2017年4月28日金曜日

「戦闘」をめぐって(4)

「私が若し開戦の決定に対して「ベトー」(拒否権行使)したとしよう。国内は必ず大内乱となり、私の信頼する周囲の者は殺され、私の生命も保証出来ない[後略]。
 
 内乱が起きて、側近のみならず、自分も殺されるような事態が起きたかもしれないと、天皇自身が回想している。このような空間が、四一年八月、九月にできてしまっている。天皇は、一九三六年の二・二六事件を、まさにつぶさに目撃し、青年将校や、それに呼応しようとした軍部のトップの姿を見てしまっていたわけです。二・二六事件では、当時の内大臣だった佐藤実、大蔵大臣だった高橋是清、陸軍の教育総監だった渡辺錠太郎などが、蹶起将校らによって殺害されていました。まさに天皇が「信頼する側近」が殺された事件が四年前に起きていました。」(加藤陽子著『戦争まで 歴史を決めた交渉と日本の失敗』 朝日出版社)

ゴールデンウィーク中の少年サッカー大会、3年生の部は2戦が不戦敗となる。連休中なのだから、そんなものだ。しかし私が「そんなものだ」と自己納得できるようになるには、それなりの時間が必要だった。私の子どもの頃、父親が監督をしていた少年野球クラブは、お盆三日と正月の三箇日にしか休みはなかった。だから、私と息子がサッカー・クラブにお世話になりはじめた7年前当時、ゴールデンウィーク中であっても、練習に通い詰めるのが普通というか、癖が抜けないような状態だった。案の定というべきか、開始5分前になっても、私と息子しか校庭にはいない。「こんなものなのだな」と普通ということをなんとか了解しようと、子どもとボールを蹴っていた。

休みを家族で過ごす、それは普通なことかもしれない。が、サッカー・クラブを通してその家族・親子関係をみるにつけ、そして晩婚だった私よりひと回り若い世代になるのだが、この普通のあり方が気がかりになってきた。

統計的にはどうだか知らないが、今は団体競技よりも、個人競技のほうに親は子供を参加させたがる傾向があるのではないだろうか? 水泳が一番多い気がするが、体操なども多い。要は、自分の子どもだけの健全さに関心を集中できる種目形式である。体育的なことにも、だから母親が主導的だ。仲間との一体的な感動を味あわせたい、喜びを他人と共有することを体験させてあげたい男親は、ゆえに体育館ジムとグランドを掛け持ちすることになる。グランドの方の競技には、関心を示さない母親もでてくる。むろん、父母会やその連絡網には参加しない。参加している母親たちからは不公平だというような不満もでてくる。その声を背景に、コーチをしているから父母会への選出から免れているわけではないのだから、女房を説き伏せて父母会に参加させるかコーチを控えろ、それが公平だ、と揚げ足をとろうとするコーチ陣もでてくる。

こうした様が、私には、現政権の安倍首相への高支持率とつながっているような気がするのだ。森友学園の事件をめぐって、まるで北朝鮮の「将軍様」を連呼するような映像が放映されても、支持率はあがっていく。その北朝鮮をめぐって紛争でも起きれば、おそらくもっと支持率はあがるのだろう。なぜなら、集団(国家)的なことは、それに興味を持つ人、そしてその持ち方が強烈な人ほど任せられる、自分はタッチしなくていい、という話になるので、状況がひどくなればなるほど、自分には好都合、ということになるからである。あの人に任せていて大丈夫なのかどうか、という判断は必要ない。政治への関心を排除させられればそれだけ自分のこと、自分の子どものことに関心を集中できるので、一方的に強権的なほうが都合よくなるのだ。

