2020年10月4日日曜日

花粉、ウィルス、量子――新型ウィルスをめぐる(18)


「「ここにもあそこにもいる」状態の原子が、観測された瞬間に「ここにしかいない」状態へどのようにして変わるのか、その実際のプロセスについては誰も本当のところを知らない。ほとんどの物理学者は、それは「単に起きるだけだ」という実用主義的な見方で満足している。しかしその問題点として、不気味な出来事が起きる量子の世界と、物体が「分別よく」振る舞う日常のマクロの世界とを、都合のいいように独断的に区別しなければならない。電子を検出する測定装置は、マクロな世界に属しているはずだ。しかしその測定プロセスがどのようにして、なぜ、どんなときに起きるのかを、量子力学の創始者たちはけっして明らかにできなかった。」(『量子力学で生命の謎を解く』ジム・アル=カリーリ、ジョンジョー・マクファデン著 水谷淳訳 SB Creative)

前回ブログで、新型コロナに対し、スウェーデンは集団免疫獲得を目指していたのではなく、ヨーロッパでの科学界が議論してきた結論に従ったまでだ、という指摘があったことに言及した。その出所がみつかったので、リンクしておこう。

現地日本人医師に聞く「スェーデン方式の真相」(スェーデン移住チャンネル)

その話の真偽や妥当性までは、私にはわからない。田中宇氏のジャーナリズム解読にも、そういう指摘はなかったように記憶する。現地の医師自身が、なんでなんでしょうね、と口ごもっている。科学に従わなかったのは、政治的陰謀なのか、単にパニックになってしまったのだか…。発生源とされる中国が大規模な都市閉鎖措置をしたのだから、他がパニックになってもおかしくはない。そして当の中国では、本当のところがどうのなのか、不確かなままだ。死者数もふくめ、そのまま信用はできない。アメリカに亡命した中国や香港の医師が、ウィルスの人工性や抗体などできない等、暴露しているが、それも本当の話なのかどうか信用できない。トランプがPCR陽性とでて、死のうが元気なまま戻ってこようが、もう科学的な探究どころではなく、政治的な茶番劇につきあわされている感じだが、笑えるどころではない。ワクチン無料だよ義務だよ、などという話にもなっていきそうなのだから、おそろしい話だ。しかもアメリカの製薬会社の開発のなかには、流通にのる家畜がタグ付けされるように人にもワクチン接種時に識別票を体内注入させ、免疫パスポートを導入していこう、というアイデアというより思想と一体となっている動きもあるという。皮膚にピッと検査機当てるだけでワクチン打って安全な人とそうでない人が即時に検出され、安全確認できた者だけが国境をまたげる。国保証のパスポートだけでは不十分で、世界認知の基準を作っていこうということになる。いったい、私たちは、どんな世界に住ませられるのか? そもそも、それは、科学というものに根拠を置いた思想なのか?

