2018年12月16日日曜日

息子の高校受験をめぐって

「理想化された資本主義と民主主義を世界に広めるというグローバル化の夢、フランシス・フクヤマが言うところの「歴史の終わり」は、今日はるかに遠いようにおもわれます。中東は、民主化どころか国家の解体の中にいます。中国は、開放どころかおびただしい腐敗が吹き出しています。
 さらにまずいことが起きています。西欧の人々の目に、そのエリートたちは明らかにこう映っています。米国でも英国でもフランスでも、彼らは、もはや自分たちの声を聴かず、寡頭制に傾いて最も古いリベラル民主主義をむしばみつつある、と。…略
 しかし、私は長い間、先生たちと同じように、統治する者たち、指導者たち、エリートたちの特性にはそれほど注意を向けてきませんでした。しかし、エリートたちの能力や情念、道徳性といったことについても、大衆についてと同様、経験主義的な手法で研究できるし、するべきです。私の場合、エリートについての経験主義的な研究が不足していたことで、しばしば彼らの知性や責任感、道徳性を過大評価していました。
 だから私は、何度も何度もフランスの指導層が結局はユーロの失敗を認めて、自分たちが引きずり込んだ通貨の泥沼から、社会を引き出してくれるだろうと思ってしまいました。
 結局、違った。ユーロは機能していない。けれども消えていません。若者がひどい扱いを受け、とくに移民系で最も弱い人たちのグループがのけ者になる事態は続きました。
 つまり、フランスの指導層は、ユーロを壊すくらいならフランス社会の一部を壊したほうがましだと考えたのです。…略…エリートの振る舞いを予測する点では、彼らの力についての経験主義的なしっかりした研究が欠けていたために、私は人間性についての楽観的な見方に傾いて判断を間違えてしまいました。」(エマニュエル・トッド著『グローバリズム以後』 朝日新書)


「「そう遠くないうちに、人々は犯罪に走るでしょう。ガラスを打ち割って欲しい物を手に入れるようになる。いまに暴動が起きるでしょう。」と利用者の女性が言っている。「我々のフードバンクに来る人々の多くは働いている人。看護師や学校の教員がフードバンクに来ている。」と職員は説明したそうだ。…略…そもそもEU離脱は排外主義やEUへの反感だけが起こしたものではない。その底には、経済や社会に対する人々の強い不満と怒りがあった。…略…こうした指導者の意識と、地べたの現実との乖離が、隣国フランスで燃料税値上げに抗議する「黄色いベスト」のデモを引き起こした原因ではなかったのか。」(ブレイディみかこ著「英国のEU離脱 貧困を直視せぬ指導者」朝日新聞朝刊 2018.12.15)

渋谷のハロウィン騒ぎについてふれたブログで、勉強にしろスポーツにしろ、エリート路線に乗った子とそうでない子とに二分されているような現象を指摘した。小学4年生から受験勉強に慣らされる子と、高校受験を間近に控えても社会に緊張感を持てない子と。私の息子は後者になるが、みていると、そのマイペースさや女房とのバトルの様には、考えてみていくべき現実が伏在している気がしてきた。今の入試制度は私の頃と大分違うようで、後者の者たちには、受験に失敗させない仕組みが張り巡らされているようだ。わが女房は、なおさら息子が勉強しなくなるからと、低いレベルの単願推薦だの、単願受験などさせないと、息子の現状を越えた高校ばかりをやたら受験させようとする。この発想は私の時代の大学受験方式だ。数打ちゃ当たる、みたいな。「ぜったい受からないよ」「じゃあ、どこがいいの?」「○○高校」「いやだ。かってにいきなさい。お金はださないからね。」学校からも、塾からも、「気違い」呼ばわりされているのだそうだか、「一生懸命やることのどこがわるいの。楽ばっかして。ジャイアント・キリングを狙う」と息巻く。「まぐれで受かったらどうするんだ? 単位とれなくてぐれてくよ」と私。が、クレーマーとしての執念が学校側を動かしたのか、通信簿の評価が上がって、私立併願推薦がとれたと連絡はいる。確か、模擬試験結果からは、息子の合格率が1割ぐらいだったところだ。よっぽどひどい点数でなければ、受かるのだという。しかし、息子には気が進まない理由があるようで、なおさら不機嫌になったようだ。女房とのバトルを避けるため、塾に逃げ込んでいる。入試ひと月前にして、女房もここ数日は平穏だ。私には、不穏な静けさで、気味がわるい。

麻生大臣は、人が勉強している時にあそんでいたバカな連中のために、どうして金持ちが余分に税金肩代わりするんだ、みたいな発言したそうだか、狭い了見だ。少なくとも、私が中学生の頃は、優等生たる者、率先して皆の事を考えなくてはならない、という暗黙の義務了解が生きていたと思う。なお、故郷へ錦を飾る、ということが受け入れ可能な地盤があったということだ。炭鉱産業地盤の三代目世代にあたるらしい、吉田茂の娘が母になる麻生氏は、エリートというより、すでにエスタブリッシュメントな世界に入っていたのだろう。そして今の子育て事情も、他人の事を思考に据えるエリート教育というよりは、自分のスキルだけに関心を集中させていく、狭い了見、狭い世界への参入模索がリアル(ポリティクス)、と志向されているようだ。子供のサッカーチームでも、面倒見のいい優秀選手は、見当たらなくなった。

私には、勉強するしない人の割合は、蟻の生態と同じではないかと思われる。グーテンベルクが印刷機を発明し、識字率が上がり、スマホが普及しても、まともに読書し考えはじめるのは1割2割。真面目な働き蟻は3割で、あとは振りしてるだけ。が、真面目な3割を除けると、やはり残りの蟻から3割だけが働きはじめる。ならば、威張っていてもしょうがない。怠け者とされる者にも、何か自然的な意義があるのだ。

あおり運転、について

「彼らは誰か? 兄弟の他者たちとは誰か、非ー兄弟とは? 何がこの者たちを、のけ者的存在に、排除された者あるいは惑える者に、街路を、とりわけ街路を徘徊する、中心を外れた者にするのか? (しかし、もう一回言うが、街路〔rue〕と狡猾漢〔roue〕の間には残念ながら語源的類縁性はない。狡猾漢もならず者同様、つねになんらかの街路に対して、都市における、都市的な礼節における、都市生活の正しい慣用における街路であるところの正常な道(ヴォワ)に対して定義されるのであるが。ならず者と狡猾漢は街路に混乱を持ち込む。この者たちは指し示され、非難され、裁かれ、断罪され、指さされる。現動的ないし潜勢的な非行者として、予知されている被告〔prevenu〕として。そして、この者たちは執拗に追い回される、文明化した市民から、国家あるいは市民社会から、善良な社会から、その警察(ポリス)から、ときには国際法から、そして、その武装せる警察から。法と習俗を、政治(ポリティック)と礼節(ポリテス)を監視する、あらゆる流通路を、歩行者ゾーン、車輌ゾーン、海路および空路のゾーン、電子情報、Eメールおよびウェブを監視する警察から。)」(『ならず者たち』ジャック・デリダ著 鵜飼哲・高橋哲哉訳 みすず書房)

死刑制度が、それに値するとされるような犯罪を減少させるわけではないと、アムネスティは報告しているようだ。シンガポールと香港での統計を示して、ゆえに抑止名分で制度を続行している国々を批判したわけだ。が、この統計だけでは、真偽は決められないだろう。冤罪があることは、はっきりしている。
飲酒運転での過酷事故は、罰則も取り締まりも強化され、警視庁発表の統計では、相当数減少している。携帯スマホでの運転事故はどうだろうか? 社会・世論の圧力が、しなくてもすむような、いわば便乗事故を払拭させていることは、あるように思われる。
が、私には、それでも払拭できない層、確率的な現実はあるようにみえる。そんな社会や世論が、むしろ犯罪を発生させていくような現象である。死刑制度、法が抑止できないのは、この金魚の糞のように我々についてまわる本源的な構造だ。

助手席に座りながら、運転手にあおり運転され脅かされたことが私にはある。勤務途中だか、仕事もおそらく私生活でもうまくいかず切れまくる同僚。暴走族あがりの親方も、二日酔いで出てきたまだ若い時分は、無意識のうちに蛇行運転、前の車との車間距離をなくし、右から左から気持ちよさそうにプレッシャーをかけていた。団塊世代職人も、朝起きたら駐車場の車の中、どうやってここまでこれたのか酔っ払って覚えてねえや、と冗談半分で言っていたこともある。
いまは、酒を飲むことはおろか、車離れも起きている。とりあえず、そんな大人しい社会変化が善いことだとしても、歴史的に、あるいは自然の最中を生き抜く生態的に、その変化がどんな意味を持ってくるのか、私たちは、なお詳らかにしてはいないのだ。

2018年11月15日木曜日

「歴史の終わり」をめぐって(4)ーー平和条約を前に(2)

「それでは、社会体制の思想原理を民衆自身が考えはじめることは、なぜ危険なのであろうか。それは、現実の身分制的権威にたいして、観念の世界においてではあるが、思想原理という優越した権威が民衆のうちに成立するからであり、そのために、さしあたっては封建制と対立しない思想もいつ批判の論理に転化するかわからないからである。富士講の行者たちが、ミロクの世の実現を幕府の権力者や天皇に期待したことは、彼らが封建支配にたいしてあまりにおめでたい幻想をもっており、封建体制を批判するどころではなかったことをしめしていよう。しかし、それにもかかわらず、一つの思想原理が成立してみれば、その立場から現実社会を批判的に眺め、身分制の権威よりも思想的(宗教的)信念の権威を信ずる人間を生みだしてゆく可能性が生まれる。富士講の始祖角行は、「天下泰平国土安穏万民快楽」の使命をもってこの世に生まれてきたとされているが、この使命のゆえに角行は「天子の役也」、「神孫の役也」、「国王の役也」などとくりかえしてのべられており、身禄も自分のことを菩薩と呼んだばかりか「王」と呼び、自分の妻を「女御」、娘を「姫」などと呼んだ。これらはすべて救世の予言者としての思想的権威を宣言するものであり、そうした観念上の権威が現実の身分制的権威に優越すると主張したものである。自己の思想的権威を現実の政治的権威よりも優越させる態度は、「革命」説を否定した近世の儒教にはとぼしかった。富士講においてもこうした観念が十分発展したとはいえないが、丸山教や大本教の現実批判はこうした観念の発展なしには考えられない。」(安丸良夫著「「世直し」論理の系譜」『安丸良夫集3』岩波書店)

今年6月に来日した、フランシス・フクヤマ氏の最近作の翻訳にともなう記者クラブでのインタビューを、You tubeで見た。最後の個人会員からの質問はずばり、歴史は終わった、リベラル民主主義の勝利で、というのは、大ハズレだったのではないか、というものだった。だからこそ最近作を読んでくれ、との返答に、笑いに包まれてインタビューは終わったようだが、私としては、このハズレにはなお考える余地がありすぎる、と考えている。
要は、トランプ大統領の出現とその振る舞いが、リベラルな民主主義の終わりではないか、というフクヤマ氏とは正反対な意見が、ジャーナリズムや政治学者間での吹聴になってきているわけだ。アメリカの自壊現象が、中国とロシアの台頭という現実を後押ししていることが、明白になってきたわけだ。ただこの思想的風潮は、だから野蛮な方向へ歴史が退行している、と見る点で、フクヤマ氏と思潮の根を同じくしている。
が、トッドの家族人類学的な見方によれば、逆になるわけだ。核家族=民主主義の方が野蛮というか類人猿に近く、共同体家族=帝国の方が、文明として新しい、人間的な進歩なのだ、となる。むろん、「進歩」といったのは私個人によるイロニーで、トッド自身は時系列的には事象をとりあつかわず、似たような構えをみせる「世界史の構造」の柄谷氏によれば、4つの交換形態の組み合わせやそのグラデーション、強弱となる。
が、私が見たいのは、フクヤマ氏の中心概念である、「気概」、英語ではdignityの行くえ、だ。まだ翻訳されていない最近作で追求されているようだ。

ともかく、こんな地政学的な変動において、日本の総理が、ユーラシアの中心、文明化発祥地に近い帝国から、「平和(条約)」をせまられているわけだ。だから、三代目安倍だけの問題ではない。私は、プーチンの提案の方向でいくしかないだろう、とおもうが、洞察力のないへたな首相しか輩出させられないならば、旧ソ連からもアメリカからも、ぼったくられて日本人は悲惨になるのではないかと、おそれる。が、その方向をとらない、ということは、世界から孤立していく、ジャパン・ファーストになっていく、ということではないか? 世界の笑い者になるか、世界の除け者になるか…私は、世界に参加した上で、次の可能性を鍛えていく方がいいだろう、と考える、が、まだよくわからない。
戦いは終わった、といったフクヤマ氏は、私はリベラル民主主義のために戦う、そのために日本にも来た、というのだか、文明からの亜周辺に位置する日本が、その戦列につけるのか、つくのがいいのかも、根本的というより、体質的に再考しなくてはならなくなった、ということなのだと考えている。

2018年11月1日木曜日

ハロウィン騒ぎーー江戸の明るさ/暗さ(2)

「ところが、商品経済の浸透を最深部の起動力として、伝統的な村落生活が崩れてゆくと、若者たちの恣意性がつよまり、これまでのそれなりに秩序をもっていた若者たちの「この世の楽しみ」が急速に膨張して伝統的生活秩序をおびやかすことになった。こうした過程で、従来の若者仲間の制限、禁止、青年団や夜学校への改組などがすすめられた。青年団が全国的規模で設立されるのは、明治三十年代のことであるが、若者仲間の改廃は、それよりずっと以前から村落の重要な問題となっていた。たとえば、文政十年に、…略…若者仲間は倹約や村の秩序を乱すもとになっている、と判断されたのである。またたとえば、天保十三年に…略…若者仲間と娘組の活動の基礎であった若者宿・娘宿の禁止として注目してよいだろう。若者制度の動揺と衰退が、近世後期の現象であることは、民俗学者があきらかにしているが、それにはまた婚姻性の根本的な変化が結びついていた。これまでの若者組・娘組に媒介された青年男女の相対的に自由な結婚はすたれ、仲人が重要な役割をはたす「家」と「家」との家父長権に支配された結婚へと転換していった。」(安丸良夫著『日本の近代化と民衆思想』平凡社)

江戸関連の本を読んでいるからか、ニュースで騒いでいる渋谷界隈の有り様が、江戸後期の姿と重なって見えてきた。
むろん、もうかつての夜這い習慣の若者組はおろか、明治からの青年団、現在では、町内会の青年部として形骸的に存続しているような仲間組織、中間団体は、もはやはじめから機能していないかもしれない。が、義務教育としての学校がある。その近代化にあっての若者教育装置が、末期的だということなのだ。
高校受験をむかえている中三の息子がいなかったら、テレビで騒ぐから騒ぐようになるんたよ、と無関心で過ぎていっただろう。息子は中間・期末試験前でもいつもと同じように勉強しないが、私の昭和時代では、この平常さは、不良と呼称される者たちぐらいで、成績の良し悪しはともかく、試験前ぐらいはその義務・強制力に緊張はしていたとおもう。がどうも、息子のみでなく、普通の子たちが世の中に反応していない。なめきっているというか、相手にしていない、というか。その一方で、勉強にしろ、スポーツにしろ、エリートコースに乗った者たちは、その者たちで突き進んでいくようだ。そしてそこでは、婚姻形態までもがその階級性を堅固にしていく向きがある。私の慶應大卒のイトコは、お金持ちと結婚したのだか、その条件は、親戚付き合いはしない、ということだったそうだ。イトコの父親、つまりは私の父の弟だがーーは、ロッテの営業課長だか部長ぐらいまでには出世したらしいが、そのくらいでは駄目ならしい。
植木職人として金持ちの庭の手入れにもいくけれど、婚姻関係が「家」的にガードしているところは、マンション経営など財テクにも知恵しぼり、そこ、わが子の男女関係にルーズというか普通に自由な所は、屋敷も蔦が這いずりまわるようになり、フォークナーの文學世界かポーのアーシャー館の崩壊か、と連想されてくる。
若者たちの騒ぎは、ある意味、実質ある仲間組、いわば中間団体的な連帯への模索であり、あがきだろう。数ヶ月前のニュースで、アイドル追っかけのオタク仲間の間で、入場券の受け渡しによる無賃乗車連携プレーが摘発されたが、法を犯してまで仲間のためにやる、その覚悟強度が、中間団体か否かどうかの境界になろう。しかしその模索とあがきが、家父長制的な国家権力の強化進展へと向かったのが、日本の近世から近代への過程だった、ということだろう。
最後にまた、安丸氏の上著作から引用。

〈商品経済の発展は、伝統社会におけるつつましやかだった人々の欲求を刺激さして膨張させ、奢侈や飲酒や怠惰へと誘惑した。もともとは前近代の村落生活において、人々に健全に人間的諸要素を実現させる形態だった若者仲間やヨバイが、恣意や放縦の手段となった。いうまでもなく、商品経済は人々に伝統な諸関係を打破して上昇する機会をあたえるとともに、没落の「自由」をもあたえるものだった。だから人々は、自分で禁欲して勤労にはげまねばならぬのであるが、民俗的世界の人々はそうした訓練をうけてはいなかった。彼らは、あらたな刺激にあおりたてられ、没落への淵をはいずりまわることになった。没落するまいとすれば、伝統的生活習慣の変革ーーあらたな禁欲的な生活規律の樹立へとむかわざるをえなかった。〉

