2022年9月23日金曜日

杉田俊介著『橋川文三とその浪曼』(河出書房新社)を読む


千葉へ移住前の中野区の本屋でこの本をみかけたのは数か月前になろう。

私も、去年、電子出版本の試作として、初めて値をつけてみた『人を喰う話』(摂津正さんとの共著)に、「瀰漫する日本浪曼派――シン・エヴァンゲリオン批判」なる予備考で、橋川文三の『日本浪曼派批判序説』を使用していた。ので、そのタイトルが気になり、手にとってみたのだ。が、その時は購入にはいたらなかった。

 

著者の杉田俊介という名前をみて、この人はフリーター問題に関して、何か実践をやっていた人ではなかったろうか、という想起がよぎったからである。たしかその件の著作に関し、私はこのブログだったかその前のHPかで、肯定的に感想を綴ったことがある。だから、その後の杉田氏の活動のことはまったく知らなかったので、文学論との関連が結びつかず、ためらったのだ。分厚いし、高いし。

 が、スマホで色々読んでいたある時、中島一夫氏の文芸批評ブログで、杉田氏のこの作品について週刊読書人で書評を書いた、とあった。ということは、杉田氏は、もともと文学畑が専門の人なんだなと合点し、もうすぐ引っ越しで図書館に行く暇もなくなるだろうからと、購入することにした。そして自分の問題を整理するためにも、その感想をメモしておこうと考えた。

 

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私自身は、橋川文三の作品は、『-序説』しか読んでいない。シン・エヴァンゲリオンを映画館でみて、これは無邪気に薄められた日本浪曼派的な心情なのではないかと思い、そこで橋川文三にそれを批判する本があったな、読んでみよう、という気になり、柄谷経由のより一般的なロマン派理解で理解できるところでこの映画は切れてしまうじゃないか、と即席的な例解として書いてみたものだ。

 そもそも、私は、日本浪曼派の親玉だという保田與重郎の作品を理解できたことがなかった。これのどこに、日本的なロマンの問題(心情)があるのかわからない。私にとって、日本近代文学上、日本的ロマンとして共感しうるのは、太宰や安吾といった無頼派系の人の作品=文体からである。私は群馬=上州育ちだから、萩原朔太郎の「帰郷」という詩にある、「まだ上州の山は見えずや」に感応する。そして帰省時に、故郷の山並みの風景姿をみて(いや山に限らず海でもいいと思うが)、なにかほっとする感情を抱くのは、私だけでもないだろう。しかしそれは、もう故郷に心情的には帰れない、無理してまた居住でもしたら頭がおかしくなってしまう、もう自分はそこから切れてしまっている、という感情の方が強いからだ。つまり、一匹狼的な無頼である。そこから、高倉健が出てくるような、任侠映画にある、大衆受けした浪人のロマンがでてくる。私にとっての日本的浪曼とは、そういう文脈理解である。保田じゃない。彼の作品に感応し特攻していったという青年たちとは、やはりインテリの優等生だろう。

 そしてその日本浪曼的な大衆心情は、じっと我慢の子であるが、ついには、黙ってらりゃあいい気になりやがって、てめえら人間じゃあねえ、叩き切ったる、と真珠湾的な奇襲攻撃をしかけ、みなが拍手喝采、溜飲をさげる、ような状態にもなる、と想像するのだ。そしてSNSを通じて大勢になる日本的なポリコレ的揚げ足取りは、そんな大衆になりきれないエリート優等生の裏返されたロマン的心情であり、言行不一致をあげつらう裏返された言霊信仰、物事が文字どおりでないと気のすまない左翼みせかけの右翼、天皇なき天皇制心情である、と私には見える。

 

私は新宿区の職人街、かつては歌舞伎町などにも鉄砲玉となるような人たちを供給していたような地域の人たちと付き合ってきた。草野球仲間でも、街宣カーで出動する、赤尾敏の愛国党系の右翼団体の家系の親分もいて、そこに関わる若い人たちのことも、深くではないが、肌感覚でわかる。イデオロギーだの、そんな話ではない。

