2012年1月8日日曜日

仮説物語と世俗の夢

「民主主義は熟議を前提とする。しかし日本人は熟議が下手だと言われる。AとBの異なる意見を対立させ討議のはてに第三のCの立場に集約する、弁証法的な合意形成が苦手だと言われる。だから日本では二大政党制もなにもかもが機能しない、民度が低い国だと言われる。けれども、かわりに日本人は「空気を読む」ことに長けている。そして情報技術の扱いにも長けている。それならば、わたしたちはもはや、自分たちに向かない熟議の理想を追い求めるのをやめて、むしろ「空気」を技術的に可視化し、合意形成の基礎に据えるような新しい民主主義を構想したほうがいいのではないか。そして、もしその構想への道すじがルソーによって二世紀半前に引かれていたのだとしたら、そのとき日本は、民主主義が定着しない未熟な国どころか、逆に、民主主義の理念の起源に戻り、あらためてその新しい実装を開発した先駆的な国家として世界から尊敬され注目されることになるのではないか。」(東浩紀著『一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル』 講談社

震災前に書かれた文章集の著書に付けられた帯でも上のように引用された東氏は、さらにまえがきで次のようにも述べている。――<もしもいま(*引用者註;震災後のこと)、存分に手を加えるとすれば、筆者はおそらくは、本書を日本論に変えてしまうことだろう。一般意志2.0の実現が、単にルソーのテクストから導けるというだけでなく、また単にこの国の風土に合致しているというだけでもなく、日本がこれから新しい国に生まれ変わるためにこそ必要とされるのだと、そのように軸足を変えてしまうことだろう。」……先のブログでも引用を集めた水野和夫氏もその『終わりなき危機――』で、「日本」こそが「最も恵まれたポジションにいる」と前置きしている。私はこのどこかロマン派的な前提に懐疑と留保を覚えるけれども、明確にしえる文脈が仮説されえるかぎり、その方向で想像力を行き着くところまで押し広げたほうがいいと考えるので、二人の試みについてゆくことは面白かった。また東氏の立場とは、前々回のブログ宇野常寛氏の『リトル・ピープルの時代』の認識前提に重ねていったのと同様、私はおそらく超越的な視点を仮説しているということになるだろうので、東氏とも根底的なところで異議をもつ。が、そこをカッコにいれてみると、また東氏自身がそうした立場への批判を抑えているとおもわれるが、氏の唯物論的な理論、というよりは(むしろそうではなく、というべく)、具体化へと向けられた方策を、とても面白く拝読した。この面白さからみれば、最後に<超越>者的な選民に期待を寄せる、私の立場に近いだろう水野氏の「大きな物語」よりも、東氏の世俗的な知恵のほうが、好ましく感じられるのである。というか、私が認識的には超越者的なモノを理念的に仮構することになるとしても、実践的には、大衆と心中するほうがましだろう、と考えるからだ。それはなにも東氏が著作の最後のほうでローティの「アイロニー」をだしているような高尚な思想性によるのではなく、たとえば、もし雪山でまだ七歳の息子と二人で遭難し、前に進むことをぐずる息子を置いて体力ある私一人で下山すれば助かると認識しえるとき、果たしてその超越(大人)的な認識に従って行動することがいいのか、自分にできるだろうか、と考えてみた場合の結論のようなものである。おそらく私は、たとえ二人で行き倒れても、死ぬまでなんとか二人で打開できる方策をさぐっていくだろう。というか、実際には、それこそが理念的、より大きな我慢を強いるものであることは、幼い子供ふたりで街中を歩いてみればわかるだろう。幾度ぐずって立ち止まり、寄り道を好む子どもを置いて先に行ってしまうことだろう!