2018年10月28日日曜日

江戸の明るさ/暗さーー「歴史の終わり」をめぐって(3)

「アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。」(太宰治著『右大臣実朝』)

「長者ニ三代ナシ」と江戸は元禄時代に言われたそうだ。その言葉を名言として受け止めた河内国の酒造業を兼ねた地主の、子孫に残した手記を読み解いて、歴史家の安丸良夫氏は、次のように時代背景を描写する。

〈…民衆自身の主体性において、また一つの民衆運動として、民衆的な諸思想が形成・展開・伝播されたのは、元禄・享保期以後のことであり、それもさしあたっては三都とその周辺からはじまったのである。…略…そして、さらに民衆的な諸思想が農村部でも展開され、日本の民衆がいわば全民族的な規模で思想形成の課題に直面したのは、近世封建社会の危機もようやくふかまった十八世紀末(天明・寛政期)以降であり、とりわけ文化・文政期以来のことであった。…略…したがって私は、天明・寛政期以降を民衆思想史の第二期としたいのであるが、この時代において民衆に思想形成をうながしたのは、どのような諸事情だったろうか。おそらくここでも、商品経済の急速な展開のなかに現実化した没落の危機が、思想形成の決定的な契機だった、といえよう。しかし、没落の危機とはいっても、梅岩の門に集まった富裕な町人たちにとっては、それはまだ油断をすればそうなるかもしれない蓋然性にすぎないのに、尊徳や幽学の直面したのは、現実に惨憺と荒廃した村だった。〉(『日本の近代化と民衆思想』平凡社)

江戸時代のイメージは、ポストモダンの社会を先取りしていたと再解釈されたバブル期の明るいエドから、エコロジー的な技術と思想をもっていた時代へと、ポジティブに受け止められているのが最近だろうか? 高度成長期以前は、封建制に抑圧されていた暗い時代、鬱屈した庶民の社会、といった見方だったようだ。
私には、この落差がまずわからず、いったい実態はどうなのだ? と疑問だった。安丸氏の洞察と考察は、そんな私には示唆的で、説得力がある。

現在の安倍総理から大塚家具騒動まで、そして天皇退位から私のいる植木屋も含めて、戦後の三代目問題の時期にきているようだ。なぜ日本ではそのような傾向になるのかは置いておこう。とにかくも、長い平和な江戸時代は、一枚岩ではなく、三代目で亀裂がはいり、以降は悲惨な一途をたどる。なのになぜ、明るい、とされるのか? しかも、それは後世からの勝手都合な解釈だから、なのでもない。渡辺京二氏の解く「逝きし世の面影」がパースペクティブとして有効であり、子供の誘拐が横行していても、子供の天国であったのも確かな見立てなのだ。この矛盾の実質性を、どう理解したらいいのだろうか?
スーパーボランティアの尾畠さんの出現は、ヒントになった。貯蓄もなく、年金5万で明るく活動している。仇は忘れても恩は忘れない、だの、信念的な言葉を聞いていると、いわば江戸的だ。と、容貌も似ている職場の職人さんが重なってくる。いや、もっと過激か。「宵越しの金は持たぬ」だの「雨と女は職人泣かせ」だの、江戸時代の諺そのものような倫理で生きて来たらしいので、年金も払ってきていない。もう腕上がらず足もよろよろの七十になるが、それでも一線で働き続けなくてはならない。2LDKに夫婦子供3人と母とで寝起きしてきた。女房は糖尿病で目が見えなくなっている。自身も心臓が弱って薬が必要だ。客観的には、悲惨で暗いであろう。が、明るいのだ。近所で手入れしていると、次から次へと声をかけてきて、人気者だということがわかる。(が最近の近所の目は、気の毒というより軽視の感がでてきている。)この心の持ち用は、どうなっているのだろうか?
と、私自身の心を覗いてみれば、想像がつくことに気づくのだった。もうすぐ高校生になる息子と女房の3人で、いまなお川の字になって寝ている。プチブル意識を壊してきた私は気にしてないが、ブルジョア成金育ちの女房は、あがいている。息子の受験につきっきりになるだけでなく、テーブルに肘をつくな、とか、身体のエスタブリッシュメント化を自覚もなく発揮している。父の遺産でなんとかオンボロ団地を脱出しようとしているが、東京の相場ば高く、日雇い年寄りではローンもくめない。

没落が怖いのか? 私は、どうなのだろう? それでも、明るい。アカルサハ、ホロビノ姿デアロウカ?

2018年10月5日金曜日

「歴史の終わり」をめぐって(2)


「また、近年のフェミニズム運動の例を取り上げてもいい。フェミニズムの主張によれば、これまでの歴史の大半は「父系制社会」間の紛争の歴史であったが、もっと和気あいあいとして、慈愛に満ち、平和を好む「母系制」はそれにとって代わる有力な選択肢であるという。母系制社会の実際例が存在しないため、この主張を経験的な事例をふまえて証明することはできない。とはいえ、人間の人格のうちの女性的な面は、解放され得るはずだとするフェミニズム運動家の理解が正しければ、将来において母系制社会が存在する可能性は除外できない。そしてもしそれが実現すれば、いまの時点でわれわれはまだ歴史の終わりに達していなかったことになるのだ。」(『歴史の終わり(下)』フランシス・フクヤマ著・渡部昇一訳 三笠書房)

男たち(父系社会)の「気概」をめぐる戦争がなくなり、サッカー・ワールドカップのような平和的代行でその用がすまされるようになったのは、まさにその社会が完結(歴史の到達)にいたったからだ、というのがフクヤマの論たてだった。しかしそれはあくまで仮設で、「女性的な面」が前面に出てくるような実際が生起してくれば、その限りではない、という留保というか、前提条件があったわけだ。しかし、「女性の識字率」と「出産率」を、歴史の動向(関数)の主要な変数とみなすトッドの家族人類学によれば、むしろ歴史の価値実現としての到達点(目標)たるリベラルな民主主義とは、父系社会的な文明発祥地(ユーラシア中心部あたりに仮設される)での家族形態、共同体家族といったものが、なお伝播されきっていない周辺的な地域での産物なのである。つまりトッドの見立てによれば、共同体家族の現代的衣装である「共産主義」(父系的絶対制)の崩壊とは、歴史の終焉というよりは、挫折なのである。文明化が失敗し、なお野蛮な、文明前の未開的家族形態、いわば核家族的な価値が残存・延命していることを意味するのである。しかもその価値内には、「女性的な面」の重視がある。核家族的な系譜では、父(長男)に家系されていくわけではなく、むしろ末っ子や娘が両親と暮らし続けるという、ある意味無理ない自然性をみせる。そして文明中心地に近いロシアや中国、中東などでも、むろんその原初の核(価値)は残っていると想定されるので、その地において女性が自らを表象する識字能力を獲得し出産を自己制限できるようになったとき、その識字・出産率がある閾値を越えてくるとき、民主主義的な方へ、つまりは未開的な核家族的価値が露呈してくる、と統計的に見立てるのだ。
ヨーロッパ、および日本に顕著な封建制とは、共同体家族的なほど絶対的な父系・父権制ではないが、その伝播途中の中間形態的なものだ、ということになる。イギリス(アメリカ)やフィリピンが、伝播しきれなかった残余、周縁地帯になる。しかしヨーロッパは、あくまでユーラシアと陸続きである。日本でその父系原理が強度をもって伝播されはじめたのは、鎌倉武家政権時代、つまりはモンゴル帝国の影響が考慮されるが、ヨーロッパはその一部が征服され、日本には神風が吹いた。フーコーをはじめとした、いわゆる西洋の文脈でのポスト・モダニストと称されもする思想家たちの試みは、ファシズムへの反省から、父権的な共同体原理を脱構築することにむけられたが、日本では、その文明化が不十分でありそれ以前の地のより強い残存が、むしろ「未完のファシズム」として日本人自身を悲惨に陥れたとして、未開批判の文脈が説得力をもった(宮台の「田吾作」批判など)。
が、共産主義体制の自壊は、西洋による西洋批判の文脈を頓挫させ、未開礼賛(=民主主義礼賛、「歴史は終わった、西洋の、男たちの勝利!」)の風潮を前景化させた。そうした風潮が、プレ・モダンとしての江戸批判を、むしろポスト・モダンな江戸として評価する逆転を後押しする。さらにこの言説文脈と、事実上、第三次大戦にはなっていないという世界の平和的延命が、日本人が日本を批判するという日本の文脈を失効させている。日本がなお未開(プレモダン)だという批判文脈とは、大きくは天皇制批判ということになるが、いまやそんな声は端っ子においやられて気違いとみなされるだけのような雰囲気だ。
そもそもこの変化は、日本の土壌批判に徹してきた柄谷行人が、その土壌を「双系制」(核家族的一変種)と人類学的に捉え直したことが兆候的な転換点だっただろう。それ以来、柄谷自身が「世界史」的な文脈で語りはじめ、その大きな文脈において、憲法9条を江戸の平和へと結びつけるのだ。
最近の流行著書では、國分功一郎が、次のように述べている。

〈…そのとき、インド=ヨーロッパ語には属さない日本語にも中動態として分類されるべき要素が存在し、しかもそれのたどった経緯がインド=ヨーロッパ諸語の場合と同じであったという事実は、現在の人類が手にしている文明ーー新石器文明とでも呼べばよかろうかーーの何らかの核のようなものをほんの少しでも思い描いてみるのに役に立つかもしれない。〉(『中動態の世界』医学書院)

要は、日本の文脈以上に、深い文脈、ディープ・ヒストリーというかビッグ・ヒストリーというのか、いわば人類上の文脈で考察されることが誘導されている。かつてなら、「中動態の世界」とは、「天皇制だ!」と一喝されてしまったかもしれない。が、もっと丁寧に読もう、現実をみよう…私も賛成だ。が、そのことで、日本の文脈が、失われてよいのだろうか?

以上の問題意識をもって、もう一度江戸の世界、パックス・トクガワーナ下での富士講をめぐる庶民の姿勢を再考する。

2018年9月25日火曜日

父の介護から


「…アラブの話である以上、戦争状態が長く続いていた国々だということぐらいは小学生だって知っている。もし知らなかったら、一般常識として会議は紛糾するものだ、ぐらいはわかるだろう。知識として知らなかったとしても体験でわかるはずだ。
 要は、一般常識と体験からイメージするのである。…(略)…原理はそういうことだ。一般常識や体験から類推し、イメージを膨らませることは可能なのである。
そもそもイメージとは、わかりにくいものを即座に理解するためには不可欠なものなのだ。
 もしも、なかなかうまくできないというのであれば、ひとつトレーニング方法をご紹介しよう。
それは喩え話だ。あるもの、ある事象を他人にわかるように一言で喩えることがイメージの訓練となる。自分の仕事の分野の専門知識や専門用語を、一般的な言葉、日常会話で言い換える。
そうすれば、発想は飛躍的に上がってくるだろう。…(略)…数学的思考がどういうものであるか、しっかり理解し、その上で、立体的なイメージが構築できれば、すべてのことがクリアになってくるだろう。
数学的思考はあらゆることを可能にする思考なのである。(苫米地英人著『すべてを可能にする数学脳のつくり方』 ビジネス社)


週末の連休が続いたので、認知および腰椎骨折のため入院していた、父の見舞いおよび介護のために実家へと通った。その間、女房の父親が介護施設で亡くなった。去年の秋には、母親の方が亡くなっていた。私の母の方は、自宅での父の世話から解放されたが、自身の疼痛が激しくなり、歩くのもままならない。退院したら施設からたまには帰宅するだろう父のために、庭をバリアフリー的に車椅子が押せるようコンクリで均したが、飛び石につまずいて骨折してしまうかもしれぬ母のための予防目的の方が大きいだろう。
学生として上京して以来、まともに家には帰っていなかった次男の出現は、当初、疑いをもって見られていただろう。没落していくような家のことはおまえはかまうな、外で生き延びろ、みたいな母のスタンスだったが、ここにきて、実際的な能力をみせている私に対する信頼感が出てきたようだ。家にいる精神障害者の兄は、そうやって家での私の地位が上がっていくことに安堵しているふう。私としては、仕事の合間をみてまめに家を世話している弟のアイデンティティに阻害をきたしたくはない。所詮、どうなろうと、間近な死はどうなるというものではない。もう、親たちは十分生きたはずだ。なお生活を作っていかなくてはならぬ私たちのほうが問題だ。無用な疑心暗鬼、身内争いはいらない。現実は、直視しなくてはならない。作家の高橋源一郎氏は、母親の介護を申し出た際、母親から、逃げたいのだろう、と見破られたそうだ。現実からの逃避ではなく、現実に抵抗し、作っていくために、この現場に関与しなくてはならない。
 
人間50年から、人間100年へ。人がこんなにも長生きする事態に直面したのは、今の老人たちが初めてなようなものだろう。だから、その最後の身の振りにあがくようになっても、仕方がない。一昔まえは、長生きしてしまった者は、自ら食を減らして自然に衰弱死していくよう最期を作っていったそうだし、姨捨山みたいなのも、強制的なバイアスだけではないだろう。老人たち自ら山にグループホームを作って生活し、若い世代は近づけず、一人づつ死ぬに任せていった村の知恵もあったそうな。思想家の西部氏は、そんな伝統を喚起させながら自死の思想を説いて、私にはドストエフスキー『白痴』でのイポリットのような死に方をしたインテリのようにみえるけれど、早とちりな認識、人へのみく びりが前提とされているのではないだろうか?
 
車椅子から、休憩所のソファへ腰掛けたいと立ち上がる父を支えたさい、肩に噛み付いてくる。先週も、医師からの許可もなく介護技術を持っている人が回りにいないときは駄目だよと制したとき腕に噛み付いたように、歯のない口で噛み付いたのか? 今回私は、自分でも支えるくらいはできるだろうと(飲み物を飲ませる際むせさせて、介護師の弟から「素人がやると誤飲性肺炎になるよ」といわれた)、要望に答えたのだが…。「お父さん、なんで噛み付いたんだい?」私が目を大きくして覗き込むと、父はわかったような気をみせた。私が次男のマサキだとわかっているのだろうか? 食べる、歩く、原理的な体の動かし方は消えていないし、新聞の漢字もよめた。母とのじゃんけんは、後だしですべ て勝つ。記憶がなくなったわけではなく、思い出すための回路の複雑さが築けないのだ。細胞のネットワークが、寸断状態になっているのかもしれない。だから、単純な作法に還元し、代用する。叩く、噛み付く、…看護士は、そうした意志表現を、「パニック」という言葉で説明した。そしてそのことを、自身で意識している。だから、あきらめがある。伝えたいことが言えない、やりたいことができない。あちこち首を振って、故郷の風景を確かめる父の表情には、どこか悲しさがある。「もう帰るから」と私がいうと、バイバイと右手をあげて振る。握手しようと手をのばすと、馬鹿力で握り返してき、両手で引っぱるように振り回す。あの時噛み付いたのも、とっさにしがみついて体を支えるための知恵だっ たのかもしれない。そして今、私にしがみついたのも、ふと、自分がもう死んでいく存在であると意識したからか? 握手がすむと、またすぐにベットに背を持たれて、右手を振った。あきらめた、と感じだ。骨折手術後に面会に行ったときは、「お家に帰ろうよ」と何度となく口にしたが、もうそんな言葉は聞かれなかった。
 
私たちや、もっと若い世代には、こんな長生きする時代は来ないだろう。しかしそのときのために、こういう条件下では人はこうなり、そのときのメカニズム、記憶とはなんでどういう原理をもっているのか……身近な材料として考えて、死んでみせ、後世に、若い奴らに伝えろ。少しでも、生き抜くことが、楽になるように祈って。

2018年9月21日金曜日

「歴史の終わり」をめぐって(1)


「脱歴史世界のほとんどのヨーロッパ諸国では、軍備競争に代わってサッカーのワールドカップがナンバーワンめざして奮闘する国家主義者たちのはけ口になっている。コジェーブの目標は、かつて本人が語ったようにローマ帝国の復活、ただし今度は多国籍サッカーチームとしてのローマ帝国の復活にあった。…(略)…戦争という伝統的な戦いが成立しなくなり、物質的繁栄の広がりによって経済競争が不要となった世界では、「気概」に満ちた人々は認知を手に入れるため永遠に満ち足りることのない代償行為を探しはじめているのだ。(『歴史の終わり(下)』フランシス・フクヤマ著/渡辺昇一訳 三笠書房)


「私はその件に関する最終決定者ではないので、あくまで私自身の推測だが、最終決定者は困難なビジネスに敢えて挑戦し、困難と言われるビジネスの中で成功したくなったのだと想像する。自分の力を再確認し、それを世間に示したくなったのだと推測する。それゆえ『ヴィッセル神戸』の筆頭株主になったのだと思う。(「楽天」のこと――引用者註)それが起業家精神というものではないだろうか」
「ただ彼らの『CFG』(プレミア、マンCのこと――引用者註)における投資目的は利益還元のみだとは思えない。彼ら(アブダビ首長国の王子ら――引用者註)を観察して思うことは、対西洋社会に対する自信、自分達こそが新しいサッカービジネスを切り盛りするのだという自信と成果を西洋社会に発信することを目的に投資し続けているのだと思うことがある」(シティー・フットボール・ジャパンの利重孝夫代表の発言『スポーツ哲学入門』島田哲夫著 論争社より)



