「対論」を行なっている笠井潔氏と絓秀実氏の作品は、1980年代後半頃の早稲田大二文の学生であった時から、読んではいる。が当時、その二氏が活動家だったということは知らなかった。あくまで、文学なり思想的な営みの延長として受容していた。それどころか、早稲田大の文学部の講師として、絓氏が授業を持っていたということにも私は気づかなかった。四年生のとき、文芸創作科の講師としてジャーナリズム専門学校からやってきた渡部直己氏の講義を受けていた時、柄谷行人氏の「探究」とともに面白く読んでいた「文学の隠喩」というタイトルで文芸誌連載していたその絓当人がこれまでは授業担当していたのか、とはじめて気づいたのだ。
そもそも、私は大学を相手にしていなかった。夜学を選んだのも、大学には行く気はないが、読書時間という暇が欲しかったからだった。私の現在進行形的なジャーナリズム界に関わる書籍の読書は、浪人中出版された柄谷行人氏の『探究Ⅰ』からだった。高校受験の延長で古典ともなった近代文学は読んでいたが、意識的に読み始めたのは小説ではなかった。中上健次の作品も、柄谷経由だった。自分の分裂病的常態を言語化整理・克服するために、野球馬鹿から読書世界に入っていったので、直接的な自己意識化以外のことをやる余裕はなかった。ただ、考えていた。そして直接的な言語化だけではすまない自己意識の方が大きかったので、書くことの主要は小説になり、卒論も創作を提出した。
そうしたなかでも、当時はまだ自治会も学園祭もあったのだから、政治活動する学生とは触れていただろう。新入生のクラスには、授業がはじまる前にビラを配り、教壇に立って、政治的な何かの話をしたあとで、席に着いた一年生のもとへ意見を聞いて回る姿があった。私の所にも、硬い表情をした女性が来て、何か質問をしてきたことがあった。その一つ一つに、司馬遼太郎だのの、引用で答えていた。で何かの質問に、柄谷の作品から引用して答えたところ、突然その女性は目を見開いて表情が変わり、「あなたは柄谷を読んでいるのか?」と聞いてきた。「読んでちゃわりいのか?」と、長い尋問を打ち切りたいような口調で返したとおもう。彼女は口ごもり、そして先生が来たので、教室をあとにしただろう。この「対論」の知識からしても、彼女は革マル派、ということになるのだろうか? その後も、構内で彼女を見かけて目があって話しかけたそうな雰囲気に会うこともあったが、私はうざったく感じていただろう。
といっても、私も絓氏と同じく旧制中学から高校になった地元の進学校出身だったので、いわゆる左翼的な活動をする生徒たちと無縁だったわけではない。群馬の高崎高校は、学生運動盛んな当時において一番過激な高校の一つだった、と国語の教師は発言していた。その名残りは、君が代斉唱で拍手をしたり、国旗掲揚で背を向けたりといった、意志表示をする生徒が幾人かでることに現れてもいたのだろう。そしてそういう生徒たちは、先生たちからも意識の高い者と評価され、一般の学生にも一目置かれていたと思う。で大半は、当時同窓生でもある総理の中曽根が講演に来たときなどは、全校生との記念撮影時には、「いなごの大群」(あとでの中曽根の表現)のごとくその現役総理の身の周りに寄り付いていったものだった。佐藤優氏が、浦和高校のことで、すでにそこの優等生たちに官僚的な振る舞いがあるのだと指摘していたと思うが、私もそこが鼻についたことだった。早稲田大では学費値上げ反対闘争とかで、試験の中止が幾度かあったが、そうした認識の延長で、大学に居る必要もなく感じる私には、一般の学生も意識高い学生も同じであって、親が払うってのだから払わせておけばいいだろう、敵はまず親だろう、そこまで本当に嫌ならば、払わないで退学していけばいいだろう、と思っていた。
大学卒業後、だめ連の集会にも参加したことがあるが、それを主催する中心人物の二人が、二文の同級生であったことなども、私は知らなかった。
私がこのような本を読むのは、以上のように、いわば「知らない」からだが、そこには、覚えられない、という事態もがはらまれている。私は、たしか絓の『革命的な、あまりに革命的な』の作品だったか、ベンヤミンの割れた壺の破片の復元の比喩を喚起させながらも、重箱の隅をほじくっているようでもある、と感想をこのブログでか綴った覚えがある。何も知らない者にとっては、小熊英二氏の『1968』でもまずは必要だと。しかし知識以前に、もっと根源的なわからなさ、があるような気がする。左翼運動の諸党派の違いの、どこに意義があるのかわからない、といおうか。自民党の派閥の系譜がよく覚えられないのとも似ているが、もっと根底でわかりにくい。それは、「労農派」と「講座派」の違いが、私には、いつもこんがらがってしまうのに近い。そこには、人脈だけでなく、なんでそこで、その認識で明確な差異が線引きされるのかが腑に落ちてこない、という感覚がつきまとうからだろう、と思われる。