水野氏の「海から陸へ」という歴史転換という経済史的に大きな物語は、最近でもNHKで「シルクロードの復活」というような特集番組や、副島隆彦氏のような政治学者も説いていたことである。ただ水野氏の重点は、そこで資本主義が行き詰まってしまうのでゆえに今からなんとかしなければ、という話である。一方東氏は、そうした時間軸的な転換を前提とするより、停滞した時間としての空間的常態を認識の枠組みとして捉えることから始めているようだ。この二人の話の前提をまえに、震災・原発事故を見てきた私としては、おもわず次のような想像してもしょうがない想定外的な事態を仮想してしまう。温暖化で南極の氷が解けて新大陸が出現し、ゴールドラッシュ的な移民的新しい歴史がはじまってしまったとしたらどうなるであろう? しかも、あらわになった南極大陸から人類の文明遺跡までもが発掘され、アフリカのサルからヒトへが北へ向っただけでなく海を越えて南へも直接向かっていたことがわかってくるような、人類史を塗り替えるようなことが起きたらどうだろう? インターネット世界は、電気を前提する。その配線や人工衛星を。それが世界のあちこちで寸断・破断・墜落するような災害が発生したらどうだろう? 大事な政治的な決め事まで発電していないと決められないインフラ社会に住むようなことになったら、たしかにクリックしていれば政治参加していることになるのだから、これほど楽なことはないけれど、この怠け癖が危機時の対応を遅らせてしまうのではないか?

というか、東氏の知恵に意義があるのは、それが「夢」だからであろう。「みんなの意見は案外ただしい」という統計的正しさが保証されるのは、そうした数学的な現実が本当の現実として実現されるのは、柄谷氏が新聞書評でも述べていたように、参加者各々が自由な条件にいるときであるという、実現不可能な社会の理想の下においてなのだ。東氏のデータベース(各人の履歴蓄積)としての一般意志2.0が、フロイトが理念(超越)的に仮説した「無意識」と重なるとするのは、正確ではない。形式的に同型な階層としてあるとされるだけであって、データベースと世界(国民)大衆の無意識がぴたりと重なり合うという保証はどこにもないのである。それは、そうしたテクノロジーを信仰する者たちのあいだにだけ存在するだけである。信じられない者たちの間では、そのデータベース自体が疑わしい、依拠することもできない<似非無意識>と想定されてしまうであろう。しかし、フロイトの無意識と同型的であるだけに、それは「否定」できない形として、やっかいな下手物としてわれわれの前にたちふさがってくるとされるのが理論的な実状である、と私は理解する。つまり、東氏の設計する一般意志2.0という無意識は、抑圧された夢、というよりは、理想化された夢である。つまり、精神分析的というより、世俗でいう夢の語意に近いだろう。しかしだからこそ、この震災後において、われわれ読者をして鬱屈させるよりか、どこか楽観的な解放感をもって読める、苦々しい日常を一時でも忘れさせてくれる爽快さ、突き詰めた想像を味あわせてくれるのだ。これは東氏の意図したことではないかもしれないけれど。

しかし私は、やはりこの世俗的な夢のほうが、たとえば、昨年柄谷氏が文芸誌で連載していた「哲学の起源」と題した「大きな物語」よりも、より思考を刺激するのでないかと考える。教養のない私ゆえに、そのギリシア以前の哲学的前提状況を、比喩として現在と重ね合わせる読みしかできないとしても、つまりその真偽(仮説)は検討しようもないが、その構えは、デモにもいかない大衆への脅迫的なエリート意識、悪意に裏付けられている、と感ずる。とくにNAM実践での挫折経験のあとでは、『世界史の構造』の文明史論的枠組み、そしてその派生たるようなギリシア文明論的な「大きな物語」は、眉唾物的な発想として警戒感が強くなる。参考には十分するが、発想自体がいいのか、前作まではともかく、ひきつづく作品と、そして水野氏にも現れた「大きな物語」、大きな流れでのレトリックを、罠にははまるまいとする思いで私は受け入れる。この警戒は、身体的にいかんともしがたいトラウマになっているのかもしれない。しかし逆に、その物語を本当なものとして受け入れるのであれば、「金融空間」にいる現在の流れは変えられないまでも、数十年後の資本主義的行き詰まりを焦点として捉えて、どうそこへ向けて現生活を組織していけばいいだろうか、という実践思考になるのだろうか。つまり私たちが必要としている実践とは、仮説的な時間軸から暫定的な目的地点へむけて、現在をどう待機的に編成していったらよいのか、ということになるだろう。一方、東氏の「一般意志」という現常態から発する実践とは、すでに今から発想され設計されうるもので、その実現(実装)の持続をアップデートとして更新していけたらいい、ということになるだろう。

