「絓 …(略)…柳田は基本的に天皇制は祖先崇拝ということで、縮小した敗戦後の「日本」の版図をまとめた。この祖先崇拝というのは、基本的に呪物としてのコメを作る農民をベースにしてるわけです。農民ってのは先祖代々土地に縛り付けられているから、祖先を崇拝するわけだ、と。それで農業で食っている人口は戦後はまだ四~五〇パーセントくらいはいたんですか。敗戦後も、農民人口は明治維新時と変わってない。で、農民ベースに考えれば、祖先崇拝=天皇制は護持できると、柳田は、あるいは戦後日本は、考えたわけでしょう。…(略)」
「絓 ところが、ドゥルーズ/ガタリの戦争機械というのは、本来的にはそれをまったく外部的なものだと想定しているから、「土地」への執着がないということになるわけですね。こうしたドゥルーズ/ガタリ的な考えに由来して、日本でも、一時は(今も?)「ストリート系」と呼ばれる運動がもてはやされました。「だめ連」とか「素人の乱」とかは、その代表的なものだし、いわゆるニューアカ以後の若い学者たちが、いろいろ意味づけしていました。おれは、ストリート系の運動の意義を認めないわけではないけれど、「土地なきパルチザン」というのは、本当に可能なのか、かなり疑問なところがあります。詳述は省くけれども、それはつまり、キャンパスでビラも撒けないことを良しとするSEALDsに帰結してしまったわけでしょう。」(堀内哲編『生前退位ー天皇制廃止ー共和制日本へ』第三書館」)
先週だったか、映画「ひかりのたび」を、雨の中、観に行く。新宿駅まえの通りは、神輿をかつぐ祭りの男女でごったがえしていた。私は、監督の澤田サンダー氏のことは知らないが、副島氏がHPで推奨していたことと、撮影場所が地元の群馬(中之条)だということもあって、観に行く気になった。鑑賞後、モノクロで静かな断片性で終わるこの映画を、どう受け止めていいのかとまどった。副題に、光の夢、とあるのだが、なんでそうなのだかわからない。最後、高3のひとり娘がバイトするレストランが夜の暗闇に消えていくのだが、その背後の森で、懐中電灯か何かの光が踊るように点滅して動き回っているのがうかがえたのだが、それはどこか手旗信号か、モールス信号のようで、注意深い鑑賞者へメッセージを伝えているのか、とも思えた。もしかしたら、「illumination」とは、啓蒙の意味の方なのかもしれない。では、だとしたら、何を?
映画上映の時間にはまだ間があったので、紀伊国屋書店に立ち寄っていた。その際買ってきたのが、上引用の著作である。そして帰宅後読みながら、まさにこの映画の解説になっているのではないかと、思えてきた。とくには、引用した絓氏の発言などにである。
映画のストーリーは、水資源にもなる山を代々受け継いできた元町長をはじめとした地元の人間と、そこへアメリカ人の注文でそれらの土地を買占めに派遣されてきた、不動産ブローカーとの人間模様である。冒頭、自転車に乗った女子高生、ブローカーの娘が、山林を背景に広がる田んぼ脇の坂道を疾走するところからはじまる。その構図からして、この映画の社会背景が、新自由主義的なグロバーリズムと、絓氏が指摘する戦後柳田的な日本の伝統的体制との相克が意識されていることが伝えられている。元町長もしまいには、奥さんの病気や選挙での敗北を受けて借金をおい、土地を手離すことになる。ブローカーは、職務的な忍従と優しさで客を獲得していったようだが、その仕事上の誠実さを評価されながらも、「やっぱり売らないほうがいい」と悔いを残す客の意識において嫌悪されている。元町長も、売り払ったことを町の人々に知られたくない、わからないように引っ越しをしてくれと、苦し紛れのような哀願をし、東京への転属を告げるブローカーを非難する。その一方で、娘は、はじめて一つ所に4年もの間とどまり友達もできたことから、たとえ父親の仕事でつらい目にあわせられることが予期できたとしても(学校で自転車がパンクさせられたりしている)、この地方にとどまって仕事を捜したいことを父親に告げる。東京や海外での進学を進める父と娘は、そんな進路をめぐって対立していたが、バイト先のレストランで、うたた寝をしていた父がコップの水をこぼして店員に平謝りを繰り返す様子をみて、娘はその滑稽さに安心したように微笑みを浮かべ、父に返す。父親も、娘が自分を受け入れ許してくれたような安心感を得たように、ほっとした笑みを返す。この二人の微笑みが、町長をはじめとした地元の人のネガティブな感情、醜さとも受け取れる様子とモノクロ的な対照さを際立たせている、といえようか。
ゆえに、だろうか、評価は、故郷を守る地元の人間倫理よりも、故郷のないと言える親子の、自立していこうとするひたむきな態度に、好印象がでるようだ。たとえば、まさに柳田の『遠野物語・山の人生』をあげて、この作品を評価している学者もいる。おそらく、アーティストの澤田氏も、世間的な勧善懲悪(よそ者を叩く)に疑義を呈したい態度の方が強い傾きがあるだろう。それが、「啓蒙(illumination)」ということであり、作者の公平への願い(dream)なのかもしれない。
が、故郷とは、あるいは「土地」とは、そういうものだろうか?
