2020年10月9日金曜日

『政治的動物』石川義正著を読む(2)――中上健次をめぐり


まず、中上健次の『地の果て 至上の時』における特権的な場面、浜村龍造の縊死をまえに「違う」と叫んだ秋幸の言葉を、どう石川氏が理解しているかをみてみよう。

<中上はおそらくこの「事物の氾濫、アナーキー」を天皇制によって規定されない個別、普遍に包括しえない悪無限とみなしているはずだ。ここでの中上の解釈は決定的にジジェクと分かれる。ジジェクがいうような「主体化」に抵抗する残滓は、主体「という」不可能性の具現化であり、そこにおいて「シニフィアンの欠如のシニフィアンに転換する」ためには、「「すこしぐらい」と言う」主体にあらかじめ無としての国家が刻印されていなければ不可能なはずだからである。だが、無としての国家が刻印されていない主体に革命は不可能である、というのも見誤りようのない現実だろう。「事実の氾濫」はけっして革命たりえない。
 にもかかわらず、そうした悪無限をあえて革命たらしめようと試みた者として、『地の果て 至上の時』における秋幸こそがそうみなされるべきである。浜村龍造の使嗾によって展開された「路地跡」での不法占拠は新たな革命――アイデンティティーの抗争といってもいいものだった。だが、その闘争は龍造という父との癒着を通してしか持続しえない。眼前で縊死している龍造を前にして秋幸が「違う」と叫んだきり言葉をのみ込んだのは、このとき「父の名」の不死を目撃したからにほかならない。>(「精神は(動物の)骨である」『政治的動物』)

この引用を解説すると――中上が例にあげていた「事物の氾濫(アナーキー)」とは、高速ではバックしてはダメかという運転試験問題に対し、「すこしぐらい」はいいのが現実なのではと本気でテスト中に悩んで解答できず、免許をとることができない青年、のような存在(アイデンテンティティ)の限りない連鎖「等々(etc)」のことである。ラカンのいう「すべてではない」女性性の延長に論理的に想定されるような「悪無限(ヘーゲル)」、ということだろう。が、その論理、あるいは体現する人物たちとの連帯=革命という秋幸の試みは、龍造という資本家である父のバックがあってしか、現実的な実践とはならない。龍造の金をもって、「路地跡」を「すこしぐらい」と占拠するヨシ兄たちに接触し、警察がそこにむやみに介入できないのも、龍造がかつて番頭をしていた佐倉の私有地になっているからである。が、秋幸が刑務所から出所してこの小説がはじまったとされるころ、つまり、1980年5月、材木価格は下落しはじめた。外国産のものが入ってくるようになったからである。グローバリズムが、はじまったのだ。龍造は、投資に失敗した。石川氏は、そこに、自殺の背景をみている。この材木価格を示す折れ線グラフの呈示とともになされた指摘ははっとさせられる。作品内イメージとしては、成金成功の絶頂において死んでいったようにおもえるからである。が、秋幸は、この世俗の現実の向こうに、死なない父、つまり国家という論理階層の現実をみだしたのだ、というのが石川氏の見立てであろう。

秋幸は、自らを「私生児」として自称していた。がたとえば、津島裕子は母子家庭で育った主人公のことを、「非嫡出子」と呼んだ。

<だが、私生児という概念が、正確には家父長との関係においてそう規定されるのに対して、非嫡出子は「第三の父、記号としての父、あるいは、父の名」つまり国家の法との関係においてそう呼ばれる。…(略)…中上に対する「黙市」の優位は、父の名を構造として剔出し、相対化する母親の視点を確保した点にある。>(「動物保護区の平和」上掲書)

つまり秋幸は、遅ればせながら、自らと父との関係を、情動的ではなく、論理的に理解しはじめた、その確認として「違う」と叫んだということになるだろう。
しかし、龍造は、ゆえに「父の名」は、死なない。トランプとは、「成功した浜村龍造である」と石川氏は指摘してみせる。あぶれた白人労働者等々の支持をかきあつめて「グローバル資本主義への抵抗の根拠」をつくろうとする。「革命」の続行だ。ジジェクは初の<女性>大統領になったかもしれぬヒラリーではなく、トランプを支持する。しかしその全体主義は、すべてではない、のが論理的な要請である。家父長的な存在に誘引され「個別に汚染された普遍は、包摂ではなく排除として機能する。それはすべてを包摂する全体ではなく、全体を形成するための例外をつねに必要とするのだ。トランプが公約したメキシコ国境の長大な壁の建設がその象徴である」。同時に、「個別としてのマジョリティーは、その「政治体自身が生き延びるために、亡霊的で否認された、公共領域から排除されたありとあらゆるメカニズムに頼らざるをえない。」トランプには、ネオナチのような「白人至上主義的な地下組織」が陰に陽に影響力を発揮している。

トランプ自身はどうも、投資に失敗し、莫大な借金を抱え込んだので、大統領選に打ってでて知名度をあげてまた民間で出直そうと企んでいたが、図らずも当選してしまった者のようなので、成功者といえるのかどうかわからない。大統領をやめて、借金を返済できるくらい稼いでから、そう呼ぶにふさわしいというものだろう。落選したり、順当に引退してからも、借金かえせず、ホームレスになってしまうかもしれない。自殺においこまれるかもしれない。大統領になった者がそこまでとは、とおもうが、潜在論理としては、龍造と同じ位置にあるともいえる。世俗的には、死(失敗)を、延期しているということだろう。