唯物論的な理論、か、世俗的な知恵、か。いやこの二つの態度は、両立可能なのか? それとも、全く不要なものなのか? 少なくとも、この二つの相対した態度が、われわれが望むと望まずとも、震災事故後には、後戻りできない地点から考えられていることだけは確かだと、私は認識する。

現状を考えるための引用

「明確な定義を明かさないグローバリズムの背後に潜んでいる思想をあぶりだしてこそ、現在起きている様々な現象を統一的に理解することが可能となるばかりか、数十年後の世界を予想することができるのである。/数十年後には、理念として無限である「カフカの帝国」が閉じてしまうのである。先進国の中で先頭を走っている日本は、実は「カフカの帝国」以後に備える上で最も恵まれたポジションにいることを自覚することが重要である。/三・一一以後をこのような視点で考えなければならない。被災地・東北の問題は日本全体の問題であり、先進国の問題なのである。残念ながら、今の日本が直面しているのは、「がんばれ日本」で乗り越えられるような生易しい危機ではないのである。」(水野和夫著『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』 日本経済新聞社)

「このように、金利の歴史において前例のないほどに「革命」的な超低金利が実現したのは、その背後に「革命」的に変わろうとしている歴史の断絶があったからである。すなわち、十六~十七世紀の「利子率革命」は、中世と近世を画し、それは同時に「陸の時代」から「海の時代」への転換を示唆していたのである。…(略)…近代資本主義にとって、交易条件の数世紀にわたる持続的な改善と海外市場の拡大こそが、資本蓄積の必要十分条件である。だから、ニ〇世紀初頭に「海の国」となってアジアに進出した米国が、一九七五のベトナム戦争で事実上敗北したことで、利潤極大化原理は「電子・金融空間」で実行されるようになった。/一方、二度にわたる石油危機は、交易条件の趨勢的悪化をもたらした。それを少しでも緩和しようと、先進国は原子力発電への依存度を高めていった。それがニ〇~ニ一世紀の「利子率革命」となって表れている。…(略)…グローバリズム、「海に対する陸のたたかい」、そして「人件費の変動費化は、いずれも同じ根っこを有している。すなわち、これら三つは、ニ一世紀の「利子率革命」をいかに克服するかを共通課題として生じたのであり、これら三つは「利子率」、すなわち資本の利潤率を再び引き上げようとする反「利子率革命」として捉えることができる。…(略)…米「金融帝国」が「帝国」たる所以は、米消費者だけに依存するわけではなく、「帝国」の定義通り、外国に対しても影響力を行使する点にある。米「金融帝国」の狙いは、グローバル化することで世界の金融資本市場で新しいマネーを創出し、そのうえで新興国・途上国の六〇億人の近代化を促すことで、反「利子率革命」(=「空間革命」)を引き起こすことである。…(略)…マネタリスト的世界が成立するのは、「空間」が閉じられているときである。新しい「空間」ができると、一六~一七世紀や二〇~ニ一世紀の現在のように、旧い空間では金利が低下し、新しい「空間」では物価が高騰(新価格体系への移行)するのである。旧い「空間」で旧来のインフレを起こそうとしても無理である。」…(略)…「「価格革命」が収束するときが概ね、新しい「空間」と旧い「空間」が一体化するときである。」