このブログ「北朝鮮情勢をめぐって」で、私はプーチンの、「北朝鮮は雑草を食ってでも、自分たちが安全だと思えるまで核開発をつづけるだろう」という発言を引用した。暗黙には、本土決戦も辞さない覚悟だろう、ということを含むだろう。私は、ニュースで、勇ましい体制側の意志を暗唱してみせる北朝鮮の民衆のその言葉を、文字通り受け止める気にはならない。植木屋に成り初めのころ、中国は上海からきた青年と一緒に働いていたが、その彼が、毛沢東が死んだときみんな号泣していたけど、あれは嘘泣きだからね、と言っていたのを思い出す。戦時中の日本でも、天皇に対し、似たような面従腹背だったろう。しかしそんな本音と、「雑草を食って」でも命令を遂行していく態度とは両立する。現に、ジャングルでの日本兵だの、そうだったと言えるわけだ。同じように、今の日本人は、内心はアメリカのことを「ふざけんな」と思っていても、自分たちが「雑草」を食うようになっても、アメリカに貢いでいくだろう。こっちは体張って戦争をしているんだぞ、だすものだせ、との脅しに屈する習慣性、その脅しを道理として変換させて自分を安定化させていたほうが、自分を変える勇気をもつより楽なことだろう。「雑草」を食うなどと経済的には不合理な現実を突きつけられても、自分のメンタル的な合理性にまず従ってしまう傾向を、人はみせるだろう。――しかしならば、現在、日本はアメリカの脅しから逃げる現実的な文脈があるか? 沖縄基地問題をめぐり鳩山氏が総理を辞めることになって以来、そう言い張る潜勢力が沈滞してしまったように伺える。短期的には、戦争させられるならその参加を縮小させ、金を出させられるならその金額を値切る、ぐらいのことしかできそうにない。いやそうやる勇気ぐらいはもった政治家は誰なのかな、と探ってみることぐらいだけが、現実関与として有効、というようにしか私には見えない。来月の選挙で、共産党が政権をとるぐらいにでも躍進すれば、また自立を志向する現実的文脈、大義名分がだせるかもしれない。そういう現実的変化なくアメリカへモノ申しても、人間的に道理がわからないおかしな奴、としか思われまい。
しかし、選挙を通した代表制(間接民主主義)だけが、現実有効な文脈、潜勢力を作っていくわけではないだろう。しかしその実践は、あくまで中・長期的な持続意志によるしかない。冒頭著作の編集者の堀内氏は、現に「共和制」を目指して運動している実践家だから、短期も長期もないかもしれない。が、現在ある選択に辟易している私には、そうした道筋を示して手続きしている氏の作業を知って、だいぶ共感する。私もこのブログで、9条よりも天皇条項のほうが問題で、そっちを改革する方が先だ、とか表明してきた。「共和制」という言葉も、使ったかもしれない。ただ私のそれは、坂口安吾の、「人間にできることは少しづつ強くなることだけだ」という言葉への共感による。安吾の天皇制批判は、その制度が日本人を真に「堕落」することを防いでいる、邪魔している、逆にいえば、天皇を差別化して日本人が甘えている、防波堤として利用しているということにあったろう。さらに哲学的につめれば、その態度は、スピノザの自然観を私には思わせたが、それも、浪人中から学生中によく読んだ、柄谷行人氏の『探究』経由である。
本土決戦……覚悟していようといまいと、その戦争を仕掛けようと回避しようと、すでに公的に言ってしまった言葉の習性に押されてやってしまう事態になる、というのが人間の歴史(「言葉と悲劇」=柄谷)でもあるようだ。ジャーナリストの間では、すでに今回の北朝鮮との戦争は、表向きの過激な舌合戦とは別に、対話・交渉解決へ向けて動いている、という話もでている(世に倦む日日や田中宇の国際ニュース解説)。絓氏の「土地」への現実感は、イスラエルを連想させ、澤田氏のそれは、ISな感じ、と言えるのだろうか? 実践的な運動経験もほぼなく、次男坊だからというわけでもないが地元を離れて暮らしている私には、ブローカー親子への共感、もちろん、逆境にもめけず微笑んだ、そういうシーンに促されてだろうが、遊動民的な在り方への共感の方が生活実感だ。しかし地元といっても、その多くの人びとが、ちょっと前世代からそうなっただけであり、群馬の山民も、もとは移住民だったはずで、私の職場が三代目だといっても、じいさん世代は旅人的な渡り職人、非常民である。しかし確かに、闘うには、根城があったほうが有効なのかもしれない。植木屋として独立しようにも、脚立や道具、トラックを駐車できる土地が確保されていなければ仕方ない。暴力団世界でも、新地に進出する場合は、事務所を持つようだ。大阪からはじまった柄谷氏中心のNAMでも、東京に事務所を開いて、私は最後は事務所番みたいな活動をしたことがあったが、なんもおこらなかった。
澤田氏の、この「土地」をめぐる葛藤、農民的なロマンチックな祖国と、やはりローマン的にもみえる遊動民的な居候性――その描写が、嫌味なく受け止められるのは、やはりあの少女の笑み、による気がする。別段、コップの水をこぼしたのが父親ではなくとも、それを大した問題だと平謝りする人の真面目さを滑稽なものとして受け止めた上でほほ笑む、ことはリアルな話だと、私には思える。つまり、彼女の態度は、父―娘という家族関係を超えて、より普遍的な位相から発したもののように、私は受け止める。滑稽として受け止める客観性、自分を突き放した冷静さと、だからあざ笑うのでもばかにするのでもなく、ほほ笑むという寛容性、他者を受け入れる振舞い、彼女が、そんな倫理を実践できたのは、何故だろうか? おそらく、「土地」とは関係がないだろう。単に、面白いことがみれたのだ、滑稽なことが。だから、彼女はまず、自分を他者として見出し受け入れただろう。それが可能だったのは、彼女が、「土地」から遊動している在り方だったからだろうか?
