2018年8月18日土曜日

三つの平和

「数学の行為とともに生み出されていく風景をその歴史とともに見てきたこの連載のなかで、浮かび上がってきたのは数学を支える盤石な基礎としての普遍ではなく、終わりなき探究とともに生成していく普遍だ。デカルトの代数方程式も、リーマンの多様体も、デデキントやカントールの集合も、すべてはあらかじめ「普遍化可能」な概念として既存の数学のなかに埋め込まれていたのではなく、概念と、その概念を支える数学の足場が相互に形成しあうプロセスを通して、徐々に形作られてきたものである。ここには、概念の普遍化する力のもう一つの範型がある。
 アプリオリな普遍を性急に措定することが、しばしば差異に対する目を閉ざし、わかるべき他者の存在を抹消していくのに対し、概念の普遍化する力は、むしろ差異を原動力として、わからないという緊張を契機として動き出す。差異と対峙し、ときには自己の信念が覆される傷みをも厭わず、歩み続ける。そうして連綿と継承されてきた数学の営為は、差異を無効にするどころか、いくつもの正しい幾何学、様々な数の体系、そしてその背後にある構造たちが織りなす豊かな数学の宇宙を浮かび上がらせてきたのだ。
 私たちは生成する未完の世界に参加しながら、それでもなお、必然を確信して手を取り合える場所を探し求め続けることができる。その終わりなき探究のプロセスにこそ、普遍は生命を宿すのである。」(森田真生著「『普遍』の探究」『新潮』2018.7月号)

今年からの課題」として、年頭、サッカーとアメフト(野球)のルールに伺える考え方の違いから、アメリカの民主主義に孕む問題をよりつきつめていくこと、と書き込んだ。それは、ヨーロッパとアメリカの民主主義の違い、さらには、日本の民主主義というものがあるのか、という問いにも連なっていく。最近の世間騒がせなスポーツ界に言及した文脈でいえば、「日本らしい」サッカーなんてあるのか? あるとしたらどんな?――というよりも、冒頭引用した「探究」にならえば、日本で「サッカー」を追求していくことにおいて、事後的に、その特殊な場所がそのままで普遍的かもしれぬ「サッカー(世界)」に参列していくことになるのである。実際、現場の森保監督は、「日本らしい」サッカーを目指しようもなく(無理してそんなことしたら迷ってしまうだけだろう)、ただ勝つために、または負けないために、試行錯誤するだけである。このメンバーで、どう戦おうか、と。それが事後的に、そのメンバーの群衆論理においてある特殊性の発揮の結果が、世界に達した(参列しえた)、と承認・了解されるのみだろう。ボールを奪うときにまず体を当てるのが南米らしいサッカーの特徴とか言われるが、彼らは意図してやっているのではなく、教えなくともそうなっていくのだと当地の育成コーチは発言していた。「日本人らしさ」も、結果からついていくもののように追求されなくてはならない、ということだ。

しかし私はまずはもっと一般的に、民主主義と平和(ルール)、ということを考えようとしたのだった。今年も続いたスポーツ界の不祥事のために、回り道をさせられているが。この主題を歴史的に振り返ってみたとき、次のようにも言い換えられると気付いた。

①パックス・ロマーナ ②パックス・アメリカーナ ③パックス・トクガワーナ(ヤポニカ)

この気づきは、もともと「朴石の庭」について考えていく文脈で、富士講、という江戸時代から流行った庶民信仰の調べにいき、そして江戸時代という平和な時代に、なぜその信仰の中興の祖と言われた食行身禄は餓死という幕府への抗議の自殺を遂げていったのか、という考察の中で交差してきたのだった。江戸の平和を世界史的に並列させた論考『日本文明とは何か』(山折哲雄著・角川書店)がヒントだったが、その問いを論理的に詰めていくと、結局はヘーゲル哲学を受けたコジェーブから『歴史の終焉』のフランシス・フクヤマにゆく、ということだった。山折氏は、日本の平和が「島国」という特殊性によって成立していることを把握しながら、自分の考えを推し進めるためにそこを捨象してその条件下でこそ発生した日本の宗教的なあり様に普遍性を求めるのだった。この論理を飛躍させた上でのトートロジーとしての「日本らしい」「平和」ではなく、よりその論理を緻密化させた上での、つまりはあくまで「未完の世界」への参列する意志としての「平和」がありうるのか、と私は考察したいのだ。その結果として、事後的に、「日本らしい」「平和」として他者たちから承認・了解されるものと期待して。その「必然」を信じて。

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