ゴールデンウィークに実家に帰って、砕石敷いて駐車場がわりにしている裏の自動車の乗り入れ口を平板とモルタルで整備していると、隣家のおじさんがやってくる。そしてコテを手にして手伝ってくれる。おそらく、地元の進学校をでて上京していったお隣の優等生がなんでこんなことができるかのか、何を東京でしているのか興味をもって近づいてきたのだろう。こちらも自分が何者であるか説明しないと居心地がわるいので、「向こうで植木屋を二十年やっているので、まあプロなんですけどね。」と、まるきりよそ者みたい自己紹介する。おじさんは驚いたが、そのうち砂が一袋100円でこちらは安いが東京は高いだの、生垣作りもするのでホームセンターで買ってきた支柱丸太が600円もして高いねえ、とかお互いうなずきあっているうちに、私は育った地元ではじめて隣人と打ち解けた契機を持てた気がしたのだった。後で鎌を使って雑草取りをしている母は、私が自分の職業を自分からばらしてしまったことを、恐縮したように背中で聞き耳をたてているのがわかる。顔をだした父の話といえば、この連休中に近所で起きた高速バスの事故にふれて、自分も大型の免許を持っている、それは学生を送迎するためだったが、との自慢話。かとおもいきや、事故がなかったのはほんとに幸いだったと脈絡もなく謙虚になる。歳からくる耄碌というよりも、「先生」と呼ばれてきた優越的立場が許していた恣意的な論理ぐせを、隣のおじさんは相手にしない、というより、こういう階層の人はそういうもんだと無言の忍耐で相槌をうって返している。工場勤めだった人だ。家のブロック積みも、川から砂をとってきて、自分で施工したという。近所の多く、私が一緒に野球をしていた友達の父親たちは、そうした町工場の労働者や石屋や農家の人たちだったのである。おそらく子どもの私も、浮いていただろう。いま私は、「人民の中へ」とはいっているかもしれない。しかしそれは、渡辺氏が批判するような左翼知識人というわけからではない。――<民衆をたえず自己のコンプレックスとその倒影としての幻想とのかかわりでしか見れなかった左翼知識人は、こういう部落的共同性への嫌悪を倫理的な悪ないし原罪とみなし、知識人がそういう孤立的な感覚を克服して、民衆の共同性の「やさしさ」と合体することがコミューンの創造につながる、といったふうにストレートに錯覚する。>(「民衆論の回路」『日本コミューン主義の系譜』葦書房)……私は意志的には、むしろプチブルに居直った知識人であろう。が、上のような人民への認識感覚は、内に折り返しておかなくてはならない前提であると考える。ゆえに、自らの上面の観念性に気づかず上辺の居直りしかできそうもないインテリたちには、「下放」を命じたくもなるだろう。
私は、戦前大連で生まれ熊本で在野する渡辺氏の作品を読み知ったのは、前回ブログで引用したものがはじめてである。今回、区立の図書館よりその著作を借りて読むにつき、私の思考を刺激してきたので、その箇所いくつかノートとして書き留めておくことにした。そして次回のブログでは、プチブルジョワインテリへの居直り(ブント)思想家としての、柄谷行人氏の「哲学の起源」問題へと、接続の端緒を随想できたら、と考えている。
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「伝統的風土と反権力の思想のかかわりを考える場合、もっとも注目すべきなのは、この村落共同体、あるいはその亜種としての都市の下町的共同体の住民である。彼らの意識の中核をなしている自然観、人間観、ないしは価値意識は、西欧市民社会を貫徹する論理と決定的に異質だった。だから彼らは、明治新政府が導入した市民社会的諸体系(法や社会制度)を、まったく理解不可能なものとみなし、もしそれとかかわりをもたねばならぬことがあれば、天災のような災厄とあきらめ、出来うることなら、一生それとは無関係に、伝統的な共同体的倫理にしたがって生を終えることを望んだ。/ 彼らのそういう生きかたからすれば、権力の思想と反権力の思想の区別は無意味だった。