北朝鮮の民衆は、真面目にインタビューに返答する。現体制と金委員長を称えるその身振りは滑稽である。おそらく多くの日本人は、その様を軽蔑する。しかし彼女は、ほほ笑むのだ。
このほほ笑みは、「土地」にまつわるものから来るのだろうか?
2017年9月23日土曜日
2017年9月7日木曜日
夢のつづき(7)――ドストエフスキーをめぐって
「メッシがパナシナイコスのゴールへと走るあいだ、シャビ、イニエスタ、ペドロは、ディフェンス陣の数学的特性を解析したわけではない。おそらく、自分の行動について頭で考えてもいなかっただろう。スペースへと動き、足元にボールを直接パスするという単純な法則に従っただけだ。試合後の分析で、彼らのパス・ネットワークの数学的な規則性を絶賛することはいくらでもできるが、一連の動きは彼らのプレイスタイルから生まれたものだ。天敵から逃れるために一瞬で広がるという魚群の動きが、個々の魚の動きから生まれるのと同じで、ゴールも選手たちの一連の単純な動きから生まれるのだ。
先ほどのメッシのゴール、そして多くのゴールは、はるか昔につくられた一連の法則から生まれた。バルセロナは、選手の育成組織として名高い「アヤックス・アカデミー」にならってラ・マシアを設立したとき、アヤックスだけでなく何百、何千万年という進化によって裏づけられたシステムを取り入れていたのだ。粘菌は三角形の使い方をマスターし、魚は速度の調整や空間の使い方をマスターした。バルセロナはこうしたスキルすべてをマスターできる選手を育てたかった。ラ・マシアが若い選手に教えなければならなかったのは、高度な幾何学ではなく、正しい運動の法則だった。こうしたパス、動き、身のこなしの法則は、練習場で確率されたものだ。メッシはペナルティー・エリアの外側でパナシナイコスの9人の選手と相対したとき、頭で考える必要もなかった。メッシは、彼にとって世界一単純で自然な動きを実行したまでなのだ。」(デイヴィッド・サンプター著『サッカー・マティクス』 千葉敏生訳 光文社)
エマニュエル・トッドの家族人類学とされる考察を読みながら、中学生の頃から読み始めていたドストエフスキーをめぐる中断されていた思考をおもいだしていた。私がこの世界文学的作家において気にかけていたことは、いくつかあるが、なかでも一番素朴なものが、『カラマーゾフの兄弟』における、三人兄弟のあり様だった。長男が一途になって、次男が懐疑的になって、三男が素直な感じの子になる、そう物語的に設定される。いやそれが物語としてではなく、現に三人兄弟の次男坊であった私は、自分の兄弟だけでなく、身近に知っている友人たちの三兄弟、三姉妹においても、似たような傾向があると気づいていたからだ。そうして、そこから物語世界を参照してみると、三匹の子豚やシンデレラ、ジョン・ウェイン主演のエルダー兄弟など、いろいろ当てはまることがありそうなのだ。日本の昔話や逸話にはなかなかみつからないのだが、三本の矢はだいぶちがうが、鎌倉幕府を開いた源頼朝三兄弟は、そう言えなくもない。もちろん、実際問題として、たとえばサッカーなどでは、サッカーを果敢に初めに試みた長男よりも、次男の方が日和見的になって、それが周りとの関係でポジショニングをとっていくこのスポーツにはむいてくる、とかの傾向は発生しやすい。長男だけのチームだとボールしか見ていない子の集まりになるが、次男坊がいるとシステムが安定する、三男とかの末っ子となると、もう単に甘えん坊に近くなるので、違った次元で大変になる、とかは私自身の指導下でも見受けられるものである。が、とにかくも、私は、この類型的なるものはなんなのだろう、というのがこの大作の一番の疑問だったのである。
トッドを読むことで、三十年以上も前のそんな疑問に、一つの解釈が出てくることに気づいた。人類にとって原初的に想定される核家族の変遷的な在り方の一つに、末子相続的な型がみられるという。長男、次男、と家を出て行くので、両親の面倒をみるのが末っ子になってくる自然的推移があるのだと。この原初的バイアスに、後の文明発生地としての、父性原理を明確にした共同体的家族なるものがぶつかる。もちろんロシアも属すユーラシアの中心付近とは、その文明発生地に近い。ゆえに、トッドによれば、ロシアが共産主義という父権的な共同体家族主義を全面的に受容するようになるのは、当然な事態である。しかしもちろん、原初のバイアスがなくなるわけではない。また、地域によっては、そのバイアスは強く残存したりしているので、受容の強弱葛藤に、まだら的なグラデーションが伺えるようになる。ドストエフスキーの時代にあっては、あるいは作品にあっては、文明的(共同体家族)な皇帝と教会、それを転換(代行)させようと企てる社会主義と、そして異端的な宗派との葛藤である。亀山郁夫氏などによれば、三男坊のアリョーシャは、異端的な宗派の方から、社会主義に関わり、皇帝暗殺をたくらむグループへと接触することになるだろう、というような話になる。いいかえれば、核家族的なバイアスを担う末っ子的な役割存在をなぞっていくのだ。そしてむろん、この末っ子が説く思想、価値、愛とは、ゆえに原初的な核家族的なものが核になる。
