2013年5月30日木曜日

数と形(サッカーと政治)

「数式は言葉だ、計算じゃない。」(東進予備校のテレビ・コマーシャルから)

国語・算数・理科・社会・体育・音楽・図工と、君たちは学校でいろいろ勉強しているね。じゃあ、サッカーと一番にている勉強はなにかな? 体を動かすから体育かな? でもここでは考え方、頭の使い方という点で、といえば、どうなるかな? スズキ・コーチの理解では、答えは算数になります。たとえば、よくテレビで試合の解説者が、「数的有利」とか「数的不利」とか言っているのをきかないかな? 君たちも、練習で、この数の問題を学習したよね。1対1、1対2、2対1、2対3、3対2……そして3人対人でのボール取り合いとなればポゼッションゲームだよね。自分がボールを受けてぱっと顔をあげたら、前に相手が2人いる。サッカーでは、これは「数的」に「不利」つまり負けだから無理にしかけない、と判断する。だから味方を待つ。2対2なら引き分け。だからしかけてみる価値もある。3対2なら万全だ。もちろん、ほんとに上手な人なら1人でも突破できるだろうけれど、それは個人の話で、サッカーではこの数の問題を原則的な公式、1+1=2のように受け入れて考えていく、それが一番ゴールという正解を得るための近道と考える、ということなんだ。しかしこの数の問題は、それだけではない。たとえば、2人だったら、二人を結ぶ直線になるね。3人だったら、三角形になるね。そういうふうに、数というものが、形につながっているんだ。そしてこの形が、相手とぶつかったときの君たちの判断を誘ってくる。相手が1人で味方が隣にいる2人だったら、味方へのパスや、1人がおとりになることでのドリブル突破だの、と判断するね。1点なら出てこない発想だろ? 3人の三角形なら、パスコースが増えるね。つまり、君たちは自由気ままにボールを蹴っているようにみえて、実は、この数と形が、君たちの考え方をだいぶにおいて支配しているんだよ。サッカーがわかるようになるとは、この数と形の原理原則を頭にいれて、フィールドで上手に使って、ゴールという正解にたどりつけることができる、フィールドの難問を解くことができる、ということなんだね。
で、この間の試合、去年はいい勝負した相手に16対0で負けたということだけど、どうしてだとおもう? 普段やらないポジションにつかされたりしてということもあったみたいだけど、こと数と形の問題に関していえば、その難問に君たちがはまってしまった、ということなんだ。布陣は、3-2-2だったそうだね。これは8人制サッカーの教科書では、守備的な陣形と教えられているものだ。が、では君たちが相手で、キックオフでボールを得たら、どう攻撃する? 何も考えずに、両サイドに深くあいたスペースへと走りださないかい? 前線の2人は後ろ向きには守備をしにくいし深追いできない、中盤の選手はタッチライン近くを走られると追い付かない、バックはもう後ろがいないので、アプローチしずらい、その迷いを形から強制されている間に、体の大きいキック力ある選手の多い相手チームが、どんどん打ってきたということだね。それが16回、繰り返された、ということじゃないかい? たしかに、相手にせめられっぱなしになりやすい、という点では守備的なフォーメーションだね。とくにサイド深く入られることは長くつづくと、5バックになりやすい、ゆえに8人制では、中盤の選手までが最終ラインに引きずり込まれることになるので、クリアボールを支配するのは相手だけになりがちで、すると、また相手との攻防がゴール前ではじまって抜け出せない、という悪循環が発生する。プロチームでも3枚ディフェンスではそうなりやすいんだよ。この布陣に近いチームモデルといえば、かつてのブラジルの4-2-2-2だね。これには相当強烈なサイドアタッカーが必要とされるのさ。
と、どうだい? 数と形の問題が、本当に試合でもそうだったとおもえてこないかい? サッカーが、だいぶ算数に似てきてないかい?

