2022年4月15日金曜日

戦争続報(2)

 


『文藝春秋』5月号の、歴史人口学者と紹介されるエマニュエル・トッドの「日本核武装のすすめ」をめぐり、その是非を彼の理論的作業を参照しながら考察してみると、前回ブログで述べたが、そのまえに、同紙に掲載されている元総理・安倍晋三の「「核共有」の議論から逃げるな」、を抑えておく必要があると感じた。話している内容というより、話しの前提となる枠組みがにじみ出てくる文体の様、が、理論を実地に応用していく段に考慮されなくてはならない現状(理論と応用のズレ)の度合いが、はからずも露呈しているのではないか、と思えるからだ。

 

元日本総理が言っていることの抜粋が、以下である。

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「核の脅威に対し、世界ではどのように国家の安全が守られているのか。現実を冷静に分析し、様々な選択肢を視野に議論すべき段階なのではないでしょうか。/核シェアリング(核共有)も含め、様々な選択肢を議論すべき時に来ています。」

 「まず日本の場合、自国が核攻撃を受けた場合、報復するかどうかの判断はアメリカに委ねられており、日米間で協議するプロセスは想定されていない。」「だからこそ、日本は核をめぐる意思決定に、深く関与すべきです。アメリカと協議の場を持とうとすることは、同盟国としての絆の強さを周辺国に見せつけることにもなる。」

 「非核三原則の変更は国内外の大きな反発も予想され、無理があります。私も首相在任中、堅持すべきとの立場をとってきました。そこで、まず核についての認識を深め、国民を巻き込んだ議論をおこなっていくことが重要です。それだけでも大きな一歩となるはずです。」

 「議論が抑止力として機能することをもっと認識すべきです。」

 「国家の独立、そして国民の命を守ることは政治家の使命です。どうすれば世界の脅威から日本を守れるのか――核抑止の問題を含め、今後も議論を促していきたいと思います。」

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政治家とは、すでにして実践をしなくてはならない職業の人たちのことであろう。

 

が、上の思考枠は、××という認識をもつ議論をすることが抑止にもなるという認識にもなるのだと議論すべき時にきているとまず認識すべきである、ということであろう。私はこうしたい、とか、すべき、とかではなく、あくまで、議論以前の、認識を説いているのである。

 

唖然とした。たぶん、本人は何も実は言っていることにならないので、まわりの人が、その空虚さを埋めるべく行動しやすくなる、という感じで、安倍人脈なるものが形成されるのだろうな、と思った。彼自身は、空虚な器。ここでは、核と書かれた器がだされていて、そこに、その言葉に感応する者たちが蝟集してくる、という仕掛け。

 

が、そんな内輪の話だけではすまない。なんで、一国の総理ともなった政治家が、こんなまわりくどい認識論に終始することになるのか? おそらく、文中でも示唆されているように、日本の政治家なり自衛隊の幹部なりには、その議論が許されていない、からだ。自国を自分で守る作戦計画やシミュレーションを試しにおこなってみることすら、たぶん、許可されていないのだ。もちろん、アメリカに、である。

 

だから、元総理は、国民に暗示的に、訴えているわけだ。私たち政治家には、できません。けれど、国民的議論として世論ができてくれば、アメリカも、私たち日本人自身が作戦をたてること、シミュレーションしてみることを許してくれるかもしれない、と。あるいは、アメリカが建てる計画に日本の政治家や自衛隊参謀も主体的な協議者として参加しえる立場が持てるかもしれず、日本自身が試みてみる計画の相談に応じてくれるようになるかもしれません、と。つまり、政治家は現状無能なので、国民よなんとかしてくれ、ということだろう。

 

最近のビデオニュースコムでも、国連で武装解除の仕事についていた経歴をもつ伊勢崎賢治氏が、日米同盟なるものの内実について指摘((104) 伊勢崎賢治×神保哲生:NATOの「自分探し」とロシアのウクライナ軍事侵攻の関係 - YouTube)していたが、それを、安倍元総理の話は、上書きしている、ということになるだろう。

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