<いずれにせよ、このトッドの分析は、階級が消え、もはや個人と国家しか残っていないように見える現代世界にも、アイデンティティの核として家族(家族形態)がしぶとく生き残っていることを示している。ぼくがいま家族の概念の再構築あるいは脱構築が必要だと判断する背景には、このような研究の動向がある。…(略)…
家族についてふたたび考えようという僕の提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとしても提示されている(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。柄谷が国家(ステート)と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼくは国家(ネーション)と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が支える新しいアソシエーションについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。つまりは、ぼくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。>(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』genron)
そうして、東氏は、この著作の最後を、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を素材に論考した。そしてこの論考の動機の一つは、山城むつみ氏の「カラマーゾフ」を素材にしたドストエフスキー論への応答でもあるという。私の当時の理解では、山城氏は、むしろ、3.11での原発災害を受けて東氏が説いた確率論的世界観への批判として、ドストエフスキー論を提出したのである。原発の災厄に見舞われた親たちは、なんで自分の子どもが犠牲にならなくてはならないのか、と苦悶しただろう、それは、放射能がそうは襲ってこない地域の子どもを抱える親にとっても、身を切るような煩悶だったはずだ。そうした最中に、山城氏はわが子の「復活」を「カラマーゾフの兄弟」から読み込んだのである。私はそれを読んで、救われたような気がしたのを覚えている。ブログにも書き込んだ。私の文脈で、トッド氏と柄谷氏が交錯したのは、封建制、「私の中の日本軍(部活)」、ということをめぐる思考過程からだったろう。いま、改めて、3.11の騒動の最中に書かれた山城氏のドストエフスキー論に動かされて記したブログを読むと、その冒頭引用が、<夢>の記述であることに気づかされる。その記述を、時季を経た今さらの文脈で読み返してみると、このフロイトによってファミリーロマンスとして解釈され、あくまで近代的な仮説として理解されてきた夢が、実は、人類の原初的なバイアス、抵抗の痕跡・衝動なのではないかと伺われてくる。ならば、核家族の核(価値・思想)とは、「おのれみずからのごとく他を愛せよ」、ということになるだろう。
私たちは夢の中にいる。家族の中にいる。しかしならば、その関係は、環境適応の中にあるわけではない。夢の中にあるのだ。メッシが夢の中で打つシュートは、ゴールへと向かわないだろう。
先ほどのメッシのゴール、そして多くのゴールは、はるか昔につくられた一連の法則から生まれた。バルセロナは、選手の育成組織として名高い「アヤックス・アカデミー」にならってラ・マシアを設立したとき、アヤックスだけでなく何百、何千万年という進化によって裏づけられたシステムを取り入れていたのだ。粘菌は三角形の使い方をマスターし、魚は速度の調整や空間の使い方をマスターした。バルセロナはこうしたスキルすべてをマスターできる選手を育てたかった。ラ・マシアが若い選手に教えなければならなかったのは、高度な幾何学ではなく、正しい運動の法則だった。こうしたパス、動き、身のこなしの法則は、練習場で確率されたものだ。メッシはペナルティー・エリアの外側でパナシナイコスの9人の選手と相対したとき、頭で考える必要もなかった。メッシは、彼にとって世界一単純で自然な動きを実行したまでなのだ。」(デイヴィッド・サンプター著『サッカー・マティクス』 千葉敏生訳 光文社)
エマニュエル・トッドの家族人類学とされる考察を読みながら、中学生の頃から読み始めていたドストエフスキーをめぐる中断されていた思考をおもいだしていた。私がこの世界文学的作家において気にかけていたことは、いくつかあるが、なかでも一番素朴なものが、『カラマーゾフの兄弟』における、三人兄弟のあり様だった。長男が一途になって、次男が懐疑的になって、三男が素直な感じの子になる、そう物語的に設定される。いやそれが物語としてではなく、現に三人兄弟の次男坊であった私は、自分の兄弟だけでなく、身近に知っている友人たちの三兄弟、三姉妹においても、似たような傾向があると気づいていたからだ。そうして、そこから物語世界を参照してみると、三匹の子豚やシンデレラ、ジョン・ウェイン主演のエルダー兄弟など、いろいろ当てはまることがありそうなのだ。