*私は、島田氏の「スポーツ」を新しく定義していこうという試みには共感できても、その提起された「スポーツ」概念、アスリートに限定することなく他者へと拡張していく(観客や株主等)志向には疑義を感じている。とくに、思考の原理的基礎として導入される「他者」概念に、デリダやレヴィナスが引用されているが、それは端的に誤読であろうとおもう。島田氏のいう他者は、むしろ引用された哲学者らが標的にしてきたヘーゲル的な、一般的な他者になろう。要は、ヘーゲルによって体系化され、コジェーブやフクヤマによって援用されてきた歴史(社会)の原動力とは、女(によって一般表象される他者)をめぐる男同士の戦い(認知)における「気概」なのである。「歴史」が終わったとされ 、たやすく戦争もできなくなった平和な現代においても、その原動力は発動しており、それがサッカー・チームの取得や応援という現状になっているということだ。が、あくまでその原動力とは男性優位な社会において受容されるような仮説である。が、この「気概」をめぐる仮説は、封建制から狩猟社会へと原理論的に遡行して「世界史の構造」を呈示してみせた柄谷行人の論考や、トッドの家族人類学の成果を考慮するとき、一概には否定できない問題を改めて浮き彫りさせてくる。次では、その辺を整理する。

2018年9月14日金曜日

平和条約をまえに

「冒頭でも述べたように、敵国条項とは「敵国認定されている日本が戦争の準備をしていると判断した場合、例外的に安全保障理事会の許可を必要とせず攻撃しても構わない」というものです。
 この条項に照らし合わせれば、たとえば、日本が日米安保を破棄して独自の軍隊をつくる憲法を制定した途端、侵略戦争の準備をしているとみなされ、世界中から袋叩きに遭う可能性もあります。これは何も突飛な死文化した条項ではなく、古くはソ連との北方領土をめぐる交渉から近年の尖閣諸島をめぐる中国との争いまで、実際、事あるごとに外交テーブルの場に持ち出され、譲歩を迫られているのです。…略…唯一、残された道は国連を脱退し、敵国条項が適用されない別な国として再加盟する。つまり、「JAPAN」ではなく「NIPPON」という新たな国として加盟し直すことです。夢物語のように聞こえるかもしれませんが、それくらいしなければ日本が本当の主権国家として独立を果たすことは叶わないのです。」(苫米地英人著『真説・国防論』TAC出版)

プーチンが、また面白いことを言った。まずは無条件で平和条約を結ぼうと。日本にではなく、真意は、トランプに対してなのかもしれない。北朝鮮と、まずは無条件で平和条約を結べる度量はあるかい? と。そして間接的に日本に対し、まずは核保持容認をしての平和、という世界の現実に、あなたがたは、どうスタンスするのか? 耐えられるのかい? と。
私なら、受けて立ちたいところだ。しかし、条件をだす。それが、冒頭引用した、苫米地氏の国連憲章「敵国条項」の撤廃の履行だ。私はこの条項に関しては、大学の一般教養の政治の講義だかで知っていたが、その現実を踏まえての苫米地氏のアイデアには恐れ入った。氏の国防論は啓発的だ。
が、そのまま国名だけ変えても、説得力はない。だからまず、プーチン及び世界にだす条件の条件として、憲法を改正すると。天皇を象徴として謳う第一章を削除して前文もろとも改定し、形式的にも実質的にも国民が責任を負う主体であることを宣言する、その態度の是是非を国民投票にかけ、国民が主体であることを望んだら、と。

フランシス・フクヤマの『歴史の終わり』を今さらながらのように読んだ。ソ連崩壊時に言われていた論調とは違って、興味深い。大もとのヘーゲルは、まだ私には読みこめないだろう。が、パックス・トクガワーナ(平和ボケ)との関連で、次には整理したい。

*先月パソコンが壊れた。前回ブログを書いている最中、フリーズが起きた。大した作業でもないのに、パソコンがカタカタ動いている。ウィルスかとも思えたので、配線抜いて強制終了。このグーグル・ブログの統計みると、定期的に、ウクライナからのアクセスが瞬時に集中することがあるようだ。何を読んだかには反映されずに可能なアクセスらしい。検索ロボット? しょうがないので、ガラケーから変えたばかりのスマホで打つている。疲れる。苫米地氏のサイバー空間での三次大戦勃発の話など、もう私にはついていけないような。

2018年9月3日月曜日

庶民、大衆、民衆

「その為政者のあるべき姿を、徂徠は、「民の父母」となることであるとし、その比喩として、農民の一家の主人が、だらしない女房や、ぼんやりした長男、はしっこい三男、またわがままな奉公人など、理窟や説得ではどうしようもない家族たちのために、営々と働いて、その面倒をみるありさまを描いている(『答問集』上)。ここには集団の統率者と成員、つきつめれば集団と個の関係について、徂徠が理想であると同時に現実的に可能と考えていたイメージが示されているようであり、それはたとえば家父長制という西欧的な観念とは異質な、江戸時代の日本の社会を基盤としてかたちづくられた独自の人間関係の表現であったといえるのであろう。(尾藤正英著『江戸時代とは何か』岩波書店)

このブログでも、「庶民」とか「大衆」、あるいは「民衆」といった言葉の概念を、曖昧にしたまま使ってきた。定義できるまではよく自身でもわからないので、本能的な使い分けによって、区別されることを期待していたわけだ。しかし、成績がいいわけではない息子の高校進学をめぐって、夫婦で争っているうちに、また、江戸時代をめぐる書籍を読み漁りながら、次の思考をはっきりさせていく作業のうちに、いったんは定義的に整理する必要を感じた。

私がまず女房に、例題として提出した実例は、次のような話である。

例題(1):中卒で植木屋の道を選んだ親方(高卒)の息子、そして同じく中卒で父親の職業(職場)を選んだ団塊世代(「中卒は金の卵」と言われた世代)の職人さんの息子(親方息子より3歳位年下)は、自動車免許の試験を5回ぐらい落ちている。が、親方の息子は30歳すぎて、3級や2級を超えていきなり造園1級の管理者試験および技術者試験を受験し、一発合格している。大卒の実務者・監督でも、一発で受かるとはかぎらないくらいは難しい。職人さんの息子は、植木屋をやめてバイトしていたスーパーで知り合った女性と結婚して、地主である彼女の実家近くの植木屋で働き始め、次の社長か、ともみられている。

例題(2)バブル期の頃、ポルノビデオ女優として、黒木香とかいう、お嬢さん育ち(女子学生)が売りの女性がいた。両親から勘当され、路頭に迷い、自殺した。

<問題>:上記二つの例題に伺える差異を、境遇(偶然)という解を排除した観点を見出し、論ぜよ。

私記(解答例):私がびっくりしたのは、息子が免許試験5回も落ち、それだけの金をかけるハメになっても、父親をふくめたまわりの身内が、「バカだねえ」ぐらいの冷やかしと冗談程度で受け入れている、ということだった。私だったら、「もう金ださねえぞ、自分で稼いで受けろ!」とか叱りつけてしまいかねない。おそらくそうした結果は、息子は結局は免許試験を受けず、ぷらぷらし、当初選んだ道を踏み外していくだろう、ということだ。その勘当がいい方向にゆくかどうかは運次第ということになるし、逆に、損得こえた寛容さの下で育てられた息子たちには、結果利益を第一には考えない人間的な判断が先にくる習性が育てられていく。
私は、価値として、例1をとり、それで生きている人たちを、庶民と呼ぶ。例2の価値で生きる人たちのことを、ブルジョア(市民)と呼ぶ。

※ブルジョアに対する用語として、プロレタリアがあるが、私は階級としてではなく、無意識的に従っている価値の領域(位相)として捉えている。だから、ホワイトカラーのサラリーマンや大学の先生でも実質はプロレタリアだとかの言い分にはくみしない。職人なりたての頃の私のHPでも話したことだが、掘りとっていた植木が倒れてきたとき、私はとっさに逃げたが、他の職人さんたちは突っ込んでいった。私はブルジョアだが、彼らは庶民だったのだ。

※大衆とは、ひとつの時代様相、近代のテクノロジーとあいまって発生した社会全体の捉え方である。だから、知識人という用語は、対にはならない。ニーチェがいうように、知識人とは大衆であり、オルテガがいうように、大衆とは知識人なのだ。

※民衆とは、近代的な法枠組で捉えたときに言う。国民も同じ。あるいはより広く、制度的な枠で人々を提示するときに使いがち。

英語では、庶民がthe common people、大衆がthe mass、民衆がthe people、なようである。慣例正確には知らない。が、commonをどうとらえるかで、価値立場は、色々になるだろう。
私自身は、庶民から生成する個人、無意識を価値として意識し、思想へと作り上げていく努力人、でありたいということか?

ちなみに、神隠しにあった子供を探し当てたスーパーボランティアは、あのねじり鉢巻の風貌、一緒に働いている職人さんと、そっくりだ。

2018年8月18日土曜日

三つの平和

「数学の行為とともに生み出されていく風景をその歴史とともに見てきたこの連載のなかで、浮かび上がってきたのは数学を支える盤石な基礎としての普遍ではなく、終わりなき探究とともに生成していく普遍だ。デカルトの代数方程式も、リーマンの多様体も、デデキントやカントールの集合も、すべてはあらかじめ「普遍化可能」な概念として既存の数学のなかに埋め込まれていたのではなく、概念と、その概念を支える数学の足場が相互に形成しあうプロセスを通して、徐々に形作られてきたものである。ここには、概念の普遍化する力のもう一つの範型がある。
 アプリオリな普遍を性急に措定することが、しばしば差異に対する目を閉ざし、わかるべき他者の存在を抹消していくのに対し、概念の普遍化する力は、むしろ差異を原動力として、わからないという緊張を契機として動き出す。差異と対峙し、ときには自己の信念が覆される傷みをも厭わず、歩み続ける。そうして連綿と継承されてきた数学の営為は、差異を無効にするどころか、いくつもの正しい幾何学、様々な数の体系、そしてその背後にある構造たちが織りなす豊かな数学の宇宙を浮かび上がらせてきたのだ。
 私たちは生成する未完の世界に参加しながら、それでもなお、必然を確信して手を取り合える場所を探し求め続けることができる。その終わりなき探究のプロセスにこそ、普遍は生命を宿すのである。」(森田真生著「『普遍』の探究」『新潮』2018.7月号)

今年からの課題」として、年頭、サッカーとアメフト(野球)のルールに伺える考え方の違いから、アメリカの民主主義に孕む問題をよりつきつめていくこと、と書き込んだ。それは、ヨーロッパとアメリカの民主主義の違い、さらには、日本の民主主義というものがあるのか、という問いにも連なっていく。最近の世間騒がせなスポーツ界に言及した文脈でいえば、「日本らしい」サッカーなんてあるのか? あるとしたらどんな?――というよりも、冒頭引用した「探究」にならえば、日本で「サッカー」を追求していくことにおいて、事後的に、その特殊な場所がそのままで普遍的かもしれぬ「サッカー(世界)」に参列していくことになるのである。実際、現場の森保監督は、「日本らしい」サッカーを目指しようもなく(無理してそんなことしたら迷ってしまうだけだろう)、ただ勝つために、または負けないために、試行錯誤するだけである。このメンバーで、どう戦おうか、と。それが事後的に、そのメンバーの群衆論理においてある特殊性の発揮の結果が、世界に達した(参列しえた)、と承認・了解されるのみだろう。ボールを奪うときにまず体を当てるのが南米らしいサッカーの特徴とか言われるが、彼らは意図してやっているのではなく、教えなくともそうなっていくのだと当地の育成コーチは発言していた。「日本人らしさ」も、結果からついていくもののように追求されなくてはならない、ということだ。

しかし私はまずはもっと一般的に、民主主義と平和(ルール)、ということを考えようとしたのだった。今年も続いたスポーツ界の不祥事のために、回り道をさせられているが。この主題を歴史的に振り返ってみたとき、次のようにも言い換えられると気付いた。

①パックス・ロマーナ ②パックス・アメリカーナ ③パックス・トクガワーナ(ヤポニカ)

この気づきは、もともと「朴石の庭」について考えていく文脈で、富士講、という江戸時代から流行った庶民信仰の調べにいき、そして江戸時代という平和な時代に、なぜその信仰の中興の祖と言われた食行身禄は餓死という幕府への抗議の自殺を遂げていったのか、という考察の中で交差してきたのだった。江戸の平和を世界史的に並列させた論考『日本文明とは何か』(山折哲雄著・角川書店)がヒントだったが、その問いを論理的に詰めていくと、結局はヘーゲル哲学を受けたコジェーブから『歴史の終焉』のフランシス・フクヤマにゆく、ということだった。山折氏は、日本の平和が「島国」という特殊性によって成立していることを把握しながら、自分の考えを推し進めるためにそこを捨象してその条件下でこそ発生した日本の宗教的なあり様に普遍性を求めるのだった。この論理を飛躍させた上でのトートロジーとしての「日本らしい」「平和」ではなく、よりその論理を緻密化させた上での、つまりはあくまで「未完の世界」への参列する意志としての「平和」がありうるのか、と私は考察したいのだ。その結果として、事後的に、「日本らしい」「平和」として他者たちから承認・了解されるものと期待して。その「必然」を信じて。

2018年8月10日金曜日

サッカー界だけがわかっていること(4)

「ある東京五輪の関連番組に出演していた瀬古利彦さん(日本陸連マラソン強化プロジェクトリーダー)は、「日本人は外国人ランナーより暑さに強いから、メダルのチャンスがある」と、嬉しそうに語っていたが、その結果、日本人が東京五輪で晴れてメダルを獲得しても、こちらとしては大喜びする気にはなれない。このメダルへの期待感は「これは命に関わる危険な暑さ。運動は避けて下さい」に大きく逆行しているのだ。炎天下でも頑張るのが日本人の姿だと言わんばかりである。どっちに従えばいいのか。…(略)
 天気予報士が深刻そうに伝える天気予報が終わり、画面が甲子園に切り替わるや、一転、炎天下での運動は危険だと言い出しにくいムードに包まれる。「災害級の猛暑」という触れ込みは、記念大会の盛況に水を差しかねない迷惑な要素となっている。嘘臭い世界とはこのことだ。」(杉山茂樹のBLOGマガジン

サッカー評論家の杉山氏は、とくにはサッカー経験者の間では、評判がよくないようだ。システムを論じることから批評活動が注目されたように見受けられるが、ゆえに布陣ではないと、経験者から言われるらしい。私も、ブラジルまでサッカーにトライしたコーチから揶揄されたことがある。しかしそれは、私からいわせれば、形、ということ、その唯物論的な現実の切迫性が、日本では理解されていないからだ。数学的な論理の現実性が、日本人にはなんのことかわかっていない、と言ってもいい。

たとえば、私たちは、カネ、貨幣がなかったら生きられないような社会に住んでいる。近代以前は、別にカネなど持ってなくとも、生きていける社会は厳然としてあった、ということに思いはせれば、むしろ現代の在り方の方が特異なのでは、と疑問になることには誰もが了解いただけるだろう。この当然な疑問を追求したのが、マルクスの『資本論』である。その冒頭章は、「価値形態論」と題されている。私たちがなぜにこんなにもカネに振り回されなくてはならないのか、その社会の形を、微分的に解析してみせたのである。

形式論理と人間、社会との現実性を理解されたい方は、柄谷行人氏の『内省と遡行』や、小室直樹氏の『数学嫌いな人のための数学』などの著作を読むと、抽象的な形と具体的な社会現場との関わりの切実性が了解されてくるかもしれない。なお、若手の森田真生氏の『数学する身体』(新潮社)や、氏が時折文芸誌『新潮』で連載している『「『普遍』の探究」なども、面白い。小学生を教えている私自身は、「サッカーIQテスト」としてまとめ、子供にも配布したことがあるけれど。

とにかくも、冒頭引用の杉山氏の感想は、まっとうなものではないだろうか? 甲子園、協会(組織)自体がやっているから問題視されないが、もし個人(監督・コーチ)が実践していたら、今の基準では「パワハラ」になるだろう。

杉山氏のサッカー界での立ち位置は、まだ文壇がかろうじて生きていた時代の、村上龍氏の立場に似ている、と私は感じる。内輪で自己満足的なお偉い人たちに対する、外からの視点、相対化させる批評行為である。だからそんな村上氏は、中田英寿選手と意気投合した対談をしていた。
杉山氏はゆえに、ロシア・ワールドカップ以降の日本サッカー界の現状を、私のこのブログの言葉で言えば「鎖国」的になっているのではないかと憂慮している。私としてはさらに、西野監督の「スピリッツ」発言から推察し、「神風」に頼り始めている、「オカルト化」しているのでは、と言いたくなるのだが。

<世界的に見て、これほど不自然なスポーツイベントはないはずだ。きわめて日本的な、古典的な匂いさえするこのスポーツ文化と、サッカーは別の道を歩まなければならないが、ジャパンウェイとか、オールジャパンとか、日本人らしいとか、日本人をリスペクトしてくれる云々とか、会長が自己を肯定する台詞を連発する最近の日本サッカー界は、気質がこれに似てきている気がしてならない。>(同上)

そう、「サッカー界だけがわかっていること」があるはずだ。新代表監督の森保氏は、たしかに、「日本人らしさ」を連発した。が、その発言は、どもって、いた。私の推理では、口数少ない森保氏は、言うことがすぐに思い浮かばなかったので、協会の空気を「忖度」し、口パク、したのだ。そうだとしたら、そうやってしまうこと自体が代表監督のメンタリティーとしては致命的だろうが、サッカーのことをわかっているがゆえに、自身の発言をためらい、どもってしまったのだ、と私はおもう。
だから、なおさら、杉山氏の締めの文章を追記せざるをえない。

<外国的のよいところを積極的に取り入れる気質こそが、サッカーのよさなのではないか。旧態依然とした夏の甲子園を見て、改めてそう感じる次第だ。>

サッカー界、頑張れ!