 杉田氏の三島由紀夫をめぐる論考を読むと、私には、三島がやはりバカに見えてきてしまう。たとえていえば、甲子園に出場する高校球児たちの感動的な姿をみて、純粋にそういう若人たちがいると本気で思ってしまうようなアホ臭さ。そんな糞真面目な奴いるわけねえだろう。おそらく、三島が実際に徴兵されて軍隊生活を送っていたら、目が覚めたろう。が、純粋ではなく、不真面目であるからといって、真剣さがないわけではないのだ。ブログだかHPだかでも綴ったが、敗戦の通知を受けても降伏せず、小舟を漕いで切り込んでいった末端の若い兵士たちもいたそうだが、私には、ジャングルに潜みながら、もはや上官も死んでただ先輩―後輩関係だけがあるようなグループのなかで、どんな会話がなされたのか、聞こえてくるようだ。俺たちはバカだろう、やるしかねえよな、いやそこまでやらなくても、いやだって、おかしいだろう? わかったよ、と泣く泣く突撃するのだ。彼らは、「天皇陛下万歳!」を叫んで突っ込んでいったのかもしれない、が、そんなのは、他に言うことがないからの口パクの合言葉だ。おそらく大概の若者はそんな言葉は叫ばないだろうが、叫ぶものも、やけっぱちな気合入れだろう。ただ、ヤンキーの、下っ端で生きてきた者の意地があるのだ。

 

宮台真司が、クリントイーストウッドの映画に出てくる主人公は、平凡でどこにもいる人なんだけど、それがそのままで英雄的な行為をみせる、その逆転の現実を描いているんだ、と講釈していたと思うが、そうした理解に近い。

 が、だからといって、三島を非難するわけにもいかない。なぜなら、まさに戦争中が、一番多感な青春時だったからだ。おそらく、その時期に戦争という狂気に呑み込まれたものは、もう、もどれない。いや、もどれなくても、とにかく平和時になって、頭を冷やす時期があった。橋川文三は、あるいは吉本隆明も、頭を冷やしたわけだろう。

 

私は、中学時代まで、「純粋」に野球をやっていた。そこは、軍隊のようだった。が旧制中学からの進学高校に入って、そこで、戦後民主主義のような洗礼を受けた。自主練が中心だった。私の頭は混乱した。今からおもえば、燃え尽き症候群という症状だ。これは、私が息子と一緒に少年サッカーを教えていたときでも、そう陥る子供もいることを確認した。代表チームに選ばれて、仲間と団結した厳しい練習を卒業し、いざ生ぬるい中学部活動や、あるいは技術偏重のテクニカルなクラブ・チームにいくと、不適応になって引きこもり、そのまま学校へも行けなくなる。一身にして二世を経る、という福沢諭吉の認識経験が、そうしたところでも反復されているのだ。

 吉本は、こんな夢を見た、と言ってなかったか。突撃の命令があったので突撃したら、突撃しているのは自分だけだった、と。私も、似た経験をした。純粋だったのだ。が、頭を冷やした。アルバイトでの外国人と一緒に仕事をすることや、東京の職人たちの世界に触れていくことが、そんな純粋さを再考・熟考させた。

 

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中島一夫氏の文芸ブログ、「文学は故郷を失ったことなどない」や「アンチ・オイディプスはまだ早い」は、杉田氏の作品への応答などではないかと推察される。書評での紹介をこえて、杉田氏の作品が露呈させてきた問題を引き継いで綴ったような論考である。

 

杉田氏の問い、<共和制=真の一般意志のために、天皇制なき民主主義を見出すことができるか>――中島氏によれば、三島は、文学がその実践にならない、なれないことを理解していた、と。ベンヤミンの仕事を参照して言えるように、演劇という実践だけが、その回路をもつ。<三島の死とは、いわば演劇実践によって文学の「外」に出ることだった。「死なないですむ」芸道=文学=仮構の「外」にしか、「現実の権力と仮構の権力(純粋芸道)との真の対決闘争もな」いのである。>

 私には、理論的な話をこえて、中島氏の話はリアルに感ずる。それは、早稲田二文にいた私の、数すくない、付き合いあった友人たちは、みな演劇科だったからだ。文学系は、「純粋」かもしれないが大人しい。演劇系は、活動的で、面白い。ひとり、脚本家としてそれなりに著名となった者もいる。要は、文学は活動的ではない、それを目指している人たち自身が。

