共感疲労、という言葉が社会心理学にはあるそうだ。長引く戦争の惨状映像を見聞きするにつれ、出始めてきた症状であるそうな。3.11の津波映像以来、とにかく涙もろくなってしまっている日本人は多いだろう。
が、それも、テレビや新聞などの古典的なマスメディアからの影響が強い高齢の者たちでの間の現象であろう。TikTokだかなんだか、YouTubeにも入ってくるショート動画には、おそらくウクライナの兵士が、ヘルメットにカメラなどをつけて闘いに参加しているのだろう、その戦闘中の画像がピックアップ編集されて大量に流されているようだ。ホースで水をまくように、弾幕の蛇が戦闘機を追いかけていく。撃墜された火炎の中から、パラシュートが降下してくる。「いいね!」との高評価が、何十万、何百万と貼り付けられる。
世の中が、気違いになっているとしか思えない。
戦争のポンチ絵にブロックチェーン技術でオリジナル保証をつけてクラウドファンディングにするとか…。
戦争という関係の絶対性が、人を残虐非道にするのであって、それは、身体の限度を超えて主体を破壊してしまう。だから、戦争に反対するのであって、私は人を殺しません、などという意識や意志では統制できない確率状況を発生させないために、反戦を人は訴えるのだ。聖戦なり正義の戦争などというものはない。二次大戦の日本では、当初の中国との戦いには疚しさを感じて乗り気がしなかった文学者たちが、アメリカを主敵とした戦争に移行すると、解放されたように戦争肯定派に転じていったさまが、柄谷や浅田などの『批評空間』誌上で検討されていたわけだ。最近では、山城むつみが、ドストエフスキーと小林秀雄を素材にしながらそのテーマを追跡し、その論考を、このブログでもとりあげたりした(ダンス&パンセ: 三つの著作から―――<山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社)、柄谷行人『帝国の構造』(青土社)、すが秀実『天皇制の隠語』(航思社)>
(danpance.blogspot.com))。
いや当時の日本が侵略者なのは明白なのだから、そこに乗っかったインテリの間違いは明白で、しかし今の私たち日本人は、明白な侵略者ロシアに対するウクライナおよび欧米西側諸国、つまりは国際社会の側についているのだから、正義の戦争を支持していることにしかならないのだから、昔と一緒にするな――という話、論理にはなれないのだ。
「なれない」、というのは、それが論理、理屈の話ではないからだ。一度ならず二度も世界大戦をやってしまったという歴史の、成り行きの中にいるということである。ロシア軍から解放された瓦礫のなかで、おばあさんが空に両腕を広げて嘆いていた、「私はただ生きたいだけなのに、なんで、こんなにも残酷な目にあわなくてはならないの!」朝日歌壇への新聞投稿をみていても、当時子供であったろう高齢者の人々の、ウクライナと戦時中の日本とを同様にみなす短歌が多い。つまり、違いはもうないんだよ。侵略者だろうが被侵略者だろうが。戦争が、主語なのだ。ロシアでは、反戦デモがある。ウクライナでは、ない。それは、ウクライナの民衆が外にでてそんなことをやっていたら狙撃・爆撃されてしまうからだけでなく、言えるような状況にないからだ。その状況とは、言論弾圧やその空気などといった民主主義云々の論理からではなく、戦争という関係の絶対性が、人に沈黙を強いてくるからだ。言葉を絶していく関係に、人々は強制収容される。
すでにテレビでも、経済封鎖からくる物価高騰のため、ペルーやスリランカで大衆デモが起きていることが報道されている。戦争が長引けば、それは西側ヨーロッパでより過激に発生してくるだろう。戦争に「いいね!」などと余裕な正義の立場を維持しうる裕福層はどんどん先細りになるだろうから、国際社会なる世論はどう反転するかもわからない。
ウクライナ側に降伏をすすめる言説は、ロシアがなしてきた残虐な歴史を知らないからだ、という向きも強い。チェチェンでは、人知れず何十万という住民が虐殺されている。なるほど、そのロシア固有の非道さなるものを認めてもいいだろう。が、それは、過去としての歴史からの法則にすぎない。それに従えば、また過去の法則を強化していくだけである。が、私たちは、二度の世界大戦をし、私たちを内省し、再帰化させていく新たな私たちを、未来に投げかけることができるのだ。
『進撃の巨人』の、ハンジの言葉だ。
戦争に反対する理由は、善悪判断ではなく、好き嫌いという趣味判断の、美学の範疇に移行したのだと説いたのは、フロイトとアインシュタインの対話だった(BCCKS / ブックス - 『パパ、せんそうって、わかる?』菅原 正樹著)。
戦争を「いいね!」の趣味の問題に変えている膨大な動画も、そのうち食傷気味になっていくだろう。
この正義の戦争も、長引けば長引くほど、国際法では人権の考慮外になってしまう、市民の武装化を強要したその実態が、タリバンやアルカイダを育てた欧米西側諸国の、ウクライナをアフガニスタンのように中立化させるその意味が、露呈してもくるだろう。世界の穀倉地帯でそんなことをすることがどうなるかも、部外にいる世界の人々も、身近な生活問題として実感されてくるのだろう。
三次大戦を予期させるこの戦争が始まるまえは、量子論読書の延長で、土や微生物、内臓と微生物、性染色体遺伝子、などへの好奇心からくる読書をしていたのだが、受験世界史に毛が生えた程度の知識しかないだろうから、少しは戦争の実態も知る必要あるだろうと、付け足し読書が増える始末。トッドの『思考地図』であげられた参考文献なども。で、ウクライナで、ドイツ(EU)とロシアの思惑の衝突が起きるとだいぶ以前から予測していたそのトッドの、日本核武装論が、今月の『文藝春秋』で、安倍晋三の文章とともに、掲載されているらしい。そうくるな、利用されてくるな、とは以前のブログでも言及していたように、予想はしていたが、この状況でかい、と幾分の危機意識をもつ。日本の右派の主張は、考えてみる気も起きないが、マルクス主義者のトッドの文脈においては、日本核武装論の理屈を検討してみなくてはならない、と、すでに他の著作での言葉から、やってはいた。今日、女房とロシア映画をみに出かける予定があるから、そのついでに「文藝春秋」を買って、その主題にしぼった論考から再検討してみることになるのだろう。
しかし、バクダンでも核実験でも、どんだけの微生物やウィルスが亡くなり、ネットワークが寸断されるのだろうな、と考えてしまう。
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