2018年8月8日水曜日

日大アメフト部事件から(4)

「…日本のスポーツいついて、何か問題点が見えたり、それをアメリカではどういうシステムで行っているかという類の情報をシェアしようとしたとき、いつも目に見えない壁にぶち当たる。/「どこの誰に話せば良いのか?」という壁だ。対岸の大火事をただ見ていられるような性分ではないので、なんとかしなければ、誰かに伝えよう、となる。そうしたとき、スポーツに関して言えば、以下のような窓口リストが出てくる。
 ・JOC/・JSC/・スポーツ庁/・文部科学省/・日本体育協会  …(略)
それぞれが最新鋭の技術を搭載した消防車や消火設備を備えているのに、その火事がどこの管轄か、瞬時に判断できない。そして、通報を受けた隊員も、ボスの、そのまたボスに確認しないと行動ができないのである。そればかりか、数軒隣に位置する消防署同士の横のつながりはほとんどなく、大きな火事の原因となる小さなボヤが、たらいまわしになってしまうのである。

 一極集中とは言わないが、もう少し窓口を減らしてほしい。そして、良い意味で、彼・彼女の一声ですべてが動くような、強大な牽引力を持ったリーダーに現れてほしい。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』ディスカバー携書)

上引用は、日大のアメフト部事件を予期するかのように出版されていた、スタンフォード大学アメフト部のアシスタントをしているという人物の著作からである。
下引用は、佐藤優氏の最近作、『ファシズムの正体』(インターナショナル新書)から。

「真珠湾やマレー沖海戦で、日本は航空機の重要性を示しました。どのような巨大戦艦でも、束になった爆撃機には勝てないことが明らかになったわけです。
 しかし当時の日本には、空軍がありませんでした。海軍と陸軍は「海軍航空隊」と「陸軍航空隊」という形で、それぞれ別個に航空機を持っていたのですが、両者はまったく別の兵器体系だったので、ネジの大きさもエンジンの規格も違っていました。そうなると陸軍は陸軍の、海軍は海軍の部品しか互換性がありません。
 それに対して、米軍の兵器の規格はみな共通していました。だから戦場で、壊れた機種が何種類かあっても、それらを合わせて一つの航空機をつくることが可能だったのです。…(略)また戦前の日本の軍隊には、ロジスティックス(戦場において戦闘部隊の後方で行う、物資の調達や補給)という思想がまったくありませんでした。…(略)そうした兵站軽視とセクショナリズムが端的に現れたのが、一九四二(昭和一七)年以降、陸軍が一生懸命に航空母艦を建造したことです。ミッドウェー海戦のあと、海軍が輸送船の護衛をしてくれないからと、陸軍は「あきつ丸」をはじめとする四隻の揚陸艦を航空母艦に改造しました。さらに陸軍は、艦載機まで自力で開発しています。世界の陸軍で空母を造ったのは、おそらく日本だけではないでしょうか。」

佐藤氏によれば、多元的な「縦割りシステム」として「しらす」思想、いわば「忖度による統治」がめざされた日本では、独裁的な「ファシズム」は不可能なのだという。大政翼賛会は成立したが、結局は独裁として揶揄され機能しなかった現実を、片山杜秀氏の『未完のファシズム』を参照して指摘する。ゆえに、河田氏が期待する「強力なリーダーシップを望むことなどできません。」となる。

*追記として、今日8.11に買ってきた川渕三郎著『黙ってられるか』(新潮新書)の、渡邉恒雄氏との対談から。
<川渕 長年、さまざまなリーダーをご覧になってきた渡邉さんの目から見て、最近のリーダー、リーダー候補者の中で、「これは」という人はいますか。
渡邉 うーん……昔と今とでは違いますからね。たとえば政界でも、安倍さんのような独裁的ではない、柔らかい人柄の人がいつの間にかトップに行きました。まあ実際には独裁的なところもあるのかもしれないけれど。
 ポスト安倍と言われていた石破(茂)さんとか野田(聖子)さんとかは、今は総理になれっこない状況になっている。その次の候補者は、岸田(文雄)さんとも言われているが、これもおよそ独裁的ではない。開成の後輩にあたりますが、大人しい。こういう人がいいと言われているのだから、あまり独裁的なリーダーは望まれていないのではないでしょうか。
 昔は経団連、日経連などでも独裁的な人が会長になりました。しかし財界でも穏やかな人がなっているんじゅやないかな。
 日本は独裁者が流行らないんじゃないでしようか。…>

佐藤氏は、ではなぜ日本ではそのような発想になってしまうかとは問わない。とにかくそうなってしまうことに注意喚起し、個(アトム)や全体(ファッショ)の回路に回収されない「中間」の団体を強くすることが実践的な重要さだと処方箋を説く。これは京都学派とライプニッツの関連などを論じた柄谷行人氏の論法をふまえた見解だろうが、柄谷氏はNAMという中間団体実践後、その「なぜ」を「世界史の構造」そして「遊動論」として再考したのだった。私はその要約を、「相撲界の混乱から」というブログでおこなった。
しかし「中間団体」においても、たとえば町場の地域少年サッカークラブでも、なかなか独裁的にはなれない、ちょっと前までは成立したが、もう成れない状況なのだった。チームを成立・存続しようとすると、佐藤氏のいう「しらす」思想をふまえた、「ミニ天皇」的にやる必要がでてきてしまう。不安な親たちが「強力なリーダー」で子供をしつけてくれと望んでも、戦後の長い平和で日本的な地が前景化されてしまったその地盤では、実際的に機能しない。望んだ(意識した)本人たちが揚げ足をとり、出る杭を打つ無意識を張り巡らす。そんな空気が読めてしまったら、少なくとも私には無理だ。空気が読めないコーチは追い出された。自分の息子が上級生にいる間は他コーチの問答を封じて独裁的に頑張ったが、忍耐がもたない。自分が手を引くとどうなっていくかは予測できでも、次の世代に「やってみろ」と忍耐が切れてしまったのだった。……

そしてそれは、安倍政権でも同じ様態にみえる。森友学園風にやりたいのに、できない。
最近も、「クラスジャパン」中間団体を作って、不登校をみな登校させていく、という方針を転換した。あるいは、「ジャパン・ハウス」なる安倍日本思想の海外発信拠点を新造したが、思想広報などどうもできやしないらしい。(世界相手にでは無理だろう。ヤルタ体制への謀反になるので。)――そうした保守系の教育運動、「江戸しぐさ」や「親学」といった森友学園と関連している思想集団でも、紆余曲折になった経緯があると、原田実氏は指摘している。(『オカルト化する日本の教育――江戸しぐさと親学にひそむナショナリズム』ちくま新書)が、原田氏が最後に暗示しているのは、日本の「未完のファシズム」にとって怖いのは、彼らが意識的に実践しようとすることなのではなく、それを取り巻く私たちの無意識、ということになるのだ。

<そもそも「江戸しぐさ」の背景に、薩長の流れをくむ日本の保守層に対して批判的な歴史観があったことはすでに指摘したところである。また、親学の背景にあるGHQ陰謀論にしても、それがもともと左派でもてはやされた主張であったことも説明した。…(略)
 親学およびその歴史的根拠としての「江戸しぐさ」は、第二次以降の安倍政権の文教政策と密接に結びついている。安倍晋三自身が親学の支持者であることはすでに述べてきたとおりである。しかし、自民党以外の政党にまで親学支持者がいる以上、政権交代は必ずしも親学推進の終焉を意味するわけではない。大手メディアの対応に見られるように親学や「江戸しぐさ」は安倍政権に批判的な勢力までとりこんでしまいかねない代物なのである。>

*<…親学では子供から親への感謝の念を歌う親守詩なるものが推奨されている。子供が子守歌を歌ってもらうように、父兄の方が子供から「親守」してもらうというのは私には異様に思える。現代の親たちは親であることに対して、そこまで自信を失っているというのだろうか?
 このグロテスクさは、親学が父兄および推奨する教師たちの感動と満足のためにあることに由来している。子供たちが大人に、感動や満足をもたらすことは一見、いい話のようである。けれど、そこまで大人たちは子供に感謝されたいのだろうか。>(同掲書)……私が洞察するかぎり、挨拶をしないサッカー・クラブの少年に、心因的な問題はない。なかには甘やかされ過ぎだな、と思える子がいるとしても、自然な情動(成長)の内にある。だから自然解決できる。今の社会現状でも。が、それを不満とする大人が声高になって社会を変えてしまったとき(「挨拶やり直し!」)、自然成長の速度を阻害された子供たちは、なんらかの心因性の病気を抱え込んで不健康、屈折していくだろう。単に、自分が率先して挨拶していればいいだけの話だ。

2018年8月4日土曜日

サッカー界だけがわかっていること(3)――日大アメフト事件(3)

「同じ問題は、今も、福島第一原子力発電所を始めとする日本各地の原子力関連施設や在日米軍基地の周辺にある。原理的に問わねばならない。市民とは何か。
 我々は、労働力を売り、得た給料で様々な商品を買い、それを消費して生活している。それは市民にはあたりまえとしか見えない。しかし、我々は意識してはいないが、この市民生活そのものが「横暴や残虐性」として作用する<そこ>が必ずどこかに存在する。次回以降に詳述する予定だが、マルクスによれば、その暴力を「個々人の意識」から隠し、消し去るからくりは商品交換の内部にある。たしかに、商品は自明で平凡な物としか見えない。しかし、今日、膨大に集積して我々を取り巻いている商品は、大航海時代に血と火の暴力を背景に成立したきわめて奇怪な物象なのだ。今もその流通が維持されているのは、「横暴や残虐性」が<そこ>に展開しているからにほかならない。ブレヒト的に言えば、銀行設立は、それに比べたら銀行強盗さえちゃちなものでしかない巨大な暴力を前提としている。しかし、市民社会では、後者は違法で不当な犯罪、前者は合法的で正当な事業としか見えない。マルクスは、この無意識の中で、この無意識に規定されながら、この無意識が、なぜ、いかに、どのようにして生じるのかを解明した。この無意識ともみ合い、そこに働く暴力を断ち切るために、だ。」(山城むつみ著「連続する問題」第一回『すばる』2018.8月号)

こんどは、アマチュア・ボクシング界から騒ぎが起きている。
サッカー界では、Jリーグ立ち上げ後、清水市をサッカー王国にしていくのに貢献した堀田哲爾氏が失脚させられたりした経緯がある。草創期の混乱を切り開き統括していく押しの強い人格を持った者が、体制の安定化にともない、疎んじられていくパターンだ。
ところが、はや世界では戦後の安定体制など一時として崩れ、そのヘゲモニーを握っていたアメリカもが、三代目坊ちゃんまでいったエスタブリッシュメントな系譜に見切りをつけ、成りあがりの実力者を大統領に選んでいる。日本ではしかし、今なお、ブランド志向、長く見える者に巻かれろで、三代目坊ちゃんにしがみついている。それで、世界を渡っていけるのか? いや世界が、見えているのか? 世界の法、掟、ルールを作っていくものは、それを変え、壊していく者である。優等生的な坊ちゃんで、張り合い、泳いでいけるのだろうか?

さっそく森保氏を代表監督に据えた日本のサッカー協会も、混沌とし始めた世界を見るのが怖いかのように、日本人神話、先のブログの言葉で言えば、「神風」が吹いているとの錯覚にしがみつきはじめたように、私には受け止められた。「日本人らしさ」、と、念仏のように会見では唱えている。まずは、きちんと検証しよう、乾選手が言ったように、日本人は10人のコロンビア・チームにしか勝てなかったのだから。その分析能力がないのならば、それができる人を外ででも探し、呼んでき、盗んでから自分たちのものにすればいいのではないのか? 目を無理やりつむった鎖国、そんな気がしてならない。八百長疑惑で解任されたアギーレは、エジプト代表の監督に就いたという。わたしは悪くないの、と潔癖に閉じこもりたがっているような日本市民は、こうした世界の事態も、自らの頭の中で整理できないだろう。そしてその弱さに暗黙には気づいているがゆえに、ことさらブランドや「神風」にしがみつくのだ。藁にも縋るおもいで。

『砕かれたハリルホジッチ・プラン』という五百藏正容氏の新書(星海社)を読んだ。私にはその妥当性の是非を判断するサッカー領域の知見はないが、私の文学・哲学的な教養センスの文脈上、説得力をもった意見と判断している。
以下、目立ったところを引用する。

     *****     *****     *****

<ハリルホジッチが招聘された理由は、もとより「どこかのエリアだけ」に留まらない多彩なエリア戦略を採れるチームを作り上げること、日本サッカーにそのような戦略的・戦術的多様性と柔軟性をもたらすことでした。その計画を破棄し、「日本人のDNA」「日本人らしいサッカー」「選手たちに制限をかけないサッカー」へと舵が切られた今となっては詮無いことですが、このグループリーグ最終戦は、その意味ではハリルホジッチに率いられた日本代表にとって、またブラジルW杯の蹉跌を乗り越えようと強く意識してきた日本サッカーにとって、まさに現時点での集大成といえる試合となったに違いありません。>

<…「弱いところをあえて晒し、相手を引き付けて痛撃をくらわす」といえば、日本では大阪冬の陣における「真田丸」戦法が思い起こされます。
 最終予選ではUAE戦(アウェイ)、サウジアラビア戦、オーストラリア戦(ホーム)などで見られました。要するに「絶対に勝ちにいく試合」で相手に食いつかせ逆手をとれるよう、弱点をあえて放置していた可能性があるのです。
 CBによるスペース迎撃やその他の方法がW杯本線でも採用可能な程度の質に高められるかどうかがこの「3CHのチェーン切れ問題」を「真田丸」となせるかどうかの鍵だったでしょうが、その答えは永遠に封印され、後には「味方の動いたスペースをカバーできない」日本選手の問題が残りました。ハリルのやり方を踏襲するのか、別の解決策を提案するのか。本線で問われる以上に、今後の日本サッカーの展望にも関わる難題でしょう。>

<ですが、本書で明らかにした通り「日本人らしいサッカー」をやろうがやるまいが、現代サッカーの構造上デュエルは必然として生じますし、戦術的・戦略的な重要性は高まる一方です。1試合ごとに最低でも200のデュエルが発生しているとも言われます。それが現実である以上、「デュエルの必要性を問う」こと自体が、無意味な立論なのではないでしょうか? そういった認識がうまれるほどの議論、コミュニケーションすら存在しなかったことは、ハリルホジッチの仕事にとって致命傷のひとつだったように感ぜられます。>

<本章で検討してきたように、ハリルホジッチのチームをめぐって起きていた「コミュニケーションの問題」は、監督ー選手間に限らず多岐にわたる形、しかも深刻な形で抽出可能です。こういった状況下で、ハリルホジッチが積み上げてきた仕事は結果をもって検証されることもなく放棄されるに至りました。本書は、「日本サッカーにビジョンはあるか?」との副題を備えていますが、率直に言ってここで問われるべき「ビジョン」は「日本人らしいサッカーとは」「世界で勝つには」といった、気高い理想を仮託するようなものではないのではないか、そのような理想を問えるレベルに日本サッカー自体、まだないのではないか、もしくはより低い水準に後退してしまったのではないか、とすら思えます。>


2018年7月22日日曜日

進撃の女房

「2007年の夏に働き始めてから1年でスタンフォード大学の学生アスリートたちが、どのように勉強とスポーツを両立しているか、どれだけ勉強することを強いられているかを見てきた。言わずもがなだが、それと比較して、日本のアスリート、特にオリンピックレベルのアスリートが、どれだけ競技に集中できる環境にあるか、すなわち、勉強などする必要がないことを理解していた。もちろん、どちらの国のケースも、全員がそうでないこと、つまり、極論であることは、承知のうえだ。…」「たとえば、日本の学生スポーツを、アメリカのそれのようなシステムに変えようと深く考えていくと、日本の教育制度を変えなければならないという結論に至ってしまう。/日本で「部活の休みを増やして、(アメリカ人のように)家族との時間を増やそう」とするなら、我々が長く営んできた生活や慣習、家族の在り方にまで要らぬメスを入れることになる。そんなことができるわけもないし、それは、挑む相手が大きすぎる。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』  ディスカバー携書)

認知症で放浪癖のでていた父親が、家の階段からひっくり返って腰椎骨折。動脈も切れていたということで、救急搬送をためらっていたら、死んでいたかもしれないと弟。集中治療室に入って輸血もしたという。これからは、寝たきりになるのかもしれない。すでに母は、父のいる家での暮らしを「地獄」と喩えていたと兄。私は、東京から電話でそんな話を聞きながら、息子とテレビ録画していた『進撃の巨人』を見入っていた。たまに、女房が人食い映像の前をふらふらと行ったり来たりしていると、女房と似ている人食いババアもいるものだから、巨人が画面から出てきたのかと錯覚される。それは突然といつでもどこでも現れて進撃してき、息子を食ってしまうかのようだ。