日本の昔話や逸話にはなかなかみつからないのだが、三本の矢はだいぶちがうが、鎌倉幕府を開いた源頼朝三兄弟は、そう言えなくもない。もちろん、実際問題として、たとえばサッカーなどでは、サッカーを果敢に初めに試みた長男よりも、次男の方が日和見的になって、それが周りとの関係でポジショニングをとっていくこのスポーツにはむいてくる、とかの傾向は発生しやすい。長男だけのチームだとボールしか見ていない子の集まりになるが、次男坊がいるとシステムが安定する、三男とかの末っ子となると、もう単に甘えん坊に近くなるので、違った次元で大変になる、とかは私自身の指導下でも見受けられるものである。が、とにかくも、私は、この類型的なるものはなんなのだろう、というのがこの大作の一番の疑問だったのである。
トッドを読むことで、三十年以上も前のそんな疑問に、一つの解釈が出てくることに気づいた。人類にとって原初的に想定される核家族の変遷的な在り方の一つに、末子相続的な型がみられるという。長男、次男、と家を出て行くので、両親の面倒をみるのが末っ子になってくる自然的推移があるのだと。この原初的バイアスに、後の文明発生地としての、父性原理を明確にした共同体的家族なるものがぶつかる。もちろんロシアも属すユーラシアの中心付近とは、その文明発生地に近い。ゆえに、トッドによれば、ロシアが共産主義という父権的な共同体家族主義を全面的に受容するようになるのは、当然な事態である。しかしもちろん、原初のバイアスがなくなるわけではない。また、地域によっては、そのバイアスは強く残存したりしているので、受容の強弱葛藤に、まだら的なグラデーションが伺えるようになる。ドストエフスキーの時代にあっては、あるいは作品にあっては、文明的(共同体家族)な皇帝と教会、それを転換(代行)させようと企てる社会主義と、そして異端的な宗派との葛藤である。亀山郁夫氏などによれば、三男坊のアリョーシャは、異端的な宗派の方から、社会主義に関わり、皇帝暗殺をたくらむグループへと接触することになるだろう、というような話になる。いいかえれば、核家族的なバイアスを担う末っ子的な役割存在をなぞっていくのだ。そしてむろん、この末っ子が説く思想、価値、愛とは、ゆえに原初的な核家族的なものが核になる。
<いずれにせよ、このトッドの分析は、階級が消え、もはや個人と国家しか残っていないように見える現代世界にも、アイデンティティの核として家族(家族形態)がしぶとく生き残っていることを示している。ぼくがいま家族の概念の再構築あるいは脱構築が必要だと判断する背景には、このような研究の動向がある。…(略)…
家族についてふたたび考えようという僕の提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとしても提示されている(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。柄谷が国家(ステート)と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼくは国家(ネーション)と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が支える新しいアソシエーションについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。つまりは、ぼくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。>(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』genron)
そうして、東氏は、この著作の最後を、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を素材に論考した。そしてこの論考の動機の一つは、山城むつみ氏の「カラマーゾフ」を素材にしたドストエフスキー論への応答でもあるという。私の当時の理解では、山城氏は、むしろ、3.11での原発災害を受けて東氏が説いた確率論的世界観への批判として、ドストエフスキー論を提出したのである。原発の災厄に見舞われた親たちは、なんで自分の子どもが犠牲にならなくてはならないのか、と苦悶しただろう、それは、放射能がそうは襲ってこない地域の子どもを抱える親にとっても、身を切るような煩悶だったはずだ。そうした最中に、山城氏はわが子の「復活」を「カラマーゾフの兄弟」から読み込んだのである。私はそれを読んで、救われたような気がしたのを覚えている。ブログにも書き込んだ。私の文脈で、トッド氏と柄谷氏が交錯したのは、封建制、「私の中の日本軍(部活)」、ということをめぐる思考過程からだったろう。いま、改めて、3.11の騒動の最中に書かれた山城氏のドストエフスキー論に動かされて記したブログを読むと、その冒頭引用が、<夢>の記述であることに気づかされる。その記述を、時季を経た今さらの文脈で読み返してみると、このフロイトによってファミリーロマンスとして解釈され、あくまで近代的な仮説として理解されてきた夢が、実は、人類の原初的なバイアス、抵抗の痕跡・衝動なのではないかと伺われてくる。ならば、核家族の核(価値・思想)とは、「おのれみずからのごとく他を愛せよ」、ということになるだろう。