なぜならそれは、共同体の圏外の住人である特権的エリートの思想分裂であって、共同体内でまどろむような生活が続けられるかぎり、エリートたちの抗争は、彼らの生活に何ら具体的な作用をもたなかったからである。彼らには法とか政治とかの言語を必要としない、いわば自然の言語に属する生活があって、そのなかから追い立てられぬかぎり、政治社会で何ごとが起っていようとも、それは湖底から見た水面のさざなみにすぎなかった。…(略)/ 昭和初期の政治的激動のもつ意味は、このような基底生活民が、その共同体内でのまどろみから揺り立てられて、市民社会の進展する現実と直面させられたことにある。大正中期からはじまった社会の地殻変動は、いわば彼らを包んでいた繭を決定的に破壊したのである。血盟団のテロリストたちの出現は、そのような共同体民の、政治舞台への登場の象徴であった。そしてこのとき彼らが、西欧的革命思想への反対者としてのみでなく、同時に反権力的革命者として現れたことは、革命と風土の関係を考える場合、何よりもまして重要な事実であったように思われる。/ 彼ら右翼的な下層青年たちは、たんに伝統思想の立場から、ヨーロッパ進歩思想を敵視しただけなのではない。彼らはもはや共同体に安住することのできなくなった若者たちであり、彼らを深部で動かしていた衝動は、まぎれもない個への自覚であった。にもかかわらず彼らが、当時支配的であった移入思想としてのデモクラシー、ないし社会主義に同調できなかったのは、そのようなイデオロギーの担い手である都市知識人が、社会的に特権エリートとして存在し、下層青年たちの個への自覚が同時に、共同的なものの再建への熱望であることを、まったく理解しようとしなかったからである。/ 彼らの政治思想的な自覚は、だから本質的は反権力的なものでありながら、権力の国家主義思想のえじきとなるほかはなかった。この悲劇は、日本共同体民の伝統的心性が、反権力の思想回路を設定しそこなったまことに痛恨すべき事例として、今日のわれわれにも示唆的である。戦後市民社会は、明治以来の懸案であった全国民の近代市民的統合を、一見みごとになしとげたように見えながら、深部においては、伝統的な心性がもっともラディカルな革命への衝迫をさそい出すという、矛盾をなおたたえ続けているからである。(渡辺京二著 「風土と反権力」『日本コミューン主義の系譜』 葦書房)
「だがわが国民の庶民たちはもともと、このような分立競合する利害の合理的調整体系としての市民社会的現実に適合的な心的構造をそなえていたわけではけっしてない。「悪事のあらん限りを尽くさざれば一生の損だぞ」というのは、そういう現実に元来は不適合である彼らの悲鳴であった。ながいあいだ共同的小社会の伝統のなかで生きて来た彼らにとって、市民社会のなかで個として漂流しなければならぬというのは恐怖以外の何ものでもなかった。国家を家族として擬制し、天皇を全家族の保護的な家長に比定する天皇制イデオロギーは、このような伝統的な庶民の心性と、結局は彼らがその成員として統合されねばならぬ市民社会的現実とのあいだにおかれた、一種の緩衝装置として機能したということができる。」(「ニ・二六叛乱覚え書」 前掲書)
「しかし彼らの”愛国的”熱狂はなぜ、近代ナショナリズムというよりむしろスパルタ風な古拙なパトリオティズムに似ていたのか。宮武二等卒が「世間に顔出し出来ぬ」という思いで腹を切ったのであることは一点の疑いもない。佐喜が「世間に顔出し出来ぬ」と口に出し、宮武藤吾が同じ思いで腹を切ったとき、彼らを拘束し駆りたてていたものは、近代ナショナリズムなどというのには遠い、部落共同体に対する古風な義務感であったということができる。たとえば村落が洪水なら洪水に見舞われて一村水没の危機に遭遇したとき、川堤に俵を積む義務から逃げるものがあればそれは最悪の卑劣漢である。ほかの悪徳は許されてもこの悪徳は許されない。佐喜の怒りはこのような村落共同体の倫理の表明であったというべきである。すなわち彼ら明治の庶民は村落共同体への義務との類推において国民国家への義務を理解したのであって、彼らの古風なスパルタ的献身の出どころはこのような国家と村落共同体とのいたいけな短絡のうちにあったのである。」(「戦争と基礎民」前掲書)