じっさい、巨人の容姿は、モデルがいるのではないかとおもわれるくらい、一人一人がリアルなので、人とされる主人公たちより人間にみえる。というか、私には、認知症になった老人たちが放浪している世界のように想像されてくるのだった。とろんとした巨人の表情は、最後に残った欲望を赤ん坊のように純粋に表現しはじめる老人たち、父の顔に確認したそれと似ている。放浪しながら、道端になっている果物をとっては食べ、道端に落ちているゴミを拾い、思いついたような動きを緩慢と繰り返す。私の近所にも同じようにゴミを拾う婆さんがいて、植木屋として垣根下などを掃き掃除している私に「きれいになるねえ」と、声をかけてくる。後ろには、息子の嫁がついてあるいている。若い頃、私がよく通った蕎麦屋のおばさんだった。違う界隈へと引っ越ししてからもう20年は経つだろうが、それでも私のことを覚えているようだった。世間知らずの私がアパートを借りて住み始めたころ、近所のおばさんたちから「本当にかわいかったんだよ」といわれていることを、なおその近所の職場に勤める私は聞き知っていた。

女房の父親は、すでに老人ホームに入っている。月30万ぐらいの特養クラスのだそうだ。そうした所得と資金が、高度成長下において、差別されていた地域の犠牲の上に獲得されたものではないか、という疑問はどけておこう。一緒に働いている職人さんの家では、母親が最後数年は寝たきりだったが、老人ホームへなどという発想はでてこない。資金がないこともあるが、自分の親をよそへ送るという考えが内発的にはでてこないだろう。2DKの住まいに、寝たきり婆さんと夫婦、そして子供3人が助け合いながら雑居していても、大変ではあっても嫌悪感や忍耐できないもの、という前提意識は発生しなかっただろう。が、子供の教育(進学)に熱心で、ブルジョワ的な、共同体というより個人・核家族的な価値観を刷り込まされてきた世代・階層には、もう不可能な雑居住まいであろう。女房はすぐに、やってられなくなって共倒れになるのだから老人ホームへ、と言い散らしはじめるが、そんな余裕は、一般的に、高度成長期を通して預金を積み立てられた団塊世代ぐらいまでだろう。若い世代になるほど、そんな余裕は、一握りの階層の家族内でしかなくなるだろう。

そのとき、進撃の巨人がはじまる。丸裸にされた老人たちがふらふらと歩きはじめ、社会資本を、人類の遺産を食い始める。昔のように、おばすて山へ、というわけにはいかないが、選ばれた戦士たちが、人類の悪を引き受けて、老人たちを切って捨てていくのだ。相模原事件や、最近の女性看護師の末期の老人の点滴に洗剤を入れて早まって殺してしまった事件など、そんな来るべき社会の予兆であるのかもしれない。しかしあくまでネガ、消極的な事件にすぎない。将来は、それを「進撃の巨人」の社会のように、社会システムとして積極的に内蔵させ、そしてその悪を不可視にしていくだろう。

私にできることは、覚悟を決めることだけだろうか? そして、こんなふうに、私の理解していると思っていることを書き留め、後世への参考にと願うだけか? プチブルから職人階層の家族に移行した私の家で、他の職人さんたちのような助け合いの共同性は育まれにくい。私は知的にそれを認識し、変容させるよう努力はしているが、巨人には言葉はとどかない。息子は、小学生から受験地獄に飼いならされて目が死んでいく今風・都会風の子供たちに遅ればせながら、ようやく暗くなり、大人しくなり、忖度官僚に近づいてゆく。進撃する女房から、息子だけは逃げ延びて、生き延びて欲しいと私は願うけれども、あがけばあがくほど、人食い母親のシステムの中に内蔵されてゆく。そうやって自らが官僚化した巨人になるか、母親と刺し違えるか……私は、この綱渡りのようなバランスを認めながら、とりあえず期を伺っていることしかできない。児童相談所への相談などは、取り返しのつかない痕跡を子どもに植え付けてしまうだろう。それを考えたこともあるけれど、その手段はある意味、システムを受け入れるという諦めた覚悟をした上での最終的手段である。つまり、私たち固有の関係を放棄して、そこにしかない本当の解決の糸口を離して、巨人のシステムを受容するということだ。それでのいったんの解決とは、問題の先送りプラス複雑化であり、おそらくもはや大人になった子供自身、息子自身の力ではどうにもならない社会的痕跡が、新たに付加されてしまうということなのだ。そして私の判断では、女房と息子との軋轢は、峠を越している。もう少しだが、油断はできない。と同時に、次の局面がくることも予測しておかなくてはならない。高校に入学したらしたらで、また何か過干渉が起きるだろう。結婚したらしたらで、うるさい姑になるだろう。がそこまでいけば、幼少期の問題は移行されている。対処は、より容易になるはずだ。

どこの家庭も、似たり寄ったりだと、少年サッカーチームに関わっていてみえてくる。程度の違いはあっても、女房たちのほうが進学に神経質。おそらく、自分の腹を割って出てきた存在なので、なお子供たちが自分の体の一部なのだ。自分の右手が言うことを聞かなければ、イライラするだろう。が、昔のように右手(子ども)が二つも三つもあれば、言うことをきかないなんてことに慣れて、認識しだす。だから、ほっとく余裕もうまれる。今は少子化で、子離れする自然的条件が少ない。また日本では、父親が割って入る西洋的なエディプス的な契機が文化的に希薄だ。しかしこの母子癒着的な構造は、洋の東西を問わず本源的だろう。子は、母から、女から産まれるのだから。女は、子宮で考えると言われる。進学、といった制度的な観念もが、自分の体の延長として理解される、というか、そういう身体化的理解でしか物事が認識できないように自然条件づけられているのではないか、とおもう。だから、システム(進学)にイロニー的に距離感を置ける男たちとちがって、システムをそれでしかありえない自然的な身体のごとく受容する。その真面目さが、言うことを聞かない子供という存在を前に、いら立つこととして現象される。

そんな女房たちの進撃に、男たちは、どう対応したらよいのか? システム自体を変えなくてはいけない節目の時に。

2018年7月6日金曜日

サッカー界だけがわかっていること(2)

「サッカーの生態系は破壊されてしまった。「今より少し良いサッカー界」を目指す人びとが意気消沈し、反知性主義の時代が幕を開けている。長く競技規則にあった「非紳士的行為」を一九九七年に「反スポーツ的行為」とし、二○一○年代にはとうとうFIFAみずからが立派な「反社会的勢力」になっていた――のだからまったく笑い話にもならない。挙げ句は、そんなFIFAから「いつになったら会長を公明正大な選挙で選ぶのだ」といわれてやっと密室の扉を開けた日本サッカー協会。サッカー・ファミリィーなるものからの離脱感情が芽生えてしまうのは当然の成り行きと言えるだろう。」(佐山一郎著『日本サッカー辛航記』 光文社新書)

凱旋として日本国民から迎え入れられたと言ってもいいだろうサッカー日本代表チーム。起伏あるストーリーを演出して見せてくれて、私も興奮し、楽しんだ。が一方、観客としてだけでなく、実際に小学生チームの指導にもなお携わっているサッカー界の末端にいる実践者としては、複雑な思いにさせられるワールドカップだった。

私は、決勝トーナメント1回戦対ベルギー戦、0対6ぐらいで負ける可能性も出てきしまったのではないか、と判断した。判断の根拠というか、そう感想させた材料は、試合前の本田選手と西野監督のインタビューへの返答だった。本田選手は、「俺はもってる」「俺がここでいいとこもっていっていいのか、というような場面が出てくるのではないか」、というようなことを発言していた。その発言内容自体はいつもの通りなので問題は感じなかったが。そのどこかにやけた表情に、ひっかかるものがあった。そして西野監督は、こう言った、「このチームには、スピリッツ的なところがある」と。その表情にも、どこか本田選手と似たところがあると感じたが、私がひっかかったのは、その「スピリッツ」という用語である。スポーツでよく言われる、メンタル、という言葉ではない。メンタルとはは、mindの形容詞型で、その慣用<in the mind>が「心の中で」と日本語翻訳されるのでややこしくなるが、あくまで人知の頭脳の中で思い浮かぶもの、であるのに対し、spiritとは、人間を超えてより精霊的、妖精的な力の意味合いをもつ。インテリな西野監督は、よりそういう傾向として、この語をあえて使ったはずである。つまりは、中心選手と監督が、最近の日本プロ野球界の俗語でいえば、「俺たちは神ってる!」、と発言したのである。しかも、冗談ではなく、本気・本心を隠すようにどこかにやついた感じで。

私は、せっかく前回のポーランド戦、玉砕的な特攻作戦とは一線を画した冷静な賭けの論理を披露してみせていたのに、つまりは日本運動部的な情理とは違うサッカー界の論理、先発/補欠と固定区別して戦う根性主義ではなくその発想を転倒させる現実政策(先発6人変え)を含めて――を対置してみせてくれたのに、ここにきて、「神風」が俺たちには吹いているというのか? その試合前態度に、私は、不吉な懐疑を覚えたのである。

その不吉な懐疑は、杞憂に終わっただろうか? 確かに、内容的にも結果的にも、日本代表は善戦した。が、冷静にこの試合を振り返ってみれば、というか、リアルタイムで見ていたその時も、いやその時こそ、本当に「神風」が吹いたのではないか、と私たちは錯覚した一瞬を味わなかっただろうか? 柴崎のスルーパスはすごかった、が、あれが本来通ってしまうものなのか? 乾のシュートは冷静で正確だった、が、あの無回転というよりは単なるインサイドキック(浮かしたミドルでは普通にでる)の練習のような間(スペース)が、あんなバイタルエリアで発生するものなのか? パスを受けた原口、ボールを乾にあげた香川自らが、一瞬、ほんまか、というような表情をしている。このゴールへとつながった空白な時間に、まさにワールドカップ・ベスト16で発生していいのか、と問いたくなるような奇蹟、いわば「神風」が吹いた、としかいいようがない現象が起きていたのだ。そして本当に、もし本田の最後のフリーキック、まさにあれこそが無回転のブレ球といえるシュートが入っていたなら、私たちはまさに、「神風」が吹いた、と口にもださずにはいられなかったろう。

が、現実は違った。あれからベルギーは本気をだしたと、選手にも監督にも感じられ、他のベスト16の試合を観るにつけても、そのガチガチな削り合いの闘争の中で、あんな空白な時間が発生する余地など見られない。おそらく、それは「神風」などではなく、単に、対戦相手が私たち日本チームだったから起き得た余白、相手の油断ゆえに、と理解すべきなのだろう。確かに、西野監督は、うまく日本チームをまとめあげた。が、選手が日本人だったからこそできた手腕だろう。彼が、他の代表監督や、ヨーロッパのクラブチームを任せられる、という評価はないだろう。実際、交替をベルギーより早く、そして3人目の交代枠を使っていたら、ロスタイム終了間際でのカウンターを食らう時間はなかったかもしれない。また私は思い出した。前回ブラジル・ワールドカップ前でのコンフェデレーションズ・カップでの対イタリア戦、たしか勝ってゲームを進めていた日本があたえたコーナーキック、日本選手がゴール横で水を飲んでいる間、ピルロは走った、そしてすぐにボールを蹴りあげ待ち受けていたイタリア人選手がシュートを決め、試合の流れが変わり敗戦した試合。こういうレベルの油断、相手の抜け目なさへの洞察・感覚、は、フィードバックされているのか?

西野監督は、インタビューで話す際、「私」は、という主語を使っていない。日本の「サッカー界は」、という。今大会の結果も、これが良かった、という完結的な言い方をしていない。成功させるのも失敗させるのも、これからの4年で問われるのだ、という。私も同感だ。もし、サポーターや末端指導者も含めた日本の「サッカー界」が、「神風」がなお吹いていると錯覚したままなら、おそらく結果は悲惨なものになっていくだろう。今回のワールドカップの成績で、日本代表の世界ランキングは上昇するかもしれない。が、それ自体が、転落と裏腹の関係にあるとは、60位からはじめた今回代表が証明してみせてくれたことだ。

サッカーは、「進歩」してゆく。それは、「科学」の進歩と同じである。平安時代の「蹴鞠」は、いつまでもそのままで、ただテクニックだけが「進化」してゆくかもしれないが、サッカーは、「真理」という目的(ゴール)があるゆえに、それを目指して、追求して「進歩」してゆくのだ。この強迫的な論理、一神教的な現実の実際は、私たちにはわかりにくい。ゴール(ゴッド)に近づてい行く真理を、その法則を探せ、そのあくなき探究に参加するということが、とりあえず、現今の「世界」に参加するということだ。この仮借ない闘争の世界から、降りるという選択肢もあるかもしれない。が、おそらく私たちは、もう降りるには相当な贅沢を世界から享受している。降りることなど、許されていないのだ。ならば、そこで戦いながら、よりよい世界へと誘導していく他ない。「世界の壁」など、私たちはとっくに通り越している。というか、引きずり入れられたのだ。そしてそこで、敗者でいろと、国連憲章でも定義されているのである。が、負けに甘んじたままでいいのか? そんなのはいやだ、という気概はあることを今回の代表は示し、日本人としてのサッカーを目指す道筋をつけられたのではないか、と監督・選手ともどもいう。が、この気概が、神風的な、スピリッツ的な神掛かり作法、島国的慢心に陥ってしまったらもともこうもない。あるいはその近代日本への反動としての、子供天国だったと幻想される近世(江戸の平和)への回帰、楽しければいい、子供ファーストなサッカーへの停滞。

少なくとも、日本の「サッカー界」には、その分裂を理論・実践的に解決していこうとする科学的な知性が挿入されている、と私は認識している。おそらく西野氏は、その知的な試み、作業のことを「サッカー界」という主語に仮託しているのだろうとおもう。マスメディアや末端指導者は、この試行錯誤の文脈と意義を、正当に理解・評価しているだろうか? テレビ報道と、自分の所属するチームを思い浮かべると、私は心もとなくなるのである。目先(のテクニック)にこだわらず、もっとでっかく考えないのか、と。そういうと、批判され、揚げ足とられてきたわけだが。……

2018年6月20日水曜日

サッカー界だけがわかっていること――日大アメフト事件(2)

山内 ……そういうことからすると、鎖国をしていったときの動機は、やはりカトリックの国のスペインへの警戒心、いかにして日本を守るか、ということになるのでは。徳川三代将軍にとっての大きな関心事は、スペインがどういう出方をするかということであり、そのなかでの鎖国だったわけです。決して、外国に対して背を向けて国を閉ざしたということではないんです。
中村 フロイスの『日本史』などを読むと、やはりイエズス会というのは怖かったろうとおもうんです。当時の人たちには。
山内 いやあ、すごいですよ。イエズス会のガッツには本当にたじろぎます。(『江戸の構造改革』山内昌之・中村彰彦著 集英社)

サッカー・ワールドカップ、日本代表初戦、なんとか勝てたのはとりあえず喜ばしい。運がよかった、相手がこちらをなめてきたのか警戒しすぎたのかは知らないがやる気がみえない。実力で、勝者のメンタルをもって勝ち切った、というのではないだろう。駄目押しの決定機を、乾(あがっていたのか?)、大迫が逃し、最後の逃げ切りもおどおどと、という感じだ。選手たちが勘違いして、チャレンジ精神を失ったら、次の2戦は敗れるだろう。

がともかく、西野監督のこの大会へ向けてのチーム作りは成功し、初戦の采配は当たった。年功序列だ。香川、本田が得点にからんだ。しかしそんな日本的信頼作りの基層を押さえた上で、調子のいい選手からだすぞという選ばれた各選手への対等意識を掘り起こさせた。先発には本田ではなく香川、大島ではなく柴崎、牧野ではなく昌子、負傷した大迫の代わりは、武藤ではなく岡崎になる。日本人同士にあっては、文句の言いようもないオーソドックスな定石になる。そもそもが、そんなメンタル安定させるための選手選考でもあったろう。奇を衒わない落ち着いた考えだ。私は共感していた。

私のスポーツ経験と教養の内では、サッカー界だけが、よくわかっている。日本の、歴史と現実を。このブログでも、Jリーグをたちあげた平田竹男氏と桑田真澄氏の対談をとりあげ、サッカー界が野球の「軍国主義」を反面教師として取り組んできた、きていることを告白しているのを指摘した。おそらく、学徒出陣へのトラウマがあるのでは、と推論している。サッカー協会の中心は、早慶を中心とした大学出で、エリートなのだ。西野監督も、岡田武史元監督の早稲田の後輩だ。だから、その協会の実践は、頭でっかちになる。末端にいくほど、いわゆる日本の運動部活系の、根性主義のような地が強くでてくる。新宿区の少年連盟に参加している私の周りでも、「すぐヨーロッパの真似をするんだ」と、協会からの指導方針を批判する声をきく。
日本代表戦まえ、NHKで、「岡田武史とレジェンドたちが切るFIFAワールドカップ」という番組が放映されていたが、この会談の雰囲気をみよう。野球界でいえば、岡田元監督自身まだ若い方になるが、世代的には、川上哲治→長嶋・王ときた次の、江川・原世代のようなところだろう。それでも、そうした重鎮に、まだ現役選手で活動している松井選手のような者が、あんなフランクな感じで話し合いに加われるか? 野球部出身だったら、そんな年上の先輩には恐縮してピリピリ状態だろう。サッカー界がそうはならないのは、岡田元監督自身が野球部出身で、中学のとき、その部活のハードさについていけず、ふと隣で楽しそうにサッカーをやっているのをみて、転向した者なのだ。だから、NHKの会談で、楽しくだけでなく「勝つ」ためにやるんだ、ということを日本の文脈で強調するとき、その発言に実は説得力はでない。認識的には、この会談での岡田氏の発現に私はとても共感し同感だ。日本のサッカー界、とくに少年レベルでは、ゆえに「楽しむ」サッカーと結果至上の「勝ち」に固執するサッカーとに分裂している。指導者個人の内でも、どううまく実践していっていいのか、葛藤が発生してしまう。しかし、この「葛藤」自体の自覚が、他のスポーツ界にはないのだ。

