「一般的に皆さんがよく見ているのは、国内外のプロリーグや日本代表の試合だと思いますが、スピードに劣る中学生の試合の方が一つひとつのプレーは見やすいと思います。きっと、ミスの少ないチームが勝つことが多いと感じると思いますし、ミスが多いチームと少ないチームとの違いにも気付くと思います。例えば、昨年優勝したサントスの子たちは、本当に”止める・蹴る”という基本が巧みで、簡単なミスをしない。攻撃でミスが出ないから、守る側は大変です。だから、自然と守備力も身に付いていきます。比較すると、日本のサッカーでは技術が追い付かないくらいにスピードを上げてしまう場面が多くて、そのミスのおかげでボールを奪えていることが多いわけです。まず、しっかりとした技術のベースがあって、次にテクニカルな面で狙えるプレーや戦術が広がっていくということが、よく分かる大会ですよ。日本のこの年代のトップクラスの選手たちも出ますから、日本が今後どのようなことをやっていくべきなのかという指針にもなると思います。」(北澤豪発言「エル ゴラッソ」号外 2013東京国際ユース(U-14)サッカー大会)
ゴールデンウィークに、駒沢競技場で開催された国際ユースの試合をみにいった。見たのは予選リーグだったが、それでも強いチームと弱いチームの差が歴然とわかるものだった。うまいチームではない。強いチームである。マラドーナがでているアルゼンチンのボカ・ジュニア、それとロシアはモスクワのアカデミー所属のチェルタノヴォ。ネイマールが育ったサントスFCはみれなかったが、北澤発言からしても、おそらくボカのようなチームなのだろう。それらと他のチームとの違いは、一人ひとりの選手に、チームとしての体系的な考えが行き届いて、意志統一された戦い方をしているということだ。コーチの話をきいている姿からして、それがみてとれる。コーチ(チーム)自身が理解させることに急いでいないので、選手もマイペースで消化できるよう落ちついて集中してきいている。自分がまず何をすればいいのか、このチームの戦い方にとって何を要求されているのか、その役割をしっかりと握りながらプレーしている。体格もさることながら、もうすでに大人の落ち着きである。それに比べ、日本やソウルのチームとうは、溌剌としているが落ち着きが変で、戦い方もドタバタしている。北澤氏が指摘しているように、お互いのミスのおかげで点をとり、とられる、といった模様だ。自分が持っている思考以上、技術以上のスピードで、無理をしてやっている。が、ボカのようなチームは、難しいことはしない。マラドーナやネイマールのような個人プレーヤーがいるのかなとおもっていたが、そうでない。近くの人へ止めてパス、その安全な連結で一貫している。ゴール前も、無理にこじあけるということが抑制指示されているように、相手が隙をみせたときにだけどばっとしかける。無理だったらしない。確実性と確率性に徹底している戦い方。サッカーが下からビルドアップしていく構築的なものであることがよくみえてくる。まだ日本のチームは前回ブログで冒頭引用した中田氏のいうように、「状況に対する反応」でボール運びをしている。そこにイメージ力を個性としてもった選手をボランチ(司令塔)として置いて、なんとかその個人の打開策がうまくいけば、という賭けのようなサッカーをしている。つまり、キーマンとなる個人へよりかかった戦い方である。
(そうした中でも、フランスのパリ・チームは、アフリカ人(黒人)の速さ、高さといった身体能力にかけた戦い方に徹していた。相手ディフェンダーの裏をとらせる前線へのミドルパス。しかも、3人でしかせめてこない、せめさせない。パワーゲームだ。あらっぽい。これで子どもたちが育つのかな、と疑問におもう戦い方だ。成長よりも目先この大会での結果を追求していくようなやり方で一貫していた。賞金かせぎとか、何か裏にあるのか、と疑いたくなる。)
この14歳以下の国際ユースのサッカー大会をみているだけでも、とても日本はまだまだ世界で対等には戦えない、とおもわせられる。コーチの話をきいている姿だけでも、その違いは、いつかのこのブログでも言ったとおもうが、親の躾け方の違いが根底にあるだろうことを推論させる。知り合いのコロンビアのママは、幼い娘を叱るとき、突然人格がかわったような形相になってしゃがみこみ、子どもの目をみつめながらバシッとピンタする。そしてピシッと一言。次の瞬間、またもとのやさしい母親になる。が、こっちときたら、日常そのままのぎゃーすかの延長でぐだぐだ文句をつらねていくだけで、示しがつくような感じではない。親が真剣になる、ということが(他の文化圏と比べたら)、親自身わかっていないような感じだから、子どもだってわかるようにはならないだろう。南米チームのようにはなるには遠い。というか、習慣原理がちがう。
ゴール(目的)をめざして前線にボールを運ぶロジックを考えること、それはつまり、戦争でいう兵站ということ、ロジスティックということだ。この補給路を確保していくということが、すなわち戦争をやるということだ。それが考えられないうちは、無理な仕掛けをしない。われわれは、この戦争の原理を、しっかり握っているだろうか? 「状況に対する反応」だけで戦争をしてしまって、それから出まかせに補給路を考えようとし、パスコースが消されて孤立した前線に、我慢しろ、根性だ、玉砕だと、精神主義的な「道」づれを養成してしまう、そんな癖をつけたままなのではないだろうか? 本当に、真剣に、戦争をするつもりなのか? つもりだったのか? と東京裁判で問われて、責任ある地位についていたものたちは、誰一人として、戦争するつもりだったと答えていない。こんなふざけたことがあっていいのか(原発事故であってしまったのだが……)? どれだけのひとたちが犠牲になったというのか? あれはお遊びだったのか? これからも、そんなことがあるのか(原発事故があってしまったのだが……)? いまなお、あるのか?
昨今の政治経済事情がわれわれ庶民に突きつけてきているのも、そんな真剣な論理のことなのではないだろうか? ほんとに、やる気があるの? と。
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