2019年11月17日日曜日

ドキュメンタリー映画『ドリーミング 村上春樹』を観てから

このドキュメンタリー映画は、村上春樹氏の作中にある次のような認識を、真に受けることから開始されている。

<完璧な文章などというものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。>

上をこう言い換えてみたらどうだろう?

<完璧な文章は存在する。完璧な絶望が存在するようにね。>

私には、どちらも、何も言い得ていないので、その文学的、詩的効果、言葉のコノテーションは同様に発揮されるように感じられる。意味があるようでないようで、ゆえに、どこか“深い”感じがでてくるような。
原作のデビュー作『風の歌を聴け』では、この認識に、さらに言い訳みたいな弁明がつづくので、さらに意味不明なような意味深長な効果がでている。映画中のデンマークの翻訳者は、この言葉の真意を理解しようとするというより、どう訳すかに悩んでいるのではあるが、私としては、他の人が、いったいこの箴言をどう理解しているのかと気になり、ネットで少し参照してみた。論理的に理解しようと努めている人もおられたが、「完璧な文章」の定義が結論になってしまう循環論理になっていたりする。そこを、「名文」という、慣習的には共同了解があると前提してもいい文章に置き換えて定義していけば論理が成立するかもしれないが、村上氏自身の文章からそこを忖度するには無理があるだろう。ゆえにというか、当然なように、それを、真に受けようとする真面目な人、真剣な人はとまどうことになる。
ある医者は、次のようなツイッターがあったという反応を紹介している。

<インフルエンザを心配する患者を前にして、実のところあなたは、インフルエンザかもしれないが、そうではないかもしれない、としか言えない、とかなんとか言った医者。あなたは村上春樹?>(「診察室の像

この曖昧な村上態度に啓発されてつづられるこのweb文章にはユーモアがある。常識的には、そういう認識しか持ちえないならば、ユーモアで対処していくのは健全なことだ。が、村上自身の文章を読むと、すごく真面目腐っている。これはおかしい。ゆえに、私には、ひとをたぶらかせているとしか思えないのである。

さらにでは、上の認識を、割腹自殺した三島由紀夫にぶつけてみよう。「完璧な文章なんて存在しないさ。完璧な絶望が存在しないようにね。」、と。……たしかに、自殺者の絶望は、「完璧」ではないのかもしれない。さらに言って、「死にいたる病」(キルケゴール)とは、神への信仰が「完璧」ではないことからくる不可避な事態なのかもしれない。が、それを自死していく者の前でいうことは、ユーモアどころか、単なる侮辱にしかならないだろう。

私は別段、村上氏のような作品が文学として存在していることを非難しているのではない。どんな作品でも、あって然りではあるだろう。そうではなく、それが真面目な作品として受容されているらしいことを訝っており、真実をみようとする人の能力が劣ってきているのか、真実などもうみたくなくなってきているのか、には、何か時代的な作用があるのだろうかと、考えてみたくなるのである。私にとって、村上氏の作品は、メルヘン、大人の童話みたいなもので、とてもカフカのアレゴリーと同列にあつかえる次元にはいない作家なのだ。実際、このドキュメンタリー映画は、人物大のカエルがCGで現実の中に合成されるよう制作されている。ドキュメントというよりは、幻想的な風合いであり、それが、私にも受け取れられる村上文学的な「ありよう」である。

<月並みな意見かもしれないが、僕らの暮らしている世界のありようは往々にして、見方ひとつでがらりと転換してしまう。光線の受け方ひとつで陰が陽になり、陽が陰となる。正が負となり、負が正となる。そういう作用が世界の成り立ちのひとつの本質なのか、あるいはただの視覚的錯覚なのか、その判断は僕の手に余る。しかしいずれにせよ、そういう意味合いにおいては、F*はまさに光線のトリックスターだったと言えよう。>(村上春樹著「謝肉祭(Carnaval)」『文学界』2019.12月号)

最近の作品でも、上のような文章は、以上で指摘したものの延長にあるようなものだろう。認識があるというより、語りがあり、なんらかの効果がある。よく読めば、深く考えることは避けるよう弁解されている。が、その語り口と認識めいたものに「深刻」めいたコノテーションが付着するので、読者はまともに受ければ、論理態度としてはダブルバインドになるはずだが、ストーリーテリングの技術として、そこにとどまることは求められていない。が、私は読んでいるうちに胃がむずかゆくなり、とてもついていけない。人からすすめられて長編小説を読んではみるが、いつも上巻でダウンしてしまう。

私が感得する、この村上氏の日本語文章の身体性は、もしかして、翻訳では失われるのかもしれない、とこの映画を見て思い当たり、ならば英文で読んでみようかと思い立ち、どうせ英語で読むのなら、もっと思考を抽象モデル的にしぼって考察をしやすくしてくれそうな、多和田葉子氏の作品がいいだろうと、本屋に立ち寄った。全米図書賞の翻訳部門を受賞したという『献灯使』の英訳本はあっても、文庫で出ているはずの日本語がどこでも在庫切れでない。そういえば、と、多和田氏がノーベル賞候補にあがっている、というようなニュースをどこかでみたような気がして、ために売り切れになっているのだと気づく。しょうがないので、加藤典洋氏の『村上春樹の短編を英語で読む』という文庫本が目についたのでそれを買ってしまった。家で目を通してみると、英文が全然ない、逐語的に、一文一文を対照させて読解してくれるのかとおもったが、いわば社会学的時評みたいな感じだ。しかも、上と下の二巻本だったそうで、その下の方だけを買ってきてしまったのだった。次の週、中野区の方の本屋にいったら、多和田氏の『献灯使』は山積みされていた。増刷されたのか? 多和田氏の作品をまともに読んでみること自体が、多和田氏の『群像』新人賞の作品「かかとを失くして」を文芸誌上で読んで以来になる。まさに、上で述べてきた文脈上で、考えさせられた。最近再読しはじめた、江藤淳氏の論考を切り口に、この日本語(文体)を検討してみる価値はありそうだ。少しづつ、やっていこう、と思う。

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