そして、この「葛藤」は、楽しさと真剣さとのバランス、とかいった問題ではない。まずはそれをひとつとしていくための理論的な問題なのだ。世界でどう生きるか、という倫理の問題なのである。だから、日本が、なお頭でっかちになるのはやむをえない。それを自己嫌悪してみても、自虐史観だと自己批判してみても、前進にならない。

私は、まだ日本がヨーロッパから学ぶべきことがあるとしても、ワールドカップまでの4年間、最初の2年は外国人監督でも、本番とそれへ向けた最後の2年は、日本人監督にやってもらいたい。もうそこまで来ているし、それは鎖国ということでもない。日本人が世界でどう生きるのか、生きていけるのか、を試していく、試行錯誤な理論的実験なのだ。

2018年5月23日水曜日

日大アメフト部事件から

「会長が桑田で、テレビのドキュメント番組で紹介されていたこともあり、セレクションには大勢の小学生と保護者が集まった。25人の枠に対して、300人もの応募があったという。それほどたくさんの親子連れを前に、桑田はこんな挨拶を行った。
「これから3年間、ウチで学ぶことは、高校へ行くまでの準備だと思ってください。野球の練習やトレーニングはもちろん、基礎知識を身につけ、集団生活を送るための礼儀作法などもきちんと覚えてもらいます。バットやグラブを大事にしたり、親や周囲の人に感謝したり、そういうことも学んでほしい。」
 さらに、こう付け加えた。
「だから、ウチのチームは弱いです。練習は合理的にやるので、4時間程度です。根性や精神論でお子さんたちを鍛えるということはやりません。ですから、勝ちたい人、勝てるチームに入りたい人は、どうぞほかのところへ行ってください。」(『野球エリート』赤坂英一著 講談社α新書)

日大のアメフト部問題。うんざりしてくる。なんでああも正義面というか、被害者擁護にかこつけて逆イジメたたきみたいなことを繰り返しマスメディアはできるのか? 森友問題も同じだが。貴乃花親方をめぐる報道の傾向がぶりかえされてもいるわけだが、そこに偏執する言表行為に、何か時代の症候が顕著に発症されているのかもしれない。

加害学生は、コーチの言葉を通して、監督の意図を「忖度」してやった。

「忖度」とは、官僚制の問題というより、日本では天皇制の問題としてより文脈・系譜化される。

暴力行為の実際まで行くのは例外的、少数的であるとしても、そう行き着かせる考え方として、それが日本の世俗的な本流であるとは、運動部・体育会系出身者なら、そう自覚するのではないだろうか? 森友学園みたいな実践にはならなくとも、君が代を要請させる政府の方針・考え方に、すでにそれに連なっていかせる考え方が潜んでいることに、教育の現場にいる者は自覚的ではないのだろうか?

女房は、たとえ社会が変わらなくともウミをだすために今のように日大の監督・コーチをマスコミが叩き上げる、つるし上げることが必要なのだと豪語する。で、おまえは子供を蹴とばしながら受験・学校勉強をさせているわけだが、日大の監督は生徒を蹴とばしていないよ? どちらが本当の暴力なの? 自分の足元を見れないものたちが、被害者面してスケープゴートに加担する。

私の、40年まえ近くの、高校の野球部の頃、3年生が抜けた夏場の練習では、強豪校のチーム、一人、二人と、熱中症や硬式ボールが当たって死人がでる、という話を毎年ほの聞いていたとおもう。私も、野球をやるとは、それが当たり前、そうなるよな、と自然なこととして受け入れていた。試合に勝つ、戦いに勝つことを目指すとは、比喩を超えて、文字通り殺し合いのような気迫で勝負に挑むことを意味していた。そうした考え方は、中学生の時には、もう無意識に刷り込まれるぐらい育まれていた。もちろん、本当に、実際にそう実践してしまえる者などほとんどいないだろう。今回、日大の生徒が「やってしまった」のは、ある意味、どこかナイーブな、真面目な性格だったのだろうな、と推測する。大概は、そこまで一生懸命できないし、適当にごまかしてやるはずだ。コーチとの関係でも、そこまでいかないところで、折り合いをつけてしまう官僚的なずる賢さを、大学生ともなれば、身につけているはずだ。

もちろん、それが暗黙の、無意識な主流であるのは、制度として、教育として、コーチングとして、未熟だからにすぎない。おそらくヨーロッパのサッカー育成組織などでは、育成途中でふるい分けられて、そんなナイーブな人は競争から落ちている。が、日本では、みんなを掬い上げようとする、だから、良くも悪くも、複雑になる。小・中学生を教えるとなれば、なおさらだ。「あいつをけずれ」とは、新宿区の3年生大会で、私たちのチームに当時いて、のちに日本一にもなる埼玉のレジスタに移っていった中心選手に、プロあがりのコーチが自分の率いる選手にいった声かけである。サッカーで「けずる」とは、選手のボールプレーが終わったあとで、後ろからスライディング・タックルをしかけて、アキレス腱を負傷させて退場させることをめざすことを言うそうだ。私たちのチームは弱い。上手な子、モチベーションの高い子は、どんどん目指すところへ出て行ってかまわない。が、私は、それでも、「みんな」で戦って、そうやってサッカーエリートが集まってくるチームに勝ってやることをあきらめない。冒頭の桑田元選手のようにはなかなかなれない。来月のワールドカップで、日本負けてもいいじゃん、とはとても本気でおもいたくない。では、どんな実践があるというのか? これまでの、追いつけ追い越せ、ではなく。

監督やコーチ、先輩が怖く、上司・上官が怖く、「黙って処理する」ようになる国民の「忖度」の原型が、<母ー子>関係にあることは、日本の文学的な教養の一つだろう。単に上からの暴力ではないところに、ねじれた闘いが発生するというのも、教養の一つであったはずだ。「死のれ、死のれ、マザー! マザー!」と中上健次は小説を書き、その<母―子>関係から秋葉原事件のような若者が発生し、それが井上日召のような日本のテロルの在り方とも関連している、とする中島岳志氏の最近の論考もあったとおもう。
*関連ブログ ①http://danpance.blogspot.jp/2016/11/blog-post.html
       ②http://danpance.blogspot.jp/2016/12/blog-post.html

果たして、誰が、誰をいじめているのだろうか? 目に見える加害者が、目に見える被害者をいじめてたのか? どうもそうではないな、というのは、きちんと顔をだして記者クラブの質問に答えた学生を見ればわかる。じゃあ、監督やコーチということなのか?

Yahoo!ニュースをみていたら、「学校へ行けない人はなぜ増えた? 歴史20年を振り返る」という論考にであった。これと、朝日新聞での柄谷行人氏の書評を並列させて読むと、何かぞっとするものに突き当たる。それは、6月に岩波ホールで上映されるという「ゲッペルスと私」という予告での秘書である「私」のセリフ、「今の人はよく言うの、私なら、あの体制から逃げられた」「無理よ」、と。

私たちは、部外者として、観客席からの野次馬のごとき罵声をあびせていれば、いいのか? 私はしないから、と。逃げられるから、と。

私には、とてもそんな風にはみえない。だから、あくまで、フィールドで、現場で、具体的に闘う。そうすると、女房は言うのだ、「あなたはいつも自分のことの話になる。最後は自慢話になる、きいてらんねえ!」

「ぞっとするもの」とは、「20年」前以上に文学で学んだ潜在(構造)的な「いじめ(天皇制)」問題が、ここでもあすこでも、稚拙に見えてきてしまっている、この親しみ深いわかりやすさの直面から、逃げられないのではないか、ということだ。

山崎行太郎氏がブログでしめす状況認識、大勢把握と私の上意見も同じになるだろう。ちなみに、私の弟は、日大・文理学部の運動部特待生で、同級生に、ゴルフの丸山茂樹やシンクロの小谷美香子とかがいたそうだ。中学部活の軟式テニスでそのまま授業料免除という制度で入学していったのだが、それと同額を結局は部活費に貢がせられている。その分野では、日本一が当たり前だったようだが、弟のとき、日本2位になってしまった、するとOBが部室に乗り込んできて、集団リンチ、弟も内臓破裂で入院している。今でもその原因不明な後遺症は残っているようだ。

2018年5月7日月曜日

「動いている庭」と風景

「十一面観音立像 元禄五年(一六八二)七月に性海が建立。舟型光背に半肉彫り。右手に錫杖、左手に華瓶を持つ。銘文に「浅間本地 出生大坂性海建之」とあり、この像が富士浅間信仰の本地仏として富士信仰により造られたことがわかる。昭和二年頃まで現在の山手通りと早稲田通りの交差点付近にあった浅間塚(富士塚)に関わるものと推定される。高さ一七二センチ。」(『ガイドブック 新宿区の文化財 石造編』新宿歴史博物館)



私の他に、むつかしいことを言う植木屋さんを発見した。庭師を自称しているようだが、研究者に近いだろう。
このブログで書いた映画時評『大和(カルフォルニア)』の宮崎監督の特集が、池袋のシネマ・ロサで催されると言うのでその映画館のWEBを閲覧していると、もうじき『動いている庭』というフランスの庭師のドキュメンタリー映画をそこでやるという。その映画の紹介者、京都の方で大学講師をしているという山内朋樹氏の論文「宇宙の持続と身体の論理――「共感の美学」としてのベルクソニスム」が面白い。

一般論的には、フランスを中心としたヨーロッパの庭は幾何学的な整形庭園といわれているが、それが実はヨーロッパでも貴族階級中心の特別な庭園であって、そうではない庶民的な庭が別にあるのだ、という知識というか教養・情報については、20年前に書いたエセーでも私は言及していた。なので、具体的にはそのヨーロッパ庶民の庭がどんなものか知らなくとも、「動いている庭」で紹介されるような庭師がでてくるだろうような文脈には、驚かない。というか、日本の植木屋からしてみたら、庭が動いている、とは、ある意味前提的な自明条件だろう。植木職人の手入れ自体が、自然生成の生け捕りのやり口、偶然の馴化である。このフランスの庭師が、日本の庭から「自然に直面した人間としての私」を見出すのも、比較文化的には、了解しやすいことだ。

が、木が成長し、ハチが飛び、自然が動く――この当たり前な現象がどんな事態であるかを了解してみようとすることは、難しいことなのだ。山内氏は、この洋の東西を超えて現象しているであろう当たり前なことを、ベルクソンを通して解きほどこうとしているのだ。氏が注目している庭とが、「閉じられた」、「囲われた庭」ではなく「動いている庭」であるとは、それが庭というよりは「風景」に近いもの、より自然に近いランドスケープに近接していると言えるだろう。が、「風景」とはなんであろうか? つまりは、それこそ、この自明的な「風景」、「開かれた」<地平>こそが問題なのである。

清水真木氏が、『新・風景論』(筑摩選書)で、ベルクソンにも言及しながらむしろフッサールの「生活世界」を下敷きに素描しようとしたのもその問題だ。私たちは、日常的には、風景など見ていない、というか意識していない、が、その見ていない無数のものたちにおいてこそ、立ち現れて来る「風景」がある。文学史的に著名な例では、ラスコーリニコフのネヴァのパノラマのような光景だろう。いわば実存的な風景のみが、「風景」になりうるのだ。逆に、柄谷行人氏が近代文学に指摘する「風景の発見」とは、その陰画だ。国木田独歩が記憶として思い出したのがその当時意識していた知人ではなくその背景にあった宿屋の主人だった、というイロニカルな転倒。私は夢について指摘したブログで、政治・思想的な意味を排すれば、そんなことは人間にとっては日常的なよくある当たり前なことだ、と夢分析した。実存的な「風景」が生成するには、意識せず見えていない無数の諸風景が前提とされるのである。

しかし私の理解では、清水氏の「風景」理解は、早すぎる理解である。見えないものたちから「ぬっ」と風景が現れるとは、どういうことなのか? その「ぬっ」を、もう少し詳細に把握しようとベルクソンを使ったのが、山内氏である。ピクチャレスクなイギリス風景式庭園のような囲われた庭ではなく、このまさにの自然の風景に立ち現れてくる私に固有な風景の出来を芸術体験というなら、その芸術体験とは実際にはどんな出来事なのか?山内氏が示すベルグソンの「共感の美学」を、私はとりあえずより自然科学的に、諸風景のリズム(持続)の「同期」として理解した。山内氏がジル・クレマンというフランスの庭師の庭に見たものとは、そこにある風景を成立させている様々な木々、草、昆虫たちの、あまたのリズムであり、それらと共感(同期)してみせることで自然を野放図にはでなくクレマン固有な風景=庭として創作されている現場なのだろう。

しかし、山内氏も、清水氏も、その試みは、あくまで諸構造への理解である。むろん私の夢分析も、早すぎる理解をまずもっては除けて、もっとよく見てみようとする構造の、一般的な把握の努めである。がそれでも、柄谷氏が、諸構造(無意識)をこそみようとする立場をイロニーとして指弾してみせるとき、つまりはあくまで、意識的な、意志的な態度にこそ重きを置くとき、握持しているのはイデーの、理念の領域だろう。美学ではなく、倫理的な位相である。清水氏は、なんでその風景が「私自身」に風景として在るのか「理由がよくわからぬまま」であるという。が、わからぬとも、それが私自身を取らえているという感覚、諸持続と共感(同期)しているという根拠なき確信、つまりは感動の強度が、言いかえれば、それに対する信仰の問題を、忘れてはならない、と私は私自身を戒める。

が、それは、早く理解してはいけないのだ。

2018年4月13日金曜日

映画「大和(カルフォルニア)」を観る――座間事件(2)

「ジェット機はあたりを震わす轟音をあげ、ピカピカに磨かれて滑走路の端に待機している。
 探照灯は高い塔の上に三台ある。恐龍の首みたいな光の筒は僕達を通過した後、遠くの山々を照らし出している。光の束で切り取られた彼方の雨の一塊は、一瞬凝固し、輝く銀色の部屋となる。最も強烈な探照灯はゆっくりと一定の場所を照らして回転する。僕達から少し離れた引き込み線路の上に一定の間隔で回ってくる。僕達はさっきの衝突で意志を失くし、ネジを巻かれ歩く方向を決められた安物のロボットみたいに、車を出て、大地を震わせるジェット機の爆音の中をその線路まで歩いて行った。」(村上龍著『限りなく透明に近いブルー』 講談社)

朝日新聞の映画評で知り、この作品を見てみたくなった。このブログで「座間事件」として言及した、そのときの考察を、もう少し深められるかも、とおもったからである。

私はそのブログで、死臭さえもが単に「変な匂い」・「生温かい匂い」として近隣から素通りされていった日常の異様さを、基地在所の特異性であるのではないかと指摘し、そのこと自体が今の日本本土の一般的様子を象徴している、と述べた。しかし、今年はじめ、たまたま、座間で植木の手入れ仕事をすることになって、基地周辺に居る、ということの特異な厚みを、部外者として目の当たり、というか、耳当たりにしたのである。たしかに、映画の18歳になる少女サクラの口癖で、「はあぁ?」と聞き返さないといられないほどの轟音が、とくに午前9時半過ぎからだろうか、次から次へと発進する飛行機の爆音が1時間以上は続いていく。すぐ頭の上を、つんざくような高音とともに戦闘機が、うなるような低音とともにばかでかい輸送機が、地響きを砂煙のように巻きあげて通過していく。

この強烈な異常さに「慣れる」とはどういうことなのか? 私は、自分でブログに言ったことがわからなくなった。もう一度ブログを書くことによって、整理する。

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この映画の時評をネットで読んでみて、私の着眼点に近い意見は、次のようなものだ。

<『限りなく透明に近いブルー』にも、のちに村上龍が繰り返し描くことになる命題の萌芽がすでにある。それは、「不幸の芽は自分の知らないところでまかれて育ち、ある日、突然自分を襲ってくるものだ」(村上龍『ライン』)というもの。同じ命題は、村上龍と同時代を代表する作家・村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品で、東京の地下に住む”やみくろ”という邪悪な魔物を通して描いたものでもある。映画『大和(カリフォルニア)』から話が少しそれているように感じられるかもしれないが、「『慣れ』と『あえて』によって沈黙している(宮崎)」ことによって日常が成立し、その下で黒々とした”邪悪な”ものが育っていくという状況を描いた点において、本記事で紹介した作品はすべてつながっている。たとえその結末が違っていたとしても。

ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、その後に起きた地下鉄サリン事件を予見していた、と言われることもある。

では、映画『大和(カリフォルニア)』は、いったい何を予見しているのだろうか?>(山田宗太朗 映画『大和(カリフォルニア)』都市のすぐそばにある黒いもの

この評者が問う「予見」の私の答えは、「座間事件」、ということになる(日本での映画公開は今でも、創作されたのは事件前のようだ)。しかしならば、1970年代半ばに発表された村上龍氏の時代性とは、その差異も見えてくることになる。そしてそのことの差異については、映画監督自身が指摘しているとおりなのだ。