 三島の、死への演劇の「最後の五秒」、三島は、若い森田必勝に「むりやり」遂行に追い込まれたのではないか、と中島氏は理論的に推察している。杉田氏の作品では、<三島は今際のきわに「森田お前はやめろ」と叫んだという>話が紹介されている。私には、森田が、ヤンキーの意地で、言葉だけの文学を突き上げたのではないか、と思えてくる。

 しかし、ヤンキーがやけっぱちにせよ「天皇!」と叫ぶとき、それは現場の声であって、「一般意志」ではない。天皇なき民主主義が、本当に必要な「一般意志」であらねばならないのなら、その声以前の心情的なものに、別の言葉を与えなくてはならない。ということは、そうするメタレベルな、超越的な思考立場が必要だ、ということだ。三島は、それがわかっていた、と。だから若者から突き上げられて、むりやりでもその拳を食って、「みやびじゃ」と、演劇を遂行した。……純粋貫徹、言霊一致である。が、いいとは思わない。三島個人はしょうがなかっただろう。戦中派で、もう、もどれない心情破壊を抱え込んでいたのかもしれないから。が、若者を巻き込むべきでなかった。

 

演劇は、そういうものなのか? みんなを巻き込んで、場を創造していく。上(天皇)からではなく、下からそこを、真のネーション、共同性を形成していく装置として。一人ひとりがバラバラで虚しくならないように。…が本当に、そんなものがいいのか? 必要なのか? ……三島のその劇的な死にざまは、磔にされた神、という転倒の衝撃と私にはだぶってくる。だから、もし本当に、天皇(日本人の一般意志を収奪しているとされる)が、日本人という枠をこえて、普遍的な神としての超越性を得たいならば、その必要があるというならば、イエスや三島をこえた、よりわけのわからない死に方、「俺だって人間だぞ!」と叫びながら、「人間よ、人間よ、なんで私を見捨てるのか」と独り言ちるような、劇的な結末を迎えなくてはならないのだろう。と、論理図式でなるとおもうのだが、それが、いいのか?

 

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柄谷行人がNAMをはじめた頃、日本語の表記体系の漢字かな交じり文を、双系性という人類学的な分析概念で解こうとする議論があったが(共同討議「「日本精神分析」再論」(『批評空間』2002Ⅲ―3))、結局のところ、それは日本が「島国」だから、という地理的な要因に収れんしてしまう。だから、と決断=実践として、NAMがはじまった、はじめた、と。そして柄谷は、「大和魂」という言葉を喚起させて、それで実践していくことを肯う対談もどこかで行っていた。

 たしかに、柄谷の講演は、演劇的だった。はじめて早稲田大の文化祭でその模様を見て、度肝を抜かれたのを覚えている。お行儀が悪い。

 がその解散後、もう一度柳田国男などを再考したりして、日本的現実=自然を、より世界史的な、普遍性の水準で理解しようとする理論営みに入ったわけだ。

 私自身は、このブログでも繰り返してきたように、NAMの終わりごろに知ったエマニュエル・トッドで解析してきた。こっちのほうが、よりもともこうもなくなるだろう。要は、日本は、核家族的な、猿から人へに近い始原の家族形態が多分に残っている周辺的な場所なんだと。その理論を敷衍すれば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』も、文明的な共同体家族と、ロシアにおける核家族の残存との闘争、葛藤とみえてくる。シンデレラにせよ、三匹の子豚にせよ、エルダー兄弟にせよ、三人兄弟のうち長男ではなく末っ子が救世主的な位置に立つのは、核家族の名残としての想像力であり、文明への抵抗なのだ。『罪と罰』とかなら、グノーシス的な思想や、分離派といった異端宗教の挿入が、それにあたるだろう。

 

ここでようやく、杉田氏の、最後の章の言葉を引用できる。

 

<三島もまた現人神への愛憎の先で、天皇制を踏み抜いて誰もが神になるための道を行動的に示そうとした。しかし橋川の場合、三島とは目線が微妙に違う。日本を郷土の寄せ集めとして「くに」=島国として見つめ、それがアジアへと、世界史へと普遍的に開かれていくのを見つめるからだ。そのとき戦死者たちもまた、日本国家のための神ではなく、この地球のため、人類のための神々の一員となる。>

 