たとえば、柄谷は、労農派なのか、講座派なのか? 私には、そういう党派的用語(区別)を使用するならば、両方ともに、としてしか理解できないからである。宇野弘蔵の影響が強いからといっても、その日本把握には、講座派的な認識があるとしか思えず、その線引きに、本当に真理把握のための枢要があるのか疑念を抱いているのだろう。
佐藤優と池上彰の左翼概説史の新書も読んだ。その二人がこの新書を上梓したのは、どうもまた左翼の暴力性が若者に浸透し、影響力をもって惹起してくるのではないか、という危惧によるようである。それは杞憂だろう、と思っていたが、私がこのブログで書いた『NAM総括』の感想に、著者の吉永剛志氏が自身のブログで私を“糾弾”しているのを目にすると、もしかして杞憂ではないのかも、と思い始めた。とくにコロナ災害やウクライナでの戦争にまつわる左右両陣営ともにの同じ暴力肯定(コロナ統制とゼレンスキー・ウクライナ頑張れ)への世論迎合と相まって、私にもその危惧が共有されてきていると感じる。
この「対論」は、ロシアの侵略ではじまったウクライナでの戦争までは射程にはいっていないが、「暴力」の再評価、という視点を大きくだしているといえよう。
<我々を苦しめている空虚感や不全観は、親たちの世代が本土決戦に日和見を決め込んで延命し、擬制の「平和と繁栄」を謳歌してきたからではないのか。すでに全共闘運動は戦後民主主義/戦後平和主義/戦後啓蒙主義の三位一体を攻撃していた。こうした全共闘の戦後批判を徹底化し、異次元に飛躍させるものとして革命戦争論は提起されている。>
<アメリカでも西欧でも日本でも、「68年」の時点で群衆化が著しかったのは大学キャンパスだった。しかし資本主義の21世紀的な変貌の結果、階級社会の本丸としての労働者階級は解体、全社会的な規模で群衆化が進行し始めた。それは一方で2011年以降の国際連続蜂起をもたらしている。他方で群衆の政治的ロマン主義は、ナチズムに組織された過去を反復するように、今日ではトランピズムに代表される右翼ポピュリズムと新排外主義に動員されつつある。群衆の政治が機械原因論の呪縛を越えることができるかどうかも、「68」から持ち越されてきた課題といえる。>(笠井「反復と逸脱――「68年」から持ち越されたもの」)
私には、「本土決戦」というあり得た歴史の現実性と、赤軍派に行くような学生たちの現実化した暴力を同じ文脈で捉えてみせる思考にははっとさせられるが、そのままでは容認できない検討の余地を感じる。笠井は、「どんなわけで、日本にだけ“転向論”が生まれたのか?」と問うているが、それこそ、広義の意味で、天皇制があるからなのではないか。いまテレビで、スマホで簡単に転職できます、という宣伝が大量に流されているが、それでも、日本人の多くは、一度所属してしまった場所からの転属に、強いわだかまりを抱くだろう。だから、世間知のない若いヤンキー系の人ほど、それをふっきるように、ばっくれる、という行動にでる。がそれも、帰属しているところからの離脱に裏切っていくような圧力がかかって、負い目を感じさせられる現状があり、最近の言葉でいう「同調圧力」というその無意識的な制度性は、相も変わらずであろう、と私は講座派的に認識する。だから、その帰属先へと矛を向け返す、「本土決戦」から本土攻撃へのような転回は、地続きであるとするような、同じ文脈としては把握できないのではないか、と感じる。やはり、柄谷がマクベス論で示したように、言葉を使うインテリ環境に偏重された観念性の、主体を越えてやってしまうという関係の現実性の向きの方が強いだろうと認識する。どこか体育会系運動部の閉鎖関係からくる暴力性と類比的なところがあっても、運動部では、死ぬまで殴る、とは行きにくいだろう。こいつとは考えが違う、という前提が、そこではないだろう。あくまで、先輩後輩でも仲間のままなので、手加減が生じる。
*現今ウクライナは「本土決戦」をやっているが、硫黄島の戦いのようなマリウポリの防衛では、日本人のように玉砕はしなかった。この<投降と決戦続行>と、日本の<玉砕と決戦放棄>との対比で、どちらが「暴力」を貫徹し回避しているのかは、一概には把握できないということにならないだろうか?