<…ひとつ具体的なことを言えば、厚木基地の兵隊さんたちはほとんど外に出て来ません。敷地内が広大でそこだけでほぼ町を形成し、事足りるため、外に出てくる必要がないのです。ですから横須賀や沖縄などと違い、地元住民は騒音以外には彼らとはほとんど接点がなく、まさに近くて遠い他者なんです。>(宮崎大祐・パンフレットより)

村上龍の作品、あるいは、その作品が切りとった時代の寓意には、人(日本人)と人(アメリカ人・黒人)とが交流(セックス)していることが前景化されていることが舞台の設定、前提である。が、この映画では、米兵に代表されるべき外人との交流はなく、ただ騒音の空気として、しかもそれが「異常」なことでもない日常的なこととして慣らされてしまった、いわば”存在”と化してしまっている。そして実際の事件は、つまりあの「座間」の殺人事件は、むしろそれのほうこそが不気味であることを露わにしている。『限りなく―』では、米兵が日本女性とレイプまがいに性交しても、殺すことはなかった。顔のみえる相手として、具体的な関係が、抑制として効いていたかのように。が、具体的な人間付き合いが消えてしまった今では、ただメディアをとおして発生した抽象的な関係の慣れの果てなように、密室的な殺人が連続してしまったのだ。
この映画に、そんなどきつい場面が挿入されているわけではないが、あの轟音の存在、バックグラウンドが、今の時代、事件に触れた観客たるわれわれをとおして、不気味な事件を現前させてくるのである。いや、この監督自身の前作の予告だけをみてみても、この不気味さに監督が敏感的、意識的なのではないかと勘ぐらせる。いや、当初は、本人はこの異様な日常音源に意識的ではなく、他のミュージシャンからこのノイズを使おうという提案があったと告白しているのだから、無意識的なのかもしれない。逆に、村上龍氏の作品に戻れば、村上氏は意識はしたが、それを前景化したのではなく、後景として追いやったのである。だから作品の冒頭は、「飛行機の音ではなかった。」なのだ。彼にとってアメリカは、手に届き触れえる友人と化しつつある他者である。が、宮崎氏にとって、それは隣接していても手には触れ得なくなった他者、しかも、私たちの存在の内とも化してしまった他者なのである。まさにその在り方は、「不気味なもの」、身近な者こそが他者である、という精神分析の概念に当てはまる。「自分の知らないところでまかれ育」った「魔物」ではないのだ。

しかし宮崎氏のこの映画では、むしろ、そこから、が描かれようとしている。見えなくなったアメリカが、われわれの内に存在して占領している(それは、サクラの父アビーの不在によってこその存在圧倒、しかも産みの親(戦前)ではなく育て(戦後)の親として、に寓意されている)、だけではなく、それが見えなくなる過程(歴史)において、見出し得る存在をも産み出している、という現実である。端的に、ハーフが、日本語をしゃべる混血児が登場するのである。『限りなく―』では、そういう視点は、まだないのだ。しかも、その混血児、映画で一番その存在感をもって登場してくるのは、サクラの喧嘩相手の、同級生だった女たちであろう。彼女たちは、おそらくラテン系だ。米兵との間というよりは、日本に出稼ぎにきた日系の、またはニセ日系、不法移民なブラジル人、あるいはペルーや他の南米からの者たちの子か、彼ら・彼女たちと日本人の男女との間で産まれた子供たちであろう。私にも、夜の荷物担ぎのバイトで一緒になった南米からの友達がたくさんいた。厚木にアパートがあった。20年以上もまえの当時、基地があることは知っていても、爆音に出会うことはなかった。そんな彼ら、彼女たちの子供たちの存在である。産み落とされた他者たちは、隠れようもなくそこに居る。ヘイト・スピーチに取り巻かれ、または自らが、ホームレスに石を投げながら(映画での一情景)。

いや、おそらく、この映画で使われている音楽たちが、産み落とされた他者たち、なのではないだろうか? 私は、音楽音痴なので知らないが、『限りなく―』で引き合いにだされる音楽は、みなあちらのものである。村上龍は、少なくとも当時、黒人のようにサックスが吹けるわけでもない日本人のまがいものの音楽には批判的だったはずだ。が、この映画こちらの音楽は、コピーというよりも、クリオージョ、なのではないか? 映画中でサクラのいう「サンプリング」という概念を私は知らない。が、あの南米の友人たちに連れられていったディスコやレストランでの、音楽の雰囲気を、私は思い出す。彼らたちの多くは消えていったが、産み落とされて居着く他なかった者たちがいる。目に見える存在として、そこにいる。

そしてそんな現実は、引用した山田氏の時評を参照すると、あの「川崎事件」が起きた川崎という場所でも、可視化されてきた事態であるようだ。

見えない存在と、見えてきた存在――われわれを支配する存在と、そこから逸脱しはじめた存在。
この映画は、存在下にあるわれわれの無意識な闘争の在り方を示唆し、そこから何か新しいものが産み落とされるのではないかと期待させてくる。不気味な事件の予示だけではなく、積極的な予兆をも感じさせる。

*この映画『大和(カルフォルニア)』が上映されているK's cinemaは、二度目の観賞になる。去年の9月に澤田サンダー監督『ひかりのたび』というのを見ている。学生の頃、よく映画をみたが、その頃の、田舎者には変な感じ、今からなら「文化」とも呼べる感じがする。そういう感じのする映画館がいったん衰退していってしまったような気がしたが、人が在るかぎり、復活する、反復されてくるのではないだろうか? 高田馬場にあったACTミニシアターが懐かしい。巣鴨の三百人劇場も。

2018年4月10日火曜日

西部氏の死

身禄の墓
「「我は六十八歳までの寿命なれども、六十三歳にして、丑の六月十三日を命日とし、とそつ天之三国の万ごうの峰の鏡に身を参り候」と意思を表示しているのである。身禄が六十三歳で死を決意した年は、享保十八年(一七三三)である。この社会背景には、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛たちによる米の買い占めがあった。高間伝兵衛ほか七名だけに、幕府は上方からの米の荷受けの権限を与えたのであるが、折柄、享保十七年に起った西日本地方の蝗害による影響で、いわゆる大飢饉が発生し、米価は高騰するばかりであった。その元凶を高間伝兵衛の買い占めに求めたのが、当時の庶民の意識であり、享保十八年二月には、江戸における最初の打ちこわしが起こったのである。…(略)…その高間を使っている幕府の役人たちを含めて、この世は末世に至ったというのであり、「ぬめのよし原」つまり泥海に化しているという終末観が示されているのである。
 富士山頂に近い釈迦の割石を、「とそつ天」つまり弥勒の浄土に見立てているのは、彼の入定の行為が、弥勒仏出現を前提にしていることを予測させるものであろう。
 身禄行者にとっては、富士講の主張する終末の到来を表現する予定の行動であったが、社会的には、江戸市中の危機意識が高まっていることと相まって、身碌入定は当時のトップニュースとなったのであった。」(宮田登著『江戸の小さな神々』 青土社)

ニュースによると、西部氏は、腰に建築現場の安全帯を巻き、そこに川辺の木に結びつけたロープの先をひっかけた姿で、亡くなっていたようだ。現場の安全帯は、普通のベルトの締め方とは違うし、留め金を開くのに力も必要になるので、手が弱っていたそうな西部氏本人が、自ら装着したものではないだろう。

具体的に、その場面を想像してみよう。
中年とはいえ精悍そうな男二人が準備を整え、川べりの氏の傍らに立っている。氏は、どんな表情をしていたろうか? 「行ってくるぞと勇ましく!」、であるはずもなく、優しそうな目をしていた氏の表情は、弱々しかったのではないだろうか? 男二人は、黙っていたかもしれない。が、それでさえ、その態度は暗黙に、さあ、先生、準備はできましたよ、行ってくださってけっこうですよ、さあ、先生の思想を果たす準備はできましたよ、さあ、どうぞ、どうぞ!――ということにしかならない。そんな無意識に追いたてられて、リールコードにつながれた老犬は、とぼとぼと、川の中へとよろめいてゆく。

そんな姿をみて、庶民ならば、「やめなよ」、と単にとめるだろう。
安全帯の装着にも慣れている現場の人間ならば、「えっ、まじでこんな格好でいくの? いくらなんでも、みっともなくね?」とゲラゲラ笑いだし、「やめよやめよ、帰るぞ、おいっ」となるだろう。

無意識的な実際では、西部氏は独りで死ねず心中したのであり、幇助した男二人は、殺人を犯したのである。

自分で自分の身の回りのことができなくなった老人に、自死だのなんだのありえない。自殺でも、自然死のようなものだ。認知症になった老人でも、ある瞬間我に返れて、ふと魔がさしたように自ら命を絶ってしまう衝動に襲われるかもしれない。が、それでも、それが老いという自然の力ではないか? 死にたい、死にたい、と老人たちは言っている。ほぼ誰もが長生きできるこんな社会において発生してしまった、人為的な自然現象だ。しかし庶民はいつも、そんな自然の中を耐えて生きてきた。だから、知恵もある。だから、「やめなよ」と、声をかけるのだ。死にたい、という老いの自然に抗うその思いやりこそが人為的な思想に変移するのだ。

西部氏が、当初の決行の日取りをのばしたのは、安倍総理による衆院選挙があったからだとか。がいま、その雲行きはあやしくなっている。大衆とひとくくりにはできない、庶民的な位相は、連綿と伏在しているだろう。

2018年4月7日土曜日

朴石と富士講

鎌倉の佐助稲荷神社の朴石
「富士講は町触れにみられるように「職人・日雇取・軽き商人等」の間で広まっていたわけで、「富士の加持水」により病気を治したり「病人え加持祈祷」する富士行者の霊能が信仰対象となっていた。」(宮田登著『山と里の信仰史』 吉川弘文館)








20年ほどまえに書いた「朴石をめぐる論考」、東京や関東の町植木職人がよく用いた富士山溶岩石で作った庭をめぐる考察を、富士講という民間信仰の方面から再考してみたくなり、文献を読み始めている。きっかけは、前回ブログでも引用した『富士塚ゆる散歩』であるが。

とりあえず、20年前の小論をのせてあとづける。

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ぼく石をめぐる小論考

造園の研究、特には過去に作庭されたものへの考察となると、その様式的な変遷を歴史実証的に物語っていくか、各時代に影響をあたえた宗教的・思想的意味づけによって当時の石組み等を形態論的に分類してみせるとか、あるいは個々の庭園にあたってもその実測図や写真などを掲載したうえで分析者の印象や感想を独断的に付記しておわってしまうのが趨勢であってきたようにおもわれる。
そうした風潮に進士五十八氏が一石を投じるような論考を提出したりしているが(『日本庭園の特質』)、それとて他分野において批判検討されてきた考察から遊離しているため、たとえば「自然」という語彙ひとつとってもあくまで通念的な概念運用に居拠するがゆえに、論の根本のところで信用しがたい、あるいは前提的に論の成立が危ういのである。通念によって通念を批判してもトートロジー的な事態しかうみださないが、実際に氏の科学実証的な考察はこれまでの物語りを追認してやっているだけではないのか? 混同されてきた「形式」と「様式」という言葉の概念を区別する作業は必要だったろう、しかしそれが内輪な論理の内部でなされるかぎり、批判的な検討・検証とはいいがたい。
たとえば歴史・科学主義的な思考の歴史性とそのカラクリを上野千鶴子氏はフエミニズムの分野から徹底的に批判している(『ナショナリズムとジェンダー』)。誰がその「歴史」を「真実」とするのか? 誰がそれを物語ってきたのか? 誰がそれを聞いてきたのか? 強姦の加害者と被害者とではその経験内容に相当な乖離があるというのに、どうしてそれをひとつの「事実」として成立させえるのか? 被害者が思いきって口を開いたその切れ切れの断片、つじつまのなさ、記憶違い、沈黙、……この「圧倒的な『現実(リアリテイー)』から出発するほかない」のではないのか?
このような問いかけは、造園の分野においてもひとごとではない。
いわゆる日本の庭とされるものにおいて、誰がそれを作ってきたのか? いや、誰が作ったとされてきたのか?
中根金作氏は『京都の庭と風土』において、次のように物語ることをはばからない。

 明治時代は、政治権力が全く新しい若者達の手に委ねられたのである。彼等はそれまで文化的に質の高い家庭環境には育っていなかった。このことは日本文化の歴史の上に一種の不幸をもたらした。それは優れた日本の文化財の海外流出であり、伝統技術の低下であった。中には断絶したものもある。そして作庭もこの時期を境として糸がきれたごとく、その技術は低下する。(中略)治兵衛は無隣庵の作庭を契機として日本の庭園史のなかに躍り出た幸運児である。しかしこの時代の治兵衛や植木職はあくまで職人であった。日本の庭園は、古代・中世・近世を通じて作庭の世界に中心的な役割りを果たしたのは、それぞれの時代の文化人であった。貴族・僧侶・画家・武家・茶人たち、そして中世に輩出した山水河原者のうち、僧侶に優るとも劣らない学識を身につけた者であった。この中世初めに活躍した夢窓国師を頂点とした作庭家たちと治兵衛他の植木職とを比較することは無理であり、同じ技術を要求することはできない。そして明治を境として日本の作庭技術は中断する。日本の近世中頃までの作庭家たちは最高の教養とそれによる美意識、広い視野を持って作庭に臨んだ人たちである。

しかし何が「教養」だというのか? どんな「美意識」だというのか? どれが「文化」だというのか? 「伝統」として誰が正当(正史)化してきたというのだ? 「技術」とはなんだ?──要するに、近代以降において自明(=自然)視されはじめた言葉によって庭園分野における歴史を理解(=支配・マスター)していくための物語りをことさらのように流布しているにすぎない。
私がこの小論考で提示してみたいのは、上の引用にみられるような、いわゆる研究者、および兼作庭家と呼ばれる「文化人」からまるで口をあわせたように出てくる支配的な物語りに対する、質的に異なったもうひとつの物語りである。その物語りは「下手趣味の最たるもの」(重森三玲・完途著『庭』)として、そうした京都(の庭)中心の文化人から排除されてきた「墨石」(*)から、そしてその「下等品」を使って作られ東京近辺のあちこちにみかけられる「職人」の庭から語りおこされるだろう。またその資料は私達「庭0」で管理し作庭した身近なものからとることにしよう。しかしあくまでこの物語りは歴史実証的な「真実」ではなく、「現実」から構成されえる仮説であり、また庭を読むという創造行為を通した仮説モデルである。
ボクイシは漢字では「朴石」と書くのだそうだが、私が他著作から引用するにあたり「墨」と書き換えてしまったのか、原文に従ったのか、忘れてしまった。調べがつくまで、そのママにしておくことにする。
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黒ぼくともよばれる墨石とは、火山岩の一種であり、玄武岩質の溶岩塊のことである。庭石として珍重される多くの石が、川の流れに洗われ天ばと面をはっきりさせた固有の顔をもっていると言われえるのに対し、表面がごつごつし、あちこちに気泡の穴をあけているようなこの墨石には、一見しての表も裏もないような代物である。豊富で多様な石を入手できた関西の庭ではまずほとんど使用されることがなく、石という素材に恵まれなかった関東において、玉川の玉石とともに、この富士からの墨石が多用されてきたといわれている。しかし当初その用途はあくまで土留めという目立たぬ技法のうちに閉じ込められてきたにすぎなかった。この「従来述べて来た庭石類に比して下等品扱いされて」(上原敬二著『庭石と石組』)きた墨石が、いつ頃から庭石としてその黒い顔を露にしてきたのかはわからない。軽量で加工しやすく、またブロック積みのように組んでいくこともできるといった機能、あるいは西洋からはいってきたロックガーデンの影響といったこともあったかもしれない。上原氏は「しかしこの岩石にはそれ相応の特徴もあって、そう見すてられたものではない。要は石組の技巧如何にかかっている」と付記して述べるが、しかしこの石の前景化には、おそらく上原氏をも含めたこれまでの造園家や研究者が美学的にとりあげてみる技巧とはちがった、むしろそんな見方を批判していく闘争としての技術が潜在しているのだ。それは戦争という大きな物語り的進行の過程で、「下に、下に」と抑圧されてきたマイナーなものたちの分子的な噴火である。
墨石は美しくはない。それを組み上げて構成されたものが美しくあるわけがない。しかもその石は中国の庭に据え置かれる太湖石のように、捕獲するにもおおごとな貴重で珍重される価値あるものでもない。採取容易で多量であり、安価でさえあるだろう。それはもともとが素材として重宝されるようなものではないのだ。しかしそう価値規定する尺度とは何処からくるのか? おそらく江戸時代までは、庭石は金銭といった交換という神秘性をはらんだモノとおなじく、一種の宗教的な呪術行為として取り入れられてきたにちがいない。戦国の武将たちがひとつの石をめぐって奪いあいのような事態をみせているのも、単に美しいという感性的な見方からかきたてられるのではなく、己の行為を正当化してくれる宗教的な正義といった意味あいをその石が内包していると信じられてきていたからということもあっただろう。つまりなお石には神が宿っていたのである。しかし特には明治以降、単に西洋化というだけではなく、貨幣経済の日常的な普及から、その交換という不可思議な神秘性を平板化させてゆく近代化の進展とともに、神は石から霧散し、ただその形だけを愛でるという美学的な見方が支配的になってゆく。むろん、そんな思考自体が近代の産物にすぎないわけだが、いわゆる造園の研究者や兼作庭家とよばれる者たちの多くは、この近代の所産からそれ以前の庭を裁こうとしているのである。
しかしわれわれの思考自体が日常を支配する生活基盤的なものに従属しているとあれば、そこから抜け出すのは難しい。ひとりいや石には神が宿っているのだと頑張ってみることにもはやどんなリアリテイもない。ましてや形だけ以前の石組みを伝統の継承だと換骨奪胎してみても、単に自堕落になるだけだろう。
ではどんな実践があるというのか? いやあったと読みえるのか? 
再び繰り返すが、それは決して美しいものではない。