「長いニ一世紀」の「空間革命」がいつまで続くかという問いに答えることは、日本のデフレがいつまで続くのか、そして資源価格高騰に代表される新興国の物価がいつまで上昇するのか、という問いに答えることと等しい。…(略)…長い一六世紀に起きた「価格革命」は、ヨーロッパ大陸が一つの価格体系に収斂していくプロセスであった。「価格革命」が収束に向った一六五〇年後には、次の二つのことが起きていた。一つは、ヨーロッパの先進地域と後進地域の内外価格差がニ対一になったことであり、もう一つは、新興国・英国が先進国・イタリアに一人当たり実質GDPで追いついたことである。…(略)…ニ一世紀の「価格革命」がいつ収斂するかを知るために、一六五〇年前後に起きた二つの現象を二一世紀に適用すると、次のようになる。まず、日本の一人当たり実質GDP(九〇年国際ドル基準)に中国のそれがいつ追いつくかを試算すると、およそニ〇年後ということになる。…(略)…次に、一六五〇年に内外価格差がニ対一とは、第一グループである先進地域・地中海と第三グループの東欧の間の物価格差のことである。そこで二一世紀においては、第一グループ(物価水準が最も高い)ドイツと、インドを比較するのが適当である。/九〇年国際ドルで測ったドイツとインドの内外価格差は、ニ〇〇八年時点で三・四対一である。今度、IMFの見通しに従って、ドイツの物価上昇率〇・五%、インドを同四・〇%とすると、インドの物価水準がドイツの半分に達するのはニ〇ニ四年である。/新興国の生活水準が先進国と肩を並べるのはニ〇年後であり、先進国と途上国の内外価格差がニ対一に縮まるのは一三年後である。アフリカのグローバリゼーションを考慮すると、「価格革命」が収束するのは三〇年から四〇年後となるであろう。/二一世紀の「空間革命」の始点を「利子率革命」が始まった一九七四年とすると、すでに三七年が経過した。ニ〇一一年現在、ようやくニ一世紀の「空間革命」は中間地点に到達したといえる。」

「「バブルの大きな物語」は、「成長とインフレ」のメカニズムが崩壊したからこそ登場したのであり、それまでのバブルとは性格を異にする。これまで幾度となく発生したバブルは「地理的・物的空間」(実物投資空間)の中で起きたのであるが、「利子率革命」下で生ずるのは、「電子・金融空間」における「バブルなくして利潤なし」なのである。一九七〇年代半ば以降、バブルと実物経済活動の関係において、主客が転倒したのである。/「バブルなくして利潤なし」の資本主義経済は、社会生活を崩壊させることになる。バブルが繰り返し生ずるのは、「大きなバブルの物語」が支配している中で、中間層にバブルに依存してでも「成長」を望む潜在意識があるからであり、その結果、国の借金が増えるだけであれば、現在の社会・経済システムを支えようとするインセンティブは働かなくなるからである。…(略)…「「バブルの大きな物語」は、「海と陸のたたかい」と同時並行で進行する。正確にいえば、「バブルの大きな物語」のもとで進んだ市場化と金融化は、「海の国」がそのたたかいを有利に進めるための手段であった。「陸の国」が地球上の多くの資源を保有する。米国は一九七〇年代の資源ナショナリズムで失った原油の価格決定権を取り戻すために、WTI先物市場をニューヨークに創設(八三年)するなどして、無から有のごとくマネーを生み出す「金融帝国」へと変貌していったのである。/しかし、歴史は思惑通りには進まない。事態は「海の国」の思惑を超えて進行する。その象徴が、二〇〇一年の九・一一であり、〇七年から急増したソマリアの海賊であり、〇八年のリーマン・ショックであった。」