私たちは夢の中にいる。家族の中にいる。しかしならば、その関係は、環境適応の中にあるわけではない。夢の中にあるのだ。メッシが夢の中で打つシュートは、ゴールへと向かわないだろう。
2017年9月6日水曜日
北朝鮮情勢をめぐって
「私は、否、私だけでなく前線の兵士は、戦場の人間を二種類にわける。その一つは戦場を殺す場所だと考えている人である。三光作戦の藤田中将のように「戦争とは殲滅だ」といい、浅海特派員のように「戦場は百人斬り競争の場」だと書き、また本多氏のようにそれが、すなわち「殺人ゲーム」が戦場の事実だと主張する――この人々は、いわば絶対安全の地帯から戦場を見ている人たちである。だがもう一つの人びとにとっては、戦場が殺す場所ではなく、殺される場所であり、殲滅する場所でなく殲滅される場所なのである。
その人びとはわれわれであり、全戦の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を超えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。」(山本七平著『私の中の日本軍』 文春文庫)
私が、現在のきな臭い北朝鮮情勢をめぐる状況のなかで、中学生になる息子に一番まず伝えておきたいことは、「人はその時突然変わる」、ということにこだわった漱石の認識になるだろう。部活のサッカー部にも、韓国からきた下級生がいるそうだ。まだ日本に来て一年目なので、日本語もままならないので、部活をやめるかもしれない、という話を息子からきかされている。大久保でのヘイトスピーチをみても、おそらく、北朝鮮と韓国の区別を、日本人が明確にしうる歴史経緯は内面化されていないだろう。戦前・戦時中も、昨日まで仲良く遊んでいた在日の子どもたちに対し、国の明白な態度変更とともに、子どもたちもが突然と変貌して排他的になったことが伝えられている。そうでなくとも、すでに私は、子どもたちへ教える少年サッカークラブでも、いわゆる昔の運動部的に子どもをいじる(しごく)ことでチームを強くしていこうとする指導の体制になってきたようなので、私は引退すると表明している。父兄にしても、また半分のコーチにしても、そういう方針でチームが強くなるわけでもなければ、そういうふうに子どもを強くすることに疑問な声なのが多数的なのだが、結局は強気なことを言うコーチの方針にバイアスがかかっていく。別にそうした方針に興味のない親は、単に練習に子どもを参加させることに熱心でもないし、参加したら参加したで、体力ないからとマラソンをさせられるのでは、子どもも面白くないので、来なくなる。そしてそうした成り行きの自然性を、そんなコーチも認識している。がゆえに、なおさらかたくなに、その正しい方針を貫くことが、大きくは世のため人のため、と思っているらしいのである。そしてその想念が、暗黙には日本的というか世間的な理念的前提、ということに若い親たちもが共有しているので、声をあげるのではなく、単にそこから遠ざかるか適当に距離をおいてかかわる。子どもには頑張ってもらいたいので、素直に手なずけるしつけの難しさもあって、それを他人がやってくれるのならと、黙って見過ごしていくことによって、少数派のコーチの声がヘゲモニーとして通ることになる。私も、息子がもうそこにいない現場で、権力闘争のようなことをする気力はない。
少年サッカーの一地区理事会でも、私ぐらいの世代だと、大半は野球部だったりするが、部活は「軍隊」のようだった、という比喩は共有される。そしてそこでも、強気な発言をする少数派が、体制・風潮を作ってしまう。山本七平氏の冒頭にあげた著作などを読んでいても、そう述懐されている。そして私自身が、そんな声高の少数派の一人であったろう。戦時中だったら、そのまま大人になれたかもしれない。が、戦後の民主主義的な原理も発育させていた旧制の中学から進学校になった高校では、建前上は後輩に対するシメのような儀式はやはりあったのだが、進学校に入学してくる者たちのほとんどは要領を得た個人主義的な地区のエリート―なので、そんな集団儀式には冷めているのだった。シメを行うのは、山本七平氏が初年兵への体罰をするのは2年目の兵士だと指摘しているように、部活でも2年生の役割だった。3年生は、見ているだけだ。2年生の私は、頭のいい子どもたちの要領のよさと、そういう者たちのニヒルさこそがここでは風潮を作っていくらしいことに不安と疑問、同時に中学までの自分を懐疑しはじめていたけれど、それまでに肉体化された習慣と、むしろまわりの冷めた二リルさに対抗するように、新入生に声をあらげた。「自分の声だって聞こえなくなるんだぞ!」と、すでにレギュラーで試合にも出ていた私は、スタンドの応援でかき消される声を例にだして、球拾いする下級生に、なっとらん、と叱っていたのだった。