理論的には曖昧な、杉田氏のロマン心情の吐露のような言葉だが、私は共感できる。「アジア」というのは私にはわからないが、中上健次は、日本人の一億総玉砕という思想は、カンボジアはポルポト派の大虐殺と連なっているのだ、と発言していたのを思い出す。現今のウクライナでは、マリウポリ製鉄所をめぐる戦闘などは、硫黄島での戦いを想起させるが、アゾフ大隊の司令官は、SNSで助けてくれと呼びかけて、玉砕はしなかった。これも、すでに他民族からの虐殺経験を幾度も経ざるを得なかった大陸系の倫理感なのだろうと、私は推論する。

 

橋川は、島国日本という周辺のさらなる周辺の「対馬」という故郷をより緻密にみようとしはじめていたわけだ。その視線の先に夢見られる「くに」では、誰もが神になりえ、地球のため、人類のための一員として生きているだろう。……しかし、夢であってはならないだろう。いまや、テニスの大坂なおみだって日本人だし、100メートル走のサニブラウンだってバスケの八村塁だって、見かけだけでなく、いわゆる日本育ちの心情とは異なっているのではないか。彼らを、いわゆる「在日」の憂き目につぶしてしまうことを繰り返してはならない。それは、夢ではなく、必要な具体性として目に見える。そこを見ないで、あくまで日本育ちの、私なら上州人気質の内在的批判という文脈だけにこだわるならば、雑多なものを文化的に抱擁するだけの「神々の微笑」に頽落してしまうだろう。

2022年9月19日月曜日

「土中環境」を通る


台風が、また日本を荒らしている。いや、神風が、日本に怒っているのかもしれない。

 そんな中で、今日は幸いにも、無事千葉県は鴨川市までいって、「小さな地球」主催の高田宏臣氏による新著出版記念レクチャーに参加することができた。通り雨がきたくらいで、むしろ好天気のなかでの実習にもなった。

 高田氏の具体的な哲学や実践は、WEB上でも概要は知れるので、そちらにまかせよう。率先して手が動いていくような高田さんは職人肌だ。しかし町場の植木職人を30年ほどやってきた私とは、知識体系がまるで違う。むしろ正反対と言えるだろう。

 大正時代からのブルジョワ勃興によって定職化した都市部の植木職人のもっている経験知は、私の見立てでは、8割以上は間違い。盆栽に近い剪定の技術の本質的なところを推定して応用できて、はじめて残り2割の正しさが実践できるにすぎないだろう、と私は判断している。つまり、あくまで町場の植木職人の技術とは、近代文化が成立したそこをどうメンテナンスするかに集約されてしまうので、自然との関係において錯誤を抱え込みやすいのだ。

 たとえば、今日の実習でも、車止め兼用の土留めになる玉石の据え方の実践があった。その作法や考え方は、町場の技術からは考慮する必要がすでになくなってしまったものになろう。庭園を持つ屋敷の中で、マンションの敷地の中で、地下水の流れや水の浸透を考慮した柔らかい据え方など、町場職人はしないだろう。据える石の地面を、石の形に似せて柔らかくしてから、つまり石の座りをよくしてから地面に埋めて、バールか何かで突き固める、いわば土決め。が、やはり仕事では、そのほかに、石と石の間にできる隙間にモルタルを詰めて、植栽地から庭への水の流出を防ぐように施行する。周りの木や草による自然な決めでは時間もかかるから、その場での完結を志向する。

 私が高田氏の講習をみてみたいと思ったのは、その私が持っているが疑ってもいる技術体系を差異化してもらう契機をはっきりさせたいからだ。

 しかしもともとは、そうした植木職人としての文脈において、高田氏の仕事が関心の領域に入ってきたわけではない。

 このブログでも何度か言及したように、中上健次論三巻本を上梓した河中郁男氏のその評論の中での「観点」という用語が、量子論からきているのではないか、と推論し、そこから、量子力学のおさらい読書、そしてそこから派生したDNAらせん構造の発見延長によるRNAウィルス(細胞核はRNAウィルスの巣が進化したものではないかとも推定されている)、微生物(大腸内も含む)、そしてそこから、ハンス・ヨーナスやレヴィナスの他者論からまた量子論的現実に帰ってきたという円環のうちで、高田氏の実践にもっと近づいてみようとおもったのである。つまりは、文学の文脈からである。

