「白井 現場のプロは冷静ですね。全然現場を知らないような連中に限って、タカ派的な言動をする。基本的には安倍晋三もそういう気質だと思うんです。最近やっていた『NHK特集』の自衛隊についての番組を非常に興味深く見ましたけれども、やっぱり自衛隊の現場と「積極的平和主義」のような政治のスローガンとは、まったく乖離していると感じました。ここ一〇年、二〇年ぐらい自衛隊がやってきたPKO活動というのは、国際的にも結構高い評価を得ている、と。そういう実績を積み重ねてきたところで、安倍さんの路線は「ますます活躍してもらいますよ」というのだけれど、自衛隊の現場からすれば「それは全然違う話じゃねえか」と思っているのが伝わってくる。もちろん彼らは政治的発言を規制されていますから、ストレートには言わないんですけれども、間違いなくそれが本音だろうと思うんですよね。そこら辺はどうですか。防衛研究所なんかで話されていて、今の政権が取っているような方向性と現場のトップとかの温度差について知りたいですね。
内田 僕を講演に呼ぶというわけだから、バランス感覚はいいですよね。クールな人たちです。できるだけ広い範囲で情報を取ろうとしている。情報を解釈する文脈もできるだけ多様であった方がいい。憲法集会で護憲の発言をするというので、後援を拒否した神戸市に比べると防衛庁の方がはるかにオープンマインドです。それだけ自分たちの職務に本気だということです。
白井 そう。だから、「積極的平和主義」なんて、現場からすればもういい加減にしてくれ、という話だと思うのです。」(内田樹・白井聡著『日本戦後史論』 徳間書店)
南スーダンでのPKO活動に参加するために派遣された自衛隊の、「戦闘」と記述された
日報の隠ぺい問題。とりあえず、防衛大臣からの指示調査ということで、宙づりにされたままなようだ。現場仕事をする職人としてこの件の記事に目を通していきながら、これは現場の人間が、基幹方針・設計をする会社=政府を告発するために仕組んだリーク事件なんだろうな、と感じた。昨日、冒頭で引用している、2年ほど前に出版された内田・白井対談の中で、私がそう感じたことがすでに言及されていたので、次期遅れだが改めてブログで書き留めておこうとおもった。
おそらく、現場の意図には、次の3点があったろう。
(1)事実を知ってくれ。
(2)事実を捻じ曲げたところで成立する政策・方針のもとでは、仕事をする態度が決まらない。これでは俺たちはやってられないぞ。
(3)誰か助けてくれ。
日報を隠ぺいしたのは、防衛省側ということになっているが、実体はそうではないだろう。もちろん、省内や自衛隊幹部の中にも、政権よりに動いていく役割を引き受けた人もいるだろうから、そういう人が、リークが確認されたあとで、削除という忖度行為に出たのかもしれない。追求の追っ手は、自民党内部から、あるいはこの件では共闘できる野党の一部との協力ではじまったように伺える。が、結局は、問題を喚起しただけで、権力側追求の手はひっこめたようにみえる。もちろん、まったく逆の見方もできる。隊員が単に意図なく書いた日報を読んで、法の根幹に触れる恐れがあると気付いた幹部の一部が削除し、その早まった処置を知った政権側が、それを出汁に、より強固・全面的に自衛隊を統制し牛耳っていく手段にした、とか。現政権よりよっぽど文民的な軍隊を、より軍隊の名にふさわしいものとするために。内田・白井両氏も、上のような指摘をしながらも、冷戦後にアメリカを仮想敵国の一つとして政策立案する必要性を説いた自衛隊幹部候補生は、除隊を迫られた例がある、とも報告している。とにかく、アメリカの真の友人となるために、自衛隊員に血を流すことを求める勢力の方が声高のようだ。といっても、おそらく自衛隊のメンタル的実情を知っている総理大臣自身は、なおそこまでの覚悟はできていないので、撤退の決断にしたのかもしれない。もちろん、まったく逆の見方もできる。この隠ぺい問題から、何を事前に処理しておかなくてはならないかも見えてきたので、次にはより巧妙に大胆なことができるだろう、それをするために、今回は撤退を世論に見せておく、とか。
前線の隊員たちは、私たちのメンタル的な実情を露わにしてみせてくれているけれども、そこにいない私たちには、なお自分たちのことがわかっておらず、勇ましい言葉に流されている。私たちが強くない、というよりも、そういうふうに、強くあること自体が本心は疑問なのだ。サッカー界で、清武選手や山口選手が、なんでヨーロッパでないと駄目なのかな、と考え直して、日本に舞い戻ってきたのに似ている。そのまま無理してたら、戦争後遺症になってしまうかもしれない。この内向きな態度を、(若手研究者にも多くなっているのだそうだが)、各々個人の人生の是非を超えて、考えてみなくてはならない。
いま、<忖度>という言葉が国会でも議論になっている。これは、小池都知事が、日本の体制的あり方を批判する根拠として引用した<空気>という概念同様、私たちの構造的な心性、敗戦の原因として原理論的に考察されてきたものだ。それが国会で、政治家に、ギャグにされている。<忖度>・<空気>があると<忖度>する<空気>があるだけじゃないか、と。政治のリアルは、そんなものじゃないよ、と。
おそらく、その通りなのだろう。私たちの内的な構造(心性)など考慮してくれない世界=政治のリアルがある。そこでは、<忖度>ではなく具体的な強迫が、<空気>ではなく具体的な強圧があるだろう。豊洲問題、地下水と建造物は構造的には別なので基準値以上の毒素が検出されても科学的には安全だ、というのだから、もはやなんで検査が必要なんだかもわからないくらい、つまりは事実が問題なのではなく、豊洲か築地かという空気・世論風潮をどう操作して決定していくか、という内的な政治談議になっている。しかしおそらく、そんな内向きな関心を超えて、横やり的に、外圧が入るのだろう。そして私たちは、自分たちの関心から物事を決定していく道筋を提出してくれている政治勢力をほぼ失っており、ただ、外圧と真の友人となろうとする勢力が、実質は少数派なのに、現場を仕切っているのだ。前線に触れず自分のことにも気付いていない私たちは、その勇ましい人たちをなお支持している。本土空襲まで戦争の実際を気づけずにいたかつての庶民のように。だから、気づいて、率先して戦おうというのか?
が、私たちが本当に戦えるメンタルを付けるには、清武選手の決断の方向からによって、と私は考える。もちろん、個人の人生問題ならば、ヨーロッパでチャレンジしていく若者が出てくることは奨励すべきことだ。が、私たちの気分、こんな「戦闘」やってられねえぞ、そこに正直に帰って立て直すことからしか、負けない持続的なメンタリティーを構築していくことはできないだろう、と、弱者の少年サッカー・クラブに関わる現場職人さんは思うのだ。
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