もちろん、どこまでそんな非現実的なことが持ちこたえられるかは疑問である。他人事のままで済んだのなら、単に運がよかっただけの話だろう。

2017年4月6日木曜日

「戦闘」をめぐって(3)――『シン・コジラ』を観る

「こうした大本教が思想的な軸としたミロク信仰については、従来いくつかの研究成果があるが、ミロクが下生する時に、その世界はユートピアとなる。しかし、破壊と混乱の中で救世主を迎えるという期待が民衆の間に薄いのであり、つきつめた「終わりの日」という認識が少ないのである。これは一つに東洋の時間認識によるところが大きい。日本人にとっての時間は、あくまで現在=今が中心であり、現在に向かって未来のイメージがつくられるといった表象でとらえられるのである。キリスト教的終末論に対比される東洋的神学としてのミロク信仰の特徴が、アジアに共有の時間認識から生じたのだとすると、何故そのような認識論が優位を占めるようになったのかを問うて行く必要があるだろう。
 このことと対比して、たとえば現代アメリカの終末論を検討した荒木美智雄は、日本からは想像もできないような、激しい終末的緊張が、アメリカの社会・文化にみなぎっていることを指摘している。」(宮田登著『終末観の民俗学』 弘文堂)

今週末で、ようやく子どもより長い春休みが終わる。やっと休みに慣れてきてこれからだ、という時なので、名残惜しい気もするが、これ以上の休みは、休みというより失業に近いだろう、という気もするのだが、ちょっと昔は、みな職人さんはそうだったはずだ。ただ、それでも意義深く生きていけた共同体がもはや見える形ではあるわけではないので、やはり私にも不安はある。そういう不安が底流するなかで、暇なので、レンタル・ビデオがはじまったという映画『シン・ゴジラ』を借りて来て観た。

面白かったが、前向きな作品ではないな、とおもった。総監督を務めた庵野氏の「エヴァンゲリオン」も引用編集な作品だったというが、この作品も、既存作品・テキストの引用というだけでなく、実際世界の映像の引用、編集で満ちている。避難所での段ボールで仕切られた生活風景や、官邸での動きの有様なども、私たちは近過去を既視・追体験させられるようにできている。リアリズムであると同時にパロディーであり、希望的なスタンスを見せて終わるところで劇画的である。だから、いいのだろう。ゴジラの漢字表記「呉爾羅」をクローズアップさせたり、その退治作戦名で古事記を連想させるところなど(参照WEB「続 島の先々」)、おそらく、形式的には、日本人の民俗的学的な学説をなぞるように意識して文脈づけられているのだろう。が、本当に意識していたら、私はこうした一般受けする劇画調にはなりえないのでは、とおもった。私は、東京の高層ビル・文明都市社会が見事に破壊されていく様を唖然とした痛快さで追いながら、その破壊者ゴジラに新幹線や山手線などが特攻していったときは、なぜかおもわず笑い出し喝采したくなる自分を発見した。電車は無人運転であったとしても、そこに、私たちは自分の魂、神風で散った遠くない先祖を戦後の文明が無駄にしているわけではない日本人としての魂を乗せて、突っっ込んでいった気になってくる。弁解と鎮魂、そんな虚偽で複雑になった苦渋した感情が、ゴジラの足元で大破するのではなく竜のように空を駆け登っていったとき、一瞬、昇華されたような気にもなるのではないだろうか? 私はならなかったが、しかしそれは、その手前で、戦後の電車が竜になったとき、考えがやってきてしまったからである。

この映画を観る前日まで、前回ブログでも引用した、白井氏と内田氏の『日本戦後史論』を読んでいた。そのなかで、白井氏が佐藤建志氏の『震災ゴジラ』での意見、ゴジラの日本破壊は日本人がそれを待望し、破壊欲望をもっているから、というものを賛同紹介したのに内田氏が呼応し、<ゴジラは日本人の罪責感と自己処罰の欲動を形象化したものですね。><反近代・反中央・反都市・反文明というさまざまな「反」がゴジラという形象をまとって近代日本を破壊するために登場してくる。>(――となると、この『シン・ゴジラ』は、近代の日本という特殊的な傍流から生まれたオタク的延長からその近代を肯定してみせる論理をイメージ化してみせた、ということで「シン」、新しい、ということになる。というか、「ハン・ゴジラ」ということだ)――そしてどうも、内田氏は、そんなゴジラ観に内蔵させるように、現総理の「戦後レジームからの脱却」思想を捉えているようなのだ。