すでに自分でいいながら空々しい憂悶を抱え込んでいたが、自分はその葛藤を処理できなかった。今では、その時の自分、あるいは中学までの軍隊的部活を全否定的に対処することはできないと知的認識しているので、もっと方法的に対処して、サッカーを通して、子どもたちに指導してきたことになるだろう。といっても、その方法が自覚されてくるまでには、息子がまだ低学年の頃には、おもわず軍隊的な名残でやってしまって、その瞬間すぐさま知的に内省されて修正する、そんな過程を通らねばならなかった。私の父親には、そんな修正は必要がなかった。しかし、もともと無理がある強要指導になるので、いつしかは優しい父の地のままになる。が、知的対決をしていないので、もし父が若返ったら、やはり同じ教育を繰り返す他ないだろう。
プーチン大統領は、北朝鮮は、自らが安全と感じるまで雑草を食ってでも核開発をつづけるだろう、と発言しているようだ。彼らが戦後の日本人のように身代わり早い習性の人たちなのか、本土決戦をも辞さない覚悟な者たちなのか、は知らないが、私たち日本人は、プーチンが披露した北朝鮮の気概を理解できる過去(文脈)は持っている。その痕跡経緯は、若い世代でもなおなくなっていない、と私はおもう。が、そこから自分の立場を探り言語化する営み、訓練、知的対決をしてきただろうか? 単に、長いものに巻かれて当たりさわりのないことをいってその場をやりすごしていく、そんな良い子の態度の文脈しかみえない。潜在的には、日本の思想史を振り返ってみても、連綿とつづいた模索があるのだが、現実に働きうる潜勢力としてはどこかへいってしまったようにうかがえる。もはや、戦争はしょうがない、それが諦めではなく、良い子の理性的な判断としてあるようなマスメディアの風潮に伺える。だから、戦争を肯定する声高の少数派がでたら、自分のやましさから押し黙ることになるだろう。やましさとは、本当はしたくない、暗い世の中はいやだな、と生理的に思うことだが、理性的、冷静な判断で戦争を是とする趨勢の中で、そんな私事的なこと、弱音は声に出してはいけないのではないか、と黙ってしまうのである。そして声高の少数派には、「戦争反対」と叫ぶいわゆる運動家の人たちも入ってしまうだろう。それは、自分の過去を、私の中学時代までを全面的に否定することで現在の私を定立している人たちのようなものだ。自分の弱さにとどまって対決することをすり抜けて居直ってしまった反動家の言葉に、人を説得させる認識が孕まれているとは、私はおもわない。ただ、それでも戦争を遂行させる声高の人たちよりはマシなのかも、とおもうだけである。しかし、あの戦争を遂行させた軍隊と、戦後の民主主義を遂行させてきた勢力が、実は同じ穴のムジナだったとは、戦後の日本思想で自覚されてきたことではなかったか。
戦争になっても、いつも通りでいろよ、私が息子に言えるのは、とりあえず、そんなことだけだ。結局は、私は、そんなことしか考えてこなかったのか?
その人びとはわれわれであり、全戦の兵士たちである。彼らにとって戦場とは「殺される場所」以外の何ものでもない。そして何とかして殺されまいと、必死になってあがく場所なのである。ここに、前線の兵士に、敵味方を超えた不思議な共感がある。私たちがジャングルを出て、アメリカ軍に収容されたとき一番親切だったのは、昨日まで殺し合っていた前線の兵士だった。これは非常に不思議ともいえる経験で、後々まで収容所で語り合ったものである。」(山本七平著『私の中の日本軍』 文春文庫)
私が、現在のきな臭い北朝鮮情勢をめぐる状況のなかで、中学生になる息子に一番まず伝えておきたいことは、「人はその時突然変わる」、ということにこだわった漱石の認識になるだろう。部活のサッカー部にも、韓国からきた下級生がいるそうだ。まだ日本に来て一年目なので、日本語もままならないので、部活をやめるかもしれない、という話を息子からきかされている。大久保でのヘイトスピーチをみても、おそらく、北朝鮮と韓国の区別を、日本人が明確にしうる歴史経緯は内面化されていないだろう。戦前・戦時中も、昨日まで仲良く遊んでいた在日の子どもたちに対し、国の明白な態度変更とともに、子どもたちもが突然と変貌して排他的になったことが伝えられている。そうでなくとも、すでに私は、子どもたちへ教える少年サッカークラブでも、いわゆる昔の運動部的に子どもをいじる(しごく)ことでチームを強くしていこうとする指導の体制になってきたようなので、私は引退すると表明している。父兄にしても、また半分のコーチにしても、そういう方針でチームが強くなるわけでもなければ、そういうふうに子どもを強くすることに疑問な声なのが多数的なのだが、結局は強気なことを言うコーチの方針にバイアスがかかっていく。別にそうした方針に興味のない親は、単に練習に子どもを参加させることに熱心でもないし、参加したら参加したで、体力ないからとマラソンをさせられるのでは、子どもも面白くないので、来なくなる。そしてそうした成り行きの自然性を、そんなコーチも認識している。がゆえに、なおさらかたくなに、その正しい方針を貫くことが、大きくは世のため人のため、と思っているらしいのである。そしてその想念が、暗黙には日本的というか世間的な理念的前提、ということに若い親たちもが共有しているので、声をあげるのではなく、単にそこから遠ざかるか適当に距離をおいてかかわる。子どもには頑張ってもらいたいので、素直に手なずけるしつけの難しさもあって、それを他人がやってくれるのならと、黙って見過ごしていくことによって、少数派のコーチの声がヘゲモニーとして通ることになる。私も、息子がもうそこにいない現場で、権力闘争のようなことをする気力はない。
