いく子の、20歳からの、いく子宛の手紙を読み始めた。その一枚目が、中央大通信教育のサークルの紙新聞だった。発行責任者から送られており、編集責任者は、いく子だった。
ひと月前の週刊誌で、松田聖子が中大通教の法学部を卒業し、卒業するのは難しいのだと記事にあった。いく子はたぶん、卒業はしなかっただろう。が、クラスの華だったのではないかと思う。ちょうどNHKの朝ドラ「虎に翼」をやっているが、その主人公の女性のように、はっきりものを言う華やかな女性だったのだろう。次は、秋号から抜粋する。
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季刊 サークル・ニュース’78夏の号(中大通教スポーツ芸術サークル)
昭和53年6月25日発行
自由と法学について 山田いく子
自由と法学この対称的とされたもの、若ものとして限りなく自由を求めながら、かつ法学を志した今、そこで感じ始めた矛盾というより初心として思うことを書き綴りたい。何故ならば、漠然とさせておくままなら、私は既成の法学に甘んじてしまうことになるのだから。
秩序とか規則は(狭義における法)共同体の利益を先行させ、個人に義務を押しつける。その意味で個人の自由をうばう。憲法には自由の保障があり、法体系には諸々の権利を認めながら、法についてそんなものを感じる。法に対する意識が弱い。それは何故なのか?
立法化された法以外に私たちを規制してくるもの(規則)はさらに多い。今まで中・高校において規則というものにどんなイメージをいだいてきたか。学校差にもよるでしょうが、かつての校則を読みなおしてみるとよい。校風として、自由・博愛をときながら、校則には罰則と禁止だけ、さらに明文化されていないものすらあったことを思いだせるだろう。もちろん現在中・高校は諸々の問題をかかえており、一概におかしいとも言えない。法が私たちを守ってくれるというよりも、生活をきつくしめあげていた。私たちは幼いころから、法に対する不信をもって生活してきたのではないか。
憲法と一般法との関係を聞いたことがない人でも、道徳と法を対にした言葉を耳にしたことがあるでしょう。法を破っても仁義をつくすことを美徳化したものを見たことがあろう。私たちは法以前の問題として道徳を思わされる。しかし道徳教育の主眼は忠臣教育・家族制の尊重それから押しつけがましい善教育であった。今なお残骸が残り、因習の範を出ないものが往来する。そしてそこに権利の意識はない。また道徳には各人の自由がない。自分より他人を優先させ、自己に忍耐を強いる意味において。
特にアメリカを例をとってみる。「ここは自由の国だ」ラジオ・映画等で誰もが聞いている言葉であろう。そして彼らは、その自由の由来・歴史を知り、それを守るために法が制定されている。もちろん奔放な自由による諸害…犯罪の多発・人種偏見、また孤独を含み決して、アメリカを崇拝するわけではないが、しかし彼らには守るべきものがある。それから生活が生まれ行動が起こり連体を持つ。法以前の問題としてそこにある。
ある人が言っていたことに犯罪をおかさない理由として、本人の回りの環境・とりまく集団…親・兄弟・知人…それらに抑制されることで犯罪をおかさないと聞いた。しかしこれは逆の場合にも適用される。自由を求め現在から新しいことに向かうのを何かを求めてラジカルに動こうとするのを前の集団は抑制しようともつとめる。自由を抑制するのだ。
「法は支配者階級による体制擁護だ」ということも聞いたことがある。そしてこれは特に日本で強いのではなかろうか。日本社会の弊害として何度も繰り返されているように私たちは社会管理を上層部にあずけている。道徳も忠臣教育化され、道という響きにさえ嫌悪を覚える人が少なくないはずだ。日本における共同体の比重は重い。共同体は静的状態を維持したがる。その静的状態を保護するため各人を規則でしばる…。
法治国家という言葉に甘えてはいけない。私たちは何を守るために法を制定したのか。それを知らなければ、支配者階級・官僚による勝手な法解釈が行なわれ、そしていつかまた戦争ファシズムへとつながって行くかもしれないのだから。法を定義づけるのは私たちなのだ。自由と平等とそして平和のために…。
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恋歌三題 パンダ(註;いく子の千葉の高校でのあだ名)
挽歌
髪に優しく触れたとて それは愛とは言わぬ
涙をためてむせびたとて それは愛とは言わぬ
哀歌
右にいきゃ あの人にあえる
右にいきゃ あの人にあえる
右にいきゃ あの人にあえる
右にいきゃ あの人にあえる
………………
右にいきゃ あの人にあえた
初歌
雨ふり窓から 風が吹く
雨の数だけ 思い出す
たくさんのたくさんの 貴方様
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