<安倍さんの「戦後レジームからの脱却」がある種の人々の暗い情念に点火するのは、その自己破壊衝動に共感している日本人が多いからでしょう。「こんな国、一度壊れてしまえばいいんだ」という自棄的な気分は右左を問わず、多くの日本人に共有されていると感じます。>

私には、この内田氏の発言はよくわからず、眉唾物なのではないかとおもっていたが、なぜか、この『シン・ゴジラ』を見ている自分の心の動きに出くわして、もしかしたら氏の洞察は当たっているのではないか、とわかってしまったのである。シン・ゴジラとは、アベクンだったのか! 私はそれを面白いと見た、そういうふうに、今の政治風景を見ようとしている、ということではないか? 破局を期待しながら……

しかしそれはまだ、「忖度の構造(天皇制の本質)」(白井氏)の内における破局観である。『シン・ゴジラ』でも、最後は、この破局の中から日本は再生してきたのだ、という歴史的教訓からくる希望(観測)に焦点化させるように結末させている。が、今回ブログの冒頭引用での民俗学からの指摘にもあるように、<つきつめた「終わりの日」という認識が少ない>のだ。それはアメリカでの<激しい終末的緊張>とは違う。彼らの政治的脅迫、政治のリアルが、この<終末>から来ているとしたらどうだろう? 破局と終局の違い。私たちは、破壊のあとに再生がありえるとおもいこんでいる、が、彼らは、終わりなのだ。そこには、楽観の入り込む余地はない。この『シン・ゴジラ』は、そうした他者性に直面して描かれたといえるだろうか? アメリカの政治的脅迫を、破局へ向けてのいちエピソードとして挿入・消化してみただけだろう。他者はイメージ化できない。そのできないことをしようとする努力を映画製作の中で試みようとしたら、まともな形式ではできなくなるだろう。もちろん、私はそれをこの映画に求めているということではなくて、この映画から考えさせられてしまった、ということである。

しかし私は、文化が内面化している時間意識の違い、みたいな比較をしているのではない。破局にしろ、終局にしろ、どっちにしても幻想である。アメリカの他者性は、そんなところにあるのではない。そして日本人の他者性、現実も、そんなところにあるのではない。「忖度の構造」が日本人の現実などではない。それは文化という幻想にすぎない。そうではなくて、たとえば、もし、本当に、アベクン(シン・ゴジラ)の破局が映画ではなく、本当に訪れたら、笑ってはいられない、ぞっとする一瞬がある、その一瞬にだけ、私たちは現実を見れるのであって、またすぐ見えなくなるだろう。が、その一瞬を理念的に握持していないかぎり、まともな現実政策など思考しえないのだ。終局に緊張したアメリカの恫喝も、当人にとっては幻想にすぎない。むしろ、私たち日本人のほうが、その現実表象を経験している。アメリカの歴史では、やっと9・11で、ということかもしれない。ビルいくつかの倒壊でヒステリーを起こしているのだから、彼らの政治的リアルに飲まれているほうがばかばかしい。こっちがしてきた経験知からしても、相手にならないだろう。私たちの破局幻想のほうが、ずっと腹がすわっているに違いないのだ。何を恐れるのだ? もうやられてるのだから、またやってみろ、核爆弾落としてみろ、とすでに挿入されている私たちの民俗学的事実をつきつけてみればいいだけの話ではないか?……とこう、すでに私の思考自体にニヒリズムが入っている。それでも、無意識の願望が本当に実現したとき、私はぞっとするだろう。そんな破局願望は、一瞬にして、吹き飛ぶだろう。

が、政治的リアル、というものを考えた時、私たちのニヒリズムは、現実的に有効なのではないか? それを使ってみるということが、真にリアルなものを踏まえた本当の現実政策に近づくのではないか?