<しかし秋幸は「残りの者」という彼自身の夢想を護るために龍造に加担し、その走狗のように山林の売買を渋る地主を脅し、ヨシ兄に金を渡す。秋幸が「違う」と叫んで絶句したのは、革命から死へと逃亡した龍造の最終的な裏切りに対してなのだ。龍造の革命はそもそも敗北を予定されていたのかもしれない。勝利したのは市場とういう「父の名」である。>(「「路地」の残り者たち」)

しかし「父の名」とは、「国家の法」なのではなかったか? 勝利したのが資本(市場)かもしれないというのはいいとして、それもまた「父の名」であるとするのは、どういうことなのかな? と私は戸惑う。1979年に国家覇権が弱体し、1980年代から資本のグローバリズム化がはじまる。そしてまた、バブル崩壊後の1994年に国家主権が台頭しはじめ、2016年のトランプ出現にいたる、とされる「決定的な断絶」の時期区分。いいかえれば、浜村龍造の死と再生、ゾンビの復活みたいな話になっているということだろう。ならば、そこには循環構造があるということであって、「父の名」として同定していくような固定的な構造の見方ではとらえきれないものがある、ということではないのか? 世俗現象の、直観的な理解としては了解できる。父の座を、「資本」や「国家」が交代的にやってきて占め、飴と鞭を交互にふりまわす……。が、石川氏の見立てでは、「交互(循環)」なのではなく、あくまで、「国家」の体制的な構造の内での優位―下位といった浮沈の現象ということになるのだろう。だから、近代文学(小説)の死もまた、延期されている、ということだろう。「小説を書くこと――それは資本の流れが最後には国家の信用によって価値を確定(決済)しなければならないことに似ている。」

私がこう付言したのは、このブログでもとりあげた河中郁男氏の『中上健次論』と比較したくなったからである。

<マルクスは、『経済学批判要綱』の中で、「貨幣」の作り出すものを「理念」と「私が私であること」の関係であると考えた。そして、「資本」は「超越的な理念」と「私」との同一性の関係によって構成される世界を崩壊させるのだ、と。
 『地の果て 至上の時』で起こっていることも同じことである。つまり「資本」が現れることによって「理念」=「父の名」と「私が私であること」の同一性の関係・位相関係が崩壊するのでる。>(河中郁男著『中上健次論』<第二巻> 父の名の否、あるいは資本の到来)

河中氏にとっては、近代文学(国家)は終わっており、それはあくまで、資本の循環構造の中で変貌している。秋幸も、龍造も、ゆえに「同一性」が崩壊されていて、自ら位相をずらしながら生き延びていこうとするしかないのである。二人のすれ違いは、そこにいるとおもってみると、もう相手は移動してそこにはおらず、ということをお互いがしているからなのだ。ラカン的には「普遍」「個別」「特殊」と言い得る階層を、二人はミスマッチなまま変貌していく、とされる。『地の果て』以降の時代もまた、その歴史過程(循環)として、把握されているだろう。秋幸や龍造のなかにも、いろいろな秋幸や龍造が現れるように、余剰として「現実界」においやられた「亡霊」たちのなかにも、いろいろな位相が蠢いているのだ。『地の果て』以後の中上は、その右翼的なとされる「亡霊」を、定点からではなく、さまざまな観点から観測提示してみせた、というのが河中氏の主張であろう。量子力学と同じで、それ(亡霊=素粒子)は、どんな観点で観測するのか、位置なのか運動量なのかをあらかじめ決めておかないと、現れてこない。粒子は、常態的には、あらゆる可能性をもって潜在し、蠢いているのである。

私には、この「亡霊」(現実界)をつかまえるのには、石川氏の切り口は、単線的ではなかろうか、と思われる。つまり、古典力学的に、収束したあとの物体としてのみ現実をみていることにしかならないのではないのか? おそらくネトウヨも、ひとからげにできはしないのだし、そうみなければ、国家的な固定的な差別構造が自身において浮沈するだけではないのか? そこでは、「仮死(の祭典)」(蓮見)があるだけである。たしかに、死んだふりとは、お祭り的に楽しいことでもあるだろう。しかし、中上がいうように、「切って血の出る物語」はある。トランプは、本当に、死ぬかもしれません。死の延期、ということ自体が、架空の論理なのではないか? 死を収束(終息)とみるのと同様に。 

石川氏は、ツイッターで、マスクをしていない人たちの主張は、古典力学的な、近代的均質空間に依拠している人たちなのだ、と説いている。私には、インテリのこじつけにしか聞こえない。こうしたひとからげが、問題だというのだ。たしかに、PCR検査に疑問符をつけた陰謀論を説く大橋氏のまわりでは、マスクをつけないことが「正義」であると言葉をかかげてデモ行進するような動きになってきているようだ。私はびっくりだが、だからといって、ひとからげにできるものではない。にもかかわらず、いまは、マスクする=左翼、マスクしない=右翼、みたいな話になっていて、石川氏の論の立て方もまた、その近代的なロジックをなぞっているということではないのか? スーパーマーケット(資本市場)に復活徘徊しはじめたゾンビたちは、みな一様な、国家論理優勢な亡霊なのだろうか?

中上健次は、マスクをつけて、街を徘徊するだろうか?

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