 今日の講習でも、この「小さな地球」にかかわる東工大の建築家の塚本氏が、人の体内にある微生物との話と結び付けて発言した。それに、高田氏が、土中でも腸内でも、微生物の種類とは10万兆くらいあると言われているのだから、それを科学的に分類していたら、何年かかるかわからない、つまり、無限といっていいのだから、そんなやり方では無理なんではないか、と暗示するような発言もしていた。直接目に観察しえる微生物はこれとこれと名のある物質が作用してとか言うけど、その見えない背後で、多様な微生物の作用があるのだから、と。

 量子論の世界も、結局は、他者論にゆく。それは、なにもSF的にこの目に見える人間の現象世界とは違う他の現象世界が並列しているとか想像する以前に、この体の中の微生物の世界、それは人には観察できない世界作用をもっているが、その世界の変化を、私たちの体がたとえば危険信号と読み取って、もう気持ち悪くて食えない、やめよう、となっているのかもしれない。ということは、他の世界と、並列している、ということだろう。

 DNAがらせん構造に見えるのも、可視光線レベルでの抽象化にすぎず、おそらく本当は、つまり自然は、幾重にも重なった世界の広がりを持っているはずである。

 そこから、ゆえに、私たち人間はどう生きるのか、と考えなくてはならない。

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 それにしても、鴨川は久しぶりである。NAMで知り合った、二代目代表になった田中さんの棚田の活動に、幼稚園児頃の息子と一緒に参加して以来だろう。だから、十年以上は経つ。

講習がおわって、古民家で開いているカフェ・レストランで、カレーライスを食べていると、質疑応答で発言した女性と一緒になって、話がはずんだ。私とではなく、女房とである。当初は、台風だから行かないと言っていたのだが、朝の晴れ間をみて、ついてきた。その女性は、鴨川の山を崩した台地にメガソーラーを建設しようとしている開発に反対運動をしている団体の代表だった。二人は、千葉出身の椎名誠の話でもりあがっていた。その話のなかで、「田中さん」の名前ができてきた。加藤登紀子と同様なようにその名を知っているのが当然のごとく自然に会話にはさんできたので、それがNAMで知り合った田中さんと同じ人物なのか確認しそびれたが、たぶん、そうなのだろう。

 なんだが、女性同志のことだから、飛び火しそうである。

※ 「鴨川の山と川と海を守る会」勝又國江さん | Solar Sympo (megasolarsympo.wixsite.com)

2022年9月18日日曜日

とんとんとか…


 とんとんとかとんとん、とんとんとんとんとかとんとん、とんとんとんとんとんとんとんとん……慎吾は、頭をぶるっとふるわした。向かい側の並びの席は、真ん中辺りがぽかりと空いているだけで、ほぼ埋まっていた。吊り革につかまっている人も何人かいる。その吊り下がった体が、一瞬きょろっと動かした視線をさえぎってくる。だけど、どこかまばら、という感じがして、少しほっとして、また視線をドア側の隅の席に腰着けた自分の足元に落とした。普段なら、勤め帰りの人たちの時間帯と重なりそうだから、もっと混雑しているのかもしれない。今日は土曜日だから、まだ遊びにでかけた人が帰宅する時刻にはなお早いかもしれないから、それほど圧迫されないですんでいるのかもしれない。電車に乗ること自体が久しぶりで、しかも東京の地下鉄となれば、30年ぶりくらいかもしれず、自身がそこに入っていけるのかが心配だった。乗り方を覚えているだろうか、ということだけではなかった。とくには、乗車というよりかはホームの上で、身に迫る恐怖が湧きおこってきて、そのまま身体が凍り付き、身動きできなくなってしまうのではないか、と想像されたのだ。細長い舞台のようなホームに立ち並んだ人々の間から、一段低い線路が見えてくる。その二本の線は、す~っと伸びて、落とし穴のようにぽんと空いた白い光の中へ消えていく。すると、押し入れの隅に押し込まれていたような記憶が机の引き出しのようにすっと引き出されて、使い忘れて捨てられたような消しゴムみたく存在感を増してくる。これは、おまえのだろ? 先が丸くなって小さくなりかけた消しゴムは訴えかけてくる。俺がわるいんじゃないよ、俺だって、君を一生懸命救ってあげたかったんだ、だけど、もう、手に取る理由が、生きる理由が、わからなくなってしまったんだ、見つからなくなってしまったんだ、俺を、そんなに責めないでくれよ、俺は……あの時、慎吾は、ホームに入ってきた電車に飛び込もうとしたのだった。「俺を死なせてくれ!」体を自分につけるようにして横を歩いていた父親が、ぎゅっと腕をつかんできた。身を振りほどこうともがく自分を、必死になって押さえつける力が伝わってきた。前を歩いていた弟の正岐が、もどり近づいてくる気配がした。「俺を死なせてくれよ! もう、だめなんだ!」もう一度、叫んだ気がする。「ばか言うな!」父親が自分を抑え込む力と、自分の膝が折れてホームに倒れ込み力が抜けていく感覚とが、一緒だった気もする。泣きそうな、悲痛な父の叫びだった。その激しい悲しさが、頭の中で木魂していた。そのあとのことはわからない。家の前で、タクシーを降りた。車が、高速で走っていくような感覚と、頭の中の、時間が滑っていくような感覚が一緒になって、ぐるぐると回転し、窓から見える風景もぐるぐるだった。そのぐるぐるの中で、両脇に密着した父親と弟の温もりが伝わっていた。そうだ、俺は、まだあの暖かい温もりを覚えているじゃないか……。

