「彼らは誰か? 兄弟の他者たちとは誰か、非ー兄弟とは? 何がこの者たちを、のけ者的存在に、排除された者あるいは惑える者に、街路を、とりわけ街路を徘徊する、中心を外れた者にするのか? (しかし、もう一回言うが、街路〔rue〕と狡猾漢〔roue〕の間には残念ながら語源的類縁性はない。狡猾漢もならず者同様、つねになんらかの街路に対して、都市における、都市的な礼節における、都市生活の正しい慣用における街路であるところの正常な道(ヴォワ)に対して定義されるのであるが。ならず者と狡猾漢は街路に混乱を持ち込む。この者たちは指し示され、非難され、裁かれ、断罪され、指さされる。現動的ないし潜勢的な非行者として、予知されている被告〔prevenu〕として。そして、この者たちは執拗に追い回される、文明化した市民から、国家あるいは市民社会から、善良な社会から、その警察(ポリス)から、ときには国際法から、そして、その武装せる警察から。法と習俗を、政治(ポリティック)と礼節(ポリテス)を監視する、あらゆる流通路を、歩行者ゾーン、車輌ゾーン、海路および空路のゾーン、電子情報、Eメールおよびウェブを監視する警察から。)」(『ならず者たち』ジャック・デリダ著 鵜飼哲・高橋哲哉訳 みすず書房)
死刑制度が、それに値するとされるような犯罪を減少させるわけではないと、アムネスティは報告しているようだ。シンガポールと香港での統計を示して、ゆえに抑止名分で制度を続行している国々を批判したわけだ。が、この統計だけでは、真偽は決められないだろう。冤罪があることは、はっきりしている。
飲酒運転での過酷事故は、罰則も取り締まりも強化され、警視庁発表の統計では、相当数減少している。携帯スマホでの運転事故はどうだろうか? 社会・世論の圧力が、しなくてもすむような、いわば便乗事故を払拭させていることは、あるように思われる。
が、私には、それでも払拭できない層、確率的な現実はあるようにみえる。そんな社会や世論が、むしろ犯罪を発生させていくような現象である。死刑制度、法が抑止できないのは、この金魚の糞のように我々についてまわる本源的な構造だ。
助手席に座りながら、運転手にあおり運転され脅かされたことが私にはある。勤務途中だか、仕事もおそらく私生活でもうまくいかず切れまくる同僚。暴走族あがりの親方も、二日酔いで出てきたまだ若い時分は、無意識のうちに蛇行運転、前の車との車間距離をなくし、右から左から気持ちよさそうにプレッシャーをかけていた。団塊世代職人も、朝起きたら駐車場の車の中、どうやってここまでこれたのか酔っ払って覚えてねえや、と冗談半分で言っていたこともある。
いまは、酒を飲むことはおろか、車離れも起きている。とりあえず、そんな大人しい社会変化が善いことだとしても、歴史的に、あるいは自然の最中を生き抜く生態的に、その変化がどんな意味を持ってくるのか、私たちは、なお詳らかにしてはいないのだ。
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