「メッシがパナシナイコスのゴールへと走るあいだ、シャビ、イニエスタ、ペドロは、ディフェンス陣の数学的特性を解析したわけではない。おそらく、自分の行動について頭で考えてもいなかっただろう。スペースへと動き、足元にボールを直接パスするという単純な法則に従っただけだ。試合後の分析で、彼らのパス・ネットワークの数学的な規則性を絶賛することはいくらでもできるが、一連の動きは彼らのプレイスタイルから生まれたものだ。天敵から逃れるために一瞬で広がるという魚群の動きが、個々の魚の動きから生まれるのと同じで、ゴールも選手たちの一連の単純な動きから生まれるのだ。
先ほどのメッシのゴール、そして多くのゴールは、はるか昔につくられた一連の法則から生まれた。バルセロナは、選手の育成組織として名高い「アヤックス・アカデミー」にならってラ・マシアを設立したとき、アヤックスだけでなく何百、何千万年という進化によって裏づけられたシステムを取り入れていたのだ。粘菌は三角形の使い方をマスターし、魚は速度の調整や空間の使い方をマスターした。バルセロナはこうしたスキルすべてをマスターできる選手を育てたかった。ラ・マシアが若い選手に教えなければならなかったのは、高度な幾何学ではなく、正しい運動の法則だった。こうしたパス、動き、身のこなしの法則は、練習場で確率されたものだ。メッシはペナルティー・エリアの外側でパナシナイコスの9人の選手と相対したとき、頭で考える必要もなかった。メッシは、彼にとって世界一単純で自然な動きを実行したまでなのだ。」(デイヴィッド・サンプター著『サッカー・マティクス』 千葉敏生訳 光文社)
エマニュエル・トッドの家族人類学とされる考察を読みながら、中学生の頃から読み始めていたドストエフスキーをめぐる中断されていた思考をおもいだしていた。私がこの世界文学的作家において気にかけていたことは、いくつかあるが、なかでも一番素朴なものが、『カラマーゾフの兄弟』における、三人兄弟のあり様だった。長男が一途になって、次男が懐疑的になって、三男が素直な感じの子になる、そう物語的に設定される。いやそれが物語としてではなく、現に三人兄弟の次男坊であった私は、自分の兄弟だけでなく、身近に知っている友人たちの三兄弟、三姉妹においても、似たような傾向があると気づいていたからだ。そうして、そこから物語世界を参照してみると、三匹の子豚やシンデレラ、ジョン・ウェイン主演のエルダー兄弟など、いろいろ当てはまることがありそうなのだ。日本の昔話や逸話にはなかなかみつからないのだが、三本の矢はだいぶちがうが、鎌倉幕府を開いた源頼朝三兄弟は、そう言えなくもない。もちろん、実際問題として、たとえばサッカーなどでは、サッカーを果敢に初めに試みた長男よりも、次男の方が日和見的になって、それが周りとの関係でポジショニングをとっていくこのスポーツにはむいてくる、とかの傾向は発生しやすい。長男だけのチームだとボールしか見ていない子の集まりになるが、次男坊がいるとシステムが安定する、三男とかの末っ子となると、もう単に甘えん坊に近くなるので、違った次元で大変になる、とかは私自身の指導下でも見受けられるものである。が、とにかくも、私は、この類型的なるものはなんなのだろう、というのがこの大作の一番の疑問だったのである。
トッドを読むことで、三十年以上も前のそんな疑問に、一つの解釈が出てくることに気づいた。人類にとって原初的に想定される核家族の変遷的な在り方の一つに、末子相続的な型がみられるという。長男、次男、と家を出て行くので、両親の面倒をみるのが末っ子になってくる自然的推移があるのだと。この原初的バイアスに、後の文明発生地としての、父性原理を明確にした共同体的家族なるものがぶつかる。もちろんロシアも属すユーラシアの中心付近とは、その文明発生地に近い。ゆえに、トッドによれば、ロシアが共産主義という父権的な共同体家族主義を全面的に受容するようになるのは、当然な事態である。しかしもちろん、原初のバイアスがなくなるわけではない。また、地域によっては、そのバイアスは強く残存したりしているので、受容の強弱葛藤に、まだら的なグラデーションが伺えるようになる。ドストエフスキーの時代にあっては、あるいは作品にあっては、文明的(共同体家族)な皇帝と教会、それを転換(代行)させようと企てる社会主義と、そして異端的な宗派との葛藤である。亀山郁夫氏などによれば、三男坊のアリョーシャは、異端的な宗派の方から、社会主義に関わり、皇帝暗殺をたくらむグループへと接触することになるだろう、というような話になる。いいかえれば、核家族的なバイアスを担う末っ子的な役割存在をなぞっていくのだ。そしてむろん、この末っ子が説く思想、価値、愛とは、ゆえに原初的な核家族的なものが核になる。
<いずれにせよ、このトッドの分析は、階級が消え、もはや個人と国家しか残っていないように見える現代世界にも、アイデンティティの核として家族(家族形態)がしぶとく生き残っていることを示している。ぼくがいま家族の概念の再構築あるいは脱構築が必要だと判断する背景には、このような研究の動向がある。…(略)…
家族についてふたたび考えようという僕の提案は、じつは以上の柄谷の試みを更新するものとしても提示されている(第一章の冒頭で、観光客論は柄谷の他者論の更新なのだと記していたことを思い起こしてほしい)。柄谷が国家(ステート)と資本のあとに贈与に戻ったように、ぼくは国家(ネーション)と個人のあとに家族に戻る。柄谷が贈与が支える新しいアソシエーションについて考えたように、ぼくは家族的連帯が支える新しいマルチチュードについて考える。つまりは、ぼくがここで考えたいのは、家族そのものではなく、柄谷の言葉を借りれば、その「高次元での回復」なのである。>(東浩紀著『ゲンロン0 観光客の哲学』genron)
そうして、東氏は、この著作の最後を、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」を素材に論考した。そしてこの論考の動機の一つは、山城むつみ氏の「カラマーゾフ」を素材にしたドストエフスキー論への応答でもあるという。私の当時の理解では、山城氏は、むしろ、3.11での原発災害を受けて東氏が説いた確率論的世界観への批判として、ドストエフスキー論を提出したのである。原発の災厄に見舞われた親たちは、なんで自分の子どもが犠牲にならなくてはならないのか、と苦悶しただろう、それは、放射能がそうは襲ってこない地域の子どもを抱える親にとっても、身を切るような煩悶だったはずだ。そうした最中に、山城氏はわが子の「復活」を「カラマーゾフの兄弟」から読み込んだのである。私はそれを読んで、救われたような気がしたのを覚えている。ブログにも書き込んだ。私の文脈で、トッド氏と柄谷氏が交錯したのは、封建制、「私の中の日本軍(部活)」、ということをめぐる思考過程からだったろう。いま、改めて、3.11の騒動の最中に書かれた山城氏のドストエフスキー論に動かされて記したブログを読むと、その冒頭引用が、<夢>の記述であることに気づかされる。その記述を、時季を経た今さらの文脈で読み返してみると、このフロイトによってファミリーロマンスとして解釈され、あくまで近代的な仮説として理解されてきた夢が、実は、人類の原初的なバイアス、抵抗の痕跡・衝動なのではないかと伺われてくる。ならば、核家族の核(価値・思想)とは、「おのれみずからのごとく他を愛せよ」、ということになるだろう。
私たちは夢の中にいる。家族の中にいる。しかしならば、その関係は、環境適応の中にあるわけではない。夢の中にあるのだ。メッシが夢の中で打つシュートは、ゴールへと向かわないだろう。
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