上の写真は私達「庭0」で管理している新宿は上落合の月見岡八幡神社の墨石による富士である。造営は昭和37年ということであり、中心となって作庭した人は他界している。先代の親方が手伝ったと思われるが、詳しいことはわからない。私はただ、この富士からの衝撃(「リアリテイー」)から読み考えるだけである。
富士山は美しい。その裾野をしなやかに広げた姿形は、万葉の時代から歌いつがれ、築山としても庭園のなかへととりいれられ、借景としても利用されてきた。しかしその用法はあくまで観賞的な立場からなされるものであり、たとえ宗教的な畏怖心といったものが介在していたとしても、富士は対象としてあったにすぎない。つまりは富士が美しいとされるのは、それを遠くから眺めているからなのである。それを間近でみたら、あるいはその峰の最中にあって直面するものであったなら、どうなるというのか?
八幡神社の富士は、その美しいとされてきた見方を意に介さないかのように、むしろ醜いとされてきた墨石によってごつごつと組み上げられている。富士が排出した溶岩塊によって富士を作ってみせること、この倒錯した造形を前に、ただ眺めるという観賞的立場は圧倒され、苛立たされるだろう。そして実際、この富士は登る、あるいは頂上の祠へと参るという行為を誘うように作られている。この誘惑、あるいは衝迫はどこからくるのか?
富士の山中へと最初に立たされたものが、その出くわしたこともない光景、果てしなく広がる樹海、風化した岩石の塊、砂漠のごとき大地、もしそこで圧倒されたまま立ち尽くすことが許されていないならば、人はこの殺風景な現実の最中を歩きはじめるほかはない。しかし一歩、一歩奮えながら押し出された足が次第に力強くなってその頂上へと至るとき、人は山を征服したというだろう。しかしこれは正確な言い方ではない、征服したのは山という対象物ではなく、その自然の「現実(リアリテイー)」に圧倒された自己自身に他ならない。そのとき富士とは対象としての「美」としてあるのではなく、自己への働きかけを通した「崇高」としてあるのである。
「美」に対して「崇高」を区別し対置してみせること、その必要はまず西洋の近代化過程の最中においてあらわれている。宗教的な畏怖心をはらんだ中世からの戦乱、しかしこの世界が無際限な闇に沈んでいくわけのものではなく、地=球として閉じられた「実無限」であることの発見、この歴史=自然的な「現実(=衝撃)」の直面に、人は無力な自己をなんとかもちこたえさせえる技法を発明しなくてはならなかった。
柄谷行人氏によるカントの読解によれば、この「崇高」という感情の動き、つまりはカントのいう「超自我」の働きとは、「理性を駆り立てる『不死』への欲動」としてもあるものだという。つまりはある形而上学的・理念的ななにものかの永世のために、生物学的な個体の死をも厭わないという感情、それは精神分析学上フロイトが人間の根底に仮説した「死への欲動」と同等なものとしてある、と。死という不快(醜)なものを快楽(美)へと転倒してゆく欲望である。ゆえに「崇高」という技法には、両義的な働きがみだされることになる、ひとつは無力な自己自身をなんとか延命させていこうという技法、そしてもうひとつは平和のための虐殺という近代史上においてはじめて歴史化したナショナリズムというロマンチックな戦法である。しかし近代の言説において、このナショナルな感情は美(学)的に認識され、掲揚されてきた。しかし「死の欲動を抑えるのは死の欲動である」。「美」の範疇としてではなく、「崇高」なるものの次元で思考を策動させなければどんな「現実」への対処・技法をも過たされるのだ。(「死とナショナリズム」・『批評空間』1998・第二期-16号)
八幡神社の墨石による富士は、戦争を生き抜いてきた者による戦後になってから造営されたものである。ある意味でこの富士は、『竹取り物語』においてフジという名の由来が追記されることから推論されえるような、戦没者の「不死」を、つまりはあの世での「無事」を祈るような慰霊碑としても造られているかもしれない。それは鎌倉から由来するこの神社の歴史的文脈においても敷えんしえることかもしれない。たとえば頼朝がまず永福寺の建立を思い立ったのは、蝦夷とよばれた東北征伐にあたって、当地の高度な文化的絢爛さに打たれたということともに、数多の兵士(富士)が亡くなった現実への戦没者慰霊の意がこめられていたという。「庭0」では早稲田の北野神社の手入れにもはいっているが、そこに梅の木が数多く植えられているのも、もちろん実朝が鎌倉の北野神社に梅を植えたという伝説的な由来があるゆえだろう。しかしそうした歴史的文脈は二次的なものにしかならないだろう。このホームページの業務紹介でも紹介してある最勝寺の改造まえの境内には、先代の親方が造営した墨石による庭があった。今はなく写真では紹介できないが、それは戦没者慰霊碑の立つ墓地への入り口とは対称的な位置にあるもうひとつの墓地への入り口、階段の左側には銀杏の大木(ここから異界だということを象徴さすものだろう)、そして右側のツゲの高生け垣で仕切られたその内側=境界にあった。樟の大木(ここが緑の消えることのない天上であることを象徴さすだろう──)の下に繰り広げられたその庭は、八幡神社の構成と同じく、規模は小さくとも墨石による築山であって、そこを歩くことがいざなわれるようになっている。桃ではなくて蜜柑、クチナシ、玉散らしに仕立てられたツゲ、常緑樹に囲われた山の麓の洞窟には、七福人が据えられている。要するには桃源郷が表象されている。しかしそれはあくまで醜い=不快な「下等品」とされてきた墨石によって構築されているのである。墨石とは、地下の溶岩ふきだまる煉獄から排出されてきたものに他ならない。となれば、この庭はまさに地獄(不快)による極楽(快)という両義的な意味を働かされている。すなわち、「崇高」なものとして実存しているということだ。
しかしならば、墨石で構成されたこれらの庭は、どちらへ生き延びようとしているのか? あるいは死のうとしているのか? 国体へか? あくまで無力な自己自身へか?
庭を造った作者へと尋ねてみる必要はない。作品の背後に作者の意図を読み込もうとする近代的な営みは、この世の背後に神の意図を探ろうとする形而上学的な強迫反復に無自覚である。つまりその営み自体が「死への欲動」なのであり、近代の虐殺史に結び付いているのだ。あくまでその庭に直面することからはじめなくてはならない。








上写真は、八幡神社の富士が祭られた敷地のすぐ手前にある筧であるが、ここで考察しようとおもうのはその背後の石の用法である。滝口としてイメージされて立てられた庭石を囲繞するように墨石が組まれている。美観的にみても決してすっきりしたものではない。むしろ奇妙でさえあるだろう。しかしこの奇妙さを、美学的なひとつの趣味として理解=解消させてしまうことはこの作品のもつ「現実(=衝迫)」を見失うことになってしまうかもしれないのだ。なぜなら、この構成では、これまで価値あるものとみなされてきた庭石が主人公であるのか、それを取り囲む下等なと呼ばれてきた墨石の方が主役として据えられているのか、判然としがたくなる厳然さとしてあるからである。いやこれが墨石による庭だということははっきりしている、ならばこの構成が現前させているものは、重宝される石とはこういうものだという伝統的に培われてきた価値体系をひっくり返していく批判の力としてあるということになる。つまり企まれているのは、ヒエラルキーの転倒という政治的・階級闘争なのである。 この作庭者があの戦争をどういう態度で生き延びてきたのかはうかがい知ることはできない。しかしあの戦争にかり出された多くの兵士(富士)たちが、砂漠や雪原やジャングルにおいて、心象風景などという自然主義的な観賞的・美学的態度などでは対処できない、決して内面化しえない自然の「現実」に直面してきた。いや都会の中にあってさえも、上官や同僚、そして人間の顔をもった敵、いや自己自身の内にさえ吹き荒れる自然の「欲動」に直面し翻弄されてきたのだ。そしてたとえば、この「現実」に直面した戦後派と呼ばれた小説家たちが、どんな構成をもつ作品群を提出してきたか? それは不完全であり、奇怪であり、美しくはない。しかしそれが彼等のそうでなくてはならない本領なのであり、意欲なのである。国家のために死ぬ美しさ、そんな支配階級が鼓舞し駆り立ててきた戦法に抵抗する形を、彼等は自らの作品で作り上げようとしてきたのだ。
しかしもちろん、この奇妙な形が、ナショナリズムに連綿としてゆく美学的な見方への批判という闘争の力(厳然=現前)をもつのは、そうしなくてはならぬという意欲があってこそである。つまり「死の欲動」を形而上学的な戦法の内へとなびかせ発散させていくのではなく、それをなんとか抑えていこうとする自己制御的な技法へと工夫しているかぎりである。余談になるが、先代の親方は、常雇いとしてはいっている家の主人が、一服の時間に熱いお茶ではなく、冷たい飲み物を召しだされても、決して口にしなかったという。(現親方の奥さんによると、仕事もしなかったという。)だからもしこの闘争の意欲なければ、それはいつでも美的趣味の形骸と反転するのだ。
この庭石を墨石で取り囲むという石組みは、しかしここで物語ってきている作庭者の独創的な力によって生まれたというのではない。無からの創造などというものがあるとしたら、神のみによるだろう。戦前にさえすでにこうした用法がみられたのかもしれない。しかし私が調べ推論するかぎりでは、その源流は江戸に幕府が開かれ、貧困な石しか採取されなかったとする関東において、はじめてその地方独特な回遊式の庭園として築かれた小石川後楽園にある。
というか、この八幡神社の「富士」という構成自体が後楽園からの引用としてあるのではないか、と推察する。江戸で頻繁に起こった火事、当初のものからの改造、関東大震災、そして戦時中の大空襲、こうした変遷と災害を経て原形をとどめた石組みがどこにどれほど残っているのかは知りえないので確実さはないが、しかしそれは、玉川の大きな玉石らしきものとともに、それと並列されて使われているような単なる土留めとしてある使用からきているのではない。それは琉球山という当時の入り口からは一番の奥に位置するともいえる築山にある。西湖提を渡りこの山に敷かれた延べ段を登っていき、中腹にある大井川を見下ろす見晴らしの敷地を抜け、その頂に着くやと覚えるまっすぐな山道の突き当たりの場所に、登ってくる自分を写す鏡であるかのような表面の平らな石が傾斜の土留めとして埋めこまれている。そしてその周りをより小さな石たちが取り囲んでいるのだ。参観者はこの突き当たりの石に相対したあとで、右の曲がりへと振られすぐにこの山の天上へと立つだろう。この山は、江戸の治保時代には通称「富士山」と呼ばれた。
下1がその石の写真である。この写真と、八幡神社の富士の中腹に窺える石組みとを比べてみるとしよう(下2がその拡大)。後楽園の富士では、鏡を表象しているような石を取り囲む石群は、墨石ではない。ただし、右上で押さえる石が墨石らしきものにも思えるのだが、はっきりとはわからない。しかしこの構図、八幡神社の富士でもこの鏡としての石の据えられた位置から参拝者は右に振られ頂へといたるのである。さらに、後楽園に築かれた山が琉球と名付けられたのには、ツツジがたくさん植えられていたからだという。八幡神社でも山という斜面上で強調させられている植栽はツツジである。(頂には金木犀、峰にはヒマラヤが並木として植えられているのだが──「業務紹介」巻頭写真を参照<註;前回ブログ写真)──、その植栽の存り様はこの山が単なる模倣的引用ではなく、批判的引用だということを現前させている。頂に映える金の後光はここが死者たちの天界であることを、しかし昇天として祈られる場所とは日本的な内輪の表象なのではなく、世界の山峰なのである。しかも、その明治になってから日本に輸入された巨大な樹木は、芯が止められ職人の受け継いだ技術によっていわゆる和風に仕立てられることがめざされる。それはまさに自然の圧倒的な現実を前にした己の無力を、その「死(=不死)への欲動」をなんとか抑えこもうという技法=意欲である。つまりはこの頂へと訪れる者は、あるいはその「崇高」さに直面する者は、日本の神からより普遍的な次元への飛翔を死者からの願い=諭しとして誘われていることになるのだ。)
下1
下2

独創ではなく引用で造られていることが、作品の価値を失うわけではないということを改めて強調する必要はないだろう。重要なのは、先行作品に対する関係の強度である。それはひとつの作品においても、その凄さを決めてくるものが、素材と素材との、あるいは部分と部分との関係や連結の緊密度であってくるのと同じである。しかし引用がただ単に趣味的な美観によってなされるならば、つまり恣意的な折衷でなされるならば、作品どうしの、あるいは素材間の関係は弛緩してくる。引用が力を持ってくるのは、あくまで批判という意欲があるかぎりにおいてである。しかし力なき反復は、作品へのこだわりが形に集約してくるために、洗練されてゆき、それが伝統とよばれるものになってくる。
下の写真は、昨年「庭0」で改造した最勝寺の境内の一部分である。門から入来した者がこの境内を一巡しようとするとき、本殿をよぎるアスフアルトの道はこの鏡を表象するような墨石で囲われた石に突き当たり、右へと振られ、裏の内庭へと回ってゆく。以上三つの写真を見比べてみるとき、その選ばれた石の形といい、構図といい、あまりに似ていることは驚くばかりである。









小堀遠州の庭は、庭園技術の達成的な歴史的現実を前にした、先行作品に対する編集作業としてあったのではないかというような意見が建築家の方から言われたりする。もしそうであるなら、その己のまえに既に提示尽くされたとみた庭の「衝撃(=現実)」からの組み直しとは、批判的引用の作業にほかならない。彼の庭が凄さを、「厳然」さを「現前」させているとしたら、その批判の力が遠州好みとよばれる伝統=様式化した庭とを分け隔てるだろう。そして批判的引用とは、読みなおすという作業のことでもある。だからそこには、どう読んだのかという文脈がなくてはならない。おそらく遠州にあっては、それまで宗教的・思想的に意味づけられて構成された庭から、その政治的バックボーンを徹底的に排除し、純フオルムとして抽出してやるというイロニックな政治性であったかもしれない。彼は様式化しえない多様さとして厳然=現前してある庭の歴史=現実を、形式化しようとしたのである。「形式化」とは、現実として直面する「死の欲動」をなんとか押さえ込もうとする「超越論的(=超自我)」な、自己制御的な技法である。逆に遠州の庭から形だけを模倣した政治的対応を欠いた庭、すなわちは支配権力として自明=自然化した体制=大勢に「欲動」をなびかせるにすぎない庭とは「様式化」としてあるにすぎないのであって、そしてむろん、後者の強迫反復的連綿さが「伝統」とよばれてきたのである。利休や織部といった先人たちが当の権力に殺されてきた戦国を生き抜いてきた遠州の政治的姿勢とは、皮肉なものであったにちがいない。
八幡神社の富士が後楽園からの引用であるならば、その批判的読みの文脈はいまやあきらかだろう。しかも鏡として表象されるような石組みは象徴的な技法でもあるだろう。鏡とは自己を参照させる装置、自然の現実に圧倒されておののく足を一歩一歩踏み出しはじめた自己自身を見つめ直すきっかけである。そう、確かにそれは自己愛的に割り振られた道具仕立てなのではない、人はこの鏡を契機に自己を振り切るように右へと旋回し、山の頂へと立つのだ。そしてその山は、天下を牛耳った権力者たちが周遊する価値ある石で埋めつくされたその形をごてごてと覆い潰すように、下品な物たちが囲蝟している。古代から語り継がれてきた典型的な大きな物語りを、語られることさえはばかられた下等な者たちが占領している。この黒い面(ツラ)も定かでない顔をした包囲網の現前は、しかし「美」しき観賞に己を任せることしか知らぬ連中を圧倒させてやまぬ企みを実存させた「崇高」な厳然さなのだ。
                            1998..
追記  東京は駒込の旧古河庭園は、洋風と和風が上下に並列的に構成された大正初期の庭だが、その和風の方の回遊式庭園は、植治が作庭したものだとされている。そしてその心字池の奥まったところに、枯滝が組んであるのだが、そこでは滝口としてイメージされた豪華な庭石を引きずり降ろすような気迫をもった構成で、墨石が多用されている。高価な庭石を包囲するまでにはいたっていないが、それに迫る勢いとして使用されているのである。それはこの庭の土留めの用法としての墨石についてもいえる。後楽園や六義園などでの用法があくまで目立たぬ脇役にしかすぎぬのに、ここではあるはっきりとした造形力として着眼されているのだ。ここからも植治が自然主義風の作庭家にすぎなかったというのは俗説にすぎないと推論できる。ロマンチストな文化人・山形有朋にその俗説はあてはまっても、激動の余燼の中を生きた職人である彼が、思想や意味などで創作できるわけがないモノとの対応に迫られたはずである。この庭からも、あるはっきりとした階級闘争の意欲を感じ取ることができる。
                           1998.9.13