2020年7月18日土曜日

新型ウィルスをめぐる(12)

雨つづきで、仕事休みがつづいている。晴耕雨読、みたいで、わるくない。個人的な文脈では、いまは量子力学にまつわる哲学的な本や、そこに流入してきた時間、記憶、映画、とかの問題を探究していく読書をつづけている。開館された区の図書館で、本を借りたついでに、ウィルスにまつわる雑誌掲載の文章も読んできた。ジジェクの意見が気になっていたので、『世界』や、『文学界』の特集も読んできた。そこらへんで、感じたこと。

 

(1)   日本の状況としては、なんだか非常事態宣言が発令された以前の状況と似ている。元都知事の舛添氏の考察では、本当のピークは、オリンピック開催するかどうかと瀬戸際交渉していたと日本ではされる、3月末にかけてがピークで、非常事態宣言がだされた4月初めには、そのピークは終わっていたのではないか、だから、本当に宣言をだす必要があったのか、とあった(ウィルスる(8))。現状況については、舛添氏はトーンを変えているが、今のピークは、発症には2週間ぐらいかかる、といわれていることからだろう、今より二週間前の状況、つまり、非常事態宣言の解除の時(5月末)が反映されているだろう、と言いたいようだ。つまり、その頃から実は感染が広がりはじめ、その2週間後に発症してくる、最近の検査自体は夜の街中心の若い世代が対象であるから、その人たちが中高年に広めるのは、さらにその2週間後として、6月末くらいからピーク期に入る、と。だから、これからの1週間、中高年の間でも広範囲に感染者が広まったというデータがでてくるのではないか、と。ということはつまり、今度は、宣言を解除したのはよかったのか、という話になってしまうのだが、それは、前回発令を手おくれだったとした現都政への批判的政治態度としては一貫しているともいえるが、認識的には、つじつまがあわない。そのまま、疫学的には、宣言を解除しなかったほうがよかったのか、という話になるからだ。(そうすれば、夜の街で集中検査がおこなわれても、陽性の若者がでることはなかったのか?)あるいは、オリンピック開催を早期に断念し、3月の半には、パシッとロックダウン的な対策をとらなかったことが、後手後手の対応になってきている、といいたいのかもしれない。(実際は、舛添氏は、判断基準ている。前回は、感染者一人が、何人の人に感染しうる能力を持つのかを示す指標データを根拠にしていたが、今回は、単に陽性者数である。)世論的にも、前回の、宣言発令は不要、は少数派だったろうが、今回の、これから中高年での発症者が増える可能的事態は、宣言解除が早まったから、もっと自粛要請を厳しく続行となるのは、多数派の意見に重なるだろう。

 

なんで、このような矛盾した認識態度がうまれるのか? そして、本当に、これから中高年への陽性者、というより、実際に症状をみせる感染者数が、つまり様子見していればいい陽性者数ではなく、入院措置が必要になってくる感染者数が増えるのだろうか? いまのところ、検査数が増えたことに応じる陽性者数が増えただけであって、実態がなんなのかは、データからはみえない。

 

(2)   だから、こう仮定してみよう。実際に、中高年の感染者入院数が増えれば、世間が怖がっているような認識に近くなるわけだから、認識的には、それは問題ではない。正解に近いということで。しかし、検査数に応じて陽性者数は増えていったけれど、感染者数がそうでもなかったら、ウィルスにまつわる私たちの認識が本当にこのままでよいのか、と問われることになるだろう。(感染者数は増加したが、微妙な数で、なんともいえない、というデータ状況になることも予想されるが、その場合は、認識判断は延期、としておこう。その延期自体が、前回の反復になってしまうのだが。また、集団免疫が機能しだした、という解釈は、常識的に時期早々だろう。このウィルスが抗体を作らせない、とか、すぐ消える、とかの問題は、怖がる世間の認識が正解、という仮定の方向で出てくる次の問題になるだろう。)

(3)   仮定;陽性者数は増加したが、感染者(発症入院患者)数は少ないのはなぜか?――しかしこの仮定は、そもそも、これまでの「感染」の定義からは、ありえない問題設定になる、というのが、「学びラウンジ」での大橋氏の意見になるだろう。なぜなら、「感染」とは、たとえば気管にくっついたウィルスが、細胞内にとりこまれ、細胞を破壊して増殖し、拡散しうる能力(発症)をもって、はじめて「感染(者)」、といってきたのだそうだからである。ところが、今回普及的に使用されているPCR検査では、気管に一粒でもウィルスがついていると、それを百万倍とか一億倍とかにして検出してくるので、ほとんどの人がその一粒なら排出したりする免疫力があったとしても、陽性者として指定してくる。そして、無症状者でも感染力があったとする状況証拠的なドイツ論文(大橋氏によれば、その状況も矛盾的で怪しい)が根拠とひきだされてきて、ゆえに、陽性者=感染者、という等号式が自明視されて受容されているのだと。しかも、PCR検査では、実は、ほかのインフルエンザウィルスや肺炎を引き起こすウィルスの類いでも、陽性として判定する確率があることを、検査キットの説明書自体にていという

 