2017年4月5日水曜日

「戦闘」をめぐって(2)


<ところで鳩山首相がやめた原因が、北朝鮮の核だったのではないかとPART1で書きましたが、これはあてずっぽうで言ったわけではありません。実は細川護熙首相が辞任した理由が「北朝鮮の核」だったことが、非常に有名な関係者の証言によってあきらかになっているのです。その証言者とは、小池百合子・元防衛大臣です。…(略)…
 文字通りの盟友だった武村長官を切ることに悩みぬいた細川首相は、ついに内閣改造を決意したものの、社会党の連立離脱をちらつかせた反対にあって断念。4月8日、辞任することになります。最初に小池議員に電話をしたときから、わずか2か月後のことでした。マスコミは突然の辞任の理由として、国民福祉税の導入失敗や、佐川急便に関するスキャンダルをあげていましたが、側近として苦楽を共にしてきた小池議員は「私の見方はまったく違う。ずばり、北朝鮮問題だ」と断言しています。それは辞任前に本人の口から、こう聞いたからだというのです。
「北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない。ここは私が身を捨てる〔辞任する〕ことで、社会党を斬らなければダメなんです。それで地殻変動を起こすしかないんです」

細川内閣で官房副長官をつとめた石原信雄氏は、この1994年2月の日米首脳会談の「相当な部分が北朝鮮問題だった」とのべています。(『内訟録――細川護熙総理大臣日記』)そして北朝鮮に対して海上封鎖を行うつもりだったアメリカから、その場合、北朝鮮は機雷を流してくるだろうから、それを日本が除去してほしいと頼まれたが、内閣法制局の判断でダメだったということも証言しています。「北朝鮮が暴発すれば、今の体制では何もできない」とは、おそらくそういうことを言っているのでしょう。

社会党に反対されて武村官房長官を更迭できず、機雷の除去にも応じられない。核を持つ北朝鮮が、いつ「暴発」するかわからないのに、アメリカからの要望にこたえられず、うまく協力関係が築けなくなって辞任に追い込まれてしまった。これは鳩山首相が辺野古案に回帰することになったときと、ほとんど同じ状況です。
 このときアメリカ側のだれか、または日本側のだれかが、意図的に細川首相を辞任へ追い込んでいったかどうかはわかりません。細川首相の独自の安全保障構想が警戒されたという話が本当かどうかもわかりません。
 ただ言えるのは、安全保障面でアメリカと距離をおこうとする日本の首相があらわれたとき、いつでもその動きを封じこむことのできる究極の脅し文句を、このとき「彼ら」が発見したのはたしかだということです。それは「言い方や表現」は別にして、「北朝鮮が暴発して核攻撃の可能性が生じたとき、両政府間の信頼関係が損なわれていれば、アメリカは「核の傘」を提供できなくなります。それでもいいのですか(=北朝鮮の核をぶちこまれたいのか)」という内容だと断言して、まずまちがいないでしょう。>(矢部宏冶著『本土の人間は知らないが沖縄の人はみんな知っていること』 書籍情報社 2011年発行)

