2017年10月14日土曜日

遺体

「ようするに、先カンブリア時代は捕食の実験段階のようなもので、大半を占めていたのは平和を好む菜食主義者だったが、そうした連中も、たまたま動物の死体に出くわせば、喜んでごちそうにあずかっていたということなのだ。肉の味を覚えつつあったというところだろう。」(『眼の誕生 カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー著 渡辺正隆/今西康子訳 草思社)

先々週、草野球チームの元監督さんが亡くなった。59歳になる直前だったそうだ。私が植木屋さんに入って間もなくの27歳頃のときに、親方を通してその監督さんから呼ばれて、以来、仕事で樹から落ちてケガをする43歳頃まで、ずっとその新宿区は下町にあたる界隈のチームで野球を続けていたことになる。ケガも落ち着き、ぎっくり腰にもならなくなった去年から、そのチームの一員がはじめた別のチームで野球をまたはじめたが、元監督さんも選手としてかつてそのチームにも所属していたから、ここのところは、試合のたびに訪れてベンチに座りくだを播く元監督さんとは顔をあわしていた。歩くのもままならない状態なので、近所の球場へ来るのにも、タクシーでやってきた。本格的な野球経験のない人だったが、もしこの人に草野球へと誘われなかったら、私はもはや野球とは縁がなかっただろう。私にとって、高校野球の経験はつらいもので、テレビでスポーツ番組をみることさえもが忌避反応になっていたのである。職場地区の草野球チームに参加することで、私の後遺症は癒えていった。おそらく30歳もすぎてからの帰省中に、甲子園をテレビで見ていた私に、「おまえ見れるようになったのかい」と母がふともらしたことがある。気づている素振りを見せることもなかった母の一言に、洞察力があるんだな、と思ったものだ。
元監督さんは、荒行あとで悟りを開いた坊さんのように、静かに棺の中に納まっていた。私がそんな連想をしたのは、最近高野山での千日行を終えて聖となった僧のニュースをみていて、その坊さんの容姿と似たものを感じたからだろう。実際、白血病の移植手術の後遺症ということで、肺の機能が極度に低下していたため、病院に担ぎこまれたときは相当苦しがっていたらしい。「抗生物質は効かなかったらもう時間の問題になる」と医者からも言われていたので、覚悟はできていて、自分の棺をかつぐ若衆の位置を弟に口述筆記させていた。2・3日意識がなくなっていた状態がつづいたあとで、息をひきとったそうだ。その日の斎場で、野球仲間とともにその遺体と面会した。斎場自体が、元監督さんが暮らした草野球チームの界隈地区にあるのだが、土葬される天皇以外の皇室縁者の火葬場になるところだ。苦行を超えてこそ刻まれるような穏やかだが芯の入った表情……しかし、そこにはもう、魂がない、ここにはない、という衝撃を受ける。間近に遺体を見つめるのは、20代の頃の、父方の祖母のとき以来だが、当時は、特別な感慨はなかったろう。私は、棺を足方向から見つめる斜め上辺りを見回してみたりした。死後の霊が、そこら辺から集まった人を見降ろしているというような、風説を確かめてみたくもなった。がそれにしても、遺体はあまりに物体的であって、魂や霊などという存在自体を否定しているような衝迫性を湛えている。私は、ゾシマ長老の腐敗する遺体にうろたえるアリョーシャの描写をしたドストエフスキーのことを思ったりした。そこにある遺体は、あの世への信頼を懐疑的にさせてくる。

しかしそう懐疑的になっても、私は、仕事中でも、この強い個性的な人格をもつ監督さんのことを意識せざるをえなかった。白血病になってからは、髪を伸ばし、染め、見るからに、内田裕也というロックンローラーにそっくりだった。だから街や病院でも間違わられてサインを求められると、そのまま、「にょろにょろ」と適当なサインを何食わぬ顔でやってのけられる人である。女性からは毛嫌いされていたが、そのことも平気な沙汰で、キャバレーで知り合ったフィリピーナをフィリピンまで求婚しに訪れ、その妹の方がよくなったと求婚者を急に変えて、しかもまんまと騙されて帰国してくることにも平然としていた。内心はわからないが、自分はもう世間からはそう見下されている、見下されてきたものなのだ、という開き直りの強さがあって、それが男たちにはどこか愛嬌と尊敬の念を抱かせていたかもしれない。そんな彼の霊が、私を誘いに来るのではないか、身近な人の死はつづく、という迷信の存在を、私は遺体の衝撃を忘れるように、用心した。ちょうど、高木剪定の危険作業が仕事では続いていた。「○○さん、俺を連れてくんじゃなくて、守ってくれよな」、そんなことを思いながら、木を切っていた。

そして、女房の母親が死んだ。通夜も葬儀もせず、遺影も線香もなく、老人ホームから町屋の斎場へと送られ、死の翌日に火葬された。住まい近所の斎場で1週間ほど待ってから荼毘に付された監督さんと、同じ日だった。私は午前中は監督さんを見送り、午後は義理の母の遺体に対面した。ふくよかだった面影はなく、やせこけて、ミイラ同然、そう私はおもった。息子の一希は、どう感じたのだろう? 何も感じてないようにうかがえた。焼き終えるまでの待ち時間が耐えきれず、散歩に行ってくると斎場を出て行き、骨を拾う儀式には居なかった。だいぶん経っても戻ってこないので、私も周辺を捜しにいった。駅の繁華街の方ではなく、むしろ自然がある方を選ぶだろうと、土手越えの歩道橋を渡ると自然公園があるらしいとわかったが、これ以上時間をかけて捜しにいくとすれ違うだろうと思われ、引き返した。斎場入口まえで、息子と出くわした。「白鳥がいたよ」と息子は言う。「エサやりに慣れてるのか、口笛を吹いたら、寄って来た。」

私はそのとき、息子に不平を言ったが、しばらくしてふと、その白鳥が祖母だったのではないか、私たちが骨を拾っているあいだ、息子はおばあちゃんと会っていたのかもしれない、そんな思いがひらめいた。そんな閃きを信じているのか、そう想うことであの遺体の現実から逃避しようとしているのか、私には判然としなかった。

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