私は以前、コロナ状況は、花粉症の情勢と似ている、と書いた。花粉そのもので症状の出る人はそうはいないが、都市化にともなうディーゼル排気ガスと混然となることで、免疫反応を示す人たちが多くなっている現代病みたいだ、と。花粉とディーゼルとの関連性は、科学的に明確になっていることではないようだ。とくに、石原都政のときの、排ガス規制導入時に席捲した学説でもあるので、政治的な話なんではないか、という意見も多いようだ。そういう点でも、今回のウィルス騒動にも似ている。花粉やウィールス自体の「どのようにして、なぜ、どんなときに」症状が出てくるのかはわからないまま、「排ガス規制」や「人身管理(規制)」といった「実用主義」的な観点から、問題明確化は棚上げされたまま事態はすすんでいく。とくに医療分野では、ヨーロッパ系譜でのコッホ四原則にしたがった手間のかかる確認作業はどけて、「早期発見・早期治療」方針がアメリカで推進され、その立役者のひとりがロックフェラーだったので、政治経済活動的な陰謀説がからまって説かれたりもしている。が、アインシュタインをふくめた20世紀当初の、量子力学をめぐる科学界の議論にも、そういう事態があったらしい。量子論に対し、量子力学という名称があるのも、まわりくどい量子論は棚上げして、実用的な「量子力学」でいい、という話であるようにみえる。この発想から、原子爆弾の製造・実行へといってしまったわけだが、いまもって、この科学上の態度転換は、そのままで来ているようにみえる。アインシュタインは、しかしあくまで、「なんで」を問い続ける量子論にこだわったということだろう。それが、量子力学につきつけた思考実験、相互作用することになった粒子の「量子もつれ」が本当なら、光より速いものはないという相対性理論と矛盾するぞ、と問い詰めたわけだ。死後、それが本当に起きていることが実証実験され、その応用が、いまの量子コンピューターの開発につながっている。光よりも早く、というか、ペアになった粒子同士は、同時に、情報を処理しうるという量子の性質現象を生け捕りしようとしているのである。それが、なんでおきるのかは、問わないまま。日本の数学者の岡潔も、そういうふうに、なんでもありになってしまう数学世界に異論を唱えていたわけだ。それは、アインシュタインの光の根拠が、キリスト教という一神教な宗教と暗黙に結びついて、「神はサイコロをふらない」という信念にこだわっていたからだ、ということでもあるだろう(小室直樹著の『数学嫌いな人のための数学』(東洋経済)が科学と宗教との関連話で面白い)。しかし、そのこだわり、宗教的な信条が棚上げされると、できればいいじゃん、という話におちつき、今にいたっている、ということだろう。

で、花粉やウィルスというマクロな物質と、つまりこの世界と量子という原子以下のミクロな粒子との関連性は問いつめられないままだった。が、実は、植物の光合成や、鳥や魚の帰巣本能や、人の呼吸にも、量子現象が関与しているのではないか、ということを研究する分野が新しくできているらしい。それは、量子は波であることの数学(潜在)的現実を関数として数式化してみせたシュレーディンガーの「生命論」の継承でもあるらしいが。その「量子生物学」という分野は、冒頭にも引用したように、世の「実用主義的」な方策で棚上げされてきた問題に、より突っ込んだ「なんで」という疑問を提起し追求していく姿勢にあるようだ。もしかして、花粉と排ガス粒子との間で、ウィルスとなんらかの粒子との間で、量子的な現象が起きているのかもしれない。それは、顕微鏡でみえる話ではない。一粒の花粉が、排ガスにあるなんらかの物質と、「トンネル効果」という量子性質を通して交換(交感)しあっているかもしれないからである。大澤真幸によれば、その「偶然(サイコロ)」的な現象の意味は、ベンヤミンの歴史哲学と比例した、過去を変えられる革命性にあるのでは、となる(『量子の社会哲学』講談社)。しかし、だとしたら、もし生物学的、生体的に文字通りその意味を敷衍していくと、どうなるのか? 顕微鏡(観測装置)ではうかがい知れない変化が、過去を書き換えるように人体に症状されてくる、ということにならないか? 遺伝子組み換え食品の人体への影響も、短期的には目に見えず、つまり観測されず、統計(確率)的に意味ある症状が、理由は不明だがでているかも、という指摘されるにとどまっているのではないか? その技術と比例した、今回の新型コロナへの遺伝子組み換え的な新ワクチン技術の実施にも、量子的に観測されえない潜在的現実として、人体に影響しだす、とかならないのだろうか? 最近の学説には、ネアンデルタール人の遺伝子をもった人種にコロナ重症化のリスクがあるようだ、というのがあるらしい。このブログでも、ホモ・サピエンスにかわる新しい人種、つまり人体自体の変異が問われているのか、とも書いた覚えがあるが、本当に、世俗の勝利者によって抑圧され忘却された過去(遺伝子)が、物質の量子的性質によって読み替えられ、生態的な「革命」が起きようとしているのだろうか?

トランプが陽性になるより、とんでもない話になってきたような……。

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