日本がアメリカから独自的な判断で動こうとすると、テポドンが飛ぶ、とか言われていたことがあった。北のナンバー2は、アメリカのスパイだとか。上の話をきくと、言うこと聞かないと北の核をぶち込ませるぞ、という脅迫現実が本当にある、ということなのだろう。それを身近に見知ってきた小池都知事は、ではそれをどう教訓とするのだろう? 相手の手の内はわかってきたからもっと逆をついて独立スタンスを作っていこう、とするのか、自分の地位を維持するためにも以前の首相たちよりもっとうまくやらないと、と思うのか……。もしかして、すでにこうした件で、安倍と話しがついて共闘体制に入っているか、あるいはさらに、現総理を飛び越して、アメリカ側からのコンタクト(要望)に応えようとしているのかもしれない。週刊誌の見出しによると、佐藤優氏は、アメリカの金正恩暗殺計画に協力するしかない、ような立場らしいが、庶民はいったい、そんな政治のリアルを、どう受け止めればいいのか? 協力しないと、逆に、北の核をぶち込ませるぞ、となるのだろうか? それはあくまで脅迫だが(アメリカ軍隊を撤退させたフィリピンでは持ち得ない被爆経験者の恐怖だろう…)、それを本当にそうなるかもなこととして腹をくくって、それが陰謀であるとすることに依拠しない(証明など不可能なのだから)、誰とも共有しうるより誠実な論理を紡いでいくことは、あんまり難しくないのではないだろうか? みな戦争はきらいだし、仲良くしようよ、という話が前提なのだから。そこに、個々の具体的な文脈を流し込んでいけばいいだけの話だ。そのバカみたいな話を、大胆に言える勇気があるかないか、の話だろう。脅迫に負けてずるずると悲惨さを味わう生き地獄のほうが、大変なのではないだろうか?

2017年4月4日火曜日

「戦闘」をめぐって

白井 現場のプロは冷静ですね。全然現場を知らないような連中に限って、タカ派的な言動をする。基本的には安倍晋三もそういう気質だと思うんです。最近やっていた『NHK特集』の自衛隊についての番組を非常に興味深く見ましたけれども、やっぱり自衛隊の現場と「積極的平和主義」のような政治のスローガンとは、まったく乖離していると感じました。ここ一〇年、二〇年ぐらい自衛隊がやってきたPKO活動というのは、国際的にも結構高い評価を得ている、と。そういう実績を積み重ねてきたところで、安倍さんの路線は「ますます活躍してもらいますよ」というのだけれど、自衛隊の現場からすれば「それは全然違う話じゃねえか」と思っているのが伝わってくる。もちろん彼らは政治的発言を規制されていますから、ストレートには言わないんですけれども、間違いなくそれが本音だろうと思うんですよね。そこら辺はどうですか。防衛研究所なんかで話されていて、今の政権が取っているような方向性と現場のトップとかの温度差について知りたいですね。
内田 僕を講演に呼ぶというわけだから、バランス感覚はいいですよね。クールな人たちです。できるだけ広い範囲で情報を取ろうとしている。情報を解釈する文脈もできるだけ多様であった方がいい。憲法集会で護憲の発言をするというので、後援を拒否した神戸市に比べると防衛庁の方がはるかにオープンマインドです。それだけ自分たちの職務に本気だということです。
白井 そう。だから、「積極的平和主義」なんて、現場からすればもういい加減にしてくれ、という話だと思うのです。」(内田樹・白井聡著『日本戦後史論』 徳間書店)

南スーダンでのPKO活動に参加するために派遣された自衛隊の、「戦闘」と記述された
日報の隠ぺい問題。とりあえず、防衛大臣からの指示調査ということで、宙づりにされたままなようだ。現場仕事をする職人としてこの件の記事に目を通していきながら、これは現場の人間が、基幹方針・設計をする会社=政府を告発するために仕組んだリーク事件なんだろうな、と感じた。昨日、冒頭で引用している、2年ほど前に出版された内田・白井対談の中で、私がそう感じたことがすでに言及されていたので、次期遅れだが改めてブログで書き留めておこうとおもった。

おそらく、現場の意図には、次の3点があったろう。
(1)事実を知ってくれ。
(2)事実を捻じ曲げたところで成立する政策・方針のもとでは、仕事をする態度が決まらない。これでは俺たちはやってられないぞ。
(3)誰か助けてくれ。

