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「私はその件に関する最終決定者ではないので、あくまで私自身の推測だが、最終決定者は困難なビジネスに敢えて挑戦し、困難と言われるビジネスの中で成功したくなったのだと想像する。自分の力を再確認し、それを世間に示したくなったのだと推測する。それゆえ『ヴィッセル神戸』の筆頭株主になったのだと思う。(「楽天」のこと――引用者註)それが起業家精神というものではないだろうか」
「ただ彼らの『CFG』(プレミア、マンCのこと――引用者註)における投資目的は利益還元のみだとは思えない。彼ら(アブダビ首長国の王子ら――引用者註)を観察して思うことは、対西洋社会に対する自信、自分達こそが新しいサッカービジネスを切り盛りするのだという自信と成果を西洋社会に発信することを目的に投資し続けているのだと思うことがある」(シティー・フットボール・ジャパンの利重孝夫代表の発言『スポーツ哲学入門』島田哲夫著 論争社より)
*私は、島田氏の「スポーツ」を新しく定義していこうという試みには共感できても、その提起された「スポーツ」概念、アスリートに限定することなく他者へと拡張していく(観客や株主等)志向には疑義を感じている。とくに、思考の原理的基礎として導入される「他者」概念に、デリダやレヴィナスが引用されているが、それは端的に誤読であろうとおもう。島田氏のいう他者は、むしろ引用された哲学者らが標的にしてきたヘーゲル的な、一般的な他者になろう。要は、ヘーゲルによって体系化され、コジェーブやフクヤマによって援用されてきた歴史(社会)の原動力とは、女(によって一般表象される他者)をめぐる男同士の戦い(認知)における「気概」なのである。「歴史」が終わったとされ 、たやすく戦争もできなくなった平和な現代においても、その原動力は発動しており、それがサッカー・チームの取得や応援という現状になっているということだ。が、あくまでその原動力とは男性優位な社会において受容されるような仮説である。が、この「気概」をめぐる仮説は、封建制から狩猟社会へと原理論的に遡行して「世界史の構造」を呈示してみせた柄谷行人の論考や、トッドの家族人類学の成果を考慮するとき、一概には否定できない問題を改めて浮き彫りさせてくる。次では、その辺を整理する。
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