「明治の国家指導者たちが国民に対して、一視同仁の愛を垂れる倫理的裁断者としての天皇というイメージをふりまかねばならなかったのは、彼らにこの国で資本制を建設するうえで深刻な不安があったからである。その不安は何よりも、この国の基礎民の共同体的生活伝統から来た。資本制を建設するというのは、それを社会構成レヴェルでみれば市民社会の諸システムを導入するということである。彼らは明治の最初の十年間のにがい経験によって、市民社会的諸体系がこの国の基礎民には、神も仏もない異様な論理につらぬかれたものに見えることを否応なく学んだ。日本国家は天皇という神のみそなわす共同体国家だという神話は、事実において基礎民を市民社会的論理の支配する資本制社会に追放する代償だったのである。/ だが、天皇制イデオロギーという安全弁的回路を設定したのは、結果から見れば明治の支配者たちの危険な冒険であった。彼らはその危険さをまったくさとることがなかったが、逆流は大正中期に始まった。この逆流は右翼ラディカリズムの形態をとってあらわれたけれども、その実体は端的にいって<共同性への飢渇>と規定することができる。この共同性への飢えは直接わが国の共同体民の伝統的心性から発したものというより、市民社会的現実の進展のただなかに、共同体から駆り立てられ漂流する個の、特殊に昂進した欲求とみるほうが正確である。したがってそれは、近世の村落共同体や下町共同体において保たれていたおだやかな生活感覚とは異質な、過激さと幻想性を特徴としていた。このような病的に近い飢渇感は、かつてこの国の伝統にはなかったものとさえいうことができる。この飢渇は天皇制共同体神話とのあいだに、おそるべき共鳴をひき起こした。昂進は相互的であった。その共鳴から相互昂進にいたる過程の結果について多くをいう必要はない。それは周知の昭和前期の騒乱へ行き着いたのである。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)
「日本人の男たちは、戦前にくらべ見ちがえるほど家庭を大切にするようになった。しかし彼らが家庭にあつい思いを寄せるほど、家庭は彼らを裏切る。…(略)…今日の同人誌のしろうと小説の三大テーマは、マイホーム建設などをめぐる金の話と、子どもの進学問題と、女房の浮気である。夫が家庭に幻影を付託する度合いに応じて、妻と子どもは個としてつつき出されるのだといってよい。しかし、家庭が共同的なものへの欲求をささやかなりと擬似的にみたしているあいだは、日本人が天皇を必要としないことだけはたしかだ。家庭と共同体的天皇がけっして両立しないということは、日本人が戦争から学んだもっとも尊い教訓である。/ おそらく日本人の意識には、幕藩封建社会から明治近代社会への移行のときに匹敵するような大きく深刻な変化が進行中なのだ。私にはそれが、共同的なものへの幻想を次第に剥ぎ取られて個に還元されて行く過程のようにみえる。個に還元されてつくしたとき、日本人の共同的なものへの欲求は、つきものが落ちたようにきれいさっぱり消え去るのであろうか。逆のように私には考えられる。そのときこそ、共同的なものへの飢えという、わが近代史の底流となって来た欲求は、まったく別な次元で思想的課題となりうるはずである。なぜなら人間は、それがよいことか悪いことかは知らぬが、かならず他者との関係で飢えるからである。私は個的現存と共同的現存との統一が、人類史の本質的課題だということを承認する点で、若かったときと同じようにマルクスの生徒だと思っている。ただそれが未知の思想的領域であるとする点で、私はもはやマルクスの生徒ではあるまい。ただその未知の領域でもあきらかなことがひとつある。天皇はふたたびこの領域に出没することはない。」(「戦後天皇制は可能か」前掲書)