私は、自分の肺炎で入院したときのことを思い出す。佐川急便の夜勤務をしていたときのことだ。他会社のヤクザ者の一班長との現場闘争、過重労働のなかで、免疫力が落ちていたのだろう、高熱がつづき、肺炎と診断された。治療法は、まず症状や問診、現在流行っているウィルス等から、点滴を選択する。それが効かないとわかったら、次に予想されるウィルスを退治してくれるものを、ダメなら次へ、と処置していくのだそうだ。ネットで調べると、いまでもそういう考えとやり方でいくらしい。私は、一発目の点滴で改善したので、一週間で退院できたが、もしこれが、当たらなかったらどうなるのか? 長引く重症化、ということだろう。つまり、原因不明というか、予想に入っていないウィルスの存在、ということになる。そういうものが、これまでもあったのではないだろうか? 実は、コロナ発症者は、日本でも去年から存在していた、とか報道するニュースも散見した。大橋氏がいうように、ほぼ誰もがもって無症状的な、常在的なウィルスに検査が反応し、本当は何を検出しているのかわからないのではないか?――これは、先ほどの仮定に対する、一つの仮説的な解答にはなるだろう。普段とくべつに悪さをするわけでもないウィルスに検査が反応しているので、陽性者数が増えるが、感染者数は少ないのだと。

 

(4)   しかしそれも、死者数が少なく、身近に実感がわかない日本の、あるいは東アジアの状況だから、一つの説得力をもっているだけ、とも言える。そういう状況を実証するかのような抗体検査をしてきた医学者が、今回、東京発の変異ウィルスの存在を指摘し、さらに、埼玉型もあるとか国会報告と、深刻になるどころか、笑ってしまう。地理的に分割されていたり、人口密度が明確に違うなら、ウィルスも県境の影響を受けようが、連綿としている都市圏では、いったい、どこから埼玉県なのか? それだけ大変だといいたいのだろう。たしかに、世界ニュースをみていると、どんどん人が死んでいる印象を受ける。が、私には、判断しようがない。本当に、そのニュース現象どおりなのかどうか、疑わしくも思っている。田中宇氏は、この第二波現象も、実態とはかけ離れたフェイクに近いものだと、国際ジャーナリズム言説状況から判断している。というか、そう疑う論調がある種の根拠をもって増加してきているのだ、と指摘しているのだろう(新型コロナ「第2波」誇張)。

 

(5)   が、それでも、世界は、新型ウィルスの実在を前提に、破局的に動いている。そのことが、何をもたらすのか、その思想的、哲学的な意味を探る参考として、ジジェクの意見に接したいとおもった。すでにウィルス(4)4月当初の文章を紹介しているが、今回、『世界』6月号と、『文学界』8月号にのっているものを読んでみた。だいぶ、トーンがかわっているように感じられた。ジジェク氏は、地球規模的にせっぱつまった環境問題とかの現実に直面している世界は、全体主義的な政治体制でのぞむべきだ、みたいなことを言っていたとおもう。ところが、このウィルスの実在とされるものが、資本主義のメカニズムを停止させ、実際に全体主義的な統制の世界的な現実化を目にして、それを受け入れたうえで、おおざっぱには、どちらの全体主義、コミュニズムがいいのか、と次なる質問をしているようにおもえる。中国かアメリカ、というより、トランプでさえベーシック・インカムみたいなことを言い出したのだから、問題の設定は、国家対立を超えた、より普遍的、世界的な次元で全体主義(コミュニズム)を考えていく必要があり、そのジジェクが予想する実装は、「それぞれが能力に応じて働き、それぞれの必要に応じて受け取る」(マルクス)だけの「慎ましい世界」であるべきだ、となる。そうでなければ、ナオミ・クラインが「災害資本主義」と呼んだ、人々のショック状態につけこむ二次大戦後に顕著な歴史現状にそのまま「新たな1章」をつけたすだけにおわるだけだ、と。グレタさんのような過激な論調から、常識的な論調に変貌しているように、私にはおもえる。

  *追記すれば、小池知事が、陽性数が増えていても、検査数を増やしたためで陽性率は変化していないので、経済自粛要請はまだする必要はない、というとき、その発言対応が、都民を安心させるどころか、よりショックを維持し不安にさせることは、計算ずみであろう。しかも、そういいながら警戒レベルをあげるのだから、心理的だけでなく、認識的にも、都民の頭は混乱する。その上で、国の施工の甘さを突いてみせることは、都民の不安をガス抜き的になだめるよう機能するだろうが、実際には、ガスがより注入されているのであって、意識のしっかりしなくなった都民を、統治しやすくなるだろう。この手際は、国政のほうが無自覚で下手くそにみえる。

 

(6)   しかし、「災害資本主義」と、「慎ましい世界(コミュニズム)」は、対立的なのだろうか? 私たちが、慎ましくなれるのは、災害の果て、そのあとでも、寸断された共同体が、なんとか世界交通あるいは地域交通を維持して、文明(技術)の絶滅を逃れた場合だけだとしたら? このコロナ騒動のなかで(そして、気候変動のなかで)、理性的に「新しい世界秩序」が形成されるということが、ありうるのだろうか? ジジェク氏は、慎ましくマスクし自粛する世界市民の方向性で考えているようにおもわれる。そこにおいて、自粛が得意な日本人はどう位置づけられるのか? 世界市民として同様に考えていいのか? 外在的な現象としてではなく、内在的な論理を検証していく文脈(おおざっぱには天皇制ということ)は、そこでは有効さをもっているのか? もうご破算でいいのか? さらに、このウィルスが、実は恐るべきものではなかった、と世界世論が変調したとき、つまり、私が(3)でたてた仮定の方向へバイアスがかたむいたとき(ウィルスの本当は何なのかは、歴史事実と同じで、曖昧なままだろうから、あくまで、もはやデータを解釈次元でしか受容できなくなるだろう――)、「慎ましさ」の意味はどうなるのか?

 

というようなことを、雨のいちにちに、考え、整理してみた。

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