2018年9月3日月曜日

庶民、大衆、民衆

「その為政者のあるべき姿を、徂徠は、「民の父母」となることであるとし、その比喩として、農民の一家の主人が、だらしない女房や、ぼんやりした長男、はしっこい三男、またわがままな奉公人など、理窟や説得ではどうしようもない家族たちのために、営々と働いて、その面倒をみるありさまを描いている(『答問集』上)。ここには集団の統率者と成員、つきつめれば集団と個の関係について、徂徠が理想であると同時に現実的に可能と考えていたイメージが示されているようであり、それはたとえば家父長制という西欧的な観念とは異質な、江戸時代の日本の社会を基盤としてかたちづくられた独自の人間関係の表現であったといえるのであろう。(尾藤正英著『江戸時代とは何か』岩波書店)

このブログでも、「庶民」とか「大衆」、あるいは「民衆」といった言葉の概念を、曖昧にしたまま使ってきた。定義できるまではよく自身でもわからないので、本能的な使い分けによって、区別されることを期待していたわけだ。しかし、成績がいいわけではない息子の高校進学をめぐって、夫婦で争っているうちに、また、江戸時代をめぐる書籍を読み漁りながら、次の思考をはっきりさせていく作業のうちに、いったんは定義的に整理する必要を感じた。

私がまず女房に、例題として提出した実例は、次のような話である。

例題(1):中卒で植木屋の道を選んだ親方(高卒)の息子、そして同じく中卒で父親の職業(職場)を選んだ団塊世代(「中卒は金の卵」と言われた世代)の職人さんの息子(親方息子より3歳位年下)は、自動車免許の試験を5回ぐらい落ちている。が、親方の息子は30歳すぎて、3級や2級を超えていきなり造園1級の管理者試験および技術者試験を受験し、一発合格している。大卒の実務者・監督でも、一発で受かるとはかぎらないくらいは難しい。職人さんの息子は、植木屋をやめてバイトしていたスーパーで知り合った女性と結婚して、地主である彼女の実家近くの植木屋で働き始め、次の社長か、ともみられている。

例題(2)バブル期の頃、ポルノビデオ女優として、黒木香とかいう、お嬢さん育ち(女子学生)が売りの女性がいた。両親から勘当され、路頭に迷い、自殺した。

<問題>:上記二つの例題に伺える差異を、境遇(偶然)という解を排除した観点を見出し、論ぜよ。

私記(解答例):私がびっくりしたのは、息子が免許試験5回も落ち、それだけの金をかけるハメになっても、父親をふくめたまわりの身内が、「バカだねえ」ぐらいの冷やかしと冗談程度で受け入れている、ということだった。私だったら、「もう金ださねえぞ、自分で稼いで受けろ!」とか叱りつけてしまいかねない。おそらくそうした結果は、息子は結局は免許試験を受けず、ぷらぷらし、当初選んだ道を踏み外していくだろう、ということだ。その勘当がいい方向にゆくかどうかは運次第ということになるし、逆に、損得こえた寛容さの下で育てられた息子たちには、結果利益を第一には考えない人間的な判断が先にくる習性が育てられていく。
私は、価値として、例1をとり、それで生きている人たちを、庶民と呼ぶ。例2の価値で生きる人たちのことを、ブルジョア(市民)と呼ぶ。

※ブルジョアに対する用語として、プロレタリアがあるが、私は階級としてではなく、無意識的に従っている価値の領域(位相)として捉えている。だから、ホワイトカラーのサラリーマンや大学の先生でも実質はプロレタリアだとかの言い分にはくみしない。職人なりたての頃の私のHPでも話したことだが、掘りとっていた植木が倒れてきたとき、私はとっさに逃げたが、他の職人さんたちは突っ込んでいった。私はブルジョアだが、彼らは庶民だったのだ。

※大衆とは、ひとつの時代様相、近代のテクノロジーとあいまって発生した社会全体の捉え方である。だから、知識人という用語は、対にはならない。ニーチェがいうように、知識人とは大衆であり、オルテガがいうように、大衆とは知識人なのだ。

※民衆とは、近代的な法枠組で捉えたときに言う。国民も同じ。あるいはより広く、制度的な枠で人々を提示するときに使いがち。

英語では、庶民がthe common people、大衆がthe mass、民衆がthe people、なようである。慣例正確には知らない。が、commonをどうとらえるかで、価値立場は、色々になるだろう。
私自身は、庶民から生成する個人、無意識を価値として意識し、思想へと作り上げていく努力人、でありたいということか?

ちなみに、神隠しにあった子供を探し当てたスーパーボランティアは、あのねじり鉢巻の風貌、一緒に働いている職人さんと、そっくりだ。

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