しかし笠井・絓両氏とも、「そもそも自分たちのことを知識人とか」「思ってもいない」ということだ。私は『NAM総括』の感想で、組織創立のそもそもから、中心(柄谷、知識人)において分裂があって、それが金太郎飴の構造となって、どこを切っても「知識人と大衆」ともいうべき温度差が貫いており、そこの亀裂が拡大波及した、というもう「一つの見通し」(岡崎乾二郎)をあげた。それは言い換えれば、柄谷からの距離、イロニー、茶化しが「高幹部」となるべき人たちの間にあったこと、その一般参加者には知り得ない事態が根本の原因にあったのではないか、という示唆である。絓は、NAMの中堅幹部であったろうような私のような人物がいて柄谷(組織)は大変だったろう、と言ったそうだが、それに参加していたはずの自身は、どこにいたのか? その私への発言こそが、私のもう「一つの見通し」が正しいのではないかとの傍証を与えている。少なくとも、ネット・メールでの炎上を恐れることもなく、一般の会員とともにその間で言動返答していたのは、柄谷と岡崎氏だけだった。もちろん、この見立てには、いわゆる「知識人と大衆」という枠組みは破棄されており、その上で、他に言いようがないので、積極的に関わるプロジェクトの人≒知識人と傍観的な参加者≒大衆、という既存用語を使用したのである。柄谷も岡崎も、大衆とともにあることを厭わなかった。「知識人」ではないという絓は、どこにいたのか?
この「対論」でははっきりと言及しているとは言えないが、そもそも当時の柄谷の言論思想に、両氏には異議があった、と推定はできるだろう。とくには、最近になって、立場の違いが開いてきた、ということであるのかもしれない。柄谷が柳田を引用したり、9条を前面に出したり、戦後民主主義に依拠しているようにみえたり、災害ユートピアを喚起させる交換Dなどの概念を作ったり、という点であるかもしれない。しかし、絓も天皇制の問題など、「憲法を改正して天皇条項を破棄すればいいだけの話」というように、その改正を前提にするならば、9条を抽出してそこを擁護し押し出す、ということは、戦後憲法の成立事情に伴う天皇と9条はセット、という問題規制は実践的には意味をなさない。単に、実際的な改革順番の問題になるだけだ。柄谷自身は、天皇を肯定するとも発言していないだろう。朝日新聞に書評を書いていても、だから戦後民主主義の枠でいいのだ、とも言っていないだろう。言わない、ということは日和見ではあるが、実践的に必要な段取り戦術なのかもしれないではないか。また、柳田と交換D(災害ユートピア)の問題は、フロイトの理論仮説と関わってくるだろうが、絓は確か、フロイトの理論は「ほら話」だ、と説いていたと思う。私には、そうした認識のあり方に、柄谷に対する茶化し、同時に、かつて柄谷が、絓と渡部はなんであんなにも上機嫌なんだ、と批判していたところに伺える洞察がその「ほら」認識にも当てはまってくるのではないか、という気がしている。
柄谷は、『世界史の構造』でであったか、民主主義は封建制から生れる、というような認識を示し、職人の親方と資本主義の社長は違うんだ、みたいな文脈を導入していたと思う。活動なり政治運動のことなど全く知らない私がNAMに参加したのは、自分の病気を治癒していくに役立った著作活動をしてくれた人へ恩義を感じたからである。その人物がやるというのなら、「いざ鎌倉へ」と、私ははせ参じたのだ。このブログでも言及したが、大澤真幸氏が考察した鎌倉時代の天皇への謀反のあり方にこそ社会変革可能性の道筋があると私も感じる。戦後憲法の天皇条項を削除しても、広義の天皇制の問題はなくなりはしない。が、もう天皇の名によってごまかすことができないことによって、その問題がより露呈する。そのとき、それは否定すべきものであると同時に、生かすべき自分たちの素材であることが、はっきりするだろう。
9条は、切腹である。日本人は、これをもって、戦争する世界や人間と戦う、と決めたのではないか?