどんな真剣な話し合いができるというんだい? だから、ロシアの政治家は、その大阪市長の発言を知って、ロシアでの対談の招待を取り消したそうだよ。」

 

戦争の当然さを前提に、降伏推奨から核所持の議論へとゆく。橋本がどんな立場で議論しているか私は知らないが、およそ真剣味のあるものではないだろう。そもそも、ありえない話で盛り上げているわけだから、自分たちのステイタス保持にしか貢献しない議論だろう。

 

最初の素朴な疑問はいい。アメリカの大統領のロシア大統領への「悪魔」だの「犯罪者」だのという罵りに疑問を呈するのは当然だ。が、なんで、そういう疑問から、結局は現状を追認し過激に進めていくような思考過程にはいるのか? 思考の前提に真剣味がないとは、他者がいない、観念論になっている、ということだ。

 

私のフェイスブックでの、日本人の無差別爆撃や被爆の体験からくるウクライナ側の降伏を願う文章が(「降伏」というより、戦争ではなく、ロシア側からくる協議の要請の承認、それは力の差が歴然なのだから、交渉過程での屈服的妥結にならざるをえない)、加藤典洋の思考に近づいている、という指摘があった。私は加藤の主張を知らず、ちゃんと読めたときがないので、今回、講談社文芸文庫の『戦後的思考』というのをみてみた。ですぐに、なんで私が彼の文章を体質的に受け入れ難いのか、思い出した。

 

私は後書き解説の、東浩紀の解読を受け入れてもいい。が、それが加藤に当てはまるのか、疑わしい。東は、加藤が「語り口」に固執していることを注視し、「論理」の言葉では解決できないところからくる「文学」の必要性の根源を考察しているのだ、という。おそらくその「語り口」とは、加藤の敢えて試みた「軽薄な」「わたしたち」の文体のことなのだろうが、そこに、ほんとうに、「わたしたち」が内包されているのだろうか、という疑問だ。私が加藤の文体(文学)から感じとるのは、むしろ他者の軽蔑、イロニーである。そのあり様は、加藤の評価する村上春樹の文章と似ている。このブログ聴け出だし指摘し、そこでも加藤に否定的に言及している。柄谷は、その論理的ないい加減さをうまく言いくるめる技巧に、「日本浪漫派」を読んだわけだが、私には、加藤にも同様な文体を感じてしまう。というか、「日本」や「浪漫」が、ほんとうにあるのかさえ、うたがわしい。パトリシズムがそのまま普遍に通じていく回路を加藤は指摘しているが、加藤に、そのパトリシズムがあるのか? (高橋源一郎の憲法論議についてのブログでも、同じ感想を繰り返している。) 大西巨人は、加藤の『敗戦後論』を「下品」と評価したそうだが、私も、日本語感的に、そう感じるのである。つまり東の言う文学的実践が、ほんとうになされているのか?

 

私小説文学としての私がやっていることは、柄谷理論で言い換えれば、交換Aの領域を身近な素材で追求していることになるだろう。あおり運転を安全な場所からスマホ撮影しているという者としてではなく、むしろあおっている側にいる人間として。しかし、未開な部分、野蛮な領域こそが、反復されるべき交換Dだ、という話になっている。NAM以降の柄谷の思想が、贈与だの9条だの三島評価だのと、加藤と重なってきているとしても、それは「世界史の構造」(交換論)へと至る交通の、相対的な他者との関係の絶対性をめぐる思考過程での部分領域での一致ということにすぎない。

 

低次元が高次元で反復される……自分の体を使って実験し、考えてみることなのが、私の作業である。

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