慎吾はほっとしたが、いつの間にか隣に座っていた中年男の肩が自分の肩に接しているのに気付くと、我が返ったように思い返した。なんだって俺は、とんとんとんとん考えていたんだろう? そう思いつくと、また頭の中に、とんとんという音のような言葉が渦巻くのだった。

これはあれだろう? (と、渦中のなかで意識が飛び出してきた。)太宰の短編小説の、タイトルのやつで、幻のようにどこからともなく聞こえてくるってやつじゃないか……何かやろうとすると、聞こえてきて、やる気が失せていくんだ……戦争後遺症ってやつだな、一種のうつ病なんだろうな。俺だって、敗残者として故郷に帰ってきたんだ、幻聴のひとつやふたつも聞くだろうさ。それを甘えてるっていわれてもな。直希のやつは(と三男の弟のことが思い出されてきた)、なんだってああもうるさいんだろうな。介護士をやってるっていうんなら、もっと病者への理解があってもいいじゃないか。それをあいつは呑気な患者と間違えてやがる。苦しいからこそ、怠け者になっちまってるってことがわからない。いや、そもそも俺は怠けてなんかいないじゃないか。毎日英語の授業を欠かさない。ABCもできるかどうかわからん中卒のあいつに、何が理解できるっていうんだ? それともあれか、「大いなる文学のために死んでください。自分も死にます、この戦争のために」!と太宰に書き送って散華した戦中の青年みたく、深い大義があいつにあるっていうことなのか? あいつの俺にたいする日々の嫌みは、俺の野心を超えていく高尚な思慮からやってくるとでもいうのか? たしかに、あいつは、よくわからんやつさ、何を考えていることやら。真面目なのか不真面目なのか、真っすぐなのか曲がってんのか。しかしあいつだって、どこかおかしかった時が、いっとき、行方不明になってた時があるっていうじゃないか! ならあいつだって、故郷に錦を飾れないで出戻りしてきた敗残者じゃないのか? むざむざ生き残って、あいつにだって、とんとん聞こえてきたって、おかしくないじゃないか! それを、規則正しい生活してれば、俺の苦しみは消えていく、なんて、ふざけやがって! 眠くたって、眠れないんだぞ。睡眠薬をいっぱい飲んでも、眠気に襲われながら、かっと目覚めている。夜が、真昼のように、炎天と俺の頭の中を照らすのだ。言葉の嵐が、渦を巻いて俺をメールストロムの底へと引きずり込んでゆく。何をつかんだら渦巻の中から浮上できるものやら、俺にはわからない。いつの間にか、髪は真っ白なはずだけど、坊主頭にしてるからな、俺は幼くみえるらしい。時が、歳がとまっちまったのかもしれないな……。