だけどサッカーでの問題とは、実は君たちが学校でならっている算数とはちょっと違うんだな。君たちのは九九などを暗記してやる計算だね。だけど本当の算数、つまり数学という数の学問がやるのは、ゴールのない暗記計算の繰り返しではないんだな。それはキーパーからバックへ、中盤へ、そして前線へとビルドアップしていくことで達成できる論理、というものなんだ。論理とは、国語の勉強の言葉でいえば、主語、述語、目的語、と順番に組み合わせていくことで意味を獲得できる言葉の力、ということだ。だから日本人がなかなかサッカーが世界で強くなれないのは、その日本語の文法、法則では、主語を省いたりしても文章が成立してしまう、その場の成り行きに任せられる言葉だからかもしれないね。「やるよ」と日本語ではいえるけど、英語では、ちゃんと誰が何を、ということを付け足してないと、言葉にならないんだよ。それだけ、相手にきちんと伝える、という要請が強い文化で生まれたのがサッカーというゲームということなんだ。つまりちゃんとしゃべらなくてもわかりあえる仲間うちではなく、自分が知らない他人とどうコミュニケーションを成立させるか、そのことがずっと問われてきた歴史の中で、サッカーが生まれた、ということでもあるね。
そしてこの論理力が、日本人には一番苦手な難問なんだ。計算問題としての算数はできるけど、つまり足先の技術でパス回しはできるけど、ゴールという目的に即した、意味のあるパス回しを構築していけないんだ。しかもそれができるようになるためには、まずもって、自分たちがどんなサッカーをしたいのかという理想がなくてはならない。それがあってはじめてそれに近づくための作戦がねれて、それを実現していくための技術、とわかってくる。見かけでは、どのチームも、日本のチームもドイツのチームもアメリカのチームも、みんな似たようにボールを蹴り、コントロールし、ミスをする。だけど、目指しているものがあってミスをしているのと、そこがあいまいなままミスをしているのとでは、同じことだろうか? ゴールを真剣に目指して考えやっている上でのミスと、公園での友達とのサッカーでボールコントロールをミスするのとでは、同じかな?

「同じ」じゃないか、と最近、大阪の市長が発言して世界で騒がれてしまったことを、君たちはお父さんやお母さんから、あるいはテレビのニュースできいているかな? 戦争になればみんな人を殺すさ、どの国も同じさ、だから、人殺しをした俺だけをせめるのはおかしい、というようなことをその大阪市長はいったんだね。だけどどうだい? 本当に、真剣に平和を実現するために外国と交渉してきて、そのときのミスのために戦争がおきて人殺しが発生してしまったのと、そんなことを本当には真剣に考えず、まわりが戦争するから自分もはじめて人殺しをしたのとでは、「同じ」かな? 真剣にやってミスをした人が、遊びのサッカーでミスをした人に俺とおまえも「同じ」仲間だね、と言われたら、侮辱されたように感じて怒らないかい? 怒るとおもわないかい? 君たちも日本人の大阪市長といっしょに、どうせ人殺しとして同じなのに、なんで怒るんだ? と頓珍漢になるのかな? だけど、その結果、大阪市長は、もう政治世界のワールドカップにはでられないよ。おまえは俺たちの仲間ではない、と追い出された。だって、世界の平和を作っていく、その努力を否定したのだからね。そのために下からビルドアップして他の国とのパス回しをつくっていく最中のミスを大阪市長は認めないといったのだからね。公園での友達仲間でのサッカーでもミスはあるでしょ、それとおんなじだよと。君たちはどうだろう? 「同じ」だとおもうのかな? はっきりしているのは、それを「同じ」とおもっているかぎり、ワールドカップにはでられない、世界では認められないよ、ということだよ。

参照ブログ<論理と外交と人間と> http://danpance.blogspot.jp/2012/11/blog-post.html

2013年5月12日日曜日

サッカーと戦争(ロジックとロジスティック)

「一般的に皆さんがよく見ているのは、国内外のプロリーグや日本代表の試合だと思いますが、スピードに劣る中学生の試合の方が一つひとつのプレーは見やすいと思います。きっと、ミスの少ないチームが勝つことが多いと感じると思いますし、ミスが多いチームと少ないチームとの違いにも気付くと思います。例えば、昨年優勝したサントスの子たちは、本当に”止める・蹴る”という基本が巧みで、簡単なミスをしない。攻撃でミスが出ないから、守る側は大変です。だから、自然と守備力も身に付いていきます。比較すると、日本のサッカーでは技術が追い付かないくらいにスピードを上げてしまう場面が多くて、そのミスのおかげでボールを奪えていることが多いわけです。まず、しっかりとした技術のベースがあって、次にテクニカルな面で狙えるプレーや戦術が広がっていくということが、よく分かる大会ですよ。日本のこの年代のトップクラスの選手たちも出ますから、日本が今後どのようなことをやっていくべきなのかという指針にもなると思います。」(北澤豪発言「エル ゴラッソ」号外 2013東京国際ユース(U-14)サッカー大会)