「「海と陸のたたかい」は、新興国においてはいわゆるヘーゲルのいう「大きな物語」となって開花した。先進国は本来、「脱近代化の物語」に向うべきところなのに、現実には未だに成長物語を追いかけている。新興国における「大きな物語」にはモデルが存在するから、BRICsに象徴されるように、「輝く未来」が待っていると皆が確信している。一方、先進国における「脱近代化の物語」は未だ姿かたちもみえないし、それを指向しようとする意思もみられない。日本をはじめ先進国は今でも、「成長」によってさまざまな問題を解決できると信じているからである。…(略)…証券化商品バブルとその崩壊は、日本の土地・株式バブル崩壊がそうであったように欧米の財政事情を悪化させ、福島第一原発事故は名目GDPを増やすことを困難にしつつある。原発事故後、被災した東北が失った分だけ前進するから、そのほかの地域は後退する。九州、沖縄を含めて日本全体で自粛が起きるのは、もはや全員が前進するのは不可能であるという人々の直感の表れである。…(略)…東北地方の再興は、日本の未来の姿でもある。それは少なくとも近代社会の延長線上にはない。二一世紀は「脱テクノロジー・脱成長の時代」であるのは確実であり、それは「共存の時代」となるであろう。自然と人間の共存であり、陸と海の共存である。「定常」で成り立つシステムを構築することが必要である。貯蓄と投資がバランスし、ゼロ成長で持続する社会である。」

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以上の主旨を述べて、水野氏は、次のように待望する。――<そのために望まれるのは、シュミットが『政治神学』(一九ニ三年)で述べた「主権者とは、例外状況にかんして決定をくだす者」の登場である。…(略)…シュミットは、『中立化と脱政治化の時代』(一九ニ九年)において、「根源に立ち返って新たな秩序が生れるであろう」と締めくくっている。この解釈に関して、長尾龍一は「危機に逆上した大衆により終末が始まり、最後に『完璧な知』をもつ大哲学者ないし大神学者が登場して秩序を創生するという趣旨か?」と述べている。/大哲学者であり、大神学者が例外状況において決断をするのである。そして、大哲学者や大神学者が決断する前に必要なのは、「成長教」の呪縛から解放されることである。>

この結論の是非と、引用してきた氏の説く経済政治史的な「大きな物語」の検討は、並列して読んだ東浩紀氏の『一般意志2.0』(講談社)と対比させながら、次のブログで言及していこうと考える。

2012年1月5日木曜日

夢を見れない年

「もし私たちが「想像力」を武器に現実を、「壁」を変えていこうと考えたとき――その武器となるのは存在し得ない<外部>に依存する<仮想現実>的想像力ではなく、<内部>を無限に多重化し得る<拡張現実>的想像力ではないだろうか?/「壁」をビッグ・ブラザー的な擬似人格と「彼」の語る大きな物語ではなく、リトル・ピープルの時代における(ゲーム)システムと(キャラクターの)データベースとして捉えなおしたとき、そこには<革命>ではなく<ハッキング>的に世界を変化させ得る想像力を私たちは手にすることができる。そしてその萌芽は、既に貨幣と情報のネットワークの中に豊富に発見することができるのだ。」(宇野常寛著『リトル・ピープルの時代』 幻冬舎)

ここのとこ例年、初夢を書くことからこのブログが始められてきたように思うが、今年は、そんな記憶に残るような夢をみることもなく、正月の朝をむかえた。しかし、一緒に目覚めた一希が、最初は見た夢を覚えていない、といっていたのが、布団の中でじゃれあっているうちに、ふと「あっ、おもいだした」という。話すところによれば、前を赤ちゃんがハイハイしているのだが、なかなかおいつけない。みんなで歩いていて、おいつこうとしてもおいつけないでいるうちに、森に出て、そこにトイレがあるので、おしっこをした、というのである。「そのときオネショしちゃったのかなあ」と。つまり、オシメをしている赤ちゃんを卒業して早くお兄さんになりなさいと「みんな」から重圧を受けている自分が、なんとか赤ちゃんを追い抜こうとしているがそれができずに、森に迷い込んでしまう、あるいは、森という立小便をゆるされるような空間に逃げ込むことで、安心感(トイレ)をみだした、が、その安心が実はおもらししてしまうという現実という不安でもあるので、その葛藤の強さに目が覚めた、ということかもしれない。小学2年生にして、自分を分裂しはじめることができるのかな、と私はおもった。そして私が夢を見れない(思い出せない)のは(それはたぶん、たいした夢でもないので…)、現実の日常生活自体の内に、夢から目覚めさせるような緊張感が挿入されてしまったからだろう。あの震災と原発事故で。仕事納めの年末から仕事はじめの年始までの空白の時間、私は脱力と突然せりあがってくるおぞましさの感覚に陥ってしまう。しかし今年は、そんな年の区切りを味わうにしては、すでにしてゆるめられない緊張と高揚が内心に巣食ってしまったのだ。