慎吾はふと落ちた自分のそんな想念に、身をすくめた。体を実際に縮ませたために、隣の人との接触がなくなった意識に目覚めて、ぷいと横を向いた。もう、そこには誰もいなかった。前の列の席にも、空席が目立っていた。いつのまに降りたのだろう? そして、自分はやはり取り残されている、そんな淋しさが身を包んできた。実家にもどり、子供部屋に引きこもり、軍歌をきいた。同じメロディーを何度も頭に刻み付けていくなかで、いつのまにか持たされていた携帯電話がスマートフォンというのに変わって、最近はそこに映る動画で賛美歌をきいたり、テレサ・テンの歌を繰り返し再生させた。いやそれが朝の日課になっていた。不眠症に襲われていても、それは規則正しい生活にちがいなかった。井の中に取り残された蛙だとしても、蛙はケロケロとしか鳴かないではないか、井の外に出ていった蛙たちだって、ケロケロ鳴くことしかできないではないか、ならば、なんで俺がいつも同じ古の曲で心を落ち着かせてわるいことがあろう! 自分は、外の世界の現実を知らないかもしれない。しかしそれでも、外の人間たちと同じように、ケロケロと鳴く世界とつながっているとしたら! ……ならば、俺は、淋しくないというのか? ひとりではないというのか? 生涯のうちに自分の職場と家とをつなぐ生活圏を離れることもできず、離れようともしないで、どんな支配にたいしても無関心に無自覚にゆれるように生活し、死ね! 死んでいくことこそが、どんな政治人よりも重く存在している大衆の思想であり、自立の基盤なのだ! ならば……なんで、俺は苦しんでいる? 考えて、考えて、その言葉が渦を巻き、眠られぬ夜で朝を迎える。たしかに俺は、それでも食い意地だけは張っているようだ。もうそれしか、楽しみがないかのようだ。けど、苦しんで、考えている、食うこと以外にも、考えている、考えている……なんでそれが、ばかなことだろう! ばかで、あるもんか!

慎吾はばっと席を立つと、開いた扉をさっそうとくぐっていった。急に、腹立たしくなってきた。人をばかにしやがって……そうだ、あの頃も、そう思って、俺は、あいつらと……と慎吾は突然、またぶるっと体をふるわした。あいつめ……あいつら、また人殺しを……首相を狙うなんて、どこまで本気なんだ? エスカレーターに乗り、地上へと出た。自転車道をも交えた広い歩道の向こうの大きな道路の向こうに、マクドナルドの大きな黄色いMがみえる。その真向いの少し狭めの道路の向こうには、バーミヤンというファミレスの看板がみえる。そうだ、俺は、ここで落ち合うのでいいんだ、今度こそ、あいつと、あいつらと、決着をつけてやる……慎吾は、青になった横断歩道を渡った。

2022年9月14日水曜日

『文學界』10月号を読む


文芸誌の『文學界』で、東京大は駒場でおこなわれたらしい柄谷行人を招聘した講演が収録されており、また岡崎乾二郎への対談も掲載されていたので、購読してみた。

そして、柄谷行人のNAMをめぐる回想発言に関して、ひとこと言っておきたくなった。その後の柄谷氏の仕事からすれば、以下あげるひと指摘は、揚げ足とりにしかならないが、より若い人たちの実践にとっては、参考に知っているのも悪くはないだろうと。

柄谷は、NAMも交換A、贈与を志向した実践だった、と発言する。が、思い違いだ。たしかに、理論的には、潜在的にはあったであろう可能性だが、意識水準では、NAMは、村社会(贈与交換社会)から出る「単独者」を志向する集まりだとされ、柄谷自身が最後は、レーニン的な前衛エリート組織になって大衆を排除し、少数先鋭な組織存続を提唱したのである。

基調的には、そういう志向集団だったので、だから、岡崎氏は、芸術系のプロジェクトの初会合で、文献としてゴドリエの『贈与の謎』(法政大学出版局)を読んで来いといい、ウィリアム・モリスの洞察した、「ハウ」でいんだよ! と語調を強めて講義していたのである。私は参加しながら、これは柄谷批判なんだろうな、とその時感得していた。

柄谷はより若い頃、「なんで正月にお年玉あげるの?」とかそうした慣習を唾棄すべきこととして発言していたはずだ。そして私は、いまでもそうである。少なくとも、儀礼的な贈与交換などに、「ハウ(負い目)」など感じない。だから、引っ越し祝いだの、開業祝いだの、くれるというなら、じゃあもらっとくよ、となる。が、もらいっぱなしだ。お返しなどする気はおきない。それが、単に儀礼・形式的な対応ならば。本当にそこに心があると感じたときだけ、やはり私の心も動くだろう。交換様式から強いられた交換など、糞くらえである。