ゴールデンウィークに、駒沢競技場で開催された国際ユースの試合をみにいった。見たのは予選リーグだったが、それでも強いチームと弱いチームの差が歴然とわかるものだった。うまいチームではない。強いチームである。マラドーナがでているアルゼンチンのボカ・ジュニア、それとロシアはモスクワのアカデミー所属のチェルタノヴォ。ネイマールが育ったサントスFCはみれなかったが、北澤発言からしても、おそらくボカのようなチームなのだろう。それらと他のチームとの違いは、一人ひとりの選手に、チームとしての体系的な考えが行き届いて、意志統一された戦い方をしているということだ。コーチの話をきいている姿からして、それがみてとれる。コーチ(チーム)自身が理解させることに急いでいないので、選手もマイペースで消化できるよう落ちついて集中してきいている。自分がまず何をすればいいのか、このチームの戦い方にとって何を要求されているのか、その役割をしっかりと握りながらプレーしている。体格もさることながら、もうすでに大人の落ち着きである。それに比べ、日本やソウルのチームとうは、溌剌としているが落ち着きが変で、戦い方もドタバタしている。北澤氏が指摘しているように、お互いのミスのおかげで点をとり、とられる、といった模様だ。自分が持っている思考以上、技術以上のスピードで、無理をしてやっている。が、ボカのようなチームは、難しいことはしない。マラドーナやネイマールのような個人プレーヤーがいるのかなとおもっていたが、そうでない。近くの人へ止めてパス、その安全な連結で一貫している。ゴール前も、無理にこじあけるということが抑制指示されているように、相手が隙をみせたときにだけどばっとしかける。無理だったらしない。確実性と確率性に徹底している戦い方。サッカーが下からビルドアップしていく構築的なものであることがよくみえてくる。まだ日本のチームは前回ブログで冒頭引用した中田氏のいうように、「状況に対する反応」でボール運びをしている。そこにイメージ力を個性としてもった選手をボランチ(司令塔)として置いて、なんとかその個人の打開策がうまくいけば、という賭けのようなサッカーをしている。つまり、キーマンとなる個人へよりかかった戦い方である。

(そうした中でも、フランスのパリ・チームは、アフリカ人(黒人)の速さ、高さといった身体能力にかけた戦い方に徹していた。相手ディフェンダーの裏をとらせる前線へのミドルパス。しかも、3人でしかせめてこない、せめさせない。パワーゲームだ。あらっぽい。これで子どもたちが育つのかな、と疑問におもう戦い方だ。成長よりも目先この大会での結果を追求していくようなやり方で一貫していた。賞金かせぎとか、何か裏にあるのか、と疑いたくなる。)

この14歳以下の国際ユースのサッカー大会をみているだけでも、とても日本はまだまだ世界で対等には戦えない、とおもわせられる。コーチの話をきいている姿だけでも、その違いは、いつかのこのブログでも言ったとおもうが、親の躾け方の違いが根底にあるだろうことを推論させる。知り合いのコロンビアのママは、幼い娘を叱るとき、突然人格がかわったような形相になってしゃがみこみ、子どもの目をみつめながらバシッとピンタする。そしてピシッと一言。次の瞬間、またもとのやさしい母親になる。が、こっちときたら、日常そのままのぎゃーすかの延長でぐだぐだ文句をつらねていくだけで、示しがつくような感じではない。親が真剣になる、ということが(他の文化圏と比べたら)、親自身わかっていないような感じだから、子どもだってわかるようにはならないだろう。南米チームのようにはなるには遠い。というか、習慣原理がちがう。

ゴール(目的)をめざして前線にボールを運ぶロジックを考えること、それはつまり、戦争でいう兵站ということ、ロジスティックということだ。この補給路を確保していくということが、すなわち戦争をやるということだ。それが考えられないうちは、無理な仕掛けをしない。われわれは、この戦争の原理を、しっかり握っているだろうか? 「状況に対する反応」だけで戦争をしてしまって、それから出まかせに補給路を考えようとし、パスコースが消されて孤立した前線に、我慢しろ、根性だ、玉砕だと、精神主義的な「道」づれを養成してしまう、そんな癖をつけたままなのではないだろうか? 本当に、真剣に、戦争をするつもりなのか? つもりだったのか? と東京裁判で問われて、責任ある地位についていたものたちは、誰一人として、戦争するつもりだったと答えていない。こんなふざけたことがあっていいのか(原発事故であってしまったのだが……)? どれだけのひとたちが犠牲になったというのか? あれはお遊びだったのか? これからも、そんなことがあるのか(原発事故があってしまったのだが……)? いまなお、あるのか?

昨今の政治経済事情がわれわれ庶民に突きつけてきているのも、そんな真剣な論理のことなのではないだろうか? ほんとに、やる気があるの? と。