少年サッカーの一地区理事会でも、私ぐらいの世代だと、大半は野球部だったりするが、部活は「軍隊」のようだった、という比喩は共有される。そしてそこでも、強気な発言をする少数派が、体制・風潮を作ってしまう。山本七平氏の冒頭にあげた著作などを読んでいても、そう述懐されている。そして私自身が、そんな声高の少数派の一人であったろう。戦時中だったら、そのまま大人になれたかもしれない。が、戦後の民主主義的な原理も発育させていた旧制の中学から進学校になった高校では、建前上は後輩に対するシメのような儀式はやはりあったのだが、進学校に入学してくる者たちのほとんどは要領を得た個人主義的な地区のエリート―なので、そんな集団儀式には冷めているのだった。シメを行うのは、山本七平氏が初年兵への体罰をするのは2年目の兵士だと指摘しているように、部活でも2年生の役割だった。3年生は、見ているだけだ。2年生の私は、頭のいい子どもたちの要領のよさと、そういう者たちのニヒルさこそがここでは風潮を作っていくらしいことに不安と疑問、同時に中学までの自分を懐疑しはじめていたけれど、それまでに肉体化された習慣と、むしろまわりの冷めた二リルさに対抗するように、新入生に声をあらげた。「自分の声だって聞こえなくなるんだぞ!」と、すでにレギュラーで試合にも出ていた私は、スタンドの応援でかき消される声を例にだして、球拾いする下級生に、なっとらん、と叱っていたのだった。すでに自分でいいながら空々しい憂悶を抱え込んでいたが、自分はその葛藤を処理できなかった。今では、その時の自分、あるいは中学までの軍隊的部活を全否定的に対処することはできないと知的認識しているので、もっと方法的に対処して、サッカーを通して、子どもたちに指導してきたことになるだろう。といっても、その方法が自覚されてくるまでには、息子がまだ低学年の頃には、おもわず軍隊的な名残でやってしまって、その瞬間すぐさま知的に内省されて修正する、そんな過程を通らねばならなかった。私の父親には、そんな修正は必要がなかった。しかし、もともと無理がある強要指導になるので、いつしかは優しい父の地のままになる。が、知的対決をしていないので、もし父が若返ったら、やはり同じ教育を繰り返す他ないだろう。
プーチン大統領は、北朝鮮は、自らが安全と感じるまで雑草を食ってでも核開発をつづけるだろう、と発言しているようだ。彼らが戦後の日本人のように身代わり早い習性の人たちなのか、本土決戦をも辞さない覚悟な者たちなのか、は知らないが、私たち日本人は、プーチンが披露した北朝鮮の気概を理解できる過去(文脈)は持っている。その痕跡経緯は、若い世代でもなおなくなっていない、と私はおもう。が、そこから自分の立場を探り言語化する営み、訓練、知的対決をしてきただろうか? 単に、長いものに巻かれて当たりさわりのないことをいってその場をやりすごしていく、そんな良い子の態度の文脈しかみえない。潜在的には、日本の思想史を振り返ってみても、連綿とつづいた模索があるのだが、現実に働きうる潜勢力としてはどこかへいってしまったようにうかがえる。もはや、戦争はしょうがない、それが諦めではなく、良い子の理性的な判断としてあるようなマスメディアの風潮に伺える。だから、戦争を肯定する声高の少数派がでたら、自分のやましさから押し黙ることになるだろう。やましさとは、本当はしたくない、暗い世の中はいやだな、と生理的に思うことだが、理性的、冷静な判断で戦争を是とする趨勢の中で、そんな私事的なこと、弱音は声に出してはいけないのではないか、と黙ってしまうのである。そして声高の少数派には、「戦争反対」と叫ぶいわゆる運動家の人たちも入ってしまうだろう。それは、自分の過去を、私の中学時代までを全面的に否定することで現在の私を定立している人たちのようなものだ。自分の弱さにとどまって対決することをすり抜けて居直ってしまった反動家の言葉に、人を説得させる認識が孕まれているとは、私はおもわない。ただ、それでも戦争を遂行させる声高の人たちよりはマシなのかも、とおもうだけである。しかし、あの戦争を遂行させた軍隊と、戦後の民主主義を遂行させてきた勢力が、実は同じ穴のムジナだったとは、戦後の日本思想で自覚されてきたことではなかったか。
戦争になっても、いつも通りでいろよ、私が息子に言えるのは、とりあえず、そんなことだけだ。結局は、私は、そんなことしか考えてこなかったのか?
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