<あれから数ヶ月、特に原発事故の長期化がもたらした日本の「分断」による諸影響は計り知れない。そもそも、今回の震災はその被害が広範であったがゆえに、逆に日本社会分断の危機を孕んでいた。つまり、津波に襲われた東北地方東部と茨城県、そして計画停電や水質汚染の恐怖に断続的に襲われ続けている東京周辺、最後に被害が軽微だった北海道及び西日本といった具合に、地方ごとに異なる震災の被害度合いによって人々の生活感覚が分断されてしまう可能性が高かった。そしてそれが、原発事故の長期化によって現実のものとなってしまった。もちろん、震災の影響による企業倒産など、経済的には既にその被害は全国的なものとなりつつある。しかしそれ以上に、生活実感のレベルでの分断のほうが強い力として今の日本社会を支配しているように思える。>(前掲書)

私も冒頭で引用した宇野氏の実感と認識に同感する。ゆえに東京に住んでいる私が、「日常と非日常の混在」という場所にいることにも肯えるが、そこが、あるいはそこからそこを、「分断されつつある社会をつなぐ」ための「想像力」を発揮しうる特権的な場所であるとは考えない。むしろ私はその初夢を覚えさせなかった「日常と非日常の混在」という日常を生きさせられることになった私が、これまで抱えてきた時間こそが、やはり私の考える場所なのだ……正月の休みの内にして、私の中には、様々な時間が同期して蠢いているのがわかってくる。子ども時代の記憶、人生の流れを切断していったようないくつもの記憶群、独身時代の葛藤、現在の家族との時間、気遣ってしまう子どもの将来の時間……それらの時間は、その時々の情念を伴っている。私は、それらを統合することもできずに、そのことがこの際といように自覚させられた自己の無能を、苦虫を噛むようにして、今をにらみながら、自分たちがばらばらにならぬようなんとか統御している……あくまで、私の考える、想像力を発揮させうる場所とは、この自己(事故)状態だ。それら統合できない自分たちを、キャラと呼んでもいいかもしれないが、データベースと化した、つまり、通時的機能をもった自己物語群(歴史)が共時的に並列化したそれを、自由意志的に引き出せるわけではない。ゆえに私には、宇野氏の提言は、どこか呑気に、あるいは、リアルな道筋というより、期待を表明しているもののように思えるのである。おそらく私は、宇野氏からすれば、なお「仮想現実(外部)」を信じている、とされる時代遅れな思考態度、ということになるのだろう。氏の言う「いま、ここ」とは、いわゆる「現在」という曖昧な実感と同義のように思えるが、私が前回ブログで言及した中上氏にみる「今ここ」とは、むしろ出来事性としてしかないものなので、それを思考として持続的に使用するには、理念的に仮想しなくてはならず、実践としては、反復的になるほかはない。しかも、その理念(出来事)は、ありふれた日常的な出来事、常々反復されていることとして想定されるのである。(キルケゴールのイエスのように。)――私のこうした認識的立場は、デリダが精神分析を得意点的な学術としたように、あるいは、ラカンがそうであるよに、あるいは、そこからカントに系譜的にさかのぼってとされるような、一時代の教養的前提であるかもしれない。それ(外部)を信仰するか否か、という二者択一的な厳しさゆえに「転向」が問題ともなるだろう。宇野氏の認識枠には、そうした問題は生じない。ただ私としては、たとえば、認識と実践を同一化させたがる傾向にある柄谷氏のような偏狭さは、まさに実践とが自己統御を超えた外部性とかかわらざるを得ないがゆえに、もっと我慢する、いい加減になっていい、とする立場だということだ。