日報を隠ぺいしたのは、防衛省側ということになっているが、実体はそうではないだろう。もちろん、省内や自衛隊幹部の中にも、政権よりに動いていく役割を引き受けた人もいるだろうから、そういう人が、リークが確認されたあとで、削除という忖度行為に出たのかもしれない。追求の追っ手は、自民党内部から、あるいはこの件では共闘できる野党の一部との協力ではじまったように伺える。が、結局は、問題を喚起しただけで、権力側追求の手はひっこめたようにみえる。もちろん、まったく逆の見方もできる。隊員が単に意図なく書いた日報を読んで、法の根幹に触れる恐れがあると気付いた幹部の一部が削除し、その早まった処置を知った政権側が、それを出汁に、より強固・全面的に自衛隊を統制し牛耳っていく手段にした、とか。現政権よりよっぽど文民的な軍隊を、より軍隊の名にふさわしいものとするために。内田・白井両氏も、上のような指摘をしながらも、冷戦後にアメリカを仮想敵国の一つとして政策立案する必要性を説いた自衛隊幹部候補生は、除隊を迫られた例がある、とも報告している。とにかく、アメリカの真の友人となるために、自衛隊員に血を流すことを求める勢力の方が声高のようだ。といっても、おそらく自衛隊のメンタル的実情を知っている総理大臣自身は、なおそこまでの覚悟はできていないので、撤退の決断にしたのかもしれない。もちろん、まったく逆の見方もできる。この隠ぺい問題から、何を事前に処理しておかなくてはならないかも見えてきたので、次にはより巧妙に大胆なことができるだろう、それをするために、今回は撤退を世論に見せておく、とか。

前線の隊員たちは、私たちのメンタル的な実情を露わにしてみせてくれているけれども、そこにいない私たちには、なお自分たちのことがわかっておらず、勇ましい言葉に流されている。私たちが強くない、というよりも、そういうふうに、強くあること自体が本心は疑問なのだ。サッカー界で、清武選手や山口選手が、なんでヨーロッパでないと駄目なのかな、と考え直して、日本に舞い戻ってきたのに似ている。そのまま無理してたら、戦争後遺症になってしまうかもしれない。この内向きな態度を、(若手研究者にも多くなっているのだそうだが)、各々個人の人生の是非を超えて、考えてみなくてはならない。

いま、<忖度>という言葉が国会でも議論になっている。これは、小池都知事が、日本の体制的あり方を批判する根拠として引用した<空気>という概念同様、私たちの構造的な心性、敗戦の原因として原理論的に考察されてきたものだ。それが国会で、政治家に、ギャグにされている。<忖度>・<空気>があると<忖度>する<空気>があるだけじゃないか、と。政治のリアルは、そんなものじゃないよ、と。

おそらく、その通りなのだろう。私たちの内的な構造(心性)など考慮してくれない世界=政治のリアルがある。そこでは、<忖度>ではなく具体的な強迫が、<空気>ではなく具体的な強圧があるだろう。豊洲問題、地下水と建造物は構造的には別なので基準値以上の毒素が検出されても科学的には安全だ、というのだから、もはやなんで検査が必要なんだかもわからないくらい、つまりは事実が問題なのではなく、豊洲か築地かという空気・世論風潮をどう操作して決定していくか、という内的な政治談議になっている。しかしおそらく、そんな内向きな関心を超えて、横やり的に、外圧が入るのだろう。そして私たちは、自分たちの関心から物事を決定していく道筋を提出してくれている政治勢力をほぼ失っており、ただ、外圧と真の友人となろうとする勢力が、実質は少数派なのに、現場を仕切っているのだ。前線に触れず自分のことにも気付いていない私たちは、その勇ましい人たちをなお支持している。本土空襲まで戦争の実際を気づけずにいたかつての庶民のように。だから、気づいて、率先して戦おうというのか?

が、私たちが本当に戦えるメンタルを付けるには、清武選手の決断の方向からによって、と私は考える。もちろん、個人の人生問題ならば、ヨーロッパでチャレンジしていく若者が出てくることは奨励すべきことだ。が、私たちの気分、こんな「戦闘」やってられねえぞ、そこに正直に帰って立て直すことからしか、負けない持続的なメンタリティーを構築していくことはできないだろう、と、弱者の少年サッカー・クラブに関わる現場職人さんは思うのだ。