だから、私はあくまで、「単独」的な方向から、贈与互酬交換を考える。

この『文學界』で、岡崎氏も、「霊」(スピリッツ)を持ち出している。あるいは、漱石をもちあげる。となれば、柄谷が交換Dとは「自然」だというとき、柄谷の初期漱石論「意識と自然」なども連想される。が、二人の思考がどこかで重なるとしても、より広範な問題意識において把握しなおされなければ意味がない。

柄谷が、『探究』を単行本で出したとき、大澤真幸氏が、「単独ー普遍」という回路のつながりが論理的にまったく提示されていないのでは、と指摘していたが、その柄谷にむけた批判を、現在大澤氏は「世界史の哲学」として継承しているのだろう。

そうした以上の指摘で私が若い人に言いたいのは、早まって判断するな、ということである。そんなのは、「解釈」にすぎない。実践にはならない。

*岡崎氏は脳梗塞だったとか。私は知らなかったが、というと、コロナ前期に偶然トヨタ美術館で会ったあとのその年に、倒れた、ということなのだろう。私を美術館のキュレーターたちに紹介するにあたって、柄谷とそのNAMのことに触れざるを得なくなったが、その時の表情から、柄谷の「か」の字も口にしたくないのが本心なのでは、と感じた。後遺症だ。著名人の間でも、色々実生活に関わることがあったときく。柄谷本人も後遺症を抱え込んでいると推察されるが、一番ふてえ人なので、健全なる忘却によって、前を向いて歩いているのだろう。

2022年9月10日土曜日

開業準備

 植木屋独立へ向けて、新しいブログも追加。

庭木手入れ すずき (niwakiteire-suzuki.blogspot.com)

2022年9月9日金曜日

釜底現状を見る引用三つ

 


「私たちは自分より強い人間たちに囲まれている。彼らは一〇〇〇の方法で私たちに害をなすことができ、そうやって害をなしても、四回のうち三回は罰されない。このような人間たちの心の中にも、私たちのために戦い、私たちをその攻撃から守ってくれる精神的な原理があることを知るのは、どんなに心がほっとすることだろう。

 さもなければ、私たちは絶えざる恐怖の中で生きなければならないだろう。ライオンの前を通るように人間の前を通るようになり、自分の財産、名誉、生命について一瞬も安心できなくなるだろう。」(『ペルシア人の手紙』モンテスキュー著・田口卓臣訳 講談社学術文庫)

 

 「ウクライナから安価で良質な労働力を吸い寄せてきた西欧諸国にも重い責任があります。ウクライナは独立以来、人口の一五%を失いました。まさに「破綻国家」と呼べる状態です。しかも高等教育を受けた労働人口が流出しました。本来は国家建設を担うべき優秀な若者が、よりよい人生を求めて国外に出ることを選んだのです。現在、大量の難民が発生していますが、ウクライナからの人口流出は、実は以前から起きていたのです。」(『エマニュエル・トッド「日本核武装のすすめ」『文藝春秋』2022年五月特別号』

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 「いまの時点では、現地の状況はあまりかんばしくありません。ウクライナでは二〇一九年に新大統領のウォロディミル・ゼレンスキーが選出されました。新議会の議員は七〇%がそれまで政界で働いたことのない人で、その多くが若者です。旧い政治エリートを一掃したかのように思われました。けれども二〇二〇年に明らかになったのですが、ウクライナの新興財閥は権力をほとんど保ったままで、引きつづき舞台裏で政策を形成しています。

 指導者養成プログラムを後援し、民主的な政府がいかに働くのか、彼らがいかに政策改革を実現する手助けができるのかを多くのウクライナの若い人たちに教えることで、変化をもたらすことができるというのがわたしの考えです。より大きな政治情勢がどうあれ、ウクライナを訪れると楽観的になって帰ってきます。そうした指導者養成プログラムで教えているのですが、そこには多くの若いウクライナ人が参加します。三〇代や四〇代の比較的若い人がたくさんいるのです。ソ連のもとでは育っていない人たちで、ウクライナがヨーロッパの一国であってほしいと強く望む人たちです。」(『「歴史の終わり」の後で』フランシス・フクヤマ/マチルデ・ファスティング編・山田文訳 中央公論社)