そうした認識的な前提をカッコにいれれば、私は宇野氏の「リトル・ピープル」の時代認識を首肯しえる。たとえば、子どものサッカーチームのコーチをするにつけても、そこには小さき父たちの闘争(日常)しかない。まだサッカークラブにははいっていないが、運動能力の高い、一希と同じ小学校の子どもたちの話をきくにしても、「〇〇ちゃんはね、センタリングが得意なんだ。いっちゃんが望んでいるところがどこだかわかって、そこにどんぴしゃにあわせてくるんだよ。やっているのは、空手だよ。〇〇ちゃんは、キックボクシングやってる。〇〇ちゃんは、レスリング。〇〇ちゃんは、英語の塾にいっているよ。この4人がいっしょにサッカーやったら強力なんだけどな。」――スポーツといえばみんなが野球をやっていたような時代、星一徹―飛馬親子のような父が子にスパルタ的に強靭な物語(「巨人の星」)を教えてきた時代……それが反面教師にしかならないという反省からある今の自分が、子どもにそれを反復できるわけもなく、またさせられるような環境ではないのである。サッカークラブに入っている子どもでさえ、様々な塾に通っている。そこでは、ボールを追うという動機自体を作っていくことがコーチングとなる。ゆえに、エリート的な専門技術としてサッカーを志向させる親たちがいる子供たちのクラブとは、差がついてしまう。かといって、その差を埋めるべく、サッカーという民主的育ちの若いコーチたちをだしおいて、かつての野球クラブのようなワンマン的な指導法を実践する気にもならず、なおサッカー小僧になりきれない一希にも、無理な自主トレでしごこうとも思えない。いや自身の習性からは、そうやってしまうのだが、すぐにこれではだめだと目前の現実認識がおこり、修正につぐ修正で、かつてのワンマン教育からは後退につぐ後退のような試行錯誤がつづくのだ。そしてこっちがそう後退戦をしているのに、わが女房はこりずに突撃をつづける、甘やかしてはいけない、と。元旦早々、見れない夢の続きのように、九九の暗記ができない子どもを女房は足蹴にしはじめる。いい加減私は耐え切れず、女房を突き飛ばすと、「こんど足蹴にしたら、俺がおまえをぶんなぐる!」と宣言する始末。まったく、「リトル・ピープル」な時代である。

しかし、そんな時代を超えて、革命(=民衆・日常)はやってくるのだと私には思えるのだ。それは宇野氏が期待するような、内側からの変革としてではない。外部からの、戦争的な事態としてやってくる。この日本でも、暴動はありうる。一希は、いつもふざけているようにみえる。クラスの係りも、お笑い係だという。私は、このふざけが、真剣さと裏腹であることを洞察している。(子どもは、すべてをギャクにしてしまえる能力がないだろうか?)。どこか、マラドーナみたいだ。クラブチームに子どもをいれるのは、真剣さを学ぶためだ、というのが親としての私の言い分なのだが、真剣になる時とふざけていい時とのヒエラルキーを決定するのは、その基準とはなんであろうか? ふと私は思い出す、まだ5歳ころの街の祭りで、近所の公園の噴水の中に、真っ裸になって風呂のようにつかった一希をみて、母子家庭のヤクルトおばさんが、「ここまでやらしちゃ駄目なのよ! 親がとめないとだめなのよ!」と叫んでいた場面を。歯止めのきかない世界……それは理念的な日常とは似て非なるものだが、その暴力がリセットさせた世の中に、偏差としての理念が反復されて刻印されている……つまり、意識的には反復しえないが、無意識にそうしてしまうものとして、それは実現される。ならば、意志的には、人は無力なのだろうか? なんとか、できないのか? 私が、震災後のここ数ヶ月、苦虫を噛んだようにどこかイライラしているのは、おそらく、そんな思いにかられているからである。もちろん、私の認識態度が正当であるかはわからない。だから、以上のように、より若い人の著作を暇あるときに読んで、自己の内で議論を闘わせているのだ。その自信のなさ自体が、「リトル・ピープル」であることをあかすとしても。