「われわれはなるほど資本制的商品社会から逃れることはできませんけれど、われわれの生の基底、生の実質は商品の貫通力に侵されぬものとして厳存しています。存在するのはいわゆる個性ではありません。個です。おもしろおかしく商品化される差異が個の実質を形づくっているのではなく、ともに人間でありうる共通の基底的実質が、他をもって代置しえぬ個、すなわち孤としてあるゆえにこそ、世界全体・人間全体との意味的な統合なしには生きられぬ個、そういう個こそわれわれの真の現存であります。人類史とはまさにそのような、陽気な暮らしの次元では充足できず、「天地生存の感」を自己のうちに抱え込まざるをえない個の、永久に完結しない課題のあらわれであったのです。」(『なぜいま人類史か』 葦書房)
「私は人がかくもサルに似ているということに希望を見出します。といことの意味は、人間がこの地球上に突然出現した怪物じみた欠陥動物ではないということが、私に希望を与えるという意味です。文化にせよ制度にせよ言語にせよ、いずれも前人間的な基礎、つまり生命的連続性のうえに立つ現象であることに、深い救いを覚えるという意味です。文化は生物的進化の法則から離脱した現象だといいますが、それは生物進化をネオダーウィニズムの突然変異と自然選択の組み合わせとしてイメージするからそうなるので、進化がダーウィニズムの総合学説的枠組みのなかで起って来たということは、いまだ立証されざる仮説、今日破綻しつつある独断にすぎません。そのようなネオダーウィニズムのイデオロギーさえはずせば、文化は地球的進化の法則から離脱した現象などではまったくないことになります。若き科学史家の米本昌平さんは、「生命は合目的である。生命の合目的性は進化の結果としてある。生命の合目的性は進化による結果合目的性である。」といわれています。この進化とは、ネオダーウィニズム的枠組みに固定され狭隘化された進化ではないことはもちろんのことです。」(前掲書)
「何が一番いいかというと、ごたごたいわなくて付き合っていける関係ですね。お互い黙って隣にいる、それで満足だ、ましてや議論して言質をとったりしなくていい。そういう感じですね。もちろん学問的思想的な議論は別ですが、要するに黙っていることのできる関係というのが、私の場合一つの理想として考えられております。ただそういう了解性というものには、あらゆるマイナス性がくっついているもので、これは私がことさらいう必要もございません。でなければ、明治から大正にかけて、青年たちが大挙して村から出るはずがないのです。そんな天国のような村なら、そのまま村におれば良かったわけであります。そしてまた、人類はすでに共同体から離脱したのです。人間というものを宇宙の中に神話論的に位置づけて、一つの秩序をもった共同的な関係にしばりつけた、そういう期間はもう過ぎ去ったわけであります。とすると、後に残るのは「個」しかない。ところがその「個」の世界というのは、現代においては資本制という形で実現されているわけであって、それ以外の存在形態を考えるのは非常にむずかしい。ここに難問があります。/ 共同体論について、私の結論的なことを申せば次のようになりましょうか。人間は共同体という古き衣を脱ぎすて、もう返れない「個」の世界に移動したのである。しかし、かつての共同的な了解の世界というのは、人間の心の中の一つの憧憬として、ある時には血みどろな情念としてなお存在し続けている。そういうものを、どう人間のあり方として再建していけるのか。それはいわゆる「社会主義」になればいいというものでもない。ただどうしようもなく「個」の社会の中で漂流しながら、人間の共同的な関係というものはどういうものであるか、それはどうしたら創り上げることができるのか、ということをたえず課題として持たねばならないのです。これについて、簡単な処方箋というものはございません。むしろわれわれは「個」の世界でもちこたえねばならないのだし、そのもちこたえるということのなかには、人類史を理論的につかみ直して、共同性の歴史的根據をさぐるという仕事も含まれていると思います。」(前掲書)